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2006年10月 1日 (日)

『偽りの大化改新』を読んで(2)

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大化改新の時代、あるいはそれ以前の時代の皇位継承というのは、候補者の殺し合いという面がある。
長子相続という明確なルールがあるわけではなかったので、大王家の血筋に連なる成人男子は、皇位継承の候補者となり、そこに大臣・大連などの豪族が外戚として絡み、自分の血縁に連なる候補者を皇位につかせようと画策する。
誰もが納得するような候補者、あるいは、それを支援し擁立する他の豪族ににらみの効く強力な勢力の後ろ盾があればよいが、大王家一族や豪族勢力の中で利害対立があり、候補者が複数名おり調整がつかない時には、最終的に暗殺や謀反の疑いで誅殺する等により、候補者が絞られ、生き残ったものが大王となるということが行われてきた。時には、大王そのものが暗殺されたことさえある(592年崇峻天皇暗殺事件)。

中村修也著『偽りの大化改新』(講談社現代新書)では、乙巳の変に先立って起こった、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件がすでに乙巳の変の伏線と考える。(遠山美都男『大化改新』中公新書もほぼ同様の立場)

舒明大王(天皇)の死後の642年、自らも敏達帝の孫である皇后の宝王女が皇位を継承し皇極女帝となる。
中村説では、この即位は皇極が自分の子である中大兄皇子が成人して皇位につけるようになるまでの中継ぎとして即位したと解釈している。この時点での、皇位継承候補者は、用明帝の孫(聖徳太子の子)で舒明即位の際に、皇位を争ったとされる山背大兄王、そして舒明と蘇我馬子の娘である法提郎媛の子である古人大兄王子、舒明と皇極の子である中大兄皇子、そして皇極の弟である軽皇子である。

皇極にとっては自分の夫と皇位を争った山背大兄王は目障りな存在、また蘇我氏の血が流れているとはいえ、蘇我蝦夷が舒明即位を支持した際に、それと争った山背大兄王は蘇我氏としては御しにくい存在であり、皇極女帝・蘇我氏の思惑が一致して、643年、両者の合意の下、あるいは皇極の指示により山背大兄王は滅ぼされたのではないかと中村説では考えられている。この時の軽皇子の意向はよくわからないが、自分のライバルが減ることに特段異をとなえることもなかったであろうとも言っている。

山背大兄王の排除は、舒明後の後継選びの第1ラウンドである。残った3人のなかで、政治的な力では蘇我氏を背景にした古人大兄皇子、血統という点では父・母ともに大王である中大兄皇子が有利であろう。軽皇子は、蘇我氏の後ろ盾もなく、現女帝の弟とはいえ、最も不利な立場である。
当時の大王即位の条件は、成人することであると言われており、626年生まれとされる中大兄はまだ未成年。古人大兄皇子の年齢は不詳とのことであるが、あるいは未成年であったのかも知れない。
しかし、古人が中大兄より年上で、先に成人し、当時の一大勢力である蘇我氏が推し古人が皇位につけば、すでに中年の軽皇子には即位の目はなくなる。

そこで、軽皇子がそのような不利な局面を打開するために、阿倍氏をはじめ蘇我氏本家以外の豪族と組んで仕掛けた一発逆転のおおわざが「乙巳の変」であるというのが、中村説のアウトラインである。古人大兄皇子を支える蘇我氏の領袖である蘇我入鹿を排除することなく、彼の即位はありえなかったのだろう。(遠山美都男『大化改新』中公新書では、古人大兄皇子自身も「乙巳の変」での殺害対象だったのではないかとしている)

ただ、『偽りの大化改新』では、「乙巳の変」では、皇極退位も軽皇子側のシナリオに含まれていたと考えているが、軽皇子グループと皇極女帝=中大兄皇子母子との間で何のやりとりもなかったのか、皇極=中大兄母子には一切知らされずに行われたことなのかは、わからない。皇極は、軽皇子が当時の軍事豪族である阿倍氏などと組んでいることを知らされ、共通の敵とも言える古人大兄皇子排除のため、乙巳の変の決行とその後の退位に、例えば孝徳の次の中大兄皇子を皇位につけることを条件に、渋々かも知れないが同意していた可能性はあるように思う。

