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2006年8月の記事

2006年8月31日 (木)

停電と地震

先日、東京では大停電があったばかりだが、今日また、通勤途中で停電に遭遇した。地下鉄で職場の最寄り駅まであと2駅というところで、停電で停車とのアナウンス。時計を見ると8時10分。待っていても、いつ動き出すかわからないので、その駅でおり、まだ暑さの残る夏の朝、残りの距離を職場まで歩いた。25分ほど歩き、今回は始業5分前に着いた。

やれやれと思っていると、夕方になって今度は地震。最初、ゆらゆらと来て、次にグラッと来た。東京は震度3とのことらしい。

明日9月1日は、防災の日。1923(大正12)年には関東大震災が起きている。大震災など二度と起きて欲しくないが、まさかの時に備えて、一度、休日を使って、職場から自宅まで歩いてどれくらいかかるのか、シミュレーションをしておく必要があるかも知れない。

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2006年8月29日 (火)

yahoo!検索の威力

24日(木)に河合隼雄文化庁長官が脳梗塞で入院したことについて「気がかりが河合隼雄文化庁長官の容態」とのタイトルで記事を書いた。ココログのアクセス解析を見るとこの記事が、当日(24日)は5件、25日(金)が56件、26日(土)が37件、27日(日)が84件、昨日(28日)が122件、今日(29日)が117件と、1日100件余のアクセスが通常の当ブログにしては、群を抜いてアクセスが多くなっている。

全国にいかに河合長官のファンが多く、多くの人がその容態を気にしているものの、なかなかこれといった情報がないということが背景にあると思う。

もう一つの理由はヤフーである。記事を見に来てくれた人のアクセス経路を見ると、圧倒的にヤフー経由が多い。ヤフーで「河合隼雄、容態」とキーワードを入れて検索すると、私の24日の記事がトップページの3番目に表示される(昨日、おとといは2番目だった)。

あるSEOの本には、日本では、検索エンジンの利用率はヤフー・サーチが66%、グーグル30%という数字が出ていた。米国では、ヤフーをしのぐグーグルも、日本ではこれからということらしい。(参考:鈴木将司著『ヤフー!・グーグルSEO対策テクニック』翔泳社

これまで、私のブログの記事は、ヤフーでトップページに取り上げられることなどなく、検索の結果によるアクセスもグーグルが中心だった。今回は、ヤフーのシェアの威力を実感した次第である。(正直なところ、なぜヤフーで2番目や3番目に表示されるのか、理由はよくわからない)

昨日からグーグルでも「河合隼雄、容態」と入力して検索すると、24日の記事がトップページの1位で表示されるようになった。それでも、アクセスはヤフーの方が、依然として上回っている。

河合長官の入院が続いているであろう中で、こんな記事も不謹慎だったかもしれないが、それだけ、短期間の間にすでに400件以上のアクセスがあるということは、はじめに書いたように、河合長官の容態を気にしている人がそれだけ多いということであろう。改めて、回復をお祈り申し上げたい。

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2006年8月28日 (月)

PageRank表示の設置

先日のアクセスカウンター設置にあわせ、グーグルが行っているウェブサイトのランク付けである「PageRank」表示ができるブログパーツを貼り付けてみた。

今のところ、10段階評価の4(10が最高評価で、最低は0)。個人のサイトとしては、「まあまあ」というところだろうか。

以前の記事で、グーグルの評価の仕組みを簡単に書いたことがあるが、
(1)なるべく多くのサイトからリンクされていること
(2)特にPageRankの高いサイトからリンクされていること

がPageRank評価の基準と言われている。
多くのサイトからリンクされるということは、それだけ多くのサイトから役に立つ、ためになると評価されているという考え方で、上記のような評価体系になっている。

グーグルで検索した際の検索結果は、検索した用語の一致度合いとこのPageRank評価によって決まると言われている。営業目的でホームページやブログをやっている企業や個人向けに、どうやればPageRankが上がり、検索ページでより上位に表示されるかを指南するSEO(Search Engine Optimization、検索エンジン最適化)というサービスもあるほどだ。

Yahoo!のカテゴリに登録されると(YahooのPageRankが高いので)、登録されたサイトのPageRank評価にもプラス効果があるとのことで、申し込んでみた。1~3週間で、結果が出るそうだ。果たして、登録してもらえるものかどうか。

最後は、このブログの内容次第なので、地道に書き続けていきたい。

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2006年8月27日 (日)

米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』

先週になるが、日本将棋連盟の米長邦雄会長が書いた『不運のすすめ』(角川書店、角川oneテーマ21)を読んだ。これも、1ヵ月ほど前から、読もうと思って「積ん読」になっていたものだ。

不運のすすめ (角川oneテーマ21)
不運のすすめ (角川oneテーマ21)

以前も書いたように、私は30年来の米長ファンである。中学時代、私が将棋を勉強していた頃、米長八段は新進気鋭のA級棋士として、タイトル戦に登場し始め、1973(昭和48)年には初タイトル「棋聖」(産経新聞社主催)を獲得した。私は、彼の解説本(『将棋中級入門』というタイトルだった)で、将棋の定跡を学んだ。
その後、1978(昭和53)年に「棋王」(共同通信社主催)、1979(昭和54)年に「王位」(中日新聞社・北海道新聞社・西日本新聞社の3社連合主催)のタイトル取り、九段に昇進。40代を目前にした1982(昭和57)年、自らの半生と勝負哲学を書いた『人間における勝負の研究』(祥伝社)を出版した。

この本は、当時ベストセラーになり、私の蔵書の奥書を見ると、「昭和57年6月1日初版第1刷発行、昭和57年7月30日第8刷発行」となっている。わずか2ヵ月で8回の増刷である。大学4年だった私は、この本を何度も繰り返して読み、「相手の一生がかかったような勝負には、自分の昇級・昇格などが関係なくても、真剣に懸命に戦う」という「さわやか流」とも呼ばれる勝負哲学に心酔していた。
米長九段は、その勝負哲学を実践し、1984(昭和59)年には、十段・棋聖・棋王・王将の4タイトルの保持者となり、4冠王として80年代前半の将棋界をリードする存在となった。年齢にして40~42歳ぐらいである。
80年代後半になると全てのタイトルを失うが、1989(平成元)年には再び「王将」のタイトルを奪取。翌年自宅に米長道場を開き、当時の若手棋士から新戦法や新感覚を吸収し、1993(平成4)年には、49歳11ヵ月で念願の「名人」位タイトルを獲得、マスコミでも話題になった。

(以下の画像・リンクは同書が文庫化されたもの)

人間における勝負の研究―さわやかに勝ちたい人へ (ノン・ポシェット)
人間における勝負の研究―さわやかに勝ちたい人へ (ノン・ポシェット)

この本に何を見いだすかは、人それぞれだれだろう。40代以降、四冠王の絶頂から転落したあとの40代半ばでの「米長版中年クライシス」をどう乗り越え、再びタイトルを取り「名人」にまで登り詰めたかは、読みどころの一つである。
しかし、私にとって一番、印象に残ったのは、将棋界で「名人位」も極め「功なり名を遂げた」身でありながら、「60歳からが本当の人生だ」と書いているところである。

●定年後は余生ではない
 私はかねが、60歳を過ぎてからの生き方が非常に大事だと思っていた。
 世の中では、「60歳からの余生をいかにして楽しむか」などと言われるが、そんなバカなことはない。60を過ぎてからの人生は「余りの人生」などではなく、むしろそこからが本物の人生なのである。それまでは、人生修行の時期でしかない。
 私自身は、60歳まで将棋を通して修行してきた。(中略)そして60歳で現役を引退し、本当の人生を歩み始めたわけである。
 サラリーマンであれば、入社してから定年までが、人生修行であり、その先に本物の人生がある。定年退職ですべてが終わったと錯覚している人は、私に言わせれば、本当の人生を生きることを自ら放棄してしまっていることになる。
(米長邦雄著『不運のすすめ』角川oneテーマ21、165ページ)

こう宣言する米長邦雄氏は、現役引退後の2005年、日本将棋連盟会長となり、赤字に悩む組織としての将棋連盟の長として組織改革に乗り出すともに、連盟の収支不振の遠因である将棋人口の減少に歯止めをかけ、将棋の普及のために動き出した。
最強のアマチュア棋士瀬川さんのプロ入りを認めたことも一つだし、今回の名人戦の主催を巡る騒動もそのひとつである。

