2012年12月15日 (土)

東日本大震災直後の東京電力福島第一原子力発電所の壮絶な現場を描き、フクシマフィフティの姿を描いた『死の淵を見た男』を読む

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

2011年3月11日(金)午後2時46分、東北地方を中心とした広い地域にマグニチュード9.0 の大地震が襲い、さらにその後三陸沿岸を中心に大津波が襲来し、多くの人命が失われ、ありとあらゆるものが流された。のちに、東日本大震災と名付けられた災害である。
さらに、不幸なことに、東京電力の福島第一原子力発電所が津波で非常電源を喪失。4基の原子炉のうち、1号機、3号機で水素爆発が起き、放射性物質が漏れ、原発近隣の住民の多くが避難を余儀なくされ、事故から1年半以上たった現在でも、ほとんどの人は自宅に戻れないままである。

東京都心のオフィスにいた私は、これまで経験したことない震度5強の揺れに驚きながら、テレビのニュースで流される東北各地を襲う津波に映像を食い入るように見つめていた。
さらにその後に数日は、津波で非常電源を喪失し、停止はしたものの冷却が進まない福島第一原発のニュースが連日報道された。
米国政府が福島原発から80km以内から避難するよう日本にいるアメリカ人に指示を出したとか、日本に住む外国人が各地の空港から国外に脱出しているなどという話がどこからともなく伝わり、不安を駆り立てるが、東京に住み東京で働く身でありながら、東京から逃げ出す訳にもいかず、ただただ、原発が少しでも落ち着く方向へ進むことを祈りながら毎日の原発のニュースを聞いていた。
遠くからのカメラで原発の建物が爆発する様を目にしても、原発についての詳しい知識があるわけでもなく、どの程度、危険な状態なのかよくわかっていなかった。
建物が水素爆発を起こした後は、原子炉の冷却に加え、原子炉建屋の中にあわせて保管されていた使用済燃料の冷却の問題も持ち上がり、自衛隊のヘリコプターが上空から水をまいたり、特殊な放水器を備えた消防車を使って自衛隊が地上から放水し、冷却を進める映像が流された。

後からわかったことでは、原子炉の冷却が遅れたことで、原子炉の中で燃料棒の溶融が起きるメルトダウンが発生しており、これまで史上最悪の原発事故であったソ連のチェルノブイリ発電所の事故と同じレベルの深刻な事故だったということだった。

原子炉を冷やすために海水を使うかどうかで、原発の再使用が不可能になるので東京電力は消極的だったが、当時の菅直人総理は東工大出身で原発にも詳しく、海水を使えと言っているのだという話も流れていたように思う。
菅総理が突然現地に視察に行ったり、東電本社に乗り込んで、東電幹部を怒鳴りつけたという話も流れたりした。事ここに及んでも、原発の再利用にこだわり自社の利害しか考えない頑迷な東電幹部、それにいらだちを隠せない「イラ菅」こと菅総理。そんな構図だけが、マスコミ報道の中で、形成されていたように思う。

いったい、事故当時、発電所の現場では何が起きていたのか?どんな対応が取られていた
のか?海外では原発の現場で処理にあたる関係者を「フクシマフィフティ」と呼んで称える人までいるのに、日本のマスコミで本格的に「フクシマフィフティ」を取り上げたところは、どこもなかった。
これだけの大事故に対して、犯人捜しをして全ての責任をその犯人に押しつけたいという、自分も含めた社会全体の大衆心理は、「今回の事故は東電の不作為による人災」として東京電力だけをスケープゴードにし、自分には責任はないと納得したかったのではないかと思う。だから、日本のマスコミの中では、あえて誰も東京電力の原発の現場の「フクシマフィフティ」にふれなかったのではないかと思う。

その中で、その「フクシマフィフティ」を正面から取り上げたのが、この門田隆将著『死の淵を見た男』(PHP研究所)である。「吉田昌郎と福島第一原発の500日」というサブタイトルが付されている。著者は、震災当時、福島第一原発で事故処理に当たったまさに「フクシマフィフティ」の人々、菅直人前総理、当時の原子力安全委員会の斑目委員長など多くの人にインタビューを行い、本書を書いている。

