2008年5月 5日 (月)

絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その2-出会いの不思議

エリック・カールさんは、1929年にアメリカのニューヨーク州でドイツ系移民の子として生まれた。1935年には、親子はドイツに帰国。カール少年は、ナチス政権下のドイツで青少年時代を過ごし、第2次大戦後のドイツで、美術やデザインの基礎を学んだ。
その後、ドイツで、グラフィックデザイナー、ポスター作家として経験を積んだ上で、1952年に再びアメリカに戻った。
アメリカでも、最初はグラフィックデザイナー、イラストレーターとして仕事をしている。

カールさんの絵本作家への転身には2人の人物がかかわっている。

1人目が、ビル・マーチンという作家であり編集者である男性である。カールさんのイラストに関心を持ったマーチン氏が、自分の書いたおはなし『くまさん、くまさん、何みてるの?』の挿し絵をカールさんに依頼したことが、絵本とかかわる最初である。これで、絵本の素晴らしさを知ったカールさんは、その後、自らストーリーも考えるようになる。(マーチン氏とのコンビの絵本も、その後出版している)

2人目が編集者のアン・ベネデュース女史。以前、料理の本の挿し絵で一緒に仕事をしたベネデュースさんに、カールさんは自作の絵本のアイデアを持ち込む。そうして、持ち込まれた2冊目の絵本が『はらぺこあおむし』の前身のお話。カールさんの原案では、緑色の虫が、「はらぺこあおむし」のように、本に穴を開けながらいろいろなものを食べ、最後にまるまると太っている姿で終わりになっている。虫が好きではなかった、ベネデュースさんが「caterpillar(芋虫、毛虫、あおむし)は?」と言い、最後の色鮮やかな蝶になって飛び立つ、現在のラストシーンが生まれたという。

今では、絵本作家として何十冊もの作品を描いているエリック・カールさんだが、ビル・マーチン氏が挿し絵を依頼しなければ、絵本の世界に足を踏み入れてはいなかったかもしれないし、編集者としてのアン・ベネデュース女史のアイデアがなければ、『はらぺこあおむし』が、時代を超えて読み継がれるような絵本になったかもわからない。
ふさわしい時期に、しかるべき人と巡り会うことの大切さを感じずにはいられなかった。

それは、偶然なのか、必然なのか。このブログで1年以上前に紹介した河合隼雄さんの「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」という考え方を拠り所にして、受けとめるのが一番いいのだろうなと思いながら、エリック・カールさんの人生の不思議を考えた、エリック・カール展だった。
(2006年8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

なお、今日の記事は、会場で販売していたエリック・カール展の図録及び、会場隣の売店で購入した雑誌「MOE」のエリック・カール特集号(2007年2月号)を参考にした。

なお、このエリック・カール展は、図録によれば、銀座・松屋での開催のあと、来年まで全国で順次行われるようだ。
2008年4月29日~5月12日 松屋銀座(東京)
2008年9月19日~11月3日 島根県立美術館
2008年11月29日~12月28日 美術館「えき」KYOTO
2009年4月3日~5月6日  そごう美術館(横浜)

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絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その1-創作の秘密

一昨日、4連休の初日の「憲法記念日」(2008年5月3日)は、新聞で見かけた「エリック・カール展」を見に、銀座の松屋まで出かけた。

Photo_2今にも雨が降りそうな曇り空だが、銀座には、老いも若きもたくさんの人である。お目当ての松屋の8階の催事場まで、エスカレーターを乗り継いで行く。会場にたどり着くと、子供の日ということもあってか、親子連れが多い。入場券を買って、会場の中に入ると、それぞれの原画の前にたくさんの人。盛況だ。

これまで、何冊も出されている絵本の中から代表作を選りすぐり、その原画を各絵本につき5枚から10枚程度展示してある。そのほか、エリック・カールさんが作品を作るところを紹介したビデオや、今回の展覧会用のインタビューのビデオをなどが流されている。

エリック・カールさんの絵本といえば、多彩な色づかいが特徴だと思うが、どのような手法であの彩り・色使いを出しているかなど考えたこともなかった。

今回紹介されていた技法を簡単に紹介すると、まず、彼の原画はすべて「貼り絵」である。
トレーシングペーパーに原画の下絵を描き、その原画の色にふさわしい「色紙」を用意して、トレーシングペーパーの下絵に沿ってカミソリで切り抜く。
切り抜いた色紙を、その部分だけ穴が空いたトレーシングペーパーを台紙にあてて場所を確認しながら、色紙に糊をつけて台紙に貼りつけていく。
その繰り返しにより、台紙の上に、様々な色の切り抜かれた色紙が一枚一枚貼りつけられていき、台紙の上に切り抜いた色紙をコラージュ(糊付け)した本当の原画が完成する。

これだけであれば、ただの「貼り絵」に過ぎないが、エリック・カール作品の秘密は、切り抜いた「色紙」にある。
「色紙」は市販の単色のものではなく、ティッシューという特殊な薄い紙に、彼自身がアクリル絵の具を、思いつつくまま、何重にも塗り重ねて作ったものである。その色紙を作る時は、最終的な作品と結びついているわけではなく、塗りに専念している。いざ、原画のコラージュを始める時に、その原画にふさわしい自家製の「色紙」を探し出してくるのだ。

何気なくみているこどもの絵本でも、これだけの創作の秘密があるとは……。改めて、世の中には、自分の知らないことの方が多いことを実感した1日であった。

会場でのビデオやパンフレットで、エリック・カールさんが絵本作家として世に出るまで、様々な人との出会いがあることを知った。それは、一つの物語である。記事を改めて、「その2」としてまとめることにしたい。

この展覧会は5月12日(月)まで、銀座松屋で開催されている。ご興味のある方は、一度足を運ばれるとよいと思う。

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2007年11月29日 (木)

将来やってみたいこと「スケッチと書道」

先々週受けた研修のテーマが定年後の第二の人生をどう生きるかがテーマだったという話を書いた。
そこでは、会社を離れても通用する専門技能を身につけているかというのが大きなテーマだったが、さらにその先の話として、完全に仕事からリタイアしたあと、残りの人生をどのように過ごすのかというテーマもあった。

その頃には、3人の子ども独立しているだろうから、我が家の場合であれば、夫婦2人になった後、2人でどう過ごすのかというテーマであった。
夫婦で共通の楽しみを見いだす、それぞれ自分のやりたいことを探しお互いにそれを認め合う、あるいはその両方の間を取った折衷案でいくなど、選択肢は様々だろう。

私の場合は、パソコンを前に今ブログを書いているように、文章を書き続けるというのが、一番ありそうな姿だが、ほかにやってみたいことはあるだろうか?と考えてみた。

思いついたのは2つ。「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。
「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。

「スケッチと書道」が思いついたのは、私がその2つのことにコンプレックスを持っていて、それを何とかしたいという思いがあるからだろうと思う。
そんなことかつらつら考えていたら、書店でおあつらえ向きの本を見つけて、思わず買ってしまった



さて、今回はものになるかどうか。まずは、一通り読んでみよう。

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2007年11月23日 (金)

オーケストラ(チェコ・プラハ管弦楽団)コンサートを聴きに行った

今日は午後からオーケストラのコンサートを聴きに行った。先週、招待券があるから行ってみないかと、知人に声をかけてもらったので、すっかり甘えて家族5人分の招待券をもらって、会場である杉並公会堂まで行ってきた。

楽団は、チェコからやって来た「チェコ・プラハ管弦楽団」。クラシック音楽の世界に疎い私には、このオーケストラが、世界的にどの程度の評価を受けているのかはわからないが、お金をとって人に音楽を聴かせるプロであることには間違いない。

これまで、子育ての中で、自然の中で遊ばせる、日本の名所・旧跡等を訪ねるといったことはやってきたが、芸術面は親の側にセンスのないこともあって、あまり経験させることができなかった。
そのような中で、今回の話は「渡りに船」といった感じだった。

公演では1990年生まれのアンドレイ・バスキンというヴァイオリン奏者(男姓)と1985年生まれのエリザヴェータ・スーシェンコというチェロ奏者(女性)のう2人の若いソリストも登場し、すばらしいソロを披露してくれた。

しかし、先週、仕事がけっこうハードだった私は、「半分ぐらい寝てなかった?」と隣の妻に言われる状態。途中、うつらうつらしたことはあったが、半分もねていたかな~?と自分では思うのだが、おそらくそうなのだろう。それだけ、心地よい演奏だった。
たまには、気分を替えてクラシックコンサートもいいかもしれないと思った。(いつも眠っていては、もったいないけれど)

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2007年10月 8日 (月)

国立近代美術館で「平山郁夫展」を見る

今日は、2週間ほど前(9月23日)に皇居一周をしたために見そこなってしまった「平山郁夫展」を見に、午後から竹橋にある国立近代美術館に行ってきた。
今回の企画は、平山郁夫画伯の喜寿(77歳)、画業60年を記念して行われたようで、館内で配られていたパンフレットには「仏教伝来からシルクロードへ-画業60年をたどる大回顧展」と書かれている。

「平山郁夫」という名前だけは知っていても、その経歴をつぶさに調べたりしたことはなかった。出身は広島県尾道市、昭和5(1930)年生まれの77歳。中学時代には、学徒動員で働いていた工場で、原爆に遭遇。爆心地から3kmのところだったと説明には書かれていた。「被爆者」として「死」というものと向かい会わざる負えなかったことが、画家平山郁夫の原点にあるようだ。

展示されている作品は、約80点ほど。駆け足で見て回っても、ゆうに1時間はかかる。展示品は、「第1章仏陀への憧憬」「第2章玄奘三蔵の道と仏教東漸」「第3章シルクロード」「第4章平和への祈り」の4つに大きく分類されている。
第1章は仏教の創始者釈迦の一生を描いた連作、第2章は仏典を求めてインドに旅した玄奘三蔵の姿を描く。そしてその2つの流れは、第3章へのシルクロード各地を訪ね描く旅に繋がっていく。
最後の第4章の展示は、主に日本が舞台である。紅蓮の炎に燃える「広島生変図」は原爆投下で焼き尽くされる広島の街を描いた作者の思いがこもった作品。しかし、私が最も惹かれ印象に残ったのは「月華厳島」と題された、夜の厳島神社を描いた作品。夜のとばりを深い群青色で表わし、そこに燈明の明かりが黄色く揺れる。なんとも幻想的である。
今回の展示全体を通して、「青」の色遣いが印象に残った。

こうのような美術展は、東京にいるからこそ見ることができるもの。これからは、もう少し文化的な面で東京に住んでいる利点を生かさなければもったいないと感じた。

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2007年1月11日 (木)

