2009年11月 8日 (日)

『カップヌードルをぶっつぶせ!』を読んだ

『カップヌードルをぶっつぶせ!』という過激な題名の本を読んでみないかと、広告代理店に勤める友人からメールが送られてきた。私は、てっきり、カップヌードルに相手にするような新商品を開発したベンチャービジネスの若手経営者を題材にしたビジネス書かなと、などと思い、「本を送ってくれれば、読むよ」と返事を送り、昨日、本が届いた。

本の内容は私の予想とは全く違い、カップヌードルを製造・販売する日清食品の親会社日清食品ホールディングスの安藤宏基CEOの著書だった。
日清食品グループは、2008年に持株会社制に移行、日清食品の安藤宏基社長は、日清食品やグループ化した明星食品などを傘下に抱える日清食品ホールディングスの代表取締役CEO(最高経営責任者)となった。

本書『カップヌードルをぶっつぶせ!』は、その安藤宏基CEOが1985年に日清食品の社長に就任してからこれまでの20年余の経営の記録である。
日清食品は安藤CEOの父、安藤百福(ももふく)氏が1948年に創業。1958年8月に世界で最初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売、同年12月に「日清食品」に社名変更、さらに1971年には世界最初のカップ麺である「カップヌードル」を発売した。日本を代表する食品メーカーといえるだろう。
安藤宏基CEOは、安藤百福氏の次男。1981年日清食品の社長に就任した長男の宏寿が2年で社長を退任、会長となっていた父の百福氏がいったん社長に復帰。その後、1985年に宏基氏が日清食品の3人目の社長となった。社長とはいえ、創業者の父は会長として健在である。

カップヌードルをぶっつぶせ! - 創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀
カップヌードルをぶっつぶせ! - 創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀

本書の前半(第1章と第2章)は、二代目の息子宏基社長と創業者の父百福会長のせめぎあいの記録である。「創業者は普通の人間ではない」とのタイトルの第1章は「創業者は異能の人、二代目は凡能の人。創業者と二代目の確執は、異能と凡能とのせめぎあいである」との見出しで始まる。第3章からの後半部分は、その宏基社長が1985年に社長に就任してからの経営への思いと行動の記録である。
本書によれば、宏基社長就任当時の日清食品は創業者百福氏の創り出した「カップヌードル」というトップブランドで売上の半分、利益のほとんどを稼ぎ出していた。創業者の開発商品である「カップヌードル」は触れてはならない聖域であり、社内でも「カップヌードル」のブランドイメージを傷つけたり、シェアを奪うような商品を発売するわけにはいかないと、誰もが信じており、セクショナリズムや官僚主義がはびこり始め、商品開発も停滞していたという。
そんな中、宏基氏の社長としての第一声が、本書のタイトルとなった「カップヌードルをぶっつぶせ!」である。そのスローガンの下、新しいものを作り続けるために、組織をどう変え、人をどう育てていくのか。
自社が作る商品に深いこだわりを持つとともに、それを作り出す人と組織にもこだわり続けるのが、著者である安藤宏基CEOだと思う。

読み終えたあと、おおいなるこだわりから生み出された、「チキンラーメン」や「カップヌードル」が無性に食べたくなり、今日の昼はカップヌードル」を食べた。

なお、本書には付録として、これまでの数々の日清食品のCMの中で、1992年から96年まで流された「hangry?」シリーズと2004年から2005年にかけて放映された「NO BORDER」シリーズの映像がDVDに収録され添付されている。(「hangry?」シリーズは、カンヌ国際広告映画際でグランプリを受賞したとのこと)
私に本を送ってくれた友人は、彼らにとって大口クライアントの社長の本を買うことも、大事な仕事うちだったのだと、最後のCM映像を見ながら遅ればせながら気がついた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

時代の変化、社会の変化をどうとらえるのか

最近、ブログを書く回数がめっきり減っているし、書いている内容も10回連続で将棋の話題。将棋のブログと誤解かれるかもしれない。
常々書いているように、自分ひとりの頭脳だけで勝負し、その結果責任を一人で背負うプロ棋士の生き方は、究極の自己責任の世界であり、その生き様から我々が学ぶものは多いと思っている。

しかし、将棋だけに関心を持っているわけではなく、他にもいろいろな事に関心はある。特に、この半年ほど考えていることは、昨年(2008年)夏のリーマン・ショック以降、時代が変化したことは、誰もが認めるところだろう。

しかし、これまでの時代を支えてきたもののうち、何が変わったのか、一方、変わらないものは何なのか。変わりつつあるものがおぼろげであってもつかめれば、これからの自らの生き方を考える上で、何かのヒントになるかもしれない。そんなことを考えながら、あさるように本を見繕いながら読みあさっているのが、正直なところだ、

時代が変わっているというのは、多くの人が感じていることのようで、硬軟取り混ぜて、現在をどうとらえ、未来へどう活かしていくかをテーマにしている本が増えたように思う。

すでに、このブログで紹介した本以外にも

橋本治著『大不況には本を読む』(中公新書クラレ)
堤清二、三浦展著『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』(中公新書)
上野千鶴子、辻元清美著『世代間連帯』(岩波新書)<紹介済み>
高原基彰著『現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ 』(NHKブックス)
藤原和博著『35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画』(幻冬舎メディアコンサルティング)
五十嵐 敬喜、小川 明雄著『道路をどうするか』(岩波新書)
村上龍著『無趣味のすすめ』(幻冬舎)

まだ、今のところ、ブログの記事として取り上げるには至っていないが、いずれ、書く機会が来ればと思っている。変化の大きさを考えれば、まだまだ多くの本を読んで、自分の考えをまとめていくことが必要なのだろう。当面は、インプットの時期である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

団塊世代の社会学者上野千鶴子と1960年生まれの政治家辻元清美が現在の日本が抱える問題を語る岩波新書『世代間連帯』

民主党が308議席を獲得して圧勝した2009年8月31日の第45回衆議院選挙。選挙の前に読んだのが、岩波新書の2009年7月の新刊『世代間連帯』。
1948年生まれの社会学者上野千鶴子と1960年生まれの社会民主党の衆議院議員辻元清美の2人の現在の日本社会が抱える問題について語っている。

世代間連帯 (岩波新書)

最初にこの本を見たときは、「ああこの2人で書いたのか」と思った程度だったが、先週末、改めて書店で手にした時、上野氏が団塊世代の1948年生まれ、辻元氏が私と同じ1960年生まれという経歴を読んで、これは読んでみようという気になった。
私は、以前、自分たちの世代は、いつも団塊の世代の後始末ばかりやらされて、割を食っているという思いが強くあったからだ。団塊の世代の女性社会学者と私と同い年の論各の女性政治家。どういうやりとりが行われるのか、興味をひかれた。

語られるのは順に「仕事、住まい」、「家族、子ども、教育」、「医療、介護、年金」、「税金、経済、社会連帯」と続き、最後が「世代間連帯」。詳細は、本書に譲るが、私が最も印象に残った部分を1ヵ所だけ紹介しておきたい。

第2章の「家族、子ども、教育」の中で、上野千鶴子が次のように述べる。

戦後、日本は「教育の社会化」「医療の社会化」、そして「介護の社会化」を実現してきた。次は「子育ての社会化」の実現が社会の優先課題。(『世代間連帯』98ページ)

今回の選挙で有権者は民主党に圧倒的多数を与えたことで、何を選んだのか。何を実現することを託したのか。

ここで言われる社会全体で子育てを支援していく「子育ての社会化」は文字通り最優先課題だろう。

また、この本の中で二人が語ることを読んで思うのは、自民党の長期政権の中で社会の枠組みとなっていた企業を通じた間接的な社会政策の行き詰まったということである。
健康保険も、年金も、税制も、企業に勤めるサラリーマン世帯を中心に設計されているし、企業が富むことで、その余録がそこで働く従業員とその家族にも給与・賞与として行き渡った。企業の従業員と家族は同時に消費者でもあり、給与・賞与の増加は、可処分所得の増加、消費の増加、企業にとっての需要増加として好循環していた。
1990年代以降の経済の国際化、競争の激化により、企業には従業員に回す余録はなくなり、従業員もコストとしてしか扱われなくなった。給料は上がらず、いわゆる労働分配率は低下した。

一方、女性の社会進出に伴い、男性サラリーマン世帯中心の制度設計は、実態に合わなくなってきている。

企業を通じた間接的な世帯中心の社会政策よりも、企業を介さず、男女にかかわらず個人に対して直接政策な働きかけをしていく方が、個人ひいては社会の活性化に繋がるということなのだろう。小泉政権が推し進めようとした新資本主義的施策はあくまで企業を富ませるというアプローチでは、かつての枠組みになんら変化はなく、むしろ自己責任という名の下に、社会福祉施策の切り捨てを行ったということだったのだろう。

有権者が、高度成長時代でこそ成り立っていた制度の枠組みに組み替えを求めたのが、今回の選挙結果なのだろう。「子育ての社会化」という問題も、かつては、企業に下にある世帯・家庭に任されていたが、いまや、世帯や家庭だけでそれを引き受けるには荷が重すぎるということなのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月25日 (火)

著者橋本治が『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフと語る『日本の女帝の物語』(集英社新書)を読み終わる

作家の橋本治は、『窯変源氏物語』(1991年~93年)、『双調平家物語』(1998年~2007年)と日本の古典を題材にした長編小説を書いている。『双調平家物語』は2008年に第62回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞している。

日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 506B)

『双調平家物語』は、平家物語と銘打つものの、飛鳥の時代から説き起こす。いわば、日本の飛鳥、奈良、平安の時代を俯瞰する物語になっている。本書『日本の女帝の物語』は、著者によるあとがき「おわりに」によれば、
「この本は、私の「長い長い小説」である『双調平家物語』の副産物です。ただの『平家物語』の上に「双調」の二文字がくっついたがために、「平家の物語の前段」がやたら長くなったのですが、長くなった「前段」の中核をなすのが、ここに書いた「女帝の時代」の物語です」(『日本の女帝の物語』214ページ)
「私にしてみれば、日本の古代というのは、「女帝の時代」があり、「摂関政治の后の時代」となり、「男の欲望全開の院政の時代」となって、そして「争乱の時代」が訪れるという、三段あるいは四段構えになっているのですが、「平家の壇の浦で滅亡するまでの平家の物語」ということになると、このすべてが一まとめになって、ひたすら「長い長い物語」にしかなりません。それで、こういう『日本の女帝の物語』を書いたのです。」(『日本の女帝の物語』214~215ページ)

