2010年11月24日 (水)

東京都心の紅葉

今日は、一日休暇を取った。午前中は家にいて、午後から、平日でないとなかなか出来ない諸手続を行うために都心に向かう。まずは、職場からそう遠くない京橋へ。目的の場所は、京橋と銀座の境界線の京橋側にあり、地下鉄の銀座一丁目駅経由で向かう。平日の昼の銀座など初めてではなだろうか。

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京橋で用事の後の、次の目的地は水道橋。国際会計基準の講座を開講している専門学校に受講の申し込みに行く。

天気もよく暖かいので、散歩がてら、買ったばかりのデジタル一眼レフ、ペンタックスのK-xを肩にかけ歩くことにした。何か気になるものがあったら、撮るというつもりで歩く。カメラを持ったことで、被写体となりそうなものはないかといつもより周囲に目を凝らしながら歩く。思わぬ光景に出会うとうれしくなる。

結局、地下鉄の京橋駅の出口を皇居の方面に曲がる。京葉線の東京駅に向かって歩いている感じだ。

鍛冶橋の交差点を渡り、JRのガードをくぐり、左に東京国際フォーラム、右の三菱グループ各社の本社ビルを見ながら、馬場先門からそのまま皇居方面に歩く。

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皇居外苑も紅葉が進んでいる。さらに、皇居前広場へ進み、二重橋の写真を撮った。帰って来て調べてみると、記念写真の撮影場所にもなる眼鏡橋は本当の二重橋ではなく、本物は眼鏡橋の奥の橋らしい。

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皇居前から内堀通りを北に道なりに歩き、東京消防庁、気象庁と過ぎて、平川門の前で神保町方面に曲がり白山通りに。一ツ橋を渡り、学士会館前を通り過ぎ、神保町の交差点をさらに水道橋方面にしばらく歩き、第二の目的地の専門学校に着いた。平日の3時過ぎとあって受付で待つ人もまばらで、ゆっくり説明を聞くことができた。受講手続きを済ませて、今日の目的は完了。そこから、さらに飯田橋まで歩き、地下鉄に乗り家路についた。

東京都心でも、歩いたことのない道や路地はたくさんある。これからも、暇な時は、カメラを肩にかけて歩いてみよう。

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2010年10月10日 (日)

切手で学んだ日本の美術、東京の美術館を巡って

最近、休日に美術館に絵画を見に行くことが多くなった。都内には、国立博物館や東京国立近代美術館など国が運営するものから、企業グループや個人の蒐集品を中心に作られた大小さまざまに美術館があり、いつもどこかで展覧会が行われている。休日、家にいてばかりでは運動不足にもなるので、趣味と実益を兼ねて足を運んでいる。

最近、見たもので、一番見応えがあったのが、竹橋にある東京国立近代美術館の「上村松園展」だ。明治・大正・昭和を生き抜いた日本画の女流画家上村松園の作品を初期のものから絶筆となった作品まで集めてており、圧倒される内容だった。

企業グループや個人の蒐集品を中心とした美術館でこれまでの見た中で、比較的レベルが高いと思ったのは、日本画では山種美術館、洋画ではブリジストン美術館である。

山種美術館は、旧山種証券(現SMBCフレンド証券の前身の1社)や米の卸や倉庫業を営む(株)ヤマタネ(旧山種産業)創業者山崎種二が蒐集した作品を展示している。山崎種二は、日本画の大家横山大観に戦後の一時期自分の別荘をアトリエとして提供するなど親交があり、単なる美術品の蒐集家というよりは、日本画家たちのパトロン的存在だったようだ。2009年10月に、新しい美術館がJR恵比寿駅から坂を上がった広尾の丘の上にオープンしている。

ブリジストン美術館は、東京駅八重洲口から八重洲通りを5分ほど歩いたブリヂストンビルの中にある。こちらはブリジストンの創業者石橋正二郎の西洋美術のコレクションが元になって作られたもので、青木繁作品や藤島武二などの明治以降の日本の洋画家の作品蒐集から始まり、フランスの印象派の作品を多く集めている。

いくつかの美術館を巡ってありがたかったのは、子どもの頃に夢中になった切手集めのおかげで、日本画であれ洋画であれ、日本の著名な画家と代表作品は切手を通じて見たことあったことである。