句集『花柚』(植田房子著)から冬の句を2句

昨日、知人から『花柚(はなゆ)』という句集をもらった。植田房子さんという岡山在住の女流歌人の句集だ。この句集の中から、大岡信さんが選者をしている朝日新聞の「折々のうた」にも、一句選ばれているので、その道ではそれなりの評価を受けているのだと思う。

私は、俳句のことは、5・7・5で詠み、季語を織り込むことぐらいしかわからないので、どの句がいいなどとおこがましいことは言えないが、通読させていただいて、自分も同じような風景をみたことがあるなと思って、共感したものを2首ほど紹介してみたい。

時節柄、冬の句から2句。

門前に達磨となりて雪のこる
(植田房子『花柚』51ページ)

去年、東京で雪が降り、わずかながら積もった時、当時小5だった長男は、はしゃいで、暗くなってから外に出て、雪だるまを作っていた。その雪だるまが、数日間、家の前で融けかかりながらも、数日間、残っていたの思い出した。
私の仕事の関係で、1歳で富山に引っ越し6歳まで過ごした長男にとって、冬の雪はいつもすぐそこにある身近な存在だった。2人の姉や、近所の友達と雪合戦や雪だるま、時にはかまくらなども作り楽しんでいた。しかし、東京ではほとんど雪は降らない。また、私が札幌単身赴任した時の年末・年始、札幌に呼んだ時、雪は回りにいやと言うほどあったのだが、札幌の雪はサラサラしていて、雪玉にならないので雪合戦もできないとがっかりしていた。それ故、東京での珍しい雪に血が騒いだようだ。

黒豆に水を吸わする霜夜かな
(植田房子『花柚』54ページ)

おせち料理の定番メニュー黒豆。その黒豆を煮るためには、一晩水に浸しておかなければならない。霜が降りそうな寒い夜、水を張った鍋に眠る黒豆、その息づかいが聞こえてきそうな句だ。
なぜ、黒豆に目の句に目がいったのか。いま、私の減量作戦ののパートナーが黒豆である。あまり肉を採りすぎないように植物性タンパク質として、また食物繊維の供給源として、おせち料理の時期が終わっても、黒豆を食べている。

作者・詠み手の思いとは、全く違った解釈かもしれないが、鑑賞する側が自分の経験に照らして、共感・共鳴できるものを感じられれば、それがその人(鑑賞者)にとって、良い句なのではないかと、勝手に思っている。

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2006年12月30日 (土)

将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

2006年の将棋界を揺るがした伝統のタイトル「名人戦」の主催新聞社の移管問題。3月に、将棋連盟が毎日新聞社に対して第66期以降のと名人戦主催契約の継続をしないことを通知したことを契機に、毎日新聞社の自らの紙面で将棋連盟を非難するキャンペーン を開始したこともあって、将棋連盟と毎日の関係も悪化した。しかし、8月の棋士総会で、毎日単独主催案が否決されたことを受け、将棋連盟の米長会長は、毎日と朝日に対して両社での共催を提案した。毎日側は、これまで落ち度なく名人戦を主催してきたのに、突如、契約継続せずとの通知を受け、顔に泥を塗られるに等しい仕打ちをされたことを考えれば、拒否するだろうという大方の見方に反し、9月に共催案を受諾した。その後、具体的な内容について、連盟と毎日、朝日の間で交渉が続けられていたが、27日にまとまり、28日の新聞紙上で発表された。

主な内容は、
①名人戦の契約金は3億6000万円(両社で各1億8000万円、なお毎日単独開催時の契約金額は3億3400万円)で期間5年
②両社は実行委員会を組織して運営にあたり、棋譜(対局での指し手の記録)はウェブも含め両社が独占的に掲載
③毎日がスポーツニッポンと共催で行っている7大タイトル戦の一つ「王将戦」は、従来通り継続(契約金7800万円は変更なし)
④朝日が主催している準タイトル戦の「朝日オープン選手権」(1億3480万円)は契約金が8000万円の棋戦に衣替え
⑤さらに将棋普及のための協力金として両社で年1億1200万円を5年間、連盟に対して支払う

一時、将棋連盟は4億円以上の契約金を提示しているとの報道も見たような気がするが、さすがにそれは、両社が難色を示したのだろう。

今回の騒動の背景には、将棋連盟の収支状況の悪化ということがある。前々期は赤字であったという。細かい収入と費用の内訳は知る由もないが、連盟の運営を行う理事会のメンバーは、全員現役ないし引退した棋士が行っている。彼らは。将棋のプロではあっても、経営のプロではない。その中で、現在の米長邦雄会長は、数少ない経営感覚を持った棋士であろう。現役時代、史上最年長で名人になった時、1年間主催者である新聞社の新聞の販売増に努めるのは当然と言い、全国の販売店を回るということを行った。将棋界が、その勝負を関心を持って見つめるファンのおかげで成り立っていること、そのファンに対して将棋界の情報を伝える媒体として新聞は欠かせないものであること、それらのことが、よくよくわかっていたからこその行動であろう。

しかし、かつて将棋盤を挟んで将棋を指して遊んでいた少年たちは、いまやTVゲームやインターネットに多くの時間を割いている。少年時代に、将棋に親しまなかった人が、成人して将棋ファンになるとは思えない。将棋ファンは明らかに減っているだろう。さらに、バブル崩壊後の長引く不況の中で、多くの企業が、ファンが減って相対的にPR効果が減少した将棋の棋戦のスポンサーを降り、これまで親しまれていた棋戦のいくつかが廃止された。将棋界を支える最大のスポンサーである新聞・テレビ業界とて、インターンネットの出現で、そのあり方が根底から問われている。

結果的に見れば、今回の解決策は、連盟と2社にとって、三方一両損的な妥協案であるが、見方を変えれば、時代の必然だったのかも知れないという気もする。いまや、伝統ある名人戦という大タイトル戦は1新聞社で支えるには重すぎ、スポンサーの側から見れば費用対効果の点で折り合わない。連盟の側から見れば、より多くのファンに名人戦とその予選であり、棋士の生活の中心である順位戦をより多くの人に伝え、減り続けるファンを引き留め、少しでも増やすべくPRしていくには、全国紙2社の力が必要だったということではないのだろうか。将棋連盟としては、今後5年間、両社から支払われる1億円余の普及協力金を有効に使えるかどうかであろう。また、以前にも書いたが、現役の棋士たちが、ファンが手に汗握るような名勝負を繰り広げ、1人でも多くの人にプロの将棋の勝負の世界を知ってもらうことであろう。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

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2006年12月23日 (土)

第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠

おととい(2006年12月21日)、現在、将棋界の最高の棋戦と位置づけられている竜王戦(主催・読売新聞社)が幕を閉じた。一作年、現在の森内俊之名人から竜王位を奪取し弱冠22才の渡辺明竜王。挑戦者は、名人戦を除く、今年度のこれまでのタイトル戦にことごとく登場している佐藤康光棋聖(35才)。残る棋王戦、王将戦も挑戦者決定戦に駒を進めており、年間対局数の多さは群を抜いている。

しかし、自らタイトルホルダーである棋聖位こそ3連勝で挑戦者鈴木大介八段を退けたものの、王位戦はフルセットの末、王座戦では3タテで羽生善治3冠に敗れ、今回の竜王戦を迎えた。佐藤棋聖としては、竜王位を奪い2冠を持つことで、同世代の羽生3冠、森内名人・棋王と並び、名実ともに3強の一角を占めることを示す絶好のチャンスであった。10月10・11日のサンフランシスコでの初戦、10月31日・11月1日の富山・宇奈月での第2戦と連勝し、4連勝で渡辺竜王を一蹴するかに見えたが、他棋戦でも勝ち進むハードスケジュールが応えたのか、その後渡辺の逆襲にあい3連敗。6戦目のカド番を注文を付けた勝負でものにして、3勝3敗で12月20日からの最終戦に持ち込んだものの、最後は力尽きたのか、タイトル奪還には一歩及ばなかった。

一方、受けて立った渡辺明竜王は、竜王戦開始直前の『将棋世界』11月号でのインタビューで、その時点で、挑戦者決定戦に名乗りを上げていた、佐藤棋聖、丸山忠久九段(元名人)のどちらが挑戦者になったとしても、「世論(中立なファンの9割)は、挑戦者が勝つと思っているでしょう。でも、そうはならないと思います。」という趣旨のコメントし、将棋世界の編集者はそれをとらえ、このインタビュー記事に「私は下馬評を裏切るだろう」という刺激的なタイトルを付けた。結果的に、その自らの予言通りタイトル防衛を果たしたのだから、大したものである。

渡辺竜王は3強のうち、森内現名人から竜王位を奪取し、佐藤棋聖の挑戦を退けた。残るは、将棋界のスパースター羽生善治三冠である。羽生三冠には2003年に王座戦で一度挑戦し、3勝2敗で退けられている。タイトル戦で、羽生三冠に一矢を報いることができてこそ、羽生三冠の後継者、将棋界の次代のリーダーといえるだろう。これからの、羽生対渡辺の激闘が楽しみである。(個人的には、贔屓にしている郷田真隆九段にも、再度タイトルホルダーとなって、渡辺竜王を撃破してもらいたい。)

お詫び:当初、本ブログのタイトルを「第18期竜王戦」としていましたが、正しくは「第19期」でした。お詫びして訂正します。ご指摘下さったエバグリンさんありがとうございました。(2007年1月6日記)

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年12月17日 (日)

畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

畠中恵の『しゃばけ』シリーズの第4作『おまけのこ』に続き、第5作の『うそうそ』(新潮社)を読み終わった。

タイトルとなっている「うそうそ」は「嘘々」のことだろうと思っていたら、さにあらず、本書の物語の前に「江戸語辞典」(東京堂出版)による語釈として

【うそうそ】
たずねまわるさま。きょろきょろ。うろうろ。(畠中恵『うそうそ』2ページ)

という解説が付されている。なるほど、と思ったところで、読者はすでに江戸日本橋の廻船問屋長崎屋を舞台にした『しゃばけ』ワールドに足を踏み入れている。

今回はタイトルの「うそうそ」に象徴されるように、主人公である若だんな一太郎が、江戸から離れ、箱根に湯治に行くという話である。第1作の『しゃばけ』の後の3作は、『しゃばけ』の世界に奥行きと広がりを持たせる数々の短編を綴った短編集だったが、今回は、日本橋を離れてからの道中と目的地の箱根で巻き起こる数々の出来事・事件を綴った長編である。

