生き方線
近づけど決して交わらざる思い人の心は放物線に似る
(松村由利子『薄荷色の朝に』40ページより)
放物線という表現が、思っている人に近寄れそうで、近寄れないもどかしい思いを表現しているように思う。
私も、昔から人の生き方って、一本の線のようなものではないかと思ってきた。日本だけでも1億人以上の人がいて、その中のほんの一握りの人と、学校や、職場や、地域、家庭で関わって生きている。しかし、未来永劫ずっと関わり続けるわけではない。
学生時代に親しくしていた友人とも、社会に出れば、別れ別れになる。それは、自分の人生、生き方という線が、学生時代にはその友人の描く人生、生き方の線と寄り添い、交わっていたものが、社会に出ると離れて別々になってしまうということだ。そのまま、離ればなれになりもう二度と交わらない線もあれば、いつかまた交わる線もある。
また、今は全く関わりのない線と将来どこかで交わり、それが自分の生き方に大きな影響を与えるかも知れない。
その生き方の線の描き方線も、きっと人によって様々で、いつも真っ直ぐな人もいれば、私など常に紆余曲折を繰り返しているように思う。中には、円を描いて、中心を離れることなく、同じところにとどまってしまっている線もあるように思う。
できれば、関わりたくない線もあれば、最初の歌のように関わりたいけれど、どうしても交わらない場合もあるだろう。関わりたくなくても、関わらざるを得ない線もあったりする。
その線の交わり方の偶然と必然に、いつも人生の不思議を感じるのだけれど、これまでは、どちらかといえば、流れに身を任せていて、自分から能動的に動いていたことは少なかったように思う。
しかし、40代も半ばを過ぎて、人生も半ばを過ぎたと考えた方が良い年になって、最近、思うのは、そろそろ、流れに任せているのではなく、どの線と交わるのか、自分で能動的に動いた方がいいのではないかという気がしている。
むしろ、関わりたい相手の生き方の線にこちらから近づいていく。昔の友人との再会であれ、新しい出会いであれ、待っているだけでは、いい出会いは生まれない。やはり、こちらから一歩踏み出す必要があるだろう。
しかし、そのためには、自分自身のレベルアップも必要である。相手にとって、関わって、なにがしかの意味のある線でなければ、いずれ相手が離れていってしまうだろう。あるいは、最初から相手にされず、こちらが放物線になってしまうかもしれない。
その中で、一つだけ心がけたいと思っているのは、どんなことがあれ、いろいろな人の生き方の線と交わりながら、少しでも前へ進むことである。
閉じた円になってしまって先に進めなくなったり、放物線になったまま、後戻りして帰って来れなくなることがないよう、曲がりながらも前に進む一本の線でありたい。
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