2008年8月23日 (土)

南房総から戻る

夜、11時過ぎ、南房総から自宅に戻る。
3日めの今日は、曇り空に雨の混じるあいにくの天気。

館山自動車道→アクアライン→雨の東京都心と車で走り、自宅に戻ってきた。

夏に取る多少長めの休暇や、その時行く旅行というのは、日常生活のひとつの区切りなのだと思っている。
日常生活とは違う生活パターンで暮らし、日常生活の場所から離れ「非日常」の場所に身を置くことで、「昨日」と違う「今日」を認識する。
いつもとは違う「景色」や「時間」の中で過ごすことで、「非日常」を体感する。休み・旅行の「後」は、「日常」の再スタートである。

事故やけがもなく、無事、家族全員が旅程を終えられたことに感謝して、月曜日から再び始まる「日常」に備えなくては・・・・。

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2008年8月21日 (木)

今日から南房総

今日から南房総に2泊3日の旅行に。
朝、家を出るのが遅くなり、都心を抜けるのに時間がかかり、アクアラインに乗る頃には昼近くになっていた。
去年、今年と続けて来てみて、南房総の売りは、本当をところ何なのだろうかと考えている。

さらに言えば、そもそも、人が集まる観光地の条件は何なのか?
昔から考えていて、なかなか答えの出ないテーマである。

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2008年6月27日 (金)

夏休みの宿を南房総で手配する

6月も終わりに近づき、そろそろ夏休みの計画を立てなければいけない時期(もう、遅いのかもしれないが…)。自分の職場での休みを確定し、妻と3人の子どもの予定とどこで何をしたいかの希望も調整した上で、行き先の候補を考え、宿を探す。

仕事の関係で、8月の早いタイミングでは休みを取るのは難しそうで、お盆明けに休むことにした。次女から、学校の授業でやったテニスがおもしろかったので、テニスがしたいという要望があり、テニスコートある宿泊施設で探す。しかし、どこも空いているのは8月の最終週。う~ん、困った。たまたま、1週前のお盆明けの週に1日だけ空いているテニスのできる宿を見つけ、とりあえず予約。
しかし、その後、1泊2日ではくつろげないというクレームも一部から出て、施設側に確認したところ、1日目と2日目で部屋が変わってよければ、連泊も可という事がわかり、今日、2日目の予約も終えた。

行き先は、昨年と同じ南房総。宿はもちろん別のところ。昨年行ってみて思いの外、東京から近いことがわかった。東京湾横断道路(アクアライン)を走り、全通した館山自動車道を走ると、3時間ぐらいだったろうか。車を運転する立場からすると、アクアラインも館山道もすいているところがいい。
刺身など魚もおいしく、干物も名物のようだった。

ようやく、日程の骨格が固まったので、この土日で詳細な旅行プランでも考えることにしたい。
あとは、当日、台風や雨にならないことを祈るのみである。もう一つ、言えば、それまでに少しでもガソリンが値下がりしてくれればと思う。

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2008年4月29日 (火)

東京名所めぐり:国立(くにたち)大学通りと谷保天満宮

  今日(2008年4月29日)は、東京の西に位置する郊外の街「国立(くにたち)」に行った。以前、国立で行われたジャズのミニコンサートに誘われたことがあり、夜、訪ねたことがあるのだが、駅前から南に延びる整然とした並木道が印象に残っていて、いつか昼間に再訪したいと思っていた。

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国立は、学校の街である。一橋大学、都立国立高校、私立の桐朋高校。私が眺めた並木道は、大学通りと呼ばれ、駅から南に1kmほど離れたところにある一橋大学のキャンパスを縦断し、さらにその奥に国立高校と桐朋高校がある。通りに面して、様々な店が並び、既に大きく成長している桜の並木と併せて、独特の空間を作り出している。
大学通りは、駅から南へ1.2kmほど続き、その先は道は少し細くなりJR南武線の谷保駅まで続く。谷保駅の南には文教地区の守り神にふさわしく「谷保天満宮」が鎮座している。谷保は、太宰府に左遷された菅原道真の三男が流された地とのこと。

国立は昭和初期に西武グループの総帥堤康次郎氏が率いた箱根土地という会社によって、東京郊外の住宅地として開発・分譲されたらしい。当時は、東京の西の郊外に田舎だったのだろうが、すでに80年以上が経過して、大学通りから東西に一歩入ると落ち着いた雰囲気の高級住宅街が広がっている。

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午後1時過ぎに国立駅に着き、そこから大学通りに沿って歩き、谷保天満宮まで足を伸ばす。谷保駅方面から歩くと、坂を下っていって下りきったところが広くなっていて、そこに本殿があった。境内は緑に覆われており、坂の斜面には放し飼いの鶏が数羽いて、「コケコッコー」と威勢のよい鳴き声を上げている。我が故郷の太宰府天満宮の整然と整備され門前町をなしているのと比べると、自然の中の神社という感じだった。

そこから、また国立方面へとって返す。行きがけは、国立駅から見て、大学通りの右側の歩道を歩いたが、帰りがけは反対側を歩いた。

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途中、立ち寄ったレストランや喫茶店も、ファミリーレストランやチェーンの喫茶店とは違い、もう何十年も、住民や学生たちとともに生きて、国立の街にとけ込んでいるという個性的な店が多かった。

私は、いっぺんに国立ファンになってしまった。四季折々で、大学通りの並木道を歩くために訪ねたいものである。
(考えてみれば、今日は「昭和の日」。昭和になって新しく作られた「国立(くにたち)」の街を訪ねるには、ふさわしい日だったかもしれない)

*後日、写真も何枚かアップしますので、興味ある方は再訪いただけると幸いです。

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2007年11月25日 (日)

東京メトロの「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」の抽選に行く

東京メトロの乗車促進とIC乗車券PASMOの普及を兼ねてのキャンペーン「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」。1から10までの数字の駅に置いてあるチャージ機にPASMOなどのIC乗車券をかざすと、1ポイントが記録される。どこの駅でも、とにかく期間中に10ポイントためるノーマルとPASMOへの1000円チャージ(ノーマルチャレンジ賞)へ挑戦、1日で全てのポイントでチャージすると10000円のチャージ(ラリーチャレンジ賞)への挑戦への権利が得られる。ラリーチャレンジ賞への挑戦者先着10000名には、東京メトロの駅名入りキーホルダーがもらえるというものだ。

11月3日の文化の日に1日全ポイントチャージを行い、ラリーチャレンジ賞、ノーマルチャレンジ賞に1回ずつ挑戦する権利を獲得した。抽選は23日(金)から始まった。
抽選日の初日23日、2日め24日は何やかやと用事があって行けず、今日の昼から抽選会場の銀座駅へ行った。
初日の23日は人が多かったようで、パンフレット記載の会場から場所が変更されていた。しかし、今日、私が行った午後1時過ぎは、ガラガラ。すぐに、抽選にチャレンジしたが、ラリーチャレンジ賞、ノーマルチャレンジ賞ともハズレ。唯一の戦利品は、駅名キーホルダーで20駅分あるという駅名は「渋谷」だった。ちなみに一緒に行った妻は「乃木坂」。

あたりなんか出るのかななどと思っていたら、会場から少し離れた頃、「当たり」を知らせる鐘が鳴らされていた。

大したオチもない話で申し訳ないが、先着10000名の駅名キーホルダーは、まだ在庫がありそうだった。

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2007年11月 3日 (土)

文化の日に、東京メトロの「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」ラリーチャレンジに挑戦

先日、このブログでも紹介した東京メトロの「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」が2007年11月1日からスタートした。
キャンペーン開始後の最初の週末である今日(11月3日土曜日)は文化の日でもある。お天気もよかったので、午後から、10の駅全てを1日で回るラリー・チャレンジに挑戦してみることにした。
10の駅は基本的に都心部に集中しているものの、5の駅「護国寺」と8の駅「八丁堀」が少し離れており、ここをどうルートに組み込みながら、回るかがポイントになりそうだ。

我が家は、西武鉄道の新宿線と池袋線に挟まれた地域にあるので、行きと帰りに2線を使い分けて、ルートを考えることにした。
まず、往路は西武新宿線で西武新宿に出た。そこから、地下街・地下道を通り東京メトロ丸の内線の「新宿三丁目」駅まで7~8分ほど歩く。ここで、東京メトロ1日乗車券を710円で購入。丸の内線に乗って、最初のポイント4の駅「四ッ谷」に向かい、最初のチャージ完了。
「四ッ谷」で南北線に乗り換え、次に10の駅「麻布十番」に行き、チャージを終えるとすぐホームに戻り、7の駅「六本木一丁目」に向かう。同駅で3つめのチャージをすませ、いったん地上に出る。
6の駅日比谷線「六本木」までここも7~8分歩き、4つめのチャージを終えると、日比谷線に乗り8の駅「八丁堀」に。ここでも、5つめのチャージを終えると、すぐホームに戻り、再度、日比谷線に乗り「人形町」まで足を伸ばした。「人形町」はチャージポイントではないが、ここで降りて、3の駅である「三越前」までこれも地上を歩く。10分ほど歩いて「三越前」駅に潜り6つめのチャージ。そこから半蔵門線で9の駅「九段下」に。九段下は東西線の大手町方面乗り場の近くにチャージ機があり、そこで7つめのチャージを終えると、今度は東西線で「大手町」へ戻る。
「大手町」で千代田線に乗り換え、2の駅「二重橋前」までは一駅。「二重橋前」は日比谷通りの地下に駅があるが隣接する都営三田線「大手町」駅と同「日比谷」駅と地下道で繋がっている。さらに、都営三田線「日比谷」は東京メトロ有楽町線の「有楽町」とも地下道で繋がっている。
「二重橋前」で8つめのチャージを終え後は「有楽町」から有楽町線で一駅電車に乗り1の駅「銀座一丁目」まで行くつもりにしていたが、地図で見ると大した距離ではないので、ここでもいったん地上に出て、東京国際フォーラム、JR有楽町駅などを通ってこれも10分もかからずに「銀座一丁目」駅に到着。9つめの
チャージを完了。最後に、そこから有楽町線に乗って最後に残った5の駅「護国寺」へ。「護国寺」駅で無事10個めのチャージを終え、完走を達成した。
午後2時ごろ我が家をスタートし、10個めのチャージを終えた時には、午後5時を回っていたと思う。
せっかくなら、護国寺にお参りをしてと思い、階段を上り外にでる。地下鉄の出口を出ると、すぐに交番があり、その奥に護国寺の山門があった。もうあたりは暗くなっており、お寺の全容はよく見えないが、本堂まで進んで、お賽銭をあげ、家族の健康をお願いしてきた。
帰ってから調べてみると、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院の発願で創建され、明治以降は境内の東半分が皇族墓地とされたとのこと。山門前に交番があったのもうなずける。本堂は重要文化財に指定されており、最後に文化の日に相応しい締めくくりになった。

「護国寺」からは、有楽町線が西武池袋線と東武東上線に乗り入れているので、西武線への乗り入れ電車を待って帰ってきた。
できれば、天気のいい日に朝からスタートし、各チャージポイントの名所・旧跡等も十分見聞しながらまわれば、より文化的になると思う。

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2007年10月30日 (火)

東京メトロの新たな試み「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」

昨日、通勤で地下鉄(東京メトロ)に乗っていたら、おもしろい中吊り広告が出ていた。「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」という名前のPASMO、SuicaのIC乗車券を利用した乗車促進キャンペーンである。

10の駅のキャンペーン専用のチャージ機を置いて、1回のチャージで1ポイント、10ポイント貯まると、銀座駅にある抽選器で、抽選に当たればIC乗車券に1000円分(200本)のチャージが受けられる(ノーマルチャレンジ賞)というもの。さらに、10000円分(30本)のチャージが景品のとなる抽選ができる(ラリーチャレンジ賞)。さらに、1日で10駅全てのタッチを「完走」した場合、先着1万個の駅名キーホルダーのプレゼントが用意されている。
これだけなら、別に「あっ、そう」というだけで終わったと思うのだが、なかなか趣向を凝らしてあるなと思ったのは、10駅の選び方である。
数字の1から10と実際の東京メトロの駅名をかけているのだ。

1の駅:銀座一丁目(有楽町線)
2の駅:二重橋前(千代田線)
3の駅:三越前(銀座線・半蔵門線)
4の駅:四ッ谷(丸の内線)
5の駅:護国寺(有楽町線)
6の駅:六本木(日比谷線)
7の駅:六本木一丁目(南北線)
8の駅:八丁堀(日比谷線)
9の駅:九段下(東西線・半蔵門線)
10の駅:麻布十番(南北線)

「なるほど、考えたものだ」と感心してしまった。5の「護(ご)国寺」が少々苦しく、「五反田」と言いたいところだが、都営浅草線は走ってるが、東京メトロ(旧・営団地下鉄)は走っていない。
また、7の「六本木一丁目」も合計して7なら「四谷三丁目」でもいいじゃないかと思って、改めてチラシを見ると、六と一に加え、「本」の下の部分を「+」に見立て「6+1=7」としているのだ。