私たちが小学生だった昭和40年代は、テレビゲームなどないので、大半の男子は将棋を指していたし、切手集めも流行っていた。少年マガジンやサンデーなどの漫画誌には切手商による主要な記念切手の売買価格表が必ず掲載されていた。今思えば、新聞の株価欄そっくりであり、子ども心にも切手は長くもっていれば値上がりするという思いが自然と刷り込まれていた。記念切手の発売日には、小学生もなけなしの小遣いを手に、郵便局の前に並んでいたものだ。お互い集めた切手を見せ合って、交換するのも遊びのうちであり、新しい記念切手の発売は切手を額面で仕入れられる貴重な機会だった。

私自身が、初めて郵便局に並んで買った切手は1969年5月26日の「東名高速道路開通記念」。

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翌6月には11日に「東京国立近代美術館開館記念」、12日に「原子力船進水記念」、25日に「日本海ケーブル開通記念」と続けて記念切手が発売された。高度成長時代ど真ん中という頃である。(記念切手まで発売され、その完成が祝われた原子力船むつがその後流浪の旅を強いられることになるのは、なんとも皮肉なことだが)

切手発売の元締めである当時の郵政省は、東名高速開通のような国として記念すべきイベントを対象に記念切手を発売するとともに、毎年定例で4月に切手集めを奨励する意味で過、切手趣味週間と題して日本の美人画を題材にした大型の記念切手を発売し、10月に国際文通週間と題して国際郵便用の額面で、東海道五十三次や富嶽三十六景など浮世絵をテーマに切手を発売していた。趣味週間と文通週間は、デザインも美しく、過去発売されているものの多くが値上がりしているということで人気があった。
他にも、毎年開催される国民体育大会の記念切手、不定期であるが、国立公園シリーズ、国定公園シリーズなど全国の景勝地を紹介するもの、国宝シリーズなどがあった。
切手収集にはカタログが不可欠だが、カラー版の一般向けのカタログとは別に、白黒だが、各切手に関するデータが詳しく開設されている日本切手専門カタログを読んで、日本の文化・歴史・地理などに触れることになった。

何かに新しく接する時、それが全く未知のものであるか、小さなことでも何かしら接点がるのとでは、より詳しく知ろうとする時のアプローチが全然違う。例えば絵画では、切手を通じてであれ、作者の名と作品になじみがあれば、それば一つの足場になる。
先に触れた上村松園であれば、1965年の切手趣味週間で「序の舞」が、1979年から83年までシリーズで出された近代美術シリーズの第6集で「母子」(1980年発行)が取り上げられている。

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なるほど、切手のなるほどの作品は、その画家の作品の中でも代表作といえるものであることが、わかる。

切手という小さな窓から、多少なりとも日本の社会・文化を学べたことに、感謝しなくてはと思う。

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2008年5月 5日 (月)

絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その2-出会いの不思議

エリック・カールさんは、1929年にアメリカのニューヨーク州でドイツ系移民の子として生まれた。1935年には、親子はドイツに帰国。カール少年は、ナチス政権下のドイツで青少年時代を過ごし、第2次大戦後のドイツで、美術やデザインの基礎を学んだ。
その後、ドイツで、グラフィックデザイナー、ポスター作家として経験を積んだ上で、1952年に再びアメリカに戻った。
アメリカでも、最初はグラフィックデザイナー、イラストレーターとして仕事をしている。

カールさんの絵本作家への転身には2人の人物がかかわっている。

1人目が、ビル・マーチンという作家であり編集者である男性である。カールさんのイラストに関心を持ったマーチン氏が、自分の書いたおはなし『くまさん、くまさん、何みてるの?』の挿し絵をカールさんに依頼したことが、絵本とかかわる最初である。これで、絵本の素晴らしさを知ったカールさんは、その後、自らストーリーも考えるようになる。(マーチン氏とのコンビの絵本も、その後出版している)

2人目が編集者のアン・ベネデュース女史。以前、料理の本の挿し絵で一緒に仕事をしたベネデュースさんに、カールさんは自作の絵本のアイデアを持ち込む。そうして、持ち込まれた2冊目の絵本が『はらぺこあおむし』の前身のお話。カールさんの原案では、緑色の虫が、「はらぺこあおむし」のように、本に穴を開けながらいろいろなものを食べ、最後にまるまると太っている姿で終わりになっている。虫が好きではなかった、ベネデュースさんが「caterpillar(芋虫、毛虫、あおむし)は?」と言い、最後の色鮮やかな蝶になって飛び立つ、現在のラストシーンが生まれたという。