長旅で、若だんなのそばを離れることなど考えられない佐助・仁吉の二人の手代が旅の最初からいなくなり、読者は、道中で起こる不可思議な出来事に、一太郎とともに、わけもわからず旅をすることになる。やがて少しずつ、事件の意外な真相が明らかになっていくが、それは読んでのお楽しみということで、本の帯にあるキャッチコピーのみ記しておく。

若だんな、旅に出る!初めての旅に張り切る若だんなだったが、誘拐事件、天狗の襲撃、謎の少女出現と旅の雲行きはどんどん怪しくなっていき……。

締めくくりに、シリーズ5作を読み通してみての感想を少々。

『しゃばけ』シリーズは、江戸時代を舞台にしているが、きわめて現代的なテーマを扱っているように思う。主人公の若だんな一太郎は病弱で、生まれてからこの方、病で床にふせっている時間の方が長いのではないかと思われるほどである。両親は、近所でも評判になるほど、息子に対して大甘だし、お守り役の佐助・仁吉の二人の手代も、何をさしおいても、若だんなが一番大事ということで、一太郎は世間の荒波から二重・三重に守られた箱入り息子である。

しかし、彼自身は、その境遇に安住しているわけではなく、なんとか人の役に立つ自分でありたいと願っている。しかし、店の手伝いをしようとしても、風邪をひく、怪我をするといって2人の手代が何もさせてくれない。その中で、どうやって独り立ちし、一人前になっていくのか。一太郎に悩みは深い。今回、第5作で、日本橋の長崎屋の世界から飛び出して、お守り役の二人の手代もいない中(兄の松之助は一緒だったが)、旅に出たことは、彼の独り立ちへ向けた転機になるのではないだろうか。

そういった一太郎のけなげな姿が、結果として過保護に育てられ、親離れ仕切れない現代の若者(中年も含めて)の共感を呼び、シリーズ100万部を超えるヒットになっているのではないかと思う。 

*『しゃばけ』関連の記事
2006年12月8日:畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む
2006年12月13日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第4作『おまけのこ』
2006年12月17日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

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2006年11月19日 (日)

「中年クライシス」を魂の意思で乗り越えた片岡鶴太郎

『鶴太郎流墨彩画入門』(片岡鶴太郎著、角川oneテーマ21)を読んだ。11月の新刊で、CIA試験の前日に仕事の帰りに寄った書店で、目についたので、すぐ購入。試験中は、我慢をして試験が終わったあと一気に読み終わった。

鶴太郎流 墨彩画入門 (角川oneテーマ21)

しばらく前の日本テレビの「いつみても波瀾万丈」のゲストで出ていた時の話が印象的で、それ以来気になっていた。(今回、調べてみると放送は2006年2月5日だった)

その時の印象的に残った話は、
(1)中学3年の時、成績がとても悪くて、今の成績では公立高校進学は無理と言われ、家庭の経済的事情で公立しか行けないことから、夏休みに独学で徹底して勉強し、夏休み明けには成績がトップクラスになり、無事公立(都立)高校に入学したこと。
(2)お笑い芸人として人気の絶頂にあるとき、このままではいけないとボクシングを始めたこと。
(3)今では画家としても、たくさんの作品を残していること
などである。見たときは、もっといろいろなことを鮮明に覚えていたと思うが、1年近くたっているので記憶もおぼろげである。
ただ、その時、軽薄なお笑い芸人から個性派俳優に転身して成功したタレントといった程度の印象しかなかった片岡鶴太郎が、ただならぬ人であることを感じた。

とはいえ、その後、それ以上詳しく調べるわけでもなく過ごしていたが、今回、新刊書として並んでいるのをみて、すぐに手に取った。体裁は「墨彩画のすすめ」的な形になっているが、内容は彼が40歳にして出会った墨彩画を通じて、彼自身の生き様を語るものになっている。

何かを「やりたい」と思う気持ちは、その人の魂が語りかけてきた言葉だとわたしは思っています。思いたったが吉日、すぐ始めてみることです。(中略)
わたしもそうでした。もうすぐ四十歳になろうというとき、ふと絵に呼ばれたのです。(中略)突然、無性に絵を描きたくなった。椿を見ても何の花かわからなかった人間が、その美しい花を描いてみてたまらなくなったのです。
理屈では説明できない衝動のようなものに駆られて、本当に自由気ままに自己流で始めてみた。そうしたら、もう面白くてすっかりのめり込み、いまでは自分は絵に生かされていると思うまでになっています。絵を描きたいという「魂の意思」に素直に応えたからいまの自分があるのだと思うと、そのことに気づいた自分は何とも幸せな人間だと思います。
社会的な地位や権勢を勝ち取ることや、金銭的な満足を得ること、それも私たちに何かしらの喜びを与えてくれるでしょうが、魂というものはそれだけでは満足しないような気がします。魂の意思というのは、頭で考えて判断するものではなくて、そうせざるをえないような心の動きみたいなものです。
それは、おそらく誰の中にもあります。それに気がついて、その感覚を目覚めさせて生きるのか、それとも眠らせたままで自分の人生を終わらせていくのか。本当に後悔のない有意義な人生とは、魂の意思に導かれる道なのではないでしょうか。それが、人間の本来的な姿のように私は思います。(『鶴太郎流墨彩画入門』4~5ページ)

私が下手に解説めいた事を書いたり、書き足すことは何もない。放送があったのが、今年の2月5日、自分で意識したことはなかったが、私もTVの画面から伝わってきた鶴太郎さんのオーラに影響され、このブログを始める(2月26日)ことになったのかも知れないと思った。

片岡鶴太郎公式ホームページはこちら

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2006年11月18日 (土)

郷田真隆九段の揮毫「晩成」

昨日11月17日は「将棋の日」とのこと。江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時代に、この日を「お城将棋の日」として御前対局を行うようになったという故事にちなんで、1975年に日本将棋連盟が定めたそうだ。

以前から、一度は行ってみようと思っていた千駄ヶ谷にある将棋会館に、CIA試験の2日めの帰りに寄ってみた。誰か、顔を知っているようなプロ棋士を見かけたりするだろうかと期待したが、そんな気配もなく、 将棋教室を終えたと思われる小学生数人を見かけただけだった。1階には売店があり、将棋盤や将棋の駒、棋士が書いた将棋の解説書が並べられている。一角には、タイトルホルダーや名人位への挑戦者リーグでもあるA級に在籍する棋士たちの揮毫の入った扇子も置いてある。気に入ったものがあれば、いずれ1本持ちたいと思っていた。

私が選んだのは、郷田真隆九段の「晩成」と書かれた扇子だ。郷田九段は1971年生まれの35歳。現在、将棋界のトップを占める羽生3冠・森内名人は同学年、佐藤棋聖とは1つ違いである。「晩成」とは大器晩成という言葉もあるように「他より遅れて完成すること。また、晩年になって成功すること。」(小学館『現代国語例解辞典第二版』より)である。

彼自身の経歴を見ると、プロ入りこそ、羽生ら3人に少し遅れたものの、プロ入り3年目の1992年には22歳の若さで「王位」のタイトルを獲得しており、むしろ早咲きである。その後、98年には2度目のタイトル「棋聖」を獲得、さらに名人挑戦者を争うA級順位戦への昇級を決め、99年にはA級棋士となり名実ともにトップ棋士の仲間入りをした。しかし、A級は1期で陥落、2002年に再びA級に昇級するがこの時も1期で降級するという苦杯をなめた。しかしあきらめることなく、昨年は三度めのA級昇級を果たし、勝ち越し。A級4期めの今期は、期初から連勝し、現在4勝1敗で、名人挑戦者争いのトップを走っている。

「晩成」という言葉に「今は、羽生・森内・佐藤の3強の後塵を拝しているが、いずれは追いつき追い抜いてみせる」という気概を感じるのは私だけだろうか。また、一方で「将棋の世界は奥深く、どこまで行っても完成することがない」という求道者の一面も読み取れるようにも思う。

それは、また、私自身が自分に言いきかせるべき言葉のような気もして、扇子を手元において、時折開いては「晩成」の文字を眺めて、思いを巡らしている。永年、現在の将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖のファンだったが、既に現役を引退しており、これからは郷田九段の戦いを応援したいと思っている。

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年11月 1日 (水)

河合隼雄文化庁長官、休職

昨日(10月31日)の朝日新聞の夕刊で

政府は、31日、病気療養中の河合隼雄文化庁長官の後任に近藤信司文部科学審議官をあてる人事を閣議決定した、11月1日付けで発令し、河合長官は同日付けで休職(中略)。
河合長官は(中略)、今年8月、奈良県の自宅で脳梗塞で倒れ、入院を続けている。

とニュースが伝えられていた。改めて、インターネットで他社のニュースも検索してみると、

日経(NIKKEI NET)では
「病気休職中の河合隼雄文化庁長官は定員外となるが、長官職にはとどまる。」とあり、

読売(YOMIURI ONLINE)では
「当面は休職扱いとすることにした。河合氏の任期は来年1月17日まで。」と伝えている。

さらに読売では

伊吹文部科学相は31日の記者会見で、交代の理由を、「長官の健康がなかなか回復せず、11月に文化庁で多くの行事もあるためだ」と説明した。

との文部科学大臣のコメントも伝えている。

本人に意識があって、当面、職務復帰不可能ということであれば、その時点で自発的に辞職ということになるのだろうが、倒れた途端意識不明なので、文部科学省としても、一方的に職を解くというわけにもいかず、任期満了までは、定員外という形で長官職に留まるということになったのだろう。

いずれにしても、容態に変化はなく、病状は回復していないということだろう。ただただ、健康を回復されることを祈るばかりである。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職  

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2006年10月24日 (火)

季節の言葉、「霜降(そうこう)」

先週は秋晴れの日が続いたが、日曜日の午後から、東京は冷たい雨が降っている。昨日10月23日は、暦の上では、二十四節気の「霜降(そうこう)」。

秋も深まって、霜が降りるころだという意味です。
北海道や北日本なら当てはまるかもしれませんが、実際に霜が降りるのはまだまだ先のことかもしれませんね。
(中略)
でも、秋の深まりを実感できる頃であるということに変わりはないと思います。
(山下景子著『美しい暦のことば』インデックスコミュニケーションズ)

いつのまにか日が暮れるのも早くなり、夕方5時頃には日が沈み暗くなっている。秋も終わりがけで、冬はもう目の前というところだろう。

二十四節気も、気候の変化を感じると書いているが、前回書いたのは「白露(はくろ)」(草に降りる露が寒さで白く見える、今年は9月8日、記事は9月15日)、それ以降「秋分」(9月23日)、「寒露(かんろ)」(野草に宿る冷たい露、10月8日)。そして、昨日の「霜降」。露が霜に変わり始めたところで、次の二十四節気は「立冬」(11月7日)、季節の言葉の方でもいよいよ冬の到来だ。

