2008年5月 5日 (月)

絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その2-出会いの不思議

エリック・カールさんは、1929年にアメリカのニューヨーク州でドイツ系移民の子として生まれた。1935年には、親子はドイツに帰国。カール少年は、ナチス政権下のドイツで青少年時代を過ごし、第2次大戦後のドイツで、美術やデザインの基礎を学んだ。
その後、ドイツで、グラフィックデザイナー、ポスター作家として経験を積んだ上で、1952年に再びアメリカに戻った。
アメリカでも、最初はグラフィックデザイナー、イラストレーターとして仕事をしている。

カールさんの絵本作家への転身には2人の人物がかかわっている。

1人目が、ビル・マーチンという作家であり編集者である男性である。カールさんのイラストに関心を持ったマーチン氏が、自分の書いたおはなし『くまさん、くまさん、何みてるの?』の挿し絵をカールさんに依頼したことが、絵本とかかわる最初である。これで、絵本の素晴らしさを知ったカールさんは、その後、自らストーリーも考えるようになる。(マーチン氏とのコンビの絵本も、その後出版している)

2人目が編集者のアン・ベネデュース女史。以前、料理の本の挿し絵で一緒に仕事をしたベネデュースさんに、カールさんは自作の絵本のアイデアを持ち込む。そうして、持ち込まれた2冊目の絵本が『はらぺこあおむし』の前身のお話。カールさんの原案では、緑色の虫が、「はらぺこあおむし」のように、本に穴を開けながらいろいろなものを食べ、最後にまるまると太っている姿で終わりになっている。虫が好きではなかった、ベネデュースさんが「caterpillar(芋虫、毛虫、あおむし)は?」と言い、最後の色鮮やかな蝶になって飛び立つ、現在のラストシーンが生まれたという。

今では、絵本作家として何十冊もの作品を描いているエリック・カールさんだが、ビル・マーチン氏が挿し絵を依頼しなければ、絵本の世界に足を踏み入れてはいなかったかもしれないし、編集者としてのアン・ベネデュース女史のアイデアがなければ、『はらぺこあおむし』が、時代を超えて読み継がれるような絵本になったかもわからない。
ふさわしい時期に、しかるべき人と巡り会うことの大切さを感じずにはいられなかった。

それは、偶然なのか、必然なのか。このブログで1年以上前に紹介した河合隼雄さんの「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」という考え方を拠り所にして、受けとめるのが一番いいのだろうなと思いながら、エリック・カールさんの人生の不思議を考えた、エリック・カール展だった。
(2006年8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

なお、今日の記事は、会場で販売していたエリック・カール展の図録及び、会場隣の売店で購入した雑誌「MOE」のエリック・カール特集号(2007年2月号)を参考にした。

なお、このエリック・カール展は、図録によれば、銀座・松屋での開催のあと、来年まで全国で順次行われるようだ。
2008年4月29日~5月12日 松屋銀座(東京)
2008年9月19日~11月3日 島根県立美術館
2008年11月29日~12月28日 美術館「えき」KYOTO
2009年4月3日~5月6日  そごう美術館(横浜)

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絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その1-創作の秘密

一昨日、4連休の初日の「憲法記念日」(2008年5月3日)は、新聞で見かけた「エリック・カール展」を見に、銀座の松屋まで出かけた。

Photo_2今にも雨が降りそうな曇り空だが、銀座には、老いも若きもたくさんの人である。お目当ての松屋の8階の催事場まで、エスカレーターを乗り継いで行く。会場にたどり着くと、子供の日ということもあってか、親子連れが多い。入場券を買って、会場の中に入ると、それぞれの原画の前にたくさんの人。盛況だ。

これまで、何冊も出されている絵本の中から代表作を選りすぐり、その原画を各絵本につき5枚から10枚程度展示してある。そのほか、エリック・カールさんが作品を作るところを紹介したビデオや、今回の展覧会用のインタビューのビデオをなどが流されている。

エリック・カールさんの絵本といえば、多彩な色づかいが特徴だと思うが、どのような手法であの彩り・色使いを出しているかなど考えたこともなかった。

今回紹介されていた技法を簡単に紹介すると、まず、彼の原画はすべて「貼り絵」である。
トレーシングペーパーに原画の下絵を描き、その原画の色にふさわしい「色紙」を用意して、トレーシングペーパーの下絵に沿ってカミソリで切り抜く。
切り抜いた色紙を、その部分だけ穴が空いたトレーシングペーパーを台紙にあてて場所を確認しながら、色紙に糊をつけて台紙に貼りつけていく。
その繰り返しにより、台紙の上に、様々な色の切り抜かれた色紙が一枚一枚貼りつけられていき、台紙の上に切り抜いた色紙をコラージュ(糊付け)した本当の原画が完成する。

