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2008年2月 6日 (水)

中年男性が振り返る若き日を描いた『九月の四分の一』(大崎善生著)を読み終わる

大崎善生さんの短編集『九月の四分の一』(新潮文庫)を読み終わった。

九月の四分の一 (新潮文庫)
九月の四分の一 (新潮文庫)

大崎さんは、将棋ファンにとってはなじみの作家である。日本将棋連盟の月刊誌『将棋世界』の編集長を10年間つとめ、その後作家に転身した。編集長在職中の2000年に、A級棋士までのぼりつめながら、病に倒れた村山聖九段を描いたノンフィクション『聖の青春』でデビュー(第13回新潮学芸賞)。さらに退職後の2001年には、このブログでも以前取り上げた、奨励会二段で夢破れ故郷に帰った青年のその後を追った『将棋の子』を書き、講談社ノンフィクション賞を受賞している。
その後は小説を手がけ、2002年には『パイロットフィッシュ』で吉川英治文学新人賞を受賞している。

この『九月の四分の一』は「報われざるエリシオンのために」、「ケンジントンに捧げる花束」、「悲しくて翼もなくて」、「九月の四分の一」の4作品からなる短編集だ。主人公はいずれも40代の男性「僕」である。
「ケンジントンに捧げる花束」は若干趣を異にするが、残りの3編は、40代の「僕」が青春時代、青年時代の実らなかった、叶わなかった恋を、振り返る物語である。
作者のこの短編集全体に流れる思いを語っていると思われるフレーズを「悲しくて翼もなくて」の中から、引用しておきたい。

四十三歳という年齢がどういうものなのかは、僕にはわからない。ただ言えるとすれば、二十代、三十代を過ぎて、そこから遠ざかれば遠ざかるほどに鮮明に見えてくる過去が存在するということである。三十代の頃はもやがかかったように霞んでいた、あるいは意識的に霞ませてきた過去のできごとが、曇ったガラスを拭ったように鮮明に見えることがある。
(大崎善生著『九月の四分の一』164ページ)

20代、30代では霞んでいた、あるいは霞ませていた過去が40代になって鮮明に見えることがあるという部分には、ハッとさせられるものがある。

20代、30代は目の前の生活を生き抜くことに必死で、いつの間にか過ぎていく。しかし、40代になると一度どうしても立ち止まらずにはいられないのだろう。そこで、もう一度、自分の生きてきた道を振り返る。
おそらくそこにはひとつやふたつ実らなかった恋がある。それは、ひょっとしたら選択していた自分の別の生き方かもしれない。20代では生々しすぎて振り返れない、30代は忙しすぎる。40代になると、自分の内も外も、さまざまなものが転機を迎える。そこで、もう一度実らなかった過去を振り返らないではいれれなくなるのだろう。

私がいつも頭の隅に置いている「中年期の危機(中年クライシス)」にも繋がるテーマだと思う。
そう考えると、この『九月の四分の一』は、間接的に「中年期の危機(中年クライシス)」を扱った小説と言えるかもしれない。

40代男性は、一度読まれることをお勧めしたい。

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