今では、絵本作家として何十冊もの作品を描いているエリック・カールさんだが、ビル・マーチン氏が挿し絵を依頼しなければ、絵本の世界に足を踏み入れてはいなかったかもしれないし、編集者としてのアン・ベネデュース女史のアイデアがなければ、『はらぺこあおむし』が、時代を超えて読み継がれるような絵本になったかもわからない。
ふさわしい時期に、しかるべき人と巡り会うことの大切さを感じずにはいられなかった。

それは、偶然なのか、必然なのか。このブログで1年以上前に紹介した河合隼雄さんの「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」という考え方を拠り所にして、受けとめるのが一番いいのだろうなと思いながら、エリック・カールさんの人生の不思議を考えた、エリック・カール展だった。
(2006年8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

なお、今日の記事は、会場で販売していたエリック・カール展の図録及び、会場隣の売店で購入した雑誌「MOE」のエリック・カール特集号(2007年2月号)を参考にした。

なお、このエリック・カール展は、図録によれば、銀座・松屋での開催のあと、来年まで全国で順次行われるようだ。
2008年4月29日~5月12日 松屋銀座(東京)
2008年9月19日~11月3日 島根県立美術館
2008年11月29日~12月28日 美術館「えき」KYOTO
2009年4月3日~5月6日  そごう美術館(横浜)

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絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールさんの展覧会に行く・その1-創作の秘密

一昨日、4連休の初日の「憲法記念日」(2008年5月3日)は、新聞で見かけた「エリック・カール展」を見に、銀座の松屋まで出かけた。

Photo_2今にも雨が降りそうな曇り空だが、銀座には、老いも若きもたくさんの人である。お目当ての松屋の8階の催事場まで、エスカレーターを乗り継いで行く。会場にたどり着くと、子供の日ということもあってか、親子連れが多い。入場券を買って、会場の中に入ると、それぞれの原画の前にたくさんの人。盛況だ。

これまで、何冊も出されている絵本の中から代表作を選りすぐり、その原画を各絵本につき5枚から10枚程度展示してある。そのほか、エリック・カールさんが作品を作るところを紹介したビデオや、今回の展覧会用のインタビューのビデオをなどが流されている。

エリック・カールさんの絵本といえば、多彩な色づかいが特徴だと思うが、どのような手法であの彩り・色使いを出しているかなど考えたこともなかった。

今回紹介されていた技法を簡単に紹介すると、まず、彼の原画はすべて「貼り絵」である。
トレーシングペーパーに原画の下絵を描き、その原画の色にふさわしい「色紙」を用意して、トレーシングペーパーの下絵に沿ってカミソリで切り抜く。
切り抜いた色紙を、その部分だけ穴が空いたトレーシングペーパーを台紙にあてて場所を確認しながら、色紙に糊をつけて台紙に貼りつけていく。
その繰り返しにより、台紙の上に、様々な色の切り抜かれた色紙が一枚一枚貼りつけられていき、台紙の上に切り抜いた色紙をコラージュ(糊付け)した本当の原画が完成する。

これだけであれば、ただの「貼り絵」に過ぎないが、エリック・カール作品の秘密は、切り抜いた「色紙」にある。
「色紙」は市販の単色のものではなく、ティッシューという特殊な薄い紙に、彼自身がアクリル絵の具を、思いつつくまま、何重にも塗り重ねて作ったものである。その色紙を作る時は、最終的な作品と結びついているわけではなく、塗りに専念している。いざ、原画のコラージュを始める時に、その原画にふさわしい自家製の「色紙」を探し出してくるのだ。

何気なくみているこどもの絵本でも、これだけの創作の秘密があるとは……。改めて、世の中には、自分の知らないことの方が多いことを実感した1日であった。

会場でのビデオやパンフレットで、エリック・カールさんが絵本作家として世に出るまで、様々な人との出会いがあることを知った。それは、一つの物語である。記事を改めて、「その2」としてまとめることにしたい。

この展覧会は5月12日(月)まで、銀座松屋で開催されている。ご興味のある方は、一度足を運ばれるとよいと思う。

はらぺこあおむし
はらぺこあおむし

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2007年11月29日 (木)