これだけであれば、ただの「貼り絵」に過ぎないが、エリック・カール作品の秘密は、切り抜いた「色紙」にある。
「色紙」は市販の単色のものではなく、ティッシューという特殊な薄い紙に、彼自身がアクリル絵の具を、思いつつくまま、何重にも塗り重ねて作ったものである。その色紙を作る時は、最終的な作品と結びついているわけではなく、塗りに専念している。いざ、原画のコラージュを始める時に、その原画にふさわしい自家製の「色紙」を探し出してくるのだ。

何気なくみているこどもの絵本でも、これだけの創作の秘密があるとは……。改めて、世の中には、自分の知らないことの方が多いことを実感した1日であった。

会場でのビデオやパンフレットで、エリック・カールさんが絵本作家として世に出るまで、様々な人との出会いがあることを知った。それは、一つの物語である。記事を改めて、「その2」としてまとめることにしたい。

この展覧会は5月12日(月)まで、銀座松屋で開催されている。ご興味のある方は、一度足を運ばれるとよいと思う。

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2007年11月29日 (木)

将来やってみたいこと「スケッチと書道」

先々週受けた研修のテーマが定年後の第二の人生をどう生きるかがテーマだったという話を書いた。
そこでは、会社を離れても通用する専門技能を身につけているかというのが大きなテーマだったが、さらにその先の話として、完全に仕事からリタイアしたあと、残りの人生をどのように過ごすのかというテーマもあった。

その頃には、3人の子ども独立しているだろうから、我が家の場合であれば、夫婦2人になった後、2人でどう過ごすのかというテーマであった。
夫婦で共通の楽しみを見いだす、それぞれ自分のやりたいことを探しお互いにそれを認め合う、あるいはその両方の間を取った折衷案でいくなど、選択肢は様々だろう。

私の場合は、パソコンを前に今ブログを書いているように、文章を書き続けるというのが、一番ありそうな姿だが、ほかにやってみたいことはあるだろうか?と考えてみた。

思いついたのは2つ。「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。
「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。

「スケッチと書道」が思いついたのは、私がその2つのことにコンプレックスを持っていて、それを何とかしたいという思いがあるからだろうと思う。
そんなことかつらつら考えていたら、書店でおあつらえ向きの本を見つけて、思わず買ってしまった



さて、今回はものになるかどうか。まずは、一通り読んでみよう。

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2007年11月23日 (金)

オーケストラ(チェコ・プラハ管弦楽団)コンサートを聴きに行った

今日は午後からオーケストラのコンサートを聴きに行った。先週、招待券があるから行ってみないかと、知人に声をかけてもらったので、すっかり甘えて家族5人分の招待券をもらって、会場である杉並公会堂まで行ってきた。

楽団は、チェコからやって来た「チェコ・プラハ管弦楽団」。クラシック音楽の世界に疎い私には、このオーケストラが、世界的にどの程度の評価を受けているのかはわからないが、お金をとって人に音楽を聴かせるプロであることには間違いない。

これまで、子育ての中で、自然の中で遊ばせる、日本の名所・旧跡等を訪ねるといったことはやってきたが、芸術面は親の側にセンスのないこともあって、あまり経験させることができなかった。
そのような中で、今回の話は「渡りに船」といった感じだった。

公演では1990年生まれのアンドレイ・バスキンというヴァイオリン奏者(男姓)と1985年生まれのエリザヴェータ・スーシェンコというチェロ奏者(女性)のう2人の若いソリストも登場し、すばらしいソロを披露してくれた。

しかし、先週、仕事がけっこうハードだった私は、「半分ぐらい寝てなかった?」と隣の妻に言われる状態。途中、うつらうつらしたことはあったが、半分もねていたかな~?と自分では思うのだが、おそらくそうなのだろう。それだけ、心地よい演奏だった。
たまには、気分を替えてクラシックコンサートもいいかもしれないと思った。(いつも眠っていては、もったいないけれど)

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2007年10月 8日 (月)

国立近代美術館で「平山郁夫展」を見る

今日は、2週間ほど前(9月23日)に皇居一周をしたために見そこなってしまった「平山郁夫展」を見に、午後から竹橋にある国立近代美術館に行ってきた。
今回の企画は、平山郁夫画伯の喜寿(77歳)、画業60年を記念して行われたようで、館内で配られていたパンフレットには「仏教伝来からシルクロードへ-画業60年をたどる大回顧展」と書かれている。

「平山郁夫」という名前だけは知っていても、その経歴をつぶさに調べたりしたことはなかった。出身は広島県尾道市、昭和5(1930)年生まれの77歳。中学時代には、学徒動員で働いていた工場で、原爆に遭遇。爆心地から3kmのところだったと説明には書かれていた。「被爆者」として「死」というものと向かい会わざる負えなかったことが、画家平山郁夫の原点にあるようだ。

