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2008年1月24日 (木)

「棋界のプリンス」故・真部一男九段の早すぎる死と中年クライシス

昨年(2007年)11月24日、将棋のプロ棋士真部一男八段が亡くなった。享年55歳(昭和27年=1952年生まれ)。その早すぎる死に、将棋連盟は同日付で九段を追贈した。そして、今日(2008年1月24日)は、将棋連盟で真部九段のお別れの会が開かれた日である。

将棋界には、プロ棋士が150名あまりいるが、その中で真部九段の名前は、高度成長時代に育ち、昭和40年代の終わりから50年代始めにかけての小学校高学年・中学校時代に将棋に関心を持っていた私には、特別な響きを持っている。

真部九段は昭和48年にプロ棋士である四段になっている。当時は、東京と大阪の東西の奨励会の半期毎の三段リーグの優勝者が四段に座を賭けて対決し、勝った方がプロ(四段)となり、負けた方は、再び三段リーグで次の機会を目指すという仕組みだった。ちょうど、私がプロの将棋に興味を持ち出したころ(昭和47年の後期)に真部三段は東京の奨励会の三段リーグを制し、大阪の覇者淡路仁茂三段(現九段)に勝ち、四段昇段(プロ入り)を決めた。
最近は、病いのせいかかつての面影はなかったが、四段昇段当時はちょうど20歳前後で、ハンサム、現代であれば「イケメン」と騒がれたに違いない、凛とした面立ちだった。子ども心に「カッコイイな」と思ったものである。
当時の将棋界は、大山・升田時代から、中原・米長時代に移り変わり始めた頃だったが、ハンサムな若手棋士は、当時のマスコミからもそれなりに騒がれ「棋界のプリンス」と呼ばれた。そして、中原・米長を継ぐ存在と目されていたように思う。

その後、C級2組を3年、C級1組を1年、B級2組を2年で通過、30代を前にB級1組七段となった。B級1組で8年奮闘したのち、昭和63年(1988年)37歳でA級棋士となる。
A級では大山康晴15世名人を破るなどの成果もあったが、2勝7敗に終わり1期で降級。翌期のB級1組では2位となり1期で復帰を果たしたが、2度目のA級でも1勝8敗に終わり、再び1期でB級1組に降級。
40歳で迎えた3度目のB級1組ではふるわず、2期連続で降級となり、2年でA級からB級2組に落ちている。

ちなみに真部七段がB級1組で足踏みをしていた8年間に、谷川浩司現九段、南芳一現九段の後輩2人がB級1組を駆け抜け、1度目のA級昇級時に同時に昇級したのが塚田泰明現九段、1度目の降級時に入れ替わりにA級棋士となったのが、高橋道雄現九段である。中原・米長時代に一石を投じ、一度はタイトルホルダーとなったこの4人が、中原・米長の次の世代としてA級に定着した。そして、真部八段(当時)とB級2組降級と入れ替わりに、B級1組に昇級したのが、羽生善治現二冠(当時21歳)であった。

各棋士の生まれ年を並べてみると

米長邦雄永世棋聖、1943年(昭和18年)
中原誠16世名人、1947年(昭和22年)
真部一男九段、1952年(昭和27年)
*******************
高橋道雄九段、1960年(昭和35年)
谷川浩司九段、1962年(昭和37年)
南芳一九段、1963年(昭和38年)
塚田泰明九段、1964年(昭和39年)
*******************
羽生善治二冠、1970年(昭和45年)

こうして見ると、真部九段が中原・米長時代の後継者となるには2人と年齢が近すぎたといえるだろう。
まして、1948年生まれの中原16世名人はまさに「団塊の世代」生まれ。真部九段はポスト「団塊」ともいえる50年代初め生まれ。常に、団塊の後を追わざるを得ない世代だった。
谷川世代も中原・米長時代にとって代わるまでには至らず、本当の世代交代は羽生世代の登場により、行われれたといえるだろう。

『将棋世界』2008年2月号では、真部九段追悼の特集が組まれているが、A級に昇級した頃から、「首が曲がらなくなる難病に悩まされた」とある。
私がこのブログで何回か取り上げている、精神的な問題が、病気やケガという形で身体に現れると説いた本『こころを癒すと、カラダが癒される』(チャック・スペザーノ他著)では、「首(Neck)」について次のように書かれている。

首の問題は頑固さの表れです。英語では「首が固い」と言えば、頑固者を指します。柔軟性がなく、頭で考えていることと実際の行動があまりに違いすぎ、一致しないことを表しています。(以下略)
(『こころを癒すと、カラダが癒される』216ページ)

『将棋世界』の特集では、多くの人が真部九段を天才肌、理論家と評している。その真部九段にとって、A級昇級は当然としても、1期でのA級降級は受け入れがたいことだったのだろう。周りも期待していたように、中原名人の後継者たるのは自分という意識は、ご本人にもあったっかもしれない。しかし、現実は、1度ならず2度目までも1期でのA級からの降級。理想と現実のギャップが埋めきれず、その負担が、首が動かないと言う形で表れたのではないかと思う。

それが、ちょうど40代の最初の頃。これは、真部九段にとって「中年期の危機(中年クライシス)」だったのではないだろうか。55歳での早すぎる死は、中年期に遭遇した理想と乖離する現実を受け入れがたく、理想と違う結果しか残せなかった自分にたいする許し難い思いが、自らを責め、命を縮めさせたのではないかと思う。最後には、肝臓を患った真部九段。上記の『こころを癒すと、カラダが癒される』では、肝臓の問題については次のように書かれている。

肝臓に問題がある時は、死の方向に向かっている表れです。さらに、どれくらいの自己攻撃や毒素、「ひどいストーリー」やシャドー(自分のいやな部分)を手放さずに、内面に持っているかの指標でもあります。
(『こころを癒すと、カラダが癒される』212ページ)

そんなに自分を責める必要はなかったのではないか…。
謹んで、ご冥福をお祈りしたい。合掌。

チャック・スペザーノ博士のこころを癒すと、カラダが癒される

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コメント

真部さんのファンの一人として颯爽とした姿を見つめていました。中原さんの次は,この人であると思っていたのです。訃報を聞いた時に真部さんより年上の世代で,芹沢さんという棋士を思い出しました。名人を目指しながらも時の中原名人には,敵わないとわかったとき苦い酒を浴びるがごとく飲んだという逸話を・・・真部さんも,彼のような辛い思いを↓一人であったのでしょうか。そして時代は移り変わり,羽生さんに対して同じ思いを抱きながら悔しさをかみ締めている棋士がいるのでしょうか。真部さんのご冥福を祈りたいと思います。 ~大山名人出身の倉敷市西阿知町より~

投稿: mac | 2008年2月16日 (土) 21時10分

macさん、コメントありがとうございました。

真部さんには、もう少し生きていて欲しかったというのが、正直な気持ちです。

あれだけ次代を担うヒーローとしてもてはやされていた人(今なら「将棋界の真部王子」というところでしょうか)の最期があれでは、あまりに悲しすぎるのではないかという気がしてなりません。

投稿: 拓庵 | 2008年2月20日 (水) 22時59分

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