将来やってみたいこと「スケッチと書道」

先々週受けた研修のテーマが定年後の第二の人生をどう生きるかがテーマだったという話を書いた。
そこでは、会社を離れても通用する専門技能を身につけているかというのが大きなテーマだったが、さらにその先の話として、完全に仕事からリタイアしたあと、残りの人生をどのように過ごすのかというテーマもあった。

その頃には、3人の子ども独立しているだろうから、我が家の場合であれば、夫婦2人になった後、2人でどう過ごすのかというテーマであった。
夫婦で共通の楽しみを見いだす、それぞれ自分のやりたいことを探しお互いにそれを認め合う、あるいはその両方の間を取った折衷案でいくなど、選択肢は様々だろう。

私の場合は、パソコンを前に今ブログを書いているように、文章を書き続けるというのが、一番ありそうな姿だが、ほかにやってみたいことはあるだろうか?と考えてみた。

思いついたのは2つ。「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。
「スケッチと書道」である。もちろん、読書とか旅行とかパソコン作りなど、これまでやってきたことも、続けるとは思うが、時間に余裕ができたら何がやってみたいかと考えると、浮かんできたのがこの2つである。

上手に絵が描ける人がうらやましいといつも思ってきた。パソコンで絵を描くソフトも、いくつも買ってインストールしてきた。パソコンを作るたびに、なにがしかインストールしてるのだが、結局使いこなしたことがない。
毛筆できちんしたと字が書けるようにも、なりたいものだと思いつつ、結局我流で終わっている。ペン字については、中学時代の自分なりに工夫し努力したら、小学生の頃のしまりのない字が、それなりに見られるようになっただけに、よけいに毛筆の下手さ加減が嫌になる。

はて、なんで「スケッチと書道」なのかと改めて考えてみると、2つとも子どもの頃、やり残してきたことではないかということに気がついた。
幼稚園時代、福岡の田川という炭坑で有名な町に住んでいたことがあるが、その頃、筑豊のボタ山を描いていた洋画家のお絵かき教室に通っていたことがあった。1年ほど通っただろうか、田川を引っ越すので、教室をやめ、それ以降、絵を描くこととは縁が切れてしまった。しかし、その後、どこかに習いに行きたいとも思ったわけでもなかった。お絵かき教室に通った甲斐もなく、学校の図画工作や美術の時間には、特別な作品は何一つ描けず、ただの人だった。

書道の方は、小学生の時の話である。小学4年になる時、父の転勤で福岡から東京に引っ越し、世田谷に住んだ。4年生の途中から、書道教室に通った。なぜ、通うことになったのか、あまり定かな記憶はない。ただ、月1回課題を提出し、出来がよければ進級するのだが、あまりはかばかしく進級せず、そのうち、同級生が通っている剣道の道場の方が面白そうにみえ、書道を辞めて、剣道に行くことにした。
私にとっては、書道はいわば挫折したお稽古事であり、ささやかなトラウマでもあった。
福岡と東京の2つの小学校で、3人の先生に担任として教えてもらったが、そのうち2人は字が上手で、毛筆でもお手本になるような字を書く先生だった。
あんな風に書きたいが、現実の自分は全く書けない。ペン字だけは、その2人の先生の字をお手本にして、何とか克服したが、毛筆は挫折したままなのだ。

「スケッチと書道」が思いついたのは、私がその2つのことにコンプレックスを持っていて、それを何とかしたいという思いがあるからだろうと思う。
そんなことかつらつら考えていたら、書店でおあつらえ向きの本を見つけて、思わず買ってしまった



さて、今回はものになるかどうか。まずは、一通り読んでみよう。

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2007年11月23日 (金)

オーケストラ(チェコ・プラハ管弦楽団)コンサートを聴きに行った

今日は午後からオーケストラのコンサートを聴きに行った。先週、招待券があるから行ってみないかと、知人に声をかけてもらったので、すっかり甘えて家族5人分の招待券をもらって、会場である杉並公会堂まで行ってきた。

楽団は、チェコからやって来た「チェコ・プラハ管弦楽団」。クラシック音楽の世界に疎い私には、このオーケストラが、世界的にどの程度の評価を受けているのかはわからないが、お金をとって人に音楽を聴かせるプロであることには間違いない。

これまで、子育ての中で、自然の中で遊ばせる、日本の名所・旧跡等を訪ねるといったことはやってきたが、芸術面は親の側にセンスのないこともあって、あまり経験させることができなかった。
そのような中で、今回の話は「渡りに船」といった感じだった。

