2023年2月24日 (金)

西野智彦著『ドキュメント通貨失政』(岩波書店、2022年)を読み終わる

本書は、今を遡ること50年以上前になり1971年に起きた、国際政治・国際金融上の大事件である米国による金・ドル交換停止、いわゆるニクソン・ショックに当時の日本の内閣を担った政治家と大蔵省、日本銀行という当時の日本のベスト&ブライテストであったはずの官僚たちが、どう対応したかを当事者たちの発言や執筆等から丹念にたどったドキュメントだ。

 

 当時、私はまだ小学生だったが、父がマスコミ関係の仕事をしていたこともあって、年齢にしてはテレビのニュースを見ていたと思う。ニュースの画面で、夏にさなか、米国のニクソン大統領が会見をする映像が、妙に印象に残っている。その2年後には、第4次中東戦争を契機に石油価格が急騰するオイル・ショックに襲われ、日本は狂乱物価と呼ばれる記録的なインフレに見舞われた。その後始末のために登場した福田赳夫首相の総需要抑制策により、テレビ局は深夜放送の停止を余儀なくされ、夜の街のネオンは消えた。景気は低迷し、長らく続いてきた日本の高度経済成長が終わりを迎え、安定成長へと切り替わる画期だった。
 ニクソン・ショックからオイル・ショック、狂乱物価と短い期間に時代が激しく変動する中、切れ切れに印象的な記憶はあるが、その背景で経済・金融の世界で何が起きていたかは、自分自身十分整理できていなかった。最終的に為替相場は、現在では当たり前になっている変動相場制へ移行するが、その際も、日本の官僚組織は、環境の激動に対してなすすべがなくなり、投げ出すように変動相場へ移行せざるを得なかったのだろうと、勝手に思っていた。
 その後、社会人として経験したプラザ合意後の急速な円高、バブル経済と比べると、本質的なところが、理解できていなかった。
 
 ドル・ショックの背景にあったのは、1ドル=360円という固定相場の下での、日本の貿易黒字の拡大である。その大部分は対米黒字であり、一方の米国では、日本に対して多額の貿易赤字を抱えることについての問題意識が高まっていた。欧州各国の見方もほぼ同様で、日本が独自に円切り上げを行えば、問題は改善に向かったかも知れないが、そのちょっと前までは、貿易黒字と貿易赤字を繰り返し、貿易赤字になれば金利の引き上げて、1ドル=360円の水準を維持しようと汲々としていた日本では、自ら円を切り上げるという発想はなく、1ドル=360円が至上命題であり、官僚だけの力で動かすことはできない政治家マターの聖域でもあった。
 ドル売りが続き、為替レートが円高に進むことを阻止するため、国は今でいう為替介入を行いドルを買い支えた。結果的に、ドル買い支えのため使われた円資金は市中に流出し、過剰流動性となった。高度経済成長期を通じ、企業の旺盛な資金需要に対応するため、都市銀行は自ら集めた預金より貸出金が大きく上回るオーバー・ローン状態が長く続いたが、1ドル=360円防衛のための過剰流動性の結果、都市銀行のオーバー・ローンが解消されたと著者は書いている。これまで、都銀のオーバー・ローンは、経済成長で内部留保を充実させ、それが銀行預金に回るとともに、同時に借入需要が減ったことで、解消されたのだろうと漠然と理解していたが、このように明確に説明した資料は、読んだことがなかったので、永年の謎がようやく解き明かされた。
 これも巨視的に見れば、輸出で日本企業が競争力をつけ、外貨(ドル)を稼ぎ、その稼いだドルが、当時の実勢レートよりも割高な1ドル=360円で国が買ったことが、日本の企業への実質的な補助金となり、日本企業が内部留保を充実させ、それが預金として銀行に環流していき、オーバー・ローンが解消されたと考えれば辻褄はあう。

 過剰流動性の発生は、当時としては、異例の金融緩和でもあり、オイル・ショック前から物価上昇の兆しはあり、日本銀行は小刻みな金利(公定歩合)引き上げ等で、インフレが行き過ぎないようにブレーキをかける必要があったが、政治家や大蔵省の抵抗にあって進まない。
 また、官僚たちは当時の外国為替管理制度に妙な自信をもっており、為替相場の変動を管理できると考えていた。
 過剰流動性を十分に吸収できないうちに、オイル・ショックを迎え、過剰流動性に石油価格の上昇が加わったことで物価上昇には手がつけられなくなり、金利引き上げだけでは、抑えられなくなってしまった。
 
 『通貨失政』というタイトルは、ドル・ショックに始まったつまずきへの対応が、後手後手に回ったことが、狂乱物価という危機を招いたことを示している。
 当時の日本の政治家や官僚が、日本経済の力を過小評価し1ドル=360円の死守を至上命題としたことによる現状認識の誤りから全ては始まっている。また、当時の規制金利の体系は、公定歩合と預金金利、郵貯金利が連動していないなど金融政策の効果を減殺するようなメカニズムとなっていた。また、国家による為替管理制度への過信もあだとなった。
 
