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2006年10月の記事

2006年10月31日 (火)

ウオーキング減量作戦、10月経過報告

先日、減量がようやく▲3kgを達成したとの記事を書いたが、10月、1ヶ月間の報告を簡単に。

10月1日の朝の計量では、体重は69.4kg。その後、12日に68.9kgと久々に68kg台を記録、17日はブログでも書いたように68.5kgまで進む。その後、68kg台前半のゾーンで一進一退を繰り返しながら、25日は67.9kg、昨日(30日)には68.0kgを記録したが、昨日の夜、久々に外でお酒を飲んだせいで、若干戻りがあり今朝は68.3kgだった。それでも、月初から見れば▲1.1kgの減量を確保。今後も毎月▲1kgは達成したいところだ。

この間、記録を会社に歩数計を着けて行くのを忘れた1日を除き、30日間1日1万歩の目標はクリアした。多い日には17000歩以上歩いたこともある。一方、29日(日)は、ずっと家にいて出歩くことが少なく、夜になっても8000歩台だったので、寝る前に家の近くを10分ほど歩き回って、なんとか数字を確保したこともある。

実感としては、67kg台定着は目前という感じなのだが、いつ完全に68kg台から抜けだすことができるか、ここ数日が勝負だろう。さて11月1日は何kgからスタートすることになるのか、明朝の計量が楽しみである。

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2006年10月28日 (土)

金融内部監査士試験の結果通知届く

先週、土日に受験した金融内部監査士試験の結果が届いた。

実は、昨日の昼に配達に来ていたようなのだが、結果通知ということで配達記録郵便で送られてきていたので、妻もパートに出ていて家に誰もいなかった昨日は、受け取れず、「郵便物お預かりのお知らせ」だけが置かれていた。昨日の再配達可能な時間中には、郵便局とうまく連絡が取れず、結局、今朝9時の配達だった。

ハサミで封筒の端を切り、中身を取り出すと、A4で三つ折りの紙が5枚。結果通知と思われる少し厚め紙を取り出す。用紙の一番下に【合格結果・履歴】との表示があり、枠が4つ。<Part1>合格、<Part2>合格、<Part3>合格、そして最も自信のなかった<Part4>はと見ると合格。
「やったー!」と思わずガッツ・ポーズをしてしまった。

途中まで、それなりに準備はしていたものの、9月半ば以降は仕事の方が忙しく、試験のための勉強はほとんどできていなかったし、試験本番でもPart4の金融論・経営管理のところは、相当怪しかっただけに、とにかく「よかった」のひと言である。

次は、内部監査関連資格の本丸「公認内部監査人(CIA)」の試験が、11月の15日(水)、16日(木)の2日間にわたってある。こちらも、4科目あるのだが、金融内部監査士試験よりさらに長く、1科目3時間半。前回以上に、体力と集中力が求められることになる。なんとか、この勢いで、一気に乗り越えたい。

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2006年10月27日 (金)

日本ハムファイターズ、日本シリーズも札幌で胴上げ

日本ハムファイターズが、札幌ドームで中日ドラゴンズに3連勝し、私が応援する福岡ソフトバンクホークスを破ったパ・リーグのプレーオフに続き、本拠地札幌で胴上げを実現した。

初戦こそ、中日のエース川上憲伸に破れたものの、第2戦を八木で取り返したあと、札幌に戻ってからは、球場全体がファイターズのファンで埋め尽くされる中、まさに我が家に帰った感じで伸び伸びとプレーし、今日の第5戦も1点リードされていたものの、見ていて負けるようには見えなかった。

セギノールの2ランホームランで逆転した後、8回裏には、稲葉が中日の息の根を止めるダメ押しの2ランホームラン。試合は、ほぼここで決まった感じで、あとは、現役最後の試合となる新庄の引退セレモニーであった。打席の入り、涙流す新庄。さらに、9回表のセンターの守備についても新庄の涙は止まらない。最終打者の打ったボールがレフトを守る森本のグラブに収まり、ゲームセット、日本一が決まった時、森本はセンターの新庄に駆け寄り抱き合っていた。そして、極めつけは、チームで最初に胴上げされたことだろう。

大リーグから戻り、北海道の日本ハムに入って3年。自らの宣言通り満員となった札幌ドームでの日本一を決めた日本シリーズ第5戦が現役最後の試合となり、そこで胴上げまでされるのだから、やはり大した選手だと思う。

我がひいきのソフトバンクホークスの王監督のオーラも、今年ばかりは新庄選手にかなわなかったと言うことだろう。
しかし、来年こそは、沢村賞投手となったエース斎藤和巳を中心にした強力な投手陣と出戻り小久保(多分)を加えた打撃陣で、福岡ソフトバンクホークスに優勝してもらいたい。

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2006年10月26日 (木)

おかげさまで2万アクセス達成

昨日、このブログも20,000アクセスを突破した。訪問してくださる方のおかげだ。

ブログを始めたのが、今年の2月26日。1万アクセス達成が8月17日。その間、ほぼ半年。2万アクセスが10月25日なので、この間、2ヵ月足らず。

ココログのアクセス解析の中に、期間を区切って、どの記事へのアクセスが多かったかわかる機能がある。過去4ヵ月、過去30日、過去7日、昨日、今日という区間で確認できる。
最も長期間のトレースができる過去4ヵ月(7月1日~10月25日)を見てみると、

この間の総アクセス数:14,789件
(1)気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態(8月23日):3011件
(2)トップページ:1532件
(3)気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2(9月5日):722件
(4)ゲド戦記第5巻『アースシーの風』(7月9日):448件
(5)今日からココログのメインテナンス(7月11日):359件

がベスト5である。

河合隼雄文化庁長官の容態関連の記事へのアクセスが圧倒的に多い。最初は、そんなに多くの人からアクセスしてもらおうと思って書いた記事ではなかったが、ヤフーやグーグルの検索で上位に表示されるようになって、たくさんの人に訪れてもらっている。8月の脳梗塞で入院という報道以降、病状の変化についてのニュースがほとんどなく、多くの河合隼雄ファンがその最新の動向を気にしているという事だろう。それにしても、9月に小坂憲次文科相(当時)がお見舞いに行ったというニュース以降、全く何の動静も伝えられず、その後の推移が、本当に気がかりである。

