2023年2月18日 (土)

三宅香帆著『それを読むたび思い出す』(青土社、2022年)を読み終わる

 著者は『人生を狂わす名著50』(ライツ社、2017年)でデビューした。
 その夏、2泊3日の京都旅行をしていた私は、建仁寺を出て当てもなく歩いていた。しばらく行くと、古民家カフェがあり、入ると入り口には本も置いてあった。天狼院という名のその書店の店長が書いた本として並べられていたのが『人生を狂わす名著50』だった。著者の経歴を見ると、現役大学生とある。取り上げられていた本の中で、読んだことがあるアガサ・クリスティの『春にして君を離れ』のところを読むと、なかなか面白かったので、その場で買った。本好きの友人にも勧めた。
 翌年夏に京都を旅行した際にも、著者はどんな人物だろうと天狼院書店を訪ねてみた。若い女性が店番をしていたので、本人かと思い確認すると、残念ながら別人だった。

 数年後、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版、2019年)を見かけたので、それも購入したが、その後、彼女の著書を見かけることもなく、また数年が過ぎた。

 今年に入り、行きつけの書店で『それを読むたび思い出す』を見つけ『人生を狂わす名著50』の著者であることを確認して、レジに向かった。
 今回の著作の内容は、高校生までを過ごした生まれ故郷の「高知」、学生時代を過ごした「京都」、そしてその間を通じ常に著者とともにあった「読書」の3つのテーマで書かれた20のエッセイとまえがき、あとがきから構成されている。平易な読みやすい文章だが、優しいことばの連なりの中に、さらりと鋭い切れ味を隠している。
 高知編では、自分にとっての故郷の風景は、高知にしかない桂浜や鰹のタタキではなく、大好きな本や漫画に出会わせてくれたブックオフなどの全国チェーンだと語る。プロトタイプの「地方にしかない素晴らしいもの」的発想に異を唱え、チェーン店は地方への文化の分配だとの一文に、思わずなるほどそうかも知れないと唸ってしまった。
 京都編では、冒頭に、バイト先で一緒に働いてた友人(男)が、充電器を借りに来る話がある。彼とのやりとりの中で、著者の人に対して怒ることに対する意識が変化する。この友人とのやりとりも絶妙だ。京都という街で様々な友人との出会いや学生として考えたことが語られる。読みながら、自分も、あの町で学生として過ごせたら、楽しかったろうなと思ってしまった。

 肩肘張らず気楽に読めるが、余韻の残る本だった。腕のいい脚本家がかかれば20のエッセイを題材に、松尾諭の『拾われた男』ようにドラマになるかもしれない。

 

 

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2023年1月22日 (日)

牟田都子著『文にあたる』(亜紀書房、2022年)を読み終わる

地味な本だ。でも、丁寧に作られた本だ。校正者である著者が、校正の仕事で、感じたことを、まとめたエッセイ集である。行きつけの書店で見つけ、帯と目次を見て即購入した。

 著者は、フリーの校正者。図書館勤務を経て、出版社の校正部勤務のあと、フリーに転じ、出版社から持ち込まれるゲラの校正を行っている。いったい、校正者は、どこに目をつけ、どのように校正を行っているのか、本好きとしては興味があった。
さらに自分自身、昨年の春から、業界の月刊誌に連載記事を書き始めたが、その連載では校正者はつかず、編集部と自分だけが頼りという状況だった。編集者は、明らかな誤字や、文意が伝わらずわかりにくいといったことは指摘してくれるが、書いていることが事実として誤りでないかまでのチェックまでは期待出来ない。自分が襟を正して、事実確認を積み重ねるしかない。
石原さとみが主演したドラマ『校閲ガール』に出てくるような頼れる校正者がいるとありがたいなと、連載を引き受ける時にふと思ったが、現実はそんなに甘くはなかった。
 
 連載では、これまでの仕事でやってきたプレゼンテーション資料を、文章にすることが中心で「ネタは沢山あるので大丈夫だろう」と引き受けたものの、新しく降ってくる日々の仕事をこなしながら、毎月一定量の原稿を書き続けることは、想像以上に大変だった。
 原稿を前月末に編集者に送ると、初校、再校、念校と3回の校正がある。念校を出し終える頃には、当月の中旬になっており、月末には雑誌が出る。中旬から月末までに翌月の原稿を仕上げなければならない。自分が作ったプレゼン資料だとしても、ずいぶん前に作ったものだと、参考にした資料のあやふやだし、出来事などの細かい年月まで正確に書き込んでいないものも多く、再度の確認が必要になる。

 この『文にあたる』では、それぞれ、冒頭にテーマに沿った文学者や校正者の一文があり、それを巡って著者が思索を巡らす。その中で、一番私の印象に残るのは「すべての本に」と題された一文だ。冒頭には寺田寅彦の『寺田寅彦 科学者とあたま』からの次のような引用から始まる。