日中の気温の変化も激しいので、体調を崩しやすい時期でもある。今年は、受験生を抱えているので、家族全員早めににインフルエンザの予防接種に行って、風邪やインフルエンザの予防には気をつけなくてはいけない。

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2006年9月24日 (日)

稲刈りで知る日本の歴史

お米の産地では、先週から今週にかけてが、稲刈りのピークではないだろうか。私も、富山にいる頃、二度ほど稲刈りの手伝いをしたことがある。

長女と次女が、当時小学生で、富山市の小学校に通っていた。長女と同じクラスの男の子と、次女と同じクラスの女の子の兄妹のいる家族がいて、PTAなどで母親どうしも親しくなり、やがて父親も含めた家族ぐるみのつきあいになった。お父さんはサラリーマンなのだが、県内の実家は農家で、ご両親はすでに亡くなっていたが、兼業農家として、夫婦で米作りをしていた。
親しくなったこともあり、稲刈りを手伝わないかと誘われて、手伝いをしたのだ。先方にとっても、自分たちが稲刈りをしている間、自分の子ども達の遊び相手になってくれる、同い年の子どもがいる我が家は、助っ人としてはうってつけだった。

手伝いといっても、先方のお父さんがコンバインを操作して、田んぼの稲を刈っていく。刈り取られた籾(モミ)は、コンバインの中に溜まっていく。一定量溜まったら、いったんコンバインを道路に近いところに止めて、麻袋に詰める。その詰められた麻袋を、我が夫婦でライトバンに載せ、私がライトバンを運転し、先方の実家の納屋にある米の乾燥機まで運び、納屋で奥さんが乾燥機に籾を投入する。その繰り返しである。

麻袋が籾で一杯になると30kgだったと思う。麻袋をライトバンの荷台まで運び上げるのが重労働。田んぼは、先方の実家から少し離れたところに数ヵ所に分かれて点在しており、麻袋運びにも人手がかかる。コンバインには必ず1人必要なので、作業全体を夫婦2人でやっていては、たびたび作業を中断しなくてはならず能率が悪い。そこに、2人手伝いが加われば、中断せずに作業が流れ、一気に効率が上がる。

米作りは多くの人手を必要とする労働集約的な作業だった。まして、機械化された現代でも、これだけ大変なのだから、コンバインもライトバンも乾燥機もなかった時代の苦労は、推して知るべしである。そう考えているうちに、これまで、机上で勉強してきた「日本の歴史」が一気に理解できた気がした。

なぜ農村の人間関係は濃密なのか、年貢というものが、どれだけ農民にとって無念なものであったか、戦(いくさ)で働き手がいなくなればいとも簡単に農村が荒廃するであろうこと、等々。

また、大地に種をまけば作物が育ち、それを収穫して食することで、生きていけるということは、自然と太陽や大地を敬う気持ちになっただろう。文字通り「母なる大地」を実感しながら、人々は生きていたにちがいない。日本での信仰の基本は、その収穫への感謝の気持ちにあるのだろう。

私にとっては、「農業が無から有を作り出すものであること」を発見したことも、目からうろこが落ちる思いであった。何もない地面に種をまいて育てれば食べ物ができる。無から有を作り出し、そのサイクルには終わりがない。土地と太陽と水があれば、無限に続けることができる。一方、工業は、すでに有るものを作りかえたり、組み立てたり、するだけである。

手伝いが終わったあと、先方の実家に2家族でバーベキューパーティーを楽しみ、収穫したての新米を現物支給してもらった。新米が、おいしかったことはいうまでもない。

私にとっては、日本史を体感させてもらった、貴重な経験でもあった。

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2006年9月23日 (土)

「おはぎ」と「ぼたもち」

今日は「秋分の日」。朝、散歩そしていたら、路傍に「彼岸花」が咲いていた。秋も、本番というところか。
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一緒に散歩をしていた妻が、
「”おはぎ”と”ぼたもち”の違いを知っているか?」と聞く。
「”こしあん”と”つぶあん”の違いでは」と答えると
「ぼたもちは春、おはぎは秋」とのヒントを出される。
「じゃあ、ぼたもちが牡丹で、おはぎは萩の花」と答えると
「正解」とのことだった。

念のため、家に戻ってインターネットで検索してみる。

いくつも解説記事はあるが、「@nie's」というお菓子研究家のサイトの「おはぎとぼたもち」というページには次のようなに書かれている。(「おはぎとぼたもち」のページはこちら

実は”おはぎ”も”ぼたもち”も同じお菓子なのだ。

春のお彼岸に作り、あずきの粒をその季節に咲く”牡丹”に見立てたのが”ぼたもち”。
秋のお彼岸に作り、あずきの粒をその季節に咲く”萩”に見立てたのが”おはぎ”。

つまり”牡丹餅”と”お萩”と言うわけだ。

「つぶあん」「こしあん」議論の方は、間違いなのだろうか。いくつかのページの解説には、「ぼたもちはこしあんで、おはぎはつぶあんで作る」と書いてあるものもあったが、食べる季節が違うだけだというのが、多数説のようだ。

「こしあん」「つぶあん」議論についての説明で、納得したのは、やはり同じ「@nie's」の「続・おはぎとぼたもち」の記述である。(「続・おはぎとぼたもち」のページはこちら

実はこれは餡の素材である小豆の収穫時期に関係がある。

秋のお彼岸は小豆の収穫時期とほぼ重なるので、 まだ採れたての皮の柔らかい小豆を餡にすることができる。 当然柔らかい皮も一緒につぶして”つぶし餡”として使う。
春のお彼岸には冬を越した小豆を使うことになり、 当然固くなっている皮はそのままでは食感が悪い。 そこで皮を取り除くためにいったん晒す工程を経て ”こし餡”にして使われる。 (中略)
ところが保存技術の発達や品種改良によって、 春でも皮のまま使うことのできる小豆が登場して、 以上述べた理由はまったく意味のないこととなってしまった。 今では一年中こし餡だろうとつぶし餡だろうと 好きな食べ方ができるようになってしまったわけだ。 

「ぼたもち=こしあん」、「おはぎ=つぶあん」との説明に根拠がないわけでは、ないということだ。

こうして、調べていくと、普段、何の疑問も感じずに使っている言葉でも、いろいろと押さえてくべきことがあるような気がする。

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2006年9月21日 (木)

テンプレート秋バージョン、世界遺産「五箇山の合掌造り」

19971102b_1 今日から、テンプレートを自作の秋バージョンに変更した。写真は、富山県の上平村(かみたいらむら)菅沼(すがぬま)集落の「合掌造り」である。お隣、岐阜県の白川郷、同じ富山県の平村(たいらむら)相倉(あいのくら)集落の三地区の合掌造り集落が、1995年12月に「白川郷、五箇山(ごかやま)の合掌造り集落」として世界遺産に登録された。(なお、五箇山の由来は、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷というの5つの谷に集落があり、それを「五箇谷間」と言ったことから「五箇山」と変じたらしい。上平、平という地名が示す通り、平家の落人伝説もある)

私が転勤で、富山で暮らし始めたのが、ちょうど1995年の12月。写真は2年後の1997年の秋に、妻の母が富山を訪ねてきた際に、家族で五箇山を案内した時のもので、9年前ということになる。その後、近くに高速道路(東海北陸自動車道)が開通したので、周りはずいぶん変化しているかも知れない。

富山は四季折々に変化が、五感で感じられるところだった。2週間毎に、季節が変わっていく様が、自然の変化として目に見えたし、気温の変化として肌で感じられた。富山湾で取れる「ブリ」を筆頭にした季節の魚介類、加賀百万石を支えた砺波平野の米(コシヒカリ)、呉羽の梨などが「食」として、季節を感じさせてくれた。

合掌造りは、雪に埋もれる冬が絵になるが、山あいの紅葉を背景にした姿も、なかなか、美しいものである。富山を未体験の方は、ぜひ一度訪ねられることを、お勧めしたい。

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2006年9月20日 (水)

将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始

今朝の新聞に、将棋名人戦について、朝日新聞社との共催について打診されていた毎日新聞社が、「対等な立場での共催」を前提に協議に入ることになったとの記事が掲載された。

8月1日の将棋連盟の棋士総会で、毎日単独開催案支持90対不支持101で、2007年度からの名人戦単独開催の可能性がなくなった毎日新聞社に対し、将棋連盟が朝日新聞社との共催案を打診していたのに対し、毎日側が正式に回答したものだ。

以前このブログでも書いたように、将棋名人戦は戦前に毎日が始め、それが朝日に移り、また毎日が奪い返すという因縁の歴史で、今回、また朝日が奪い返すかに見えたが、妥協案とも言える「共催」に向けて協議が始まることになった。

将棋のタイトル戦のうち、王位戦については、中日新聞・北海道新聞・西日本新聞の3社連合の共催であり、共催に例がないわけではない。ただ、お互い同じ土俵でしのぎを削る全国紙どうしの共催は、確かに初めてである。

しかし、よく考えて見ると、今回の名人戦移管騒動では、誰も損をした関係者はいないのではないかという気がする。
朝日は、過去はともかく、現在の名人戦について何の関わりもなかったのだから、共催とはいえ、主催者の一角を占めることになることに文句はないだろう。
毎日は、名人戦という棋戦の運営の落ち度があったというわけでもないので、いきなり契約を継続しないという将棋連盟のやり方にプライドを傷つけられたとは思うが、契約に基づく事前通告であり、将棋連盟が一方的に悪いとは言い切れないと思う。結果的に、ライバル朝日との共催になるが、一方の主催者として残り、3億円を上回る名人戦の契約金も、将棋連盟から引き上げを求められるだろうが、朝日と折半ということになると思うので、1社としての負担は減り、名を捨てて実を取ったとも考えられよう。
批判され続けた将棋連盟(の理事会)にとっては、全国紙の朝日と毎日の2紙が、名人戦やその予選であるA級順位戦をはじめとする順位戦を伝えてくれることになれば、将棋界で最も伝統のある名人戦の地位向上にもつながる。現在、将棋界最高のタイトルに位置づけられる竜王戦を主催する読売新聞も安閑とはしていられなくなるだろう。

あとは、2007年度の順位戦が始まるまでに、将棋ファンに「さすが朝日、さすが毎日」と言われる結論を出して欲しい。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

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2006年9月16日 (土)

