2011年10月23日 (日)

ブログの記事が1300タイトル到達

先週の日曜日に書いたSONYのウォークマンの話(SONYのウォークマン(WALKMAM)の自動選曲システム「おまかせチャンネル」がおもしろい)が1299本目、岩波少年文庫のランサム・サーガの『オオバンクラブ物語』の話(岩波少年文庫のランサム・サーガ4作目の『オオバンクラブ物語』(上)・(下)巻セットが10月の新刊で登場していた)が1300本目の記事だった。

1200タイトルに到達した時に書いた記事(2010年9月2日:「記事の総数もようやく1200本へ、過去1年半を振り返りこれから迎える50代を考える」)によれば、

1000本目:2009年1月18日。
1100本目:2009年7月30日。
1200本目:2010年8月30日。
と間隔がだんだんと広がり、今回の1300本目が2011年10月16日。
1000本から1100本までの100本は約半年。
1100本から1200本までの100本は1年1ヵ月。
1200本から1300本までの100本も1年1ヵ月を少し超えた。

1200本目を書き終えた時点では、50際の大台を目前に控え、次のようなことを書いていた。

「このブログのテーマの一つは、中年クライシスの克服にあると思って書いているのだが、40代半ばで、そのことを意識し3年間はブログを書くことも含めて「中年クライシス」というハードルを必死で越えようとし、ある程度、目処がたった頃になって、親の介護と子どもの受験という自分以外の問題に対応する事に迫られたという事なのかもしれない。

気がつけば、50歳という次のステージは目前に迫っている。戦国の世であれば、そろそろ人生の終幕というところだが、平成の世では、まだまだ、やるべきこと山積している。この1年半で追われた問題は、何も解決していいない。
田舎に戻り、再び一人暮らしを始めた私の母のフォロー。私の母だけなく、同年代の妻の母の問題もある。自分の親たちを離れた東京にいながらどう介護していくのか。
一方、子育てはいよいよ最終コーナーか。ようやく、義務教育は終えたが、3人の子どもたちがそれぞれに独立していくまでには、もう少し時間がかかる。それを、終えて初めて親としての役目を果たすことになる。
親と子どもという前の世代と次の世代をにらみながら、さて自分自身はどう生きていくのか、難問だらけの50代を迎えることになりそうだ。」

この1年余を振り返ると、私と妻のそれぞれの親の問題は、この1年間で、何回か帰省し、両方の親がなんとかもう少し元気でいられるよう介護関係の手続をしたりして、なんとか一段落したかなという感じで、小康状態を保っている。しばらく、このままの状態を維持してくれと願っているというところだ。
子どもの問題は、まだまだ現在進行形で、子育ての仕上げは50代前半の大きなテーマだろう。

50歳を迎え、自分にとっての大きな変化は自分の職場が変ったことである。元の勤務先から紹介された第二の職場。幸いにして、自分の適性を発揮できそうな場所であり、職場を移って7ヵ月余。
いまのところ、同僚にも恵まれ、充実した職場生活が送ることができているのはありがたいことだ。
これまでの社会人生活を振り返ると、最初の職場に17年ほど。合併話が決まり、合併準備と新たな職場での生活が11年ほど。新しい職場に60歳まで勤務するとすれば、ここでも10年近くを過ごすことになる。ここに、足場を置きながら、50代の10年間をどう過ごすのか、子育ての仕上げとあわせ、その後の自分のあり方を改めて、考えて確認する時期に来ているのだと思う。
40代の半ばから後半にかけての「中年クライシス」はなんとか卒業できたと思っているが、では50代に何も問題なし」ろいう訳でもない。

これからも、少なくとも週に1本は記事を書くことで、自分の考えを整理し、50代の問題・課題に取り組んで行きたいと思う。

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2011年8月15日 (月)

「名菓ひよ子」は東京のお菓子か?福岡のお菓子か?