ゲド戦記の関連記事も、多くアクセスしてもらっており、他のブログで取り上げてもらったりもした。やはり、映画が公開された影響は大きく、映画公開直後の7月最終週や8月はアクセスが多かった。特に、映画の内容について、ゲド戦記ファンからは「原作とかけ離れている」、宮崎駿ファン・ジブリファンからは「宮崎駿監督の息子の吾朗監督は、所詮父親にはかなわない」といった手厳しい批判が上がり、また原作者のル=グウィン女史の自ら「この作品は自分の原作とは違い、宮崎吾朗の作品だ」とやや批判的なコメントを出した。一方、擁護する意見もそれなりに多く、ブログ上でも賛否両論が百出している状態で、依然として評価は分かれるところだろう。私は、擁護派のつもりだが、批判するにせよ、擁護するにせよ議論する人は、原作を読み、映画を見て議論して欲しい。

個人のささやかなブログという小さな窓を通しても、世の中で何が関心を持たれているの透けて見えるような気がする。

これからも、3万アクセスに向けて、書き続けたい。

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2006年10月25日 (水)

地図を旅する

私は地図を見るのが好きだ。家の中では、リビングの壁には世界地図と日本地図、自分の住んでいる市の地図、東京近郊の鉄道の路線図を貼っている。(以前は東京都の地図も貼っていたが、いつの間にかはがれてしまった)
また、1階と2階のトイレとパソコンの置いてある「自分の部屋」には、大手家電量販店B社が毎年配っている日本地図カレンダーが貼ってある。

いつでも、見える場所に地図を貼ることで、ニュースなどで、知らない地名が出てきたりしたら、すぐ調べるくせをつけてほしいという子供たちへの教育的効果を考えているのと、常に自分が現在いる場所(ポジション)を意識しておいて欲しいという象徴的な意味もこめているいるつもりだ。

実は、合併前に私が勤務していた会社が、日本地図のカレンダーを作っていた。(日本中の企業を対象にしたビジネスをしている会社だというアピールだったのだと思う)
縦長でコンパクトにまとまっていたので、以前は、毎年このカレンダーを貼っていたのだが、合併で旧来のそれぞれ会社のカレンダーは見直しになり、今や何の変哲もない名画カレンダーなってしまった。何か代わりになるものはないかと探していたら、ちょうど入れ替わるようにB社が日本地図カレンダー配り始めた。(東京から始まったB社もカレンダーを配り始めた頃から全国展開が本格化したような気がする)

これがなかなかの「スグレモノ」で、日本全図として日本全体が鳥瞰できることはもちろん、暦の方は、私が前回の記事でも話題にした二十四節気や月の満ち欠けがマークで記してるほか、時間と十二支、西暦・和暦・年齢の早見表があったり、最近では日本にある世界遺産が記されたりと盛りだくさんで、見ていて飽きない。

少し時間の余裕があると、これまで旅したルートを目でたどり、地図の上で旅を再現したり、まだ訪ねたことのない土地の地名を眺めては、いずれ旅してみようと思ったりするのが、ささやかな楽しみである。日本各地を、家族を連れて、旅したが、それでも、まだまだ未知の土地の方が多い。地図を眺めていると、日本の広さを改めて実感する。

10月も下旬になり、そろそろ、B社でも2007年のカレンダーを配り始める頃ではないだろうか。2007年版では、どんな情報が追加されるのかも楽しみである。

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2006年10月24日 (火)

季節の言葉、「霜降(そうこう)」

先週は秋晴れの日が続いたが、日曜日の午後から、東京は冷たい雨が降っている。昨日10月23日は、暦の上では、二十四節気の「霜降(そうこう)」。

秋も深まって、霜が降りるころだという意味です。
北海道や北日本なら当てはまるかもしれませんが、実際に霜が降りるのはまだまだ先のことかもしれませんね。
(中略)
でも、秋の深まりを実感できる頃であるということに変わりはないと思います。
(山下景子著『美しい暦のことば』インデックスコミュニケーションズ)

いつのまにか日が暮れるのも早くなり、夕方5時頃には日が沈み暗くなっている。秋も終わりがけで、冬はもう目の前というところだろう。

二十四節気も、気候の変化を感じると書いているが、前回書いたのは「白露(はくろ)」(草に降りる露が寒さで白く見える、今年は9月8日、記事は9月15日)、それ以降「秋分」(9月23日)、「寒露(かんろ)」(野草に宿る冷たい露、10月8日)。そして、昨日の「霜降」。露が霜に変わり始めたところで、次の二十四節気は「立冬」(11月7日)、季節の言葉の方でもいよいよ冬の到来だ。

日中の気温の変化も激しいので、体調を崩しやすい時期でもある。今年は、受験生を抱えているので、家族全員早めににインフルエンザの予防接種に行って、風邪やインフルエンザの予防には気をつけなくてはいけない。

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2006年10月23日 (月)

『病気にならない生き方』読了後の食生活の変化

10月の上旬に『病気にならない生き方』を読んでから、妻の賛同と協力も得て、少し食生活を変えてみた。

①始めたこと
・朝、起きた後に、水(ミネラルウオーター)を500cc程度飲む
・ご飯を白米から雑穀入りに変えた
・煮豆(黒豆)を必ず食べるようにした
・蛋白源は、魚を多めに

②やめたこと
・牛乳、ヨーグルト、緑茶はいっさい飲食せず
・コーヒーも、特別な理由がなければ飲まない
・肉類も、なるべく少なくする

合わせて、食生活ではないが、平日の朝、
・6時頃から家の近所を10分ほど歩く、
・6時半からラジオ体操をする
の2つを始めた。

一度に生活を変えたので、何が要因になっているのか、よくわからないが、従来、便秘気味になることがよくあったのが、すっかり影を潜めてしまった。気のせいか、最近は食べたものの消化のスピードが以前より速くなっているように思う。ミラクル・エンザイムという酵素の原型のようなものが本当にあるのかどうかはわからないが、作者であるドクター新谷が勧める食生活は、私の体にはあっていたようだ。

食生活の変化の好影響は、継続中の減量にも現れてきていて、体重も昨日(22日)の朝の計量では、68.1kgまで減ってきた。68kg台前半のレベルに定着してきた感じなので、今月中には、一気に67kg台突入を目指したい。

病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-
病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-

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2006年10月22日 (日)