著者は本書の前文にあたる「はじめに」で、次のように語る。

私は、「あること」がどうしても知りたかった。それは、考えられうる最悪の事態の中で、現場がどう動き、何を感じ、どう闘ったのかという人としての「姿」である。全電源喪失、注水不可、放射線量増加、そして水素爆発・・・あの時、刻々と伝えられた情報は、あまりにも絶望的なものだった。冷却機能を失い、原子炉がまさに暴れ狂おうとする中、これに対処するため多くの人間が現場に踏みとどまった。(中略)自らの命が危うい中、なぜ彼らは踏みとどまり、そして、暗闇に向かって何度も突入しえたのか。
彼らは死の淵に立っていた。それは自らの「死の淵」であったと同時に、国家と郷里福島の「死の淵」でもあった。(中略)
本書は、吉田昌郎という男のもと、最後まであきらめることなく、使命感と郷土愛に貫かれて壮絶な戦いを展開した人たちの物語である」
(『死の淵を見た男』p8~p10)

名前の挙がった吉田昌郎とは、震災時の福島第一原発の所長である。これを読むと彼ら福島第一原発の現場の人々の命がけ努力のおかげで、私のように東京にすむ人間は、今までと変わらぬ日常生活をおくれていることがよくわかる。
原子炉への海水の注入は現場では議論の余地もなく当然の策として当初から準備が進められている。問題は真水か海水かということではなく、そもそも、どうやって原子炉までの水を注入するラインを確保し、どうやって水を注入する動力を確保するかということだった。

これらの課題に対する、現場の人々の機転に支えられた対応策が、原子炉格納容器の爆発による放射性物質の飛散という最悪の事態をさけられたのだろうと思う。

もうひとつ、本書を読むまで知らなかったのが、震災直後の津波で福島第一原発の職員2名が犠牲になったことである。

この本は、日本に住んで東日本大震災を体験した全ての人に読んでほしい本である。

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2011年7月29日 (金)

我が家の7月の節電は前年比約30%減だった

一昨日、東京電力から今年の7月分の「電気のご使用量のお知らせ」がポストに入っていた。

正確にいうと、今年(2011年)6月24日から7月26日までの33日間の電気の使用量である。記載は852kwh。同じく1年前の7月(33日間)は1205kwhなので、353kwh減らしたことになる。率にして△29.3%。政府のいう15%節電の目標はクリアしたことになる。
そもそも、家族5人の使用量の絶対水準として、我が家の数値が標準的な家庭よりも高かったのかもしれないので、偉そうなことは言えないが、増えているよりはいいだろう。

ちなみに、昨年と今年の同時期の気温について、気象庁の気温のデータのうち、我が家に比較的近い「練馬」の観測点の気温を比較すると2010年6月下旬26.0℃→2011年6月下旬26.6℃、7月上旬26.4℃→28.5℃、7月中旬27.7℃→29.5℃といずれも今年の方が高くなっているので、気温の要因で減った面はあまり考えられず、我が家の範囲でみれば、それなりに努力をした結果といえると思う。

3月の大震災、福島原発事故以降、節電対策としてやったことは、照明のための電球を全てLED電球に換えたことである。いわゆる標準的な電球の口金E26タイプは、すでに白熱球から電力使用の少ない電球型蛍光灯に換えていたが、まだ使えるもの含めて全てLED電球に換えた。
そして、この夏の節電の中心はやはり極力エアコンを使わないようにしたことである。昨年まで、我が家には扇風機は大小2台しかなかったが、この夏扇風機を1台、サーキュレーターを2台追加で買って、なるべくエアコンを使う回数を減らすようにした。それでも、熱帯夜の夜には2階で寝る子ども達はエアコンを使っているようだが、それでも、エアコンののべの使用時間はかなり減らせていると思う。

果たして、この調子で8月も減らせることができるのか?体調を崩さない範囲で続けていこうと思う。

それにしても、ちょっとした意識の変化で30%も電力使用量が減るとは・・・。これまでいいかに無駄遣いしていたかということでもあるのだろう。

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2011年4月24日 (日)