昨日は、午後から用があって銀座のある百貨店に行った。地下の和洋の菓子売り場を歩いていると、全国各地のみやげ物として有名な名菓を地域別に並べてあるコーナーがあった。
なかなか、面白いなと北から順に眺めていると、関東のところで足が止まった。子どもの頃から、福岡の菓子として慣れ親しんでいる「ひよ子」が東京のお菓子として並べられていたからである。外箱にも「東京ひよ子」と書いてある。

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私は、大学生だった頃、年末年始には、太宰府天満宮の参道のみやげ物店で、「ひよ子」を売るアルバイトをしたことがあり、東京みやげと書かれるとやはり抵抗がある。

もう今から、30年近く前になるが、社会人になったばかりの頃。「ひよ子」にまつわる笑い話を聞いたことがある。私は、地元福岡の支店が初任地だったが、私が赴任する半年ほど前のこと、東京から転勤してきた先輩が、みやげとして東京から「ひよ子」を買ってきら、よろこばれるかと思いきや、「これはもともとは福岡のお菓子だよ」と爆笑だっという話である。
東京でも、いかにも東京みやげとして「ひよ子」は売られているので、知らなかった先輩にとっては、災難というしかない。

一方、最近、福岡出身の人と話していた時のこと、「ひよ子」の話になって、「最近、東京の人の中には、ひよ子は東京のお菓子と思いこんでいる人がいて、そういう人にこれは福岡のお菓子だと言っても、相手も東京のお菓子だと譲らず、あまり言い張ると喧嘩になるので、それ以上言わない」ということを聞いたこともある。
確かに、百貨店においてあった品物を見ても、会社の住所は東京。私も、相手に言い張られたら、相手の気分を害してまで、主張するほどのことでもないかもしれないと、その時は思ったものだ。

ならばと、インターネットで「名菓ひよ子」と入力して検索してみた。会社のホームページを調べてみた。(以下は、ホームページ中の「ひよ子本舗吉野堂物語」を参考にまとめた)

「ひよ子」を製造・販売してる会社は、もともと「吉野堂」という商号で、福岡県の中でもかつての炭坑地域筑豊の中心地である飯塚が発祥の地である。
その飯塚の菓子屋の二代目が現在の「ひよ子」を考案。炭坑の街で人気のお菓子となった。しかし、国のエネルギー政策が石炭から石油へと転換される中、三代目は福岡県の県都である福岡市への進出を決断し、昭和32年(1957年)2月に、福岡の中心地天神の商店街である新天町横に店を構え、製造・販売を手掛けた。
三代目の凄いところは、福岡進出で「九州の名菓」として認知されたことで満足することなく、東京オリンピック開催や東海道新幹線開業で成長著しい首都東京への進出を決め、昭和39年(1964年)5月には、埼玉県草加市に工場を建設。昭和41年(1966年)には東京駅の八重洲地下街に直営の販売店をオープンしている。東京地区の子会社も設立、以後、何回か再編は行っているものの、現在でも福岡(株式会社ひよ子)と東京(株式会社東京ひよ子)での二拠点体制で、全国を視野に入れて製造・販売を行っている。(ホームページ中の「ひよ子」の商品説明には、ハングルと英文での説明も書かれている)

今から40年以上前から東京に進出し、東京では、九州や福岡という地域名は出さず「名菓ひよ子」として販売されているので、世間の人々が「東京みやげ」と思うのもやむを得ないし、会社側の東京進出の狙いも、九州・福岡のローカルなお菓子として売ることではなく、全国を市場として見据えたマーケティング戦略の中で、製造・販売拠点を東京に持つということにあったに違いない。そうだとしたら、会社側の戦略は成功したと言えるだろう。
しかし、地元福岡で慣れ親しんだ自分としては、「ひよ子」がローカル色を失い、東京のお菓子として認知されていくことには、一抹の寂しさと抵抗感がある。

高度成長時代には、ローカル色を消し、無国籍化して東京進出することでより大きな成長を勝ち得たことは間違いないが、これからの人口減少・低成長時代の生き残り策として、ひよ子の経営者たちがどのような選択をするのか、興味のあるところである。

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2011年4月23日 (土)

ズボンプレッサーを買う

会社勤めのサラリーマンにとって、背広のズボンの折り目がキチンとしているかどうかは、けっこう気になるものだ。

若い頃は自分でアイロンをかけていたが、ある時、旅先で止まったホテルにズボンプレッサーが置いてあった。毎朝、アイロンをかける手間を考えれば、投資をする価値はあるかも知れないと考えるようになった。

しかし、だからと言って、家電販売店まで探しに行くわけでもなかった。当時、東京の大塚に住んでいて、何かの用事で、普段は使っていなかった地下鉄の新大塚駅から出かけたことがあった。新大塚の駅のそばに古道具屋があり、中古のズボンプレッサーがなんと1000円で売られていた。ホテルで見かけたのは、縦型で自立するものだったが、店先に並んでいたのは、横置きのもの。本当は縦型がいいけどな~と思いつつも、3人の子育て中のサラリーマンには「1000円」は魅力だった。