 これまでに起きたことがないような想定外の変化には、誰しも弱い。あれから50年余、リーマン・ショックの回復途上にコロナ禍に見舞われ、日本銀行は異次元緩和とも呼ばれる、大規模金融緩和を継続し、そのさなかにロシアがウクライナに戦争を仕掛け、エネルギ-価格や食料価格が上昇し、輸入物価の上昇に押され、円安も加わって、国内物価の上昇を始めた。
 変動相場制が行き渡る現在は、50年前とは違うが、符合する点も多い。これから何が起きるのか、脳内シュミュレーションをするためにも、読むべき本だと思う。

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2023年2月18日 (土)

三宅香帆著『それを読むたび思い出す』(青土社、2022年)を読み終わる

 著者は『人生を狂わす名著50』(ライツ社、2017年)でデビューした。
 その夏、2泊3日の京都旅行をしていた私は、建仁寺を出て当てもなく歩いていた。しばらく行くと、古民家カフェがあり、入ると入り口には本も置いてあった。天狼院という名のその書店の店長が書いた本として並べられていたのが『人生を狂わす名著50』だった。著者の経歴を見ると、現役大学生とある。取り上げられていた本の中で、読んだことがあるアガサ・クリスティの『春にして君を離れ』のところを読むと、なかなか面白かったので、その場で買った。本好きの友人にも勧めた。
 翌年夏に京都を旅行した際にも、著者はどんな人物だろうと天狼院書店を訪ねてみた。若い女性が店番をしていたので、本人かと思い確認すると、残念ながら別人だった。

 数年後、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版、2019年)を見かけたので、それも購入したが、その後、彼女の著書を見かけることもなく、また数年が過ぎた。

 今年に入り、行きつけの書店で『それを読むたび思い出す』を見つけ『人生を狂わす名著50』の著者であることを確認して、レジに向かった。
 今回の著作の内容は、高校生までを過ごした生まれ故郷の「高知」、学生時代を過ごした「京都」、そしてその間を通じ常に著者とともにあった「読書」の3つのテーマで書かれた20のエッセイとまえがき、あとがきから構成されている。平易な読みやすい文章だが、優しいことばの連なりの中に、さらりと鋭い切れ味を隠している。
 高知編では、自分にとっての故郷の風景は、高知にしかない桂浜や鰹のタタキではなく、大好きな本や漫画に出会わせてくれたブックオフなどの全国チェーンだと語る。プロトタイプの「地方にしかない素晴らしいもの」的発想に異を唱え、チェーン店は地方への文化の分配だとの一文に、思わずなるほどそうかも知れないと唸ってしまった。
 京都編では、冒頭に、バイト先で一緒に働いてた友人(男)が、充電器を借りに来る話がある。彼とのやりとりの中で、著者の人に対して怒ることに対する意識が変化する。この友人とのやりとりも絶妙だ。京都という街で様々な友人との出会いや学生として考えたことが語られる。読みながら、自分も、あの町で学生として過ごせたら、楽しかったろうなと思ってしまった。

 肩肘張らず気楽に読めるが、余韻の残る本だった。腕のいい脚本家がかかれば20のエッセイを題材に、松尾諭の『拾われた男』ようにドラマになるかもしれない。

 

 

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2021年5月22日 (土)

北条早雲(伊勢新九郎盛時)を描く『新九郎、奔る!』(ゆうきまさみ、小学館)

 主人公伊勢新九郎盛時は、後に小田原で戦国大名として名をなした北条早雲。足利八代将軍義政の時代に室町幕府政所の執事として権勢を誇った伊勢貞親の甥にあたり、父盛定は伊勢家の庶流だが、貞親の妹を妻とし、貞親の義弟となり、貞親の片腕として活躍する。その盛定の側室が生んだ次男が新九郎である。
 世継ぎの生まれない義政が僧職にあった弟義視を将軍の後継にと還俗をさせたが、その後、義政に長男が生まれ義視の立場が微妙になっている時期から物語は始まる。
 将軍義政の側近として権力を振るう伊勢貞親は権謀術数にたけるが、行き過ぎて自らの地位を危うくすることもある。義兄と行動を共にする新九郎の父盛定も、それに巻き込まれざるを得ない。そのような京都で山名宗全と細川勝元のそれぞれの旗頭にした応仁の乱が始まる。盛定が申次を務める駿河守護今川義忠の上洛では、姉の伊都が見初められ、その後、今川義忠に輿入れする。

