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2007年4月22日 (日)

短歌を「読む」ことと「作る」ことの間にあるものと『物語のはじまり』(松村由利子著)の位置づけ

NHK教育テレビで日曜日の朝の7時30分から放送されている「NHK短歌」を初めて見た。
4人の講師・選者が毎週交代で出演し、番組に応募された短歌の中から、優秀な作品を12首選んで紹介する。また、選外となった作品のうち、2首につき、添削指導も行われる。
今日の講師・選者は、『男たちの大和』の原作者でもある辺見じゅんさん(他の3人は、栗木京子さん、高野公彦さん、川野里子さん)。ゲストに作家の重松清さんが呼ばれていた。
最後の5分ほど、短歌の鑑賞ともいえるコーナーがあり、辺見さんは与謝野晶子とその短歌を取り上げていた。

短歌入門書といえる『短歌をよむ』『考える短歌』(以上俵万智著)、『短歌を楽しむ』(栗木京子著)の3冊を読み、今日の「NHK短歌」を見て感じたことは、短歌入門といものが「短歌を作る」ことが前提になっているということである。
『短歌をよむ』、『短歌を楽しむ』でも、まず短歌を読み、鑑賞するところから始まるのだけれど、後半は、短歌を作ることが語られる(『考える短歌』は最初から作歌指導)。
現在名のある歌人たちは、自ら短歌の読者からスタートし、作り手である歌人へ進んで行ったので、短歌の読者・ファンは必ず短歌を作るようになるという確信があるのかも知れない。

今日の「NHK短歌」にゲスト出演していた重松清さんが「短歌はむずかしいという印象があって、敬して遠ざけてきた」と語っていたが、短歌と無縁の生活をおくってきた一般人にとってはそれが偽らざる心境だろう。
今の短歌入門の形式は、小説家が小説は面白いから、どんどん書いてくださいと勧めているようなものである。小説なら、たくさんの読者がいて、書き手である小説家になるのは一握りなのに、なぜ短歌はいきなり作りましょうになるのだろうか。
短歌愛好者の裾野を広げるには、作らないけれど読むのは好きという、短歌ファンを増やすことも大切なのではないか。素晴らしい短歌にふれ、自分の心の歌として口ずさむようになれば、そのうちの何人かは、自分でも作ろう、詠んでみようとするだろう。

このブログで何回も紹介している松村由利子さんの『物語のはじまり』は、短歌を読むことに専念した入門書と言える。作者は決して読者に短歌を作ろうとは、呼びかけない。作者が願うのは、埋もれていく素晴らしい短歌を多くの人に知ってもらい、自らの人生の糧として味わい役立てて欲しいということだけである。

冒頭で紹介した「NHK短歌」の4月号のテキストには、山田富郎さんという歌人の「短歌時評」という書評のコーナーがある。書き出しは、こんな感じだ。

短歌評論の不振が言われるようになって久しい。その穴を埋めるように次々に出版されているのが、入門書や評伝や広義の短歌エッセイである。本格的な評論が少ないのは寂しいが、とりあえず、良否をしっかり見きわめたいとおもう。
(「NHK短歌」2007年4月号72ページ、山田富士郎「短歌時評」)

そして『物語のはじまり』について、次のように語る。

最近刊行された『物語のはじまり 短歌でつづる日常』(中央公論社)は、松村はじめての散文の著作である。副題の示す通り、(中略)十のキーワードに従って歌が選び出され、歌をめぐって文章が紡がれる。評釈付きの秀歌選集として読むことも可能だし、エッセイとして読むこと、一種の人生論として読むことも可能である。さらに言えば、結果として、質の高い短歌入門書ともなっている。読者を受容する幅の広い魅力的な本だと思う。
(「NHK短歌」2007年4月号72ページ、山田富士郎「短歌時評」)

この書評のコメントは、『物語のはじまり』の多様性を実によく表現していると思う。
歌人は、短歌の作り手、短歌の世界の住人として、歌人の気持ち、個々の歌人の人生・事情にも詳しい立場だ。『物語のはじまり』、歌人である作者が、水先案内人となって、現代の日本の優れた短歌を一般向けに紹介した著作と位置づけることもできるだろう。
私は、短歌を通じて、作者自身の人生を語ったエッセイという点で印象深く読んだが、改めて現代の秀歌選集として読み直す必要があると思っている。

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コメント

初めてお邪魔いたします。松村由利子さん「物語のはじまり」のファンです。

短歌の本は思い出したようにぽつぽつと読んでみたり,(今まででは集英社新書:篠弘「疾走する女性歌人」がお気に入り)ふだんは新聞歌壇で鑑賞して娘と感想を言い合ったりしている、短歌を読むのは好きだけど作らない(作れない)者です。

今回の拓庵さまのご意見には、わが意を得たりという気分です。歌を詠めたらいいなあとはもちろん思うのですが、初心者としては歌その意味を考えたり、他の読み取り方を知る場が欲しいなあと思うのです。

カルチャーセンターでの魅力的な先生方の講座でも、今まで知る限り必ず作歌・添削がついていて、まだ言葉の出ない私は二の足を踏んでしまいます。小説を読んだから小説を作れとはならない、そうですよねえ。
作歌にこだわらない短歌入門講座があったら受講したいと思っているのですが・・・。

投稿: hanamizuki | 2007年5月10日 (木) 00時20分

hanamizukiさん、コメントありがとうございました。

実はこの記事を投稿した後、私のような門外漢が、短歌の愛好者の事も何も知らずに、偉そうな事を書いてしまって、記事を読まれた短歌の愛好者の方から顰蹙を買っているのではないかと、気になっていました。

でも、hanamizukiさんに「わが意を得たり」と書いていただき、私のようにまず読むことを楽しみたい方もいると知り、私の方こそ、百万の味方を得た気分です。ありがとうございました。

松村さんだったら、作歌にこだわらない短歌入門講座を開いてくれるかも知れませんね。

投稿: 拓庵 | 2007年5月10日 (木) 00時38分

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