吉村昭著『三陸海岸大津波』を読んで思う記録することの大切さ、天災は忘れた頃にやって来る

知人がTwitterで読んだと書いていた吉村昭の『三陸海岸大津波』という本が、ずっと気になってきたが、先週、職場の近くの書店で見つけたので、さっそく購入した。

三陸海岸大津波 (文春文庫)
三陸海岸大津波 (文春文庫

吉村昭の作品はペリー来航時の主席通詞を勤め、その後、日本で初の本格的な英和辞典の編纂にあたった掘達之助という人物を主人公に描いた『黒船』という小説と、エッセイを読んだ程度なので、わずかな作品を読んだだけの感想だが、『黒船』を読む限り、事実を丹念に調べ、淡々と書き綴っていくその姿勢には共感するものがあった。尊敬する作家のひとりだ。

『三陸海岸大津波』は、その吉村昭が三陸海岸沿岸を丹念に取材して歩き、今から40年以上前の1970年に『海の壁-三陸沿岸大津波-』とのタイトルで中公新書としてから刊行され、その後1984年に中公文庫となり、さらに20年後の2004年に文春文庫にも入った。そして、今回の東日本大震災で再び書店の店頭に平積みされるようになった。
私は最初、この本を探す時、中公文庫の棚ばかり見ていて、文春文庫で再刊されていることにまったく気がつかなかった。

この本では、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)に三陸地方を襲った地震と津波の被害、さらに昭和35年(1960年)に発生した南米チリの地震に伴う津波の被害について語るととも、それ以前も含め、この地域がたびたび津波に襲われた歴史にも簡単に触れており、今回の大震災でも話題になった平安時代の貞観津波にも言及している。

読んでみると、明治29年、昭和8年の津波の被害の描写が、今回の大震災の被害とそっくりなことに驚く。
また、明治・昭和の津波も地震によるものであり、地震の前兆として、どちらもしばらく前から漁業が豊漁となったことと、井戸水が濁ったとの共通点があったことが指摘されている。
今回の震災前はどうだったのだろうかと気になってしまう。

また、津波のことを、当時は、地元の人たちが「ヨダ」と呼んでおそれていたことも、津波が意志をもった怪物のように思えて、興味深かった。

「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉があるが、今回の震災は我々にその言葉を思い起こさせることになった。災害についてこのような記録が残されることは、将来に向け備えるためには、大切なことだと思った。

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2011年4月10日 (日)

東日本大震災の被災地「陸前高田」に災害対策支援医療チームで赴いた看護師のブログ:JKTS

すでに、多くの人のブログやTwitterで紹介されている「JKST」というブログがある。2011年3月11日の東日本大震災の直後の2011年3月16日から23日までの1週間、甚大な被害を受けた被災地の一つ陸前高田市に災害対策支援医療チームの一員として医療支援に赴いた看護師の日々の活動を記したブログだ。

私は、知人のTwitterを経由して行き着いた。その知人も別の人のTwitterをリツイーとしたものだった。そこに書かれている、テレビや新聞では伝えられることのない被災地の真実に、読んだ誰もが驚き、看護師や医師達の献身的な働きをまだ知らない人にも読んでもらいたいと、どんどんと紹介され、広まったのだろう。

記事は「1、被災地へ。」から「14、From TOKYO」がベースで、ここには現地での日々の活動やそれに対する思いなどが、飾ることなく書かれいて、帰京直後と思われる3月23日に時間を遡る形で一気に14回分が書かれている。
その後、3月28日の読者へのお礼の言葉が「こちらこそありがとうございます」とのタイトルでアップされ、さらに4月6日に「何度でも。」とのタイトルで、読者からのコメントを読み終わったあとの思いが綴られている。

私が最初に読んだのは、3月末頃だったと思うが、その時すでに、「14、From TOKYO」には1300を超えるコメントが寄せられていたが、今朝(4月10日朝)には1999まで増えている。

今更、私の紹介して、多くの紹介のブログやTwitterに加わることにどれだけの効果があるのかともの思うが、4月6日に新しい記事がアップされててもいるので、もし未読の方がいらっしゃれば、一度、読んでいただければと思う。

リンク
JKTS:被災地へ医療スタッフとして行ってきました。短い間でしたが貴重な体験となりました。

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2011年3月22日 (火)

震災報道への疑問、なぜ海外からの支援に触れないのか?