「間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうして間違っていないという事以外に何の取柄もないと思われる本もある。(以下、引用略)」
 
著者がこの本を通じて語ることの一つにどんなにも、校正者も見落としてしまう誤植や誤りがあるということ。その上で、次のように締めくくる。

「(校正者としての)わたしにとっては百冊のうちの一冊でも、読者にとっては人生で唯一の一冊になるかもしれない。誰かにとっては無数の本の一冊に過ぎないとしても、べつの誰かにとっては、かけがえのない一冊である。その価値を否定することは誰にもできない。その価値を否定することは誰にもできない。著者自身でさえも。歳月を経て、刊行されたときに想定されていたのとは違う意味と価値を持つこともあります。本は人間より長く生きるのです。そうした可能性を考えたとき、すべての本が等しく手をかけられてほしい。理想論かも知れませんが、そう願わずにはいられないのです。」

いま、続けている連載をいずれ、本にまとめられればと思っている。プレゼン資料を作るときにも思っていることだが、専門的なことであればあるほど、間違いのないように正確に書こうとすればするほど、事柄の幹(みき)の部分だけでなく、枝葉の部分まで書いてしまう。そうすると、そのテーマに門外漢の読者にとっては、何が本質で大事なことなのかサッパリわからないということになりがちだ。どうやって、本質である幹の部分だけを伝え理解してもらうか。説明不足と過剰な説明は紙一重だし、読者の知識次第の面もある。
もし、連載が本になるとすれば、そのときは、有益な本になってほしい。そして、読者の誰かにとって役にたつものなればと思う。

 

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2021年5月22日 (土)

北条早雲(伊勢新九郎盛時)を描く『新九郎、奔る!』(ゆうきまさみ、小学館)

 主人公伊勢新九郎盛時は、後に小田原で戦国大名として名をなした北条早雲。足利八代将軍義政の時代に室町幕府政所の執事として権勢を誇った伊勢貞親の甥にあたり、父盛定は伊勢家の庶流だが、貞親の妹を妻とし、貞親の義弟となり、貞親の片腕として活躍する。その盛定の側室が生んだ次男が新九郎である。
 世継ぎの生まれない義政が僧職にあった弟義視を将軍の後継にと還俗をさせたが、その後、義政に長男が生まれ義視の立場が微妙になっている時期から物語は始まる。
 将軍義政の側近として権力を振るう伊勢貞親は権謀術数にたけるが、行き過ぎて自らの地位を危うくすることもある。義兄と行動を共にする新九郎の父盛定も、それに巻き込まれざるを得ない。そのような京都で山名宗全と細川勝元のそれぞれの旗頭にした応仁の乱が始まる。盛定が申次を務める駿河守護今川義忠の上洛では、姉の伊都が見初められ、その後、今川義忠に輿入れする。

 ストーリーの大枠は近年の研究に基づいているが、新九郎が山名宗全や細川勝元とも関わる場面が作られる。まだ若い新九郎が父盛定の名代として、領地である備中国荏原に赴き、領地の経営にもあたる。荏原郷を東西で二分して治める同族との確執もある中、地元の様々な課題と取り組む。また、現代の世相を反映するように、京都で天然痘や麻疹の流行、備中では水害に見舞われる苦労することも描かれる。
 現在、刊行済の全7巻では、領地経営に取り組む新九郎の姿までだが、今後、成長とともに姉の嫁ぎ先である駿河今川家とどのように関わり、伊豆そして、相模へのどう展開していくか楽しみだ。
 一般向けに書かれたとはいえ、前回紹介した『戦乱と政変の室町時代』、『応仁の乱』『享徳の乱』などで活字を追うだけでは、すんなり頭に入らなかった三管領四職の各家の家督争いの人間関係などが、漫画の中で特徴を持ったキャラクターとして描かれるとイメージしやすくなる。
 この漫画をみつつ、作者ゆうきまさみが「『新九郎、奔る!』の第一歩は、この本を手にとった瞬間に始まりました」と帯に推薦文を書いている『戦国北条五代』(黒田基機著、星海社新書)を読んでいる。
  

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2021年5月16日 (日)