 ストーリーの大枠は近年の研究に基づいているが、新九郎が山名宗全や細川勝元とも関わる場面が作られる。まだ若い新九郎が父盛定の名代として、領地である備中国荏原に赴き、領地の経営にもあたる。荏原郷を東西で二分して治める同族との確執もある中、地元の様々な課題と取り組む。また、現代の世相を反映するように、京都で天然痘や麻疹の流行、備中では水害に見舞われる苦労することも描かれる。
 現在、刊行済の全7巻では、領地経営に取り組む新九郎の姿までだが、今後、成長とともに姉の嫁ぎ先である駿河今川家とどのように関わり、伊豆そして、相模へのどう展開していくか楽しみだ。
 一般向けに書かれたとはいえ、前回紹介した『戦乱と政変の室町時代』、『応仁の乱』『享徳の乱』などで活字を追うだけでは、すんなり頭に入らなかった三管領四職の各家の家督争いの人間関係などが、漫画の中で特徴を持ったキャラクターとして描かれるとイメージしやすくなる。
 この漫画をみつつ、作者ゆうきまさみが「『新九郎、奔る!』の第一歩は、この本を手にとった瞬間に始まりました」と帯に推薦文を書いている『戦国北条五代』(黒田基機著、星海社新書)を読んでいる。
  

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2021年5月16日 (日)

『戦乱と政変の室町時代』(渡邊大門編、柏書房)を読み終わる

日本史好きだが、室町時代はどうしてもなじみが薄い。高校の日本史の教科書で、政治だけ追いかけていくと鎌倉時代末から南北朝の後醍醐天皇と足利尊氏の争い。南北朝の統一を成し遂げ盤石の室町幕府を作り上げたようなに見える足利義満の時代は、明との勘合貿易そして金閣寺の印象ばかり残る。その後、くじ引きで将軍になった義教は嘉吉の乱で赤松氏に殺害され、将軍の権威は一気に失墜したと思う。その後、義政は政治に関心をなくしたように見え、応仁の乱が始まるが、なぜ、天皇も、将軍もいる政治の中心京都で町中を戦火に巻き込む応仁の乱が起きて、あれほど長く続いたのかも納得できる説明はない。戦国時代に入ると、足利将軍は織田信長に顔色をうかがう存在になってしまう。
本当に、義満の権力は盤石だったのか、将軍の義教がなぜ部下の武将に殺されなければならないのか、前後のつながりや歴史がそのように動いた必然性がよくわからないまま進んでいく。むしろ室町時代は金閣寺や銀閣寺、連歌などの文化、土倉などの経済面の記述の印象が強い。

そのような学校での歴史教育のわからなさもあってだろう、しばらく前には呉座勇一の『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになり話題になった。私自身は、応仁の乱の少し前に関東で始まった享徳の乱を取り上げ峰岸純夫の『享徳の乱 中世東国の三戦争戦争』(講談社現代選書メチエ)が室町期の関東で何が起きていたのか、知識の空白を埋めてくれた気がした。しかし、それでも、まだ室町時代全体は繋がらなかった。思えば、足利尊氏、直義の兄弟が争う「観応の擾乱」から始まり、一族内の複雑な利害関係が絡む室町時代だからこそ、それぞれの乱、政変がなぜ起き、どう決着したのか?それで乱や政変の首謀者に正義はあり、敗者の敗北はやむを得なかったのか?そのあたりの説明がないとなかなか納得できない。

この『戦乱と政変の室町時代』は、鎌倉末、南北朝、室町初期と続く「観応の擾乱」から始まり、「明徳の乱」「応永の乱」「上杉禅秀の乱」「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「禁闕の変」「享徳の乱」「長禄の変」「応仁・文明の乱」「明応の政変」と12の乱、政変を取り上げ12人の歴史学者がそれぞれの事件を綴る。高校の日本史の教科書では、脚注で終わってしまっているような、あるいは脚注にも取り上げられていないようなものあるが、多くの乱、政変は、それ以前の乱や政変に必ずしも正義はなく、首謀者の権力欲や私怨で起き、敗者の側も納得していないので残党が新たな戦いを起こったりしている。

室町幕府は、足利将軍が君臨するが管領をつとめる細川、斯波、畠山の三管領、侍所の長官をつとめる赤松、一色、山名、京極の四職などの各家が守護大名として各国を治めるが、将軍は常にどこかの一族が強大な勢力になるのを避けるため、常に各家の家督争いなどにつけこみ、陰に陽にどちらかの肩をもち、もう一方の力をそぐ。さらに、将軍家の分家で関東に駐在する将軍の名代である鎌倉公方とも時間の経過とともに、反目し、関東管領(上杉家)に鎌倉公方の監視の役目も負わせ、肩入れする。関東は、鎌倉公方と関東管領が利根川を挟み、東西に分かれて対峙する。鎌倉公方が、鎌倉から古河(こが)に移り古河公方と呼ばれるのも、鎌倉が管領側の支配地域となり帰還できなかったことも大きい。鎌倉公方が幕府と反目し、古河に移る中、京都側が伊豆に堀越(ほりごえ)公方を据えるのも、本来の鎌倉公方は堀越公方と言わんがためであろう。