キャンペーンは11月1日から30日までの1ヵ月間。1000円や1万円のチャージは難しいとしても、10駅制覇でキーホルダーがもらえるなら、週末に東京の名所巡りを兼ねて、10駅制覇をやってみてもいいかなと思っている。

「数寄数寄(スキスキ) IC乗車券キャンペーン」のチラシ(PDF)はこちら

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2007年10月 7日 (日)

吉祥寺の魅力を分析し解き明かす『吉祥寺スタイル』(三浦展+渡和由研究室著、文藝春秋)

吉祥寺に車で20分、歩いて1時間ほどのところに住んでいることもあって、吉祥寺の街にはよく遊びに行く。結婚する前にも、吉祥寺からバス停で2つほどいったところの独身寮にいたこともあって、吉祥寺はお気に入りの街である。このブログを始めた日にも、「吉祥寺好き」という記事を書いたことがある。

デパートやスーパーなどの大型小売店舗があるかと思えば、商店街の通りに面して、新旧の専門店が並ぶ。また、狭い路地もあって、いろいろなものが混在している。少し歩くと徐々に店が減っていき、郊外の住宅地に変わっている。その街としての品揃えの多様さが面白くて、月に一度は行っておきたいと思っている。

なぜ、吉祥寺が魅力的なのかを分析したのが、タイトルに上げた『吉祥寺スタイル』である。著者は、『下流社会』で一世を風靡したマーケティング・アナリストの三浦展氏と筑波大学大学院の渡和由助教授の研究室となっている。

三浦氏は、すでに19年吉祥寺に暮らしているという吉祥寺の住人。一方の渡氏は、サイトプランナーと紹介されていて、商業施設や住宅地の設計をする街作りの専門家らしい。

三浦氏は冒頭で、吉祥寺に引っ越したばかりの頃、駅ビルのベンチである男性にこう話しかけれらたとエピソードを語る。

「吉祥寺は住みやすいですよ。お金がある人は百貨店で買い物をすればいい。お金がなくても元気がある人は公園を走ればいい。お金も元気もない人はベンチに座っていればいい」
(『吉祥寺スタイル』17ページ)

それに続けて、三浦氏は次のように書いている。

いろいろな人がいて、それぞれの人が自分の居場所を見つけられる。それが、吉祥寺の最大の魅力なのだ。たまたま私は子育てに適しているという理由で住み続けた。しかし、独身の若者でも、子連れの家族でも、一人暮らしの老人でも、離婚した中年男でも、サラリーマンでも、漫画家でも、誰でも住みやすい。そして毎日暮らしても飽きないのである。
(『吉祥寺スタイル』17ページ)

そして、本書についてこう説明する。

本書は単なる都市論の本ではない。吉祥寺を考えることを通じて、人間にとって好ましい生活とは何かを考えている。だから都市や住宅について、関心がある人だけでなく、家族、子育て、学校、会社組織など、人間がよろこんで暮らしたり、働いたりする場所について考えている人すべてに読んでほしい。その意味では、本書は一つの人間論でもあると思う。
(『吉祥寺スタイル』20ページ)

人は、どういう時に、あるいはどういうところで、心地よくいられるのか、くつろげるのか、そんなことを解き明かした本でもある。吉祥寺はそのような要素が至るところに揃っている。これまで、自分が何となく漠然と感じていたことが、言葉として書かれていて読んでいてうれしくなる本だった。

「人が暮らす場所について考えている人」という著者が進める読者層の範疇に入ると思うが、これから家を買おうとする人には、どんな街が暮らしに心地よいかという示唆を多く含んだ本として、ぜひ決断の前に読むことをお勧めしたい。
吉祥寺には、高くて住めないかもしれないが、吉祥寺の持ついくつかの要素を満たす街を選んだ方が、後悔は少ないだろう。

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2007年9月23日 (日)

東京名所めぐり:皇居一周ウオーキング

今日は、午後から思い立って都心に出る。最初は北の丸公園にある国立近代美術館で開催されている平山征夫展を見ようと出かけたのだが、その前に内堀通りに沿って皇居の回りを歩いて一周することにする。

スタートは、東京メトロの九段下駅。一緒に行った妻が、九段会館に寄ってみたいというので、九段会館でコーヒーを一杯飲んでから、スタート。
まず、九段下から靖国通りを上る。坂の途中に明治時代の内務大臣品川弥二郎子爵と、日露戦争の時の総帥大山巌元帥の銅像があった。
坂を上ったあたりで、左へ曲がり、千鳥ヶ淵へ回る。これまで、何年も東京に住んでいて、毎年、桜の名所と聞きながら、一度も訪ねたことはなかった。
内堀に沿って南北に細長く整備されている千鳥ヶ淵は、あまり人もおらず、緑も多く、ウオーキングにはぴったりの所だった。
15分ほど歩くと千鳥ヶ淵公園が終わり、半蔵門に出る。

Hi3700221jpg_2 半蔵門からは、急に見晴らしがよくなり、内堀(桜田濠)の向こうに霞ヶ関が一望できる。ここからはお堀と内堀通りの間の下りの歩道を歩く。ジョギングをしている人が前から来たり、後ろから追い抜いて行ったりと何人も、それぞれのペースで走り抜けている。これだけの眺めなら、走っていても退屈しないだろうと思う。
しばらく歩くと、内堀通りの向こうに国立劇場と最高裁判所が見える。

Hi3700241_2年配の女性2人がデジタルカメラでなにやら撮影しているので、足を止めて内堀のの手前の土手をみると、クリーム色の彼岸花が点在して咲いている。そういえば、今日は「秋分の日」、まさに「お彼岸」である。

そのあたりからの下り坂が三宅坂。隣の車道の内堀通りは渋滞していて、我々が歩くスピードと車のスピードが大して変わらない。坂を下りきったあたりで、正面に見えた官庁の建物が国土交通省のビル。かつては、下が建設省、上が運輸省だったが、省庁の統廃合で両省が統合して国土交通省となった。
そのとなりで、桜田門をにらむように立っているのが、警視庁のビル。

万延元年(1860年)の桜田門外の変で井伊大老が切られたのはどのあたりだろうと思いながら、桜田門をくぐる。
Hi3700251皇居外苑の皇居前広場には、やはりそれなりに観光客とおぼしき人々がいて、二重橋をバックに記念写真を撮ったりしている。

歩き始めてかなり経つので、お腹も空いてきた。皇居前広場を横切り、内堀通りの横断歩道を渡ると正面には皇居外苑の噴水公園。噴水公園のとなりにあるパレスホテル。ここの地下においしいカレーを食べさせてくれる店があったはずと探してみると、土日・祝日定休とあり、諦める。
それでは、ゴールにあたる近代美術館の隣のパレスサイドビルの地下で何か食べようと、パレスホテルからあと10分ほど歩く。このへんは、マルハ本社、三井物産、東京消防庁、気象庁、国際協力銀行、丸紅と上場会社や官公庁のビルを眺めながら内堀通りに沿って歩く。
やっと、パレスサイドビルに着くと、なんとこちらも日曜日・祝日はビル地下のアーケード街は定休。しばらく前の休みに来た時は、営業していたと思うのだが、あれは土曜日だったのだろう。
さすがに、あてにしていた2ヶ所で食事にありつけず、さすがに疲れる。かといって、空きっ腹での名画鑑賞も冴えないので、結局、スタートの時に寄った九段会館にレストランがあったので、そこまでもう10分ほど歩くことにした。もう3時近い。

九段会館に着いたところで、文字通り皇居一周は完了。そこで、2人で遅めの昼ご飯に、天重を注文。食事を食べ終わった頃には、3時半過ぎていた。
美術館は5時までので、今から行ってもゆっくり見られそうにない。2時間近く歩き回り疲れてもいるし、絵の方は、ゆっくり見たいので改めて出直そうということで、2人の意見がまとまり、最後はなんとも締まらない結末になってしまった。

休日の朝続けているウオーキングも合わせると、今日の歩行歩数は2万8千歩を超えた。健康と減量のためには、それなりの成果のあった一日だった。

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2007年8月20日 (月)

南房総から戻る

今日は南房総のホテルで目覚める。
朝、野島崎灯台までウォーキング。日の出も眺めることができた。

あとは、木更津近くの妹の家に寄って帰るだけ。
半日ほど妹の家で過ごした後、再び東京アクアラインを通り、先ほど帰って来た。帰りは、環状8号線を使ったが、順調に流れた。

さすがに、込み入ったことを書く元気はないので、今日は寝かせていただく。

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2007年8月19日 (日)

南房総にやって来た

今日(2007年8月19日)は、我が家の夏休み小旅行の初日。朝8時に家を出て、南房総に向かう。

都心を通り抜け、川崎から東京アクアラインを経由して館山道から房総半島の最南端の野島崎近くの宿が目的地だ。

東京アクアラインの千葉県側の木更津の近くに妹が住んでいるので、東京アクアラインは何回も通っているので、今回はろくな下調べもせずに車を走らせていたら、道を間違えて東扇島に迷い込んでしまった。

昼過ぎに野島崎に到着。幸い、事前の週間天気予報では雨交じりの予報だったが、晴れと雲が繰り返す天気となり、海水浴も楽しめた。

まずまずの1日めだった。

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2007年8月15日 (水)

今年(2007年)の夏は房総半島の先端「南房総」に行こう

今年(2007年)の私の夏休みは、来週(20日~24日)の予定だ。例年は、8月の1週めか2週めに取ることが多いのだが、今年は3人の子供がそれぞれ進学して、これまでとは予定もずいぶん変わりそうなので、お盆過ぎのその頃なら、全員、特別な予定はなさそうだということで、7月の半ばに休みのスケジュールを決めたのだが、結局、中学でバレー部に入った長男のバレーボールの試合が、その週の週半ばにあるということが、あとになって分かり、長い旅行には行けなくなった。

旅行の行き先を決めるのは、私の仕事で、今年は「館山自動車道」が開通して、これまで行ったことのない千葉房総半島が行きやすくなったので、南房総まで足を伸ばしてみることにして、宿も一泊分は予約をした。

ガイドブックも揃え、さてこれからどこに行くのかプラン作りというところなのだが、天気予報を見ると、19日(日)からしばらく雨交じりの天気予報。これまで、ずっと真夏日と熱帯夜が続いているのに…。天気予報というのは、「後ズレ」することが多いので、それを期待することにしたい。

島国「日本」は至る所、半島と岬があるが、考えてみれば、これまで、志摩半島、能登半島、三浦半島、伊豆半島、知床半島などには行き、半島の先の岬まで行ったところもある。しかし、房総半島は、小学生の時、鋸山の日本一(当時)の石の大仏を見に行ったことがあるくらいで、その先の南房総まで足を伸ばしたことはなかった。また、一つ、自分の中の白地図を塗り替えることができる。それにつけても、天気がもってくれないものかと思う。

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2007年8月12日 (日)

東京名所めぐり:東京タワーの階段上りと月島もんじゃ焼き

中学生になった長男が「東京タワーに行ったことがないので行きたい」と言っていたので、では、世の中お盆休みで帰省の人も多く、都心は空いているだろうと、今日出かけることにした。私と妻、長男の3人で昼頃に家を出て東京タワーに向かった。

私鉄と地下鉄を乗り継いで、約1時間。都営地下鉄大江戸線の赤羽橋駅の出口を出ると、北側に東京タワーが見えた。汗を拭き拭き、小高い丘の上の東京タワーの入り口を目指す。

丘を登り切ったところで、自分の考えが甘かったことを思い知った。駐車場には、東京観光が売り物の「はとバス」が4~5台のほか、他の観光バスも並んでいるし、人がたくさんいる。タワーの中ほどにある大展望台への入場券を買うのに長蛇の列。列に並んでいると、「これから券を買って大展望台へのエレベーターに乗るまで50分待ちです」とハンドマイクを持った係員の声が響く。

「参った、参った。この暑い中50分待ちとは…。勘弁してくれ~」とぐったりしていると、また、マイクの声がする。
「階段で上ってもよいという方には、ビル屋上の入場券売場で券を購入していただきます。階段は600段、15分ほどです。」

もともと、長男は、友人から東京タワーの階段を上ったとの話を聞き、自分も上ってみたいと思ってので、もともと、階段を上るつもりで来ていた。親2人は、どの程度の数の階段を上るのか分からなかったので、タワーに来るまでは階段上りには消極的だったのだが、エレベーターは50分待ち、階段は15分と聞いて、迷わず階段を行くことに決め、3人で階段上りに挑戦した。階段は、東京タワーの下のある4階建ての東京タワービルの屋上からスタートし、ビルから大展望台の向かうエレベーターの回りを吹きさらしの中を上っていく。もちろん、金網が張り巡らされて危険なことはない。むしろ、ある程度上ると涼しい風が吹き抜け、ちょっとした人工山登りだった。

