『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著)を読んで思うこと-自立した個人になるために必要なもの
10日ほど前から読んでいる『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著、光文社新書)を読み終わった。
読み始めの時に書いた記事では、著者が学校の役割を「社会に適応できる人間形成の場」という形でとらえていると紹介したが、基本的に最後までその姿勢は貫かれている。
著者は、西欧近代では、絶対的な神の存在を前提に、市民社会における自立的な個人が形成され、その役割を負ったのが学校だと考えている。明治維新後の日本でも、明治日本は近代国家を形成するため、学校による教育制度を導入した。その市民社会における個人とは何かについて、今の日本の状況をどう捉えるのかを著者は次のように語る。
子ども(若者)がなかなか、おとなになろうとしない。子ども・若者たちは、なかなか一人前のおとな(社会人)にはなれないけれど、本人たちの意識では、すでに充分に一人前だと思っている。
一人前のありように対する認知レベルが違うのである。
近代的な個人である「私」(自己・「個」)の意識とは、「私」と同じ近代的人間である無数の「私」がこの社会には居て、「私」はその無数の「私」たちの一員であり、かつ、人類の一員であるという自覚(覚悟)であろう。
「私」独自の自己感情的なもの(「この私」の意識)は、「私」(自己)の社会的装いの下に隠して生き延びさせていかなければならない。一人ひとりが「この私」を表に出して生きていくわけにはいかない。
つまり、近代の「私」になることは大いなる跳躍であり、大いなる断念なのである。この跳躍と断念が日本の若者たちにはむずかしくなってきている。
(『なぜ勉強させるのか?』234~235ページ)
元高校の先生だけあって、倫理の教科書のような文章だが、自分が一番偉いし、自分は何でもわかっているという自分中心の「この私」でなく、自分も世の中の無数にいる「人」の一人に過ぎないことを、認め、受け入れるということが近代の「私」なるということであろう。
私がこれまで、考えてきたことと結びつければ、多くの「人」の中の自分に過ぎないことを受け入れている「私」が「大人」の姿であり、自分を客観視できず自分中心の「この私」に留まっている人は、たとえ何歳であっても精神的には「子供」ということだろう。
著者も次のようにも語る。
勉強することだけで、子どもを近代的個人にすることはできない。
勉強とは別のレベルで、「個」を自立させていかないと、単に成績がよくても、社会や自分に役立つ個人になることはできない。
そして、大事なことは、「個」が自立するということは、その「個」がひとりでは立てないということを自覚することなのである。
自立という言葉に反するような気もするかもしれないが、「私」は自立できないとわかったときが、自立のときなのである。
人間とはそういうものなのであろう。
(『なぜ勉強させるのか?』239ページ)
自分は、一人では生きていけない存在であることを悟った時、自立した個人となり、大人への一歩を踏み出すということだろう。
では、自立と勉強の関係については、稿を改めて次回、もう少し考えてみたい。
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