呉座勇一の『応仁の乱』で、当時の政治情勢が複雑に入り組み、簡単に理解しようとすること自体が無理な話であることがなんとなくわかり、峰岸純夫の『享徳の乱』で、教科書にほとんど書かれない室町時代の関東でも、鎌倉公方を頂点とする主従関係の中で、有力な家でも主従の争いなど様々な興亡があり、その最後を締めくくるように登場するのが後北条氏である。室町将軍の側近だった伊勢家の出身といわれる伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)。鎌倉時代に将軍を支える執権だった北条氏にあやかるべく、二代目北条氏綱の時に北条を名乗ったということらしい。
その二冊を読んでもまだ細切れだった室町時代の政治の流れが本書を読んで、大きな流れはつかめた気がする。

室町時代をもう少し理解したいと思う、歴史ファンにはお勧めの1冊だと思う。

 

 

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2015年3月 1日 (日)

小野不由美著『十二国記』シリーズ (新潮文庫版)を読み終わる

『十二国記』というタイトルは以前から気になっていた。講談社文庫を読んでみようかと思っていながら、なんとなく手に取らないまま過ぎていた。
2012年7月に新潮文庫からエピソード0として『魔性の子』、エピソード1『月の影 影の海』(上下巻)の3冊がまとめて出版された機会に、すぐ買って、引きこまれるようにすぐ読み終わった。
その後は、2ヵ月サイクルで『風の海 迷宮の岸』(エピソード2)、『東の海神 西の滄海』(エピソード3)、『風の万里 黎明の空』(エピソード4、上下巻)、『丕緒の鳥』(エピソード5、短編集)、『図南の翼』(エピソード6)、『黄昏の岸 暁の天』(エピソード7)、『華胥の幽夢』(短編集、エピソード8)が発刊された。
新刊が出るたびに買い求めていたが、エピソード2の『風の海 迷宮の岸』購入後、読み出したが、最初のところで躓いてそのまま読まずに新刊だけがたまっていた。

先月の月初、風邪で体調を崩して仕事を一日休んだ時に、病院で薬をもらったあとは、家で安静にしてるだけなので、この際、積読本がたまっている『十二国記』を読もうと、躓いたエピソード2の『風の海 迷宮の岸』に再び挑戦。改めて読み始めると、一気に進み、二日で読み終わった。その後も、『東の海神 西の滄海』(エピソード3)、『風の万里 黎明の空』(エピソード4、上下巻)、『図南の翼』(エピソード6)、『黄昏の岸 暁の天』(エピソード7)とメインストリーをまず読み、短編集の『華胥の幽夢』(エピソード8)、『丕緒の鳥』(エピソード5)の順で、ほぼ一日1冊のペースで一気に読み終えた。

十二国記は、ハイ・ファンタジーあるいは異世界ファンタジーと呼ばれるジャンルで、作者が独自に作り上げた世界の中で、物語が進行する。その点では「ゲド戦記」や「守り人・旅人」シリーズ(上橋菜穂子)に近い。
純粋なハイ・ファンタジー(異世界ファンタジー)と異なるのは、十二国の世界と蓬莱と呼ばれる日本が繋がる時があり、本来、十二国の世界で生まれるべき命が、日本で生まれ、十二国の世界に戻るという話もいくつかある。現実世界から異世界に行くという点は「ナルニア国」シリーズにも通じるところもあるが、ナルニアの場合、現実から異世界に行き、異世界で活躍したあと、現実世界に戻ってくる往還記であるが、十二国記の場合、むしろ本来十二国で生まれるべき存在が蓬莱(日本)に流されて生まれ、十二国記に戻るという構造だ。

十二国記では、その名の通り、十二の国から成り立つ世界が描かれる。十二の国は、慶、奏、範、柳、雁、恭、才、巧、戴、舜、芳、漣。それぞれの国に王と王を選び補佐する麒麟がおり、各国も王と麒麟を軸にした物語だ。

エピソード0の『魔性の子』は、講談社で出された十二国記のシリーズに先だって新潮社から出されていた現代ホラー小説で、それだけで独立しても十分読めるが、読み進むと十二国のうちの戴国に関わる物語であることが、明らかになってくる。

魔性の子―十二国記 (新潮文庫 お 37-51 十二国記)

魔性の子―十二国記 (新潮文庫)

エピソード1『月の影 影の海』は、慶国に関わる物語。雁国王と麒麟も登場する。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈下〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈下〉―十二国記 (新潮文庫)