金融内部監査士試験終了、人事を尽くして天命を待つ

金融内部監査士の2日間、計4科目12時間にわたる試験が終了した。試験内容は、監査に関することが中心だが、最後の4科目めは、金融論・経営管理とのタイトルで、金融論、ミクロ・マクロ経済学、経営学、会計学等の試験。いわば、監査の背景にある企業経営についての常識とも言える問題。
事前の準備では、会計学関連が、昔税理士試験を受けた時に「財務諸表論」を1年間勉強したのであまり悩まずにすんだものの、ミクロ・マクロの経済学などは、ほとんど心得がなく苦労した。

他の3科目は、実務の問題が中心なので、基本の考え方をベースに判断する問題だが、これだけは、ある程度覚えておかなくては解けない問題が80問のうちの半分以上だった。全く予想外の出題もあったり、予想していてもうろ覚えだったりしたものも多く、他の3科目は途中退室できたが、最後だけは3時間フルに使った。4択の文章の論理矛盾から正解が導き出せないかと、無い知恵を絞ったが、結局、自信を持てない答えが25問くらいはあった。

問題用紙も回収されるので、受験票の裏に走り書きしてきた答えで、自己採点してみると、そのうち8問は明らかに間違い、一方7~8問は正解。残り10問程度は判然としない。正解と思っている中にも、間違いがある可能性を考えれば、合格できたとしても誤答の許容範囲20問ギリギリの線というところだ。

マークシートの試験ということもあってか、結果は10月中にわかるとのこと。これまでは、科目合格の場合、次回(半年後)の試験で、不足の科目を再受験して合格すればよかった。しかし、この11月から金融内部監査士に代わる資格として公認金融監査人(CFSA)という国際資格試験が開始されるため、今回の全科目合格者も含め従来の金融内部監査士は申請すればCFSAにスライド認定されるものの、今回1科目でも落とせば、試験内容が変わるため、科目合格はCFSA試験には引き継がれない(唯一のメリットは、CFSA試験を割安で受験できるのみ)。

一発勝負のラストチャンスに賭けたわけだが、こうなったのも自分の勉強不足によるものだからしかたない。あとは「人事を尽くして天命を待つ」の心境で待つしかない。何とか、全科目合格していますように…。

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2006年10月21日 (土)

金融内部監査士試験初日、求められるのは体力と集中力

今の部署に転勤して最もハードな仕事が2週間続き、昨日ようやく終了。期間中は、自分の仕事と周りのメンバーの世話役の二足のわらじで、一日の仕事が終わるとぐったり。家に帰って、食事をすると、急にまぶたが重くなり、ブログを書く間もなく、眠ってしまう日が続いた。

この土日くらいゆっくり休みたいところだが、今日と明日は、以前から申し込んでいた金融内部監査士の試験。試験は4科目あり、今日と明日の午前と午後にそれぞれ1科目ずつ行われる。

試験は、各科目とも全て四択で80問、時間は1科目3時間(180分)。1問2分で解いて、20分余る計算だ。この試験は以前受けた通信教育の理解度を試す試験なのだが、過去の試験問題は全く公開されておらず、モデル問題と言われるものが、4科目で40問公開されているだけだ。ほとんど出題傾向がつかめないまま、本番に臨まざるを得ない。

実際に受けてみると、ほとんどの問題は4つの文章があり、4つの中から正しいものを選ぶもの、誤っているものを選ぶもの、4つを組み合わせたものから正しいものを組み合わせたものを選ぶもの、誤っているものの組み合わせを選ぶもの等、問題の指示が都度、異なっており、そこを読み間違えないようにしなくてはならない。知識として覚えていれば解けるという問題は、全体の20%程度で、大部分は、原理・原則、基本の考え方をベースに、それぞれ書かれていることが正しいか誤っているか判断を求めるものだった。

いざ問題を解いてみると1問2分まではかからずに進められたが、読み間違いや漏れのないようにと、神経を集中して文章を読まなければならないので、1時間もすると頭がぼーっとしてくる。80問とにかく答えを記入し終わると、見直しもする気がしないほどだった。どことなく、朦朧とした頭をなんとか、叩き起こし、見直しをし、それでも3時間は席に着いている気力はなく、1科目めは2科目めの準備もあり、2時間で、2科目めも2時間半で解答用紙を提出し、試験会場から退席した。

合格レベルは正答率75%と言われている。80問中60問が、ボーダーライン。2科目とも、2、3問は全くお手上げも問題があったが、なんとか、正解60問は確保できているのではないかと思うのだが、どうだろうか。

明日も、残り2科目。80問×2科目が待っている。この試験は、次回から制度が変わる関係で、今回4科目全てに合格しなくては意味がない。求められるものは、原理・原則の理解はもちろんだが、それ以上に体力と集中力という気がする。なんとか、朦朧としてしまう頭に鞭打って明日も、頑張らねば…。

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2006年10月17日 (火)

ウオーキング減量作戦、3kgの壁に到達

札幌の思い出は折りに触れて書くとして、今日は、減量のその後の経過について。先週は週半ばの12日(木)から、13日(金)・14日(土)と3日連続して朝の計量で68.9kgを記録、ようやく68kg台も定着してきたと安心して土曜日に少し油断して食べ過ぎたのと、ウオーキングもギリギリ1万歩と少なかったこともあって、15日(日)の朝には、一気に69.8kgまで逆戻りしてしまった。

これはまずいと、日曜日は意識して歩き、食べる量も控えたところ、23日(月)の朝には500g減って69.3kg。月曜日は、職場の中での移動も多く、また昼食のカロリーを抑えめにした効果も出たのか、今朝(24日)は一気に68.5kgまで体重が落ちた。ここのところ、68.9kgが一つの壁になていたので、ようやくそれが突破できた。
また、今回の減量を思い立ち、真剣に取り組み始めたのが9月の中旬で、その時ピークの体重が手元の記録では71.5kg(9月12日)だったので、ようやく、最初の目標である3kg減量に達したことになる。

体重の減り方も、波があって、いくら頑張ってもなかなか減らない時期があるかと思えば、今朝のように一気に1kg近く減ることもある。こういう一気に壁を乗り越えるブレイクスルーがあると、ヤル気もでて、減量に弾みがついていく。

これで弾みをつけて、4kg、5kgと減らしていきたい。しかし、そう決意した矢先、今日は夕方、職場で飲み会に誘われた。飲み食いとも控えたつもりだが、さて明日の朝の計量でどうでるだろうか。自己管理力が問われるところだ。

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2006年10月15日 (日)