子どもの頃から、日本の報道機関、マスコミについて疑問に思っていることがある。マスコミの人々は、「この世の中、世界には日本人しか存在しない」と思っているのではないかということである。

航空機の墜落事故が海外で起きることがある。その時に、必死になって伝えられるのは、日本人の死者が怪我人がいるかどうかであり、日本人以外にどんな国の被害者がいるかなど全く報道されない。
先日のニュージーランドの地震で、クライストチャーチの語学学校のビルが倒壊し大きな被害が出た時も、日本人の誰が助かり、何人と連絡が取れないかという事ばかりが報道され続けた。
もちろん、海外での事故や災害で、日本人の被害者・被災者がいるかいないかということは、家族や関係者にとって重要な情報であり、それは伝えてもらわなくてはならない。
しかし、それだけで終ってしまっていいのだろうか?クライストチャーチの倒壊した語学学校には日本人だけが通っていたのだろうか?他の英語を母国語としない国からの留学生もいたのではないだろうか?今回の日本の大震災で、ニュージーランドの地震報道が途絶えるまで、ついに他国の被害者の状況について聞くことはなかった。
なぜ、国際的な事件や災害で、日本のマスコミは日本人のことしか伝えないのだろうか?他国の被害者や被災者がいれば、その国の家族たちも、日本人の家族と同じように悲しみ、苦しんでいるはずなのに……。これも日本人の島国根性の表われなのだろうか?

今回の日本の東日本大震災(関東東北大震災)では、多くの国から救援隊が派遣され、各地の被災地で活動してくれているはずだが、米国隊が日本に到着した時にニュースになっただけで、その後、詳しい報道はほとんどない。いったい何カ国から何人の救援隊が来て、どこでどんな支援をしてくれているのか、助けられた日本人として知っておくべきではないだろうか。
義援金も海外から多く寄せられていると思われるが、伝えられるのは、主に海外の映画スターや歌手などの話だけである。名もない市民の募金によるものもあるに違いない。せめて、日本赤十字に取材して、国別にどれくらいの義援金が寄せられているかぐらい、報道されてもよいのではないかと思う。
何かの機会に、その国を訪問したり、その国の人と会う機会が合った時に、「東日本大震災の時は、貴国の救援隊に助けてもらい、また多額の義援金を送ってもらってありがとう」と言えないとしたら、日本人として恥ずかしいことだと思う。

インターネット時代になって、各国の新聞社や通信社の日本語のホームページも作られるようになっている。せめて、時々、各国の代表的な報道機関のページに書かれたニュースを読み、日本のマスコミの視点だけでない、複眼的な視点を持つよう心がけている。

日本のマスコミには、国際的な視点をもっと意識してほしい。

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2011年3月21日 (月)

計画停電の1週間を終えて思うこと、「精神のバランスをとってしたたかに生きる」

2011年3月11日(金)の「東北地方太平洋沖地震」から2度目の週末を迎えた。地震当日、そして最初の土日、東京電力により計画停電初日の14日(月)と最初の数日間は、目まぐるしく変化する状況に自分自身が対応するのがやっとだった。

その後、日を追って明らかになる岩手県、宮城県、福島県などの被災地での事態の深刻さ、日に日に悪化しているようにも見えた東京電力の福島第一原子力発電所の事故の状況、直接の被災地だけでなく東京においてもガソリンが払底し、食料品や日用品の一部が店頭から姿を消すを見るにつけ、今回の地震の被害が、尋常なものではなく想像を絶するものだったことが、実感として身に迫ってきた。