エピソード2『風の海 迷宮の岸』は、再び戴国に関わる物語。慶国の麒麟も登場する。

風の海迷宮の岸―十二国記 (新潮文庫 お 37-54 十二国記)

風の海迷宮の岸―十二国記 (新潮文庫)

エピソード3『東の海神 西の滄海』は、雁国の現国王と麒麟の国作りの話。

東の海神(わだつみ) 西の滄海―十二国記 (新潮文庫)

東の海神(わだつみ) 西の滄海―十二国記 (新潮文庫)

エピソード4『風の万里 黎明の空』は、『月の影 影の海』の後の慶国の話。再び、雁国王と麒麟も登場。芳国、才国の話も登場する。

風の万里 黎明の空〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

風の万里 黎明の空〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

風の万里 黎明の空〈下〉―十二国記 (新潮文庫)

風の万里 黎明の空〈下〉―十二国記 (新潮文庫)

エピソード6『図南の翼』は、これまでのシリーズとはあまり関わりのなかった恭で国王が選ばれる時のエピソードだ。

図南の翼 十二国記 (新潮文庫 お 37-59 十二国記)

図南の翼 十二国記 (新潮文庫)

エピソード7『黄昏の岸 暁の天』では、これまで別々の流れで語られてきた慶国と戴国が関わり合いになり、雁国王と雁国の麒麟も登場する。

黄昏の岸 暁の天 十二国記 (新潮文庫)

黄昏の岸 暁の天 十二国記 (新潮文庫)

古代中国の春秋戦国時代を彷彿とさせる国名や国の仕組みだが、十二国記では国と国は戦わない。いかに、それぞれの国の麒麟がどのような国王を選び、その国王が国をどうを治めるかがテーマだ。

シリーズ全体として見たときには、エピソード7『黄昏の岸 暁の天』は、物語が完結しておらず、この話の中で語られた謎のいくつかは解明されないままになっており、むしろ前編が終わったという印象だ。現在、作者が書き下ろしている新作長編が、エピソード8の解決編となるのはわからない。

詳しいことを書きすぎるとネタバレになってしまうので、詳しくは書かないが、ファンタジー好きな読者には、お勧めである。

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2014年9月21日 (日)

『赤毛のアン』を読み始める

NHKの朝ドラ『花子とアン』も、残すところあと1週間。話は、戦火の中、出版のあてもなく翻訳を続けた『赤毛のアン』の翻訳原稿が、いよいよ本となって出版される場面を迎える。

履歴書等で趣味欄があると、必ず「読書」と書いてきたが、『赤毛のアン』シリーズは、これまでとうとう読む機会のないまま来てしまった。
「フランバーズ屋敷」シリーズや、「ヒルクレストの娘たち」シリーズといった少女を主人公にした物語も読んできたので、女性が主人公だから読まないということではなかったが、新潮文庫のロングセラーで、いつでも読めると思ったからか、結局50歳過ぎるまで読まないままだった。アニメ化されたせいもあり、なんとなく子供むけという意識もあったのかもしれない。

赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ〈1〉 (新潮文庫)

赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ〈1〉 (新潮文庫)

いざ、読み出すと、なかなかおもしろい。まだ、アンが登場しない最初の導入部分こそ、やや冗長で退屈だったが、アンが話の中に登場すると、空想好きのアンの天真爛漫ぶりに触発され、周りの人々が少しずつ変わっていく。その様子もほほえましいし、アンの数々の失敗、しかしそれにめげずに、前向きに乗り越えて行こうとする姿には、力づけられる。
戦後の混乱期、先行不透明な中で、娯楽も少ない中、多くの人に受け入れられたに違いない。

改めて、『赤毛のアン』を読んでみるとドラマ『花子とアン』の中にも、『赤毛のアン』のエピソードが巧みに取り入れられていることがわかる。

10冊のシリーズをすべて読み通せるかどうかはわからないが、せめてアンが成人するくらいまでは読んでみようと思う。

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2011年10月16日 (日)

岩波少年文庫のランサム・サーガ4作目の『オオバンクラブ物語』(上)・(下)巻セットが10月の新刊で登場していた

ネット通販のアマゾンにログインするとお勧め図書として『オオバンクラブ物語』が掲示されてた。岩波少年文庫のランサム・サーガ3作目の『長い冬休み』の下巻をまだ読み終わらないうちに、4作目として『オオバンクラブ物語』(上)・(下)が、2011年の10月の新刊として登場していたのだ。

オオバンクラブ物語(上) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)
オオバンクラブ物語(上) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)

オオバンクラブ物語(下) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)
オオバンクラブ物語(下) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)

