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2011年3月13日 (日)

東日本大震災のその日

「東北地方太平洋沖地震」と名付けられた大地震発生から2日が過ぎた。

3月1日に新しい職場に移ったばかりで、なおかつ、前の会社での転出の人事発令が出て、新しい職場に移るまでほとんど間がなく、前の会社でお世話になった人で挨拶できていない人も多かった。
地震が起きた日(2011年3月11日)の午前中は、挨拶できなかった人のところを改めて回り、昼も、以前お世話になった先輩とランチをとって、これで、挨拶回りも一段落。

新しい職場では、さっそく、来週、出張ということになり、午後からは出張のための資料を読み出したところだった。

2時半を回り、資料の読み込みにも退屈し始めた頃、床が揺れたような気がした。9日、10日と2日続けて地震があったので、また余震かと思っていたが、この2日間の地震を上回る大きな揺れで、小さなキャビネの上の本がバラバラと床に落ちた。新しい職場での私のオフィスは3階、とりあえず、机の下にもぐり込み、揺れがおさまるのを待った。
少し揺れがおさまったところで、職場のTVをつけてもらう。NHKでは、地震速報のテロップが流れ、すぐ、臨時ニュースを伝えるアナウンサーの映像に切り替わった。震源は東北地方の沖、2日前の宮城県沖の地震より規模が大きいようで、マグニチュードは7.9、震度7のところもあり、震度6強、震度6弱の地域は多地域にわたり、東京も震度5弱と表示されたように思う。さらに、沖合地震に不可避の津波については、多くの地域で「大津波警報」の対象になっており、その高さは6m、あるいは10mと言われていた。
今までの地震で、津波警報は聞いたような気がするが、「大津波警報」という用語は初めて聞いた気がする。

通常の地震であれば、ある程度の情報を確認したところで、テレビを消し、仕事に戻るところだが、どうも尋常ならざる地震の規模に、誰も仕事が手につかない。
しばらくすると、TVで、ヘリコプターや高台にあるカメラからの各地の海岸や港での津波の様子が写され始めた。沖合に津波の波頭が見えたと思うや、みるみるうちに波が迫り、船や車を巻き込み、濁流となって家を押し流す様子が放送される。
仙台市の名取川近くでは、砂浜を乗り越えた津波が川を遡る一方、平野をもどんどんと飲み込み、家や車を押し流し濁流となって、道路を走る車に迫る。気がついたのか、慌てて方向を変え、濁流から逃げる車もあった。
名取川にほど近い仙台空港も濁流に覆われ、ビルと滑走路の一部しか見えない。航空機の姿は見えなかったので、たまたま、駐機している便がない時間帯だったのだろうか。空港のビルの屋上には、多くの人が避難していた。
ハリウッドのパニック映画よりも、生々しく厳しい現実がそこには写されていた。

TVのニュースを見ている間にも、数回、大きな余震があった。最初の地震のマグニチュードは、その後、8.4、8.8と修正され、明治以降の日本の観測史上、最大の地震ということになった。
さらに、今日になって9.0への3度目の修正が行われ、世界の観測史上4番目の大地震ということになった。

午後5時半を過ぎ、通常なら、順次、職場から皆が帰り始める時間だが、首都圏の鉄道各社は地震後の点検のため、全社が運転が止まっている。本震のあとも、大きめの余震が2回、震度2~3程度の揺れもたびたび起こり、なかなか点検が終らないというのが、鉄道各社の実情だったと思う。

職場の同僚の中には、同じ社宅のメンバーと連れだって、歩いても4時間歩けば帰れると5時半頃職場を出た猛者もいた。(結局、彼は11時過ぎに帰宅したと連絡があった)
私は、幸い家族全員の無事が確認できたのでとりあえず安心し、歩いて帰る覚悟を固めつつ、情報源として頼る携帯電話のバッテリーがなくなる寸前だったので、フル充電してから帰ることにして充電を始めた。
充電が70%ぐらいになったころ、枝野官房長官が、「職場のような安全な場所にとどまれる人は、帰宅途中での2次災害を避けるため無理に帰ろうとしないでほしい」とのコメントを出したとニュースで伝えられたため、とりあえず、職場にとどまることにした。