展示されている作品は、約80点ほど。駆け足で見て回っても、ゆうに1時間はかかる。展示品は、「第1章仏陀への憧憬」「第2章玄奘三蔵の道と仏教東漸」「第3章シルクロード」「第4章平和への祈り」の4つに大きく分類されている。
第1章は仏教の創始者釈迦の一生を描いた連作、第2章は仏典を求めてインドに旅した玄奘三蔵の姿を描く。そしてその2つの流れは、第3章へのシルクロード各地を訪ね描く旅に繋がっていく。
最後の第4章の展示は、主に日本が舞台である。紅蓮の炎に燃える「広島生変図」は原爆投下で焼き尽くされる広島の街を描いた作者の思いがこもった作品。しかし、私が最も惹かれ印象に残ったのは「月華厳島」と題された、夜の厳島神社を描いた作品。夜のとばりを深い群青色で表わし、そこに燈明の明かりが黄色く揺れる。なんとも幻想的である。
今回の展示全体を通して、「青」の色遣いが印象に残った。

こうのような美術展は、東京にいるからこそ見ることができるもの。これからは、もう少し文化的な面で東京に住んでいる利点を生かさなければもったいないと感じた。

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2007年1月11日 (木)

句集『花柚』(植田房子著)から冬の句を2句

昨日、知人から『花柚(はなゆ)』という句集をもらった。植田房子さんという岡山在住の女流歌人の句集だ。この句集の中から、大岡信さんが選者をしている朝日新聞の「折々のうた」にも、一句選ばれているので、その道ではそれなりの評価を受けているのだと思う。

私は、俳句のことは、5・7・5で詠み、季語を織り込むことぐらいしかわからないので、どの句がいいなどとおこがましいことは言えないが、通読させていただいて、自分も同じような風景をみたことがあるなと思って、共感したものを2首ほど紹介してみたい。

時節柄、冬の句から2句。

門前に達磨となりて雪のこる
(植田房子『花柚』51ページ)

去年、東京で雪が降り、わずかながら積もった時、当時小5だった長男は、はしゃいで、暗くなってから外に出て、雪だるまを作っていた。その雪だるまが、数日間、家の前で融けかかりながらも、数日間、残っていたの思い出した。
私の仕事の関係で、1歳で富山に引っ越し6歳まで過ごした長男にとって、冬の雪はいつもすぐそこにある身近な存在だった。2人の姉や、近所の友達と雪合戦や雪だるま、時にはかまくらなども作り楽しんでいた。しかし、東京ではほとんど雪は降らない。また、私が札幌単身赴任した時の年末・年始、札幌に呼んだ時、雪は回りにいやと言うほどあったのだが、札幌の雪はサラサラしていて、雪玉にならないので雪合戦もできないとがっかりしていた。それ故、東京での珍しい雪に血が騒いだようだ。

黒豆に水を吸わする霜夜かな
(植田房子『花柚』54ページ)

おせち料理の定番メニュー黒豆。その黒豆を煮るためには、一晩水に浸しておかなければならない。霜が降りそうな寒い夜、水を張った鍋に眠る黒豆、その息づかいが聞こえてきそうな句だ。
なぜ、黒豆に目の句に目がいったのか。いま、私の減量作戦ののパートナーが黒豆である。あまり肉を採りすぎないように植物性タンパク質として、また食物繊維の供給源として、おせち料理の時期が終わっても、黒豆を食べている。

作者・詠み手の思いとは、全く違った解釈かもしれないが、鑑賞する側が自分の経験に照らして、共感・共鳴できるものを感じられれば、それがその人(鑑賞者)にとって、良い句なのではないかと、勝手に思っている。

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2006年12月30日 (土)

将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

2006年の将棋界を揺るがした伝統のタイトル「名人戦」の主催新聞社の移管問題。3月に、将棋連盟が毎日新聞社に対して第66期以降のと名人戦主催契約の継続をしないことを通知したことを契機に、毎日新聞社の自らの紙面で将棋連盟を非難するキャンペーン を開始したこともあって、将棋連盟と毎日の関係も悪化した。しかし、8月の棋士総会で、毎日単独主催案が否決されたことを受け、将棋連盟の米長会長は、毎日と朝日に対して両社での共催を提案した。毎日側は、これまで落ち度なく名人戦を主催してきたのに、突如、契約継続せずとの通知を受け、顔に泥を塗られるに等しい仕打ちをされたことを考えれば、拒否するだろうという大方の見方に反し、9月に共催案を受諾した。その後、具体的な内容について、連盟と毎日、朝日の間で交渉が続けられていたが、27日にまとまり、28日の新聞紙上で発表された。

