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2007年7月14日 (土)

樋口裕一著『差がつく読書』から、傲慢な書評について

今日は、九州に上陸した台風の影響もあってか、東京も1日雨模様。しばらく前に買っていて読んでいなかった角川oneテーマ21の6月の新刊『差がつく読書』(樋口裕一著)に目を通してみた。

差がつく読書 (角川oneテーマ21)

著者の樋口裕一さんは1951年生まれ、京都産業大学の客員教授で、また自ら作文・小論文の通信添削塾を開いているという。かつては、年間365冊以上の本を読んでいたという読書通である。

著者は、読書を
①「実読」
→何か行動に結びつけるために知識や情報を得ようとして行う読書=何かに役立てようとする読書
②「楽読」
→ただ、楽しみのためだけに読む読書
の2種類に分け、「この二つの読書の両方があってこそ、人生は豊かになる」と語る(参照:『差がつく読書』12ページ)
それは、私も同感でまったく異論はない。

私がこの本で、特に紹介しておきたいのは、書評について述べた部分だ。「すべての本は良書である」と題した一節の中で次のように述べている。

本というのは、人間と同じようなものだ。(中略)どれもが、それぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。
それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは、悪いことではない。(中略)だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちもわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。
(中略)本をけなすと、自分が著者より偉くなったような気がするのだろう。(中略)
ただ、きわめて心外なのは、ないものねだりをしている書評があまりにも多いことだ。(中略)
知識のある人間が入門書を幼稚過ぎるとけなし、知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の身の丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。(中略)
本について、語るからには、あらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。」
(『差がつく読書』20~21ページ)

自らを神に見立てたような傲慢な書評は、読んでも得るところがない。
書評の書き手が、どのような視点でその本を読み、何が自分にとってためになったのか、どのような点に感動したのか…。そのような書評を多くの人が書いてくれれば、書評の読み手がその本に対する時の参考になる。
ネット上でも、そのような書評が、少しでも増えてほしいものである。

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書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
「河合隼雄さん」の検索でたどりついた者です。大人になってから児童書なるものにめぐり逢った、貴君よりちょっぴり年上の主婦です。
書評について 取り上げておられた本、著者は知りませんでしたが、日ごろ思っていることがそっくり書いてあったので思わず膝を打ちました。
本は人なりー 子どもと本をつなぐ活動を続けて20年、つくづく考えさせられることです。

投稿: ペミカン | 2007年7月20日 (金) 05時54分

ペミカンさん、コメントありがとうございました。

本に相応しい書評を書くということは、なかなか難しいことなのでしょうね。
私は、自分が読んで面白いと思い、人に紹介したいと思った本はブログで取り上げ、つまらなかった本、役に立たない本は取り上げないということにしています。

そうすれば、自分が神になったような傲慢な書評を書いて、読む人を不愉快にさせることだけは、避けられるのではないかと思っています。

投稿: 拓庵 | 2007年7月25日 (水) 22時53分

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