私は、日本の歴史の中でも、飛鳥・奈良の時代には興味があって、黒岩重吾の小説(『北風に起つー継体戦争と蘇我稲目』、『磐舟の光芒』、『中大兄皇子伝』、『弓削道鏡』など)から始まって、学者(主に遠山美都男氏)の書いた新書(『大化改新』、『壬申の乱』、『白村江』など)、池田理代子や里中満智子(『天上の虹』、『長屋王残照記』、『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』など)やのコミックなどこの時代を題材にしたものを読んできた。

飛鳥、奈良時代は、推古、皇極・斉明、元明、元正、孝謙・称徳という五人七代の女帝の存在と、一方、皇位継承に関わる血で血を洗うような多くの陰謀やクーデタが特徴なのだが、女帝を生み出す時代の行動原理について納得いく解釈をしてくれているものは、少なかった。

飛鳥から平安の時代を、『日本書紀』や『続日本紀』など当時の書物を読み込み、10年の長きにわたって『双調平家物語』として書き続け、作者なりになぜこの時代に多くの女帝が生まれたのかについての謎解きをしてみせたのが、本書といえる。そこには、天皇になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、同じく、天皇の后になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、があり、それが少しずつ変化していく。
また、その天皇家の周辺で、朝廷の重鎮・官僚として天皇を支える存在である有力豪族や貴族たち、大伴氏から物部氏、蘇我氏から藤原氏へ続く彼らの立ち位置の変化なども、変わっていく。
それを「『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフ」(『日本の女帝の物語』「終わりに」より)として語ったのが本書である。

女帝の多くは、自らの血を引く子や孫を皇位に就かせるべく、他の有力な皇位継承者の即位を避けるため中継ぎの意味で即位したケースが中心であるが、しかし単なる飾りでも傀儡でもなく、多くのことを自ら行っている。また彼女たちが皇位に就いたことで、皇位継承が可能な血統・人材の位置づけが変わってしまう。
私の貧しい要約力では、とてもうまくまとめきれないので、興味ある方は、本書を読んでほしいとしか書けないが、何かいままで見えていなかった、飛鳥から平安の時代の天皇や摂関クラスの人びとの行動原理が、霧のむこうに少し垣間見えた気がする。

おそらく、もっとハッキリみようとすれば、『双調平家物語』15巻を読破する必要があるのだと思う。現在、5巻まで文庫化されているので、自分の日本古代の歴史観をまとめ、一本筋を通すためにも、一度読んでみようと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月23日 (日)

『獣の奏者』新聞全面広告での松田哲夫氏のコメント

今朝の新聞に『獣の奏者Ⅲ探求編』『同Ⅳ完結編』をメインにした『獣の奏者』シリーズのカラー印刷の全面広告が掲載された。

P1010346a_2

版元である講談社が100周年の記念出版作として、本作品をより多くの人に読んでほしいという意気込みが感じられる。

広告には、作者や以前紹介した作家佐藤多佳子のコメントが書かれているが、その中にTBSの「王様のブランチ」で「松チョイ」という書評のコーナーを持つ松田哲夫氏のコメントも載せられていた。(前作の『獣の奏者Ⅰ闘蛇編』『同Ⅱ王獣編』も出版当時同コーナーで取り上げられたことも、前作ヒットの一因だろう。)

松田氏の推薦のコメントは

「これは、いまを生きるすべての人びとに向かって、声高ではないが鮮烈なメッセージを発している物語なのだ。世界ファンタジー史上に残る傑作ではないだろうか。」

やはり、多くの本を読み込んでいる松田氏にとっも、『獣の奏者Ⅲ探求編』『同Ⅳ完結編』の伝えようとするメッセージ性は印象に残るものであったのだろう。

作者の発するメッセージについて、老若男女それぞれの立場で、それぞれの受け止め方、読み方がある作品だと思う。

読後の印象に強さから考えると、今年度の本屋大賞の有力候補だと思うし、「直木賞」など文学作品に贈られる有力な賞を受賞してもおかしくない作品だと思う。一人でも多くの人に読んでほしい作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月20日 (木)

高校書道部を描く学園コミック『とめはねっ!』全5冊を読み終わる

先日、競技かるたを題材にした『ちはやふる』(末次由紀著)を読んだばかりだが、『とはやふる』の存在を知った松村由利子さんのブログ(そらいろ短歌通信)のその日の記事のコメントに『とめはねっ!』も紹介されていて、いずれ読んでみようと思っていたものだ。

とめはねっ! 1

とめはねっ! 2

とめはねっ! 3

とめはねっ! 4

とめはねっ! 5

舞台は、神奈川県鎌倉市にある私立鈴里(すずり)高校。書道部は日野ひろみ、加茂杏子、三輪詩織という2年生女子3人しか部員がおらず、部員が5人揃わないと廃部という存続の危機にある。そこに、ひょんなことから新入生で帰国子女の男子生徒大江縁(ゆかり)と柔道部で全国準優勝の望月結希が入部することになる。
海外生活が長く日本語も日本のことも知らず、性格的にも気弱な大江縁(ゆかり)と男子生徒でも投げ飛ばす勝ち気な望月由希、さらに個性的な2年生3人が加わって繰り広げられる書道部の日常を描いている。第1巻の裏表紙のキャッチコピーには「文化系青春コメディー」とあり、肩の力を抜いて気楽に読める。

しかし、その中で、語られる書道の基本や、中国の書、書家の歴史、筆や墨など書道の道具に関わるエピソードは知らないことも多く「へぇー」と思わせられることも多い。
また、作中で5人は多くの書を書くが、募集や依頼により書道の先生や高校書道部の在校生などが書いたもの集め、その作品をPC等で処理して使っているようだ。
読者参加型で作られる作品であることが、『とめはねっ!』の人気の秘密のひとつなのかもしれない。

私自身は小学校4年の一年間、書道教室に通った経験があるが、ちっとも昇級せず、何が楽しいかもわからなかった。当時、同級生が通っていた剣道の教室に誘われ、そちらの方が面白そうだと、書道教室は辞めてしまい、剣道に鞍替えした思い出がある。
中学に入っても字は下手だった。それでもペン字だけはある時思うところがあって、丁寧に書く努力を続けていたら、半年ほどで何とか見られる字になったが、毛筆で書く「書」は相変わらす下手である。
いつか、もう一度、きちんと書道を学んで、せめてはがきの宛名ぐらい毛筆で書けるようになりたいというのが、ささやかな夢のひとつである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月19日 (水)

上橋菜穂子著『獣の奏者』の続編『Ⅲ探求編』・『Ⅳ完結編』は大人のための現実の物語だ

『獣の奏者』の続編『Ⅲ探求編』、『Ⅳ完結編』を読み終わった。前作『Ⅰ闘蛇編』、『Ⅱ王獣編』を上回るスケールで読者に迫り、読者ひとりひとりの生き方を問う物語だ。

獣の奏者 (3)探求編

獣の奏者 (4)完結編

作者上橋菜穂子と新刊に差し込まれたPRのリーフレットには同い年の作家佐藤多佳子の次のようなコメントがある。

「凄い物語だ。痛みと希望の物語だ。異種の生物が共存するこの地球の過去と現在に未来について、思わずにいられない」(佐藤多佳子)

前作では、異形の生物として戦闘に出て他国軍を蹂躙する力を持つ巨大な「闘蛇」を育てる闘蛇衆の村から話は始まる。その「闘蛇」さえ屠ってしまう力をもつ獣の王ともいえる「王獣」。闘蛇衆の村で育った娘エリンは、王獣の美しい姿に魅せられ、王獣の世話をし生態を学ぶうちに、その王獣を操る技を身につける。
エリンの国では、闘蛇軍で国を他国の侵略から守る大公と国の支配者である真王との間に不信感があり、国政は不安定で、それぞれの領民たちも反目している。真王を暗殺しようとするグループもいる。そんな中、闘蛇の天敵ともいえる王獣を自由に操るエリンは否応なく国の政治の波に翻弄される。しかし、前作ではエリンの決意と行動で、物語は一つの結末を迎える。

続編にあたる『Ⅲ探求編』、『Ⅳ完結編』では、前作から10年以上が過ぎ、エリンは一児の母となっている。ある闘蛇衆の村で起きた闘蛇の集団での変死の原因追及にエリンが派遣されるところから、続きの物語は始まる。
危険な兵器ともなる闘蛇や王獣には、育てる際に数々の掟や禁忌(タブー)がある。なぜ、そのような掟や禁忌があるのかを、解き明かそうエリンが東奔西走する『Ⅲ探求編』。掟や禁忌の秘密が明らかになりかけるが、しかし、現実の動きがエリンに謎解きの時間を与えない。隣国がエリンの国リョザ神王国を攻めてきたのだ。掟や禁忌(タブー)の背景にある過去の出来事を解き明かせないまま、国を守るためエリンも立ち上がる。そして物語の結末へ向けて、『Ⅳ完結編』は流れていく。

『Ⅲ探求編』、『Ⅳ完結編』を通じて、人が生きることの意味、学ぶことの意味、、親子のあり方、夫婦のあり方、国のあり方、政治のあり方、戦争とは何かといった多くのテーマが語られる。その内容は、児童文学、ファンタジーといった枠組み・ジャンルを超えている。現在の混乱する日本という国のあり方、そこで生きる我々ひとりひとりへの問いかけであり、作者の考える答えでもある。

私が読んで、深く印象に残ったフレーズを紹介しておきたい。いずれも、エリンが母親として息子のジェシに語る言葉だ。

「人の一生は短いけれど、その代わり、たくさんの人がいて、たとえ小さな欠片(かけら)でも、残していくものあって、それがのちの世の誰かの、大切な発見につながる。……きっと、そういうものなのよ。顔も知らない多くの人たちが生きた果てにわたしたちがいて、わたしたちの生きた果てに、また多くの人々が生きていく……。」(『獣の奏者 Ⅳ完結編』51ページ)

「人は、知れば、考える。多くの人がいて、それぞれが、それぞれの思いで考え続ける。一人が死んでも、別の人が、新たな道を探していく。------人という生き物の群れは、そうやって長い年月を、なんとか生き続けてきた。
知らねば、道は探せない。自分たちが、なぜこんな災いを引き起こしたのか、人という生き物は、どういうふうに愚かなのか、どんなことを考え、どうしてこう動いてしまうのか、そういうことを考えて、考えて、考え抜いた果てにしか、ほんとうに意味ある道は、見えてこない……」(『獣の奏者 Ⅳ完結編』294ページ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月17日 (月)