帰りがけにまだ、売れずに残っていたら買おうと思い、出先から戻ってみるとまだ売れていなかったので、1000円札一枚を払って購入。結構、使い込まれていて古びてはいたが、壊れたところもなく、日常の使用には何の不都合もなかった。1年使えれば十分見合うと思っていたが、その後単身赴任した札幌でもよく働いてくれた。結局、買ってから10年ぐらいは働いてくれ、期待以上の働きだった。しかし、1年ほど前だったか、プレスのために上下の板を固定する留め具が壊れて、キチンと折り目がつかなくなり、とうとう役に立たなくなってしまった。

すぐ後継機を買おうと思ったが、家電店やネット通販で探しても、これといったものが見つからず、結局買わずじまいで、気になる時はアイロンをかけるという生活をしばらく続けていた。

先週、ちょっとしたきっかけで、ひさしぶりに調べてみると、東芝の製品で横置き型がアマゾンで6000円台で売られているのを見つけた。購入者の評判も悪くないので、すぐさま注文。この週末に届いた。
この3月から勤務を始めた新しい職場も、背広は必需品。また、しばらくズボンプレッサーの世話になる日々が続くことになる。

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2011年1月 4日 (火)

2011年の年初に、2010年を振り返る

少し遅くなったが、2010年を振り返ってみようと思う。波乱のうちの幕をあけた1年だったが、春以降は、特に事件もなく終った1年だったように思う。

波乱は、田舎で一人暮らしをする私の母である。2008年の暮れから、この母に振り回されてきた。2008年12月の暮れに、足が痛くで動けな妻のところに電話があり、とりあえず、妻がすぐ帰省。私も追っかけで帰省し、結局、とても一人で暮らせる状況ではなかったので、東京の私の家まで連れて来て、約4ヵ月半の同居生活。典型的な高血圧だった。2009年のGW明けに本人も希望したので帰省。ヘルパーや弁当の配達を手配し、何とか一人でも暮らせる体制を整えた。ほっと、一息と思ったのもつかの間。
2009年の暮れには、その一人暮らしの母が、救急車で病院に運ばれたと連絡があった。あとで話を聞くと、一瞬、気分が悪くなったので、救急車を自分で呼んだということらしかった。幸い、大事には至らず、検査入院を兼ねて年末年始を病院で過ごし、退院。しかし、放っておくわけにもいかず、成人の日を挟んだ連休で帰省。
母が散らかした部屋の掃除をして、近くの病院やご近所に挨拶をして戻ってきた。

実は、2010年は次女の大学受験と長男の高校受験の年。もうすぐ、入学試験という年末年始に母の入院だった。幸い、次女は第二志望の補欠合格、長男は第一志望の都立に合格と結果オーライだったが、受験間近のトラブルに気をもまずにはいられなかった。

2人の子の受験が終ったあとは、それまでのドタバタが嘘のように、落ち着いた日常生活に戻った。

夏には、私の父の23回忌があり、家族全員で帰省。私の母は、今や全く掃除をしたり、片付けることが出来ず、年始の帰省の際に、掃除をしたにもかかわらず、家の中で再び掃除が必要な状態に。いつもは、私と妻だけで掃除をするが、この時は3人の子どもも動員して大掃除。

秋になって、私は天命を知るはずの50歳を迎えた。半年に1回、同窓会で顔を合わせる高校の同級生たちの多くが、50歳の節目を区切りとするように、新しいチャレンジに踏み出していったが、私自身は、まだ、自分の次のステージを見つけることはないまま、終えた2010年だった。

あえて言えば、現在の仕事の中での新たな課題として、「国際会計基準(IFRS)」が本格的に登場したので、それについて勉強を始めた事ぐらいだ。

嵐の後の、奇妙な静けさで終えた1年だった。

昨日(2011年1月3日)、家の近くの小さな神社に初詣に行き、おみくじを引いたが、なんと「末吉」だった。しかし、書いてあることは、必ずしも悪くはなくて「この人は雪にかがみし竹が春、雪とけてものごと立ち直るがごとく、一時はいろいろの苦労ありたれど、春にもなれば運が開いて立身すべし」とある。

いい春が迎えられるよう、1月、2月は目の前の課題をひとつひとつ解決していいくことに専念することにしよう。

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2011年1月 3日 (月)