首都圏の計画停電は、徐々に安定稼働に向かっているように見える。最初は、とにかく、需給をバランスさせることが最優先されていた感じだったが、何日か続けるうちに、明らかになった問題を少しづつ修正しているというところだ。やはり、日本の首都として政府の機能、各企業の本社機能を維持していくためには、そこで働く人を確保しなくてはならない。官僚や社員の通勤の足を確保するため、鉄道への電力供給については、鉄道を所管する国土交通省から東京電力を所管する経済産業省の資源エネルギー庁への申し入れもあって、ある程度の優先安定供給が確保されたようだ。
私が利用する西武鉄道の新宿線や池袋線も停電当初は、毎日のように運行区間が変更された。停電2日めの15日(火)の運行や新宿線が西武新宿-鷺ノ宮、池袋線が池袋-練馬高野台と発表されたため、どうルートを考えても、まともな出勤はできそうになく、休暇を取った。
16日(水)以降は、平日は全列車各駅停車ではあるものの、新宿線が西武新宿-新所沢間、池袋線が池袋-小手指間の運行は確保し、可能な時間帯は、新宿線であれば終点の本川越、池袋線であれば飯能まで運行区間を伸ばすという運用に収斂しつつある。

なんとか、不十分ながらも、東京で働き生活する環境は整いつつある。(そんな中、東京を本拠地とするメガバンクのシステムトラブルが発生したのは想定外の事態だったが…。)

まだ、漠然とした不安もある。依然として、余震はおさまらず、東京も震度6、7クラスの揺れに襲われるのではないかという不安は払拭できない。
さらに、福島原発では、現在も自衛隊員や消防隊員、東京電力と協力企業の社員たちの命がけの作業が続いている。事態が少しづつ改善に方向に向かっていると信じたいが、予期せぬトラブルや惨事が起きてしまうのではないかというつい考えてしまう。

2年半ほど前に、経済の世界では、米国でのサブプライム・ローン問題の事態悪化に端を発した信用不安から米国の大手投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻するという事件が起きた。世に言う「リーマン・ショック」だ。
欧米の金融機関の多くが経営危機に見舞われ、日本でも株価が急落した。そのリーマン・ショック直後の2008年10月に、将棋界では渡辺竜王に羽生名人が挑戦する第21期竜王戦七番勝負の第1局がパリで行われた。その第1局を観戦した『ウェブ進化論』の著者梅田望夫氏は次のように書いた。

個人の手に負えないほど大きなことが周囲で起きたときに、私たち一人ひとりにできることはそれほど多くないということである。もちろんサバイバルのためにベストを尽くすのは大切だ。でも、そんなことばかりを365日24時間考え続けながら生きることは、私たちには到底できないのである。
テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。
第21期竜王戦第1局竜王戦【梅田望夫観戦記】(1)「正しいことが正しく行われている街で」より)

ここでは、テロ、戦争、世界経済の崩壊が例にあげられているが、天変地異・大災害などもそれに含まれると考えていいだろう。
「個人の手に負えないほど大きなことが起きた時は、サバイバルのためにベストは尽くしながらも、個人として精神のバランスをとって、したたかに生きていく」ことを改めて肝に銘じて、また明日から始まる毎日に向き合っていこう。

関連記事
2008年10月25日(土):底が見えない世界同時金融危機を生き抜いて行く方法、第21期竜王戦の【梅田望夫観戦記】から

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2011年3月14日 (月)

東日本大震災の爪痕、東京電力による計画停電初日

3月11日の大地震で、福島や女川の原子力発電所だけでなく、関東、東北の多くの発電所が被害を受けたようで、昨日13日(日)の午後、海江田経済産業大臣が東京電力による計画的な停電実施の話を会見で説明し、夜になって菅首相が東京電力の計画停電を了承した旨の夜の記者会見で説明した。

東京の中心部を除く首都圏を5グループに分け、朝6時過ぎから3時間程度輪番で計画的に電気の供給を止め、東電の供給エリア全体での突発的な大規模停電を回避しようというものだ。