『戦乱と政変の室町時代』(渡邊大門編、柏書房)を読み終わる

日本史好きだが、室町時代はどうしてもなじみが薄い。高校の日本史の教科書で、政治だけ追いかけていくと鎌倉時代末から南北朝の後醍醐天皇と足利尊氏の争い。南北朝の統一を成し遂げ盤石の室町幕府を作り上げたようなに見える足利義満の時代は、明との勘合貿易そして金閣寺の印象ばかり残る。その後、くじ引きで将軍になった義教は嘉吉の乱で赤松氏に殺害され、将軍の権威は一気に失墜したと思う。その後、義政は政治に関心をなくしたように見え、応仁の乱が始まるが、なぜ、天皇も、将軍もいる政治の中心京都で町中を戦火に巻き込む応仁の乱が起きて、あれほど長く続いたのかも納得できる説明はない。戦国時代に入ると、足利将軍は織田信長に顔色をうかがう存在になってしまう。
本当に、義満の権力は盤石だったのか、将軍の義教がなぜ部下の武将に殺されなければならないのか、前後のつながりや歴史がそのように動いた必然性がよくわからないまま進んでいく。むしろ室町時代は金閣寺や銀閣寺、連歌などの文化、土倉などの経済面の記述の印象が強い。

そのような学校での歴史教育のわからなさもあってだろう、しばらく前には呉座勇一の『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになり話題になった。私自身は、応仁の乱の少し前に関東で始まった享徳の乱を取り上げ峰岸純夫の『享徳の乱 中世東国の三戦争戦争』(講談社現代選書メチエ)が室町期の関東で何が起きていたのか、知識の空白を埋めてくれた気がした。しかし、それでも、まだ室町時代全体は繋がらなかった。思えば、足利尊氏、直義の兄弟が争う「観応の擾乱」から始まり、一族内の複雑な利害関係が絡む室町時代だからこそ、それぞれの乱、政変がなぜ起き、どう決着したのか?それで乱や政変の首謀者に正義はあり、敗者の敗北はやむを得なかったのか?そのあたりの説明がないとなかなか納得できない。

この『戦乱と政変の室町時代』は、鎌倉末、南北朝、室町初期と続く「観応の擾乱」から始まり、「明徳の乱」「応永の乱」「上杉禅秀の乱」「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「禁闕の変」「享徳の乱」「長禄の変」「応仁・文明の乱」「明応の政変」と12の乱、政変を取り上げ12人の歴史学者がそれぞれの事件を綴る。高校の日本史の教科書では、脚注で終わってしまっているような、あるいは脚注にも取り上げられていないようなものあるが、多くの乱、政変は、それ以前の乱や政変に必ずしも正義はなく、首謀者の権力欲や私怨で起き、敗者の側も納得していないので残党が新たな戦いを起こったりしている。

室町幕府は、足利将軍が君臨するが管領をつとめる細川、斯波、畠山の三管領、侍所の長官をつとめる赤松、一色、山名、京極の四職などの各家が守護大名として各国を治めるが、将軍は常にどこかの一族が強大な勢力になるのを避けるため、常に各家の家督争いなどにつけこみ、陰に陽にどちらかの肩をもち、もう一方の力をそぐ。さらに、将軍家の分家で関東に駐在する将軍の名代である鎌倉公方とも時間の経過とともに、反目し、関東管領(上杉家)に鎌倉公方の監視の役目も負わせ、肩入れする。関東は、鎌倉公方と関東管領が利根川を挟み、東西に分かれて対峙する。鎌倉公方が、鎌倉から古河(こが)に移り古河公方と呼ばれるのも、鎌倉が管領側の支配地域となり帰還できなかったことも大きい。鎌倉公方が幕府と反目し、古河に移る中、京都側が伊豆に堀越(ほりごえ)公方を据えるのも、本来の鎌倉公方は堀越公方と言わんがためであろう。

呉座勇一の『応仁の乱』で、当時の政治情勢が複雑に入り組み、簡単に理解しようとすること自体が無理な話であることがなんとなくわかり、峰岸純夫の『享徳の乱』で、教科書にほとんど書かれない室町時代の関東でも、鎌倉公方を頂点とする主従関係の中で、有力な家でも主従の争いなど様々な興亡があり、その最後を締めくくるように登場するのが後北条氏である。室町将軍の側近だった伊勢家の出身といわれる伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)。鎌倉時代に将軍を支える執権だった北条氏にあやかるべく、二代目北条氏綱の時に北条を名乗ったということらしい。
その二冊を読んでもまだ細切れだった室町時代の政治の流れが本書を読んで、大きな流れはつかめた気がする。

室町時代をもう少し理解したいと思う、歴史ファンにはお勧めの1冊だと思う。

 

 

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2020年7月26日 (日)

門田隆将『疫病2020』

何事も渦中にいると、目の前の事に追われがちだ。年明け以降の新型コロナウィルス感染拡大の中での出来事も、メモして残したおかないと、いつ何が起きて、自分が何をしたかさえ曖昧になってくる。
そんな中で、その時、武漢や日本で何が起きていたか、いち早くまとめた本が出た。門田隆将の『疫病2020』(産経新聞出版)。アマゾンで見つけてすぐ注文し、昨日届いた。