札幌の思い出(2)-単身赴任の食生活

札幌での1年間は、初めての単身赴任生活だった。

最大の問題は食事。定番メニュー程度であれば料理もできないわけではないので、基本的に毎晩自炊するつもりで、単身生活をスタートした。週末に、まとめてご飯を炊き、余ったものは、1食分ずつ専用の容器に入れて冷蔵庫で冷凍し、平日の夕食の際に解凍するようにしていた。

朝も、最初はベーコンと目玉焼き、コーヒーにトーストといった食事をして出勤していた。
夕食も最初は、食材を選んで調理していたが、だんだん面倒になる。1人分の量ぴったり作るのはなかなか難しい。たとえ、食事の量がうまく作れても、食材の方は余ってしまい、数日すると腐ってしまうので、食べる分より捨てる分の方が多くなることもあった。
そのうち、ご飯は冷凍食品の炒飯やピラフになり、おかずも冷凍食品、スープや味噌汁もお湯をかければ飲める袋入りのものに変わっていった。また、加工済みの袋入りのスパゲッティソースを狩ってきて麺だけ茹でることも多かった。
最後には、それも面倒になり、通勤の帰り道にあるセブンイレブンの弁当を買って帰ることも多くなった。朝も、カップ入りのヨーグルトに、ロールパンに牛乳程度の粗食になっていった。また、土日の朝は、雪が消えた初夏以降は、歩いて5分のところにマクドナルドにあったので、7時前には、朝マックを食べに行っていた。

最後は、随分粗食になってしまった感があるが、時には外食もしていた。徒歩圏に、マクドナルドの他に、ロイヤルホストと味の民藝、豚丼の店があり、たまに利用した。また、土日の昼は車で足を伸ばし、びっくりドンキーやヴィクトリアなどいうハンバーグレストランで、食事をしていた。今思えば、決して健康に良い食生活とはいえない。

料理をするプロセスを趣味として楽しめる人を除いては、単身赴任生活で自炊を続けるのは難しいというのが、私の1年間を総括した結論である。

情報として書いておくと、札幌でおいしかったのは寿司である。回転寿司でも、ネタが良いのでおいしい。家族が東京から来ると、寿司を食べに行きたがった。特に、子どもたちは、富山で5年すごしたため、やはりネタの良い富山の回転寿司を食べ慣れたせいで、東京の回転寿司はまずくて食べられないと言っており、富山にひけをとらない札幌の回転寿司に行きたがった。
また、札幌ならではのご当地料理がスープカレーである。さらさらのカレースープの中に、茹でたジャガイモやニンジン、チキン、ゆで卵などが、丸のままあるいは半切り程度の大きさで、添えてある。熱いカレースープを飲みながら、丸ごと野菜をかじりながら、ライスと一緒に食べる。寒冷地札幌だからこそ広まった、体を温める料理だと思った。

乱れた食生活をしていたせいもあり、雪が積もり始めると行動範囲が制約され運動不足になりがちなことも重なり、63kgで札幌に赴任した私は、半年で65kgまで太ってしまった。

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2006年10月14日 (土)

札幌の思い出(1)-長くて終わらない冬

2年前の今日、私は高校時代の同級生数人から送別会をしてもらっていた。仕事で、札幌への転勤が決まり、東京最後の夜だった。翌朝の羽田空港から飛行機で千歳に向かった。

その1年後の昨年の今日は、東京に戻ることがすでに決まっており、後任者との引き継ぎも終え、借り上げマンションに戻り、東京から手伝いに来てくれた妻と一緒に、1年間暮らした部屋を引き払うため、荷造りを始めたところであった。たった1年でも、荷物はそれなりにあり、家財道具のほとんどは、東京に持って帰っても置く場所もないので、後任者や職場の若手など、もらい手を探し、引き取ってもらうことした。15日は荷造りと掃除に明け暮れ、16日に千歳から東京に戻って来た。早いもので、あれから1年たってしまった。

札幌で、まず驚いたのは早く来て終わらない冬である。赴任後、取引先に挨拶回りをすると、異口同音に、これから寒くなるばかりで、悪い時に転勤してきたと言われる。まだ、秋も半ばではないかと思っていたが、10月末には札幌市内にも雪が降った。最初の雪は、数日で消えたが、11月半ばに降った雪は融けることなく根雪になり、長い冬が始まった。それからは、身の回りに常に雪のある生活である。雪が降らない日も、気温が低いので雪は融けない。

私が札幌にいた1年間で冬休み(年末・年始)、春休み、夏休みの3回家族を札幌に呼んだ。冬休みが雪の中なのは当然と思っていたが、春休みには春の気配が感じられるのだろうと考えていた。しかし、現実は全く違っていた。
札幌発で支笏湖、苫小牧、登別、洞爺湖・有珠山・昭和新山、羊蹄山麓の真狩(まっかり)村、余市のニッカ工場、小樽から札幌へ戻る2泊3日の小旅行をしたが、太平洋岸の苫小牧から登別にかけての海沿いこそ雪を見ずに走れたものの、ロープウェイで登った有珠山の上は雪に覆われていたし、内陸になる真狩は、まだ数十㎝から1m近い雪が残っていた。北海道の3月下旬から4月上旬はまだ冬なのだ。

結局、札幌の街中から完全に雪が融けてなくなったのは、ゴールデンウイークの頃だった。半年の冬があり、残る半年を、短い春と夏と短い秋で分け合っているのが、札幌の1年だった。

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2006年10月13日 (金)

ウオーキング減量作戦の応援団

友人からメールをもらった。彼も、最近になって万歩計を着けて、歩数を計り始めたとのこと。私のブログの記事も読んでくれているようで、「お互い少しずつ頑張ろう」とのコメントももらった。

私の現状は、というと、3連休前に68.9kgと久しぶりの68kg台を記録したと書いたが、連休の最終日に家族で外食したこともあって、再び69kg台半ばまで戻ってしまった。それを昨日までの平日の3日間で、極力歩いて戻し、今朝はなんとか再び68.9kg。明日の朝、どういう数字になるだろうか。再び、週末で増えないように、気を付けなくてはならない。

メールをもらった友人に負けないように、頑張らなくては。減量作戦の最初の一里塚である▲3kgの壁を早く突破したい。

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2006年10月12日 (木)