2011年の初夢はラグビーでトライする夢だった

2011年を迎えて1月2日の夜から3日の明け方にかけて、初夢を見た。おぼろげに覚えているのはラグビーをしていたことだ。
密集から抜け出して、相手ゴールにボールを持ち込み、倒れ込んでトライ。審判がすぐにはトライを認定してくれず、再度ダウンボールをしてアピールし、トライが認められた。
そんな夢だった。トライが認められたところで、目が覚めた。

なぜ、ラグビーの夢なのか。1月2日は全国大学ラグビーの準決勝があるが、昨日はそのTV中継を見たわけではない。最近見たのは、昨年末の関東大学ラグビーで慶応が早稲田に10年ぶり勝った試合だけだ。
高校、大学とラグビー部に籍を置いたこともない。中学から大学まで陸上部に在籍し、短距離とハードルが専門だった。自分にとって唯一のラグビー経験が高校での体育の授業と球技大会(クラスマッチ)である。私のいた高校は比較的ラグビーが盛んで、一度だけだが、花園での全国高校ラグビーに出場したこともある。
それもあってか、高校2年の下期の体育の授業で、ラグビーを教えられた。その、結果を試すのが、秋に行われる球技大会。クラス対抗なので「クラスマッチ」と呼ばれていた。2年の秋の大会の男子の種目はラグビーだった。男子クラスだった我がクラスからは2チーム出場。私は陸上部で短距離を走っていたこともあり、走力を期待され、左ウィングのポジションを与えられた。私のクラスには、その時のラグビー部のキャプテンがいて、私のチームは彼が中心だった。

しかし、いくらラグビー部のキャプテンがいるとはいえ、他のメンバーはほとんど素人。正直なところ、攻撃の際に、きれいにラインができて、スタンドオフ、センター、ウィングへのボールが回ることなど、まれである。だから、試合中、私のところまで、ボールが回ってくることはほとんどなかった。

ところが、球技大会の1回戦でそのまれなことが起きた。相手ゴール前で、右サイドでスクラムが組まれ、左サイドに展開したラインにボールが回った。私の手前の左センターの選手がボールをノッコン(前に落とす)したように見えた。しかし、審判からは見えなかったのか、笛はならず、落としたボールがうまくバウンドして懐に入ったセンターから私にパスが回ってきた。パスを受けた時は、既に、ラインの末端で走ってきていて加速もついており、ゴールラインは目前だった。
タックルを仕掛ける敵を華麗なステップでかわしながら走るのは得意ではないが、ゴールに向けて真っ直ぐ走るのは陸上部の得意とするところ。無我夢中で、ゴールラインを目指し、ボールを抱えて倒れ込んだ。「トライ」の笛がなった。放心状態の私は、次のゴールキックのため、トライしたボールを持って帰ってくることなどすっかり忘れ、「おい、ボール」とキャプテンに言われて我に返った。
1回戦は、このトライだけが得点で4対0で勝利。そこから、あれよあれよと勝ち進み、決勝まで勝ち残った。決勝は引き分けで、両チーム優勝となった。

その後の試合で、私のところに再びトライできるようなボールが回ってくることはなかったが、素人の球技大会での疑惑?のトライとはいえ、人生最初の(そしておそらく最後の)トライの何とも言い難い感触は忘れることはない。

ラグビーで「トライ」をすること、それはまさにひとつの目標を達成することである。「トライ」が成功するためには、トライを決めた選手だけでなく、そこまでボールを繋いだ多くの選手の的確な状況判断とパスがあってのものである。
50歳で迎えた、2011年の新年に「トライ」をする初夢を見たというのは、40代の「中年クライシス」の中で、もがき苦しみながら続けてきたことに、多くの人のサポートもあって、ひとつの結果が出るといことだろうか?
「初夢」が「正夢」になるように、結果を出す1年にしたいものだ。

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2011年1月 1日 (土)

2011年も新年の富士が見えた、新年あけましておめでとうございます

なんとなく風邪がぬけきれないまま、あっという間に2010年の12月の下旬が過ぎ去り、2011年を迎えた。
昨日、2010年の大晦日は、いったい2010年の1年間このブログでどんな記事を書いたか、読み返していたが、1年前の元日の記事は、朝の我が家の2階から撮った富士山の写真と年賀状だった。