結果は、長男が5分、私が10分、妻が標準の15分ほどで無事上りきった。展望台では、喫茶コーナーでひと休みし、遠くに東京湾、レインボーブリッジ、お台場を眺めたりした。

下りのエレベーターも20分待ちとのことで、下りも階段を降りる。下りは8分ほど。結果的に、エレベーター待ちの50分の間に、大展望台まで、往復できた。

少し遅めの昼食は、再び赤羽橋から大江戸線に乗り、月島で降りて、名物「もんじゃ焼き」を食べた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、もんじゃ焼きには、東京浅草が発祥とする説と群馬県を発祥とする説の2つがあり定かではないようだが、東武伊勢崎線を通じて伝わったのだろうとしている。
月島は有名ではあるが、発祥の地ではないうことになるが、「月島もんじゃ振興会共同組合」という組織まであり、月島にある75のもんじゃ焼きの店のうち62店舗が加盟して、地域全体としてのPRに熱心なようだ。

今回、わざわざ、月島に行ったのは、オートチャージ付PASMOを利用するために加入した東京メトロの「To-Me CARD」というクレジットカードの会員だと、「月島もんじゃ振興会共同組合」の加盟店ならどこでも10%引という特典があったからだ。確かに、カードを見せると、割り引いてくれた。

東京にも、江戸の昔から続く名所が至るところにあるが、いつでも行けると思って、案外行っていないものだ。自分は知っていても、子供たちは行ったことがない、幼い頃行ったが覚えていないということも多く、東京の郊外に住んでいながら、東京都心のことはあまり知らないかもしれない。東京の名所を知らしめることも、親の役目かもしれないと、改めて感じた1日だった。

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2007年3月25日 (日)

気がかりな能登半島の地震の後遺症

今朝(2007年3月25日)9時42分頃、石川県の能登半島沖を震源とした地震が起きた。石川県、富山県を中心とした北陸地方で震度5から6の強い揺れを記録し、特に能登半島地域が震度6強、6弱といった強い揺れに見舞われた。

90年代後半の約5年を富山で暮らしたので、富山には知りあいも多いし、能登半島の先端部まで2度ほど泊まりがけで旅行したこともある。半島の中央にある能登島や七尾であれば、富山から車で日帰りできるコースだった。それだけに、人ごととは思えない。

北陸地方と言われるのは、通常、富山・石川・福井の3県である。新潟県を含むケースもあるが、それは中央から見たときの区分けであって、地元では普通、新潟は北陸には含まない。
人口では、富山県が111万人、石川県が117万人とほぼ同じくらい。福井県が82万人で、3県合計で300万人という人口規模であり、人口が多い地域ではない。(2005年国勢調査のデータより)

富山県がほぼ四角い県域の中心に富山市が位置するのに対し、石川県は、南北に細長く、半島部の「能登」地域と内陸の「加賀」地域の別れる。石川県117万人の人口分布は「能登」地域が約27万人、「加賀」地域に残りの約90万人が住んでおり、うち金沢市にその半分の約44万人が住んでいる。
この人口分布を見てもわかる通り、「能登」は過疎地域なのだ。特に、「奥能登」と呼ばれる能登半島の北部の輪島地区、珠洲地区などは65歳以上高齢者の比率も30%を超えている。(朝日新聞社『民力』2004より)
(なお、先日来、臨海事故の隠蔽で問題になっている北陸電力の志賀(しか)原子力発電所は、能登のうち加賀地域に近く「口(くち)能登」と言われる地域に位置する。)

今日のニュースを見ていても、休日だったことも相俟って、地震直後は被害の状況がわからず、時間の経過とともに、被害の大きさが明らかになっていった。過疎に加えて、高齢者も多いことから、自ら情報を発信する態勢にはなっていないのだと思う。役場などの悉皆調査が行われて、初めて被害の全容が明らかになると思われ、今後も被害は拡大するかも知れない。

私が富山に5年暮らした際の印象では、「能登」には漁業・農業以外にこれといった産業がなく、あとは国定公園に指定されるだけの雄大な自然と海の幸を素材とした観光だけである。輪島の「漆器」は名産だが、地域を支えるだけの力があるとは思えない。

今後、過疎地域なので、投資効率が悪いということになり、地震後の復旧工事が遅れることが一番の懸念事項である。行政に対しては、早期の復旧を期待したい。

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2007年3月 2日 (金)

路面電車の思い出

今日は、金曜日ということもあって、会社の帰り、乗り換え駅で、書店に寄り道をする。
そこは、3フロアに分かれていて、5階が児童書・コミック・参考書(小・中・高)、4階が専門書、3階が一般書、文庫、新書、雑誌等という構成になっている。たいてい、7階にあるパソコンショップに寄って、階段で5階、4階、3階とぶらぶらと新刊などを見て1時間ほど時間をつぶして帰る。本を買うときもあれば、買わないときもある。
今日は、3階まで降りて、もう帰ろうかと思った時である。黄色い表紙の『路面電車の走る町』(交通新聞社)という冊子が目にとまり、思わず手にとってしまった。

改めて、考えてみると、これまで46年半、生きてきた中で、いつも自分の生活圏の中に路面電車があった。
地元の福岡では、高校卒業の頃まで、西鉄が路面電車を走らせていた。
社会人になって、そのまま福岡勤務となり、後半の2年は熊本・鹿児島によく出張した。熊本も鹿児島も、今でも路面電車が走る町である。
福岡から東京に転勤し、1年足らずで結婚し、入居した社宅は東京の駒込。少し歩くと、東京に残る唯一の路面電車、都電荒川線があった。結局、その社宅に8年暮らした。子供を連れて荒川線で、荒川遊園に遊びに行った。
当時は、鎌倉の腰越に会社の保養施設があり、年に2回くらいは泊まりに行っていた。JRと湘南モノレール、江ノ電に乗れるフリーパスを買って、週末に1泊2日で鎌倉巡りをしたものだ。腰越には江ノ電の駅があり、江ノ電にもよくお世話になった。(私の好きなバスケットのアニメ『スラムダンク』が10年くらいたってDVDになった時に見ると、いろいろな場面で江ノ電が登場し懐かしかった)

Photo_88年過ごした駒込から、北陸の富山に転勤。富山で約5年暮らしたが、富山にも、地元の私鉄富山地方鉄道の路面電車が走っていた。富山では、通勤に路面電車を使っていた。

富山から東京に戻り、半年ほど、以前住んでいた駒込の社宅に近い大塚の社宅に入る。JR大塚駅の下には、都電荒川線の駅がある。
大塚で半年ほど暮らしたあと、現在の東京郊外に自宅を購入、ついに路面電車のある生活とも縁がなくなったのだが3年ほど暮らしたあと、九州育ちには思いもしなかった、札幌Photo_9勤務の辞令。自宅に家族を残し、単身赴任したが、札幌も路面電車のある町だった。 ここでも、通勤は路面電車。転勤から4ヵ月ほどたった寒い冬の朝、路面電車の停留所にわたる横断歩道で足を滑らせて、転倒し、右肩を強打し、骨折する羽目になった。よくよく、路面電車と縁のある生活である。

一時、交通渋滞を招くと廃れる一方だった路面電車も、排気ガスを出すマイカーに比べ環境に優しい、低床式の車両の登場で、老人など交通弱者にも利用しやすいということで、見直しの機運もあるようだ。
『路面電車の走る町』で見ると、現在、路面電車が走るのは、18都市。うち、すでに乗っているのが、上述した熊本、鹿児島、東京、鎌倉、富山、札幌に加え、富山時代に富山の隣の高岡と、同じ北陸の福井の路面電車には乗っているし、広島と長崎は仕事や旅行で、訪ねた際に乗っている。すでに10都市は制覇していることになる。残っているのは、函館、豊橋、大津、京都、大阪・堺、岡山、高知、松山と、富山に新しくできたライトレールである。
今後の旅行プランとして、日本の路面電車全国制覇も悪くないと、地図を見ながら考えている。

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2006年12月17日 (日)

畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

畠中恵の『しゃばけ』シリーズの第4作『おまけのこ』に続き、第5作の『うそうそ』(新潮社)を読み終わった。

タイトルとなっている「うそうそ」は「嘘々」のことだろうと思っていたら、さにあらず、本書の物語の前に「江戸語辞典」(東京堂出版)による語釈として

【うそうそ】
たずねまわるさま。きょろきょろ。うろうろ。(畠中恵『うそうそ』2ページ)

という解説が付されている。なるほど、と思ったところで、読者はすでに江戸日本橋の廻船問屋長崎屋を舞台にした『しゃばけ』ワールドに足を踏み入れている。

今回はタイトルの「うそうそ」に象徴されるように、主人公である若だんな一太郎が、江戸から離れ、箱根に湯治に行くという話である。第1作の『しゃばけ』の後の3作は、『しゃばけ』の世界に奥行きと広がりを持たせる数々の短編を綴った短編集だったが、今回は、日本橋を離れてからの道中と目的地の箱根で巻き起こる数々の出来事・事件を綴った長編である。

長旅で、若だんなのそばを離れることなど考えられない佐助・仁吉の二人の手代が旅の最初からいなくなり、読者は、道中で起こる不可思議な出来事に、一太郎とともに、わけもわからず旅をすることになる。やがて少しずつ、事件の意外な真相が明らかになっていくが、それは読んでのお楽しみということで、本の帯にあるキャッチコピーのみ記しておく。

若だんな、旅に出る!初めての旅に張り切る若だんなだったが、誘拐事件、天狗の襲撃、謎の少女出現と旅の雲行きはどんどん怪しくなっていき……。

締めくくりに、シリーズ5作を読み通してみての感想を少々。

『しゃばけ』シリーズは、江戸時代を舞台にしているが、きわめて現代的なテーマを扱っているように思う。主人公の若だんな一太郎は病弱で、生まれてからこの方、病で床にふせっている時間の方が長いのではないかと思われるほどである。両親は、近所でも評判になるほど、息子に対して大甘だし、お守り役の佐助・仁吉の二人の手代も、何をさしおいても、若だんなが一番大事ということで、一太郎は世間の荒波から二重・三重に守られた箱入り息子である。

しかし、彼自身は、その境遇に安住しているわけではなく、なんとか人の役に立つ自分でありたいと願っている。しかし、店の手伝いをしようとしても、風邪をひく、怪我をするといって2人の手代が何もさせてくれない。その中で、どうやって独り立ちし、一人前になっていくのか。一太郎に悩みは深い。今回、第5作で、日本橋の長崎屋の世界から飛び出して、お守り役の二人の手代もいない中(兄の松之助は一緒だったが)、旅に出たことは、彼の独り立ちへ向けた転機になるのではないだろうか。

そういった一太郎のけなげな姿が、結果として過保護に育てられ、親離れ仕切れない現代の若者(中年も含めて)の共感を呼び、シリーズ100万部を超えるヒットになっているのではないかと思う。 

*『しゃばけ』関連の記事
2006年12月8日:畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む
2006年12月13日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第4作『おまけのこ』
2006年12月17日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

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2006年12月16日 (土)

デザイン変更、「雪の真狩(まっかり)」

 雪の真狩ブログタイトル用2.jpg

今日から、ブログのデザインを冬バージョンに変更した。タイトル画像の元になった写真は、昨年の春休み、まだ札幌に単身赴任中に、家族を呼んで2泊3日で旅行をした時のもので、場所は羊蹄山の南の山麓にある真狩(まっかり)村である。歌手の細川たかしの出身地で、本人の銅像が建った記念公園があった。

この時の旅行は、仕事の都合もあり金曜日の夜、札幌を出発。その夜は支笏湖半の「支笏湖ユースホステル」に泊まり、翌朝、苫小牧に出て、太平洋岸を南下、白老(しらおい)、登別と車で走り、洞爺湖方面に抜け、ロープウェイで有珠山に登り、そこから洞爺湖の西側を北上し、2日めの宿である真狩村の「真狩ユースホステル」に入った。3日めは、真狩から北上して、石狩湾に面した余市(よいち)にあるニッカウイスキーの工場を見学し、小樽に寄って札幌に帰ってきた。「支笏洞爺国立公園」を駆け足で、ひと巡りしたというところだ。

当時は、北海道の冬の真実を知らなかったので、春休みの頃には、雪など残っていないだろうと簡単に考えていたが、まず、初日の夜の札幌から支笏湖に行く際に、少し遅くなるので宿のYH(ユースホステル)電話したところ、「近道である峠越えの国道(453号線)は凍結していると思うので、やめた方がいい。遅くなってもかまわないので、遠回りだが、千歳経由で来た方がいい」とアドバイスされる。夜の凍結した凍結路面を走る勇気はさすがになく、本来なら正三角形の一辺(札幌→支笏湖)を走れば足りるところを二辺(札幌→千歳→支笏湖)と走り、着いたのは夜の11時を過ぎていたと思う。支笏湖もカルデラ湖であり、言わば、山の上。翌朝、日の光の下で改めて周りを眺めると、まだ一面の銀世界であり、鹿の親子と遭遇した。