主な内容は、
①名人戦の契約金は3億6000万円(両社で各1億8000万円、なお毎日単独開催時の契約金額は3億3400万円)で期間5年
②両社は実行委員会を組織して運営にあたり、棋譜(対局での指し手の記録)はウェブも含め両社が独占的に掲載
③毎日がスポーツニッポンと共催で行っている7大タイトル戦の一つ「王将戦」は、従来通り継続(契約金7800万円は変更なし)
④朝日が主催している準タイトル戦の「朝日オープン選手権」(1億3480万円)は契約金が8000万円の棋戦に衣替え
⑤さらに将棋普及のための協力金として両社で年1億1200万円を5年間、連盟に対して支払う

一時、将棋連盟は4億円以上の契約金を提示しているとの報道も見たような気がするが、さすがにそれは、両社が難色を示したのだろう。

今回の騒動の背景には、将棋連盟の収支状況の悪化ということがある。前々期は赤字であったという。細かい収入と費用の内訳は知る由もないが、連盟の運営を行う理事会のメンバーは、全員現役ないし引退した棋士が行っている。彼らは。将棋のプロではあっても、経営のプロではない。その中で、現在の米長邦雄会長は、数少ない経営感覚を持った棋士であろう。現役時代、史上最年長で名人になった時、1年間主催者である新聞社の新聞の販売増に努めるのは当然と言い、全国の販売店を回るということを行った。将棋界が、その勝負を関心を持って見つめるファンのおかげで成り立っていること、そのファンに対して将棋界の情報を伝える媒体として新聞は欠かせないものであること、それらのことが、よくよくわかっていたからこその行動であろう。

しかし、かつて将棋盤を挟んで将棋を指して遊んでいた少年たちは、いまやTVゲームやインターネットに多くの時間を割いている。少年時代に、将棋に親しまなかった人が、成人して将棋ファンになるとは思えない。将棋ファンは明らかに減っているだろう。さらに、バブル崩壊後の長引く不況の中で、多くの企業が、ファンが減って相対的にPR効果が減少した将棋の棋戦のスポンサーを降り、これまで親しまれていた棋戦のいくつかが廃止された。将棋界を支える最大のスポンサーである新聞・テレビ業界とて、インターンネットの出現で、そのあり方が根底から問われている。

結果的に見れば、今回の解決策は、連盟と2社にとって、三方一両損的な妥協案であるが、見方を変えれば、時代の必然だったのかも知れないという気もする。いまや、伝統ある名人戦という大タイトル戦は1新聞社で支えるには重すぎ、スポンサーの側から見れば費用対効果の点で折り合わない。連盟の側から見れば、より多くのファンに名人戦とその予選であり、棋士の生活の中心である順位戦をより多くの人に伝え、減り続けるファンを引き留め、少しでも増やすべくPRしていくには、全国紙2社の力が必要だったということではないのだろうか。将棋連盟としては、今後5年間、両社から支払われる1億円余の普及協力金を有効に使えるかどうかであろう。また、以前にも書いたが、現役の棋士たちが、ファンが手に汗握るような名勝負を繰り広げ、1人でも多くの人にプロの将棋の勝負の世界を知ってもらうことであろう。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

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2006年12月23日 (土)

第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠

おととい(2006年12月21日)、現在、将棋界の最高の棋戦と位置づけられている竜王戦(主催・読売新聞社)が幕を閉じた。一作年、現在の森内俊之名人から竜王位を奪取し弱冠22才の渡辺明竜王。挑戦者は、名人戦を除く、今年度のこれまでのタイトル戦にことごとく登場している佐藤康光棋聖(35才)。残る棋王戦、王将戦も挑戦者決定戦に駒を進めており、年間対局数の多さは群を抜いている。

しかし、自らタイトルホルダーである棋聖位こそ3連勝で挑戦者鈴木大介八段を退けたものの、王位戦はフルセットの末、王座戦では3タテで羽生善治3冠に敗れ、今回の竜王戦を迎えた。佐藤棋聖としては、竜王位を奪い2冠を持つことで、同世代の羽生3冠、森内名人・棋王と並び、名実ともに3強の一角を占めることを示す絶好のチャンスであった。10月10・11日のサンフランシスコでの初戦、10月31日・11月1日の富山・宇奈月での第2戦と連勝し、4連勝で渡辺竜王を一蹴するかに見えたが、他棋戦でも勝ち進むハードスケジュールが応えたのか、その後渡辺の逆襲にあい3連敗。6戦目のカド番を注文を付けた勝負でものにして、3勝3敗で12月20日からの最終戦に持ち込んだものの、最後は力尽きたのか、タイトル奪還には一歩及ばなかった。

一方、受けて立った渡辺明竜王は、竜王戦開始直前の『将棋世界』11月号でのインタビューで、その時点で、挑戦者決定戦に名乗りを上げていた、佐藤棋聖、丸山忠久九段(元名人)のどちらが挑戦者になったとしても、「世論(中立なファンの9割)は、挑戦者が勝つと思っているでしょう。でも、そうはならないと思います。」という趣旨のコメントし、将棋世界の編集者はそれをとらえ、このインタビュー記事に「私は下馬評を裏切るだろう」という刺激的なタイトルを付けた。結果的に、その自らの予言通りタイトル防衛を果たしたのだから、大したものである。