ソフトバンクホークス逆転優勝ならず、日本ハムファイターズが札幌で胴上げ

プロ野球のパ・リーグのプレーオフ第2ステージは、北海道日本ハムファイターズが2連勝し、25年振りにパリーグを制し幕を閉じた。

福岡で育ち、ホークスを応援していた私としては、至極残念。特に、ホークスは2年連続、レギュラーシーズンを1位通過しながら、プレーオフで苦杯をなめ続けており、今年はその借りを返してほしいという思いで見ていた。
今年はレギュラーシーズン3位ながら、第1ステージでは、初戦で西武のエース松坂に完封を許したものの、その後、打撃爆発で連勝し、逆転突破。その勢いで、優勝もと期待したが、しかし、昨年まではなかった1位通過チームに無条件で与えられる1勝のアドバンテージを、日本ハムが有効に使い、札幌ドームで決着させた。福岡に戻れば、地元ファンの声援の中、また違った結果もあったのではないかと思うが、力及ばなかった。

これでホークスが優勝すれば、春のワールドベースボールクラシック(WBC)での王ジャパンの奇跡的優勝、夏の甲子園での早実の後輩達の優勝に続き、「王監督の1年」というストーリーができると思ったが、王監督のオーラも、日ハム新庄のシーズン早々からの「今年で引退」宣言には及ばなかったようだ。

しかし、北海道民・札幌市民は喜んでいるだろう。かつて、地元チームのない札幌は、巨人の独壇場だった。それが、2004年に日ハムがフランチャイズを札幌に移し、最初の年の3位となり、プレーオフに進出したこともあり、確実にファンは拡大。いまや、地元でも巨人ファンより日ハムファンが多いと言われている。
特に、今年は、高校野球で3連覇目前の駒大苫小牧が敗れ、意気消沈していたところに、レギュラーシーズン途中までは全く目立たなかった日ハムが、終盤に追い込みをかけ、1位通過目前の西武をかわして1位となり、プレーオフでも2連勝で、札幌ドームで胴上げを実現したことで、日ハムファンならずとも、気をよくしていると思う。

かくいう私も1年の単身赴任の札幌生活の中で、知り合いに誘われて1度だけ、札幌ドームに日ハムの試合を見に行ったことがある。相手はどこのチームだったか(確かセパ交流戦で、巨人以外)、日ハムが勝ったのかどうかも覚えていないが、試合後のファンサービスで、スタンドにぬいぐるみやサインボールが投げ入れられた際、たまたま伸ばした手でサインボールをつかむことができた。それも、骨折の手術をしたあとの十分動かない左手でである。そのサインボールは、その後、本社への出張の機会か何かで家に戻った際に長男にプレゼントし、父親として格好をつけることができた。

日本シリーズでは、サインボールをくれた日ハムを応援することにしよう。

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2006年10月10日 (火)

冬物への衣替え

昨日までの3連休、金曜日の雨模様がうそののような秋晴れの3日間で行楽日和、運動会日和の3日間だった。
気象庁発表の東京の気象データを見ても、6日(金)が平均気温17.0℃(最高18.5℃)、平均湿度87%だったのに対し、3連休はいずれも平均気温で21℃前後(最高はいずれも25℃台)、平均湿度も7日51%、8日38%、9日42%と快適だった事がわかる。

我が家は、高校受験を控えた次女の学校説明会(7日)と模擬試験受験(8日)があり、特に遠出をするでもなく、家で3日間過ごした。

なんとなく、やらなくてはと思いながら先延ばしにしていた冬物への衣替えを行い、それを機会に、もう来年は着ないだろうと思われる夏物の衣類を処分、あわせて各部屋の大掃除をして、買い込んだ本のうち、もう読まないと思われる物を、3日で200冊くらいブックオフへ売りに行った。長男の部屋は、少々模様替えもして、家族全体で気分一新して、3人の子どもの進学に備える態勢を整えたというところだ。あとは、本人たちの頑張ってもらうしかない。

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2006年10月 8日 (日)

『病気にならない生き方』を読んで

昨日のTBSの『王様のブランチ』で紹介されていた『病気にならない生き方』(新谷弘実著、サンマーク出版)を読んだ。昨年7月に発行され、すでに120万部を超えるベストセラーになっているから、今頃、読んでいる私は少々時代に遅れているかも知れない。

病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-
病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-

著者の新谷弘実氏は、内視鏡による胃腸の診断、手術を専門とする医師で、日米で30万人の胃腸を見てきたという。内視鏡から見た胃腸の様子(胃相、腸相)を見れば、健康状態もわかると言い、これまで健康に良いとされてきた食品や食習慣が、胃相・腸相から見る限り、かえって胃や腸に負担をかけ、健康を損なっているものが多いとして、次のような事例を「間違った健康法」として、例示している。

・腸のために毎日ヨーグルトを食べるようにしている
・カルシウム不足にならないよう、毎日牛乳を飲んでいる
・果物は太りやすいので控え、ビタミンはサプリメントでとるようにしている
・太りすぎないよう、ごはんやパンなどの炭水化物はなるべく控えるようにしている
・高タンパク低カロリーの食事を心がけている
・水分はカテキンの豊富な日本茶でとるようにしている
・水道水は残留塩素を抜くため、必ず一度沸騰させてから飲んでいる
(『病気にならない生き方』27ページ)

著者の論点はいくつかあるが、私なりに咀嚼すれば、一番大切なことは、

○「人間の体の働きに重要な働きをするエンザイム(酵素)を無駄遣いしない」ということである。必要な酵素が不足すると体の機能が正しく働かず、体調がおかしくなる。そのため、酵素を消耗しないような生活習慣を身につけ、酵素を補うような食生活をすることが、太く長く生きる子方法としている。

○また、現代の医学・医療は、各臓器毎に専門化・細分化され、人間の体を全体として見ていないので、特定の臓器にいい効果があるとしても意味がない。その結果、特定の臓器に有益ということで、健康法・健康食品と言われているものがあるが、体全体で見れば、別のところに悪影響を及ぼしているものもある。

例えば、ヨーグルトについては、ヨーグルトを毎日食べている人に腸相のいい人はいないということを述べている。また、牛乳は、消化に悪く、牛乳の乳脂肪分は酸化して過酸化脂質となり、体に悪影響を及ぼすとしており、健康にいいとされてきた、牛乳・乳製品の摂取によってアレルギー体質になる可能性が高いことが明らかになっているという。

私は、ヨーグルトが好きで、ほぼ毎朝食べていたので、さすがに、これはショックだった。しかし、たしかに、ヨーグルトを常食しているわりには、便秘気味のところがあって、意識して食物繊維をとるようにしていた。