電力会社は供給エリアの電力需要を想定し、それに見合った供給を行うべく、発電所を建設する。発電所は完成までに年数を要するので、将来の電力需要の伸びをにらみながら発電所投資の要否を判断する。
通常は、想定される最大の電力需要を上回る供給力を有する発電所を持ち、需要の増減を常時監視し、その動きに応じて発電コストなどをにらみながら、どの発電所でどの程度発電すれば、無駄なく発電できるかを考えている。
一方、電気は貯めることができないので、ピークの電力需要に対し、少しでも発電量が不足すると突発的に停電が生じる。
停電にならない範囲で、コストをギリギリまで抑えながら、各発電所を運転するのが、各電力会社の腕の見せ所でもある。水力発電や原子力発電はベースの部分であり、石炭や石油、天然ガス等による火力発電の運転の多寡で、供給サイドの調整を行っているという説明を聞いたことがある。
また、今回東電の説明に出てきた揚水発電所というのは、重要の少ない夜間の電力でポンプを動かして、水をダムに揚げ、昼間にその水を利用した水力発電を行うというものであり、夜の発電電力の一部を昼にシフトする手法である。
自前の発電所でどうしても供給が不足する場合は、他地域の電力会社から融通してもらうこともある。しかし、今回は同じ周波数である東北電力も多大な被害を受けている。

日本の中心である東京のさらに中心部の官邸や中央官庁、大企業の本社等の機能を麻痺させないため、それ以外の地域は我慢してもらいたいということである。昨日の夜の時点では、供給力3100万Kwhに対し需要は4100万Kwhで、受給ギャップが1000万Kwhあるとのことだった。
まあ、やむを得ない話だが、突然の決定で、多くの市民が振り回されることになった。

おそらく、東京電力は工場等を多く有する大口需要家とギリギリまで調整したに違いない。大口需要家の中には、鉄道各社も入っていただろう。
昨日の夜の時点では、多くの鉄道会社が路線を限定しての運行との計画で、私が日常利用する西武新宿線は西武新宿-鷺ノ宮間の運行との話で、これでは通勤には使えない。JR中央線が動くなら、中央線の駅まで歩くか、あるいは荻窪まで歩き東京メトロ丸の内線に乗るかなどと思案しながら布団に入った。
今朝になると、西武新宿線が西武新宿-本川越の全線を運行するという。いつもとほぼ同じ時刻7時半頃に家を出て駅に向かった。今朝は、特別ダイヤとのことで、特急、急行、準急などの運行はないようで、掲示板に示される電車は全て各駅停車だった。最初に来た電車が、一番早く着くとのことで、乗り込んだが、本川越からの車両だろう。すでに多くの人が乗っていた。私が乗って3つほど駅を進むと、車両はすし詰め状態になり、その先の駅では、ホームで待っていた人のほとんどが乗れずじまいだった。
また、余りの混雑と周りの人からの圧迫に気分が悪くなった人も出たようで、先発で我々の前を行く列車で急病人が出て遅れているとのアナウンスがあったが、そのうち、私の乗った列車でも急病人が出た。
結局、すし詰めの各駅停車に揺られること1時間余でようやく西武新宿に着いた。いつもの倍以上の時間がかかっている。

西武新宿から地下街を歩き、丸の内線の新宿三丁目駅に向かう。駅で、中央部の車両の入り口に並ぶ。既に7、8人並んでいる。ここで、最初に到着した電車はやはりすし詰めで、私の前の5、6人が乗り込むともう入り込む余地はなく、1本見送った。幸い、1分ぐらいですぐ次の列車が来た上に、見送った列車ほど混んでいなかった。
しかし、丸の内線もJRとの乗り換え駅である四谷で一気に混雑し、赤坂見附まですし詰め状態だった。

会社に着いたのは9時半過ぎ。かなりの社員が席についていたが、私のチームは2人休んでいた。会社としては、今回の大震災対応でいろいろ対応策を考えなければならないのだが、それは同じ部の別の2つのチームの仕事で、私のチームには直接関係ない。また、明日に予定していた首都圏内での出張も、この交通事情ではリスクが高すぎる。同僚が延期をお願いする電話をすると先方の担当者は自宅待機中とのことだった。

新しい会社では、まだ新参者の私としては、余計な口出しをして、忙しいそうにしている同僚たちに迷惑をかけるわけにもいかず、また、私の本来の仕事のパートナー2人が休みとあっては、これからの仕事の相談もできず、結局のところ、今日に関しては、出勤しても何の役にも立たなかった。