この作者は、東日本大震災の時の福島原発事故の現場での格闘を描いた『死の淵を見た男』で知った。膨大な情報収集と緻密な取材で執筆していると思わせる内容だった。


『疫病2020』の方は、まだ、読んでいる途中だが、いかに自分が、一連の新型コロナウィルス感染拡大の真相を知らなかったかを痛感した。
中国が感染発生当初、露骨に情報の隠蔽をしたこと、日本でも後に感染拡大防止や治療の最前線に立った医療の専門家も、当初は楽観的なコメントをしていたこと、安倍政権や厚生労働省は全く危機感を欠き無為無策で、この不作為が後に国民に大きな負担を強いることになること。
再び、緊急事態宣言による自粛が緩和され、6月以降少しずつ日常が回復され出したこととに少し遅れて再び感染者が増え始めた中、読む価値があると思う。
政権や厚生労働省などの言うことを鵜呑みにせず、自分の身は自分で守るしかない。

<追記2021年5月22日>

本作の著者門脇隆将氏を取り上げた『疑惑の作家「門田隆将」と門脇護』(柳原滋雄著、論創社)を読んだ。この本によれば、2011年に門脇氏は、日航機の御巣鷹山墜落事故を題材にした過去の著作『風にそよぐ墓標』で、取材先の遺族の著書『雪解けの尾根』からの盗用を理由にその遺族から著作権侵害差止等請求の民事訴訟を東京地裁に提訴され、2013年に1審(東京地裁)、2審とも門脇氏側が敗訴、2015年には最高裁で門脇氏側から上告が棄却され、14箇所の著作権侵害が認定されている。知らなかったとはいえ、自身の不明を恥じる次第だ。

『死の淵を見た男』や『疫病2020』で著作権侵害があるわけではないと思うが、門脇氏は、最高裁での上告棄却に至っても、自らの非を認ることなく、著作権侵害をした相手に謝罪することもなく、自己正当化をしている。その姿勢には失望せざるを得ない。

物書きをなりわいとする人が、著作権侵害で民事訴訟を起こされて最高裁でそれが確定しても、謝罪をする訳でもなく、引き続きノンフィクション作家として作品を書き続けられる現在の日本のマスコミや出版界の対応にも疑問が残る。(百人一首を題材にした漫画『ちはやふる』の作者末次由紀は、『ちはやふる』以前の作品で、井上雄彦の作品からの盗用をネット等で指摘され、謝罪、既刊の作品の絶版、1年以上の謹慎(漫画家活動を停止)を経て、復帰している。裁判沙汰になったわけではないが、そこまでやっている。)

同氏がもともと週刊新潮の記者というマスコミ界にとっての身内だからだろうか?

 

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2020年5月25日 (月)

FACEBOOKでの7日間ブックカバーチャレンジ

新型コロナウイルス感染拡大で、家にいる機会が増えた時の退屈しのぎということだろうか、FACEBOOKで「7日間ブックカーバーチャレンジ」というイベントが流行りだした。

7日間、自分が読んで面白かったと思う本のカバーの写真を投稿する。①本の内容の説明は不要。②毎日一人、友達をブックカバーチャレンジに招待するとうのが条件になっていた。私のところにも、友人から招待が来たので、やってみた。

投稿している人を見ていると、ルールをきちんと守ろうとする人もいれば、紹介した本の内容についても詳しく紹介している人もいる。最後の日に一人だけ招待する人もいた。私も、招待を受け、自分のネタを書くのには困らなかったが、毎日1人の招待は無理だった。

私のブックカバーチャレンジにコメントをしてくれたり、「いいね!」を押してくれた人に、招待していいかメッセージを出すと、やってもいいと言う人は、パスという人はほぼ半々だった。パスの理由の中に、毎日1人で7人も招待できないという声もあった。

イベントを考えた人は、なるべく負担のないようにということだったのだろうが、毎日1人の紹介は負担だと思う。また、私自身は表紙の写真だけでは、飽き足らず、本の内容や著者について紹介したくなり、途中からルール無視で書き始めた。やり終えて思ったのは、7日では紹介しきれない本や、作者がまだまだいることだっと。

ならば、自分で書けばいい。松岡正剛の「千夜千冊」には及ぶべくもないが、私の書いた本の話題を読んで、その本を手に取ってくれる人が一人でもいればいいではないか。このブログでも、ずいぶん本のことを書いたが、基本はそのとき、読んだ本のことである。そして、ほぼ3年間は休眠状態。自分の読書歴を棚卸しして、本の話題を中心に、少し書き始めてもいいかなと思い出した。

いつまで続くかわからないが「私家版ブックカバーチャレンジ」をはじめようと思う。

 

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