現在の将棋界の第一線には、1970年生まれの羽生善治(王位・王座・王将)、森内俊之(名人・棋王)、1969年生まれの佐藤康光(棋聖)という30代半ばのタイトル保持者が名を連ね、さらに次を狙う1984年生まれの渡辺明(竜王)、1962年生まれで健在ぶりを示す元名人谷川浩司九段と多士済々で、かつての「大山-升田」対決、「中原-米長」対決に匹敵するドラマがそのひとつひとつにあるように思う。
それを、赤裸々に世間のアピールしていくだけで、まだまだ関心を呼ぶと思うし、人気も回復していくと思う。

米長会長を応援しているし、その手腕に期待している。「ガンバレ!米長会長」

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

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2006年8月24日 (木)

気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

先週、8月17日(木)に河合隼雄文化庁長官が、奈良の自宅で脳梗塞で倒れたとのニュースが流れた。肺炎を併発し、重体。翌日には、小康状態との報道が続いたが、その後は、何も伝えられず、気がかりだ。

私は高校生の頃から心理学に興味があり、ずいぶん本も読んだが、一番多かったのは、河合長官の著作である。軽妙な語り口で、読むものを惹きつけてやまない。
河合氏は最初から心理学者を志していたわけではなく、京大の数学科を出て一時は高校の数学の教師をしている。その後、京大大学院で心理学を学び、米国留学の後、スイスのユング研究所で学んでいる。日本に戻り、京大で教鞭をとるかたわら、心理療法家として臨床治療も行い、その経験が著作の中にも反映されている。

私が、好きな本は何冊かあるが、特に、印象に残っているものに、『大人になることのむずかしさ』(河合隼雄著、岩波書店、1983年、1996年に新装版として再版)という著書がある。

大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)
大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)

これは、岩波の”子どもと教育を考える”というシリーズの1冊として出版された。教育書として出されたせいもあり、その後も、文庫化されたこともない地味な本であるが、私にはいつも読み返す一節がある。「職業の選択」という見出しの付いた一節である。

職業の選択や配偶者の選択においては、思いがけない偶然性が伴う時がある。職業や配偶者は、その人にとっての人生の一大事であるのに、偶然によって決めるなど、まったく馬鹿げているように思われるが、実際はその結果が上々であることも少なくないのである。(中略)
このことは、人生の不思議さといってしまえばそれまでだが、職業や配偶者の選択のような、あまりに重大なことになると、人間の意志や思考のみに頼っていては、あまりよい結果をもたらさないことを示しているのかも知れない。(中略)
深い必然性をもったものほど、人間の目には一見偶然に見えるといってもよく、そのような偶然を生かしてゆく心の余裕をもつことが、職業選択の場合にも必要であろう。もっとも、偶然を生かすことと、偶然に振り回されることは似て非なるものであることは、いうまでもないことである。一所懸命に行為してゆくにしろ、どこかに偶然がはいりこんでくるゆとりを残しておくことは、大人であるための条件のひとつといっていいだろう。
(河合隼雄著『大人になることのむずかしさ』岩波書店、168~169ページ)

「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」との考えは、いつも、私の頭のどこかにある。いつも、「ただいま現在、こうしてあることの偶然を、どうやって次に生かしていけるだろうか?」と考えてきたように思う。
サラリーマンの仕事は、異動という自分の意志では、どうにもならないものによって左右される。新たな職場で、どんな仕事をし、社内外で誰と巡りあうかも、偶然の産物であろう。しかし、これまで、偶然に振り回されずに、なんとかやってこられたのは、この一節のおかげである。

河合長官には、なんとか回復してもらい、再び、現代の日本人に語りかけてほしい。 

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年8月23日 (水)

アクセスカウンター設置

今日から、このブログにもアクセスカウンターを設置してみた。ココログのアクセス解析サービスのレベルアップによって、昨日(22日)から標準装備のサービスになったようだ。

2月下旬にこの「栄枯盛衰・前途洋洋」のブログを始めて、もうすぐ半年。おかげさまで、のべのアクセス件数は、気がつくと1万件を超えていた。逆算すると、1万件到達は、先週17日(木)だったようだ。

アクセス解析のレベルアップで、どの記事にアクセスが多いかも、以前よりハッキリわかるようになった。記事別のアクセス件数がわかるのは、ココログ側の事情で5月18日から。

それ以降の、まんべんなくアクセスされているのは、『下流社会』(三浦展著)関連の記事、「Shall we ダンス?」関連の記事などだ。ゲド戦記の映画の公開後は、ゲド戦記関連の記事をよくアクセスしてもらっている。
また、一時的に多かったのは、ニフティの社長のブログにトラックバックしたココログのメンテ関係の記事、この数日は高校野球の決勝戦についての記事へのアクセスが多い。

以前、ココログのメンテ関係の記事のような特殊要因抜きで1日100アクセスを目標と書いたが、最近は、1日100アクセスを超える日も多くなってきた。これが、維持できるように、読んでもらえる記事を、これからも書いていきたい。当面の目標は、来年2月の1周年である。

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2006年8月22日 (火)

車の名義変更手続き完了までの顛末

しばらく前から、いろいろと準備を進めてきた、車の名義変更・住所変更手続きに行ってきた。

エンジントラブルで修理に出していた車は、おととい20日(日)に修理完了。やはり、エンジンに雨水が溜まっていたらしい。パッキングを交換し、水が入らないようにして、さらに、水をエンジンの上まで運ぶ役目を果たしていたワイパーを動かすワイヤーを交換した。もう、「エンジンに水は入らないはず」とディラーの人からは言われた。

車が戻ってきたので、昨日、出勤した際に上司に、今日、休むことの了解を取って、ようやく準備が整った。

すでにインターネットの乗用車の名義変更について説明したサイトで、必要種類なども確認し、手続きを行う立川駅に近い多摩自動車検査事務所の場所も確認済み。今朝、出発前にもう一度、書類を確認した。調べたサイトでは、必要書類に自賠責保険の証明書と書かれてあった。車検証と一緒に保管していると思っていたので、確認もしていなかった。しかし、いざ探すと見つからない。困った。

まず、自動車保険の取り次ぎをしている会社の系列の保険代理店に電話をして聞いてみる。「車検の時に、自賠責を付保していなければ、車検に通らないので、付けていないはずはない。証明書がなければ、再発行してもらうしかない。ただ、名義変更に自賠責証明書は必要ないはずだ」との趣旨のことを言われる。

次に、1年半前、北海道で車を車検に出した新日本石油のスタンドに電話をして、念のため渡し忘れではないか確認してもらう。車検証を渡す前に、別途、車検費用の明細と自賠責の証明書を、緑色のファイルに挟んで渡しているはずだと言われる。(そう言えば、少し厚紙の紙ファイルをもらった気がするが、もう捨てたかもしれない。)

今日、手続ができなければ、会社を休んだ意味がない。一応、自動車検査事務所のヘルプデスクにも電話をする。録音したメッセージが流れる。名義変更の必要書類に、自賠責の証明書は入っていない。オペレーターに個別相談できるというので、そちらにつながるように番号を押す。女性のオペレーターが出てきて応対してくれる。「名義変更に自賠責の証明書は必要ありません。」

ならば、「自賠責の証明書は再発行してもらうことにして、とにかく今日は名義変更を終わらせるしかない」と、自動車検査事務所に向かうことにした。車を家の駐車スペースから出す前に、「ひょっとしたら?」と助手席の後ろ側にある、地図など入れているポケットを確認すると、一番下に、新日本石油の「Dr.drive」の緑色の紙ファイルがあった。ファイルを開くと、自賠責の証明書も、そこに収まっていた。

自作自演の大騒ぎで、9時半までには家を出るつもりが、もう11時近い。検査事務所のある立川までは、車で小1時間かかるはずなので、午前の受付時間の11時45分には、間に合わないかもしれないが、仕方ない。とにかく、行くだけ行って、申請書類だけでも入手して、昼休みに書類を仕上げ、午後1時一番で受け付けてもらおうと家を出た。