計画停電が供給サイドの積み上げと需要サイドの節電で、何とか第1グループから第4グループまで回避される(東電の午前中の説明では、揚水発電の活用で発電力は3300万Kwh、朝方の需要の実績は2900万Kwhとのことだった)中、気になるのは、帰りの足。頼みの西武線は午後4時頃まで西武新宿-田無間、午後4時半頃から9時までは西武新宿-鷺ノ宮間、その後、夜9時以降西武新宿-本川越間を運行するという。
こんなやることのない日に夜9時過ぎまで足止めされるのもたまらないので、同僚に断って、会社を3時半過ぎにでて、何とか午後4時の西武新宿に駆け込んだが、そこにいたのは、上石神井行きで、その後の列車は鷺ノ宮止まり。
選択肢は上石神井行きに乗るしかなく、発車間際になんとか滑り込み、上石神井から家まで1時間以上歩く羽目になった。

さて、明日の西武鉄道はどのような運行計画になるのだろうか。

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2011年3月13日 (日)

東日本大震災のその日

「東北地方太平洋沖地震」と名付けられた大地震発生から2日が過ぎた。

3月1日に新しい職場に移ったばかりで、なおかつ、前の会社での転出の人事発令が出て、新しい職場に移るまでほとんど間がなく、前の会社でお世話になった人で挨拶できていない人も多かった。
地震が起きた日(2011年3月11日)の午前中は、挨拶できなかった人のところを改めて回り、昼も、以前お世話になった先輩とランチをとって、これで、挨拶回りも一段落。

新しい職場では、さっそく、来週、出張ということになり、午後からは出張のための資料を読み出したところだった。

2時半を回り、資料の読み込みにも退屈し始めた頃、床が揺れたような気がした。9日、10日と2日続けて地震があったので、また余震かと思っていたが、この2日間の地震を上回る大きな揺れで、小さなキャビネの上の本がバラバラと床に落ちた。新しい職場での私のオフィスは3階、とりあえず、机の下にもぐり込み、揺れがおさまるのを待った。
少し揺れがおさまったところで、職場のTVをつけてもらう。NHKでは、地震速報のテロップが流れ、すぐ、臨時ニュースを伝えるアナウンサーの映像に切り替わった。震源は東北地方の沖、2日前の宮城県沖の地震より規模が大きいようで、マグニチュードは7.9、震度7のところもあり、震度6強、震度6弱の地域は多地域にわたり、東京も震度5弱と表示されたように思う。さらに、沖合地震に不可避の津波については、多くの地域で「大津波警報」の対象になっており、その高さは6m、あるいは10mと言われていた。
今までの地震で、津波警報は聞いたような気がするが、「大津波警報」という用語は初めて聞いた気がする。

通常の地震であれば、ある程度の情報を確認したところで、テレビを消し、仕事に戻るところだが、どうも尋常ならざる地震の規模に、誰も仕事が手につかない。
しばらくすると、TVで、ヘリコプターや高台にあるカメラからの各地の海岸や港での津波の様子が写され始めた。沖合に津波の波頭が見えたと思うや、みるみるうちに波が迫り、船や車を巻き込み、濁流となって家を押し流す様子が放送される。
仙台市の名取川近くでは、砂浜を乗り越えた津波が川を遡る一方、平野をもどんどんと飲み込み、家や車を押し流し濁流となって、道路を走る車に迫る。気がついたのか、慌てて方向を変え、濁流から逃げる車もあった。
名取川にほど近い仙台空港も濁流に覆われ、ビルと滑走路の一部しか見えない。航空機の姿は見えなかったので、たまたま、駐機している便がない時間帯だったのだろうか。空港のビルの屋上には、多くの人が避難していた。
ハリウッドのパニック映画よりも、生々しく厳しい現実がそこには写されていた。

TVのニュースを見ている間にも、数回、大きな余震があった。最初の地震のマグニチュードは、その後、8.4、8.8と修正され、明治以降の日本の観測史上、最大の地震ということになった。
さらに、今日になって9.0への3度目の修正が行われ、世界の観測史上4番目の大地震ということになった。