渡辺竜王は3強のうち、森内現名人から竜王位を奪取し、佐藤棋聖の挑戦を退けた。残るは、将棋界のスパースター羽生善治三冠である。羽生三冠には2003年に王座戦で一度挑戦し、3勝2敗で退けられている。タイトル戦で、羽生三冠に一矢を報いることができてこそ、羽生三冠の後継者、将棋界の次代のリーダーといえるだろう。これからの、羽生対渡辺の激闘が楽しみである。(個人的には、贔屓にしている郷田真隆九段にも、再度タイトルホルダーとなって、渡辺竜王を撃破してもらいたい。)

お詫び:当初、本ブログのタイトルを「第18期竜王戦」としていましたが、正しくは「第19期」でした。お詫びして訂正します。ご指摘下さったエバグリンさんありがとうございました。(2007年1月6日記)

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年12月17日 (日)

畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

畠中恵の『しゃばけ』シリーズの第4作『おまけのこ』に続き、第5作の『うそうそ』(新潮社)を読み終わった。

タイトルとなっている「うそうそ」は「嘘々」のことだろうと思っていたら、さにあらず、本書の物語の前に「江戸語辞典」(東京堂出版)による語釈として

【うそうそ】
たずねまわるさま。きょろきょろ。うろうろ。(畠中恵『うそうそ』2ページ)

という解説が付されている。なるほど、と思ったところで、読者はすでに江戸日本橋の廻船問屋長崎屋を舞台にした『しゃばけ』ワールドに足を踏み入れている。

今回はタイトルの「うそうそ」に象徴されるように、主人公である若だんな一太郎が、江戸から離れ、箱根に湯治に行くという話である。第1作の『しゃばけ』の後の3作は、『しゃばけ』の世界に奥行きと広がりを持たせる数々の短編を綴った短編集だったが、今回は、日本橋を離れてからの道中と目的地の箱根で巻き起こる数々の出来事・事件を綴った長編である。

長旅で、若だんなのそばを離れることなど考えられない佐助・仁吉の二人の手代が旅の最初からいなくなり、読者は、道中で起こる不可思議な出来事に、一太郎とともに、わけもわからず旅をすることになる。やがて少しずつ、事件の意外な真相が明らかになっていくが、それは読んでのお楽しみということで、本の帯にあるキャッチコピーのみ記しておく。

若だんな、旅に出る!初めての旅に張り切る若だんなだったが、誘拐事件、天狗の襲撃、謎の少女出現と旅の雲行きはどんどん怪しくなっていき……。

締めくくりに、シリーズ5作を読み通してみての感想を少々。

『しゃばけ』シリーズは、江戸時代を舞台にしているが、きわめて現代的なテーマを扱っているように思う。主人公の若だんな一太郎は病弱で、生まれてからこの方、病で床にふせっている時間の方が長いのではないかと思われるほどである。両親は、近所でも評判になるほど、息子に対して大甘だし、お守り役の佐助・仁吉の二人の手代も、何をさしおいても、若だんなが一番大事ということで、一太郎は世間の荒波から二重・三重に守られた箱入り息子である。

しかし、彼自身は、その境遇に安住しているわけではなく、なんとか人の役に立つ自分でありたいと願っている。しかし、店の手伝いをしようとしても、風邪をひく、怪我をするといって2人の手代が何もさせてくれない。その中で、どうやって独り立ちし、一人前になっていくのか。一太郎に悩みは深い。今回、第5作で、日本橋の長崎屋の世界から飛び出して、お守り役の二人の手代もいない中(兄の松之助は一緒だったが)、旅に出たことは、彼の独り立ちへ向けた転機になるのではないだろうか。

そういった一太郎のけなげな姿が、結果として過保護に育てられ、親離れ仕切れない現代の若者(中年も含めて)の共感を呼び、シリーズ100万部を超えるヒットになっているのではないかと思う。 

*『しゃばけ』関連の記事
2006年12月8日:畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む
2006年12月13日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第4作『おまけのこ』
2006年12月17日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

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2006年11月19日 (日)

「中年クライシス」を魂の意思で乗り越えた片岡鶴太郎

『鶴太郎流墨彩画入門』(片岡鶴太郎著、角川oneテーマ21)を読んだ。11月の新刊で、CIA試験の前日に仕事の帰りに寄った書店で、目についたので、すぐ購入。試験中は、我慢をして試験が終わったあと一気に読み終わった。

鶴太郎流 墨彩画入門 (角川oneテーマ21)