上橋菜穂子『獣の奏者』続編(Ⅲ探求編、Ⅳ完結編)登場と既刊(Ⅰ闘蛇編、Ⅱ王獣編)の文庫化

2ヵ月ほど前に、子ども向けの講談社青い鳥文庫で文庫化された『獣の奏者』の既刊(Ⅰ闘蛇編、Ⅱ王獣編)を4冊に分冊化したものを読み始めたことを書いたが、期待に違わないおもしろさで、あっという間に読み終わってしまった。
途中、主人公の少女エリンが蜂飼いの男ジョウンに救われ、しばらく世話になるのだが、彼は養蜂で生活しており、エリンが興味深くミツバチの生態を観察する場面が出てくる。ちょうど『ハチはなぜ大量死したのか』を読んだばかりで、ミツバチの生態を詳しく知った直後でもあったので、その場面もよく調べられ、書き込まれているのがわかった。
既刊の2冊は、各巻の名前にも成っている「闘蛇(とうだ)」と「王獣(おうじゅう)」という2つの架空の獣を中心に展開し、そこに主人公エリンの母とエリンが絡んでいく。さらにエリンの住む国は、大公領と真王領とに別れ、そこでの政治のあり方と「闘蛇」と「王獣」は関わっており、エリンもまた国の政治に関わらざるを得なくなってくる。
国のあり方を丹念に描き、国の政治のあり方に個人の生き方が翻弄される様にリアリティを持たせる作者の力量は、「守り人&旅人シリーズ」でもすでに証明済みだが、既刊の『獣の奏者』でも裏切られることはなかった。

土曜日、都心まで外出する機会があり、帰り道書店に寄ったところ、新刊コーナーになんとその『獣の奏者』の続編となる『Ⅲ探求編』『Ⅳ完結編』が並べられていた。さらに既刊の『Ⅰ闘蛇編』『Ⅱ王獣編』が講談社文庫から文庫化され並んでいた。青い鳥文庫の4冊はいずれ手放せばいいと思い、新刊のハードカバー2冊 (『Ⅲ探求編』『Ⅳ完結編』)と文庫2冊(『Ⅰ闘蛇編』『Ⅱ王獣編』)を購入した。

獣の奏者 (3)探求編

獣の奏者 (4)完結編

獣の奏者〈1〉闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者〈2〉王獣編 (講談社文庫)

2冊で完結したはずの『獣の奏者』の続きを、なぜ書くことになったかについては、ハードカバーの『Ⅳ完結編』の巻末にさらっと、文庫版『Ⅱ王獣編』の巻末に詳しく書かれている。文庫版を参照すると

(1)2009年が100周年である講談社の編集者から新作執筆を依頼されたこと
(2)(同い年で)敬愛する作家佐藤多佳子が2冊の読者として「もっと、読みたい・・・…。この完璧な物語の完璧さが損なわれてもいいから」と書いているのを読んで、エリンをはじめ作中の人物たちが生きているのだと思い、と少し気持ちが動いたこと

そして決定打として、『獣の奏者』がこれも2009年の50周年を迎えるNHK教育テレビでアニメ化が決まったことをあげている。
アニメ化のため監督や脚本家とともに、自ら執筆した物語『獣の奏者』を解体し、組み立て直す作業に着手し、その過程で『獣の奏者』の世界がより深くまで見えてきて、作者としても続きを書きたいという思いが噴出し、1年半で沸きだし『Ⅲ探求編』『Ⅳ完結編』の2冊を一気に書き上げたと書かれている。

一度完結したはずの物語が、再び書き継がれるという点は再執筆までの期間の長さは異なるものの、ファンタジーの名作『ゲド戦記』シリーズを思い起こさせる。ゲド戦記は、主人公の魔法使いゲドの少年期、青年期、壮年期を描く『影との戦い』『こわれた指輪』『さいはての島へ』が1968年~1971年に書かれる。壮年のゲドが力を使い尽くしたところで、『さいはての島』は終わるのだが、その後1990年にゲドが故郷へ帰る『帰還』、さらに2001年に『さいはての島』でゲドと旅をした王子アレンを中心にした『アースシーの風』で、ゲドたちが生きるアースシーの世界が深く語られる。

『獣の奏者』の世界も、作者上橋菜穂子の作り出した世界であるが、すでに作者の手を離れ一つの世界として多くの人びとの脳裏の中で現実世界としてとらえられているということなのだろう。
作者は、

「物語としては完結しているのに、この先を知りたいという読者の声が絶え間なく届くのは、エリンたちが物語の中で「生きてしまった」からなのかもしれない。エリンが、(中略)その後どう生きたのか、それを知りたいのかもしれない、そして、それを世に送り出せるのは私だけなのだと思ったとき、「エリンのその後」を書いてみようか、という思いが、頭をもたげてきたのでした。」(講談社文庫『獣の奏者 Ⅱ王獣編』462ページ)

と書いている。

すぐれたファンタジーといものは、作者さえ世界の観察者、語り手に換えてしまうのかもしれない。
再び『獣の奏者』の世界に浸れることを楽しんで読みたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 9日 (日)

競技かるたを題材にした青春マンガ『ちはやふる』(末次由紀著)1巻~5巻を読了

歌人の松村由利子さんのブログの8月7日の記事で紹介されていた競技かるたを題材にしたマンガ『ちはやふる』が面白そうだったので、現在刊行されている5巻までの5冊を記事を読んだ昨日(8月8日)、すぐにアマゾンで注文したら、なんと今日(8月9日)の昼過ぎには我が家に届いた。(さすが、アマゾンである)

さっそく、1巻から読み出し、5巻まであっという間に読み終わってしまった。東京の小学校6年生の綾瀬千早(ちはや)が、同じクラスの転校生綿谷新(あらた)から、百人一首で行う競技かるたの楽しさを教わるところから物語は始まる。
それまで、ミスコンテストで上位入賞する美人の姉千歳だけが自慢だった千早は、「お姉ちゃんがいつか日本一になるのがあたしの夢なんだ!」と新に語るが、新から「ほんなのは、夢とはいわんとよ。自分のことでないと夢にしたらあかん」と一蹴され、彼が、競技かるたで日本一を目指していることを聞く。そこに千早にほのかに思いを寄せている(と思われる)クラス一の秀才真島太一が絡み、物語は進む。3人で競技かるたを始め、かるたのおもしろさに目覚めた千早は3人でずっとかるたをやりたいと願うが、超難関の私立中学に合格した太一はかるたをやめると言い、新は祖父の介護のため故郷福井に戻ることになって、千早は「一人になるんならかるたなんか楽しくない」と、3人で出場するはずだったかるた大会に出ないと言い出す。新と太一の気遣いで、大会会場に千早が姿を見せたところで、1巻が終わる。
その後、2巻では、高校生となった千早が、かるた部を作ろうと、仲間集めに奔走し、太一と再会、さらに太一を含め5人の個性あるメンバーと都大会を目指すところなどは、スポーツマンガの趣である。

ちはやふる (1)

ちはやふる (2)

ちはやふる (3)

読んでいて、先月文庫化された、高校の陸上部での400mリレーに青春を賭ける物語、佐藤多佳子著の『一瞬の風になれ』を思い出した。
『一瞬の風になれ』では、主人公新二はサッカー少年だが、Jリーグからスカウトされる兄の前には、才能の差は明らか。両親も兄の活躍に一喜一憂する。そこ新二を高校で、陸上部に誘ったのが、幼なじみの連(れん)である。物語は、個性的な先生、先輩、後輩、他校のライバル選手などの中で、新二と連がスプリンターとして、成長していく。
『ちはやふる』でも千早の両親は、姉の千歳中心の生活で、千早はおまけのような存在。そこに「新」という触媒のような存在が登場し、「千早」の人生がすこしずつ変わっていく。

『ちはやふる』4・5巻では、これから千早の目標となりライバルとなるであろう高校生クィーン若宮詩暢が登場、千早との初対戦も見られる。故郷に戻った後、一度は、かるたから離れた新がどのような形でかるたの世界に復帰するのかも、気になるところ。
さらに、高校生になり姉をも上回る長身の美女となった千早と多感な年頃の太一や新がどう絡んでいくのかという恋愛マンガ的な展開もありそうである。
まだまだ、読者を引きつけるストーリー展開になりそうで楽しみである。

ちはやふる (4)

ちはやふる (5)

この『ちはやふる』は、2009年3月に第2回マンガ大賞に選ばれた作品である。授賞式の様子を伝える「コミックナタリー」というウェブサイトの記事によれば、作者(末次由紀氏)は出席を辞退し、代理として講談社の担当編集者坪田絵美氏がトロフィーを受け取ったという。さらに、記事は次のように伝えている。 

坪田氏自身がA級のかるた競技者で、大学2年生のときに全国2位の成績を残していること、講談社の面接試験では「かるたマンガを作りたい」と回答して入社したことを明かした。
また、かるたマンガのアイデアを持ちかけられた末次は、すぐさま単語帳を用意して1週間後には百人一首を暗記しており、1カ月後には畳敷きの部屋を借りてかるたを実践していたという。坪田氏いわく「いまは相当取れるんじゃないかな」。
末次の取材熱心さにも触れ、連載当初は毎週のようにかるた大会に出かけたこと、昨年の夏には近江神宮での全国高校かるた選手権を取材し、名人戦・クイーン戦もすでに取材済みであることを明かした。現場での末次は、多彩なアングルで写真を撮りたいと思うあまり、会場内のあちこちで立ったりしゃがんだり、やや浮き気味なほどの熱意と愛着だという。
記者から作者の授賞式欠席について質問されると、末次の言葉として「過去に犯した間違いというものがあり、自分はまだこういう場に出て行けるような人間ではない。一生懸命マンガを描いていくことでしか恩返しはできない」という考えを伝えた。タブー視されるかと思われた過去のトレース事件に自ら触れた真摯な姿勢に、会場からは感嘆の声が漏れた。
(コミックナタリー:2009年3月24日記事:マンガ大賞2009発表!大賞は末次「ちはやふる」)

ここで触れられている過去のトレース事件とは、2005年10月に末次氏の作品『エデンの花』などで、井上雄彦氏の『スラムダンク』『リアル』などから、描写を盗用したのではないかとネット等で読者からの指摘があり、本人もその事実を求め、当時の連載は中止、1992年のデビュー以来の既刊の全作品が回収、絶版とされた事件である。以来、漫画家活動を休止していたが、2007年に活動を再開。いくつかの短編を発表後、『ちはやふる』は本格的な連載作品への復帰第1号であった。

「ちはやふる」第1巻のカバーには

「ちはやふる」は連載作品です。連載でまんがを描けることがどれくらい楽しくて幸せなことか、文章ではうまく伝えられそうにありません。まんがで伝わることを願っています。さあ、スタートです。

この作品から伝わってくる何とも表現しがたい情熱のようなものは、競技かるたのすばらしさを伝えたいという編集者の熱い思いと、過去の過ちを償う連載復活のチャンスを何としても活かしたいという作者の思いが結実した作品なのであろう。
その思いが、「まんが大賞」の選者に伝わった結果の大賞受賞だったのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 8日 (土)

