「団塊の世代」論の自分なりの総括、由紀草一著『団塊の世代とは何だったのか』を読みながら考えたこと
昨日、ある会に参加するために麻布へ行った。地下鉄の白金高輪駅で降りて、桜田通りを少し歩くと、小ぎれいな古本屋がある。麻布での会は、月に1回程度あるのだが、いつも前を通り過ぎていたのだが、先月、ちょと探したい本があって、足を止め、店内に入り棚を丹念に探すと見つかった。
その時探していたのは、しばらく前に関心を持って読んでいた世代論で、団塊の世代を取り上げた『団塊の世代とは何だったのか』(由紀草一著、洋泉社新書)だった。
出版から2年あまり経っていて、私がふだん行くいくつかの書店の新書コーナーでは、置いてあるところはなく、ネットでわざわざ注文するほどでもないと思って、そのままになっていたのだ。著者はポスト団塊とも言える1954年生まれの高校の先生で、読んでみると、かなり辛口の団塊批判になっている。カバーの折り返しには、次のように書かれている。
過剰意味づけ、うるさい、自分の主張を押しつける、せっかち、リーダーシップなし、責任を取らない、被害者意識ばかり、…
いまや団塊世代をバッシングする言葉は何らかの緊張感なしに垂れ流されている。
しかし、誰にそう言い切れる資格があるのか?
純粋戦後世代第一号たるこの世代を論じることは、とりもなおさずこの国の戦後が無意識に追求してきたものを論じることに他ならない。
好悪の感情でなく、自分を論じるように、この世代を論じ切ることは、じつに戦後を、身勝手に正当化するだけのろくでもない代物にするか生きる根拠とするか、の分かれ目である。
私がここしばらく、世代論を読んできた結果の、団塊の世代についての自分なりの考えをまとめると、団塊の世代の大多数の人々は、青年期、中年期の不安や危機を、自らの心の内に向け考えることをせずに、その数の力に任せた、外向けの大衆行動の中で、解消してきたのではないかということである。
大学卒業間際の「自分は社会に出て何をするのか?」という課題には全共闘運動による体制批判で、中年期の「自分はこのままでいいのか?このまま人生を終えていくのか?」というミドル・エイジ・クライシスの時期には、バブル経済期の「買うから上がる、上がるから買う」という思考停止の中で、それを推進する現場の担い手の中心として、どちらも「みんなで渡れば怖くない」という数の論理で推し進めてきたのではないか。(「みんなで渡れば怖くない」の言葉をツービート時代に世に流行らせたビートたけしも、1947年生まれの団塊世代である)
私は、団塊の世代は、好き勝手なことをやって責任を取らず、そのツケを次世代の我々に残したと考えてきた。確かに、あまたの団塊批判はそのような論調が中心である。
しかし、最近、そうやって団塊世代を批判しても、自分自身にとって何のプラスにもならないような気がしてきた。
いくつか理由があるが、まず第一は団塊の世代が、前後の世代に比べて人口が極めて多いのは、彼らの世代の責任ではないこと。その直接の原因は、日本という国が戦争を行い、多くの人を戦場に送り、死なせてしまったこと。そして、運良く生き残った人々が、戦後、自らの愛情欲求を満たすべく、パートナーを求め、愛情を確かめ合った結果として、団塊の世代が誕生した訳で、その時代に生まれたのは、彼らの責任ではない。
第二に、いくら他の世代が団塊批判をやったところで、すでに60年近く生きてきた人たちの思考パターンが急に変わるわけでもなく、バッシングや批判は、それを語る人の自己満足にしか過ぎないこと。もちろん、納得できない面はあるが、それを所与のものとして、考えざるを得ないこと。
第三に、団塊の世代のマイナス面ばかりをあげつらっているが、周りの世代も団塊世代にただ乗りしてきた部分もあること。日本がオイルショック等を経ながらも、ある時期まで経済成長が維持できたのも、マス消費世代としての彼らの存在があったからだろう。そういった目に見えないプラス面を評価しないのは一方的過ぎる。
上記の引用文でも書かれているように、この世代を論じることは自らもその一員であった「この国の戦後が無意識に追求してきたものを論じること」であり、それは、とりもなおさず、自分の歩いて来た道を論じること通じるのだと思う。
我々の世代に必要なのは、批判することではなく、団塊世代が依然として社会のマスを占める存在としてある中で、それを前提に、これからの社会あり方や個人の生き方を考えることではないか、一人ひとりがそれを考えていかない限り、社会は、世の中は良くならないのではないかということである。
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