大澤真幸著『不可能性の時代』をヒントに戦後の時代区分を考える・その1
大澤真幸著『不可能性の時代』(岩波新書、2008年4月刊)については、5月26日のこのブログの「最近の積ん読(つんどく)本-新書編(2008年5月)」の中でも少し紹介したが、著者は1958年生まれで、京都大学大学院教授で比較社会学・社会システム論を専攻する社会学者だ。
この本に影響を与えた著作として、見田宗介著『社会学入門-人間と社会の未来』(岩波新書、2006年4月刊)があり、前のブログで紹介した時代区分
「理想の時代 1945年-60年」
「夢の時代 1960年-75年」
「虚構の時代 1975年-1990年」
は、『社会学入門』の中で提起されたものである。
見田・大澤両氏の説明を、ものすごく大雑把に要約すると、「理想の時代」は敗戦後の日本が、民主主義・自由主義のチャンピオンであるアメリカ(あるいは人によっては資本主義社会の次の社会としてのソ連)を理想として生きていた時代。しかし、それは、60年安保で終焉を迎える。
「夢の時代」は、アメリカ社会を理想として描けなくなった中、人びとは、自由な恋愛で結ばれた男女が「マイホーム」を作り、そこで日々進歩する家電製品、自家用車を買い揃えるという身近な「夢」に生きた。昨日より今日、今日より明日が豊かになるという高度経済成長が夢を叶えた。しかし、それも1973年のオイル・ショックとその後の総需要抑制政策がもたらした不況で終わりを告げる。
「虚構の時代」については、「現実すらも、言語や記号によって枠づけられ、構造化されている一種の虚構とみなし、数ある虚構の中で相対化してしまう態度」(『不可能性の時代』68ページ)が時代を代表する精神とされている。
虚構の時代を一言で言い表すことは難しいが、「理想」も「夢」も実現できない現実、様々な綻び(ほころび)や矛盾を抱える社会の現実を直視せず、それも一つの虚構としてごまかし、見ないことにしたいという時代だったのかもしれない。
虚構の時代の後半は、バブル経済の時代である。人びとは、綻びや矛盾を抱える現実ではなく、その上のあだ花のように咲いた「バブル」という「虚構」を、現実として信じたかったのだろう。
しかし、そのバブルという「虚構」の現実が、やはり「虚構」に過ぎずそのベースにある綻びや矛盾を抱える現実はなんら変わっていない。その綻びや矛盾を抱える現実の方を変えないことには、社会は変わらない。
「虚構」の現実に気づき、そこから逃避しようとした人びとを吸収した集団のひとつがオウム真理教なのかも知れない。1995年のオウムが起こした地下鉄サリン事件は、いわば、バブル後に残された変わらぬ現実を、暴力的に変えようとするものであったのかの知れない。『不可能性の時代』では「地下鉄サリン事件は、虚構の時代が終わったこと-あるいはすでに終わっていたこと-を知らせる事件だったのだ」(『不可能性の時代』156ページ)と語る。
その後、登場した小泉政権が一時熱狂的に支持された背景には、綻びや矛盾を抱える現実を、強引にでも変えようとする姿勢を選挙民に対し常に見せ続けたからであろう。
では「虚構の時代」の後を受けた、現在の社会はどのような時代なのか、その中で個人はどう行動し、生きていくべきなのか、それについては、次回あらためて考えたい。
その2は→こちら
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