太平洋岸で、暖かい海流が通るのであろう、苫小牧、白老、登別の間はほとんど雪はなく、快適なドライブ。しかし、登別から洞爺湖に向かう際、海沿いに室蘭経由で行かずに、近道ということで、オロフレ峠という峠越えをしたところ、こちらも除雪はされているものの雪の壁の間を走る区間が続いた。ロープウェイで登った有珠山山頂も雪。そして、写真の通り、2日めの宿の真狩も雪が積もっていた。真狩は、札幌から見れば西南に方角にあるのだが、周りを山に囲まれた盆地で、2日間のドライブの間、雪に降られたわけではなかったが、3日めの真狩の朝は、雪が降っていた。

このブログでも、何回も書いているが、結局、この春の旅行で訪ねた支笏湖や真狩が、東京の感覚でいう「春」を迎えるのは5月に入ってからだった。知らないということは、実に恐ろしいことである。

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2006年10月27日 (金)

日本ハムファイターズ、日本シリーズも札幌で胴上げ

日本ハムファイターズが、札幌ドームで中日ドラゴンズに3連勝し、私が応援する福岡ソフトバンクホークスを破ったパ・リーグのプレーオフに続き、本拠地札幌で胴上げを実現した。

初戦こそ、中日のエース川上憲伸に破れたものの、第2戦を八木で取り返したあと、札幌に戻ってからは、球場全体がファイターズのファンで埋め尽くされる中、まさに我が家に帰った感じで伸び伸びとプレーし、今日の第5戦も1点リードされていたものの、見ていて負けるようには見えなかった。

セギノールの2ランホームランで逆転した後、8回裏には、稲葉が中日の息の根を止めるダメ押しの2ランホームラン。試合は、ほぼここで決まった感じで、あとは、現役最後の試合となる新庄の引退セレモニーであった。打席の入り、涙流す新庄。さらに、9回表のセンターの守備についても新庄の涙は止まらない。最終打者の打ったボールがレフトを守る森本のグラブに収まり、ゲームセット、日本一が決まった時、森本はセンターの新庄に駆け寄り抱き合っていた。そして、極めつけは、チームで最初に胴上げされたことだろう。

大リーグから戻り、北海道の日本ハムに入って3年。自らの宣言通り満員となった札幌ドームでの日本一を決めた日本シリーズ第5戦が現役最後の試合となり、そこで胴上げまでされるのだから、やはり大した選手だと思う。

我がひいきのソフトバンクホークスの王監督のオーラも、今年ばかりは新庄選手にかなわなかったと言うことだろう。
しかし、来年こそは、沢村賞投手となったエース斎藤和巳を中心にした強力な投手陣と出戻り小久保(多分)を加えた打撃陣で、福岡ソフトバンクホークスに優勝してもらいたい。

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2006年10月25日 (水)

地図を旅する

私は地図を見るのが好きだ。家の中では、リビングの壁には世界地図と日本地図、自分の住んでいる市の地図、東京近郊の鉄道の路線図を貼っている。(以前は東京都の地図も貼っていたが、いつの間にかはがれてしまった)
また、1階と2階のトイレとパソコンの置いてある「自分の部屋」には、大手家電量販店B社が毎年配っている日本地図カレンダーが貼ってある。

いつでも、見える場所に地図を貼ることで、ニュースなどで、知らない地名が出てきたりしたら、すぐ調べるくせをつけてほしいという子供たちへの教育的効果を考えているのと、常に自分が現在いる場所(ポジション)を意識しておいて欲しいという象徴的な意味もこめているいるつもりだ。

実は、合併前に私が勤務していた会社が、日本地図のカレンダーを作っていた。(日本中の企業を対象にしたビジネスをしている会社だというアピールだったのだと思う)
縦長でコンパクトにまとまっていたので、以前は、毎年このカレンダーを貼っていたのだが、合併で旧来のそれぞれ会社のカレンダーは見直しになり、今や何の変哲もない名画カレンダーなってしまった。何か代わりになるものはないかと探していたら、ちょうど入れ替わるようにB社が日本地図カレンダー配り始めた。(東京から始まったB社もカレンダーを配り始めた頃から全国展開が本格化したような気がする)

これがなかなかの「スグレモノ」で、日本全図として日本全体が鳥瞰できることはもちろん、暦の方は、私が前回の記事でも話題にした二十四節気や月の満ち欠けがマークで記してるほか、時間と十二支、西暦・和暦・年齢の早見表があったり、最近では日本にある世界遺産が記されたりと盛りだくさんで、見ていて飽きない。

少し時間の余裕があると、これまで旅したルートを目でたどり、地図の上で旅を再現したり、まだ訪ねたことのない土地の地名を眺めては、いずれ旅してみようと思ったりするのが、ささやかな楽しみである。日本各地を、家族を連れて、旅したが、それでも、まだまだ未知の土地の方が多い。地図を眺めていると、日本の広さを改めて実感する。

10月も下旬になり、そろそろ、B社でも2007年のカレンダーを配り始める頃ではないだろうか。2007年版では、どんな情報が追加されるのかも楽しみである。

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2006年10月14日 (土)

札幌の思い出(1)-長くて終わらない冬

2年前の今日、私は高校時代の同級生数人から送別会をしてもらっていた。仕事で、札幌への転勤が決まり、東京最後の夜だった。翌朝の羽田空港から飛行機で千歳に向かった。

その1年後の昨年の今日は、東京に戻ることがすでに決まっており、後任者との引き継ぎも終え、借り上げマンションに戻り、東京から手伝いに来てくれた妻と一緒に、1年間暮らした部屋を引き払うため、荷造りを始めたところであった。たった1年でも、荷物はそれなりにあり、家財道具のほとんどは、東京に持って帰っても置く場所もないので、後任者や職場の若手など、もらい手を探し、引き取ってもらうことした。15日は荷造りと掃除に明け暮れ、16日に千歳から東京に戻って来た。早いもので、あれから1年たってしまった。

札幌で、まず驚いたのは早く来て終わらない冬である。赴任後、取引先に挨拶回りをすると、異口同音に、これから寒くなるばかりで、悪い時に転勤してきたと言われる。まだ、秋も半ばではないかと思っていたが、10月末には札幌市内にも雪が降った。最初の雪は、数日で消えたが、11月半ばに降った雪は融けることなく根雪になり、長い冬が始まった。それからは、身の回りに常に雪のある生活である。雪が降らない日も、気温が低いので雪は融けない。

私が札幌にいた1年間で冬休み(年末・年始)、春休み、夏休みの3回家族を札幌に呼んだ。冬休みが雪の中なのは当然と思っていたが、春休みには春の気配が感じられるのだろうと考えていた。しかし、現実は全く違っていた。
札幌発で支笏湖、苫小牧、登別、洞爺湖・有珠山・昭和新山、羊蹄山麓の真狩(まっかり)村、余市のニッカ工場、小樽から札幌へ戻る2泊3日の小旅行をしたが、太平洋岸の苫小牧から登別にかけての海沿いこそ雪を見ずに走れたものの、ロープウェイで登った有珠山の上は雪に覆われていたし、内陸になる真狩は、まだ数十㎝から1m近い雪が残っていた。北海道の3月下旬から4月上旬はまだ冬なのだ。

結局、札幌の街中から完全に雪が融けてなくなったのは、ゴールデンウイークの頃だった。半年の冬があり、残る半年を、短い春と夏と短い秋で分け合っているのが、札幌の1年だった。

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2006年10月 1日 (日)

『偽りの大化改新』を読んで(3)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら、同(2)はこちら

「日本書紀」では、なぜ、中大兄皇子が、「乙巳の変」とその後の「大化改新」の主役として描かれているのか。そして、そこに描かれる中大兄皇子像には、一貫して冷徹・冷酷はイメージがつきまとう。

中村説の結論を言えば、それは、壬申の乱で、兄天智天皇(中大兄皇子)の子である甥・大友皇子(弘文天皇)を滅ぼした天武天皇の意向が働いたというものである。

孝徳崩御後の歴史の通説を眺めてみると、655年の斉明女帝重祚後、中大兄皇子は孝徳朝から引き続き皇太子として母である女帝を助け政治を行ったことになっている。
まず、658年には、謀反の疑いで孝徳の子である有間皇子絞首される。
朝鮮半島では、中国の大国・唐の影響で風雲急を告げており、660年には百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。日本と関係の深い百済を救済すべく、斉明女帝と中大兄皇子は、前線基地として九州・朝倉に都を移し派兵の準備をするが、斉明女帝は661年朝倉宮で崩御する。
663年には、百済復興に派遣した大軍が、白村江の戦いで大敗する。唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州に水城や大野城を築き、国防政策が進められたと言われる。そして、中大兄皇子が天智天皇として即位するにのは、斉明女帝崩御から6年後の667年である。都を琵琶湖に近い近江大津京に定めた。
661年~667年は称制と言われ、天皇不在のまま、中大兄皇子が政治を行ったことになっている。669年には、中臣鎌足が没し藤原姓と大職冠を受け、671年には天智天皇自身も崩御する。天智は、死の間際に弟大海人皇子を呼び、後事を託し後継として皇位につくことを求めるが、それが自分を葬るための罠と察知した大海人皇子は固辞し、出家し吉野に隠遁したことになっている。
翌672年には、大海人皇子が吉野を出奔して挙兵し(壬申の乱)、おそらく天皇に即位済みだあったと思われる大友皇子を滅ぼし、自ら天武天皇として即位する。

天武天皇は、兄天智天皇・甥大友皇子(弘文天皇)父子から、武力で皇位を簒奪したことになる。「日本書紀」は、簒奪王朝である天武朝が自らの簒奪を正当化するために書いたというのが『偽りの大化改新』で語られる中村説である。

正当化するためには、天智(中大兄皇子)は、滅ぼされても仕方ない冷酷・冷徹な人物に仕立てる描く必要があり、「乙巳の変」で蘇我入鹿殺害に直接手を下したり、自分の義父である蘇我倉山田石川麻呂や、孝徳の子有間皇子を容赦なく次々と葬る人物だったと描いたとしている。

具体的に確たる証拠があるわけではないが、歴史が常に勝者によって描かれることを思えば、「乙巳の変」以降の中大兄皇子についての「日本書紀」の不自然な記述は、「乙巳の変」の首謀者が軽皇子(孝徳天皇)だとと考えると、かなりの部分で、より合理的な説明ができるように思う。

孝徳崩御後の疑問点について、いくつか整理して、締めくくりとしたい。

①孝徳朝において皇太子であったはずの中大兄皇子が次期皇位に即位せず、なぜ皇極前女帝が斉明女帝として重祚したのか?

これについては、中村説は、孝徳朝において中大兄皇子は皇太子ではなかった解釈している。皇太子としたのは、「日本書紀」編纂時の潤色で、孝徳の行った古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂の殺害を、傀儡孝徳の下で実権を握った皇太子の行ったことにして、中大兄皇子のせいにしたのであろう。
実際には中大兄皇子は皇太子ではなかったので、皇極が重祚して再び大王(天皇)となることで、初めて、次期皇位継承者として意味での皇太子になったと言えよう。

②では、斉明女帝崩御後、中大兄皇子は、何故すぐに即位せず、6年間も称制を続け、6年後にようやく即位したのか?