小さな旅「深大寺(調布市)探訪」

深大寺(じんだいじ)に行ってきた。我が家から車で40分ほど、JR中央線の三鷹恵駅を過ぎ、南に下る。調布市の一角に、武蔵野の面影を残す、深大寺と都立神代植物園がある。深大寺は、奈良時代に創建されたとのことで、都内では、浅草の浅草寺に次いで古いお寺とのことであった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:「深大寺」の説明はこちら

お寺があって参拝者があれば、「門前市をなす」のは世の習いで、うっそう茂る木々の緑と小川のせせらぎにそって、蕎麦屋・団子屋などが軒を連ねていた。
寺や神社が持つ聖地としての独特の雰囲気と、何百年もの間、そこにそうして店が営まれてきたのであろうという時間に積み重ねの重みのようなものが、日々の喧噪から隔離された非日常の世界を感じさせてくれた。

そもそも、深大寺を訪ねようと思ったのは、門前の蕎麦屋の中に、我が家の長男と同じ名前の店があり、奇しくも蕎麦やそうめんが好きな小6の長男から、一度連れて行ってくれとせがまれていたのだ。私も、寺や神社を巡るのは嫌いではないので、双方の利害が一致し、小さな旅となったわけだ。お目当ての蕎麦屋は、昼時は待つ人で店の外まで行列ができるほどの繁盛ぶりで、20分ほど並んでようやく、私と妻、長男の3人の席が確保できた。私が注文した店の名前を冠した盛りそばは、通常の盛りそばよりそば粉が多いとのことで、こしがあり、なかなかの味だった。

東京にも、探せば、小さな非日常の世界を感じさせてくれる所は、他にもあるのであろう。そのような場所をさがしての、武蔵野の小さな旅も悪くないなと思った、深大寺探訪だった。

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2006年9月 9日 (土)

森内俊之名人から見た羽生善治3冠

今日は、また将棋の話を少し。将棋の名人戦の主催を毎日新聞社から朝日新聞社に移すという騒動が持ち上がってから、再び将棋界のことを関心を持って見るようになった。将棋連盟の月刊誌『将棋世界』も9月号、10月号と買って読んでいる。(米長会長によれば、販売部数の低下に歯止めをかけるべく、編集部も意欲的な編集をしているようだ)

将棋盤と駒を持ち出して、棋譜を並べるほど熱心ではないが、毎月掲載されるタイトルホルダーのインタビューは、トップを極めた棋士たちの人間性を垣間見ることができて、面白い。9月号は、最近、タイトル戦の常連である佐藤康光棋聖(36)、そして直近の10月号は森内俊之名人(35)である。

森内名人のインタビューの中で、ライバルである羽生善治3冠(王位・王座・王将)(35)について語ったところがある。(森内と羽生は同い年、小学生名人戦でも戦っている)

「羽生さんは別格の存在ですね。将棋界の枠を超えているという意味でもそうですし、学んだことは数多いです。」

「子供のころは確かに対抗心がありましたけれど、途中から差が開きすぎて後ろ姿が見えなくなってしまいましたので、そういう気持ちはなくなりました。自分が一つ上のステップに上がったと思えたとき『彼はこうしてクリアしてきたのか』とすごさがわかる。棋士の中では一番尊敬しています。そういう感情を持つことは勝負師としては問題なのかも知れませんけれど…」

「羽生さんのすごいところは周りを引き上げてながら、自分も上がっていくところだと思います。勝負の世界では仲間がそのままの場所にいてくれれば自分が上がったとき差が開く分けで、勝ち負けだけを考えればその方が得になるわけですが、かれの場合はそう考えずにもっと大きな視点で見ています」
(日本将棋連盟発行『将棋世界』2006年10月号、18~19ページ)

同年齢で将棋界の一方の雄である森内名人から「周りを引き上げて、自分も上がっていく」と評される羽生3冠というのも偉大だ。かつて、羽生3冠が、将棋界のタイトル7つを全て手中に納めたことがあったが、その後、ライバルの成長もあって、まさに群雄割拠。

しかし、トップが周りを伸ばし、自分もその追い上げに脅威を感じつつも成長していく。追う者と追われる者が、しのぎを削りギリギリの勝負を繰り広げる。こんな前向きの回転をしている組織は、どんどん強くなると思う。

一方で、将棋というものが、厳しい勝負の世界でありつつも、以前書いたメディア・イベントの一つに過ぎないことをよく認識しているのが、将棋連盟会長になった米長邦雄永世棋聖だろう。人々に注目され、関心を持たれてこそ、成り立つ仕事・組織であることをわかっているはずだ。注目され、関心も持たれても、その重圧や好奇心に耐え、またそれにふさわしい内容を備えた後輩達だと信頼しているからこそ、いろいろな形で、話題作りをしているのではないかと思う。

これからも、毎月の『将棋世界』の購読者となって、将棋界の動きに注目していきたい。

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年9月 8日 (金)

90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

河合隼雄著『縦糸横糸』(新潮文庫)を読み終わる。1996年5月から2003年5月まで、月1回産経新聞大阪版に連載されたコラム72回分をまとめて本のしたもので、単行本は2003年7月に発行され、この9月に新潮文庫に加わった。

縦糸横糸 (新潮文庫)

その時々の世間での出来事をテーマに河合隼雄が持論を語っている。振り返って見れば、90年代後半からこの本がまとめられた2003年までは、日本経済の長引く不振で、日本社会全体が暗くすさんでいた時期でもあり、バブル崩壊後の失われた10年(15年)の社会史にもなっている。72話の多くが、小学生や中学生といった少年・少女が起こした事件をテーマにしている。

しかし、河合氏は常に、事件の背景にある真の原因を探ろうとする。それは、子供を暴発に追い詰める、家庭であり、社会であり、それらの構成員である大人一人ひとりである。大人自身が、自分十分見つめておらず、自分に自信がもてていない。信頼できる人間関係が築けない。家庭が、憩いの場とならない。それが、子供を追い詰めている。

そんな大人の姿を描いた一節がある。『「今、ここ」の自分への不満』とサブタイトルがついたコラムで、関西の私鉄で混雑時の社内での携帯電話の電源を切るように呼びかけ始めたことを取りあげたものだ。

いつどこから電波という風が吹いてくるかわからないのを、いつも待ち受けている姿勢で、何かにほんとうに集中できるはずがない。というよりは、何かに集中するのが怖いので、それを避けるために常に外からのはたらきかけを気にしている、というのが現代人の姿ではないだろうか。
 外からのはたらきかけを待つというと何かに心を配っているようだがさにあらず、ひとたび携帯のベルが鳴ると周囲を全く無視して話しはじめる。他人の迷惑などお構いなしである。そこには極端な自己中心性が認められる。
◆空しい枝の絡み合い
 常に外とのつながりを求め自己中心的である姿は、自己に深く沈潜することによって他とのつながりを見出してゆく姿とはまったくの対極をなしている。現代人の特徴としての人間関係の希薄さ、まずさは、その根本に自分の内面とのつながりの無さということにある。(中略)自分の内界と切れてしまっているので、何とかして外とのつながりによってそれを補償しようとするのである。
 このような姿は、たとえてみると、根から切れた沢山の木が、お互いに枝を絡み合わせることによって、やっと立っているのに似ている。辛うじて倒れずに居るが、やがてはかれてしまうことだろう。この空しい枝の絡み合いをネットワークなどと呼んでいるのである。
 (中略)携帯電話禁止週間などというものがあったりすると、もう少し人間が自分の内面もこめて、互いに向き合うことをするようになるだろう。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、243~244ページ)

時々、こうしてブログを書いていると、妻から「ブログばかり書いて、私や子供たちのことはほったらかし」と怒られる。根のない木にはなっていないつもりだけれど、そう言われれば、ブログに向かう時間が増えた分、家族と向き合う時間は減っているかも知れない。うまくバランスを取ることを考えなくてはいけないと少々反省している。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 7日 (木)

『明恵 夢を生きる』を読み終わる

昨日、『明恵 夢を生きる』(河合隼雄著、講談社+α文庫)を読み終わった。明恵という僧侶の精神性の高さに驚嘆するばかりである。

明恵 夢を生きる (講談社プラスアルファ文庫)

私は、昔から歴史好きだったこともあって、大学受験の際の共通1次試験も、日本史・世界史という組み合わせで臨んだ。大学時代、社会人のなってからも、歴史関係の新書はずいぶん読んできた方だが、正直なところ、20年間積ん読になっていた京都松柏社版の『明恵 夢を生きる』でしか、「明恵」の名前を見ることはなかった。

試しに、高校時代に使った日本史教科書の定番である山川出版社の赤い表紙の「詳説日本史新版」開いてみる。「鎌倉新仏教の誕生」のサブタイトルで法然、親鸞、日蓮、一遍らが語れたあと最後に、次のように書かれている。

これにたいし、旧仏教諸宗は、いぜんとして大きな力をもっていたので、新仏教を弾圧して、自己の宗勢をまもろうとし、その反面では反省と改革をすすめた。法相宗の貞慶(解脱)、華厳宗の高弁(明恵)、律宗の叡尊らは戒律の尊重を説き、奈良仏教の復興に努力した。叡尊の弟子忍性(良観)は貧民救済・施療などの社会事業につくした。
(井上光貞・笠原一男・児玉幸多『詳説日本史新版』昭和53年、106~107ページ)

その後も、書店等で新しい山川の『詳説日本史』の教科書を見つけるたびに買いたして、他にも、1991年版、1999年版、2003年版が手元にあるが、旧仏教側が新仏教を弾圧したという記述がなくなっている程度で、明恵が奈良仏教(南都仏教)の復興に尽くしたということ以外は書かれていない。

しかし、現実の明恵は、自分の夢を丹念に記録して自分なりの解釈も加えている。年齢を加え経験が増すとともに、夢の内容が変化していく。最後は、自分の中に菩薩が入ってくるという夢を見る。一人の人間の生き方として見ると実に潔いし、年々成長し、その思想の深まりが、如実に夢に反映される様子は「すごい」というしかない。

おそらく、約20年の間、この本を開いても読み進めなかったのは、本の中から、明恵がおまえにはまだ早いと囁いていたのだろう。今の自分でも、十分読みこなせたとは思えないが、なんとか読み通すことができた。

機会があれば、戦前、広く日本人に読まれたと言われる『明恵上人伝記』にも挑戦してみたい。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 5日 (火)

気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2

今朝の日本経済新聞に脳梗塞で倒れ入院中の河合隼雄文化庁長官の主治医が4日(昨日)、河合長官の容態につき発表したとの記事が出ていた。
「小康状態を保ち、生命の危機的状況はほぼ脱した」とのコメントの一方、依然として「意識は回復しておらず重篤な状態」とある。