これまでの自分自身の食の経験の中で、なんとなく辻褄が合わないとおぼろげに思っていたことが、酵素(エンザイム)という一貫した視点で整理されていて、納得することの多い内容だった。これまで、いかに、胃や腸に悪い食事ばかりしてきたかと思うとゾッとする。

著者の勧める理想の食事は、植物性の食べ物(穀類・豆類・野菜・果物・海草類)を85%、動物性の食べ物(肉・魚)を15%である。
これから我が家の食生活を、少し食生活を変えて行こうと、妻と話している。

このブログを読まれた方にも、一読を勧めたい本である。

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2006年10月 7日 (土)

ウオーキング減量作戦のその後・その2

今朝の体重測定で、久しぶりの68kg台である68.9kgを記録。何ヶ月ぶりだろうか。朝、着替えた後の着衣の状態で計っても70.3kgで、ピーク時、裸で71kg台半ばまであったったことを思えば、明らかに減ってきた。

いくら減量のためとはいえ、食事の時に出されたものを残すということが、できない性分なので、カロリーの取りすぎになりがちだ。減量が長続きするかどうかは、1日100gでもいいから減っていることが目に見えて、わかることである。ウオーキングで、少しでもエネルギー消費をすることは大事だが、この2週間ほどの計測では、1万5000歩歩いても消費カロリーは400カロリー程度である。やはり、食べ物で取るエネルギーの量をコントロールすることも重要だ。

職場の食堂は、定食と麺類しかメニューがなく、カロリー調整のためか、麺類のほうでもメインの麺の他に、定食と同じ食材を使うコロッケや餃子が付いたりして、結局、麺も定食もカロリーに大した差がなくなってしまうのだ。先週からは、配膳してもらう時に、自分で多すぎると思った時は、食堂の人に、最初から皿に盛らないように頼んで、自分なりに調整することにした。これなら、残さなくてよい。

先週の金曜日からは、本社での仕事が始まった。本社の食堂はメニューも多く、高カロリーから低カロリーまで選べるので、500カロリー台の定食を選び、そこにワカメの酢の物を付けることにしている。今月は、あと2週間本社で仕事なので、その間にいっきに68kg台半ばまでもっていき、それを維持しながら、さらに67kg台を目指したい。

その前に、まず、この3連休で暴飲暴食を控え、少なくとも今朝の68.9kgを維持しなくては…。

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2006年10月 6日 (金)

年齢の法則

10月に入って、ひとつ年をとり、46歳になった。

このブログでも、何回か紹介している『こころを癒すと、カラダが癒される』(チャック・スペザーノ&ジェニー・ティスハースト著、伊藤由紀子訳、株式会社ヴォイス)の中に「年齢の法則」という章がある。

チャック・スペザーノ博士のこころを癒すと、カラダが癒される

年齢の意味
 来るべき年に、あなたはどんなチャレンジに直面するのでしょうか。その年のあなたのプロセス全般に流れている力学的な法則は何でしょう。ある年齢で起きた出来事にはどんな意味があったのでしょうか。
 年齢は、その年の個人的なプロセスの手がかりを与えると同時に、過去に起きた出来事についても何らかの洞察を与えてくれます。あなたが、今人生のどの辺にいるのか、またその1年で癒さなければならない事柄は何なのかを示してくれる指標なのです。
(『こころを癒すと、カラダが癒される』146ページ)

年齢を表す数字にはそれぞれ、意味があるという。例えば、今の自分の年齢に関わるところを見てみると

[4]
4は慢性的な問題を癒しながら、人生に新しい土台を築く時という意味です。この年のチャレンジは障害を突き抜ける道を探し、人生を築く礎石としてそれを使うということです。
[5]
5は変容のシンボルです。人生に変容をもたらすチャンスがあり、新しい生き方を始める年です。この年のチャレンジは、変化に伴う独特の居心地の悪さにあります。変容とは、一度受け止めさえすれば、底抜けの楽しさとユーモアをもたらしてくれます。
[6]

6は成熟、ハート、そして感情的な勇気を表します。この年には、人々に自分自身を与えることに専念することが求められます。また、家族のダイナミックスや深い感情を扱う年であるかもしれません。この年のチャレンジは、深い感情や家族のテーマにはまってしまい、成熟することに対し消極的になることです。

40代は、いわば「人生の新たな土台を築く10年」ということになろう。「4」が重なる44歳では、自分の場合、単身赴任先で転倒して肩を骨折し、3週間入院するという大きな事件があった。
昨年10月、45歳で、東京に戻り新しい職場となり、まさに新しいチャレンジの1年だった。

そして46歳。たしかに、この1年で家族の境遇は大きく変化する。計算したわけではないのだが、3人の子供が3年毎に生まれたこともあり、今高3(長女)、中3(次女)、小6(長男)のそれぞれが、今の学校を卒業し、次のステップへ進むことになる。これから1年は、3人がなんとか自分なりの次のステージを見つけて、一歩踏み出し、その新しい環境に慣れてもらわなくてはならない。その過程で、父親の役目も求められると言うことだろう。

『こころを癒すと、カラダが癒される』という本は、特に根拠が示されず結論だけが書かれているので、時に「まゆつば」もののように感じることもあるのだが、不思議と自分のことについては、当たっていることも多く、何かあると開いて見ている。

「人々に自分自身を与えることに専念する」というほど大げさではないが、明日は、次女が志望する高校の説明会に付き合うことになっている。

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2006年10月 4日 (水)

ウオーキング減量作戦のその後

最近、以前より仕事が忙しくなって、家に帰って来て、夕食を食べると、ブログに向かって書き出す前に眠たくなって、ひと休みと思いふとんに横になったら最後、目覚めたら翌朝ということが、何日か続いてしまった。

歩数計(万歩計)をつけて1日の歩数を計りだして10日ほど。今のところ、1日1万歩の目標はクリアしている。仕事のある日は、通勤の行き帰り、職場の中での移動などで9000歩程度は歩いているようで、起床後に家の周りを10分程度散歩する(約1000歩)、会社の帰りに最寄り駅の日本橋でなく2駅先の竹橋まで歩く(+2000歩程度)などのちょっとした工夫で、あまり無理をせずに1万歩は歩けるようになった。むしろ、会社のある日は、体に少し負荷をかけエネルギーを消費するという意味では、1万5000歩を目標にした方が効果がありそうだ。(ちなみに今日は、朝の散歩と帰りの竹橋までの歩きを行って現在約1万4400歩である。)