しばらく前の日本テレビの「いつみても波瀾万丈」のゲストで出ていた時の話が印象的で、それ以来気になっていた。(今回、調べてみると放送は2006年2月5日だった)

その時の印象的に残った話は、
(1)中学3年の時、成績がとても悪くて、今の成績では公立高校進学は無理と言われ、家庭の経済的事情で公立しか行けないことから、夏休みに独学で徹底して勉強し、夏休み明けには成績がトップクラスになり、無事公立(都立)高校に入学したこと。
(2)お笑い芸人として人気の絶頂にあるとき、このままではいけないとボクシングを始めたこと。
(3)今では画家としても、たくさんの作品を残していること
などである。見たときは、もっといろいろなことを鮮明に覚えていたと思うが、1年近くたっているので記憶もおぼろげである。
ただ、その時、軽薄なお笑い芸人から個性派俳優に転身して成功したタレントといった程度の印象しかなかった片岡鶴太郎が、ただならぬ人であることを感じた。

とはいえ、その後、それ以上詳しく調べるわけでもなく過ごしていたが、今回、新刊書として並んでいるのをみて、すぐに手に取った。体裁は「墨彩画のすすめ」的な形になっているが、内容は彼が40歳にして出会った墨彩画を通じて、彼自身の生き様を語るものになっている。

何かを「やりたい」と思う気持ちは、その人の魂が語りかけてきた言葉だとわたしは思っています。思いたったが吉日、すぐ始めてみることです。(中略)
わたしもそうでした。もうすぐ四十歳になろうというとき、ふと絵に呼ばれたのです。(中略)突然、無性に絵を描きたくなった。椿を見ても何の花かわからなかった人間が、その美しい花を描いてみてたまらなくなったのです。
理屈では説明できない衝動のようなものに駆られて、本当に自由気ままに自己流で始めてみた。そうしたら、もう面白くてすっかりのめり込み、いまでは自分は絵に生かされていると思うまでになっています。絵を描きたいという「魂の意思」に素直に応えたからいまの自分があるのだと思うと、そのことに気づいた自分は何とも幸せな人間だと思います。
社会的な地位や権勢を勝ち取ることや、金銭的な満足を得ること、それも私たちに何かしらの喜びを与えてくれるでしょうが、魂というものはそれだけでは満足しないような気がします。魂の意思というのは、頭で考えて判断するものではなくて、そうせざるをえないような心の動きみたいなものです。
それは、おそらく誰の中にもあります。それに気がついて、その感覚を目覚めさせて生きるのか、それとも眠らせたままで自分の人生を終わらせていくのか。本当に後悔のない有意義な人生とは、魂の意思に導かれる道なのではないでしょうか。それが、人間の本来的な姿のように私は思います。(『鶴太郎流墨彩画入門』4~5ページ)

私が下手に解説めいた事を書いたり、書き足すことは何もない。放送があったのが、今年の2月5日、自分で意識したことはなかったが、私もTVの画面から伝わってきた鶴太郎さんのオーラに影響され、このブログを始める(2月26日)ことになったのかも知れないと思った。

片岡鶴太郎公式ホームページはこちら

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2006年11月18日 (土)

郷田真隆九段の揮毫「晩成」

昨日11月17日は「将棋の日」とのこと。江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時代に、この日を「お城将棋の日」として御前対局を行うようになったという故事にちなんで、1975年に日本将棋連盟が定めたそうだ。

以前から、一度は行ってみようと思っていた千駄ヶ谷にある将棋会館に、CIA試験の2日めの帰りに寄ってみた。誰か、顔を知っているようなプロ棋士を見かけたりするだろうかと期待したが、そんな気配もなく、 将棋教室を終えたと思われる小学生数人を見かけただけだった。1階には売店があり、将棋盤や将棋の駒、棋士が書いた将棋の解説書が並べられている。一角には、タイトルホルダーや名人位への挑戦者リーグでもあるA級に在籍する棋士たちの揮毫の入った扇子も置いてある。気に入ったものがあれば、いずれ1本持ちたいと思っていた。

私が選んだのは、郷田真隆九段の「晩成」と書かれた扇子だ。郷田九段は1971年生まれの35歳。現在、将棋界のトップを占める羽生3冠・森内名人は同学年、佐藤棋聖とは1つ違いである。「晩成」とは大器晩成という言葉もあるように「他より遅れて完成すること。また、晩年になって成功すること。」(小学館『現代国語例解辞典第二版』より)である。

彼自身の経歴を見ると、プロ入りこそ、羽生ら3人に少し遅れたものの、プロ入り3年目の1992年には22歳の若さで「王位」のタイトルを獲得しており、むしろ早咲きである。その後、98年には2度目のタイトル「棋聖」を獲得、さらに名人挑戦者を争うA級順位戦への昇級を決め、99年にはA級棋士となり名実ともにトップ棋士の仲間入りをした。しかし、A級は1期で陥落、2002年に再びA級に昇級するがこの時も1期で降級するという苦杯をなめた。しかしあきらめることなく、昨年は三度めのA級昇級を果たし、勝ち越し。A級4期めの今期は、期初から連勝し、現在4勝1敗で、名人挑戦者争いのトップを走っている。

