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2006年9月24日 (日)

稲刈りで知る日本の歴史

お米の産地では、先週から今週にかけてが、稲刈りのピークではないだろうか。私も、富山にいる頃、二度ほど稲刈りの手伝いをしたことがある。

長女と次女が、当時小学生で、富山市の小学校に通っていた。長女と同じクラスの男の子と、次女と同じクラスの女の子の兄妹のいる家族がいて、PTAなどで母親どうしも親しくなり、やがて父親も含めた家族ぐるみのつきあいになった。お父さんはサラリーマンなのだが、県内の実家は農家で、ご両親はすでに亡くなっていたが、兼業農家として、夫婦で米作りをしていた。
親しくなったこともあり、稲刈りを手伝わないかと誘われて、手伝いをしたのだ。先方にとっても、自分たちが稲刈りをしている間、自分の子ども達の遊び相手になってくれる、同い年の子どもがいる我が家は、助っ人としてはうってつけだった。

手伝いといっても、先方のお父さんがコンバインを操作して、田んぼの稲を刈っていく。刈り取られた籾(モミ)は、コンバインの中に溜まっていく。一定量溜まったら、いったんコンバインを道路に近いところに止めて、麻袋に詰める。その詰められた麻袋を、我が夫婦でライトバンに載せ、私がライトバンを運転し、先方の実家の納屋にある米の乾燥機まで運び、納屋で奥さんが乾燥機に籾を投入する。その繰り返しである。

麻袋が籾で一杯になると30kgだったと思う。麻袋をライトバンの荷台まで運び上げるのが重労働。田んぼは、先方の実家から少し離れたところに数ヵ所に分かれて点在しており、麻袋運びにも人手がかかる。コンバインには必ず1人必要なので、作業全体を夫婦2人でやっていては、たびたび作業を中断しなくてはならず能率が悪い。そこに、2人手伝いが加われば、中断せずに作業が流れ、一気に効率が上がる。

米作りは多くの人手を必要とする労働集約的な作業だった。まして、機械化された現代でも、これだけ大変なのだから、コンバインもライトバンも乾燥機もなかった時代の苦労は、推して知るべしである。そう考えているうちに、これまで、机上で勉強してきた「日本の歴史」が一気に理解できた気がした。

なぜ農村の人間関係は濃密なのか、年貢というものが、どれだけ農民にとって無念なものであったか、戦(いくさ)で働き手がいなくなればいとも簡単に農村が荒廃するであろうこと、等々。

また、大地に種をまけば作物が育ち、それを収穫して食することで、生きていけるということは、自然と太陽や大地を敬う気持ちになっただろう。文字通り「母なる大地」を実感しながら、人々は生きていたにちがいない。日本での信仰の基本は、その収穫への感謝の気持ちにあるのだろう。

私にとっては、「農業が無から有を作り出すものであること」を発見したことも、目からうろこが落ちる思いであった。何もない地面に種をまいて育てれば食べ物ができる。無から有を作り出し、そのサイクルには終わりがない。土地と太陽と水があれば、無限に続けることができる。一方、工業は、すでに有るものを作りかえたり、組み立てたり、するだけである。

手伝いが終わったあと、先方の実家に2家族でバーベキューパーティーを楽しみ、収穫したての新米を現物支給してもらった。新米が、おいしかったことはいうまでもない。

私にとっては、日本史を体感させてもらった、貴重な経験でもあった。

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