問題は、むしろ休日で、この間の日曜日は、早朝ウオーキングで、近くの私鉄の駅まで片道30分弱を往復したものの、あとは家にいたこともあって、夕方、妻の買い物に付き合ってスーパーの中を歩き回ってようやく、ギリギリで1万歩を確保した。

問題の体重の方は、9月末の職場に打ち上げでの飲み食いも何とか乗り越え、69kg台は維持しているものの、69kg台のレンジの中で、推移しており、今朝も69.4kgだった。前回、10kg減量した時も、最初の3kgを減らすのが大変で、3kg減った後は、順調に減りだした覚えがある。ここが、踏ん張りどころだろう。
1日100gでもいいから減らすこと、その小さな積み重ねしかない。

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2006年10月 1日 (日)

『偽りの大化改新』を読んで(3)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら、同(2)はこちら

「日本書紀」では、なぜ、中大兄皇子が、「乙巳の変」とその後の「大化改新」の主役として描かれているのか。そして、そこに描かれる中大兄皇子像には、一貫して冷徹・冷酷はイメージがつきまとう。

中村説の結論を言えば、それは、壬申の乱で、兄天智天皇(中大兄皇子)の子である甥・大友皇子(弘文天皇)を滅ぼした天武天皇の意向が働いたというものである。

孝徳崩御後の歴史の通説を眺めてみると、655年の斉明女帝重祚後、中大兄皇子は孝徳朝から引き続き皇太子として母である女帝を助け政治を行ったことになっている。
まず、658年には、謀反の疑いで孝徳の子である有間皇子絞首される。
朝鮮半島では、中国の大国・唐の影響で風雲急を告げており、660年には百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。日本と関係の深い百済を救済すべく、斉明女帝と中大兄皇子は、前線基地として九州・朝倉に都を移し派兵の準備をするが、斉明女帝は661年朝倉宮で崩御する。
663年には、百済復興に派遣した大軍が、白村江の戦いで大敗する。唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州に水城や大野城を築き、国防政策が進められたと言われる。そして、中大兄皇子が天智天皇として即位するにのは、斉明女帝崩御から6年後の667年である。都を琵琶湖に近い近江大津京に定めた。
661年~667年は称制と言われ、天皇不在のまま、中大兄皇子が政治を行ったことになっている。669年には、中臣鎌足が没し藤原姓と大職冠を受け、671年には天智天皇自身も崩御する。天智は、死の間際に弟大海人皇子を呼び、後事を託し後継として皇位につくことを求めるが、それが自分を葬るための罠と察知した大海人皇子は固辞し、出家し吉野に隠遁したことになっている。
翌672年には、大海人皇子が吉野を出奔して挙兵し(壬申の乱)、おそらく天皇に即位済みだあったと思われる大友皇子を滅ぼし、自ら天武天皇として即位する。

天武天皇は、兄天智天皇・甥大友皇子(弘文天皇)父子から、武力で皇位を簒奪したことになる。「日本書紀」は、簒奪王朝である天武朝が自らの簒奪を正当化するために書いたというのが『偽りの大化改新』で語られる中村説である。

正当化するためには、天智(中大兄皇子)は、滅ぼされても仕方ない冷酷・冷徹な人物に仕立てる描く必要があり、「乙巳の変」で蘇我入鹿殺害に直接手を下したり、自分の義父である蘇我倉山田石川麻呂や、孝徳の子有間皇子を容赦なく次々と葬る人物だったと描いたとしている。

具体的に確たる証拠があるわけではないが、歴史が常に勝者によって描かれることを思えば、「乙巳の変」以降の中大兄皇子についての「日本書紀」の不自然な記述は、「乙巳の変」の首謀者が軽皇子(孝徳天皇)だとと考えると、かなりの部分で、より合理的な説明ができるように思う。

孝徳崩御後の疑問点について、いくつか整理して、締めくくりとしたい。

①孝徳朝において皇太子であったはずの中大兄皇子が次期皇位に即位せず、なぜ皇極前女帝が斉明女帝として重祚したのか?

これについては、中村説は、孝徳朝において中大兄皇子は皇太子ではなかった解釈している。皇太子としたのは、「日本書紀」編纂時の潤色で、孝徳の行った古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂の殺害を、傀儡孝徳の下で実権を握った皇太子の行ったことにして、中大兄皇子のせいにしたのであろう。
実際には中大兄皇子は皇太子ではなかったので、皇極が重祚して再び大王(天皇)となることで、初めて、次期皇位継承者として意味での皇太子になったと言えよう。

②では、斉明女帝崩御後、中大兄皇子は、何故すぐに即位せず、6年間も称制を続け、6年後にようやく即位したのか?

実は、これについての明確な回答は、『偽りの大化改新』にも示されていない。「大化改新」にまつわる数々の疑問をそれなりに辻褄を合わせて、解き明かしてきた著者も、ここだけは、うまい解釈が浮かばなかったのだろうか。

一部には、万葉集等の記載から、6年間の称制の間うち665年までは、中大兄皇子の妹で孝徳の皇后だった間人大后が女帝として即位していたという説もあるようだ。658年に有間皇子を葬った後も、旧孝徳大王(天皇)派がそれなりの勢力を持っていて、中大兄皇子がすぐ即位できるような状況にはなく、妥協案として孝徳の皇后の間人を女帝としたのだろうか?しかし、それであれば、間人の崩御後の665年には、即位しても良さそうだが、そうもなっていないし、すでに女帝の前例もあるので、間人だけが女帝であったのに「日本書紀」に書かれないということも考えにくいので、間人即位はなかったのではないかと思う。

私の意見は、唐・新羅連合による百済滅亡という、外交上の大事件を目の当たりにし、即位の儀式・手続を行っている余裕もなかったということではないかと思う。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)
偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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『偽りの大化改新』を読んで(2)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら

大化改新の時代、あるいはそれ以前の時代の皇位継承というのは、候補者の殺し合いという面がある。
長子相続という明確なルールがあるわけではなかったので、大王家の血筋に連なる成人男子は、皇位継承の候補者となり、そこに大臣・大連などの豪族が外戚として絡み、自分の血縁に連なる候補者を皇位につかせようと画策する。
誰もが納得するような候補者、あるいは、それを支援し擁立する他の豪族ににらみの効く強力な勢力の後ろ盾があればよいが、大王家一族や豪族勢力の中で利害対立があり、候補者が複数名おり調整がつかない時には、最終的に暗殺や謀反の疑いで誅殺する等により、候補者が絞られ、生き残ったものが大王となるということが行われてきた。時には、大王そのものが暗殺されたことさえある(592年崇峻天皇暗殺事件)。