「晩成」という言葉に「今は、羽生・森内・佐藤の3強の後塵を拝しているが、いずれは追いつき追い抜いてみせる」という気概を感じるのは私だけだろうか。また、一方で「将棋の世界は奥深く、どこまで行っても完成することがない」という求道者の一面も読み取れるようにも思う。

それは、また、私自身が自分に言いきかせるべき言葉のような気もして、扇子を手元において、時折開いては「晩成」の文字を眺めて、思いを巡らしている。永年、現在の将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖のファンだったが、既に現役を引退しており、これからは郷田九段の戦いを応援したいと思っている。

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年11月 1日 (水)

河合隼雄文化庁長官、休職

昨日(10月31日)の朝日新聞の夕刊で

政府は、31日、病気療養中の河合隼雄文化庁長官の後任に近藤信司文部科学審議官をあてる人事を閣議決定した、11月1日付けで発令し、河合長官は同日付けで休職(中略)。
河合長官は(中略)、今年8月、奈良県の自宅で脳梗塞で倒れ、入院を続けている。

とニュースが伝えられていた。改めて、インターネットで他社のニュースも検索してみると、

日経(NIKKEI NET)では
「病気休職中の河合隼雄文化庁長官は定員外となるが、長官職にはとどまる。」とあり、

読売(YOMIURI ONLINE)では
「当面は休職扱いとすることにした。河合氏の任期は来年1月17日まで。」と伝えている。

さらに読売では

伊吹文部科学相は31日の記者会見で、交代の理由を、「長官の健康がなかなか回復せず、11月に文化庁で多くの行事もあるためだ」と説明した。

との文部科学大臣のコメントも伝えている。

本人に意識があって、当面、職務復帰不可能ということであれば、その時点で自発的に辞職ということになるのだろうが、倒れた途端意識不明なので、文部科学省としても、一方的に職を解くというわけにもいかず、任期満了までは、定員外という形で長官職に留まるということになったのだろう。

いずれにしても、容態に変化はなく、病状は回復していないということだろう。ただただ、健康を回復されることを祈るばかりである。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職  

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2006年10月24日 (火)

季節の言葉、「霜降(そうこう)」

先週は秋晴れの日が続いたが、日曜日の午後から、東京は冷たい雨が降っている。昨日10月23日は、暦の上では、二十四節気の「霜降(そうこう)」。

秋も深まって、霜が降りるころだという意味です。
北海道や北日本なら当てはまるかもしれませんが、実際に霜が降りるのはまだまだ先のことかもしれませんね。
(中略)
でも、秋の深まりを実感できる頃であるということに変わりはないと思います。
(山下景子著『美しい暦のことば』インデックスコミュニケーションズ)

いつのまにか日が暮れるのも早くなり、夕方5時頃には日が沈み暗くなっている。秋も終わりがけで、冬はもう目の前というところだろう。

二十四節気も、気候の変化を感じると書いているが、前回書いたのは「白露(はくろ)」(草に降りる露が寒さで白く見える、今年は9月8日、記事は9月15日)、それ以降「秋分」(9月23日)、「寒露(かんろ)」(野草に宿る冷たい露、10月8日)。そして、昨日の「霜降」。露が霜に変わり始めたところで、次の二十四節気は「立冬」(11月7日)、季節の言葉の方でもいよいよ冬の到来だ。

日中の気温の変化も激しいので、体調を崩しやすい時期でもある。今年は、受験生を抱えているので、家族全員早めににインフルエンザの予防接種に行って、風邪やインフルエンザの予防には気をつけなくてはいけない。

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2006年9月24日 (日)

稲刈りで知る日本の歴史

お米の産地では、先週から今週にかけてが、稲刈りのピークではないだろうか。私も、富山にいる頃、二度ほど稲刈りの手伝いをしたことがある。

長女と次女が、当時小学生で、富山市の小学校に通っていた。長女と同じクラスの男の子と、次女と同じクラスの女の子の兄妹のいる家族がいて、PTAなどで母親どうしも親しくなり、やがて父親も含めた家族ぐるみのつきあいになった。お父さんはサラリーマンなのだが、県内の実家は農家で、ご両親はすでに亡くなっていたが、兼業農家として、夫婦で米作りをしていた。
親しくなったこともあり、稲刈りを手伝わないかと誘われて、手伝いをしたのだ。先方にとっても、自分たちが稲刈りをしている間、自分の子ども達の遊び相手になってくれる、同い年の子どもがいる我が家は、助っ人としてはうってつけだった。