検査事務所に着いたのは、11時50分頃。お役所仕事だろうと期待していなかったが、申請書の交付と手数料支払の窓口では受け付けてくれて、申請書の用紙をくれ、隣の建物で申請書を記入して提出するように言われる。隣の建物が、実際の名義変更・住所変更の事務を行う所のようだ。

ここでも、とりあえず、名義変更として書類に書くのか、住所変更で書くのかだけでも教えてもらおうと、嫌な顔をされるのを覚悟で、窓口に行くと、私の前の人を手際よく教えていた中年の女性が、そのまま、親切に書類の書き方を教えてくれて、12時5分前くらいに受け付けが終わってしまった。「隣の窓口の前で待っていてください」と言われ、待っているとすぐと呼ばれて、車検証と何枚か書類を渡され、もう一つの建物にある税務事務所に行くように言われる。この時、既に12時直前。

国土交通省の管轄から今度は財務省(あとからよく考えると東京都が正しい)かと思いつつ、おっかなビックリで、次の建物に入る。受付の若い女性に書類を出すと、数ヵ所、自分の住所・名前と前の持ち主のリース会社の住所・名前を書くように言われ、その通りすると、車から古いナンバープレートを外して、最初に申請書をもらった建物に書類と一緒に出すように言われた。もうすでに12時を回っている。

車に戻り、後ろからナンバープレートを外す。後ろは、左側が金属のキャップで封印してあるので、封印を外すのに時間がかかる。外したナンバープレート2枚と、新しい車検証などの書類を最初の建物のナンバープレートの受付に持っていき、プレート代と一緒に出すとすぐに新しいナンバープレートを渡された。「ナンバープレートの取り付けが終わったら、担当者が封印に行きますので、わかるようにボンネットを開けて待っていて下さい。」と言われ、今度は、新しいナンバープレートをドライバーで取り付ける。付け終わった頃、おもむろに、中年の男性担当者が近寄ってきて、ボンネットを開けて、車体番号を確認し、後ろに回り、ナンバープレートが付け方が緩くないか確認した上で、左のネジの上に封印の「東」(東京の意味だろう)キャップをすると、何も言わずに車から離れていった。

てっきり、次の指示があると構えていた私は、「これで終わりですか?」と歩き去る担当者に声をかけると「全て完了です。」との答えが返ってきた。何やら、拍子抜けである。時計を見ると12時半を少し回ったところ。1時からの受付のつもりで覚悟していただけに、意外だった。

おそらく、構内の案内表示板やホームページ等には午前の受付は11時45分までと書いてはいるものの、実際の運用では12時までは受付けてくれ、いったん受付けたものは、途中で昼休みになっても最後まで、作業してくれることになっているのだろう。

もう一つ、いい意味であてが外れたことがあった。自動車税である。自動車税は、都道府県税で、登録をした富山県にずっと払っており、今年も、もう支払っている。従来は、年度途中で、住所が変更になると、月割りで返納、新しい自治体に残りを納めるという手続きがあったようだが、今年(2006年)4月からその制度が廃止になったと、ホームページ等には書かれていた。私は、てっきり、その結果、住所変更した年は、前の住所と現住所の自治体の両方に2重で払うことになるのだと思っていたので、封印の後に自動車税を払うと思っていたのだ。

必要書類の準備はけっこう大変で、今朝は今朝で大騒ぎをしたが、名義変更そのものは、1時間もかからずに終わってしまった。経験者からは半日くらい覚悟した方がいいとも言われていたこともあって、なんだか得した気分で、多摩自動車検査事務所を後にした。

家に帰って、車の所有者だったリース会社に名義変更を終えた新しい車検証をファックスで送り、永年の先送りのツケをようやく払い終えた。
前のナンバーとともに暮らした6年半、思えば、それは、以前紹介した『ライフサイクルの心理学』でいう”人生半ばの過渡期”とほぼ重なる。新しいナンバープレートとともに、新しいライフステージを始めたいと思っている。

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2006年8月21日 (月)

早稲田実業の優勝と王監督

夏の高校野球、決勝の再試合は、4対3で、早稲田実業が3連覇を狙った駒大苫小牧を破り、初優勝を勝ち取った。(朝日新聞のニュースはこちら
4対1とリードされていた駒大苫小牧が、最終の9回表に2ランホームランで1点差まで追い上げ、「もしや」と思わせたところは、さすがである。そして、駒大苫小牧の最終打者が、エースで主将の田中。決勝2試合、計24イニングの死闘の締めくくりが、早稲田実業・斎藤、駒大苫小牧田中の対決で、最後は、斎藤が渾身の1球で、ライバル田中を空振り3振にうちとりゲームセット。最後まで、絵になる試合だった。
(新聞社にとっても、TV局にとっても、ドラマのあるメディア・イベントなったといえるだろう。)

今年は、春の王ジャパンのWBC優勝といい、野球の当たり年かもしれない。また、それは、王貞治の1年なのかもしれない。早実の斎藤投手はインタビューで「王先輩や荒木(大輔)先輩もできなかった、夏の大会の優勝ができてうれしい」と言い、一方、病床の王監督は、昨日こそ「球史に残るいい試合。両校ともお見事」と両校の健闘を讃えるコメントを出したが、今日は「斎藤投手の熱投の一言に尽きる」と後輩の力投を讃えていた。

あとは、プロ野球。セ・リーグは、中日の独走で面白みはないが、パ・リーグは、西武とソフトバンクの首位攻防が続く。2年連続してペナントレースで1位に輝きながら、プレーオフで勝ち上がってきたチームに敗れた王・ホークス、今年は、雪辱を果たせるだろうか。ソフトバンク・ホークスがパ・リーグで雪辱し、日本シリーズも制することのなれば、まさに「王貞治の1年」になる。これからは、パ・リーグ、ソフトバンク・ホークスの戦いぶりから目が離せない。

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2006年8月20日 (日)

駒大苫小牧対早稲田実業、譲らず再試合

今日は、夏の高校野球決勝。3連覇を狙う北海道の駒大苫小牧と初優勝を目指す早稲田実業。結局、1対1のまま、延長15回で決まらず、引き分け再試合となった。

決勝での引き分け再試合は、37年振りというから、1969(昭和44)年夏の松山商業(愛媛)対三沢(青森)以来のことだ。当時、小学生だった私は、夢中になって高校野球のTV中継を見ていた。この時、決勝で敗れた三沢のエース太田幸司は、甘いマスクもあって、一躍、日本中の人気者になった。

駒大苫小牧は、3連覇の偉業目前。それも、昨年の夏は優勝のあと、野球部長の暴力沙汰が表面化し、高野連は優勝を取り消すべきではないかという議論もあったように記憶しているし、地元では、優勝パレードが取りやめになったはずだ。さらに、また、春の選抜大会では卒業直後の野球部員が飲酒・喫煙で補導され、決定していた出場を辞退している。それでも、南北海道予選を勝ち抜き、今回の本大会でも、準々決勝まではいずれも逆転勝ち、準決勝の智辯和歌山戦も勝ち、3年連続で決勝に駒を進めた。決まっていた選抜大会の出場辞退となった時点で、選手のモチベーションは大きく低下し、本大会の出場もおぼつかないと思うのだが、選手を再び奮い立たせた指導者達の力も相当だろうと思う。

一方、早稲田実業には、手術をしたソフトバンクの王貞治監督のOBとしての応援(生徒たちにも優勝で王監督を励ましたいという気持ち)という、ふだんにはない特別な精神的な支えがあり、それが選手を一層奮い立たせているようにも見える。

どちらが勝っても、昨日の記事に書いたメディア・イベントとしては、記事の材料に事欠かないドラマに満ちている。

不祥事にもめげずに3連覇を成し遂げる駒大苫小牧か、王先輩を励ますための夏の初優勝を勝ち取る早実か、観客である我々がよりどちらのドラマを見たいと思うか、観客のオーラがより強い方が、明日の優勝を勝ち取るような気がする。

個人的には、おそらく今後当分達成されることはないであろう3連覇を見てみたい気がするけれど…。

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2006年8月19日 (土)