実は、これについての明確な回答は、『偽りの大化改新』にも示されていない。「大化改新」にまつわる数々の疑問をそれなりに辻褄を合わせて、解き明かしてきた著者も、ここだけは、うまい解釈が浮かばなかったのだろうか。

一部には、万葉集等の記載から、6年間の称制の間うち665年までは、中大兄皇子の妹で孝徳の皇后だった間人大后が女帝として即位していたという説もあるようだ。658年に有間皇子を葬った後も、旧孝徳大王(天皇)派がそれなりの勢力を持っていて、中大兄皇子がすぐ即位できるような状況にはなく、妥協案として孝徳の皇后の間人を女帝としたのだろうか?しかし、それであれば、間人の崩御後の665年には、即位しても良さそうだが、そうもなっていないし、すでに女帝の前例もあるので、間人だけが女帝であったのに「日本書紀」に書かれないということも考えにくいので、間人即位はなかったのではないかと思う。

私の意見は、唐・新羅連合による百済滅亡という、外交上の大事件を目の当たりにし、即位の儀式・手続を行っている余裕もなかったということではないかと思う。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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『偽りの大化改新』を読んで(2)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら

大化改新の時代、あるいはそれ以前の時代の皇位継承というのは、候補者の殺し合いという面がある。
長子相続という明確なルールがあるわけではなかったので、大王家の血筋に連なる成人男子は、皇位継承の候補者となり、そこに大臣・大連などの豪族が外戚として絡み、自分の血縁に連なる候補者を皇位につかせようと画策する。
誰もが納得するような候補者、あるいは、それを支援し擁立する他の豪族ににらみの効く強力な勢力の後ろ盾があればよいが、大王家一族や豪族勢力の中で利害対立があり、候補者が複数名おり調整がつかない時には、最終的に暗殺や謀反の疑いで誅殺する等により、候補者が絞られ、生き残ったものが大王となるということが行われてきた。時には、大王そのものが暗殺されたことさえある(592年崇峻天皇暗殺事件)。

中村修也著『偽りの大化改新』(講談社現代新書)では、乙巳の変に先立って起こった、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件がすでに乙巳の変の伏線と考える。(遠山美都男『大化改新』中公新書もほぼ同様の立場)

舒明大王(天皇)の死後の642年、自らも敏達帝の孫である皇后の宝王女が皇位を継承し皇極女帝となる。
中村説では、この即位は皇極が自分の子である中大兄皇子が成人して皇位につけるようになるまでの中継ぎとして即位したと解釈している。この時点での、皇位継承候補者は、用明帝の孫(聖徳太子の子)で舒明即位の際に、皇位を争ったとされる山背大兄王、そして舒明と蘇我馬子の娘である法提郎媛の子である古人大兄王子、舒明と皇極の子である中大兄皇子、そして皇極の弟である軽皇子である。

皇極にとっては自分の夫と皇位を争った山背大兄王は目障りな存在、また蘇我氏の血が流れているとはいえ、蘇我蝦夷が舒明即位を支持した際に、それと争った山背大兄王は蘇我氏としては御しにくい存在であり、皇極女帝・蘇我氏の思惑が一致して、643年、両者の合意の下、あるいは皇極の指示により山背大兄王は滅ぼされたのではないかと中村説では考えられている。この時の軽皇子の意向はよくわからないが、自分のライバルが減ることに特段異をとなえることもなかったであろうとも言っている。

山背大兄王の排除は、舒明後の後継選びの第1ラウンドである。残った3人のなかで、政治的な力では蘇我氏を背景にした古人大兄皇子、血統という点では父・母ともに大王である中大兄皇子が有利であろう。軽皇子は、蘇我氏の後ろ盾もなく、現女帝の弟とはいえ、最も不利な立場である。
当時の大王即位の条件は、成人することであると言われており、626年生まれとされる中大兄はまだ未成年。古人大兄皇子の年齢は不詳とのことであるが、あるいは未成年であったのかも知れない。
しかし、古人が中大兄より年上で、先に成人し、当時の一大勢力である蘇我氏が推し古人が皇位につけば、すでに中年の軽皇子には即位の目はなくなる。

そこで、軽皇子がそのような不利な局面を打開するために、阿倍氏をはじめ蘇我氏本家以外の豪族と組んで仕掛けた一発逆転のおおわざが「乙巳の変」であるというのが、中村説のアウトラインである。古人大兄皇子を支える蘇我氏の領袖である蘇我入鹿を排除することなく、彼の即位はありえなかったのだろう。(遠山美都男『大化改新』中公新書では、古人大兄皇子自身も「乙巳の変」での殺害対象だったのではないかとしている)

ただ、『偽りの大化改新』では、「乙巳の変」では、皇極退位も軽皇子側のシナリオに含まれていたと考えているが、軽皇子グループと皇極女帝=中大兄皇子母子との間で何のやりとりもなかったのか、皇極=中大兄母子には一切知らされずに行われたことなのかは、わからない。皇極は、軽皇子が当時の軍事豪族である阿倍氏などと組んでいることを知らされ、共通の敵とも言える古人大兄皇子排除のため、乙巳の変の決行とその後の退位に、例えば孝徳の次の中大兄皇子を皇位につけることを条件に、渋々かも知れないが同意していた可能性はあるように思う。

しかし、即位後の孝徳は、大王の権力を発動し、古人大兄皇子を殺害(645年)や中大兄皇子の義父にあたる蘇我倉山田石川麻呂を自刃に追いやった(649年)のは、前回述べた通りである。

孝徳朝の晩年の653年、中大兄皇子と皇極前女帝が、孝徳の皇后で中大兄皇子の妹である間人王后、弟の大海人皇子や公卿大夫・百官人を連れ、孝徳が定めた難波京から飛鳥の地に戻ってしまうという「日本書紀」の記述があり、通説では、大化改新の主役である中大兄皇子が傀儡である孝徳大王を見限って、自立し、都の役人達もそれに従った事になっている。
中村説では、孝徳と皇極・中大兄母子が不和になり、皇極一行が飛鳥に帰ったことは事実だろうとしているものの、公卿大夫や役人まで連れて、難波京に傀儡孝徳を置き去りにしたかのような記述は、当時の大王の権力からすればありえないとし、「日本書紀」による潤色と解釈している。

これ書きながら、私なりに考えた仮説は、孝徳と皇極・中大兄母子は、「乙巳の変」にあたり、相応の協力関係にあったものの、皇極側はあくまでも次の皇位継承者として中大兄皇子の立場を確実にすることが条件だったのではないかということだ。

しかし、軽皇子は大王となると自らの立場第一となり、中大兄皇子の後援者であったであろう義父の蘇我倉山田石川麻呂を排除するという挙にでる。これは、いわば、皇極・中大兄母子との袂を分かち、自分と孝徳朝最初の左大臣阿倍内麻呂の娘小足媛との間の子である有間皇子を皇位後継者にすえようとする政治環境作りだったのではないか?
そうなれば、孝徳と皇極・中大兄母子との関係強化のための政略結婚として孝徳に嫁したと思われる皇極の娘間人大后の役目も必要なくなり、母皇極と一緒に飛鳥に帰ったのであろう。
あるいは、皇極・中大兄母子は、このまま、難波京に留まっていれば、いつ孝徳派にいつ命を狙われるかもしれないという、身の危険を感じての。飛鳥逃避行だったのかもしれない。

この不和の時点での双方の力関係は、よくわからないが、孝徳大王は翌654年に崩御する。『偽り大化改新』では、「日本書紀」の記述をもとに、自然死か病死であろうとしているが、前年の経緯からすれば、皇極・中大兄母子側による暗殺の可能性も否定できないのではないだろうか?

孝徳後は、皇極が斉明女帝として重祚する。孝徳に簒奪された皇位を再び取り返したことになる。

また、長くなってしまったので、なぜ「日本書紀」が中大兄皇子を「乙巳の変」の主役として描いたのかは、さらに次回に検討したい。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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2006年9月24日 (日)

稲刈りで知る日本の歴史

お米の産地では、先週から今週にかけてが、稲刈りのピークではないだろうか。私も、富山にいる頃、二度ほど稲刈りの手伝いをしたことがある。

長女と次女が、当時小学生で、富山市の小学校に通っていた。長女と同じクラスの男の子と、次女と同じクラスの女の子の兄妹のいる家族がいて、PTAなどで母親どうしも親しくなり、やがて父親も含めた家族ぐるみのつきあいになった。お父さんはサラリーマンなのだが、県内の実家は農家で、ご両親はすでに亡くなっていたが、兼業農家として、夫婦で米作りをしていた。
親しくなったこともあり、稲刈りを手伝わないかと誘われて、手伝いをしたのだ。先方にとっても、自分たちが稲刈りをしている間、自分の子ども達の遊び相手になってくれる、同い年の子どもがいる我が家は、助っ人としてはうってつけだった。

手伝いといっても、先方のお父さんがコンバインを操作して、田んぼの稲を刈っていく。刈り取られた籾(モミ)は、コンバインの中に溜まっていく。一定量溜まったら、いったんコンバインを道路に近いところに止めて、麻袋に詰める。その詰められた麻袋を、我が夫婦でライトバンに載せ、私がライトバンを運転し、先方の実家の納屋にある米の乾燥機まで運び、納屋で奥さんが乾燥機に籾を投入する。その繰り返しである。

麻袋が籾で一杯になると30kgだったと思う。麻袋をライトバンの荷台まで運び上げるのが重労働。田んぼは、先方の実家から少し離れたところに数ヵ所に分かれて点在しており、麻袋運びにも人手がかかる。コンバインには必ず1人必要なので、作業全体を夫婦2人でやっていては、たびたび作業を中断しなくてはならず能率が悪い。そこに、2人手伝いが加われば、中断せずに作業が流れ、一気に効率が上がる。

米作りは多くの人手を必要とする労働集約的な作業だった。まして、機械化された現代でも、これだけ大変なのだから、コンバインもライトバンも乾燥機もなかった時代の苦労は、推して知るべしである。そう考えているうちに、これまで、机上で勉強してきた「日本の歴史」が一気に理解できた気がした。

なぜ農村の人間関係は濃密なのか、年貢というものが、どれだけ農民にとって無念なものであったか、戦(いくさ)で働き手がいなくなればいとも簡単に農村が荒廃するであろうこと、等々。

また、大地に種をまけば作物が育ち、それを収穫して食することで、生きていけるということは、自然と太陽や大地を敬う気持ちになっただろう。文字通り「母なる大地」を実感しながら、人々は生きていたにちがいない。日本での信仰の基本は、その収穫への感謝の気持ちにあるのだろう。

私にとっては、「農業が無から有を作り出すものであること」を発見したことも、目からうろこが落ちる思いであった。何もない地面に種をまいて育てれば食べ物ができる。無から有を作り出し、そのサイクルには終わりがない。土地と太陽と水があれば、無限に続けることができる。一方、工業は、すでに有るものを作りかえたり、組み立てたり、するだけである。

手伝いが終わったあと、先方の実家に2家族でバーベキューパーティーを楽しみ、収穫したての新米を現物支給してもらった。新米が、おいしかったことはいうまでもない。

私にとっては、日本史を体感させてもらった、貴重な経験でもあった。

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2006年9月21日 (木)

テンプレート秋バージョン、世界遺産「五箇山の合掌造り」

19971102b_1 今日から、テンプレートを自作の秋バージョンに変更した。写真は、富山県の上平村(かみたいらむら)菅沼(すがぬま)集落の「合掌造り」である。お隣、岐阜県の白川郷、同じ富山県の平村(たいらむら)相倉(あいのくら)集落の三地区の合掌造り集落が、1995年12月に「白川郷、五箇山(ごかやま)の合掌造り集落」として世界遺産に登録された。(なお、五箇山の由来は、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷というの5つの谷に集落があり、それを「五箇谷間」と言ったことから「五箇山」と変じたらしい。上平、平という地名が示す通り、平家の落人伝説もある)

私が転勤で、富山で暮らし始めたのが、ちょうど1995年の12月。写真は2年後の1997年の秋に、妻の母が富山を訪ねてきた際に、家族で五箇山を案内した時のもので、9年前ということになる。その後、近くに高速道路(東海北陸自動車道)が開通したので、周りはずいぶん変化しているかも知れない。

富山は四季折々に変化が、五感で感じられるところだった。2週間毎に、季節が変わっていく様が、自然の変化として目に見えたし、気温の変化として肌で感じられた。富山湾で取れる「ブリ」を筆頭にした季節の魚介類、加賀百万石を支えた砺波平野の米(コシヒカリ)、呉羽の梨などが「食」として、季節を感じさせてくれた。

合掌造りは、雪に埋もれる冬が絵になるが、山あいの紅葉を背景にした姿も、なかなか、美しいものである。富山を未体験の方は、ぜひ一度訪ねられることを、お勧めしたい。

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2006年9月16日 (土)

小さな旅「深大寺(調布市)探訪」

深大寺(じんだいじ)に行ってきた。我が家から車で40分ほど、JR中央線の三鷹恵駅を過ぎ、南に下る。調布市の一角に、武蔵野の面影を残す、深大寺と都立神代植物園がある。深大寺は、奈良時代に創建されたとのことで、都内では、浅草の浅草寺に次いで古いお寺とのことであった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:「深大寺」の説明はこちら

お寺があって参拝者があれば、「門前市をなす」のは世の習いで、うっそう茂る木々の緑と小川のせせらぎにそって、蕎麦屋・団子屋などが軒を連ねていた。
寺や神社が持つ聖地としての独特の雰囲気と、何百年もの間、そこにそうして店が営まれてきたのであろうという時間に積み重ねの重みのようなものが、日々の喧噪から隔離された非日常の世界を感じさせてくれた。

そもそも、深大寺を訪ねようと思ったのは、門前の蕎麦屋の中に、我が家の長男と同じ名前の店があり、奇しくも蕎麦やそうめんが好きな小6の長男から、一度連れて行ってくれとせがまれていたのだ。私も、寺や神社を巡るのは嫌いではないので、双方の利害が一致し、小さな旅となったわけだ。お目当ての蕎麦屋は、昼時は待つ人で店の外まで行列ができるほどの繁盛ぶりで、20分ほど並んでようやく、私と妻、長男の3人の席が確保できた。私が注文した店の名前を冠した盛りそばは、通常の盛りそばよりそば粉が多いとのことで、こしがあり、なかなかの味だった。

