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2006年10月 1日 (日)

『偽りの大化改新』を読んで(3)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら、同(2)はこちら

「日本書紀」では、なぜ、中大兄皇子が、「乙巳の変」とその後の「大化改新」の主役として描かれているのか。そして、そこに描かれる中大兄皇子像には、一貫して冷徹・冷酷はイメージがつきまとう。

中村説の結論を言えば、それは、壬申の乱で、兄天智天皇(中大兄皇子)の子である甥・大友皇子(弘文天皇)を滅ぼした天武天皇の意向が働いたというものである。

孝徳崩御後の歴史の通説を眺めてみると、655年の斉明女帝重祚後、中大兄皇子は孝徳朝から引き続き皇太子として母である女帝を助け政治を行ったことになっている。
まず、658年には、謀反の疑いで孝徳の子である有間皇子絞首される。
朝鮮半島では、中国の大国・唐の影響で風雲急を告げており、660年には百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。日本と関係の深い百済を救済すべく、斉明女帝と中大兄皇子は、前線基地として九州・朝倉に都を移し派兵の準備をするが、斉明女帝は661年朝倉宮で崩御する。
663年には、百済復興に派遣した大軍が、白村江の戦いで大敗する。唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州に水城や大野城を築き、国防政策が進められたと言われる。そして、中大兄皇子が天智天皇として即位するにのは、斉明女帝崩御から6年後の667年である。都を琵琶湖に近い近江大津京に定めた。
661年~667年は称制と言われ、天皇不在のまま、中大兄皇子が政治を行ったことになっている。669年には、中臣鎌足が没し藤原姓と大職冠を受け、671年には天智天皇自身も崩御する。天智は、死の間際に弟大海人皇子を呼び、後事を託し後継として皇位につくことを求めるが、それが自分を葬るための罠と察知した大海人皇子は固辞し、出家し吉野に隠遁したことになっている。
翌672年には、大海人皇子が吉野を出奔して挙兵し(壬申の乱)、おそらく天皇に即位済みだあったと思われる大友皇子を滅ぼし、自ら天武天皇として即位する。

天武天皇は、兄天智天皇・甥大友皇子(弘文天皇)父子から、武力で皇位を簒奪したことになる。「日本書紀」は、簒奪王朝である天武朝が自らの簒奪を正当化するために書いたというのが『偽りの大化改新』で語られる中村説である。

正当化するためには、天智(中大兄皇子)は、滅ぼされても仕方ない冷酷・冷徹な人物に仕立てる描く必要があり、「乙巳の変」で蘇我入鹿殺害に直接手を下したり、自分の義父である蘇我倉山田石川麻呂や、孝徳の子有間皇子を容赦なく次々と葬る人物だったと描いたとしている。

具体的に確たる証拠があるわけではないが、歴史が常に勝者によって描かれることを思えば、「乙巳の変」以降の中大兄皇子についての「日本書紀」の不自然な記述は、「乙巳の変」の首謀者が軽皇子(孝徳天皇)だとと考えると、かなりの部分で、より合理的な説明ができるように思う。

孝徳崩御後の疑問点について、いくつか整理して、締めくくりとしたい。

①孝徳朝において皇太子であったはずの中大兄皇子が次期皇位に即位せず、なぜ皇極前女帝が斉明女帝として重祚したのか?

これについては、中村説は、孝徳朝において中大兄皇子は皇太子ではなかった解釈している。皇太子としたのは、「日本書紀」編纂時の潤色で、孝徳の行った古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂の殺害を、傀儡孝徳の下で実権を握った皇太子の行ったことにして、中大兄皇子のせいにしたのであろう。
実際には中大兄皇子は皇太子ではなかったので、皇極が重祚して再び大王(天皇)となることで、初めて、次期皇位継承者として意味での皇太子になったと言えよう。

②では、斉明女帝崩御後、中大兄皇子は、何故すぐに即位せず、6年間も称制を続け、6年後にようやく即位したのか?

実は、これについての明確な回答は、『偽りの大化改新』にも示されていない。「大化改新」にまつわる数々の疑問をそれなりに辻褄を合わせて、解き明かしてきた著者も、ここだけは、うまい解釈が浮かばなかったのだろうか。

一部には、万葉集等の記載から、6年間の称制の間うち665年までは、中大兄皇子の妹で孝徳の皇后だった間人大后が女帝として即位していたという説もあるようだ。658年に有間皇子を葬った後も、旧孝徳大王(天皇)派がそれなりの勢力を持っていて、中大兄皇子がすぐ即位できるような状況にはなく、妥協案として孝徳の皇后の間人を女帝としたのだろうか?しかし、それであれば、間人の崩御後の665年には、即位しても良さそうだが、そうもなっていないし、すでに女帝の前例もあるので、間人だけが女帝であったのに「日本書紀」に書かれないということも考えにくいので、間人即位はなかったのではないかと思う。

私の意見は、唐・新羅連合による百済滅亡という、外交上の大事件を目の当たりにし、即位の儀式・手続を行っている余裕もなかったということではないかと思う。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)
偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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コメント

こんにちは。またまたTBありがとうございます。

今や、聖徳太子・架空の人物説もあるくらいですからね。
私も、蘇我氏の偉業はすべて聖徳太子の偉業。
暗殺など、悪いことはすべて蘇我氏のせいにされている、と思っています。

蝦夷も入鹿も、差別的名前に変えられたまま、1500年経った今でも、本名で呼ばれる事すらありませんしね。
お気の毒です・・・。

★HPへリンクしていただいてありがとうございます。
これから、紅葉の美しい季節です。
京阪奈の旅に少しでも参考になれば光栄です。

投稿: indoor-mama | 2006年10月 2日 (月) 15時32分

はじめまして。トラックバックを辿ってお邪魔いたしました(失礼ながら、同時刻に3件もあったので最初はスパムかと思いました)。

改新の功労者・中大兄は、なぜすぐに即位しなかった(できなかった)のか?
本書は、孝徳朝が中大兄らの傀儡政権だったとする従来の見方を、あっさりと否定しているのが新鮮でした。

…それでもまだスッキリしませんね。
私もindoor-mama様と同じような考えを持っています。

投稿: M.M(仮名) | 2006年10月16日 (月) 00時24分

中村「偽りの大化改新」166頁に韓国史との類似の指摘があります。また、友田吉之助先生は編纂当時に採用した史料に1年または2年の干支の違いがあったと言われてます。つまり、鹿島昇が大化改新でのクーデター部分は新羅のヒドンの乱(AD643)のことと言っている点に近い話になってくるのでは?

投稿: ドラドラ | 2013年2月13日 (水) 19時27分

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古代史最大のクライマックス、乙巳の変(大化の改新)。 中大兄王子と中臣鎌足が、独裁者・蘇我入鹿を暗殺し、様々な改革を行った…ことになっています。 しかしながら、大化の改新にはおかしな点も数多くあります。 ・功労者・中大兄王子は、なぜ大王になれなかったのか ・..... [続きを読む]

受信: 2006年10月16日 (月) 00時25分

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