ヨロンとセロン、佐藤卓己『メディア社会』(岩波新書)から

積ん読になっていた『メディア社会』(佐藤卓己著、岩波新書)を読んだ。

メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)
メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

著者は1960年生まれで、メディア史・大衆文化論を教える京大の大学院の助教授だ。サブタイトルに「現代を読み解く視点」とあり、帯には「<歴史>から問うニュースの読み方、50のテーマで考える実践的メディア論!」とある。自分と同じ1960年生まれということと、これまでの歴史をふまえた新聞、テレビ、各種ネットビジネス等のメディアのあり方の議論がおもしろそうで、購入した。

第1話が”「メディア」は広告媒体である”という当たり前であるが、ふだん、意識することが少なくなっているメディアの本質論から始まり、第14話の”メディア・イベントの誕生”では、夏の全国高校野球大会について

そもそも、全国高等学校野球大会(戦前の正式名称は全国中等学校優勝野球大会)は、第一次大戦中の1915年、大阪朝日新聞社主催で開始された。(中略)
今では伝統ある夏の風物詩だが、そもそもは新聞社が夏休みの「記事枯れ」に対応して紙面を維持するために企画されたメディア・イベントである。自ら主催し、観客を動員し、取材し、それを批評する。関連記事はいくらでも量産することができる。甲子園大会はそうしたニュース製造機であった。(佐藤卓己著『メディア社会』岩波新書、63~64ページ)

と、原点を辿る議論がされていて興味深い。我々が、目にし、耳にするニュースも、本来、広告媒体であるメディアによって時には作られ、取捨選択された結果のものであるということだろう。しかし、そのメディアが、それを読み、見る人に大きな影響を与える。時として、人々が欲するであろうものを、先回りして用意し、世の中の流れを作っていく。

この本で、最も興味深かったのは、第25話の”憲法をめぐる「ヨロン」と「セロン」”の中で取り上げられている、ヨロンとセロンの違いである。漢字で書けば、どちらも「世論」であり、恥ずかしながら、この年(現在45歳)になるまで、「世論」と書いて、なぜ、「ヨロン」と読んだり「セロン」と読んだりするのか、その違いについて深く考えたことはなかった。本書によれば、「ヨロン」は正しくは「輿論」と書き、「セロン」は「世論」と書く。

今日ではほとんど忘却されているが、輿論(よろん)と世論(せろん)は戦前までは別の言葉だった。輿論とは「五箇条の御誓文」(1868年)の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも連なる尊重すべき公論であり、世論とは「軍人勅諭(1882年)の「世論に惑わず、政治に拘わらず」にある通りその暴走を阻止すべき私情であった。戦後、当用漢字公布によって「輿」の字が新聞で使えなくなったため、苦肉に策として「世論」と書いて「ヨロン」と読む慣行が生まれた。『「毎日」の三世紀 別巻』(2002年)は、次のように説明している。

「世論を「よろん」と読むようになったのは、戦後民主主義が背景にある。従来、「世論」は戦時中、「世論(せろん)に惑わず」などと流言飛語か俗論のような言葉とし使われていた。これに対して、「輿論」は「輿論に基づく民主政治」など建設的なニュアンスがあった。」
(佐藤卓己著『メディア社会』岩波新書、119ページ)

「毎日の三世紀 別巻」の説明は、戦後民主主義の下、民衆の言葉「世論」が「輿論(ヨロン)」の意味をも吸収し、見識を備えた公論を成すようになったと読める。しかし、「輿論」という漢字が当用漢字から消え使われなくなって60余年、「世論」は戦前の流言飛語・俗論に逆戻りし、「輿論(よろん)」という言葉は、その概念さえ忘れられている。

メディア・イベントに惑わされず、自分の頭で考えることを、一人一人が心がけないと、「世論(せろん)に惑わされる」時代が続く事になるだろう。せめて、自分の子供にだけは、そのことをキチンと教えたいと思う。

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2006年8月18日 (金)

「しなやか×しぶとさ=したたか」

今日のタイトル「しなやか×しぶとさ=したたか」というフレーズは、岩波ジュニア新書の『働くって何だ 30のアドバイス 』(森清著)の冒頭にある作者の言葉だ。

若い人たちには、どのような時代にあっても細い竹のようにしなやかに、踏みつけられても頭をもたげる雑草のようにしぶとく働き、生きていってほしい。私は、普通に暮らす生活者として「しなやか×しぶとさ=したたか」であることをひとつの大切な生き方とひそかに考えている。(『働くって何だ』より)

6月末から7月初めにかけて、以前紹介した『光武帝』など10冊近いの本をまとめて買って積ん読になっていたものを、順次、読んでいる。この本も、その時、冒頭にこのフレーズを読んで、即、買ったような気がする。

働くって何だ―30のアドバイス (岩波ジュニア新書)
働くって何だ―30のアドバイス (岩波ジュニア新書)

本の内容は、すでに70歳を超える著者が、中学・高校生向けに、働くことの意味や、働き方を自分の経験を交えた30の話で説明するもので、中学・高校に通う2人の娘に読ませたい内容だ。

「したたか」という言葉は、私もひそかに自分の生活の信条にしてきた。ブログのタイトルの一つに栄枯盛衰を持ってきたように、長い人生「いいこと」づくめという訳にはいかない。どこかで、必ず失敗やつまづきがある。でも、それにおめおめと負けたくはない。転んでもただでは起きるものか、必ず何か自分にプラスになるものをつかんで、起き上がろうと思ってきた。それをひと言でいえば、「したたか」という言葉だった。

一方、妻は、「不幸は弱いところを狙ってやって来る。だから、うまく行かない、調子が悪いといって弱気になっていると、ますます不幸の神様に狙われて、不幸が続くことになるから、そんな時こそ、元気を出さなくてはいけない」という意味のことをよく口にする。これなど、「しぶとさ」の典型のような気がする。

「しなやかさ」とはあまり縁がない気がするが、なんとか「しぶとさ」と「したたかさ」をモットーに3人の子供の子育てに、悪戦苦闘している毎日である。

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2006年8月16日 (水)

「北軽井沢」についての追記

先週、「北軽井沢」の地名の由来について書いた(*)が、今日、職場の同僚と話していたら、すでに廃線になった草軽電鉄(草津~軽井沢間を結ぶ鉄道)に「北軽井沢」という駅があったというので、さっそく調べてみた。(*8月8日記事:軽井沢と北軽井沢

草軽電鉄は、大正元(1912)年10月に、草津軽便鉄道として設立。大正4(1915)年に、新軽井沢~小瀬温泉間が開業。大正15(1926)年8月には、草津温泉駅までの全線が開通している。北軽井沢駅は、大正7(1918)年6月に「地蔵川」駅として開業、全線開通の翌年(1927年)に「北軽井沢」駅と改称されている。東急グループの傘下入りするが、旅客の減少と相次ぐ台風被害もあり、昭和37(1962)年に全線廃業している。会社は、現在、乗合バス事業等を行う草軽交通として存続している。

全線廃業とともに、北軽井沢という駅名も消滅したが、地域名としては残っていたようだ。そして、先週書いたように、昭和62(1987)年に地名として大字北軽井沢が復活している。『ウィキペディア(Wikipedia)』には、その際、長野県の軽井沢町の住民からは強い反対があったと書かれている。

やはり、調べればいろいろと由来があるものだ。軽井沢~草津間も、箱根や伊豆と同様、東京周辺の観光地として、西武と東急が覇を競ったようだ。
軽井沢駅の南側にある「軽井沢72」ゴルフコースはプリンスホテルの経営だし、浅間山麓の鬼押出し園もプリンスホテルの経営だ。草軽電鉄の系列化は、東急側の西武対抗策の一つであったようだ。

(今日の記事の内容は、草軽交通ホームページの「草軽電鉄物語」、『ウィキペディア(Wikipedia)』の草軽電気鉄道」、「北軽井沢」、プリンスホテルホームページの「日光・上信越in春~秋」を参考にした)

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2006年8月15日 (火)

首都圏大規模停電その後

昨日の首都圏の大規模停電の真相や、どこで何が起きたのかなど、新聞やテレビでいろいろ語られている。

直接の原因は、旧江戸川の浚渫工事を請け負った茨城の建設会社の浚渫船のクレーンが、東京電力の高圧電線に接触したことで間違いないようだ。建設会社の会長と社長が謝罪の記者会見をしていた。以前も、クレーン船が電線と接触したことがあり、川を航行する時には、クレーンを上げないという内規があったのに、事故を起こしたクレーン船は、その内規を守っていなかったということだから、クレーン船の作業責任者はもちろん、ルールを徹底できていない経営陣も当然責任を問われるだろう。

しかし、この作業自体は、大手ゼネコンが受注し、事故を起こした会社は孫請けということだから、元請けのゼネコン、さらに元請けと孫請けの間の会社も、管理責任を問われるのではないだろうか?