中村修也著『偽りの大化改新』(講談社現代新書)では、乙巳の変に先立って起こった、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件がすでに乙巳の変の伏線と考える。(遠山美都男『大化改新』中公新書もほぼ同様の立場)

舒明大王(天皇)の死後の642年、自らも敏達帝の孫である皇后の宝王女が皇位を継承し皇極女帝となる。
中村説では、この即位は皇極が自分の子である中大兄皇子が成人して皇位につけるようになるまでの中継ぎとして即位したと解釈している。この時点での、皇位継承候補者は、用明帝の孫(聖徳太子の子)で舒明即位の際に、皇位を争ったとされる山背大兄王、そして舒明と蘇我馬子の娘である法提郎媛の子である古人大兄王子、舒明と皇極の子である中大兄皇子、そして皇極の弟である軽皇子である。

皇極にとっては自分の夫と皇位を争った山背大兄王は目障りな存在、また蘇我氏の血が流れているとはいえ、蘇我蝦夷が舒明即位を支持した際に、それと争った山背大兄王は蘇我氏としては御しにくい存在であり、皇極女帝・蘇我氏の思惑が一致して、643年、両者の合意の下、あるいは皇極の指示により山背大兄王は滅ぼされたのではないかと中村説では考えられている。この時の軽皇子の意向はよくわからないが、自分のライバルが減ることに特段異をとなえることもなかったであろうとも言っている。

山背大兄王の排除は、舒明後の後継選びの第1ラウンドである。残った3人のなかで、政治的な力では蘇我氏を背景にした古人大兄皇子、血統という点では父・母ともに大王である中大兄皇子が有利であろう。軽皇子は、蘇我氏の後ろ盾もなく、現女帝の弟とはいえ、最も不利な立場である。
当時の大王即位の条件は、成人することであると言われており、626年生まれとされる中大兄はまだ未成年。古人大兄皇子の年齢は不詳とのことであるが、あるいは未成年であったのかも知れない。
しかし、古人が中大兄より年上で、先に成人し、当時の一大勢力である蘇我氏が推し古人が皇位につけば、すでに中年の軽皇子には即位の目はなくなる。

そこで、軽皇子がそのような不利な局面を打開するために、阿倍氏をはじめ蘇我氏本家以外の豪族と組んで仕掛けた一発逆転のおおわざが「乙巳の変」であるというのが、中村説のアウトラインである。古人大兄皇子を支える蘇我氏の領袖である蘇我入鹿を排除することなく、彼の即位はありえなかったのだろう。(遠山美都男『大化改新』中公新書では、古人大兄皇子自身も「乙巳の変」での殺害対象だったのではないかとしている)

ただ、『偽りの大化改新』では、「乙巳の変」では、皇極退位も軽皇子側のシナリオに含まれていたと考えているが、軽皇子グループと皇極女帝=中大兄皇子母子との間で何のやりとりもなかったのか、皇極=中大兄母子には一切知らされずに行われたことなのかは、わからない。皇極は、軽皇子が当時の軍事豪族である阿倍氏などと組んでいることを知らされ、共通の敵とも言える古人大兄皇子排除のため、乙巳の変の決行とその後の退位に、例えば孝徳の次の中大兄皇子を皇位につけることを条件に、渋々かも知れないが同意していた可能性はあるように思う。

しかし、即位後の孝徳は、大王の権力を発動し、古人大兄皇子を殺害(645年)や中大兄皇子の義父にあたる蘇我倉山田石川麻呂を自刃に追いやった(649年)のは、前回述べた通りである。

孝徳朝の晩年の653年、中大兄皇子と皇極前女帝が、孝徳の皇后で中大兄皇子の妹である間人王后、弟の大海人皇子や公卿大夫・百官人を連れ、孝徳が定めた難波京から飛鳥の地に戻ってしまうという「日本書紀」の記述があり、通説では、大化改新の主役である中大兄皇子が傀儡である孝徳大王を見限って、自立し、都の役人達もそれに従った事になっている。
中村説では、孝徳と皇極・中大兄母子が不和になり、皇極一行が飛鳥に帰ったことは事実だろうとしているものの、公卿大夫や役人まで連れて、難波京に傀儡孝徳を置き去りにしたかのような記述は、当時の大王の権力からすればありえないとし、「日本書紀」による潤色と解釈している。

これ書きながら、私なりに考えた仮説は、孝徳と皇極・中大兄母子は、「乙巳の変」にあたり、相応の協力関係にあったものの、皇極側はあくまでも次の皇位継承者として中大兄皇子の立場を確実にすることが条件だったのではないかということだ。

しかし、軽皇子は大王となると自らの立場第一となり、中大兄皇子の後援者であったであろう義父の蘇我倉山田石川麻呂を排除するという挙にでる。これは、いわば、皇極・中大兄母子との袂を分かち、自分と孝徳朝最初の左大臣阿倍内麻呂の娘小足媛との間の子である有間皇子を皇位後継者にすえようとする政治環境作りだったのではないか?
そうなれば、孝徳と皇極・中大兄母子との関係強化のための政略結婚として孝徳に嫁したと思われる皇極の娘間人大后の役目も必要なくなり、母皇極と一緒に飛鳥に帰ったのであろう。
あるいは、皇極・中大兄母子は、このまま、難波京に留まっていれば、いつ孝徳派にいつ命を狙われるかもしれないという、身の危険を感じての。飛鳥逃避行だったのかもしれない。

この不和の時点での双方の力関係は、よくわからないが、孝徳大王は翌654年に崩御する。『偽り大化改新』では、「日本書紀」の記述をもとに、自然死か病死であろうとしているが、前年の経緯からすれば、皇極・中大兄母子側による暗殺の可能性も否定できないのではないだろうか?

孝徳後は、皇極が斉明女帝として重祚する。孝徳に簒奪された皇位を再び取り返したことになる。

また、長くなってしまったので、なぜ「日本書紀」が中大兄皇子を「乙巳の変」の主役として描いたのかは、さらに次回に検討したい。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)
偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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