東京にも、探せば、小さな非日常の世界を感じさせてくれる所は、他にもあるのであろう。そのような場所をさがしての、武蔵野の小さな旅も悪くないなと思った、深大寺探訪だった。

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2006年8月16日 (水)

「北軽井沢」についての追記

先週、「北軽井沢」の地名の由来について書いた(*)が、今日、職場の同僚と話していたら、すでに廃線になった草軽電鉄(草津~軽井沢間を結ぶ鉄道)に「北軽井沢」という駅があったというので、さっそく調べてみた。(*8月8日記事:軽井沢と北軽井沢

草軽電鉄は、大正元(1912)年10月に、草津軽便鉄道として設立。大正4(1915)年に、新軽井沢~小瀬温泉間が開業。大正15(1926)年8月には、草津温泉駅までの全線が開通している。北軽井沢駅は、大正7(1918)年6月に「地蔵川」駅として開業、全線開通の翌年(1927年)に「北軽井沢」駅と改称されている。東急グループの傘下入りするが、旅客の減少と相次ぐ台風被害もあり、昭和37(1962)年に全線廃業している。会社は、現在、乗合バス事業等を行う草軽交通として存続している。

全線廃業とともに、北軽井沢という駅名も消滅したが、地域名としては残っていたようだ。そして、先週書いたように、昭和62(1987)年に地名として大字北軽井沢が復活している。『ウィキペディア(Wikipedia)』には、その際、長野県の軽井沢町の住民からは強い反対があったと書かれている。

やはり、調べればいろいろと由来があるものだ。軽井沢~草津間も、箱根や伊豆と同様、東京周辺の観光地として、西武と東急が覇を競ったようだ。
軽井沢駅の南側にある「軽井沢72」ゴルフコースはプリンスホテルの経営だし、浅間山麓の鬼押出し園もプリンスホテルの経営だ。草軽電鉄の系列化は、東急側の西武対抗策の一つであったようだ。

(今日の記事の内容は、草軽交通ホームページの「草軽電鉄物語」、『ウィキペディア(Wikipedia)』の草軽電気鉄道」、「北軽井沢」、プリンスホテルホームページの「日光・上信越in春~秋」を参考にした)

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2006年8月10日 (木)

不可解な車のトラブル

北軽井沢から戻って、休みの残りは、車の名義変更のための雑用をひとつずつかたづける。

車を買った時住んでいた富山から転勤で移った社宅のある豊島区そして現在の住所までの変遷がわかる公的書類が必要なのだが、既に現住所に移って5年を超えるため、豊島区役所で住民票の除票を発行できないということが判明し、本籍地の市役所に戸籍の附票を取り寄せるしかなくなり、故郷の市役所にとりあえず、書類を送った。
あとは、現在の住まいの所轄の警察署で車庫証明をもらい、それらを揃えて、管轄の自動車検査登録事務所に車を持ち込むことになる。

しかし、名義書換をする車の調子がいまひとつ。旅行前に一度エンジンがかからなくなった。バッテリーの上がりと思い、バッテリーを交換したが症状は変わらない。結局、JAFを呼んで、ディーラーに持ち込むと、エンジンのどこかに水がたまっているという。水を抜いて、誤って焼き付かせてしまったスターターモーターを交換した。しかし、何故、水がたまったかはわからないという。気持ち悪いとは思いつつも、北軽井沢までは、その車で往復。
何も問題なかったが、帰ってきて、一晩明けると、またエンジンがかからない。
症状は前回と同じだ。前回の不調の直前は、梅雨末期の豪雨の後、今回も台風7号の通過で、明け方かなり激しく降った後で、まだ小雨が降っていた。あいにく、ディーラーのメンテ部門は金曜日(今日)まで休みとのことで、すぐには持ち込めない。

ボンネットを開けてみると、しみこんだ雨水がワイヤーを伝って、エンジンの上にポタリ、ポタリと落ちている。その一部がエンジンを複雑につなぐ配線を伝わり、エンジン本体と配線が結合している部分まで流れている。あるいは、ここから少しずつしみこんでいったのだろうか?激しい雨というのが、前回の今回の共通点ではあるのだが、果たして、これが原因なのだろうか?

文系の勉強しかしていない自分にとって、車のエンジンは手に余る。あとは、明日、ディーラーに持ち込んで、見てもらうしかない。

しかし、北軽井沢に行っている時に、雨が降らなくてよかった。キャンプ場や、高速のサービスエリアで雨に降られて、車が立ち往生していたらと思うと、ゾッとする。

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2006年8月 8日 (火)

北軽井沢と軽井沢

6日(日)の朝から今日まで、2泊3日で北軽井沢に行ってきた。今年は、我が家も受験生2人なので、ささやかな気分転換といったところだ。浅間山麓の高原といったところで、気温も都心よりも数度低く、過ごしやすく文字通り「避暑地」とはこういうところを言うのだろうと実感した。

これまで、仕事で何回か転勤し、観光地と言われるところにはずいぶん行ったが、「軽井沢」と名の付くところには、一度も足を踏み入れたことがなかった。今回、たまたま行くことになったのだが、「北軽井沢」と聞いて、軽井沢地域の北部くらいにしか考えていなかったが、全く間違っていた。

新幹線の駅もある、いわゆる「軽井沢」は、長野県北佐久郡軽井沢町。江戸時代は、江戸から参勤交代や善光寺参りの旅人が碓氷峠を越えたところで、疲れを癒す中山道の峠の宿場町であった。現在のように別荘地として有名になったのは、明示19(1886)年にカナダ生まれのイギリス人宣教師A・C・ショーが、避暑地として好適であるとして内外に紹介したことがきっかけのようだ。(参考資料:軽井沢町ホームページまちのあゆみ「軽井沢町の誕生と発展」「軽井沢町のあゆみ」)
軽井沢町には、軽井沢と中軽井沢という地名はあるが、旧軽井沢や新軽井沢というのは通称のようだ。

一方、我々が泊まった北軽井沢は長野県と境を接する群馬県吾妻郡長野原町にある。中軽井沢から、国道146号線を車で30分ほど北上し、峠越えをした山の向こうが北軽井沢だった。
長野県の軽井沢町も軽井沢や中軽井沢という地名は、鉄道の沿線部が中心で、町の北部は「長倉」という地名である。そこを過ぎて峠を越えた山の向こうが北軽井沢なのだ。なぜ、軽井沢の中で、北軽井沢だけが群馬県なのか?いつから、北軽井沢と言っているのか?
北軽井沢がある長野原町のホームページの「長野原町について」の中の”長野原町の歴史”を見ると、その答えらしきものがあった。

昭和62年1月大字名変更により「大字北軽井沢」が誕生

正式は地名としての「北軽井沢」の登場は、このときなのだろう。思い起こせば、おりしも、日本がバブル経済の入り口に差し掛かった頃である。一時は、開発ブームに沸いただろう。
さて、現在はどうなのだろうか?私が昨年までいた北海道などは、全道で人口500万人の地域に、どう需要予測をしたら採算が成り立つのかというような乱開発の残骸が点在し見る影もなかった。さすがに、北軽井沢は、東京に近い分、バブル崩壊の影響は北海道ほどではないが、バブル絶頂期に比べれば、ずいぶん人の入り込みは減っているのではないだろうか?

たった3日間だけの印象論なので、あまりあてにはならないが、機会があれば、もう少し調べてみたい。

追記:この記事の地名「北軽井沢」の由来については、記述が不十分でした。
8月16日の記事: 「北軽井沢」ついての追記 をご覧下さい。

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2006年8月 4日 (金)

車の名義変更のための夏休み

今週も、週末を迎えた。来週1週間は、私も夏期休暇で、ひと休みである。とはいえ、前半は家族を連れ、北軽井沢のキャンプ場のキャビンに2泊の小旅行。あとは、我が家で、資格試験の勉強と、日頃、出来ない雑用をかたづけなくてはならない。

今の車は、もう7年めになる。新車購入の時、5年のカーリースを組み、リース期間満了とともに残価を精算し、買い取った。個人の月々のキャシュフローからすれば、オートローンも、割賦も、カーリースも大差はないのだが、権利関係はそれぞれだ。カーリースだと、車の所有者はあくまでも、リース会社。買い取ったところで、自分の名義に変更しなくてはならない。

今の車は、買ったのは富山勤務時代。その後、東京に戻り、リース期間が満了したものだ。本来は、東京に戻ったところで住所の変更を行い(ナンバープレートが変わる)、買い取り時点で名義変更をしなくてはならないのだが、手間がかかりそうで先延ばしにしているうちに、北海道に単身赴任となった。住民票を移さない単身赴任で、車もそのまま持って行ったので、何もできなくなってしまった。

リース会社からも何回か催促され、北海道にいた時は、やりたくてもやれなかったが、先日、再度催促があり、さすがにきちんとしないわけにはいかなくなった。

よくよく調べると、①現在の住所の所轄の警察署で車庫証明をもらい、②購入時からの住所変更の履歴がわかる住民票等を揃えて、③管轄の運輸支局に車を持って行き、住所変更と名義変更の手続きをやるということらしい。

今まで無精をしていたツケを払わざるを得なくなった訳だ。私の場合、更に面倒なのは、富山から東京に戻った時に、一度、豊島区の社宅に入り、その後、1年弱で今の家を買い移ったので、今の住所の住民票だけでは、富山からの履歴がたどれない。豊島区か、富
山市からも書類を取る必要がある。

どうも、1週間の休みの後半の数日間で、全部すませるのは無理なようで、①と②を終え、③の運輸支局での住所変更、名義変更には、別途、もう1日休みを取る必要がありそうだ。

たびたび住所が変わりそうな時に、車を買なら、カーリースはやめた方がいいというのが、ささやかな教訓ということになろうか。

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2006年7月31日 (月)

関東もようやく梅雨明け

昨日(7月30日)、中国地方から関東地方まで、ようやく梅雨が明けた(気象庁:「平成18年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」)。

関東甲信地方では、平年より10日遅い梅雨明け。心配していた梅雨明けが8月までずれ込む事態は回避できた。今回の豪雨の原因となった複雑な大気の流れは、気象庁のホームページに説明がある。(気象庁:「平成18年7月15日以降の大雨に関連する大気の流れについて」
東から張り出す太平洋高気圧の周辺部に、西から湿った暖気流が流れ込み、その暖気流の上に、北方から寒気が流れ込み、梅雨前線が作られ、活発に活動した。さらに、太平洋高気圧が強力だったため、高気圧の壁で前線が動けず停滞、結果として豪雨を招くことになったようだ。

ということは、梅雨明け後は、強力な太平洋高気圧の影響で、一気に暑い夏になるということになりそうだ。

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2006年7月27日 (木)

関東の梅雨明けはいつ?

東京も、昨日・今日は、長雨からようやく解放されたと思ったら、一転、蒸し暑い日に逆戻り。当然、長袖のワイシャツから半袖に替え、ノーネクタイで出勤している。

気象庁のホームページによれば、九州と四国はようやく昨日(7月26日)が梅雨明けだったようだ。

九州南部は平年の梅雨明けが7月13日ごろ、昨年が7月15日ごろなのに対して、今年は26日と10日以上遅れている。九州北部、四国も一週間以上遅れている。九州北部、四国は梅雨入りも平年より数日遅かったが、九州南部は梅雨入りも平年より3日早く、結局2ヵ月梅雨だったことになる。

特に7月の中旬からの梅雨末期の大雨は記録的で、「平成18年7月豪雨」と名付けられたそうだ。(参照気象庁HP:「平成18年7月豪雨」)
『NHK気象・災害ハンドブック』によれば、大雨は多量の雨を示し、豪雨は「災害をも含んだ空間的・時間的なまとまりをもった現象に使用されている」とある)
特に、熊本、宮崎、鹿児島んが県境を接するえびの高原近辺が多く、宮崎県えびの市、鹿児島県大口市では15日から24日の10日間で1000mmを超える雨量だった。

関東甲信越の梅雨明けは、平年では7月20日ごろだが、すでに一週間経過。平年では、九州南部の梅雨明けの1週間後が関東甲信越の梅雨明けなので、ひょっとすると、過去あまり聞いたことのない8月の梅雨明けもあるかもしれない。

冬が豪雪で、夏には豪雨。日本の気候は、いつになったら平年並に戻るのだろう?