公演では1990年生まれのアンドレイ・バスキンというヴァイオリン奏者(男姓)と1985年生まれのエリザヴェータ・スーシェンコというチェロ奏者(女性)のう2人の若いソリストも登場し、すばらしいソロを披露してくれた。

しかし、先週、仕事がけっこうハードだった私は、「半分ぐらい寝てなかった?」と隣の妻に言われる状態。途中、うつらうつらしたことはあったが、半分もねていたかな~?と自分では思うのだが、おそらくそうなのだろう。それだけ、心地よい演奏だった。
たまには、気分を替えてクラシックコンサートもいいかもしれないと思った。(いつも眠っていては、もったいないけれど)

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2007年10月 8日 (月)

国立近代美術館で「平山郁夫展」を見る

今日は、2週間ほど前(9月23日)に皇居一周をしたために見そこなってしまった「平山郁夫展」を見に、午後から竹橋にある国立近代美術館に行ってきた。
今回の企画は、平山郁夫画伯の喜寿(77歳)、画業60年を記念して行われたようで、館内で配られていたパンフレットには「仏教伝来からシルクロードへ-画業60年をたどる大回顧展」と書かれている。

「平山郁夫」という名前だけは知っていても、その経歴をつぶさに調べたりしたことはなかった。出身は広島県尾道市、昭和5(1930)年生まれの77歳。中学時代には、学徒動員で働いていた工場で、原爆に遭遇。爆心地から3kmのところだったと説明には書かれていた。「被爆者」として「死」というものと向かい会わざる負えなかったことが、画家平山郁夫の原点にあるようだ。

展示されている作品は、約80点ほど。駆け足で見て回っても、ゆうに1時間はかかる。展示品は、「第1章仏陀への憧憬」「第2章玄奘三蔵の道と仏教東漸」「第3章シルクロード」「第4章平和への祈り」の4つに大きく分類されている。
第1章は仏教の創始者釈迦の一生を描いた連作、第2章は仏典を求めてインドに旅した玄奘三蔵の姿を描く。そしてその2つの流れは、第3章へのシルクロード各地を訪ね描く旅に繋がっていく。
最後の第4章の展示は、主に日本が舞台である。紅蓮の炎に燃える「広島生変図」は原爆投下で焼き尽くされる広島の街を描いた作者の思いがこもった作品。しかし、私が最も惹かれ印象に残ったのは「月華厳島」と題された、夜の厳島神社を描いた作品。夜のとばりを深い群青色で表わし、そこに燈明の明かりが黄色く揺れる。なんとも幻想的である。
今回の展示全体を通して、「青」の色遣いが印象に残った。

こうのような美術展は、東京にいるからこそ見ることができるもの。これからは、もう少し文化的な面で東京に住んでいる利点を生かさなければもったいないと感じた。

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2007年1月11日 (木)

句集『花柚』(植田房子著)から冬の句を2句

昨日、知人から『花柚(はなゆ)』という句集をもらった。植田房子さんという岡山在住の女流歌人の句集だ。この句集の中から、大岡信さんが選者をしている朝日新聞の「折々のうた」にも、一句選ばれているので、その道ではそれなりの評価を受けているのだと思う。

私は、俳句のことは、5・7・5で詠み、季語を織り込むことぐらいしかわからないので、どの句がいいなどとおこがましいことは言えないが、通読させていただいて、自分も同じような風景をみたことがあるなと思って、共感したものを2首ほど紹介してみたい。

時節柄、冬の句から2句。

門前に達磨となりて雪のこる
(植田房子『花柚』51ページ)

去年、東京で雪が降り、わずかながら積もった時、当時小5だった長男は、はしゃいで、暗くなってから外に出て、雪だるまを作っていた。その雪だるまが、数日間、家の前で融けかかりながらも、数日間、残っていたの思い出した。
私の仕事の関係で、1歳で富山に引っ越し6歳まで過ごした長男にとって、冬の雪はいつもすぐそこにある身近な存在だった。2人の姉や、近所の友達と雪合戦や雪だるま、時にはかまくらなども作り楽しんでいた。しかし、東京ではほとんど雪は降らない。また、私が札幌単身赴任した時の年末・年始、札幌に呼んだ時、雪は回りにいやと言うほどあったのだが、札幌の雪はサラサラしていて、雪玉にならないので雪合戦もできないとがっかりしていた。それ故、東京での珍しい雪に血が騒いだようだ。

