50歳の転身、同級生たちの選択
8年前から年に2回ほど、高校の同窓会をしている。約450名の同学年の卒業生の中で、東京近郊に住んでいるメンバーが集まる。毎回だいたい10名以上20名以下の範囲の参加者である。
この2年ほどだろうか、参加者の中で、新たな進路を選択する仲間が増えてきた。1960年生まれの我々の学年は、ちょうど今年2010年に50歳を迎える。孔子は「五十にして天命を知る」といっているが、あるいは、その「50」という数字が何かのきっかけになるのだろうか。
最初に見事な転身を遂げたのは、女性のAさんだった。2年ほど前だったろうか、日本と中国の間を結ぶ仕事で活躍していた彼女は、10年ほど勤めた日本の企業を思い切って退職し、ライバルの中国企業に転職した。以前も日中を往復していたが、今では1年の半分を中国で働いているのではないだろうか。東京での同窓会の立ち上げ時からの主要メンバーであったAさんだったが、その後はなかなかスケジュールがあわず、同窓会には出る機会がめっきり減ってしまった。
男性メンバーの転機は、転勤である。同窓会の立ち上げから数年たって常連メンバーで参加してくれていた、B君、C君が昨年、今年と相次いで海外勤務となった。B君が韓国、C君がインドである。ともに、単身赴任。C君は自ら希望しての海外勤務である。
また、今年になって文芸の世界で活躍していた女性のDさんが、長年住み慣れた千葉から沖縄へ転居した。その世界では、いくつかの賞もとり、新人から中堅へとステップアップしていると思うが、さらに、自らの創作の完成度を高めるために、新しい環境を求めたという面もあるのではないだろうか。
つい最近では、東京での同窓会の立ち上げ時からの中心メンバーだったE君も、50歳を機に転職を決めた。以前の職場の後輩が立ち上げた会社に誘われていたという。
我々は、地方の公立高校の出身だが、地元では、女性のFさんが国政に挑戦する準備を進めているいう。これも、大きな決断だ。
私のこのブログ「栄枯盛衰・前途洋洋」のテーマは「中年の危機=中年クライシス」だった。40代にさしかかり、必ずしも自分が若い頃思い描いた自分になれているとはいえない現実、しかし職場、家庭で責任だけは重くなり、降りかかる数々の難問。さらに、加えて、我々の40代と重なる「ゼロ年代」は、1990年代から続く不況が長引き、「失われた10年」と言われていたのが、時に「失われた15年」とも言われるようになっていた。
その中で、2002年11月に数人の同級生が集まったことがきっかけで、東京地区の同窓会が始まった。当時は皆42歳。私自身は、まさに「中年の危機」まっただ中であった。同級生たちが、それぞれの仕事場、家庭で何とか生き抜いている姿に、勇気づけられたように思う。今から思えば、その同窓会での絆が、「中年の危機」に翻弄され、つまずいてしまうことから救ってくれたのではないかと思う。
それぞれが同窓会の場で何かを感じ、何かを得て、今年いよいよ50歳を迎える。もう、「中年の危機」の時代は終わり、社会人として引退を余儀なくされるまでのあと10年から15年ほどをどう生きるか考え、次の道の選択を始めたということなのだと思う。それぞれが、新たな選択を始めた50代となって、同窓会が今までのような形で続くのか、あるいは少し変わっていくのか、それはまだよくわからない。しかし、「中年の危機」を乗り越えるための安全弁のような役割はもう終わったのだと思う。
同級生たちが、次々と転身していく中で、さて、自分はどうするのか?これからの10年の生き方を本気で考え、選択していかなくてはならない。
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