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2006年7月22日 (土)

サマータイム実験に思う

朝日新聞の夕刊に、札幌を中心に行われているサマータイムへの取り組みの記事が出ていた。

札幌商工会議所が呼びかけて始まったようで今年で3年めとのこと。夏場の始業時刻、終業時刻を1時間ずつ早めるものだ。昨年、私が札幌にいた時は、高橋北海道知事も参加したということで、話題になっていた。

札幌の夏の夜明けは早い。早いときには、3時半くらいから明るくなる。出勤前に、ハーフラウンドならゴルフもできると聞いたことがある。かといって、日暮れが早い訳ではない。高緯度なので、夏は昼間が長くなるのだ。1時間始業時刻を早めても、地域で完結している仕事なら、おそらく全然問題は起きないだろう。
その代わりに、冬は早く日が暮れる。午後4時頃から暗くなり出し、4時半には真っ暗になる。

おそらく、いくら書かれたものを読んだり、TVのニュースを聞いても、そこで生活してみなければ、それを実感することは難しい。記事には、東京ではまったく関心がないこともあわせて書かれている。東京でしか生活したことがなければ、北海道の夏の昼の長さも、冬の昼の短さも、理解できない。
かくいう私も、東京・九州・北陸で生活したことがあるが、北海道の気候・風土は理解の範囲を超えていた。以前にもこのブログで書いたと思うが、1年の北海道暮らしでの自分なりの理解は「北海道は日本の一部だが、気候・風土は別の国と考えるべきだ」ということである。

同じ日本の中の北海道でさえ、暮らしてみて初めて実感することばかりであるとすれば、まして、イスラエル・レバノン紛争をはじめ、外国の国々の事情などそう簡単に理解できるものではないのだろうと、当たり前のことをふと思った。

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2006年7月 1日 (土)

盆地の霧

今週、北海道で遭遇した「海の霧」について書いたが、もう一つ、北海道で遭遇した2度目の霧は、「盆地の霧」と言っていいと思う。

単身赴任で札幌にいた私は、年末年始、春休み、夏休みの3回家族を呼んだ。年末年始の札幌は当然にして雪の中。主に、市内を案内するだけだった。春休みも、まだ雪は至るところに残っていて、雪の支笏湖や、雪の羊蹄山を見て回った。
夏休みは、札幌から泊まりがけで、道東地域へ車を走らせた。摩周湖から車で15分ほどの摩周ユースホステルに宿を3泊確保し、そこを拠点に、摩周湖はもちろん、知床、阿寒湖、網走などを見て回った。

幸い、天気には恵まれたが、早朝はいつも霧の中だった。摩周湖があるのは、弟子屈町。(私は最初「でしくつ」と読むものだと思いこんでいたが、正しくは「てしかが」と読む)。摩周湖ばかりが有名だが、摩周湖の西には、日本最大のカルデラ湖である屈斜路湖がある。摩周湖も、火口に雨水がたまってできたカルデラ湖である(摩周湖には、流れ込む河川はないし、摩周湖を水源とする河川もない)。
弟子屈町は、西に摩周のカルデラ、東に屈斜路のカルデラに挟まれた盆地になっており、南北にはJRと幹線道路、東西には道路が走っており、弟子屈の町がその中心にある。

早朝、宿の周りが霧に霞む中、眠い目をこすりながら、デジカメを片手に、車で朝の摩周湖に出かけた。しばらく、霧の中を走る。平野だが、北に向かってわずかな登りになっている。5分ほど走ると、急に視界が開けた。霧から抜け出したのだ。さらに摩周湖の展望台にむかって、摩周のカルデラのを登る。

摩周湖第一展望台に着いた。朝の6時を少し回ったところ。

A

西側の弟子屈の盆地は一面の雲海。 晴れていれば、見えるであろう屈斜路湖もまったく見えない。屈斜路湖の東、摩周湖との間にある硫黄山の山頂だけが、雲海から顔を出している。

A_1

そして、雲海のはるか遠くには雄阿寒岳が浮かび上がる。何とも、幻想的な景色だった。


『楽しい気象観察図鑑』(武田康男〔文・写真〕、草思社)には、霧について次のような説明がある。

よく晴れて風が弱い夜は、放射冷却という現象が強く起こり、地表の熱が宇宙空間に逃げていきます。これによって地表付近の気温が下がり、空気中の水蒸気が水滴となって空中に現れます。これが霧です。ふつう太陽が昇る直前に最も気温が下がるので、霧は朝方に濃くなります。(中略)
とくに盆地では冷えて重くなった空気が集まりやすく、霧がよく出ます。
(『楽しい気象観察図鑑』14、15ページ)

なるほど、よくわかる。そこだまりの重たい空気の層から抜けた時に、視界が開け、霧をぬけたと言うことだろう。また、太陽が昇り気温の上昇とともに、朝霧は消えていった。地表の温度が上がり、水滴が再び水蒸気となって言ったのだろう。本当は、こういう事を、子どもにすらすら教えられる父親になりたかったのだが…。これから、少しずつ、勉強し直すしかないだろう。

最後に、お目当ての摩周湖は霧ひとつなく、朝日に輝く湖面をカメラに納めることができた。A_2

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2006年6月27日 (火)

海の霧

今日は、平日休暇を取った。午前中、都心まで出て、会合に出たあと、昼過ぎに自宅に戻る。リビングでテレビをつけると、各地の天気を伝えていて、北海道では霧に包まれる釧路市の幣舞橋(ぬさまいばし)の映像が登場していた。

北海道では、何度か霧に遭遇した。最初は海の霧だ。
去年(2005年)の5月29日、桜で有名な日高地方の静内二十間道路に向かった。静内町は競走馬の産地としても、有名で、昨年、吉永小百合の主演映画として話題になった『北の零年』も静内が舞台だった。
札幌から道央自動車道で、南に下り、苫小牧東ICで日高自動車道に乗る。シシャモで有名な鵡川で自動車道は終わり、あとは、海沿いの国道235号線を走った。地図を見るとわかるが、国道235号線は、途中から海岸線を沿うように走っている。静内に向かっては、右手に太平洋、左手は至るところの日高の馬牧場を見ながら車を走らせる。

Photo_1晴れていて、気温も暑すぎず寒すぎず、快適なドライブと喜んでいたら、静内の隣町の新冠に近づいたところで、突然、海から霧が湧いてきた。海の方から、陸に向けてあとからあとから、霧が湧き出してきて、瞬く間に道路を覆っていった。最初はうっすらだったが、どんどん濃くなっていく。視界も、どんどん悪くなる。車のスピードも落とさざるを得ない。とりあえず、いったん新冠(にいかっぷ)の道の駅で休む。(写真は道の駅で。銅像の馬はハイセイコー、写真の後方の建物は霧に霞んでいる。)
霧はすぐ収まる気配もないので、残り5~6kmということもあり、再び出発。程なく、静内の町に着いたので事なきを得たが、もっと手前で霧に遭遇していたら、行くのをあきらめていただろう。
二十間道路は、町中から少し山手に上がったところだったので、霧もそこまでは追いかけてこず、ゆっくり見物はできたが、桜の方は盛りは過ぎかなり散り始めていて、一部は葉桜になっていた。
帰りは、安全を考えて、少し遠回りだったが、途中まで山間部の道を走った。帰り、鵡川の道の駅「四季の館」で、ひと休みしていたら、こちらにも霧が迫ってきた。霧から逃れるように、札幌に向かったのを思い出す。

先日、紹介した『楽しい気象観察図鑑』(武田康男〔文・写真〕、草思社)には、

海でも、親潮(北海道の東側から房総沖にかけて北から南に流れる寒流)などが流れる冷たい海では、空気が冷やされて霧が発生しやすくなります。海で発生する霧は範囲が広く、視界が悪くなるので、船の航行にはたいへん危険です。(以下略、同書15ページ)

とある。急に冷たい親潮が、沿岸付近まで流れて来たのだろうか。天気も悪くなかったので、暖められていた海上の湿った空気が、急に寒流で冷やされ、海から霧が湧き出したように見えたのだろう。やはり、自然の力は侮れない。

余談だが、まっったく別件で検索をしている最中に、『楽しい気象観察図鑑』の作者の武田康男さんのインタビュー記事をみつけた。経歴を見て、自分と同じ1960年生まれということで、さらに親近感を覚えた。「SKYPAGE」というホームページの写真も素晴らしい。

二度目の北海道の霧体験は、また改めて書くことにしたい。

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2006年6月18日 (日)

デザイン変更、支笏湖と風不死岳

Photo_2
6月も半ばを過ぎ、久しぶりにブログのデザインを変更した。これまでは、ココログの出来合いのリッチ・テンプレートから選んでいたが、今回は、少し自分でカスタマイズしてみた。

タイトル画面は、支笏湖と1103mの風不死(ふっぷし)岳(右)、左奥が樽前山で平べったく見えるのが樽前山の溶岩ドームだ。去年の5月29日にデジカメで撮影した写真を、ブログのタイトルの大きさにあわせて、上下をカットし、バーチャル・ペインターというソフトで加工した。

支笏湖は、札幌から車で1時間ほど。空の玄関「千歳空港」からは、もっと近く車で30分程度だ。先日、東京で盛大なお祝いの会をしたN先生が、一昨年の11月半ばに、札幌に来られた時は、飛行機が到着するお昼時に、車で空港まで迎えに行き、その足で、支笏湖にご案内し、地元では有名な丸駒温泉にお連れして、夕方、札幌に戻った。

11月の支笏湖は、冬の到来間近で、風も冷たかったが、半年後の5月に再度訪ねた時は、風も気持ちよかった。

「支笏・洞爺国立公園」の一部であるが、地図で見ていると、近そうに見える支笏湖と洞爺湖も、100Kmは離れているのと思う。近いと思って車で走り、なかなか辿り着かなくて、参ったことを思い出す。北海道は広い。

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2006年5月22日 (月)

気象の言葉、「真夏日」と「真冬日」

5月も半ばを過ぎ、汗ばむ日も増えてきた。天気予報を聞いていると、四季折々でいろいろな気象用語が登場する。

これからの季節、頻繁に登場するようになるのが「夏日」と「真夏日」、「熱帯夜」だろう。
「夏日」は最高気温が25℃以上の日、「真夏日」は30℃以上の日を言う。(最近は、最高気温が35℃を超える日も増えてきたので、「超真夏日」という用語もあっても良さそうだが、それは無いようだ。)
なお、「熱帯夜」は最低気温が25℃以上を言う。

東京ではあまり耳にすることはないが、札幌で生活している時は冬になると「冬日」、「真冬日」という気象用語を毎日のように聞いた。

「冬日」は、最低気温が0℃以下の日、そして「真冬日」は最高気温が0℃以下の日という定義だった。(夏日と真夏日の関係からいくと、真冬日の定義は最低気温が-5℃以下かなと思うがそうではない。)
「真冬日」というのは、言い換えれば、一日中、気温が氷点下、マイナス表示ということだ。札幌では、最も寒い時期は「真冬日」が何日も続く。用語の意味を知った時、なんとも気が滅入ったことを思い出す。「同じ日本の中で、こうも気候が違うものなのか」というのが、実感だった。

一方、札幌のいいところもある。梅雨がないので、これから夏に向かっては、少し長めのすがすがしい初夏が続く。北海道に旅行するなら、真夏より6月がお勧めである。

(気象庁の気温、湿度の気象用語を解説したページはこちら。)

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2006年5月19日 (金)

次女の「京都」修学旅行に思う

いましがた、中3の次女が修学旅行に出発した。2泊3日で京都に行くそうだ。何日か前からいろいろと準備をし、昨日は、デジカメを貸して欲しいと言われた。今朝は、5時過ぎには起きて、先ほど、楽しそうに家を出て行った。久しぶりに京都に行きたくなった。

自分の育ったところが、九州・太宰府という、日本史の教科書に必ず出てくるところだったこと(大宰府政庁跡太宰府天満宮は小中学校時代の遠足コースだった)、新聞記者をしていた父が歴史好きだったということもあり、自然と歴史に親しんだ。高校では、世界史と日本史をともに選択し、模試では社会で点数を稼いでいた。我々の代が初年度だった共通1次試験も社会は、世界史・日本史の組み合わせで臨んだ。

その当時から、洋の東西を問わず、歴史小説を読み、岩波新書や中公新書、講談社現代新書の歴史ものを読んできた。小説では、井上靖(『天平の甍』、『蒼き狼』、『風濤』)、黒岩重吾の古代から奈良朝にかけての作品(『北風に起つ』、『磐舟の光芒』、『弓削道鏡』等)、最近は高橋克彦の『火怨』、『炎立つ』などの東北3部作と『時宗』、新書では、日本古代史の遠山美都男などあげればきりがない。マンガ家里中満智子の女帝を扱った作品(『天上の虹』、『女帝の手記』)などもおもしろく読んだ。

一時期、黒岩重吾をきっかけに飛鳥・奈良時代にはまり、新婚旅行でも奈良に行ったし、北陸に住んでいた頃、連休を利用して家族で2回奈良に旅行をした。当時は、整然と整備された観光都市京都よりは、いろいろな物が、土の下に埋まっている、そしてどこか自分の故郷でもある太宰府と似ている奈良の方が好きだった。