黒豆に水を吸わする霜夜かな
(植田房子『花柚』54ページ)

おせち料理の定番メニュー黒豆。その黒豆を煮るためには、一晩水に浸しておかなければならない。霜が降りそうな寒い夜、水を張った鍋に眠る黒豆、その息づかいが聞こえてきそうな句だ。
なぜ、黒豆に目の句に目がいったのか。いま、私の減量作戦ののパートナーが黒豆である。あまり肉を採りすぎないように植物性タンパク質として、また食物繊維の供給源として、おせち料理の時期が終わっても、黒豆を食べている。

作者・詠み手の思いとは、全く違った解釈かもしれないが、鑑賞する側が自分の経験に照らして、共感・共鳴できるものを感じられれば、それがその人(鑑賞者)にとって、良い句なのではないかと、勝手に思っている。

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2006年12月30日 (土)

将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

2006年の将棋界を揺るがした伝統のタイトル「名人戦」の主催新聞社の移管問題。3月に、将棋連盟が毎日新聞社に対して第66期以降のと名人戦主催契約の継続をしないことを通知したことを契機に、毎日新聞社の自らの紙面で将棋連盟を非難するキャンペーン を開始したこともあって、将棋連盟と毎日の関係も悪化した。しかし、8月の棋士総会で、毎日単独主催案が否決されたことを受け、将棋連盟の米長会長は、毎日と朝日に対して両社での共催を提案した。毎日側は、これまで落ち度なく名人戦を主催してきたのに、突如、契約継続せずとの通知を受け、顔に泥を塗られるに等しい仕打ちをされたことを考えれば、拒否するだろうという大方の見方に反し、9月に共催案を受諾した。その後、具体的な内容について、連盟と毎日、朝日の間で交渉が続けられていたが、27日にまとまり、28日の新聞紙上で発表された。

主な内容は、
①名人戦の契約金は3億6000万円(両社で各1億8000万円、なお毎日単独開催時の契約金額は3億3400万円)で期間5年
②両社は実行委員会を組織して運営にあたり、棋譜(対局での指し手の記録)はウェブも含め両社が独占的に掲載
③毎日がスポーツニッポンと共催で行っている7大タイトル戦の一つ「王将戦」は、従来通り継続(契約金7800万円は変更なし)
④朝日が主催している準タイトル戦の「朝日オープン選手権」(1億3480万円)は契約金が8000万円の棋戦に衣替え
⑤さらに将棋普及のための協力金として両社で年1億1200万円を5年間、連盟に対して支払う

一時、将棋連盟は4億円以上の契約金を提示しているとの報道も見たような気がするが、さすがにそれは、両社が難色を示したのだろう。

今回の騒動の背景には、将棋連盟の収支状況の悪化ということがある。前々期は赤字であったという。細かい収入と費用の内訳は知る由もないが、連盟の運営を行う理事会のメンバーは、全員現役ないし引退した棋士が行っている。彼らは。将棋のプロではあっても、経営のプロではない。その中で、現在の米長邦雄会長は、数少ない経営感覚を持った棋士であろう。現役時代、史上最年長で名人になった時、1年間主催者である新聞社の新聞の販売増に努めるのは当然と言い、全国の販売店を回るということを行った。将棋界が、その勝負を関心を持って見つめるファンのおかげで成り立っていること、そのファンに対して将棋界の情報を伝える媒体として新聞は欠かせないものであること、それらのことが、よくよくわかっていたからこその行動であろう。

しかし、かつて将棋盤を挟んで将棋を指して遊んでいた少年たちは、いまやTVゲームやインターネットに多くの時間を割いている。少年時代に、将棋に親しまなかった人が、成人して将棋ファンになるとは思えない。将棋ファンは明らかに減っているだろう。さらに、バブル崩壊後の長引く不況の中で、多くの企業が、ファンが減って相対的にPR効果が減少した将棋の棋戦のスポンサーを降り、これまで親しまれていた棋戦のいくつかが廃止された。将棋界を支える最大のスポンサーである新聞・テレビ業界とて、インターンネットの出現で、そのあり方が根底から問われている。