一方、電力会社に全く責任はなかったのか?そもそも、クレーン船が引っかかるようなところに、電線を張っていることのリスク管理は十分できていたのか?(新聞には、海上保安庁と協議してあの高さに決めたという報道があった。)そのあたりも議論になるのでは、ないかと思う。

また、停電の被害を受けた企業等の側も、まさかの時の備えが従来のもので良かったのかという議論も出てくるだろう。十分な電力供給を受けられなかった時に備えた、自家発電装置の整備・増強なども議論になってくるだろう。

大した被害が出なかったことを不幸中の幸いと思い、今回の期せずして経験することになった大規模災害の予行演習を、今後に役立ててもらいたいものだ。

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2006年8月14日 (月)

早朝の大規模停電

1週間の夏休みが明け、今日から出勤。いつもの通り、家の最寄りの私鉄の駅から、7時半少し前の準急に乗る。私の乗る準急は隣の駅が始発なのだが、いつもは、つり革と鞄を置く網棚を確保するのが精一杯。しかし、今日は、お盆休みの人が多いのだろう。座ることができた。

しかし、10分ほど走ったところで、前の電車が停電で止まったという。私の乗った準急も止まってしまった。10分ほど停車して、再び動き始める。「やれやれ、10分の遅れなら遅刻しないで済む」とほっとしたのもつかの間、私の乗る私鉄とJRの山手線、地下鉄の乗り換え駅に着き、職場の最寄り駅まで行く地下鉄に乗り換えようとすると、こちらも停電の区間があり、運転見合わせとアナウンスしている。私の乗る線だけではなく、東京メトロでかなり広範囲に影響が出ている模様だ。

天気は良く、数日前に山手線が止まった時のようにどこかに雷が落ちたとは思えない。東京電力の想定以上に朝の電力需要が急増し、一時的に電力の供給不足に陥って停電したのだろうか?しかし、今朝の暑さが、この時期の想定される暑さを大幅に上回っているとも思えない。イギリスでの航空機爆破計画摘発の直後でもあり、まさか、テロ?しかし、限られた情報しかない中で、次の行動を決めなければならない。

地下鉄は当てにできそうにないので、山手線で神田駅か東京駅まで行き、歩くしかない。中央線周りは混むだろうから、山手線を外回りで上野経由で移動することにした。遠回りする時間ロスと降りた駅からいつもより余計歩く時間ロスで、さらに15分くらい遅れそうだが、仕方がない。
幸い、山手線の外回りでも座れた。しかし、ここでも社内放送で、新交通システム「ゆりかもめ」と京葉線が止まっていると言っている。JRは専用の発電所を持っているはずなので、そちらがやられなければ電車は止まらないはずなのだが、どうしたのだろう?(京葉線は、乗っている間に復旧したと放送があった)
結局、神田で降りて職場まで歩く。8時40分が始業時刻だが、5分ほど遅刻してしまった。

職場に着いてから調べると、最初は原因不明と言われていたが、江戸川をまたいで張られていた高圧電線に、江戸川の上流に浚渫作業に向かっていたクレーン船のクレーンが、接触し、電線を傷つけたため、周辺の変電所で安全装置が働いて電流が止まり、広範囲に停電したらしい。
私が遭遇した被害は、電車の遅れと運転見合わせだったが、新聞やTVのニュースなどを見ると、信号が消えたり、エレベーターが止まって閉じこめられたりというトラブルもいくつかあったようだ。

今回は、過失によるトラブルだが、それでもこれだけの騒動になった。通常、電力会社が想定している電線のトラブルは、落雷によるものだろう。テロなどの警戒をするのは、場所としての発電所や変電所だろう。しかし、発電所や変電所が完全にガードされていても、同時多発で故意に広範囲に広がる電線を狙われたら、今回以上の停電が起きることになる。今回の事態を見せつけられて、東京電力はもちろん、各地の電力会社は、対策に頭をかかえているのではないだろうか。

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2006年8月13日 (日)

映画『ゲド戦記』を見て

映画『ゲド戦記』を見た。

今日、午後、中3の次女と一緒に2駅となりのシネマコンプレックスに見に行く。館内は、お盆休みの日曜日ということもあって、かなりの人。しかし、映画館側も、大きな映写室で上映しており、席にも十分余裕があり、予定通りの時間に見ることができた。

いろいろなブログで、この映画についての様々な感想が書かれており、中には酷評といえるものもあるのだが、非常に「良くできた映画」というのが私の感想である。

確かに、この映画は原作者ル・グインの『ゲド戦記』と同じではない。
あるブログに作者ル・グインが次のように語ったと書かれている。

「It is not my book. It is your film. It is a good film.」
(ブログ「すべて世はこともなし」2006/8/9「ゲド 戦いのはじまり」より)

原作者ル・グイン女史が、好意的ニュアンスで語ったのか、否定的なニュアンスで語ったのかは、知りようがないが、「これは私の書いた話とは違う」という趣旨は間違いないだろう。

原作6冊を読み通した上で映画を見れば、それはよくわかる。話のベースは、第3巻の『さいはての島へ』になっているが、この映画の主人公ともいえるアレンが、自分の影におびえ逃げる姿は、第1巻の『影との戦い』で描かれる若い頃のハイタカ(ゲド)の姿と重なるし、映画の重要な登場人物であるテナーとテルーと農場は、第4巻の『帰還』で主な舞台となるものだ。また、ハイタカとテナーの微妙な関係も第2巻の『こわれた腕輪』の経緯が背景になければ、たしかにわかりにくい。また、作品の舞台となるアースシーの世界のハブナー島を中心にした東西南北の広がりも、映画では捨象されている。

それでも、私はこの映画は素晴らしいと思う。この映画は、ル・グインの『ゲド戦記』を、宮崎吾朗という監督が、自分なりに理解し、その自分なりの理解を、絵にし、言葉にし、音楽にしたものだと思う。

彼の主張は、ひとことで言えば「生きるとはどういうことか?」ということであり、それを回りくどい技巧は凝らさずに、ストレートにぶつけてきている。それは、宮崎吾朗監督が、封切り前のインタビューで語っていること、そのままである。それは登場人物のひと言、ひと言として現れている。「語りの映画」と言えるかもしれない。

中3の次女は、「よくわからないところもあったけれど、心うつものがあった」と最後には、うっすら涙を浮かべていた。登場人物のひと言が、そしてテルーの歌う歌のあるフレーズが心のどこかにひっかかっていて、何となく気になる。そして、もう一度見て、その気になるところを確かめたい、そんな気にさせる映画だと思う。

原作を読まないで見た方には、原作6冊を読むことを勧めたい。今、原作を読んでいて、まだ映画を見ていない人は、原作を全て読み通してから、映画を見た方がいいだろう。原作を途中まで読みかけで、映画を見るのだけはやめた方がいい。どちらも、中途半端になってしまうだろう。

*関係する記事
6月20日:ゲド戦記6冊セットと第1巻『影との戦い』
6月22日:『影との戦い』

6月26日:ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』
6月30日:ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』

7月5日:ゲド戦記第4巻『帰還』
7月9日:ゲド戦記第5巻『アースシーの風』
7月16日:ゲド戦記『ゲド戦記外伝』
8月5日:『ゲド戦記』宮崎吾朗監督のメッセージ

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2006年8月12日 (土)

雷と雷雨

今日は、我が家の近くでも、午後1時過ぎから30分ほど、雷鳴がとどろき、激しく雨が降った。

なぜ、雷が起きるのか、これまであまり真剣に考えたことはなかったので、いつも使う『NHK気象・災害ハンドブック』(NHK放送文化研究所編、NHK出版)『楽しい気象観察図鑑』(武田康男〔文・写真〕、草思社)に加え、以前から持っている『天気図と気象の本改訂新版』(宮沢清治著、国際地学協会)を使って調べてみた。