午後5時半を過ぎ、通常なら、順次、職場から皆が帰り始める時間だが、首都圏の鉄道各社は地震後の点検のため、全社が運転が止まっている。本震のあとも、大きめの余震が2回、震度2~3程度の揺れもたびたび起こり、なかなか点検が終らないというのが、鉄道各社の実情だったと思う。

職場の同僚の中には、同じ社宅のメンバーと連れだって、歩いても4時間歩けば帰れると5時半頃職場を出た猛者もいた。(結局、彼は11時過ぎに帰宅したと連絡があった)
私は、幸い家族全員の無事が確認できたのでとりあえず安心し、歩いて帰る覚悟を固めつつ、情報源として頼る携帯電話のバッテリーがなくなる寸前だったので、フル充電してから帰ることにして充電を始めた。
充電が70%ぐらいになったころ、枝野官房長官が、「職場のような安全な場所にとどまれる人は、帰宅途中での2次災害を避けるため無理に帰ろうとしないでほしい」とのコメントを出したとニュースで伝えられたため、とりあえず、職場にとどまることにした。

首都圏の鉄道のうち、JR東日本は、11日中の運転再開はないと発表。職場でも、JRを使えないと帰れない人たちは、職場での夜明かしを覚悟したようだった。
誰かが、どこかかから、緊急時用の食料である缶入りのクラッカーとお湯を加えると食べられる五目ごはん、それに毛布を持ってきてくれて、いよいよ泊まり込む用意は万全となった。

用意された食料を食べ、毛布をまとって自分のデスクで仮眠しようとするが、夜になっても、時々、小さな余震はあり、なかなか寝られるものでもなかった。

そうこうしているうちに、夜の10時ぐらいだったか、都営地下鉄や東京メトロの一部路線の運転を再開した。私が家まで帰るためには、西武鉄道の新宿線か池袋線、職場がある日比谷・霞ヶ関界隈から西武線の乗り換え駅である新宿・高田馬場・池袋などに繋がる地下鉄が運転再開をしてくれなければならない。
しかし、すでに夜11時を回っている。通常なら23時、0時台が終電。こんな日だから運転再開となれば終夜運転だろうとは思うが、その確認ができなければ、むやみやたらと外にでても帰宅難民になるだけである。

夜12時過ぎた頃に、「小田急線運転再開、終夜運転」とTVニュースでテロップが流れる。ほどなくして「西武新宿線・池袋線再開、終夜運転」との情報。新宿に繋がる東京メトロの丸の内線、高田馬場に繋がる東西線も運転再開した旨は、東京メトロのホームページで確認できたので、丸の内線の霞ヶ関駅まで行ってみることにして、職場を出た。

霞ヶ関駅に着くと、丸の内線も終夜運転との表示。とりあえず、これで家までは帰れる。
すでに時刻は午前1時前後。5分ほど待つと、電車が到着。赤坂見附で一気に混んだが、まあ、朝のラッシュ並み。新宿で下りて、西武新宿まで歩く。
西武新宿駅に着くと、駅に併設しているショッピングビル「PePe」の入り口の前で長蛇の列。入場制限されているらしい。「ここで、30分、1時間待たされるなら、職場で夜明かしした方がよかったかな」と思ったが、10分も待たないうちに列が動き出し、その後は、順調に列が流れた。駅の改札前には警察官が何人もいて、入場制限の指示を出していた。

ちょうど、到着した電車は私にとってもっとも都合のいい「準急」だった。次の高田馬場で混むことを予想したが、乗る人はまばらで、あとはすんなり、自宅の最寄り駅に着いた。すでに、午前2時を回っていた。駅から少し離れた自転車置き場から自転車に乗り、家に帰り着いた時には、2時半近かった。

いつもは子ども3人が2階に寝て、私と妻が1階の和室に寝ているのだが、帰ってみると、1階のリビングの床に、布団を敷いて家族4人が寝ていた。長い1日が終った。

私も着替えて、家族の雑魚寝の中に身を横たえたが、なかなか寝付かれず、1時間程度しか寝られなかった。

<2011年3月14日追記>「東日本大震災」については、「関東東北大震災」という呼称も使われている。

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