しかし、即位後の孝徳は、大王の権力を発動し、古人大兄皇子を殺害(645年)や中大兄皇子の義父にあたる蘇我倉山田石川麻呂を自刃に追いやった(649年)のは、前回述べた通りである。

孝徳朝の晩年の653年、中大兄皇子と皇極前女帝が、孝徳の皇后で中大兄皇子の妹である間人王后、弟の大海人皇子や公卿大夫・百官人を連れ、孝徳が定めた難波京から飛鳥の地に戻ってしまうという「日本書紀」の記述があり、通説では、大化改新の主役である中大兄皇子が傀儡である孝徳大王を見限って、自立し、都の役人達もそれに従った事になっている。
中村説では、孝徳と皇極・中大兄母子が不和になり、皇極一行が飛鳥に帰ったことは事実だろうとしているものの、公卿大夫や役人まで連れて、難波京に傀儡孝徳を置き去りにしたかのような記述は、当時の大王の権力からすればありえないとし、「日本書紀」による潤色と解釈している。

これ書きながら、私なりに考えた仮説は、孝徳と皇極・中大兄母子は、「乙巳の変」にあたり、相応の協力関係にあったものの、皇極側はあくまでも次の皇位継承者として中大兄皇子の立場を確実にすることが条件だったのではないかということだ。

しかし、軽皇子は大王となると自らの立場第一となり、中大兄皇子の後援者であったであろう義父の蘇我倉山田石川麻呂を排除するという挙にでる。これは、いわば、皇極・中大兄母子との袂を分かち、自分と孝徳朝最初の左大臣阿倍内麻呂の娘小足媛との間の子である有間皇子を皇位後継者にすえようとする政治環境作りだったのではないか?
そうなれば、孝徳と皇極・中大兄母子との関係強化のための政略結婚として孝徳に嫁したと思われる皇極の娘間人大后の役目も必要なくなり、母皇極と一緒に飛鳥に帰ったのであろう。
あるいは、皇極・中大兄母子は、このまま、難波京に留まっていれば、いつ孝徳派にいつ命を狙われるかもしれないという、身の危険を感じての。飛鳥逃避行だったのかもしれない。

この不和の時点での双方の力関係は、よくわからないが、孝徳大王は翌654年に崩御する。『偽り大化改新』では、「日本書紀」の記述をもとに、自然死か病死であろうとしているが、前年の経緯からすれば、皇極・中大兄母子側による暗殺の可能性も否定できないのではないだろうか?

孝徳後は、皇極が斉明女帝として重祚する。孝徳に簒奪された皇位を再び取り返したことになる。

また、長くなってしまったので、なぜ「日本書紀」が中大兄皇子を「乙巳の変」の主役として描いたのかは、さらに次回に検討したい。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)
偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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コメント

拓庵さん、TBありがとうございました。

なるほど、「乙巳の変」は暗黙の了解のもと孝徳帝が主役で、即位後中大兄皇子との亀裂が生じる・・・という事ですね。
よく理解できました~。

私、個人的には、HPでも書いていますが、崇峻帝~「乙巳の変」までは、蘇我氏が王であったのでは?と考えています。
「古事記」「日本書紀」は、蘇我王朝を歴史から消し去り、天皇家を万世一系につなぎあわせる目的の藤原氏による創作がかなり含まれているのではないかと解釈しています。

数学のように、はっきりした答えのない物に、色々な側面から謎に迫って行く事こそ歴史の醍醐味だと思っています。

別の観点からのワクワクするような謎解きに、心躍らされました~ありがとうございます。

投稿: indoor-mama | 2006年10月 1日 (日) 16時59分

indoor-mamaさん、再びコメントありがとうございます。
蘇我氏の存在について日本書紀の記述もなんともすっきりしないところがあり、それなりの潤色をしているのだと思います。
聖徳太子が行ったとされることは、実は蘇我馬子の業績だという説も聞いたことがあります。
一度、ゆっくり考えたいと思います。
なお、開設されているHPの方にリンクを張らせていただきました。京都、奈良、時間とお金があれば、何度でも訪ねたいところです。

投稿: 拓庵 | 2006年10月 1日 (日) 23時47分

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