昨日は、小坂憲次文部科学大臣が高松塚古墳の視察し、河合長官の家族に面会したこともあり、容態の発表があっったのかも知れない。

まだ、意識不明ということだ。この世とあの世との境で、さまよっているということだろうか。

河合長官の最近の本に『大人の友情』(朝日新聞社、2005年)がある。

大人の友情

その中に、白洲正子さんから聞いた話がのっている。

 白洲さんが晩年病気で瀕死の状態になられた。親族一同が危篤と思って見守る中で、白洲さんは「大丈夫、大丈夫」と言われたらしい。一同、変な気がしたが、幸いにも奇跡的に治って元気になった。
 その後、お会いしたら、「私、死にかけたのよ」と話をして下さった。ふと気がつくと自分は一人で山道を歩いていた。ところが、桜の花が満開で、それが散りはじめ、その花吹雪のなかを、これなら一人でゆける、というので「大丈夫、大丈夫」と言ったらしい。そのとき、このようにして一人でちゃんとあちらにゆけるのだから大丈夫という気があったようだ。このような話であった。
 この話に私は深く心を打たれたし、さすがに白洲さんらしいなと感じた。
(河合隼雄著『大人の友情』朝日新聞社、85~86ページ)

ぜひ、ここで語られている白洲正子さんのように意識を回復し、あの世の入り口の話でも、我々に笑い飛ばすように語ってほしいものだ。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 1日 (金)

『明恵 夢を生きる』を読み始める

河合隼雄文化庁長官のその後の容態はどうなっているのだろうか?特に、新しいニュースもないようである。

私は、河合長官の著書は、かなり読んでいるが、このほぼ20年積ん読になったままの著書がある。『明恵 夢を生きる』(京都松柏社発行)である。奥書を見ると、1987年4月発行で、私の手元にあるのは、1987年7月第3刷である。ほぼそのタイミングで購入しているはずだ。それから、19年が過ぎ20年目に入る。それ以後、新刊で出た著書もずいぶん読んでいるが、なぜかこの本は何度か手に取るが、挫折してしまう。

鎌倉時代の高僧明恵(みょうえ)は、自らの夢を綴った『夢記』を生涯を通して記しており、それを河合隼雄氏が心理学者、夢分析者の立場から語るもので、非常に興味深いテーマなのだが、なぜか進まない。

どちらかと言えば心理学の専門書的な位置づけで出されたこの著書は、その後、広く読まれ、1995年には「講談社+α文庫」の河合作品の1冊に加えられている。思い切って、そちらを買って読むことにした。文庫版のまえがきには、「文庫版出版にあたりふりがなをふやすことになり、…」とある。単行本の方を、なかなか読み進めなかったのは、ふりがなが少なくページ全体から堅い印象を感じていたからかも知れない。今度こそは、読み終わろう。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年8月27日 (日)

米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』

先週になるが、日本将棋連盟の米長邦雄会長が書いた『不運のすすめ』(角川書店、角川oneテーマ21)を読んだ。これも、1ヵ月ほど前から、読もうと思って「積ん読」になっていたものだ。

不運のすすめ (角川oneテーマ21)

以前も書いたように、私は30年来の米長ファンである。中学時代、私が将棋を勉強していた頃、米長八段は新進気鋭のA級棋士として、タイトル戦に登場し始め、1973(昭和48)年には初タイトル「棋聖」(産経新聞社主催)を獲得した。私は、彼の解説本(『将棋中級入門』というタイトルだった)で、将棋の定跡を学んだ。
その後、1978(昭和53)年に「棋王」(共同通信社主催)、1979(昭和54)年に「王位」(中日新聞社・北海道新聞社・西日本新聞社の3社連合主催)のタイトル取り、九段に昇進。40代を目前にした1982(昭和57)年、自らの半生と勝負哲学を書いた『人間における勝負の研究』(祥伝社NONBOOK)を出版した。この本は、当時ベストセラーになり、私の蔵書の奥書を見ると、「昭和57年6月1日初版第1刷発行、昭和57年7月30日第8刷発行」となっている。わずか2ヵ月で8回の増刷である。大学4年だった私は、この本を何度も繰り返して読み、「相手の一生がかかったような勝負には、自分の昇級・昇格などが関係なくても、真剣に懸命に戦う」という「さわやか流」とも呼ばれる勝負哲学に心酔していた。
米長九段は、その勝負哲学を実践し、1984(昭和59)年には、十段・棋聖・棋王・王将の4タイトルの保持者となり、4冠王として80年代前半の将棋界をリードする存在となった。年齢にして40~42歳ぐらいである。
80年代後半になると全てのタイトルを失うが、1989(平成元)年には再び「王将」のタイトルを奪取。翌年自宅に米長道場を開き、当時の若手棋士から新戦法や新感覚を吸収し、、1993(平成4)年には、49歳11ヵ月で念願の「名人」位タイトルを獲得、マスコミでも話題になった。

この本に何を見いだすかは、人それぞれだれだろう。40代以降、四冠王の絶頂から転落したあとの40代半ばでの「米長版中年クライシス」をどう乗り越え、再びタイトルを取り「名人」にまで登り詰めたかは、読みどころの一つである。
しかし、私にとって一番、印象に残ったのは、将棋界で「名人位」も極め「功なり名を遂げた」身でありながら、「60歳からが本当の人生だ」と書いているところである。

●定年後は余生ではない
 私はかねが、60歳を過ぎてからの生き方が非常に大事だと思っていた。
 世の中では、「60歳からの余生をいかにして楽しむか」などと言われるが、そんなバカなことはない。60を過ぎてからの人生は「余りの人生」などではなく、むしろそこからが本物の人生なのである。それまでは、人生修行の時期でしかない。
 私自身は、60歳まで将棋を通して修行してきた。(中略)そして60歳で現役を引退し、本当の人生を歩み始めたわけである。
 サラリーマンであれば、入社してから定年までが、人生修行であり、その先に本物の人生がある。定年退職ですべてが終わったと錯覚している人は、私に言わせれば、本当の人生を生きることを自ら放棄してしまっていることになる。
(米長邦雄著『不運のすすめ』角川oneテーマ21、165ページ)

こう宣言する米長邦雄氏は、現役引退後の2005年、日本将棋連盟会長となり、赤字に悩む組織としての将棋連盟の長として組織改革に乗り出すともに、連盟の収支不振の遠因である将棋人口の減少に歯止めをかけ、将棋の普及のために動き出した。
最強のアマチュア棋士瀬川さんのプロ入りを認めたことも一つだし、今回の名人戦の主催を巡る騒動もそのひとつである。

現在の将棋界の第一線には、1970年生まれの羽生善治(王位・王座・王将)、森内俊之(名人・棋王)、1969年生まれの佐藤康光(棋聖)という30代半ばのタイトル保持者が名を連ね、さらに次を狙う1984年生まれの渡辺明(竜王)、1962年生まれで健在ぶりを示す元名人谷川浩司九段と多士済々で、かつての「大山-升田」対決、「中原-米長」対決に匹敵するドラマがそのひとつひとつにあるように思う。
それを、赤裸々に世間のアピールしていくだけで、まだまだ関心を呼ぶと思うし、人気も回復していくと思う。

米長会長を応援しているし、その手腕に期待している。「ガンバレ!米長会長」

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

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2006年8月24日 (木)

気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

先週、8月17日(木)に河合隼雄文化庁長官が、奈良の自宅で脳梗塞で倒れたとのニュースが流れた。肺炎を併発し、重体。翌日には、小康状態との報道が続いたが、その後は、何も伝えられず、気がかりだ。

私は高校生の頃から心理学に興味があり、ずいぶん本も読んだが、一番多かったのは、河合長官の著作である。軽妙な語り口で、読むものを惹きつけてやまない。
河合氏は最初から心理学者を志していたわけではなく、京大の数学科を出て一時は高校の数学の教師をしている。その後、京大大学院で心理学を学び、米国留学の後、スイスのユング研究所で学んでいる。日本に戻り、京大で教鞭をとるかたわら、心理療法家として臨床治療も行い、その経験が著作の中にも反映されている。

私が、好きな本は何冊かあるが、特に、印象に残っているものに、『大人になることのむずかしさ』(河合隼雄著、岩波書店、1983年、1996年に新装版として再版)という著書がある。

大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)

これは、岩波の”子どもと教育を考える”というシリーズの1冊として出版された。教育書として出されたせいもあり、その後も、文庫化されたこともない地味な本であるが、私にはいつも読み返す一節がある。「職業の選択」という見出しの付いた一節である。

職業の選択や配偶者の選択においては、思いがけない偶然性が伴う時がある。職業や配偶者は、その人にとっての人生の一大事であるのに、偶然によって決めるなど、まったく馬鹿げているように思われるが、実際はその結果が上々であることも少なくないのである。(中略)
このことは、人生の不思議さといってしまえばそれまでだが、職業や配偶者の選択のような、あまりに重大なことになると、人間の意志や思考のみに頼っていては、あまりよい結果をもたらさないことを示しているのかも知れない。(中略)
深い必然性をもったものほど、人間の目には一見偶然に見えるといってもよく、そのような偶然を生かしてゆく心の余裕をもつことが、職業選択の場合にも必要であろう。もっとも、偶然を生かすことと、偶然に振り回されることは似て非なるものであることは、いうまでもないことである。一所懸命に行為してゆくにしろ、どこかに偶然がはいりこんでくるゆとりを残しておくことは、大人であるための条件のひとつといっていいだろう。
(河合隼雄著『大人になることのむずかしさ』岩波書店、168~169ページ)

「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」との考えは、いつも、私の頭のどこかにある。いつも、「ただいま現在、こうしてあることの偶然を、どうやって次に生かしていけるだろうか?」と考えてきたように思う。
サラリーマンの仕事は、異動という自分の意志では、どうにもならないものによって左右される。新たな職場で、どんな仕事をし、社内外で誰と巡りあうかも、偶然の産物であろう。しかし、これまで、偶然に振り回されずに、なんとかやってこられたのは、この一節のおかげである。

河合長官には、なんとか回復してもらい、再び、現代の日本人に語りかけてほしい。 

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年8月19日 (土)

ヨロンとセロン

積ん読になっていた『メディア社会』(佐藤卓己著、岩波新書)を読んだ。

メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

著者は1960年生まれで、メディア史・大衆文化論を教える京大の大学院の助教授だ。サブタイトルに「現代を読み解く視点」とあり、帯には「<歴史>から問うニュースの読み方、50のテーマで考える実践的メディア論!」とある。自分と同じ1960年生まれということと、これまでの歴史をふまえた新聞、テレビ、各種ネットビジネス等のメディアのあり方の議論がおもしろそうで、購入した。