TVの天気予報などによれば、今日は、大陸から季節はずれの寒気が日本の上空に張り出して来ているらしい。一方、真夏の日本列島には、暖かい湿った空気がある。

上が寒く、下が暖かいということで、暖かい空気は上昇し、上昇気流が生じる。上空の方が温度は低いので、空気中の水分が凝結し水滴になり、雲(積乱雲)ができる。今回のケースの場合、上空は寒気で通常以上に冷えているので、雲の中も水滴がさらに冷えて、氷の粒になっていると考えればいいようだ。
雲の中で、氷の粒が衝突し、摩擦で静電気が生じるのではないかというのが通説のようだ。雲の中では、上の方が+(プラス)の電気を帯び、下の方が-(マイナス)の電気を帯びるとのことらしい。そして、雲の中や、雲と地上の間で静電気が流れることになる。雲と地上の間で電気が流れた場合が「落雷」とのことだ。

何気なく、当たり前に思っていることでも、そのメカニズムがわかっていないことが多いような気がする。専門家には、あたり前のことかもしれないが、自分にとって知っていたつもりが、よくわかっていなかったということも、気がつく都度、書いていきたい。

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2006年8月11日 (金)

住民基本台帳カード

個人情報の安全は確保できるのかという議論を巻き起こした「住民基本台帳ネットーワーク」。このネットワークを利用するための住民基本台帳カード」を、昨日市役所に住民票と印鑑証明を取りに行ったついでに作ってきた。

クレジットカードやキャシュカードと同じ大きさのプラスティックカードに、金色の接触型ICチップが埋め込まれている。顔写真が入らず、名前だけがカードに印字されているAタイプと顔写真に住所、名前、生年月日が記入されたBタイプの2つがあり、私はBタイプの発行を申請した。申請書を書いて提出すると、本人確認書類の提示を求められ、運転免許証を見せて、待つこと15分ほど、役所の事務フロアの中でデジカメで写真を撮られて、それから10分ほどでできあがった。私の住んでいる市では発行手数料500円。

電子政府「e-Japan」計画の施策の一つとして進められている。このカードがあれば、ネットワーク上で本人と認められ、住民票の写しが他の自治体で入手できたり、転出転入の手続きが簡素化されるようになるようだ。
また、住民票・印鑑証明などの自動交付用の認証カードに使ったり、各種申請書の自動作成、公共施設の利用券等、ICチップの容量の空きスペースを利用してどのような住民サービスを行うかは各自治体に任されているようだが、私の住んでいる市では、住民票と印鑑証明については、すでに磁気ストライプを使った専用カードがあるので、当面、すぐに役に立つわけではない。

個人情報保護の動きと裏腹に、各種の契約に際して、本人確認ということがうるさく言われるようになっている。これまでであれば、公的なもので本人確認に最も信用力が高いのは顔写真が入っている運転免許証とパスポートだった。
マネーロンダリングや振り込め詐欺等犯罪に悪用されないよう、金融機関で預金口座の新設する際には、本人確認が求められる。私が作った顔写真入りのBタイプの住民基本台帳カードは、運転免許証とパスポートと並ぶ公的な身分証明として扱われる。
これまでは、車を免許を持っていなくて、パスポートも持たない人にとっては、写真入りの身分証明書は持ちようがなかったので、その点では、誰でも希望すれば、写真入りの公的な身分証明書がもてるようになったことになる。

しかし、今のところ、住民基本台帳カードの交付枚数は、2006年3月末現在で、全国で91.4万枚余、人口比で0.72%、世帯数比でも1.82%にとどまっている。最も交付枚数が多い東京都が13.7万人、人口比1.13%、世帯数比2.35%である。一部、普及に熱心な自治体を抱える県(富山県-南砺市、宮崎県-宮崎市)では、普及率が高いところもあるが、日本全体で見れば、100人に1人も保有していないというお寒い状況である。

私のような、必要もないのに新しいものにすぐ関心を示す「もの好き」はそう多くないと思うので、各自治体が、どうやれば交付が進むか知恵を絞らなければ、普及は難しいだろう。そもそも、役所に行けば簡単に交付されるということを多くの人は知らないと思うし、それを保有することで、何ができるのかということになると、ますます知られていない。
一方、何か新しいことをやるとなれば、なにがしかのシステム投資は必至であり、キチンとした投資採算計画の検討なくして、踏み切れないという自治体側の事情もあるだろう。

小泉首相の後の、新政権がどのような舵取りをしていくのか、しばらく注視してみたい。

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2006年8月10日 (木)

不可解な車のトラブル

北軽井沢から戻って、休みの残りは、車の名義変更のための雑用をひとつずつかたづける。

車を買った時住んでいた富山から転勤で移った社宅のある豊島区そして現在の住所までの変遷がわかる公的書類が必要なのだが、既に現住所に移って5年を超えるため、豊島区役所で住民票の除票を発行できないということが判明し、本籍地の市役所に戸籍の附票を取り寄せるしかなくなり、故郷の市役所にとりあえず、書類を送った。
あとは、現在の住まいの所轄の警察署で車庫証明をもらい、それらを揃えて、管轄の自動車検査登録事務所に車を持ち込むことになる。

しかし、名義書換をする車の調子がいまひとつ。旅行前に一度エンジンがかからなくなった。バッテリーの上がりと思い、バッテリーを交換したが症状は変わらない。結局、JAFを呼んで、ディーラーに持ち込むと、エンジンのどこかに水がたまっているという。水を抜いて、誤って焼き付かせてしまったスターターモーターを交換した。しかし、何故、水がたまったかはわからないという。気持ち悪いとは思いつつも、北軽井沢までは、その車で往復。
何も問題なかったが、帰ってきて、一晩明けると、またエンジンがかからない。
症状は前回と同じだ。前回の不調の直前は、梅雨末期の豪雨の後、今回も台風7号の通過で、明け方かなり激しく降った後で、まだ小雨が降っていた。あいにく、ディーラーのメンテ部門は金曜日(今日)まで休みとのことで、すぐには持ち込めない。

ボンネットを開けてみると、しみこんだ雨水がワイヤーを伝って、エンジンの上にポタリ、ポタリと落ちている。その一部がエンジンを複雑につなぐ配線を伝わり、エンジン本体と配線が結合している部分まで流れている。あるいは、ここから少しずつしみこんでいったのだろうか?激しい雨というのが、前回の今回の共通点ではあるのだが、果たして、これが原因なのだろうか?

文系の勉強しかしていない自分にとって、車のエンジンは手に余る。あとは、明日、ディーラーに持ち込んで、見てもらうしかない。

しかし、北軽井沢に行っている時に、雨が降らなくてよかった。キャンプ場や、高速のサービスエリアで雨に降られて、車が立ち往生していたらと思うと、ゾッとする。

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2006年8月 9日 (水)

ココログのトラックバックは大丈夫?

