牟田都子著『文にあたる』(亜紀書房、2022年)を読み終わる
地味な本だ。でも、丁寧に作られた本だ。校正者である著者が、校正の仕事で、感じたことを、まとめたエッセイ集である。行きつけの書店で見つけ、帯と目次を見て即購入した。
著者は、フリーの校正者。図書館勤務を経て、出版社の校正部勤務のあと、フリーに転じ、出版社から持ち込まれるゲラの校正を行っている。いったい、校正者は、どこに目をつけ、どのように校正を行っているのか、本好きとしては興味があった。
さらに自分自身、昨年の春から、業界の月刊誌に連載記事を書き始めたが、その連載では校正者はつかず、編集部と自分だけが頼りという状況だった。編集者は、明らかな誤字や、文意が伝わらずわかりにくいといったことは指摘してくれるが、書いていることが事実として誤りでないかまでのチェックまでは期待出来ない。自分が襟を正して、事実確認を積み重ねるしかない。
石原さとみが主演したドラマ『校閲ガール』に出てくるような頼れる校正者がいるとありがたいなと、連載を引き受ける時にふと思ったが、現実はそんなに甘くはなかった。
連載では、これまでの仕事でやってきたプレゼンテーション資料を、文章にすることが中心で「ネタは沢山あるので大丈夫だろう」と引き受けたものの、新しく降ってくる日々の仕事をこなしながら、毎月一定量の原稿を書き続けることは、想像以上に大変だった。
原稿を前月末に編集者に送ると、初校、再校、念校と3回の校正がある。念校を出し終える頃には、当月の中旬になっており、月末には雑誌が出る。中旬から月末までに翌月の原稿を仕上げなければならない。自分が作ったプレゼン資料だとしても、ずいぶん前に作ったものだと、参考にした資料のあやふやだし、出来事などの細かい年月まで正確に書き込んでいないものも多く、再度の確認が必要になる。
この『文にあたる』では、それぞれ、冒頭にテーマに沿った文学者や校正者の一文があり、それを巡って著者が思索を巡らす。その中で、一番私の印象に残るのは「すべての本に」と題された一文だ。冒頭には寺田寅彦の『寺田寅彦 科学者とあたま』からの次のような引用から始まる。
「間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうして間違っていないという事以外に何の取柄もないと思われる本もある。(以下、引用略)」
著者がこの本を通じて語ることの一つにどんなにも、校正者も見落としてしまう誤植や誤りがあるということ。その上で、次のように締めくくる。
「(校正者としての)わたしにとっては百冊のうちの一冊でも、読者にとっては人生で唯一の一冊になるかもしれない。誰かにとっては無数の本の一冊に過ぎないとしても、べつの誰かにとっては、かけがえのない一冊である。その価値を否定することは誰にもできない。その価値を否定することは誰にもできない。著者自身でさえも。歳月を経て、刊行されたときに想定されていたのとは違う意味と価値を持つこともあります。本は人間より長く生きるのです。そうした可能性を考えたとき、すべての本が等しく手をかけられてほしい。理想論かも知れませんが、そう願わずにはいられないのです。」
いま、続けている連載をいずれ、本にまとめられればと思っている。プレゼン資料を作るときにも思っていることだが、専門的なことであればあるほど、間違いのないように正確に書こうとすればするほど、事柄の幹(みき)の部分だけでなく、枝葉の部分まで書いてしまう。そうすると、そのテーマに門外漢の読者にとっては、何が本質で大事なことなのかサッパリわからないということになりがちだ。どうやって、本質である幹の部分だけを伝え理解してもらうか。説明不足と過剰な説明は紙一重だし、読者の知識次第の面もある。
もし、連載が本になるとすれば、そのときは、有益な本になってほしい。そして、読者の誰かにとって役にたつものなればと思う。