結果的に見れば、今回の解決策は、連盟と2社にとって、三方一両損的な妥協案であるが、見方を変えれば、時代の必然だったのかも知れないという気もする。いまや、伝統ある名人戦という大タイトル戦は1新聞社で支えるには重すぎ、スポンサーの側から見れば費用対効果の点で折り合わない。連盟の側から見れば、より多くのファンに名人戦とその予選であり、棋士の生活の中心である順位戦をより多くの人に伝え、減り続けるファンを引き留め、少しでも増やすべくPRしていくには、全国紙2社の力が必要だったということではないのだろうか。将棋連盟としては、今後5年間、両社から支払われる1億円余の普及協力金を有効に使えるかどうかであろう。また、以前にも書いたが、現役の棋士たちが、ファンが手に汗握るような名勝負を繰り広げ、1人でも多くの人にプロの将棋の勝負の世界を知ってもらうことであろう。

*将棋に関する記事
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

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2006年12月23日 (土)

第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠

おととい(2006年12月21日)、現在、将棋界の最高の棋戦と位置づけられている竜王戦(主催・読売新聞社)が幕を閉じた。一作年、現在の森内俊之名人から竜王位を奪取し弱冠22才の渡辺明竜王。挑戦者は、名人戦を除く、今年度のこれまでのタイトル戦にことごとく登場している佐藤康光棋聖(35才)。残る棋王戦、王将戦も挑戦者決定戦に駒を進めており、年間対局数の多さは群を抜いている。

しかし、自らタイトルホルダーである棋聖位こそ3連勝で挑戦者鈴木大介八段を退けたものの、王位戦はフルセットの末、王座戦では3タテで羽生善治3冠に敗れ、今回の竜王戦を迎えた。佐藤棋聖としては、竜王位を奪い2冠を持つことで、同世代の羽生3冠、森内名人・棋王と並び、名実ともに3強の一角を占めることを示す絶好のチャンスであった。10月10・11日のサンフランシスコでの初戦、10月31日・11月1日の富山・宇奈月での第2戦と連勝し、4連勝で渡辺竜王を一蹴するかに見えたが、他棋戦でも勝ち進むハードスケジュールが応えたのか、その後渡辺の逆襲にあい3連敗。6戦目のカド番を注文を付けた勝負でものにして、3勝3敗で12月20日からの最終戦に持ち込んだものの、最後は力尽きたのか、タイトル奪還には一歩及ばなかった。

一方、受けて立った渡辺明竜王は、竜王戦開始直前の『将棋世界』11月号でのインタビューで、その時点で、挑戦者決定戦に名乗りを上げていた、佐藤棋聖、丸山忠久九段(元名人)のどちらが挑戦者になったとしても、「世論(中立なファンの9割)は、挑戦者が勝つと思っているでしょう。でも、そうはならないと思います。」という趣旨のコメントし、将棋世界の編集者はそれをとらえ、このインタビュー記事に「私は下馬評を裏切るだろう」という刺激的なタイトルを付けた。結果的に、その自らの予言通りタイトル防衛を果たしたのだから、大したものである。

渡辺竜王は3強のうち、森内現名人から竜王位を奪取し、佐藤棋聖の挑戦を退けた。残るは、将棋界のスパースター羽生善治三冠である。羽生三冠には2003年に王座戦で一度挑戦し、3勝2敗で退けられている。タイトル戦で、羽生三冠に一矢を報いることができてこそ、羽生三冠の後継者、将棋界の次代のリーダーといえるだろう。これからの、羽生対渡辺の激闘が楽しみである。(個人的には、贔屓にしている郷田真隆九段にも、再度タイトルホルダーとなって、渡辺竜王を撃破してもらいたい。)

お詫び:当初、本ブログのタイトルを「第18期竜王戦」としていましたが、正しくは「第19期」でした。お詫びして訂正します。ご指摘下さったエバグリンさんありがとうございました。(2007年1月6日記)

*将棋に関する記事(2006年)
4月26日:
『将棋世界』5月号
6月19日:第64期将棋名人戦
8月2日 :将棋名人戦、朝日新聞に
8月27日:米長邦雄将棋連盟会長の『不運のすすめ』
9月9日 :森内俊之名人から見た羽生善治3冠
9月20日:将棋名人戦、朝日・毎日の共催へ協議開始
11月18日:郷田真隆九段の揮毫「晩成」
12月23日:第19期(2006年)竜王戦-佐藤康光棋聖及ばず、渡辺竜王に立ちふさがる最後の壁は羽生3冠
12月30日:将棋名人戦、毎日・朝日両新聞社の共催の詳細固まる

*上記記事を含め、このブログの将棋に関する記事の一覧はこちら→アーカイブ:将棋

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