ココログが、8月2日から有料会員向けアクセス解析のサービスを大幅にレベルアップした。以前から、予告していたものだが、不評を買った2日間に及ぶ大規模メンテナンスが終わるまででは、棚上げになっていた。その、長時間メンテナンスも終わり、不評だったレスポンスの悪さの改善もなされたと判断したのか、8月1日になって急に「明日からアクセス解析」をレベルアップすると予告し、2日から突然変更になっていた。

実は、予告があったのを知ったのは後からで、いつも通りにアクセス解析のページを見ていたら、ある日突然、ページ内容が変わっていて、驚いてココログのメインページを探したら、「ココログスタッフからのお知らせルーム」や「ココログレスポンス問題おしらせブログ」の8月1日の記事に、次のように書かれているのを見つけた。

2006年8月 1日 (火)
8月2日:新アクセス解析導入について
日頃よりココログをご利用いただきまして誠にありがとうございます。
7月13日(木)のメンテナンス終了後からココログのレスポンスについて監視していましたが、現在まで落ち着いた状態を保っています。
そこで長らくお待たせしていました新アクセス解析を2006年8月2日(水)より導入させていただきます。直前のご連絡となってしまい誠に申し訳ございません。(以下略)

今のところ、レスポンスの悪化もないし、突然とはいえ、アクセス解析も従来よりは、相当詳細な分析ができているので、それ自体に文句を付けるつもりはないが、以前から少々気になっていたのがトラックバックである。

ココログの新規作成記事のページの右下には、トラックバック用のURL記入欄がある。ここに、自分の書いた記事をトラックバックしたい他人のブログの記事のURLを入力し、書いた記事を保存すると、ココログのサーバーから相手のサーバーに送信され、相手の記事にトラックバックされる(と私は理解している)。どんなブログの解説書にも書かれているブログの使い方の基本の一つだ。
ココログの場合、送信されると「送信完了」のメッセージが出て、そのURL記入欄から相手先のURLが消え、そのURL記入欄の下に表示される「以前送ったトラックバックを確認」のリンクを開くとそこに送信が完了した相手先記事のURLが表示される。

いくつかのブログ相手にトラックバックを送った場合に、送信がうまく行かなかったのか、相手先のURLが残ったままになっていることがある。もちろん「以前送ったトラックバック」にも反映されていない。うまく行かないことが多いような気がするのは、ビッグローブ系の”ウェブリブログ”、”はてな”、そして”ココログ”である。
ベストエフォートが基本のインターネットだから、うまくいかなくても無理は言えないと思っていたが、昨日、ちょっと驚いたことがあり、このようなクレームまがいの記事を書くことにした。

ウェブリブログ(不正確だったので訂正しました)の会員の記事に私の記事をトラックバックしようとして、うまくいかなかったことがあった。「相手先のトラックバックURLを記入」の欄にも、ずっとURLが残っており、以前送ったトラックバックにも表示されていない。時々、再度送信するとうまくいくこともあるので、何回か送信を試みた。それでも、ココログ側の未送信状況の表示は変わらない。

昨日久しぶりに、その相手先のブログを訪問したところ、顔から火が出るほど恥ずかしい状態になっていた。なんと、7回も私の同じ記事がトラックバックされていたのだ。あわてて、1つを残して削除してもらうようにコメントを残してきたが、最初のトラックバックが送られてから気がつくまでの間、スパム・トラックバックと思われていたに違いない。

「送ったトラックバックが、全て1回で送信されなければおかしい」などと言うつもりはない。送信直後には、相手先の記事を確認するが、相手側が表示にあたり事前承認の仕組みを選択していた場合は、即座に表示されるわけではない。いろいろなテーマにつき、他人の関心ある記事に、自分の書いた関係する記事をトラックバックしている中で、全てのトラックバックが成功したかどうか、逐一相手の記事をチェックすることも、困難だ。
だとすれば、利用者が少なくとも自分が送ったトラックバックが相手に届いたかどうかは、ココログのようなブログのサービス業者の表示を信じるしかない。

せめて、送信が成功したものは成功したように、失敗したものは失敗したように表示してほしい。そうでなければ安心して使えない、と思うのは私だけだろうか?

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2006年8月 8日 (火)

北軽井沢と軽井沢

6日(日)の朝から今日まで、2泊3日で北軽井沢に行ってきた。今年は、我が家も受験生2人なので、ささやかな気分転換といったところだ。浅間山麓の高原といったところで、気温も都心よりも数度低く、過ごしやすく文字通り「避暑地」とはこういうところを言うのだろうと実感した。

これまで、仕事で何回か転勤し、観光地と言われるところにはずいぶん行ったが、「軽井沢」と名の付くところには、一度も足を踏み入れたことがなかった。今回、たまたま行くことになったのだが、「北軽井沢」と聞いて、軽井沢地域の北部くらいにしか考えていなかったが、全く間違っていた。

新幹線の駅もある、いわゆる「軽井沢」は、長野県北佐久郡軽井沢町。江戸時代は、江戸から参勤交代や善光寺参りの旅人が碓氷峠を越えたところで、疲れを癒す中山道の峠の宿場町であった。現在のように別荘地として有名になったのは、明示19(1886)年にカナダ生まれのイギリス人宣教師A・C・ショーが、避暑地として好適であるとして内外に紹介したことがきっかけのようだ。(参考資料:軽井沢町ホームページまちのあゆみ「軽井沢町の誕生と発展」「軽井沢町のあゆみ」)
軽井沢町には、軽井沢と中軽井沢という地名はあるが、旧軽井沢や新軽井沢というのは通称のようだ。

一方、我々が泊まった北軽井沢は長野県と境を接する群馬県吾妻郡長野原町にある。中軽井沢から、国道146号線を車で30分ほど北上し、峠越えをした山の向こうが北軽井沢だった。
長野県の軽井沢町も軽井沢や中軽井沢という地名は、鉄道の沿線部が中心で、町の北部は「長倉」という地名である。そこを過ぎて峠を越えた山の向こうが北軽井沢なのだ。なぜ、軽井沢の中で、北軽井沢だけが群馬県なのか?いつから、北軽井沢と言っているのか?
北軽井沢がある長野原町のホームページの「長野原町について」の中の”長野原町の歴史”を見ると、その答えらしきものがあった。

昭和62年1月大字名変更により「大字北軽井沢」が誕生

正式は地名としての「北軽井沢」の登場は、このときなのだろう。思い起こせば、おりしも、日本がバブル経済の入り口に差し掛かった頃である。一時は、開発ブームに沸いただろう。
さて、現在はどうなのだろうか?私が昨年までいた北海道などは、全道で人口500万人の地域に、どう需要予測をしたら採算が成り立つのかというような乱開発の残骸が点在し見る影もなかった。さすがに、北軽井沢は、東京に近い分、バブル崩壊の影響は北海道ほどではないが、バブル絶頂期に比べれば、ずいぶん人の入り込みは減っているのではないだろうか?

たった3日間だけの印象論なので、あまりあてにはならないが、機会があれば、もう少し調べてみたい。

追記:この記事の地名「北軽井沢」の由来については、記述が不十分でした。
8月16日の記事: 「北軽井沢」ついての追記 をご覧下さい。

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2006年8月 5日 (土)

『ゲド戦記』宮崎吾朗監督のメッセージ

先月29日から、いよいよスタジオ・ジブリのアニメ『ゲド戦記』の上映がはじまった。ブログで試写会を見た人のコメントを見ると、必ずしも絶賛というほどではない、むしろ酷評といえるようなものも多い。一方、今日のTBS「王様のブランチ」の先週の映画ランキングでは、初登場で1位だった。

自分自身が、まだ見ていないので、何とも映画自体の出来は評価できないが、宮崎吾朗監督は、文学作品としての『ゲド戦記』を読み込んで、彼なりの問題意識をもって映画化に取り組んだことがうかがえる。

手元にある公開前の映画『ゲド戦記』のパンフレットに宮崎吾朗監督の「演出ノート 人間の頭が、変になっている」という一文がある。

それによれば、現在39歳の彼は、ゲド戦記は20年以上前の高校生の時に最初に読んだという。その当時は、ハイタカ(ゲド)が自分の影との合一を果たす1巻とテナーが暗い墓所から解放される2巻に心引かれたそうだが、今回、改めて読み直すと、映画化された3巻、そして4巻、外伝に心ひかれた書いている。その理由として、彼自身の加齢と、我々を取り巻く環境の変化を上げている。そして、次のように語る。

 今、私たちの暮らしている世界は、まるで第3巻に登場するポート・タウンやローバネリーのようです。みな、必死にせわしなく動き回っていますが、それは目的があってのことではないように見えます。目に見えるもの、見えないもの、それら全てを失うことを、ただ恐れているようです。人々の頭がおかしくなってしまった感じです。
 一つひとつを例にあげることはしませんが、その原因は国内外の様々な社会状況の激変にあるのはあきらかです。けれど、どうすれば社会が良くなるのか、目指すべき方向は誰も提示できずにいます。そして、大人たちは誇りや寛容さ、いたわりの心を失い、若者たちは未来に希望を見いだせず、無力感におそわれています。
 結果、生きることの現実感は失われ、自分や他人が死ぬことの現実感も失われています。自分の存在を曖昧にしか感じられないならば、他者の存在も希薄にしか感じられないのは当然で、減らない自殺や理由なき殺人の増加は、その象徴に思えます。