2010年1月1日の記事:「2010年、新年の富士山、あけましておめでとうございます」

今朝、目が覚めて、今年はどうだろうと2階のベランダに出てみると、朝のひんやりとした空気の中、西の方に、小さく雪をかぶった富士山の姿がくっきりと見えた。急いで、1階に戻りカメラバックを持ってくる。今年は、一眼レフデジカメ(ペンタックスK-x)である。標準レンズを望遠レンズに取り替えて、富士山に向けた。
富士山の手前には、電線や、テレビのアンテナなどもあり、それらにピントがあってしまい、遠方の富士にピントを合わせるのが難しい。数枚、撮影したうち、富士山にピントがあったと思われるものは2枚だった。

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今回は50歳で迎える新年。この富士の姿のように、これからの50代の十年の土台となるようなどっしりと地に足の着いた年にしたいものだ。

あけましておめでとうございます。

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2010年5月26日 (水)

50歳の転身、同級生たちの選択

8年前から年に2回ほど、高校の同窓会をしている。約450名の同学年の卒業生の中で、東京近郊に住んでいるメンバーが集まる。毎回だいたい10名以上20名以下の範囲の参加者である。
この2年ほどだろうか、参加者の中で、新たな進路を選択する仲間が増えてきた。1960年生まれの我々の学年は、ちょうど今年2010年に50歳を迎える。孔子は「五十にして天命を知る」といっているが、あるいは、その「50」という数字が何かのきっかけになるのだろうか。

最初に見事な転身を遂げたのは、女性のAさんだった。2年ほど前だったろうか、日本と中国の間を結ぶ仕事で活躍していた彼女は、10年ほど勤めた日本の企業を思い切って退職し、ライバルの中国企業に転職した。以前も日中を往復していたが、今では1年の半分を中国で働いているのではないだろうか。東京での同窓会の立ち上げ時からの主要メンバーであったAさんだったが、その後はなかなかスケジュールがあわず、同窓会には出る機会がめっきり減ってしまった。

男性メンバーの転機は、転勤である。同窓会の立ち上げから数年たって常連メンバーで参加してくれていた、B君、C君が昨年、今年と相次いで海外勤務となった。B君が韓国、C君がインドである。ともに、単身赴任。C君は自ら希望しての海外勤務である。

また、今年になって文芸の世界で活躍していた女性のDさんが、長年住み慣れた千葉から沖縄へ転居した。その世界では、いくつかの賞もとり、新人から中堅へとステップアップしていると思うが、さらに、自らの創作の完成度を高めるために、新しい環境を求めたという面もあるのではないだろうか。

つい最近では、東京での同窓会の立ち上げ時からの中心メンバーだったE君も、50歳を機に転職を決めた。以前の職場の後輩が立ち上げた会社に誘われていたという。

我々は、地方の公立高校の出身だが、地元では、女性のFさんが国政に挑戦する準備を進めているいう。これも、大きな決断だ。

私のこのブログ「栄枯盛衰・前途洋洋」のテーマは「中年の危機=中年クライシス」だった。40代にさしかかり、必ずしも自分が若い頃思い描いた自分になれているとはいえない現実、しかし職場、家庭で責任だけは重くなり、降りかかる数々の難問。さらに、加えて、我々の40代と重なる「ゼロ年代」は、1990年代から続く不況が長引き、「失われた10年」と言われていたのが、時に「失われた15年」とも言われるようになっていた。
その中で、2002年11月に数人の同級生が集まったことがきっかけで、東京地区の同窓会が始まった。当時は皆42歳。私自身は、まさに「中年の危機」まっただ中であった。同級生たちが、それぞれの仕事場、家庭で何とか生き抜いている姿に、勇気づけられたように思う。今から思えば、その同窓会での絆が、「中年の危機」に翻弄され、つまずいてしまうことから救ってくれたのではないかと思う。

それぞれが同窓会の場で何かを感じ、何かを得て、今年いよいよ50歳を迎える。もう、「中年の危機」の時代は終わり、社会人として引退を余儀なくされるまでのあと10年から15年ほどをどう生きるか考え、次の道の選択を始めたということなのだと思う。それぞれが、新たな選択を始めた50代となって、同窓会が今までのような形で続くのか、あるいは少し変わっていくのか、それはまだよくわからない。しかし、「中年の危機」を乗り越えるための安全弁のような役割はもう終わったのだと思う。

同級生たちが、次々と転身していく中で、さて、自分はどうするのか?これからの10年の生き方を本気で考え、選択していかなくてはならない。

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2010年1月 1日 (金)