ランサム・サーガ(アーサー・ランサム全集)12作品の主人公は、ジョン、スーザン、ティティ、ロジャのウォーカー兄妹。そこに、ナンシィ、ペギィのブラケット姉妹が絡む。『長い冬休み』では、そのウォーカー兄妹、ブラケット姉妹の仲間として、ドロシアとディックのカラム姉弟が加わる。

『オオバンクラブ物語』は、、ウォーカー兄妹やブラケット姉妹は登場せず、ドロシアとディックの2人が春休みにノーフォークの湖沼地方を訪ねた際の物語だ。
以前のアーサー・ランサム全集の際には、『オオバンクラブの無法者』というタイトルだったが、今回、改訳・少年文庫化される際に、この話だけが、内容にそってタイトルが変更された。

『長い冬休み』でもそうだったが、細かいストーリーはまったく忘れていて愕然とする。小学生の時、読んだ記憶をたどると『オオバンクラブの無法者』(『オオバンクラブ物語』)はそれまで慣れ親しんだウォーカー兄妹が登場しない上、舞台もこれまでと違うノーフォークということで、読み始めではなかなか進まなかったが、途中から話に引きこまれ、一気に読み上げたという記憶がある。ノーフォークの湖沼地方は第9作となる『六人の探偵たち』でも舞台になった。
ランサム・サーガの中で、ドロシアとディックを主人公にしたスピンオフ作品とも言える。しかし、このノーフォーク・シリーズが加わったことで、全集を通した物語としての幅と広がりが出たと言えるだろう。

さっそく、アマゾンで注文した。『オオバンクラブ物語』の上下巻が届く前に、『長い冬休み』を読み上げなくては。

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2011年10月 9日 (日)

PHP新書『日本企業にいま大切なこと』(野中郁次郎・遠藤功著)で語られた「知の創造のために必要な相互主観性」に納得

先週の後半は、北海道への1泊2日の出張。帰りの便は、19時30分。仕事が予定より早く終ったので、早い便への予約変更ができるかもしれないと、すぐ千歳空港に向かったが、3連休前の金曜日の夜ということで、東京便を含め、道外へ向かう便はほとんどが満席。結局、予約便の時間まで千歳空港で時間をつぶすことになった。
では、本でも読むかと書店の棚を見て回っている時に目についたのがPHP新書の『日本企業にいま大切なこと』。東日本大震災後、日本の将来を憂いながらも、日本再生を唱えるビジネス本も多く出されているが、ほとんど読んでいない。今回、これを読んでみようと思ったのは、著者が野中郁次郎だったから。
太平洋戦争期の日本軍の組織決定の不合理を鋭く描いた共著『失敗の本質』を始め、端に理論だけなく、現場での実証を重視するアプローチにはビジネスマンのファンも多いと思う。特に、日本企業の暗黙知を重視する姿勢は、米国流の資本効率のみを重視する考え方とは一線を画す。

戸部 良一,寺本 義也,鎌田 伸一,杉之尾 孝生,村井 友秀,野中 郁次郎
中央公論社
発売日:1991-08

この本のベースは、2011年3月10日に発売されたPHP研究所の雑誌『Voice』2011年4月号での「日本企業の「総合力」が輝く時代」というタイトルでの 著者2人の対談のようだ。発売直後、東日本大震災が起きたことから、その後の政治・経済の動きも踏まえて、構成の見直し、加筆・修正が施され、2011年8月にPHP新書のラインアップに加わっている。
バブル経済崩壊後の「失われた20年」で日本企業が精彩を欠く中、その間、デフェクトスタンダードとしてもてはやされたきた米国流の資本効率重視の市場主義的アプローチも、リーマンショックで行き詰まった。日本企業、日本の組織が持っていたいつの時代にも通じる良さを思い起こし、見直そうという思いが、この本全体の底流をなしている。その思いに共感するサラリーマンが多かったのか、発売から1ヵ月余の2011年10月の月初の時点で、既に第4刷となっている。

野中郁次郎,遠藤功
PHP研究所
発売日:2011-08-12

私がこの本の中で、一番、参考になったのは、「知的創造には他者と共鳴しあう「場」が必要」との小見出しで野中郁次郎氏が語る「相互主観性」という言葉である。少し長くなるが、私が重要と思った部分を抜き出して紹介しておく。

