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2008年2月12日 (火)

大崎善生著『編集者T君の謎』に描かれた人生を変えた一言

どうせ読むならとことん読もうということで、引き続き大崎善生さんの本を読んでいる。今回は『編集者T君の謎』(講談社文庫)。「将棋業界のゆかいな人びと」というサブタイトルがつけられている。

大崎さんが「将棋世界」の編集長を辞め、作家として独立したのち、「週刊現代」に連載した主に将棋界をテーマにした50回分のエッセイをテーマ毎に再編集して本にしたものである。

編集者T君の謎 将棋業界のゆかいな人びと (講談社文庫)
編集者T君の謎 将棋業界のゆかいな人びと (講談社文庫)

この中に「我が友、森信雄」(『編集者T君の謎』198~203ページ)というエッセイがある。一昨日のこのブログで取り上げた『聖の青春』で描かれた故・村山聖九段の師匠森信雄七段(執筆当時:六段)との縁(えにし)について書いたものだ。そのエッセイは、「人生を変える一言という言葉がある」という書き出しで始まる。

森七段と大崎氏は、お互いの家に泊まりあい、語り合う気心の知れた仲である。そして、2人は中年になっても独身を謳歌していた。

その森さんがある時、大阪から上京し、大崎さんの家に1週間ほど泊まっていた時、大阪は将棋の普及が今ひとつということで、森七段はお得意の「冴えん、冴えん」を連発していたらしい。あまりに「冴えん」が繰り返し続くので、大崎さんは「酔っ払った勢いで森信雄六段に声を張り上げた」という。

約1週間にわたり毎日のように冴えん、冴えんを繰り返されているうちに私は突然ブチ切れた。
「そんな冴えん、冴えんと口ばっかりぼやいてないで、自分で教室を作るとか、なんでもいいから体を動かしてやってみろよ」
相当きつい口調だったのだと思う。その言葉は純情な森さんの胸にダイレクトに直撃して、新幹線の中で泣きながら大阪に帰ったという。
(『編集者T君の謎』199ページ)

その後、森六段は大阪で将棋教室を始める。赤字で苦労したようだが、それもひとつのきっかけとなり、将棋の普及のため、将棋連盟の理事に立候補し当選する。
(森六段の理事立候補の顛末は『聖の青春』に詳しい。自分たち中堅世代の意見を反映する人を理事に推そうと森六段が人選に走り回っていたところ、弟子の村山聖九段から「ならば師匠が立候補すればいい」と言われて決意している。その後、村山九段は全棋士に「私の師匠が理事選に立候補するのでよろしく」とお願いの電話をかけたという。)
さらに、将棋教室の生徒の祖母が森さんの人柄を見込み、自分の娘を紹介したことで、森さんは独身生活に終止符を打っている。

二つめは、森六段が発した大崎さんの人生を変えた言葉。
大崎さんは20歳くらいの頃、小説家を志し、毎日のように原稿用紙に向かったが、短編ひとつまとめられなかったという。
(以前紹介した『九月と四分の一』(新潮文庫)の中の「九月と四分の一」の中で、小説が書けずにヨーロッパであてもなく旅していた青年は大崎さんの分身であろう。)
森六段の弟子の村山聖九段が亡くなったあと、何社かから村山九段の評伝を出したいという話が、大崎さん(「将棋世界」編集長)、森六段、村山九段の実家に舞い込んだという。森六段は大崎さんに出版話の窓口をつとめるよう頼む。

私も仲のよかった村山さんの人生をできるだけいい形で出版できる方法を模索していた。自分はプロデューサーだと思っていた。しかるべきライターを探して、しかるべき出版社と話を進める。そんな頃、森さんが電話口でこ言った。
「本当は、大崎さんが書いてくれるといいんやけどな。そうもいかんやろな」
えっと思った。そしてその直後に胸がドキドキと高鳴っていた。
”えっ!僕が書く?”
「本当ですか」
「そりゃ、そうや」
(『編集者T君の謎』201~202ページ)

森六段としては、生半可なライターに愛弟子村山九段の一生を描かせるくらいなら、村山九段の人となりを最もよく理解している大崎さんに書いてほしいという思いだったろう。
この森六段の言葉に背中を押され、大崎さんは村山九段の評伝を書くことを決意する。
そして、さらに一度、起承転結のある100枚以上の小説を書こうと決意し、書き始めると若い頃はあれほど書けなかった小説がわずか3日でできたという。

村山九段の評伝は『聖の青春』としてまとめられ、新潮学芸賞を受賞、その後奨励会を退会した若者を描いた『将棋の子』では講談社ノンフィクション賞を受賞、さらに3日で書き上げた初めての小説は、その後310枚の『パイロットフィッシュ』に成長する。『パイロットフィッシュ』は、吉川英治文学新人賞を受賞し、名実ともに小説家大崎善生が誕生したのだ。

大崎さんの40代になってからの転身を見ると、本人も書かれているように「運命の不思議」を感じずにはいられない。
どこに、自分の人生を変えるきっかけがあるか分からないということなのだろう。どこから何が来るか分からないが、来るべき日に備え、普段から準備を怠らず、「人生を変える一言」の反応できる態勢を作っておくことしかないのだろうと思う。

(余談だが、大崎さんも作家として独立後、将棋界の女流プロとして活躍していた高橋和二段と結婚し、独身生活を終えている)

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