首都圏の鉄道のうち、JR東日本は、11日中の運転再開はないと発表。職場でも、JRを使えないと帰れない人たちは、職場での夜明かしを覚悟したようだった。
誰かが、どこかかから、緊急時用の食料である缶入りのクラッカーとお湯を加えると食べられる五目ごはん、それに毛布を持ってきてくれて、いよいよ泊まり込む用意は万全となった。

用意された食料を食べ、毛布をまとって自分のデスクで仮眠しようとするが、夜になっても、時々、小さな余震はあり、なかなか寝られるものでもなかった。

そうこうしているうちに、夜の10時ぐらいだったか、都営地下鉄や東京メトロの一部路線の運転を再開した。私が家まで帰るためには、西武鉄道の新宿線か池袋線、職場がある日比谷・霞ヶ関界隈から西武線の乗り換え駅である新宿・高田馬場・池袋などに繋がる地下鉄が運転再開をしてくれなければならない。
しかし、すでに夜11時を回っている。通常なら23時、0時台が終電。こんな日だから運転再開となれば終夜運転だろうとは思うが、その確認ができなければ、むやみやたらと外にでても帰宅難民になるだけである。

夜12時過ぎた頃に、「小田急線運転再開、終夜運転」とTVニュースでテロップが流れる。ほどなくして「西武新宿線・池袋線再開、終夜運転」との情報。新宿に繋がる東京メトロの丸の内線、高田馬場に繋がる東西線も運転再開した旨は、東京メトロのホームページで確認できたので、丸の内線の霞ヶ関駅まで行ってみることにして、職場を出た。

霞ヶ関駅に着くと、丸の内線も終夜運転との表示。とりあえず、これで家までは帰れる。
すでに時刻は午前1時前後。5分ほど待つと、電車が到着。赤坂見附で一気に混んだが、まあ、朝のラッシュ並み。新宿で下りて、西武新宿まで歩く。
西武新宿駅に着くと、駅に併設しているショッピングビル「PePe」の入り口の前で長蛇の列。入場制限されているらしい。「ここで、30分、1時間待たされるなら、職場で夜明かしした方がよかったかな」と思ったが、10分も待たないうちに列が動き出し、その後は、順調に列が流れた。駅の改札前には警察官が何人もいて、入場制限の指示を出していた。

ちょうど、到着した電車は私にとってもっとも都合のいい「準急」だった。次の高田馬場で混むことを予想したが、乗る人はまばらで、あとはすんなり、自宅の最寄り駅に着いた。すでに、午前2時を回っていた。駅から少し離れた自転車置き場から自転車に乗り、家に帰り着いた時には、2時半近かった。

いつもは子ども3人が2階に寝て、私と妻が1階の和室に寝ているのだが、帰ってみると、1階のリビングの床に、布団を敷いて家族4人が寝ていた。長い1日が終った。

私も着替えて、家族の雑魚寝の中に身を横たえたが、なかなか寝付かれず、1時間程度しか寝られなかった。

<2011年3月14日追記>「東日本大震災」については、「関東東北大震災」という呼称も使われている。

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コメント

お疲れ様でした!
君とLunchを食べている時にはこんな大惨事が待っていようとは・・・予想すらできませんでした。まさか2時間以内にこんなことになろうとは。
人生はやっぱり一寸先は闇です。思った時にやりたいと思ったことはやることにしましょう。また、その思いを強くしました。

投稿: macky | 2011年3月14日 (月) 14時32分

macky先輩、本当に一寸先は闇ですね。

おそらく、今回の大震災は、後から振り返れば、「平成・震災前」「平成・震災後」といった形で、時代を区切る大きな節目になるのではないでしょうか。

個人としても、転職と震災が重なることになりました。

投稿: 拓庵 | 2011年3月14日 (月) 20時31分

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