「イノベーションには、よい「場」が必要です。(中略)
「知」とは、人が関係性のなかでつくる資源にほかなりません。同じ組織内の人間だけでなく、顧客や供給業者、競争業者、大学、政府といったプレーヤーたちとのやりとりのなかで、お互い異なる主観を共有し、それを客観化することで「綜合」していく社会的なプロセスによって創られます。ここでいう「綜合」とは、複数の事柄を一つにまとめるだけでなく、より高い次元で対立や矛盾を解決し、新天地に進むという意味合いです。
「場」はそうした社会的プロセスの基礎といえるでしょう。場に参加することによって、人は他者との関係性のなかで、個人の主観の限界を超越し、自分と異なる他者の視点や価値を理解し、共有する。そこで構築されるのが、「相互主観性」です。
共通の目的と異なる視点をもつ他者との対話によって相互主観性が生じなければ、知の創造は起きません。そして、そのような関係を築くには、相手の身体感覚を自分のものとして感じることで他者に共鳴できるような「心身一如(しんしんいちじょ)」の場が必要なのです。
(中略)全人的に向き合い、受け入れ合い、共感し合う。ほんとうに豊かな暗黙知、共振、共感、共鳴---そのようなところから、相互主観性は生み出される。それが行動の原動力になるのです。」
(『日本企業にいま大切なこと』141~142ページ)

今回、私がいたくこの2ページほどの文章に心を動かされたのは、私自身が現在の職場で新たな知的創造を求められており、漠然とではあるが同じようなことを考えていたからである。
ちょうど、私の今の職場自体が公(官)と民間のはざまに位置するようなポジションにあり、構成メンバーも様々である。さらにその職場の中で、官民の異なる経歴・経験をもつメンバーが揃うチームの中で、今までにない新たな評価の仕組みを創ることを求められている。
すでに、官には官の、民には民のそれぞれに、長い時間をかけて作り上げた評価の仕組みがある。官の立場に立つ人は官の仕組みで思考し、民の立場の人は民の仕組みで思考する。そこには深い溝がある。どちらかの立場にたって、自分たちの仕組みの正統性を主張する限り、互いに相容れることはない。
双方が納得する新たな仕組みを考え出すには、双方が相手の立場、相手の肌感覚を理解しすることが大前提となる(それこそが、相互主観性であろう)。その上で、双方の世界に通じる評価の仕組みを築けるか?「3年で形にしてくれ」というのが経営トップからのミッションである。
民間側にいる私としては、まず官の仕組みを理解しようとし、彼らの仕組みの根底にある制度の哲学をずっと考えながら、議論し調査してきた。常に、念頭にあったのは、彼らのやり方にもそれなりの必然性と合理性があってここまで来ているはずなので、彼らのやり方を尊重すべきは尊重し、決して頭ごなしに否定したりしないということだった。

ここでキーワードが「相互客観性」ではなく「相互主観性」となっている点に、私としては勇気づけられた思いである。ミッションで与えられた3年とい時間は、すでに半年が過ぎている。なんとか、残り2年半、相互主観性を念頭において、なんとかミッションを全うしたいと考えている。

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2011年7月 5日 (火)

有川浩の図書館戦争シリーズ第4作『図書館革命』読み、アニメ『図書館戦争』のDVDを見る、『阪急電車』も読了

私が最近、夢中になって読んでいるのは有川浩だが、6月下旬に彼女の代表作「図書館戦争シリーズ」の第4作『図書館革命』の文庫版(角川文庫)が発売された。

図書館革命 図書館戦争シリーズ4 (角川文庫)
図書館革命 図書館戦争シリーズ4 (角川文庫)

図書館を検閲から守るための図書隊に入隊した笠原郁と彼女の教官であり上司となった堂上篤の物語の4冊目。今回は、福井にある敦賀原発がテロ組織に襲撃されたというニュースが流れるというオープニングである。似たような小説を書いた作家当麻蔵人が危険人物として良化委員会からマークされ、拘束されれば執筆の自由を奪われることになるのは確実という状況の中、図書隊が表現の自由を守るため当麻の保護を任される。
どのようにすれば、検閲に対抗して作家当麻蔵人を守れるのか。図書隊の中で、議論がされるなか、郁が何気なく発した一言で、図書隊の方針が定まり、当麻の保護作戦が始まる。手に汗握る展開は、これまでの3作がいくつかのエピソードが集まった短編集的な仕立てであったのに対し、作家当麻を守るというテーマがエンディングまで一貫した長編小説仕立てになっている。
映像化するなら、3作までは週1回の連続ドラマ、第4作はドラマが好評だったので企画された2時間ほどのスペシャルドラマか、劇場版映画といったところだろうか。

原作を第4作まで読み終わったところで、実際に映像化され作品であるアニメの『図書館戦争』シリーズのDVDを家の近くのレンタルショップで借りて来て、全5巻・計12話(各30分)を見た。

基本的にはやはり原作の第3作までのエピソードを中心に作られていて、一部は割愛し、一部新たなエピソードが追加されているが、よく原作の雰囲気を表していると思う。
ひょっとすると、原作の文庫化で再び「図書館戦争」シリーズのブームが起きれば、第4作『図書館革命』の映像化もあるかもしれない。

3ヵ月ほど前、図書館戦争シリーズの『図書館戦争』『図書館内乱』と一緒に買いながら、まだ読んでいなかった『阪急電車』もようやく読み終わった。

阪急電車 (幻冬舎文庫)
阪急電車 (幻冬舎文庫)