(中略)世界の均衡が崩れつつある原因が人間の内にあること、その根源を辿れば生と死の問題に行き着くこと、そこに、私たちにいま最も必要なテーマがあると思うのです。

(中略)私は、「いま、まっとうに生きるとはどういうことか?」という自分自身の問いを「ゲド戦記」に投げかけ、ハイタカをはじめとする多くの登場人物たちの声に耳を傾け、再び問い返すということを続けてきました。それが、この映画の主題になっていることは間違いありません。(以下略)
(宮崎吾朗「演出ノート 人間の頭が変になっている」より)

私もゲド戦記第3巻『さいはての島へ』を読んだとき、これは、まさしく現代日本社会を描いた作品ではないのか?と思った。
すでに、映画を見た人の感想はどうだろうか。私も、1週間の夏期休暇の間には、映画館に足を運び、ぜひ見たいと思っている。

*関係する記事
6月20日:ゲド戦記6冊セットと第1巻『影との戦い』
6月22日:『影との戦い』

6月26日:ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』
6月30日:ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』

7月5日:ゲド戦記第4巻『帰還』
7月9日:ゲド戦記第5巻『アースシーの風』
7月16日:ゲド戦記『ゲド戦記外伝』
8月5日:『ゲド戦記』宮崎吾朗監督のメッセージ(本編)
8月13日:映画『ゲド戦記』を見て

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2006年8月 4日 (金)

車の名義変更のための夏休み

今週も、週末を迎えた。来週1週間は、私も夏期休暇で、ひと休みである。とはいえ、前半は家族を連れ、北軽井沢のキャンプ場のキャビンに2泊の小旅行。あとは、我が家で、資格試験の勉強と、日頃、出来ない雑用をかたづけなくてはならない。

今の車は、もう7年めになる。新車購入の時、5年のカーリースを組み、リース期間満了とともに残価を精算し、買い取った。個人の月々のキャシュフローからすれば、オートローンも、割賦も、カーリースも大差はないのだが、権利関係はそれぞれだ。カーリースだと、車の所有者はあくまでも、リース会社。買い取ったところで、自分の名義に変更しなくてはならない。

今の車は、買ったのは富山勤務時代。その後、東京に戻り、リース期間が満了したものだ。本来は、東京に戻ったところで住所の変更を行い(ナンバープレートが変わる)、買い取り時点で名義変更をしなくてはならないのだが、手間がかかりそうで先延ばしにしているうちに、北海道に単身赴任となった。住民票を移さない単身赴任で、車もそのまま持って行ったので、何もできなくなってしまった。

リース会社からも何回か催促され、北海道にいた時は、やりたくてもやれなかったが、先日、再度催促があり、さすがにきちんとしないわけにはいかなくなった。

よくよく調べると、①現在の住所の所轄の警察署で車庫証明をもらい、②購入時からの住所変更の履歴がわかる住民票等を揃えて、③管轄の運輸支局に車を持って行き、住所変更と名義変更の手続きをやるということらしい。

今まで無精をしていたツケを払わざるを得なくなった訳だ。私の場合、更に面倒なのは、富山から東京に戻った時に、一度、豊島区の社宅に入り、その後、1年弱で今の家を買い移ったので、今の住所の住民票だけでは、富山からの履歴がたどれない。豊島区か、富
山市からも書類を取る必要がある。

どうも、1週間の休みの後半の数日間で、全部すませるのは無理なようで、①と②を終え、③の運輸支局での住所変更、名義変更には、別途、もう1日休みを取る必要がありそうだ。

たびたび住所が変わりそうな時に、車を買なら、カーリースはやめた方がいいというのが、ささやかな教訓ということになろうか。

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2006年8月 2日 (水)

将棋名人戦、朝日新聞に

ここしばらく、将棋界を騒がせていた名人戦の主催新聞社を、毎日新聞社から朝日新聞社に移すかどうかという問題は、将棋連盟の棋士全員の投票の結果、101対90で毎日新聞社との契約を継続しないという結論が出た。

そもそも、将棋の名人戦は、最初は毎日新聞社主催で始まり第1期(1937年)から第8期(1949年)まで毎日、その後、朝日新聞社主催に移り、第9期(1950年)から第35期(1976年)まで朝日、第36期(1978年)から現在の第64期(2006年)まで毎日と、毎日新聞社と朝日新聞社の盤外でのタイトルの争奪戦の歴史でもある。(35期から36期の間に空白があるのは、ゴタゴタもあって名人戦が1年開催できなかったから)

私が、将棋を覚えた頃は、朝日が名人戦を主催していた時期だったので、毎日に移った時は、違和感を感じたのを覚えている。

しかし、朝日と毎日のゴタゴタの中で、着実に将棋界での地位を向上させ「漁夫の利」を得たのは読売新聞社だろう。かつては、名人戦より格下だった「十段戦」を1988年に「竜王戦」に改組し、いつの間にか、名人戦と同格以上の棋戦に育ててしまった。
(今回の件の記者会見でも、読売は、米長会長から「将棋界1位のタイトル戦は竜王戦」とコメントを取り、記事にしている)

名人戦を取り戻した朝日はどう読売に対抗していくのか、盤外の名人と竜王の戦いも目が離せない。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

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2006年8月 1日 (火)

後漢の祖『光武帝』

『光武帝』(講談社文庫、塚本青史著)を読み始めた。後漢の祖・劉秀を描いた歴史小説で、上・中・下の3冊組だ。

光武帝(上) (講談社文庫)
光武帝(上) (講談社文庫)

光武帝(中) (講談社文庫)
光武帝(中) (講談社文庫)

光武帝(下) (講談社文庫)
光武帝(下) (講談社文庫)

数ある中国を舞台にした歴史小説でも、劉秀・光武帝を主人公にしたものは、珍しいのではないだろうか。秦が滅んだ後、高祖・劉邦によって建国された漢(前漢)も、約200年続いた後、王莽に簒奪され「新」が建国される。
著者は王莽を主人公にした『王莽』(講談社文庫)も書いており、既に3年前に文庫化されている。そちらは、その時に読んだ。

王莽 (講談社文庫)
王莽 (講談社文庫)

当時、『光武帝』も単行本では既に発刊されていたが、文庫化されてから読もうと待っていたところ、今年の6月にようやく文庫が発売された。

話は、王莽がすでに皇帝となった新の治世下、滅亡した漢の皇統の傍流である劉秀の姉の嫁入りから始まる。まだ、新の治世が乱れ始めたあたりであり、これから世界史の教科書でもおなじみの「赤眉の乱」が始まりそうである。通勤の帰りの電車で読んでいたら、急行から各駅停車に乗り換える駅を通り過ぎてしまった。

中国史は、王朝による統一と分裂を繰り返す歴史である。王朝というのは、見方を変えれば、国を統治するための行政組織・制度そのものである。国民は経済生活をしており、経済は日々変化している。
例えば、農業に鉄製農具が使われるようになれば、木製の農具の時よりは、生産力が拡大し、余剰生産物が生じ、それに伴って貧富の差が生じるなどして、経済の実態と統治の制度の乖離が激しくなると、不満が生じ、反乱が起き国が滅びる。小国に分立した各地の為政者のうち、その時期の経済の実態に合った行政組織や制度を作り上げた者が、民の支持も得て国が栄え、最終的に統一を果たすことになる。
中国の分裂と統一の繰り返しは、経済の実態に合わなくなった制度を壊し、実態にあった制度作りを競う壮大なドラマであろう。
高校時代に漠然とそんなことを考えていたが、大学に入りマルクス経済学を教える経済学部で学ぶと、そのような考え方を「唯物史観」というのだと知った。

王莽のような簒奪のケースでは、簒奪の時点では、前王朝を見放した民衆の支持で、一時的に皇位に上り詰めても、時代にあった新たな制度や組織を作れないと、たちまち民衆の支持を失ってしまうのだろう。
とはいうものの、受験勉強では、後漢の祖となった劉秀(光武帝)が、特に革新的な施策を行ったという記憶もない。なぜ彼が民衆の支持を得て皇帝になれたのか、著者がどのような解釈しているのか、楽しみだ。

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