上橋菜穂子が語る「プロフェッショナルの魅力」(文庫版『神の守り人 下-帰還編-』あとがきから)

夏休みシーズンを狙ってか、しばらく出版されていなかった新潮文庫版の上橋菜穂子「守り人&旅人シリーズ」の第5作・第6作にあたる『神の守り人 上-来訪編-』と『神の守り人 下-帰還編-』が、新潮文庫の2009年8月の新作のラインナップに加わった。

神の守り人〈上〉来訪編 (新潮文庫)

神の守り人〈下〉帰還編 (新潮文庫)

結果的に10作の及ぶ大河物語となった「守り人&旅人シリーズ」の折り返しとなる『神の守り人』上下巻は、主要な登場人物である女用心棒のバルサや皇太子チャグムが暮らす「新ヨゴ皇国」に隣接し、今後の物語の展開の中でも大きな役割を果たす「ロタ王国」が舞台である。ここでは、あらすじを述べることが目的ではないので、そちらに関心のある方は、私が昨年(2008年)2月に、偕成社の軽装版『神の守り人』上下巻を読んだ時に書いた記事を参照いただければと思う。(2008年2月14日:上橋菜穂子著『神の守り人(上)来訪編』、『神の守り人(下)期帰還編』を読み終わる

ここで紹介したいのは、今回の文庫用に書かれた著者上橋菜穂子さんの「文庫版あとがき」である。「プロフェッショナルの魅力」と題されたあとがきは次のようなものである。

著者は自らが作り上げた「守り人」シリーズの主人公バルサを心底好きだとと語り、その魅力の核は、彼女がプロフェッショナルであることと続く。そして、『精霊の守り人』、『獣の奏者』が相次いでアニメ化されたことで、著者は様々な分野のプロフェッショナルと仕事をする機会を得たとし、上橋流プロフェッショナル論が開陳される。

プロになるということは、「他者から頼られるようになる」ということを意味します。この人に任せておけば大丈夫、と全幅の信頼を寄せられ、それに応えて仕事を成し遂げねければならない。
全幅の信頼を受けるというのは、恐ろしいことです。
完全な人間などいませんし、プロでも失敗することはあるでしょう。それに、物事には不測の事態はつきものですから、知識や能力に加えて、どんな事態にも対応できる柔軟性が必要で、さらには仕事の総体という「構造物」の屋台骨を支える覚悟がなければ務まりません。
そういう修羅場をいく度も踏んでいくうちに、責任を負うのを当然のこととして、どんな状況になっても立っていいられるようになっていくのではないでしょうか。そうやって仕事に磨かれ、自分に出来ることと出来ないことを悟るようになった人は、甘い幻想に逃げることをせずに、淡々と、自分が出来ることを成し遂げていけるのではないかと思うのです。
プロであるという自意識が過剰になり、己の物差しを過信してしまうとかえって視野が狭くなってしまうことがありますが、多くの経験をし、「過信の怖さ」を骨身に沁みて知っている人には静かな謙虚さがあって、私はそういう人に強い魅力を感じるのです(新潮文庫版『神の守り人 下 -帰還編-』319~320ページ)

著者の上橋さん自身、物語作りの プロフェッショナルだと思うが、プロフェッショナルが見たプロフェッショナルの姿といえよう。
このようなプロフェッショナルに一歩でも近づきたいものである。

このような「あとがき」は、やはり軽装版には書かれないだろう。結局、軽装版と文庫版の2種類の「守り人&旅人シリーズ」を揃えることになりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月30日 (火)

茂木健一郎著『セレンディピティの時代』を読み終わり、上橋菜穂子著『獣の奏者』を読み始める

数日前に紹介した『クラウドソーシング』を読み終わったあとは、ちょっと趣向を変え講談社文庫の2009年6月の新刊『セレンディピティの時代』(茂木健一郎著)を読んだ。「月刊KING」という雑誌の連載記事に手をいれて、新たな章も加え、文庫化したものだ。サブタイトルが「偶然の幸運に出会う方法」。『会社に人生を預けるな』に続いて読んだ勝間本の『起きていることはすべて正しい』にも「セレンディピティ」という言葉が使われていた。自分で行動し、何かに出会い、そのことに気づき、その結果を受け入れていくことが、幸運をつかむきっかけになるというもの。作者は、何かの出会ったことに気づく「心の余裕が必要」と語っている。

セレンディピティの時代―偶然の幸運に出会う方法 (講談社文庫)

このブログを書き始めた頃取り上げた、河合隼雄著『大人になることのむずかしさ』の中の一節「深い必然性をもったものほど、人間の目には一見偶然に見えるといってもよく、そのような偶然を生かしてゆく心の余裕をもつことが、(中略)必要であろう。」とも通じる部分があり、興味深かった。

獣の奏者〈1〉 (講談社青い鳥文庫)

『セレンディピティの時代』のあとは、久しぶりに上橋菜穂子ファンタジー『獣の奏者』を読み始めた。もともと2年ほど前ハードカバー上下2冊で出版され、NHKでアニメ化もされた人気作。通勤電車で読むには分厚く重たいので、文庫化されるのを待っていたら、講談社青い鳥文庫で上下2冊を4冊に分けて文庫化された。4冊が出揃ったところでまとめて買い、第1巻だけずっと鞄に入れていたが、いよいよ、今日から読み始めた。
さっそく、上橋ワールドに引きこまれ、第1巻の半分ほど読んだ。しばらくは、楽しめるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月23日 (火)

米国での新たな動きを紹介し、ネット社会の現在と未来を語るハヤカワ新書juiceの第1作『クラウドソーシング』

ミステリなど海外の文学作品の翻訳が特色の早川書房が2009年5月に新書の分野に参入した。「ハヤカワ新書juice」。その記念すべき1冊目No.1がこの『クラウドソーシング』である。

クラウドソーシング―みんなのパワーが世界を動かす (ハヤカワ新書juice)

巻末にある「ハヤカワ新書juice」の創刊の意義について語った紹介文には、「まずは時代の一歩先をゆく海外作品を」との小見出しのもと、次のように書かれている。

「いまでは、情報網・流通網の発展により、海外で生まれたコンセプトやアイデアはすぐに日本の誰かによって紹介される時代になりましたが、それが生まれた背景や文脈、そこから発する空気感や微妙なニュアンスはしばしば削ぎ落とされてしまいます。早川書房では、これまでの翻訳出版のリーディングカンパニーとしての経験を生かして、ハヤカワ新書juiceでもまずは先端的な翻訳出版からスタートします。とくにネットカルチャーやビジネス、サイエンス、エコなどの分野における海外の動向をいち早くお伝えしたいと思います」

本書の『クラウドソーシング』のサブタイトルは「みんなのパワーが世界を動かす」で、まさにネットカルチャー、ネットビジネスの世界で最先端ともいえる米国で今何が起こっていて、将来にどうつながっていくのかを見定めようとするものである。

現在では、技術革新による各種のソフトウエアや機器の低価格化・普及により従来、資本力のある企業や組織でしか行えなかったことが、個人やその集団であるコミニティが行えるようになった。さらにそこにインターネットの普及が加わり、クラウド(CROWD=群衆)の力が、インターネットを通じて集約さら個々人の力は小さくても、まとまれば大きな変化が起きているというのが本書の趣旨である。

研究開発企業が、自社の研究者だけでは解決できない課題をネットを通じ、個人に問題を投げかけ、日常は別の職業についている科学に愛好家だちが、自分の空いた時間に、実験や研究を行って解決策を提示する。
バードウオッチングを趣味とする人たちが、各自が自分たちが見た鳥の目撃情報を、ネットを通じて発表し、それが集約されることで、鳥の生息分布状況が明らかになり、鳥類学者は研究に専念できる時間が増えた。
膨大な特許申請の審査作業の一部をネットを通じ、個人に公開したところ、過去の類似特許の情報が寄せられ、特許の審査業務の負担軽減につながった。
地方新聞が、インターネットの自社サイトに地元の情報を扱う記事や掲示板を、地元の主婦に取材をさせ書かせることで、地元に密着し、読み手が知りたい情報が書かれるようになり、サイトのアクセスが急増し、そのサイトが広告媒体として価値を持つようになり、またそのサイトを運営している新聞社の新聞も売り上げが伸びた。
など、米国での多くの事例が紹介され、日本の現状と比べ、やはりネット先進国に米国はその名の通り、相当先を進んでいるという印象を持った。

それは、従来の経済学の基本的な考え方を否定するものでもある。本書の冒頭のはしがきには、次のように書かれている。

「人間はかならず自分の利益を考えて行動するものだと昔からいわれるが、クラウドソーシングはそうとは限らないことを証明している。クラウドソーシングを用いたプロジェクトに参加する人びとは、その報酬がたいていスズメの涙ほどか、まったくないかのいずれかだが、金額には関係なく、労を惜しまず貢献する。これまでの経済学のレンズを通せばこういう行動は筋が通らない用に思えるが、報酬はドルやユーロに換算できるとは限らない。(中略)その動機の中には、大規模なコミニティのために何かを作りたいという欲求や、自分の得意なことをする純粋な楽しさが含まれていた。(中略)人びとは、自分の才能を養うことや、自分の知識を誰かに教えることには大きな喜びを感じる。クラウドソーシングでは、共同作業そのものが報酬になるのである」(『クラウドソーシング』25ページ)

まだ全体の半分ほどを読み終えたところだが、米国の様々な事例に比して日本の動きは遅れていると痛感している。日本では、各種ソフトウェアやハードが低価格化し普及していること、インターネットが普及し何かをやりたいクラウド(CROWD=群衆)が存在することは、おそらく米国と同様だろう。しかし、そのクラウド(CROWD=群衆)のパワーを活用する仕組みはまだまだ少ないように思う。
本書でも書かれているが、あらたな動きは痛みを伴うものでもある。既得権益者にとっては、手放しで喜べる事ばかりでもないだろう。
しかし、やがては何らかの形で日本にも影響は及んでくるだろう。その時、自分がどう関わるのか。あるいは、一歩先取りして、日本で変化を起こすためには、どうしたらよいのか考える上で、格好の参考書になる本だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月21日 (日)

自然の営みの偉大さを改めて教えてくれる『ハチはなぜ大量死したのか』を読み終わる

先週から読み始めた『ハチはなぜ大量死したのか』を昨日読み終わった。米国で発生したミツバチの大量死を扱ったサイエンス・ノンフィクションである。作者のローワン・ジェイコブセンは、食物や環境に関して新聞や雑誌、ウェブサイトなどに記事を書いているライターということらしい。