京都に行ったのは、2年前の夏休み。車で、福岡まで帰ったと言う同級生の話に刺激され、ユースホステルを泊まり歩いて、家族で福岡まで帰ることを計画。金曜の夜、帰宅後、八王子から中央道に乗り、途中サービスエリアで仮眠し、1日車で走って京都に入った。京都では2泊し、丸1日京都観光に当てた。やはり、その前の年、中3で京都に旅行した長女の希望もあって、京都で1日過ごすことにしたのだ。金閣寺、北野天満宮、晴明神社、二条城、清水寺、銀閣寺、竜安寺などを回り、すっかり京都の魅力にとりつかれてしまった。

1000年を超えて、この国の都だった京都には、至るところ重層的に歴史が潜んでいて、訪ねるところが尽きることがない。京都を訪ねる人が、絶えることがないのが、わかったような気がした。

週末の次女のみやげ話を、楽しみの待つとしよう。

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2006年4月30日 (日)

羊山公園の芝桜見物顛末記

西武線の沿線に住んでいると、四季折々の沿線の観光PRで、春の秩父の芝桜、秋の高麗の巾着田の曼珠沙華(彼岸花)がいやでも目に飛び込んでくる。しかし、5年近くまだ行ったことがなかった。

今日は、天気も良さそうだし、ちょうど見頃との情報もあり、家で宿題をしなければならないと言った高3の長女を残し、私、妻、次女と長男の4人で、羊山公園の芝桜を見るため、8時半すぎに家を出た。飯能での乗り換えのない、直通の快速急行に何とか間に合ったものの、社内は、いかにも皆、見物に行きますという人ばかり。通勤ラッシュと見まごうばかりの人混みの中で、立ちつくすこと1時間余。
Dscn0167a_2 飯能から先の西武秩父線沿線は、いくつかハイキング・トレッキングにふさわしい山もあるのだが、ほとんど下りる人はなく、羊山公園の最寄り駅である「横瀬」で大半の人が下りた。 我々も横瀬で下りて、畑の中のあぜ道を歩く。途中、大きな鯉のぼりがはためいて季節を感じさせてくれる。

15分ほど歩いて、10時半頃にようやく目的地に到着した。

Dscn0179a 確かに、丘の斜面のピンク、白、うす紫の芝桜が見頃で、芝桜を手前に従Dscn0177a_1えた秩父のシン ボル武甲山の姿はなかなか絵になるのだが、なにせ、斜面の通路や、ベンチには人、人、人。これでは、芝桜より、人を見に来たようなものだ…。

小6の長男は電車で1時間立たされて機嫌が悪いし、中3の次女は私に似たのか人混みが嫌い、自然をこよなく愛する妻は去年の夏北海道で見た美瑛のパッチワークの丘のような壮大なスケールを期待していたようで期待はずれ、言い出しっぺの私は誰からも支持されることなく、デジカメで、来たことの証拠になる写真を何枚か撮り、公園には10分ほどいただけで、もう一つの最寄り駅である西武秩父駅へ向けて出発した。

Dscn0186a 駅までの道の途中、妻は今関心を持っている天然酵母を使ったパンの店を目ざとく見つけ、立ち寄っていた。秩父駅で食事をするでもなく、11時半過ぎの飯能行きの電車に乗り、飯能で快速に乗り換え、1時間半かけて戻ってきた。

往復の電車に乗っていた時間約3時間、羊山公園滞在10分という、本日の家族小旅行であった。芝桜だけでなく、春のうららかな日差しと、心地よいそよ風に吹かれたことが、今日の収穫と考えることにしよう。

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2006年4月 2日 (日)

新年度を迎えて、~原宿散策~

昨日は4月1日。新年度が始まった。私自身は、社会人になって23年が過ぎ、24年目を迎えたことになる。

3人の子供たちも、高3、中3、小6となり、上の2人は受験モードに切り替えてもらわなくてはならない。私より少し年上の妻は、50歳を見据えて、子育て後の自分のあり方を模索中で、パン教室を終えたあとは、料理教室に行こう、手話も勉強してみようと考えているようだ。新たな職場で半年が過ぎた私は、仕事で必要とされる資格を取るため、何年ぶりかの通信教育を始めた。このブログをどのように続けていけるかも、テーマの一つかもしれない。

年度替わりに合わせて、区切りをつけようと、以前から長男が中華料理が食べたい、北京ダックが食べたいと言っていたこともあって、普段は行かない原宿まで家族で行き、同潤会アパートの跡地に再開発で誕生した表参道ヒルズを見学し(完全にお登りさんだ)、代々木公園で満開の桜と、花見に興じる人々を眺めた。

Pict1240 Pict1243a Pict1246a 表参道ヒルズも、代々木公園も、たくさんの人であふれていて、いつもは吉祥寺にしか行かない我が家にとっては、too muchだった。

最後に南国酒家の原宿本館で行き、家族で中華料理のテーブルを囲み、長男お目当ての北京ダックも注文し、1時間半ほどのんびり食事をして、帰って来た。これからはファミレスだけではなく、たまには、きちんとしたレストランに連れて行くのも、広い意味では、躾け・教育の一環かなと考えている。

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2006年4月 1日 (土)

「風のハルカ」の猿丸さんはスナフキン?

今日で、NHKの朝ドラの「風のハルカ」が終わった。それほど、熱心に見ていたわけではないものの、舞台が九州の湯布院であることと、妻がいつも、いいところで終わる言っていたので、妻が子供達に録画してもらっていたビデオを、登場人物がわかる程度には、見ていた。

最終回は、めでたくヒロイン・ハルカのゴールインで幕を閉じたが、この結婚相手の猿丸さん、最初に登場した時は、なんだか薄汚い緑色のマントを着て、何をやっているのか氏素性も知れず、なんとも実在感のない設定だと思っていた。しかし、ある時、これは、スナフキンのパクリではふと思い、そう思って見始めると、彼は、世界中を旅していて、突然現れて、突然いなくなる。スナフキンそっくりだ。ムーミンならぬハルカさんは、彼の帰りを待っている。湯布院はムーミン谷に、由布岳はおさびし山に見えない事もない。ハルカのお父さんが作ったレストランが、ムーミン屋敷?

ムーミン一家の場合、パパとママは、一応夫婦円満に暮らしていて、離婚してしまったハルカの両親とは違うので、すべてが同じとはいえないけれど、きっとこの脚本家は、どこかで影響を受けているよなと思って見るのも、面白かった。

ムーミンの物語は、フィンランドの女流作家トーベ・ヤンソンの作。最初の作品は、第二次大戦直後の1945年に書かれ、昨年は60周年だった。(ムーミン公式サイトに詳しい)

日本で、翻訳が紹介されてからでも、すでの30年以上。主要な作品だけでも、8冊。講談社文庫にも収められている。フジテレビとテレビ東京でアニメにもなった。今やスナフキンは楽天トラベル(「旅の窓口」時代から)のイメージキャラクターだし、ミイが渡辺満里奈とCMに登場したり、ミイの姉のミムラを名乗る女優も登場するなど、日本でも浸透している。

私がムーミンの物語を好きなのは、そこに登場する人々(?)が、スナフキンを始め、みな個性的だからだと思う。それぞれが個性的でありながらも、皆、相手を尊重していて、個性が輝いて、その個性が織りなす数々のエピソードが、ほほえましくありながらも、深い示唆に富んでいる。そこには、成長や自立の物語があり、友情があり、家族や夫婦の物語もある。まだ、読まれたことのない方は、ぜひ一読を。(「ムーミン谷の彗星」は、小学生くらいの男の子にはお勧め)

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2006年3月29日 (水)

日本橋の桜

Pict1239a 昨日、東京の桜も満開ということらしい。今朝、通勤時に通る日本橋のたもとにある桜が撮った。すでに枝の先の方は、散っている。
今年は梅は遅く、桜は早いとのこと。これだと、小学校や中学校の入学式までは、持たないかもしれない。

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2006年3月24日 (金)

つくばエクスプレス

08_ph01_s 今日は、1日休暇を取って、3学期が終わったばかりの小5の長男と開業して間もない「つくばエクスプレス(TX)」に乗った。TXの運行会社である首都圏新都市鉄道(株)に知り合いがいて、1度乗って欲しいと頼まれていて、ようやく約束を果たした格好だ。
(左の写真は、つくばエクスプレスのホームページよりダウンロード)

秋葉原からつくばまで、最速の快速で45分。午後から出かけたので、TXの秋葉原駅に着いたのが、3時過ぎで、3時発の快速が出た直後だったので、 各駅停車で途中の守谷まで行き、そこで、少し待って、つくば行きに乗り継いだ。秋葉原を出て、ほぼ1時間で、つくばに着いた。長男が、秋葉原探索をしたいと言っていたこともあって、駅前のショッピングゾーンで、ちょっとぶらぶらして、ハンバーガーを食べ、30分ほどで、帰りの列車に乗った。帰りは、区間快速で、つくばから秋葉原まで52分である。
秋葉原に戻ったのは、6時近く。それから、1時間ほど、長男のゲームセンター巡りにつきあって、戻ってきた。

つくばエクスプレスが、まだ常磐新線と呼ばれ、首都圏の大型鉄道プロジェクトとして騒がれていたのが、つい昨日のことのようだ。計画当時は、バブルの盛りで、鉄道新設により沿線の地価が上昇するので、その値上がり益を「開発利益」と称し、それをどのようにして、多額の投資をした鉄道会社が享受できるようにするかと言った議論がされていたように思う。当時と比較して、秋葉原の駅と駅周辺の変貌はすさまじく、時の流れを感じずには、いられなかった。

どちらかといえば、私の用事に、長男をつきあわせた形になったが、これから思春期を迎え難しい年頃になり始めることもあり、家族5人の中で、男どうし2人だけで行動する時間を作っていくことも必要だろうと考えている。

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2006年3月11日 (土)

デジタルカメラ、記念と記録

旅行に行く時はもちろん、ちょっとした外出の時も、デジカメを持って出るようにしている。フィルムカメラの時代から、写真を撮るのは好きだった。

フィルムカメラの難点は、現像する必要があり、現像すればフィルムを、プリントすれば写真を整理しなけらばならないし、コストもかかる。また、撮影の時、フィルムの枚数を考えて、撮らないと肝心のシャッターチャンスで、フィルム切れというリスクもあった。

それらを全て解消してくれたのが、デジカメだ。さらにデジカメのいいところは、撮影日時を黙っていても記録してくれるので、デジカメ写真を並べれば、そのまま行動の記録になる。今は、記念と記録の両面で、デジカメを使っている。

現在は、記念写真用がニコンのCOOLPIX5700(500万画素) 、01

 

記録用がコニカミノルタのDimageXg(320万画素)である。

07blue_pict001

 

 


これまでに、デジカメで撮り貯めた写真を整理して、このブログ(マイフォト)に載せることにした。第1弾は、日本百名山のひとつ「羊蹄山」を選んでみた。4月の雪の多さにも、ご注目願いたい。

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2006年3月 6日 (月)

春一番とお水取り

今日は、関東地方にようやく春一番が吹いたそうだ。昨年よりも11日遅いという。ようやく梅の花もほころび始め、茶褐色だった木々に彩りを添えている。

今日は、我が家の18回目の結婚記念日だ。新婚旅行で奈良と伊勢・志摩を巡った。ちょうど、奈良では、東大寺二月堂のお水取りの時期で、夜、東大寺まで火の粉を浴びに行ったのを思い出す。

なぜ、妻と結婚したのか。当時の私は、誰かに話を聞いてもらいたくて仕方なかった。彼女が、私の話を、一番おもしろがってきいてくれた。しかし、自分のことを話すのに夢中で、相手の話はあまり聞いたいなかったのかもしれない。その年の年末には長女が生まれ、なれない東京での社宅暮らしに子育てのストレスも重なったのか、過換気症候群になって救急車で病院に運ばれたこともあった。

最近は、日曜日の朝、子ども達が起き出す前に、2人で近くの駅まで片道30分の散歩をしている。駅前の喫茶店でコーヒーを飲んで、帰りも30分歩く。歩きながら、私が聞き役になるように心がけている。

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2006年2月26日 (日)

吉祥寺好き

5年ほど前に、家を買い、東京の郊外(23区外)に住んでいる。吉祥寺には、車で15分ほど。電車に乗れば、新宿や池袋にも、そう時間をかけずに行けるが、新宿も池袋も、エリアとして広い上に、人が多くて苦手だ。

その点、吉祥寺は、街がコンパクトにまとまっている上に、様々な分野で、古いものから最新のものまで、揃っていて、いつ行っても退屈することがない。

最近も、「東京生活」(2005、no.9)、「Caz」(2006、2/20号)や「Hanako」(2006、3/9号)といった雑誌で、相次いで吉祥寺特集が組まれている。これまでは、漫然と吉祥寺を歩き回っていたが、これからは、よく下調べをした上で、効率的に吉祥寺探検をしようと、妻と話している。

ココログで、吉祥寺のテンプレートを見つけ、迷わず、使わせてもらうことにした。

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