第1話が”「メディア」は広告媒体である”という当たり前であるが、ふだん、意識することが少なくなっているメディアの本質論から始まり、第14話の”メディア・イベントの誕生”では、夏の全国高校野球大会について

そもそも、全国高等学校野球大会(戦前の正式名称は全国中等学校優勝野球大会)は、第一次大戦中の1915年、大阪朝日新聞社主催で開始された。(中略)
今では伝統ある夏の風物詩だが、そもそもは新聞社が夏休みの「記事枯れ」に対応して紙面を維持するために企画されたメディア・イベントである。自ら主催し、観客を動員し、取材し、それを批評する。関連記事はいくらでも量産することができる。甲子園大会はそうしたニュース製造機であった。(佐藤卓己著『メディア社会』岩波新書、63~64ページ)

と、原点を辿る議論がされていて興味深い。我々が、目にし、耳にするニュースも、本来、広告媒体であるメディアによって時には作られ、取捨選択された結果のものであるということだろう。しかし、そのメディアが、それを読み、見る人に大きな影響を与える。時として、人々が欲するであろうものを、先回りして用意し、世の中の流れを作っていく。

この本で、最も興味深かったのは、第25話の”憲法をめぐる「ヨロン」と「セロン」”の中で取り上げられている、ヨロンとセロンの違いである。漢字で書けば、どちらも「世論」であり、恥ずかしながら、この年(現在45歳)になるまで、「世論」と書いて、なぜ、「ヨロン」と読んだり「セロン」と読んだりするのか、その違いについて深く考えたことはなかった。本書によれば、「ヨロン」は正しくは「輿論」と書き、「セロン」は「世論」と書く。

今日ではほとんど忘却されているが、輿論(よろん)と世論(せろん)は戦前までは別の言葉だった。輿論とは「五箇条の御誓文」(1868年)の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも連なる尊重すべき公論であり、世論とは「軍人勅諭(1882年)の「世論に惑わず、政治に拘わらず」にある通りその暴走を阻止すべき私情であった。戦後、当用漢字公布によって「輿」の字が新聞で使えなくなったため、苦肉に策として「世論」と書いて「ヨロン」と読む慣行が生まれた。『「毎日」の三世紀 別巻』(2002年)は、次のように説明している。

「世論を「よろん」と読むようになったのは、戦後民主主義が背景にある。従来、「世論」は戦時中、「世論(せろん)に惑わず」などと流言飛語か俗論のような言葉とし使われていた。これに対して、「輿論」は「輿論に基づく民主政治」など建設的なニュアンスがあった。」
(佐藤卓己著『メディア社会』岩波新書、119ページ)

「毎日の三世紀 別巻」の説明は、戦後民主主義の下、民衆の言葉「世論」が「輿論(ヨロン)」の意味をも吸収し、見識を備えた公論を成すようになったと読める。しかし、「輿論」という漢字が当用漢字から消え使われなくなって60余年、「世論」は戦前の流言飛語・俗論に逆戻りし、「輿論(よろん)」という言葉は、その概念さえ忘れられている。

メディア・イベントに惑わされず、自分の頭で考えることを、一人一人が心がけないと、「世論(せろん)に惑わされる」時代が続く事になるだろう。せめて、自分の子供にだけは、そのことをキチンと教えたいと思う。

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2006年8月 2日 (水)

将棋名人戦、朝日新聞に

ここしばらく、将棋界を騒がせていた名人戦の主催新聞社を、毎日新聞社から朝日新聞社に移すかどうかという問題は、将棋連盟の棋士全員の投票の結果、101対90で毎日新聞社との契約を継続しないという結論が出た。

そもそも、将棋の名人戦は、最初は毎日新聞社主催で始まり第1期(1937年)から第8期(1949年)まで毎日、その後、朝日新聞社主催に移り、第9期(1950年)から第35期(1976年)まで朝日、第36期(1978年)から現在の第64期(2006年)まで毎日と、毎日新聞社と朝日新聞社の盤外でのタイトルの争奪戦の歴史でもある。(35期から36期の間に空白があるのは、ゴタゴタもあって名人戦が1年開催できなかったから)

私が、将棋を覚えた頃は、朝日が名人戦を主催していた時期だったので、毎日に移った時は、違和感を感じたのを覚えている。

しかし、朝日と毎日のゴタゴタの中で、着実に将棋界での地位を向上させ「漁夫の利」を得たのは読売新聞社だろう。かつては、名人戦より格下だった「十段戦」を1988年に「竜王戦」に改組し、いつの間にか、名人戦と同格以上の棋戦に育ててしまった。
(今回の件の記者会見でも、読売は、米長会長から「将棋界1位のタイトル戦は竜王戦」とコメントを取り、記事にしている)

名人戦を取り戻した朝日はどう読売に対抗していくのか、盤外の名人と竜王の戦いも目が離せない。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる 

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2006年7月30日 (日)

人生の四季 、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる

先日から読んでいた『ライフサイクルの心理学』(ダニエル・レビンソン著、南博訳、講談社学術文庫)の原題は”THE SEASONS OF MEN`S LIFE”で、日本で最初に出版された時は、「人生の四季」というタイトルだったそうだ。文庫化する際、改題したそうだ。前のタイトルだと、老人の回顧録のようにも聞こえる。

その『ライフサイクルの心理学』の下巻を、昨日ようやく読み終わった。1970年前後の米国の4つの職業(生物学者、小説家、企業の管理職、労働者)の40代の男性10人ずつ計40人のそれまでの人生を丹念に面接調査で聞き出し、そこに共通にサイクルを見いだし、仮説を提示している。

本書の本来のテーマ自体は、まさに、このブログのテーマそのもので、じっくり、数回に分けて書きたいと思うが、この本の最後の方で書かれていた事が、印象的だったので、まずそれを書きたい。

「原始の時代からの長い人類の歴史の中で見れば、家庭というものは、狩猟が中心の時代に、次の世代が自ら狩猟に出て獲物を得て、自活できるようになるまで期間、最も効率的に次の世代を育てるためのシステムであった。20才前後に成人し、自ら生活できるようになるまでが、子育ての期間である。原始の時代には、病気、飢え等で、成人までに亡くなるものもいる。親の世代も、子供が巣立っていく40才の頃には既に衰え、死んでいく者も多かった。
40才以降の中年の時期を、人間が生きるようになったのは、歴史的に見れば、ごく最近の事なので、中年以降のうまい過ごし方は、まだ確立されていないし、それは、更に1000年~2000年という単位でしか、根付いていかないのではないか。」というような趣旨の事が書いてあった。
河合隼雄氏の『対話する人間』にも、似たような話があったが、あの時は、日本の戦国時代が人生50年という話であった。今回は、一気に遡って何十万年という単位の話である。

そう考えれば、我々個々人が悩むのも当然だし、ここで考えた何がしかが、次世代へ引き継がれ、1000年~2000年先の人間の生き方に多少でも役に立てば、それも悪くないかなと思ったりした。

*追記(2006年11月23日)
タイトルを当初の「人生の四季」から「人生の四季、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる」に変更しました。

*『ライフサイクルの心理学』関連記事
7月19日:本格派に挑戦『ライフサイクルの心理学』
7月30日:人生の四季、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる

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2006年7月 6日 (木)

ココログ不調は、ブログブームの反映?

ここ1週間ほど、また、ココログが不調だ。夜9時を過ぎると、ココログの管理ページにアクセスするのに異様に時間がかかるようになった。自分の管理ページに入った後も、新規記事作成ページやアクセス解析ページへ移るのにまた時間がかかり、時間切れで接続が切れてしまう事もある。ココログを管理しているニフティでは、11日(火)から13日(火)まで丸2日間かけてメンテナンスを行うらしい。その間、全く新規の記事更新等はできないようだ。(従来の記事を見ることは可能らしい)。おそらく、2日間も更新を止めたら、再開後のアクセスが集中して、おそらくその後も、アクセスしづらい状況が続くのではないかと思う。ニフティ側は、これまでの数々の不具合を一気に解消するような、根本的な荒療治をするようだ。少々心配だが、やむを得ない。このような不満は、ココログだけに限らないようだし…。

自分もその一人だが、ここに来てブログを始める人が急速に増えているのではないだろうか。NHKの教育テレビで6月から「中高年のパソコン講座 ブログに挑戦してみよう!」という番組が始まっているし、書店のパソコンコーナーでは、この半年ほどで、各出版社から「無料で、簡単に始められるブログ」という類の解説書が新たに出版されたように思う。一方で、以前取り上げた『ウェブ進化論』(梅田望夫著、ちくま新書)の中でも、ブログは新しいメディアとして肯定されており、普及期に入ってきたのだろう。

一方、ブログのサービスは、ニフティのようなプロバイダー、ヤフーや楽天のようなポータルサイトなど、様々な企業から提供されており、それも大半が無料で提供され、無料で利用できる容量も各社の競争で拡大する一方だ。始める際の垣根は、低い。
従来、会員向けにしかサービスしていなかったニフティのココログも昨年暮れから無料サービスを始めたので、利用者の増加に、サービス提供のためのインフラ整備が追いついていないのだろう。

私自身が4ヵ月余続けてみた感想・印象は、まず第一は「始めるのは簡単、でも書き続けることは難しい。さらに、読み続けてもらうのはもっと難しい。」ということだ。毎日、書き続けるとまで決めているわけではないが、6月半ばから今日までは、とりあえず続けているので、続く限りは続けてみたい。(メンテ期間中は無理かもしれないが)

第二は単純だが「反応があるとうれしい」ということだ。コメントやトラックバックがあるとワクワクするし、自分のブログへのアクセス数が増えると、今日も何か話題を考えて書こうという気になってくる。

「人に勧めるか?」と聞かれたら、「書くことが好きな人は、ぜひ始めたらいい」と勧めたい。毎日書けば1年で365件、3日に1回でも1年で120件以上記事が残っていく。それは、また、その時々の自分の記録になる。結局、これが自分にとってのブログをやることによる一番の財産になるのではないかという気がしている。

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2006年6月21日 (水)

季節の節目、「夏至」

今日は「夏至(げし)」だったそうだ。
美しい日本の言葉を集めてベストセラーになった『美人の日本語』(幻冬舎)を書いた山下景子さんが、季節のことばを集めて『美しい暦のことば』(インデックス・コミュニケーションズ)という本を書いている。その中で、「夏至」を探してみると、