2010年、新年の富士山、あけましておめでとうございます

2010年の元旦、東京は快晴。雲ひとつない青空で朝を迎えた。こんな日は、もしかして…見えるかもしれないと、2階のベランダに上がってみると南西の方角に、雪化粧をした富士山の姿が見えた。
「こいつは春から縁起がいい」とさっそく写真を撮ってみた。

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あけましておめでとうございます。

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2009年8月13日 (木)

「ふみの日」の切手の題材が「百人一首」だった

今日、たまたま家の近くの郵便局に立ち寄ったら、最近発行された記念切手や特殊切手が並んでいる中に、7月23日に発行された「ふみの日」の切手があった。この間、競技かるたをテーマにした漫画「ちはやふる」について書いたが、今年の「ふみの日」の切手は百人一首が題材だった。百首の中から五首を選び、江戸時代の金色の光琳かるたのデザインを基に切手化し、はがき用の50円切手と封書用の80円切手が作られていた。

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7月23日は、文月(ふみつき)の23(ふみ)の日ということで、昭和54年(1979年)に旧郵政省は手紙離れに歯止めをかけようと考えたのか、「ふみの日」の機会の手紙を書くように毎年キャンペーンを始めた。そして毎年、ふみの日時点のはがき料金と封書料金の「ふみの日」切手を発行してきた。

小学生時代に切手収集を趣味にし、手紙を書くことも嫌いではなかった私は、趣味としての切手収集をやめたあとも、手紙を出すときは、いつでもどこでも手に入る味気ない普通切手よりも、少し大きめでデザインも凝っている記念切手を貼るようにしていた。「ふみの日」の切手のデザインも毎年気をつけてみていたが、この10年ほどは、電子メール中心の世の中になって、年賀状と懸賞応募以外、手紙やはがきを書くことがほとんどなくなってしまったこと、旧郵政省・総務省、郵政公社、郵便事業会社との変革の中で、切手作りのスタンスも切手という媒体を通じて日本の文化や自然を紹介するといった方向から、売れれば何でもいいと方向へ変化したように思え、あまり切手に関心もなくなっていた。

そんな中で、郵便局で見た「百人一首」をテーマにした「ふみの日」の切手は、「ちはやふる」を読んだあとでもあり、妙に新鮮な感じがした。

よく調べると、「ふみの日」の切手で「百人一首」を取り上げたのは、2006年からで今年で4年目になるようだ。毎年、春・夏・秋・冬・恋の5首をを取り上げ切手にするということのようだが、「源氏物語1000年」の昨年は源氏物語にちなむ5人の歌を取り上げたとのこと。

郵政公社・郵便事業会社もなかなか気の利いたことをすると思ったが、とはいえ、この「ふみの日」の切手を見て、手紙を書こうという人が増えるかと言えば、それのは難しいだろう。単純計算すれば、毎年5首ずつ切手にしても、20年間「百人一首」で「ふみの日」の切手を出し続けることができることのなるが、「ふみの日」の企画そのものが2025年まで続くかどうかは別問題かもしれない。

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2009年6月25日 (木)

お酒に弱くなった

このところ、飲み会が続いた。

先週金曜日(6月19日)が、昔出向していた官庁の当時の課長を囲む会。20年以上前の仲間が集まり、昔話に花が咲く。この時は、ビールに加えて、冷酒。日本酒の冷酒は効く。翌日の土曜日は一日、頭がボーッとしていた。

昨日(6月24日)は、高校時代の同級生数名で集まる。近々、東京地区の同窓会支部の総会があり、我々の代の出欠状況の確認。1年上が16名、1年下が30名以上という出席予定に対し、我が学年は10名に満たないとのことで、私も、勧誘の手伝いをすることに。親しいメンバーだったこと、ちょうど、朝の激しい雨が一転午後から晴れて蒸し暑くなり、ビールがおいしく感じられたこと、おまけに途中で将棋の名人戦で応援する郷田九段が早々に投了して羽生名人の防衛が決まったことがわかりやけ酒の混じり、ビール・酎ハイと杯が進む。
今日は、職場で朝からやはり朝から体調が今ひとつ。なんとか、一日の仕事を終える。

しかし、スケジュールのいたずらで、今日も飲み会。各界の諸先輩との勉強会で、昨日ほど深酒はせず、ビールだけに、勧められた焼酎のお湯割りはお断りし、途中からはウーロン茶と多少コントロールしたが、さてどうだろうか。

50代が目前になり、明らかにお酒には弱くなった。「楽しいお酒も、ほどほどにしておかないと」と自戒した1週間だった。

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