ハチはなぜ大量死したのか

2006年の秋から翌年の春にかけて米国各地で起きミツバチの大量死。それまでのミツバチの総数の四分の一ほどが、巣箱に戻らず失踪したという。米国では、こにミツバチの大量失踪死は、「峰群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん)=Colony Collapse Disorder」、頭文字を連ねて「CCD」呼ばれている。

本書は、筆者が養蜂家やミツバチの研究家を取材し、その原因を解き明かそうとする過程をまとめたものである。
本書では、何が異常なのかを明確にするため、本来の健康、健全なミツバチの生態について、詳しく説明した上で、丹念に原因と思われる様々な事象に迫っていく。
米国のミツバチ(セイヨウミツバチ)の天敵であるミツバチヘギイタダニ、ミツバチの躰を蝕む各種の細菌やウィルス、乱開発による生存に適した地域の減少、工業化された農作物生産の中で使用される農薬、またその工業化された農作物生産の大量生産の一環をなす受粉のため酷使されるミツバチ、様々なものがミツバチの生活を脅かしている。
研究者も、養蜂家も「CCD=峰群崩壊症候群」の原因を特定できいるわけではない。むしろこれらの要因が複合的に重なりあったことで、ある限界を超え、精密機械のようなミツバチの生態に狂いが生じ、大量の働きバチが、帰巣途中に息絶えたというのが実態のようだ。

本書は、ミツバチの危機を語ることで、我々を取り巻く自然環境に大きな危機が忍び寄っていることに警鐘をならすものである。ミツバチが働くことができなくなれば、ミツバチに受粉を頼る多くの作物も実らなくなる。
自然は、自ら復元力を持っているが、人間が経済的合理性のみで、それに手を加えたことで、生態系の弱い部分の連環が途切れようとしているのではないか。このミツバチの大量死も、自然の復元力のなせる技なのか、すでに人為的な力があまりにも加わりすぎて、復元不可能なところまで来てしまったのか、結末がわかるのはこれからというところだろう。

本書の解説を『生物と無生物のあいだ』や『できそこないの男たち』などで話題の青山学院大学の福岡伸一教授が書いている。彼が専門とする「狂牛病」と比較しながら、CCDを語っている。
本書によれば、ヨーロッパでは、「CCD」を「狂蜂病」と呼んでいるという。牛も蜂も狂わせてしまった自然の摂理を無視した工業的な農業は、もうとっくの昔に行き詰まっていたということだろう。
それは、私には、米国の低所得者向けの住宅ローンであるサブプライムローンを証券化した資産運用商品の組成、販売、購入に狂奔した現代の資本主義経済と重なって見える。

「デファクトスタンダード (de facto standard)=事実上の(世界)標準 」という名のもtに押しつけられてきた「アメリカンスタンダード」に日本がなびく時代は終わったのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月14日 (日)

『ハチはなぜ大量死したのか』を読み始める

今週半ばに、プライベートちょっと人前で話をしなくてはいけないことがあって、その資料作成が優先で、ブログの更新が滞ってしまった。ようやく資料も完成したので、ブログに向かっているところだ。

小説以外の読書といえば、歴史か心理学系の自分の趣味として興味のある分野、また仕事の直結する経済・金融系のどちらかが多いのだが、時々、自然科学系のノンフィクションが読みたくなる。
最近では、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を皮切りに、『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス)、『もう牛肉を食べても安心か』(文春新書)、『できそこないの男たち』(光文社親書)、『動的平衡』と福岡伸一教授の一連の著作を読み、分子生物学の不思議を感じさせてもらった。

ハチはなぜ大量死したのか

しばらく前からきになっていて、今日、再び家の近くの書店で見かけて、買ったのが、ローワン・ジェイコブセン著『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)だ。
2006年秋から2007年春にかけて、北半球でそれまでの四分の一に及ぶ大量のミツバチが死んだのだという。ミツバチは、蜂蜜(はちみつ)の生産のためにだけ利用されているとばかりおもっていたが、米国ではどうも事情が違うらしい。
商業養蜂家の仕事は、蜂蜜の生産よりも、ミツバチの巣箱を米国の東西南北に運び、農業生産に必要な作物の受粉の媒介者としてミツバチを働かせることの方が、いまや重要な仕事になっているようなのだ。

その農業生産に不可欠なミツバチの四分の一が一度に大量死したという事実。それは、単にハチミツの生産量が減って、ハチミツの値段が上がるといった単純な問題にとどまらず、米国の機械化・工業化された大規模農業のうち、受粉を必要とする多くの作物の生産に支障をきたすということでもある。本書の原題「Fruitless Fall(実りなき秋)」がそのことを暗示している。

そのミツバチ大量死の原因を解き明かしていくのが、本書のテーマである。果たして、何が結論なのか。下手な推理小説より、よほどスリリングな読み物である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 8日 (月)

勝間和代著『会社に人生を預けるな』、不確実な時代のリスク・リテラシーを語る

今年に入りTV、マスコミへの登場が増えた経済評論家の勝間和代。著作の出版も、急増している。彼女が勧めたことで、再び書店に並ぶようになった本もあり、ストレングスファインダーの生みの親であるドナルド・O. クリフトンその孫トム・ラスの著作『こころの中の幸福のバケツ』(日本経済新聞社)などもその1冊である。私が、以前、『さあ、才能に目覚めよう』など、ストレングスファインダーに連なる一連の著作を読みあさった時、この『こころの中の幸福のバケツ』はネット通販などでも在庫切れで、絶版状態だった。勝間ブームで、一気に出回るようになったのだから、その影響力は推して知るべしである。

私は、昨年1月に前々から書店の店頭に積まれていて気になっていた著者の『効率が10倍アップする新・知的生産術』(ダイヤモンド社)を、将棋のプロ棋士上野裕和五段が自らのブログで推薦しているのを見て読んだ。
内容は、現代版『知的生活の方法』といったところだが、特に印象に残っているのは、コンサルティング会社に入った著者が、「勝間の話していることはわからない」と言われたことを紹介しつつ、物事を考える上で「フレームワーク」がいかに大切かということを強調していた点である。先輩コンサルタントたちは、分析の枠組みである「フレームワーク」のない話は雑談としか受け止めなかったという。

すでに発刊されてから3ヵ月ほどたつ『会社に人生を預けるな』を今になって読んでいるのは、最近私自身が、「これまでのような会社のいわれるままに働いていれば、未来が約束されていた時代はもう終わったのではないか」という痛感していたからだ。

会社に人生を預けるな リスク・リテラシーを磨く (光文社新書)

著者は、これまでの日本の雇用の前提だった「終身雇用制」こそが、現在の日本の不振の原因としている。終身雇用制は、定年まで雇用を保証する代わりに、働き盛りの若手社員を働きより安いコストで使い、中高年になると働きよりも高いコストを払うことになるが、それは、高度成長時代のような社会も企業も急速に成長・膨張しているような時代、働きよりも割安で働かせる若年層が多く、働きよりも割高な中高年が少ない時期には成りたっtが、現在のような中高年の方が多くなっている時代には成り立たない。そのような時代に企業が雇用の調整弁として使われたのがコストの安い「非正規雇用労働者」である。辞めさせられない「正規雇用者」を守るため「非正規雇用者」が解雇される。
そのような環境の中で、あえいでいるのが現在の日本の姿といえるだろう。著者は、その解決策の一つとして「終身雇用制」の見直しの必要性について、様々な観点から分析し、述べている。

その一方、そのような「終身雇用制」が崩れざるを得ないであろう社会で今後生きていくために必要なのが、著者がこの本の副題(「リスク・リテラシーを磨く」)に掲げたリスク・リテラシーである。自分の身の回りにあふれるリスクを、発生の可能性と変動幅という観点から正しくリスクとして認識し、それをコントロールするリスク・リテラシーである。
これだけ経済の先行きが不透明な中では、企業もいつ倒産してもおかしくない。終身雇用の枠組みの中で、「会社に人生を預けてしまう」と、会社が倒産したときには、自分には何も残らないということになりかねない。終身雇用制の下で、一つの会社に勤め続けることになっていることを、多くの人は認識していない。リスクと認識できれば、ではそのリスクを最小限の抑えるための対策(コントロール)を考えることになる。

人が勉強をするのは、将来を予測し、リスクを的確に認識し、どう対処するかを考え、実際にコントロールするためという著者の説明は、これから学ぶ子供たちに対する最もわかりやすい「勉強する意味」だろう。

私自身は、すでに自分の働きより企業側が払うコスト(給料)が割高な中高年の世代に入っている。せめてコストに見合った働きはしたいと思っているし、「人生を会社に預ける」という気持ちは持たないでいたい。
果たして、自分が現在持っているスキルが、外に打って出た時に、客観的にどれだけの評価を得られるものなのか、なかなか知りえないところが辛いところだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月28日 (火)

福岡伸一著『動的平衡』を読み始める

『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞を受賞し、一気にブレイクした分子生物学者の著者は、その後も『できそこないの男たち』(光文社新書)を世に出し、前作の劣らず話題になった。
分子生物学というミクロの生命の営みのありようについて、私のような文系人間にも、わかりやすく興味を引くように書かれていている。一方、各種の学問上の発見を巡る学者たちの戦陣争いでの「悲喜こもごも」という極めて人間くさくて、生々しいドラマも織り交ぜて語られ、、その視点の切り替えの巧みさで、読者を飽きさせることがない。
私のような読書好きには要チェックの作者の一人である。

作者が月刊誌『ソトコト』などに連載してきた記事を再編・加筆してまとめたにが、2009年2月の新刊『動的平衡』(木楽舎)である。しばらく前に買って、本棚に並んでいたのだが、ようやく読み始めた。いつも通りの軽妙洒脱な語り口で、読み始めるや、あっという間に「福岡ワールド」に引き込まれる。

著者の語るテーマは、常に我々の身近にあるものから始まり、知らず知らず分子生物学の世界に案内され、「なるほど、納得」というオチになるのだが、半分ほど読みかけた中での「なるほど」を一つ紹介しておきたい。

我々が常々実感することの一つに、年をとる連れ、1年の「あっと」いう間に過ぎるような気がするということがある。そのことの答えとして、世間で語られるのは、「3歳の頃の1年はそれまでの人生の3分の1だが、30歳の1年は30分の1だから短く感じるのだ」という議論である。なんとなく、そうかなとわかったような気になってしまうが、著者は「体内時計」をキーワードにちゃんと答えを用意してくれている。

著者は「完全に外界から隔離され、窓もなく日の出、日の入り、昼夜の区別がつかない、時計もない部屋での生活」という架空の実験を想定する。そのような環境で、過ごした場合、3歳の時の自分と、30歳の時の自分が、自分に時間感覚での1年に長さはどちらが長く感じるか?との問いに対し「30歳の時に感じる「1年」のほうが長いはずなのだ」と答える。