「夏至」は一年で一番昼の時間が長い日です。
また、太陽が最も高くまでのぼる日でもあります。
正午の時間帯では、ほとんど真上から照らされているような形になるので、影も一番短くなります。
日が沈んでからもしばらくはまだ明るさが残っているほどの、太陽のパワーを実感できる日ですね。
ところが、だいたいの地方が、梅雨の真っ最中。太陽の姿さえ見ることができないかもしれません。
(以下省略、『美しい暦のことば』89ページ)

そういえば、TVのニュースで、影が短いということをアナウンサーが言っていた。この本を読んでいたのかもしれない。

もう1冊、『NHK気象・災害ハンドブック』(NHK放送文化研究所、NHK出版)で、「夏至」を調べると、

夏至〔ゲシ〕6月21日ごろ、太陽の黄経90度
1年中で一番昼が長い。梅雨に入り、田植えで農家が最も忙しいころ。しょうぶが咲き始める。
(『NHK気象・災害ハンドブック』111ページ)

東京は、太陽のパワーを感じる日だったような気がする。午後7時過ぎでも、まだ薄明るかった。

季節の変化にもっと敏感になり、気象の変化の仕組みにより詳しくなりたいと『楽しい気象観察図鑑』(武田康男〔文・写真〕、草思社)なんていう本も買い込んでいるが、まだ活用しきれていないのが実態だ。このブログでも、折りにふれて取り上げていきたい。

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2006年6月19日 (月)

第64期将棋名人戦

第64期の将棋名人戦は、森内名人3勝、挑戦者谷川九段2勝のあとの第6局が、15日(木)・16日(金)の2日にわたって行われ、先手番の森内名人が勝って、4勝2敗で名人位を防衛した。
これで、名人位通算4期となり、永世名人の資格を得るまでにあと1期となった。羽生善治王将も通算4期で、中原16世名人、谷川17世名人の後の18世名人の資格をどちらが得るかも楽しみになってきた。

個人的には、40代で同世代の谷川浩司九段の健闘を期待していたが、一歩及ばずだった。

角川書店の角川oneテーマ21という新書から、谷川九段が2000年に『集中力』という本を、羽生善治王将が2005年に『決断力』という本を、出している。読み比べると2人の考え方の違いがわかっておもしろい。どちらの本にも、それぞれ集中力と決断力の大切さは書かれているのだけれど、そこは出版社の商魂のたくましさだろう。

*追記(2006年8月27日)
タイトルを当初の「将棋名人戦」から「第64期将棋名人戦」に変更しました。

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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2006年6月11日 (日)

雨の日の漢字検定

東京も、6月9日(金)に梅雨入りということらしい。(気象庁:「平成18年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」

去年の梅雨時には、単身赴任で札幌にいて、梅雨とは無縁の生活だった。北海道には梅雨がないからだ。
週末になると、車で、道の駅と温泉巡りをしたり、札幌市内を一望できる531mの藻岩山に1時間かけて登ったりと、快適な週末を過ごしていた。

今年の東京は、五月晴れといえるような晴れの日が平年より少なかったのではないだろうか。肌寒い曇り空と小雨の日が多かったような気がする。五月晴れに振られ続けて、気づいたら梅雨というのが、今年の実感だ。

我が家の6月は、先週3日(土)が小6の長男の運動会、昨日10日(土)が中3の次女の運動会と続き、今日は、数年前から家族で受検を始めた漢字検定の平成18年度の第1回の試験日だった。朝から、雨が降る中、朝は長女、昼は次女、午後は長男と、それぞれの受検級に応じて、小平にある受検会場に向かった。私の記憶にある限り、これだけ雨に降られた漢字検定は初めてだったように思う。

漢字検定は、6月、10月、2月の年3回試験があり、今や年間240万人を超える志願者数だそうだ。10級から1級まで、小学校では学年に応じた級の設定があり、5級で6年生終了レベル、4級、3級が中学レベル、準2級、2級が高校生レベルで、2級が常用漢字全てと人名漢字285字が出題範囲で、社会人としては2級がひとつの目安だろう。準1級から上は、日常生活では使わない漢字も出てきて、受検者も極端に少なくなる。なお、準2級までは、正解率70%が合格の目安だが、2級以上は80%になる。

受検を始めた時は、いずれは家族全員が2級取得を将来の目標に、その時点の自分の実力にあわせて、受検を始めた。
漢字にはそれなりに自信を持っている父(私)は、準2級から受け始め、2級まではすんなり合格。1回休んだあと、1ランク上の準1級に挑戦。2度不合格の屈辱を味わった末、3回目にしてようやく合格。1級はあまりに難易度が高いので、とりあえず準1急で満足している。
あまり漢字に自信がなかった妻は、5級から受検を始めも、準2級までは順調に進んだが、2級の壁が厚かった。何度も涙をのみ、昨年の10月にようやく2級の壁を突破し、目標到達。
私の単身赴任中は、3人の子供たちは、鬼の居ぬ間の何とやらで、母親が2級突破に必死になっているのを横目で見ながら、なんやかやと理由を付けては、試験を受けていなかった。
私が、家に戻り、それは許さないと、半ば、受検を強要し、今回は、高3の長女が2級、中3の次女が3級、小6の長男が6級を受けた。結果が出るには、3週間。長女と次女は、早々と白旗を揚げていて、捲土重来を期す必要がありそうだ。

子供たちに、漢字検定を無理にでも受けさせてきたのは、「読み、書き、そろばん(計算)」と言われるように、何を学ぶのにも「読みと書き」が基礎となることが一番だが、学年に応じて級が設定されており将来にわたり長く続けられること、スタートの段階で子供だけに受けさせるのではなく、親も一緒に参加できたからである。 自分たちが日常使っている、漢字の世界に興味を持ってもらい、正しく使える大人になって欲しいというのが、親の切なる願いである。いつか、気がついてくれることを信じて、また10月も、3人の子たちの受検の申込をするつもりだ。

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2006年5月21日 (日)

「誕生色」の話

1週間ほど前に、『誕生色辞典』(野村順一著、文春文庫PLUS)という本を買った。色というものが、人の心に与える印象や影響には、以前から興味があって、その手の本は何冊か読んだし、数年前には、日本商工会議所のカラー・コーディネーター検定3級も取得している。

この本によれば、1年365(366)日それぞれに「その日の色」が決まっているという。誕生日の色が、その人にとって「誕生色」になるとのことだ。
そもそも人には、それぞれ自分が本当に好む色=「自分色」があって、自分色を発見すると「その人のセンサーは新しくなり、運命は好転し、幸運を呼び込む」ことができるそうだ。「誕生色」は「自分色」のルーツであり、色それぞれに深い意味がこめられている。

Photo ちなみに、秋(10月)生まれの私の「誕生色」は濃いブラウン系の『弁柄(べんがら)色』となっている。
色の説明は「インド・ベンガル地方からもたらされた濃いブラウンの顔料の色」。


以下、本に沿って説明すると
人格を解くキーワード:「陽気・創造・ほほえみ」
その人の特徴     :「誰からも愛される温かい心の持ち主」
人格のヒント            :「常に明るく、笑顔を絶やさないのでだれからも好かれます。少しちょこちょいなところもありますが、陽気なムードがあります。また、その健全な心と体が創造的意欲のもととなっています。弁柄色と相性のよい色は寒色系のパステルトーン、向いている職業は獣医、建築家、デザイナー、エンジニア、スポーツ選手などです。」

あまり当たっているような気はしない。人前では、あまり笑っていないような気がする。職業も、全然違う。

著者は、そういう声に応えるように、次のようにも書いている。

そこに書かれていることに思い当たることもあれば、そうでないと感じることもあるでしょう。違うと感じる部分こそ、今まで気づかなかったあなた自身や忘れ去った過去のあなた自身なのです。

もう少し、普段から笑顔を絶やさず、明るくふるまえば、「運命は好転し、幸運を呼び込む」ことができるということかもしれない。

自分の家族や友人など、誕生日が判る人を思い浮かべながら、読むのも一興である。

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2006年5月19日 (金)

次女の「京都」修学旅行に思う

いましがた、中3の次女が修学旅行に出発した。2泊3日で京都に行くそうだ。何日か前からいろいろと準備をし、昨日は、デジカメを貸して欲しいと言われた。今朝は、5時過ぎには起きて、先ほど、楽しそうに家を出て行った。久しぶりに京都に行きたくなった。

自分の育ったところが、九州・太宰府という、日本史の教科書に必ず出てくるところだったこと(大宰府政庁跡太宰府天満宮は小中学校時代の遠足コースだった)、新聞記者をしていた父が歴史好きだったということもあり、自然と歴史に親しんだ。高校では、世界史と日本史をともに選択し、模試では社会で点数を稼いでいた。我々の代が初年度だった共通1次試験も社会は、世界史・日本史の組み合わせで臨んだ。

その当時から、洋の東西を問わず、歴史小説を読み、岩波新書や中公新書、講談社現代新書の歴史ものを読んできた。小説では、井上靖(『天平の甍』、『蒼き狼』、『風濤』)、黒岩重吾の古代から奈良朝にかけての作品(『北風に起つ』、『磐舟の光芒』、『弓削道鏡』等)、最近は高橋克彦の『火怨』、『炎立つ』などの東北3部作と『時宗』、新書では、日本古代史の遠山美都男などあげればきりがない。マンガ家里中満智子の女帝を扱った作品(『天上の虹』、『女帝の手記』)などもおもしろく読んだ。

一時期、黒岩重吾をきっかけに飛鳥・奈良時代にはまり、新婚旅行でも奈良に行ったし、北陸に住んでいた頃、連休を利用して家族で2回奈良に旅行をした。当時は、整然と整備された観光都市京都よりは、いろいろな物が、土の下に埋まっている、そしてどこか自分の故郷でもある太宰府と似ている奈良の方が好きだった。

京都に行ったのは、2年前の夏休み。車で、福岡まで帰ったと言う同級生の話に刺激され、ユースホステルを泊まり歩いて、家族で福岡まで帰ることを計画。金曜の夜、帰宅後、八王子から中央道に乗り、途中サービスエリアで仮眠し、1日車で走って京都に入った。京都では2泊し、丸1日京都観光に当てた。やはり、その前の年、中3で京都に旅行した長女の希望もあって、京都で1日過ごすことにしたのだ。金閣寺、北野天満宮、晴明神社、二条城、清水寺、銀閣寺、竜安寺などを回り、すっかり京都の魅力にとりつかれてしまった。

1000年を超えて、この国の都だった京都には、至るところ重層的に歴史が潜んでいて、訪ねるところが尽きることがない。京都を訪ねる人が、絶えることがないのが、わかったような気がした。

週末の次女のみやげ話を、楽しみの待つとしよう。

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