梅田望夫・茂木健一郎著『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を読み終わる
『フューチャリスト宣言』をようやく読み終わった。先々週の週末にはあらかた読み終わっていたのだが、その後、本がどこかに紛れてしまって暫く行方不明になっていたのを、探し出して読み終えた。
前回の読み始めの時の記事では、「はじめに」に茂木健一郎さんが書いている文章から一部引用して紹介したが、今回は「おわりに」の冒頭に梅田望夫さんが書いている文章が、この本の底流をなす思いを簡潔に述べていると思うので、紹介しておきたい。未来を語るフューチャリストへの強い志向性をお互いの共通点として発見したと紹介した上で、次のように語る。
では私たちは、何のために未来を見たいと思うのか。
「自分たちはいま何をすべきなのか」ということを毎日必死で考えているから、そのために未来を見たいと希求するのである。
私たちはいま、時代の大きな変わり目を生きている。それは、同時代の権威に認められるからという理由だけで何かをしても、未来から見て全くナンセンスなことに時間を費やして一生を終えるリスクを負っているということだ。
同時代の常識を鵜呑みにせず、冷徹で客観的な「未来を見る目」を持って未来像を描き、その未来像を信じて果敢に行動することが、未来から無視されないためには必要不可欠なのである。
(『フューチャリスト宣言』207ページ)
未来の変化の方向を予測し、その上で現在の自分が何をすべきか考える。2人の対談での未来は遠く22~23世紀あたりまでを見据えているが、それは、これからの5年、10年を考える上でも変わらない物差しのように思う。
以前も書いたかも知れないが、5年前、10年前と比較して現在までの変化の度合いを考えれば、これから5年後、10年後もこれまでの変化と同じ程度に変化しても驚くには当たらない。
いまや携帯電話は、生活のなくてはならない必需品だが、10年前は、まだPHSも存在し、携帯電話のサービス会社は地域ごとにサービスを行っていた。パソコンによるインターネット接続も、電話回線を通じたダイヤル・アップ接続が主体であった。
TV放送までもが携帯電話で見ることが出来るようになると、10年前、一般人の何人が予測しただろうか。
それでありながら、同時代の常識に縛られて、あるいはそれにすがって生きている人が多いように思う。技術が進歩すれば、確実に生活環境が変わり、常識も変化する。廃れる産業がある一方、急成長する産業もある。なぜ、現在の常識を疑い、自分なりに未来を予測しないにだろうかと、あまのじゃくでへそ曲がりの私はいつも考えてしまう。
私たちの世代は、同時代の常識で生きても大した痛痒も感じないだろうが、私たちの子どもの世代には、間違いなく時代は変わり、常識も変わる。現在の常識など役に立たないだろう。
ならば、自ら時代の変化を読み取れる眼力と、それに適応できる柔軟性を身につけさせるしかない。
大人の安心のためでなく、子どもの未来のために、我々の世代が「フューチャリスト」にならなければならないのだろう。
本書では、巻末に梅田さんと茂木さんがそれぞれ中学生と大学生を相手にして語った講演録が付属しているが、暗にそのようなメッセージがこめられているのかも知れない。
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