手伝いといっても、先方のお父さんがコンバインを操作して、田んぼの稲を刈っていく。刈り取られた籾(モミ)は、コンバインの中に溜まっていく。一定量溜まったら、いったんコンバインを道路に近いところに止めて、麻袋に詰める。その詰められた麻袋を、我が夫婦でライトバンに載せ、私がライトバンを運転し、先方の実家の納屋にある米の乾燥機まで運び、納屋で奥さんが乾燥機に籾を投入する。その繰り返しである。

麻袋が籾で一杯になると30kgだったと思う。麻袋をライトバンの荷台まで運び上げるのが重労働。田んぼは、先方の実家から少し離れたところに数ヵ所に分かれて点在しており、麻袋運びにも人手がかかる。コンバインには必ず1人必要なので、作業全体を夫婦2人でやっていては、たびたび作業を中断しなくてはならず能率が悪い。そこに、2人手伝いが加われば、中断せずに作業が流れ、一気に効率が上がる。

米作りは多くの人手を必要とする労働集約的な作業だった。まして、機械化された現代でも、これだけ大変なのだから、コンバインもライトバンも乾燥機もなかった時代の苦労は、推して知るべしである。そう考えているうちに、これまで、机上で勉強してきた「日本の歴史」が一気に理解できた気がした。

なぜ農村の人間関係は濃密なのか、年貢というものが、どれだけ農民にとって無念なものであったか、戦(いくさ)で働き手がいなくなればいとも簡単に農村が荒廃するであろうこと、等々。

また、大地に種をまけば作物が育ち、それを収穫して食することで、生きていけるということは、自然と太陽や大地を敬う気持ちになっただろう。文字通り「母なる大地」を実感しながら、人々は生きていたにちがいない。日本での信仰の基本は、その収穫への感謝の気持ちにあるのだろう。

私にとっては、「農業が無から有を作り出すものであること」を発見したことも、目からうろこが落ちる思いであった。何もない地面に種をまいて育てれば食べ物ができる。無から有を作り出し、そのサイクルには終わりがない。土地と太陽と水があれば、無限に続けることができる。一方、工業は、すでに有るものを作りかえたり、組み立てたり、するだけである。

手伝いが終わったあと、先方の実家に2家族でバーベキューパーティーを楽しみ、収穫したての新米を現物支給してもらった。新米が、おいしかったことはいうまでもない。

私にとっては、日本史を体感させてもらった、貴重な経験でもあった。

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2006年9月23日 (土)

「おはぎ」と「ぼたもち」

今日は「秋分の日」。朝、散歩そしていたら、路傍に「彼岸花」が咲いていた。秋も、本番というところか。
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一緒に散歩をしていた妻が、
「”おはぎ”と”ぼたもち”の違いを知っているか?」と聞く。
「”こしあん”と”つぶあん”の違いでは」と答えると
「ぼたもちは春、おはぎは秋」とのヒントを出される。
「じゃあ、ぼたもちが牡丹で、おはぎは萩の花」と答えると
「正解」とのことだった。

念のため、家に戻ってインターネットで検索してみる。

いくつも解説記事はあるが、「@nie's」というお菓子研究家のサイトの「おはぎとぼたもち」というページには次のようなに書かれている。(「おはぎとぼたもち」のページはこちら

実は”おはぎ”も”ぼたもち”も同じお菓子なのだ。

春のお彼岸に作り、あずきの粒をその季節に咲く”牡丹”に見立てたのが”ぼたもち”。
秋のお彼岸に作り、あずきの粒をその季節に咲く”萩”に見立てたのが”おはぎ”。

つまり”牡丹餅”と”お萩”と言うわけだ。

「つぶあん」「こしあん」議論の方は、間違いなのだろうか。いくつかのページの解説には、「ぼたもちはこしあんで、おはぎはつぶあんで作る」と書いてあるものもあったが、食べる季節が違うだけだというのが、多数説のようだ。

「こしあん」「つぶあん」議論についての説明で、納得したのは、やはり同じ「@nie's」の「続・おはぎとぼたもち」の記述である。(「続・おはぎとぼたもち」のページはこちら

実はこれは餡の素材である小豆の収穫時期に関係がある。

秋のお彼岸は小豆の収穫時期とほぼ重なるので、 まだ採れたての皮の柔らかい小豆を餡にすることができる。 当然柔らかい皮も一緒につぶして”つぶし餡”として使う。
春のお彼岸には冬を越した小豆を使うことになり、 当然固くなっている皮はそのままでは食感が悪い。 そこで皮を取り除くためにいったん晒す工程を経て ”こし餡”にして使われる。 (中略)
ところが保存技術の発達や品種改良によって、 春でも皮のまま使うことのできる小豆が登場して、 以上述べた理由はまったく意味のないこととなってしまった。 今では一年中こし餡だろうとつぶし