阪急の今津線の各駅を乗り降りする人々の何人かに焦点を当て、丹念に人物を描いていく。そして、その人々がたまたまある電車に乗り合わせたということで、言葉を交わし、それが一人の人生を少し変えていく。その人の出会いの機微を抑えた筆致でうまくあらわいているように思う。
映画化され、中谷美紀、戸田恵梨香、宮本信子など出演したようだ。中谷美紀と宮本信子が誰を演じるかは、いくつかみた映画の番宣や役の年齢でわかるが、果たして戸田恵梨香は誰を演じるのだろうか?また、女性の相手役となる男性も何人か登場するが。どのような配役なのだろうか。ロングランだった映画館での上映もそろそろ終りそうなので、映画を見に行くか、DVDレンタルが始まるまで待つか、考えないといけない。

<追記>映画『阪急電車』については、この記事を書いた週末に、まだ池袋で上映していた映画館があったので、池袋まで出かけて見た。原作の雰囲気がうまく映像化されている。映画を見たら、阪急今津線に乗りに行きたくなった。

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2011年6月21日 (火)

有川浩作品を続けて読んだ(2)、『県庁おもてなし課』、『三匹のおっさん』、『フリーター、家を買う。』

有川浩作品の世界にはまってしまった私は、文庫化されていない作品は図書館で借りようかと、一度、地元の図書館に行って書架をのぞいてみるが、「あ」行の棚にはそれらしい本は一冊もない。
備え付けの検索システムで作者「有川浩」で検索してみると、蔵書としての在庫は各作品5~8冊程度はあるのだが、もののみごとに、すべて貸出中となっていた。やはり、人気作家なのだと、おっくればせながら改めて認識した。

図書館が無理なら、自分で買うしかないと、最新刊で話題の『県庁おもてなし課』を買い、続けて『もう一つシアター!』にゲストとして登場する清田祐希のそもそもの登場作である『三匹のおっさん』、テレビドラマにもなった『フリーター、家を買う。』を順次読んだ。

『県庁おもてなし課』は、著者が出身地である高知県の観光特使に選ばれた経験をもとに書かれた作品。地元の観光振興のために作られた「おもてなし課」の職員の奮闘ぶりを描く。最初は、お役所仕事で格好悪いことこの上ない主人公の若き県庁マン掛水史貴が、仕事の中で、多くの人とかかわる中で、成長していく様子はほほえましい。
作品自体が、高知県の観光ガイドにもなっていて、一度、高知を訪ねてみたいと思わせる作品だ。著者の故郷への愛着を感じる。

県庁おもてなし課
県庁おもてなし課

『三匹のおっさん』は、還暦を迎えたキヨこと清田清一と子どもの頃からの遊び仲間であるシゲ(立花重雄)、ノリ(有村則夫)の三人(三匹)が自分たちの町で起きる数々の事件の解決に立ち上がるという話。そこに、キヨの孫である清田祐希と、祐希とは学校は違うが同い年になるノリの年の離れた娘有村早苗が絡んでくる。5人の周りでの巻き起こる様々な騒動を、三匹がいかに解決したかを、コミカルに語る。しかし、テーマとして取り上げられた騒動は、会社での不正、昔の同級生を語る詐欺、催眠商法など笑えない話題をさりげなく取り込んでおり、現代社会への風刺ともなっている。
うまく配役をすれば、テレビドラマにもなりそうな6話構成となっている。

三匹のおっさん
三匹のおっさん

『フリーター、家を買う。』は 、フジテレビで昨年(2010年)10月~12月にジャニーズの人気グループ嵐のメンバー二宮和也主演のドラマの原作である。ドラマは10回の放送の平均視聴率17.1%、最終回の視聴率は19.2%を記録した。                  
3ヵ月で就職先を退社してフリーターとなった武誠治が、母のうつ病をきっかけに再び働き始め、立ち直っていく姿を描くという基本的な枠組みは同じだが、ドラマの方が、話を膨らませてあり、原作にはない設定やエピソード含まれている。
小説自体は、他の有川作品とは異質の雰囲気を醸し出している気がする。あとがきによれば、フリーター生活を送る主人公は、作者有川浩その人と重なる部分も多いようだ。それゆえか、他作品では登場人物たちと適度な距離をおいて書かれているのだが、本作では、主人公と作者の距離感がすごく近いように感じた。

フリーター、家を買う。
フリーター、家を買う。

どの作品も、小説として読者を楽しませるという点では、高いレベルにあると思う。手元には、まだ読んでいない『阪急電車』と『レインツリーの国』があるし、今週中には図書館戦争シリーズの最終巻『図書館革命』が文庫化される。まだまだ、有川作品にはまる日々が続きそうだ。

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