『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著)を読み始める
光文社新書の2月の新刊、『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著)を読み始めた。
著者の諏訪哲二さんは、1941年生まれで、埼玉県の県立高校の教諭を長く務め、2001年に定年退職された。現在「プロ教師の会」代表。この著書以外にも中公新書クラレで『オレ様化する子どもたち』など、教育現場での経験に根ざした教育論を提起している。
この本には、サブタイトルとして「教育再生を根本から考える」とあり、帯には、「学ぶ姿勢のない子ども、成績だけにこだわる親、学力以前に注目しよう」とのキャチコピーが書かれている。
まだ、全体の1/3ほど読んだところだが、著者は、現在の教育再生の動きは、単に「学力向上」偏重、教育への競争原理の導入に過ぎず、学校教育が本来持つべき「社会に適応できる人間形成の場」という意味あいが捨象されていると警鐘を鳴らしている。
これまで、読んだところでは、私自身、同意見であり、ひたすら学力向上だけに励み、いい学校に入ることで、人生の成功が全て約束されているかのような風潮の蔓延、お受験の過熱には首をかしげざるを得ない。
私自身の教育方針は、このブログを始めてすぐに一度書いたことがあるので、詳しくはそちら(2006年3月5日:受験生の親として考えること)をご覧いただきたいが、中学までは地元公立校で世の中の縮図の中でもまれ、高校も第一志望は公立高校、大学は行くか行かないかも含め本人が考える。親は、その選択をできる限りサポートするという方針である。
この教育方針が、本当にうまくいったのかどうかの答えは、私も妻も死に、3人の子ども達それぞれが、最期を迎える時に、それぞれで判断してもらうしかない。
簡単には答えの出ない問題だが、まず、親自身が「教育というものは、それだけ息の長い事業で、むしろ種をまいたら、適度な水と肥料はやるにせよ、芽が出て、花が咲くのをじっと待つしかないものだ」と考え腹をくくることだと思っている。
子供の人生は子供のもの、親が代わりに生きてやることはできない。ならば、3人の子が生き抜いていく力を身につけさせることしかないのではないか。もちろん、学力はその重要な要素の一つではあるが、それがすべてではない。学力競争が終わった後に始まる本当の競争の中で生き残っていく力を、どうやって身につけさせるかが本当の教育だと思う。
抽象的な議論になってしまったが、本書を読み終えたら、あたらめて整理したい。
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