それは私たちの「体内時計」の仕組みに起因する。(中略)細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることがわかっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。
もう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなっているということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。
しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気がつかない。
だから、完全に外界から遮断されて自己の体内時計だけに頼って「一年」を計ったとするれば、三歳の時計よりも、三○歳の時計のほうがゆっくりとしか回らず、その結果「もうそろそろ一年経ったかなあ」と思えるほどに時計が回転するのには、より長い物理的時間がかかることになる。つまり三○歳の体内時計がカウントする一年のほうが、長いことになる。
さて、ここから先がさらに重要なポイントである。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的時間はいつでも同じスピードで過ぎていく。
だから?だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年くらいが経過したかなーと思った、その時には、すでに実際の一年が過ぎてしまっているのだ。そして私たちは愕然とすることになる。
つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間に経過に、自分の生命の回転速度がついていけていない。そういうことなのである。
(『動的平衡』44~45ページ)

「なるほど、納得」である。時間が早く過ぎる要に感じるのは、自分が老い、衰えた証拠なのだ。
だからといって、それを押しとどめるすべがあるわけではないので、そういうものかと理解して、これからの一日一日を有意義に過ごすよう心がけるしか、ないのだろう。
生命のルール、現実はなかなか厳しいものである。

『動的平衡』では、従来の著書のようにテーマが絞られていない分、様々な分野について書かれている。それだけ「なるほど、納得」の範囲も広がるということになる。
ゴールデンウィークの読書にオススメの一冊である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月25日 (土)

将棋に現代社会の行く先を見る梅田望夫著『シリコンバレーから将棋を観る』、著者は将棋観戦のプロだ

『ウェブ進化論』『ウェブ時代をゆく』などの作者梅田望夫氏が将棋の本を書いた。その名も『シリコンバレーから将棋を観る』(中央公論社)である。
著者は、子供の頃から将棋に親しみ、「将棋を指す」だけが将棋ファンではなく、将棋を指さなくても、「将棋観戦」を楽しむファンがいてもいいのではないか?と語る。

以前、私はこのブログで、短歌について

今の短歌入門の形式は、小説家が小説は面白いから、どんどん書いてくださいと勧めているようなものである。小説なら、たくさんの読者がいて、書き手である小説家になるのは一握りなのに、なぜ短歌はいきなり作りましょうになるのだろうか。短歌愛好者の裾野を広げるには、作らないけれど読むのは好きという、短歌ファンを増やすことも大切なのではないか。素晴らしい短歌にふれ、自分の心の歌として口ずさむようになれば、そのうちの何人かは、自分でも作ろう、詠んでみようとするだろう。
2007年4月22日

と書いたことがあり、「短歌」の部分を「将棋」に置き換えれば、思うところは共通しているように思う。

もちろん、将棋には150名ほどの一握りのプロという存在があり、アマチュアの愛好者の裾野の広いので、短歌と将棋を同じ土俵で語るのは、乱暴かもしれないが、「鑑賞するだけ」の愛好者があまり想定されていないという日本の伝統文化の敷居の高さのようなものは共通する点があるかもしれない。

著者は、「将棋を観る」ファンの代表として、昨年(2008年)、新潟での第79期棋聖戦第1局(佐藤康光棋聖・棋王vs羽生善治王座・王将)、パリでの第21竜王戦第1局(渡辺明竜王vs羽生善治名人)で、従来にない試みとしてインターネット上でリアルタイムでの観戦記を書くことにチャレンジした。
本書は、その2つのネット観戦記(第2章棋聖戦観戦記、第5章竜王戦観戦記)を柱に、将棋界の第一人者である羽生善治名人が、結果的に、現代社会の課題をも先取りし、その解決策を示していると語る第1章、夏の第49記王位戦での深浦康市王位の姿から深浦王位の社会性を語る第4章、羽生世代に孤独な戦いを挑む若手棋士のトップ渡辺明竜王について語った第6章、持論である「将棋を観る楽しみ」を書いた第3章、などからなり、最後の第7章が羽生名人と著者の対談で締めくくられている。

私自身、著者と同じ1960年に生まれ、同じような時期の将棋に親しんだこともあり、将棋に対する立ち位置が似ているので、「そうだよな」と納得するところが多いが、ここでは、私が常日頃、興味を持っている「ひとりの人間としてのプロ棋士の生き様」に関する部分をいくつか紹介しておきたい。

まず、棋士について語った部分

棋士というもの、将棋が好きでこの道に入り、(中略)周囲が心配するほど将棋に没頭しなくてはプロにはなれない。プロ棋士になっても、トッププロを目指しての競争が永遠に続く。その競争のプロセスの一つ一つで、必ず「勝ち負け」がはっきりし、その責任のすべてを個が負っていく。そんな世界は、現代社会の中でほとんど存在しない。
(中略)「好きなことをして飯が食える」ようになった彼らの人生に、私たちは羨みの気持ちを抱きつつも、その苛烈さに怖気づき、自分たちが生きている曖昧な世界の居心地の良さを改めて感じたりする。
(『シリコンバレーから将棋を観る』123ページ)

成功(勝ち)も失敗(負け)も、すべて将棋の一手一手を考えて指した自分の責任である。何の言い訳も、他人への責任転嫁もできない。著者の書くように、一般人からは考えられない「苛烈」な、究極の実力社会である。彼らの心の強さというものも、並大抵のものではなだろう。

著者はサンフランシスコで会食した深浦王位、行方八段、野月七段、遠山四段らを話して次のような印象をもつ。

とにかく、まずおそろしく頭がいい。地頭の良さが抜群で、頭の回転が速く、記憶力もいいから、話が面白い。自信に満ちている。会話の中で、相手の真意を察する能力にも、びっくりするほど長けている。だから会話もスムーズに運んで心地よい。(中略)礼儀正しく、若くても老成した雰囲気がふっと漂う瞬間がある。物事に対してすごくまじめで、何事も個がすべてだという感覚が当然にごとく人格にしみこんでいて、自分で物事をさっと決めてその責任を引き受ける潔さが何気ない言葉の端々からうかがえる。(以下略)
(『シリコンバレーから将棋を観る』124ページ)

「自分で物事をさっと決めてその責任を引き受ける潔さ」は、「苛烈」な世界で生き抜く、条件なのだろう。WBC優勝の際の原監督も、選手たちの「覚悟と潔さ」を語った。「潔さ」というのは、これから先の見えない現代社会を生きていくためのキーワードではないかと思っている。

本書の中で、もうひとつ印象に残ったのが、著者の渡辺明竜王に対する見方である。著者は「渡辺の戦略性」という言葉で表現している。

渡辺を取り巻くのは「圧倒的な実績と存在感を持って立ちはだかる羽生世代がまだ油が乗り切っている時期と、自らの二十代とが重なっている」という環境である。そんな中、なんとなく同世代のトップを走っていても、そのことに大きな意味はない。与えられた環境下で、早く大事を成し遂げるには、自らをとりあえずしばらくの間は「相対的な弱者」だと規定し、何かに狙いをつけて「選択と集中」して勝負をしていくことだ。(中略)
他のタイトルは取らぬまま「将棋界の最高位たる竜王だけを五連覇して初代永世竜王になった」という渡辺の達成は、かなり意識的になされたものだと、私は思う。(中略)
竜王戦が、「その年に勢いのある若手がいきなり決勝トーナメントに進める」という構造的な工夫がなされた棋戦で、若手にとってチャンスが大きいこと、その一方で竜王の地位も高く賞金総額も大きいこと、それらをしっかり初めから意識して狙いをつけ、個人事業主・渡辺明の二十代前半の大事業として、竜王戦というものに、彼は集中的に取り組んできたのだと思う。
(『シリコンバレーから将棋を観る』222~223ページ)

著者は、将棋は指さずとも、多くの棋書を読み、棋譜を並べ、棋士と語り、何よりも将棋を愛している。現在行われている第67期名人戦では、某新聞社嘱託のベテラン観戦記者が、対局中に長考している羽生名人にサインを求めるという、信じられない出来事が起きた。
将棋界では、第一人者の羽生名人やその同世代の棋士たち、さらにあとに続く20代の渡辺竜王らによって、革命的な進化を進んだことを本書は語っている。革命的進化を遂げる将棋を「観る」側にも改革は必要なのだ。著者は、自らリアルタイムネット観戦記を書くということで、自らその実験を行い、「将棋観戦」の新しい姿を示してみせた。

羽生名人は、著者との対談の中で、「(従来の観戦記者には)梅田さん以外に同じことをできる人がいない」(『シリコンバレーから将棋を観る』233ページ)と語っている。これは羽生名人の著者に対する間接的な賛辞でもあるだろう。
著者こそが、これからの時代の「将棋観戦」のプロフェッショナルのロールモデルなのだろうというのが、本書の感想の最後の締めくくりである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年4月13日 (月)

『なぜあの人はあやまちを認めないのか』を読み始める

2009年3月新刊の『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(河出書房新社)という本を読み始めた。

著者はキャロル・ダヴリスとエリオット・アロンソンという米国の2人の社会心理学者。サブタイトルには「言い訳と自己正当化の心理学」とあり、原題は「Mistakes Were Made」となっている。
本の帯には、「日常的な出来事から、夫婦間に言い争い、政治家の言動、嘘の記憶や冤罪まで-----誰もが陥りがちな自己正当化の心理メカニズムを、豊富な実例を交えながら平易に解説。」とある。
最初に、吉祥寺に出かけた時に、書店で見つけた時には2200円という本体価格に気になりながらもパスしたのだが、やはり気になっていて、その後職場に帰りに寄った書店の心理学のコーナーで探すも見つからず、先週末家の近くの書店で見つけた時には、即購入した。

日常生活の中で、本当はこんなことしたくないのだがと自分の主義主張に合わないことをせざるを得ない時、自分の中で、なにがしかの言い訳をして正当化してしまうことは、ままあることではないだろうか。

現在、母と一時同居していると、この母が自分は気がついていないうちに、自己正当化をしていることに気がつく。たとえば、周りからは、「健康のために少し歩いた方が良い」と言われていたのだが、本人はあまり歩くことが好きではない。結局、自ら積極的に歩くことはなかった。その際の彼女の言い訳は「私は扁平足だから・・・、(歩きたくてもすぐ疲れて歩けない)」である。確かに扁平足(へんぺいそく、足の裏にほとんど「土踏まず」がない)なので、長距離を歩き続けると「土踏まず」がある人に比べて疲れるのだろうが、一歩も歩けないと言うわけではない。

母の話は、本人だけの問題であるが、人に迷惑をかける自己正当化もある。昨年、勉強して資格を取得した公認不正検査士(CFE)の必修の知識として、「不正のトライアングル」という考え方がある。不正が行われる時には、そこに「動機」「機会」「正当化」の3つが揃っているというものである。例えば、職場で「現金の横領」という不正が起きたケースを調べてみると、横領を行った犯人は、「子供の教育費のため生活資金が不足していた」(動機)、「職場で現金を取り扱える立場にいた」(機会)、「横領するのではなく一時的に借りるだけ」(正当化)という3つが揃っているというものである。

まだ読み始めたばかりだが、身の回りの些細なことから、犯罪にいたるまでどこでも自己正当化は行われていることがわかる。やっかいなのは、自己正当化という形で、自分自身を欺いていることに自分も気がついていないということである。
本の帯に載っていたウォール・ストリート・ジャーナルのコメント「おもしろくて、ためになって、これは自分のことじゃないかと気づいて、ぞっとする」が本書にふさわしい評価のような気がする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月15日 (日)

『なぜGMは転落したのか』(ロジャー・ローウエスタイン著、日本経済新聞出版社)を読む

自動車メーカーのトップ企業として、米国そして世界に君臨してきたGM(ゼネラル・モーターズ)。いまや、米国政府の支援なくしてはその存続も危ぶまれるような状態にある。
日本での報道だけ見ていると、サブプライム・ローン問題に端を発した世界金融危機が、需要の減少を招き、GMの売り上げも急減したことが、経営危機を招いているような印象を受けるが、必ずしもそれだけが原因でないことが、この本を読むとわかる。

サブタイトルが「アメリカ年金制度の罠」となっている本書が描くGM凋落の原因は、GMが米国そして世界の自動車市場を牛耳っていた1960年代までに、全米自動車労組(UAW)がストライキを武器に労使交渉で勝ち取った退職後の従業員の企業年金制度である。
GMの歴代の経営者たちは、従業員の給料という目先のコスト負担よりも、直接、財務諸表には現れない退職後の従業員の年金支給額の引き上げや制度の充実という形で、将来に負担の先送りしてきた。
GMがビッグスリーのトップ企業として米国の自動車市場を過半のシェアを持ち、市場を支配し、自由に価格の引き上げも出来た時代が未来永劫続くのであれば、将来の年金支払い負担も維持できたかも知れない。
70年代から日本車の輸出攻勢、その後の米国現地生産で、盤石だったGMの市場シェアも徐々に低下していく。そして、年金制度に手をつけなければ、企業の存続そのものが危ういとなっても、退職者の既得権を奪うことは簡単ではない。なかなか、抜本的な改革は進まないまま、時間だけが過ぎていく。
思い起こせば、10年ほど前に、日本でも会計制度の変更で、企業の退職金や退職年金の支払義務を、退職給付債務として貸借対照表に表記することが義務づけられた。そのルーツは、米国の企業の企業年金という隠れ債務が、実は業績に大きく影響することが認識され、米国で会計制度が変更されたことの日本に輸入したに過ぎなかった。

米国には日本のような国による本格的な年金制度、健康保険制度はない。米国の一流企業は、人材を確保するため、あるいは労使交渉の中で組合からに求めに応じ、年金制度や健康保険制度を拡充させてきたが、退職者数が増加しコスト負担が上昇する一方、GMに限らず世界規模での競争の中で、十分な利益を確保できている企業ばかりとは言えず、老舗企業の多くがその負担に耐えられなくなっているようだ。ある時期から年金制度を凍結してしまうという選択を行う企業もあったようだが、究極の選択肢は、倒産による年金債務の切り捨てである。本書は、米国では2008年に書かれている。本書を読む限り、GMが現在の年金制度を維持したまま存続することは無理だろう。GM経営陣により、究極の選択がなされても何の不思議もない。
未来永劫存在し続けることに何の保証も根拠もない、民間企業が退職後の従業員にまで手厚い保障を行うことの限界を、本書は語っている。

また、日本人という立場で読むと、我々が普段国際的に何かを考える時、日本で社会のインフラとして導入されている各種制度が、他国でも当然導入されていると思いがちだが、必ずしもそうではないこともあるということである。「目から鱗が落ちる」思いだ。

とはいえ、日本での国による年金制度が本当に安心して国民の老後を託せる仕組みなのかも甚だ心もとなくなっている。
個人としては、勤務している会社の企業年金が退職後の生活の支えの一つなのだが、団塊の世代の大量退職が進み、彼らが企業年金の受給者となった時には、GMが抱える問題と似たような問題を、日本で企業年金を整備している会社も抱えることになるのではないだろうか。
本書は、企業年金は払い手である会社が倒産してしまえば、露と消えるはかない存在であるものであることを我々に教えてくれる本でもある。常に、団塊の世代の少し離れて追いかけていかざるを得ない我々の世代は、働ける限り、自分の腕と才覚で自分の生活資金ぐらいは稼げるぐらいになっておかなくては、生き残っていけないのではないかと思う。「不公平だ」と文句を言いたいが、言っても現実の前には何の効果もないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月17日 (火)

松村由利子著『与謝野晶子』を読み終わる

以前、このブログでも紹介した歌人の松村由利子さんが書いた『与謝野晶子』が2009年2月10日に中央公論新社から発刊された。

明治11年に生まれ、大正、戦前の昭和を生き、昭和17年にその生涯を終えた与謝野晶子を、松村さんはどう読み解いたのか。
与謝野晶子は、歌人として最も有名で、松村さん自身も2冊の歌集をまとめ、2冊の短歌エッセイを出版しているので、歌人としての与謝野晶子の紹介が中心なのかと思って読むと、そうではない。もちろん、与謝野晶子が折々に詠んだ膨大な短歌の読みと理解は背景にあるのだが、この著作の中では、短歌とその分析・解説は、それを詠んだ時々の与謝野晶子の心情に迫るものとして効果的に配されるにとどまっている。

たまたま『与謝野晶子』の次に読んでいるちくま新書の2009年2月の新刊『越境の古代史』(田中史生著)の中に

「ほとんどの学問に言えることであろうが、無限に拡がる事実の中から何を選び出し分析するかは、分析対象そのものの重要性というよりも、そのものを重要と認識して分析を行おうとする研究者の“目”の問題である」(『越境の古代史』18ページ)

という一文がああった。

松村さんの書いた「まえがき」の中に、松村さんがどのような“目”で与謝野晶子という存在を捉えたかのヒントがある。

「与謝野晶子は美しいものが大好きだった。詩歌や童話、男女の愛、自立した生き方―そのどれもが大切だった。だから歌を詠み、童話をつくり、社会評論を書いた。
晶子の残した仕事は驚くほど多い。出版された歌集が合著を含め二十四冊、評論やエッセイをまとめた本は十五冊に上る。童話は百篇、詩や童謡は六百篇を超え、小説や歌論集も著した。また「源氏物語」をはじめとする古典の現代語訳にも取り組んだ。これほどさまざまな分野で活躍した晶子の全体像に迫るのはなかなか難しい。(中略)
私は長い間、ワーキングマザーとしての晶子にひかれてきた。たくさんの子どもを育てながら、晶子は常に新しいテーマ、新しい分野にチャレンジし続けた。(中略)晶子はずっと、男女が同じように家事や育児にかかわる大切さ、女性が働いて自立する誇らしさについて書き続けた。その文章は、つい昨日書かれたもののように瑞々しく、自由な発想に満ちている。(中略)
優れた詩人は未来を見晴るかす力をもつ。与謝野晶子もその一人だ。(中略)先の見えない時代、私たちは閉塞した思いにとらわれがちだ。しかし、晶子の言葉を読むとき、胸の中を風が気持ちよく通ってゆく。明るく力強い晶子の言葉の数々を、多くの人と分かち合いたい。」(『与謝野晶子』1~3ページ)

目次から本書の章立てを紹介すると、
Ⅰ 科学へのまなざし
Ⅱ 里子に出された娘たち
Ⅲ 「母性保護論争」の勝者は誰か
Ⅳ 童話作家として
Ⅴ 聖書への親しみ
となっている。

この中で、松村さんが最も読者に知らしめたかったのは「Ⅲ「母性保護論争」の勝者は誰か」の章だと思う。
「母性保護論争」とは大正7年から8年にかけて女性解放を訴えた平塚らいてう、山川菊栄らと与謝野晶子の間で繰り広げられた、女性の働き方を巡る論争である.。この必ずしも論点がかみ合わなかった論争のでの、晶子の主張の中に、松村さんが「まえがき」で書いた「男女が同じように家事や育児にかかわる大切さ女性が働いて自立する誇らしさ」が説かれている。松村さんの文書を読む限り、平塚らいてう、山川菊栄の議論は戦前の日本という時代の枠組みという制約にとらわれた議論であり、晶子の語るものは、時代にかかわらず女性が働いて自立することの誇らしさ・素晴らしさの普遍的な意義を語っているように思える。
また、それは、男女が等しく同じようにということを信条にしていた与謝野晶子にとっては、男女がお互い依存するのではなく、人として働いて自立し、信頼しあって生きることの誇らしさ・素晴らしさを語っていることと同義でもあったろう。

300ページ近い、本書が企画され、本として世に出るまでには1年以上の時間がかけられたはずである。昨年9月以降、本格化した世界金融危機、その後の世界同時不況の中で、これまでにくらべ働くこと自体が難しくなった時代に、本書が世に出ることになったのも何かの巡りあわせではないかと思う。

先に紹介した『越境の古代史』では先ほどの一文に続いて、

「また、社会がある研究を重要なものとして受けとめるとき、その評価は単にその研究の分析力が高いことだけが理由ではない。そこにある視座が、研究者の一身体を超えて広く学会、さらには学を超えたある一定範囲の社会に共有されうるものだからである。」(『越境の古代史』18ページ)

と書かれている。

本書で松村さんが紹介している与謝野晶子が語る、女性が働いて自立することの意義や、それを実現することによって到来するであろう社会のイメージは、まさに一定範囲の社会で共有されうる可能性を持つものであろう。
本書を通じて、少しでも多くの人が、晶子の考え方に触れ、自らの働き方や社会や家庭でのあり方を考える機会になればと思う。

<参考>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月25日 (木)

上橋菜穂子著『天と地の守り人第三部』を読む

軽装版で読み続けてきた上橋菜穂子「守り人&旅人」シリーズ。先日、シリーズ9作目に当たる『天と地の守り人 第二部 カンバル王国編』を読み終わり、残るは1冊だけとなり、これまでの例にならえば軽装版の第10作の出版を待つところだが、結末を早く知りたいので、地元の図書館で単行本で『天と地の守り人 第三部』(新ヨゴ皇国編)を借りてきた。

天と地の守り人〈第3部〉 (偕成社ワンダーランド)

今日、田舎から連れてきた母親を病院に連れて行くために仕事を休んだので、病院で待っている間、一気に読み上げた。

前々作で、このシリーズを主役の2人、女用心棒のバルサと新ヨゴ皇国の皇太子チャグムがロタ王国で再会、前作では2人でバルサの故郷カンバル王国に向かう。カンバル王国で、南の大国タルシュ帝国に狙われ危機にある新ヨゴ皇国を救うため、チャグムはカンバル王からとロタ王国の同盟の約束を取り付ける。
前作の最後で、バルサとチャグムの2人は分かれ、バルサは新ヨゴ皇国に向かい、チャグムは同盟を実現するため、ロタ王国に戻る。

本作では、新ヨゴ皇国に戻ったバルサ、ロタ王国で同盟を成し遂げたチャグムの新ヨゴ皇国への凱旋という2つの軸で話が進む。ロタとカンバルの援軍を率いて新ヨゴの王宮に戻ったチャグムを巡る宮殿内での人間模様、幼なじみのタンダを探すバルサ。2人のどちらが、本作の主役かといえばチャグムであろう。父である王から疎まれたチャグムが苦難の旅の末、故郷に凱旋したチャグムの運命の行く末が本作の最大の見所だろう。

10冊にわたった「守り人&旅人」シリーズがこれで終わり、もう読むものがないというのが何とも寂しい限りだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月10日 (水)

改めて1929年の大恐慌を振り返るためガルブレイスの『大暴落1929』を読み始める

この2ヵ月ほど、ずっと買おうかどうしようかと思っていた本を、ようやく昨日買い、今朝から読み始めた。すでに亡くなった米国の経済学者ジョン・K・ガルブレイスの『大暴落1929』(日経BPクラシックス)である。

我々の世代には、ガルブレイスは、ベストセラーになった『不確実性の時代』の著者として印象深い。当時(1978年)高校生だった私は、『不確実性の時代』を読んで、経済学の大家の著作でありながら、歴史を重視したいわば「米国経済史」中心の記述に、やや書名との違和感を感じた覚えがある。一方、大学でも歴史を学びたいけれど、就職を考えれば文学部では心もとないと考えていた自分に、経済史という形で経済学部で歴史を学ぶ手だてがあることを教えてくれた本でもあった。

この『大暴落1929』は、米国でも何回か改訂され、日本でも過去に邦訳されたものがある。今回の底本は1997年版を翻訳したものである。

まだ、半分くらい読んだところだが、大恐慌の時の記述を読んでいると、これが80年前の話だろうかと疑うほど、起こったことは、今回の金融危機とよく似ている。当時は、イギリス発祥の会社型の投資信託が大きな影響力を持ち、彼らの手法も、レバレッジである。投資信託会社が、著名な経済学者を招き、自らの投資手法の正当性を宣伝したなどという記述は、しばらく前に破綻したヘッジファンドLTCBを思い起こさせる。

結局、人間は歴史から学ばないのだと思うと悲しくなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月30日 (日)

守り人&旅人シリーズ第9弾、上橋菜穂子著『天と地の守り人第二部』軽装版発売

先週金曜日(2008年11月28日)に、いつも会社の帰りに立ち寄る書店に寄り、児童文学のコーナーに行くと、ようやく上橋菜穂子さんの守り人&旅人シリーズの軽装版の9冊目『天と地の守り人第二部』が並んでいた。もちろん、さっそく購入。


前作で、ロタ王国で新ヨゴ皇国の皇太子チャグムと女用心棒のバルサが再会、バルサの故郷であるカンバル王国へ向かうところで終わる。
そして、今回はそのカンバルでの物語である。

まだ、解説と最初の数ページしか読んでいないが、今週の通勤電車では退屈せずに時間が過ごせそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 7日 (金)

男と女の成り立ちを探る福岡伸一著『できそのないの男たち』を読む

昨年、『生物と無生物のあいだ』でサントリー学芸賞を受賞した福岡先生の新著が出たと新聞で知った私は、すぐさま書店で買い求めた。前著『生物と無生物のあいだ』が、生物とは、生きているとはどういうことかについて、分子生物学の歴史や、その中での研究者たちの生き様も交えて興味深く語った作品だったのに対して、光文社新書の2008年10月の新刊として出された本書『できそのないの男たち』は、生物学の立場で見たときのオスとメスの違い、人間においては男と女の違いがどのようになっているのかを、前著のように自らの体験、学界での研究の歴史、その人間ドラマも交えて語ったものである。



著者曰く、昆虫のアリマキには、春から秋にはメスしか存在せず、メスがメスを産む。冬を迎える時だけ、メスばかりを生んでいたメスが急にオスを産み、オスとメスが交尾をし産卵し越冬する。無事に冬を越えると、卵から孵化するのは全てメスで、またメスだけでメスばかりを産み続ける。

男の立場から見ると、「アリマキのオスは何のために冬を迎える時にだけ産まれるのか?」と思ってしまう。

著者は「強い縦糸と細い横糸」という節を設けて、その疑問に答えてくれる。

「母が自分と同じ遺伝子を持つ娘を産むこの仕組み、すなわち単為生殖は、効率がよい。今でも単為生殖で増殖している生物はアリマキを始めたくさん存在する。好きなときに、誰の助けも必要とせず子どもを作ることができる。現在、二つの性を持つ生物がその一生を費やさねばならないコートシップの営為、つまり生殖にいたるための様々な面倒な手続きが一切不要であるから。
しかし、この単為生殖のシステムにはひとつだけ問題点があった。自分の子どもが自分と同じ遺伝子を受け継いで増えていくのはよい。しかし、新しいタイプの子ども、つまり自分の美しさと他のメスの美しさをあわせ待つような、いっそう美しくて聡明なメスを作れないという点である。環境の変化が予想されるようなとき、新しい形質を生み出すことができない仕組みは全滅の危機にさらされことになる。(中略)
メスたちはこのとき初めてオスを必要とするようになったのだ。
つまり、メスは、太く強い縦糸であり、オスはそのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。生物界においては普通、メスの数が圧倒的に多く、オスはほんの少しいればよい。アリマキのように必要なときにだけ作られるものある。(中略)
ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ「使い走り」。現在、すべての男が行っているのはこういうことなのである。アリマキのオスであっても、ヒトのオスであっても。」(福岡伸一著『できそこないの男たち』183から184ページ)

自分の母親の顔を思い出し、妻と子ども3人を見て、そういうことかと改めて思った次第である。3人の子が、激動する現在の世界で生き抜き、生き残る力を備えていることを祈るのみである。

<関連する記事>
2008年4月15日:福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読み始める
2008年4月17日: 生命の不思議を感じさせてくれる福岡伸一著『生物の無生物のあいだ』を読み終わる
2008年4月20日:福岡伸一著『プリオン説はほんとうか?』を読み始める

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月23日 (木)

倉都康行著『投資銀行バブルの終焉』を読み終わる

サブプライム問題に端を発した世界の金融危機に関する本を何冊か読んできたが、知人のmacky-junさんのブログ「神楽坂のキャピタリスト」の中で紹介されていた倉都康行著『投資銀行バブルの終焉』(日経BP社)を読んでみた。

著者は、旧横浜正金銀行を引き継いで誕生した東京銀行(1996年三菱銀行と合併し、現在の東京三菱UFJ銀行)の香港、ロンドン支店勤務の後、米国のチェース・マンハッタン銀行に移り「内外の証券や金融派生商品などのディーラーや商品開発という、市場部門での仕事を長く担当してきた」(『投資銀行バブルの終焉』15ページ)と自ら紹介しているように、金融の現場で、投資銀行の隆盛を見続けてきたビジネスマンである。

預金を集め、それを貸出に回して預金金利と貸出金利との利鞘で利益ろあげる商業銀行に対し投資銀行は企業の発行する債券や株式を引き受けて投資家に販売し、引受手数料や販売手数料で収益を上げる。日本で言えば証券会社に当たる。ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリル・リンチなどが大手である。今回の金融危機の中で経営が悪化し2008年5月にJPモルガン・チェースに救済合併されたベアー・ズターンズは米国第5位、2008年9月に経営破綻したリーマン・ブラザーズは米国4位の投資銀行だった。

本書は、その投資銀行が隆盛を極め、しかしその飽くなき利益追求の果てに、サブプライムローンの証券化というビジネスにのめり込み、破綻していったかを描いている。(この本が書かれた時点では、リーマン・ブラザーズはまだ破綻に至っていなかったが、破綻もやむなかったというのは、本書を読むとよくわかる)

今回の金融危機は、詳しく調べれば調べるほど、まさに欧米を中心とした世界の金融機関での信用バブル、金融バブルであるということが見えてくる。金融機関が自らの利益確保のために、金融工学を駆使し、従来の金融の常識を逸脱してリスクをとり、破綻するか破綻寸前に追い込まれるところが続出している。そのリスクテイクは、主に投資銀行を中心とした金融の世界の中で行われてきたことではあるが、しかし、投資銀行とともに今回の騒動の主役でもあり被害者でもある商業銀行は、自己資本比率規制というルールに縛られている。
一定規模の貸出資産を維持するには、一定規模の自己資本を維持しなければならない。証券化商品の評価損・売却損がかさみ、多額の赤字を計上し、資本が毀損するとその資本の減価分に見合う貸出資産を減らさなければならない。それは、貸出先から貸出金を回収するということであり、ここにいたって金融機関の世界でのマネーゲームの結末が、貸し渋りという形で実態経済に影響してくる。

まだまだ、回復への道のりは長いだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 8日 (水)

脳学者茂木健一郎の悩みに河合隼雄さんがヒントを与える河合隼雄・茂木健一郎対談集『こころと脳の対話』

一昨日、河合隼雄さんの1周忌を弔うように出版された対談集として『こども力がいっぱい』(光村図書出版)を取り上げ、その中から河合さんと宇宙飛行士の毛利衛さんの対談の内容の一部を紹介したが、同じように1周忌前後に出版された対談集がもう1冊あった。河合さんと脳科学者の茂木健一郎さんとの3回の対談をまとめた『こころと脳の対話』(潮出版社)である。

対談そのものは、初回が2005年11月に東京のホテルの一室で、2回目が2006年2月に京都にある河合さんの研究室で、第3回は2006年4月に茂木さんが講師を務めるカルチャースクールの連続講座に河合さんが特別ゲストとして招かれるという形で行われている。
普段は、聞き手に回る河合隼雄さんが、この茂木さんとの対談では全体を通して、喋る側に回っているのが印象的である。それは、第3回の対談の締めくくりの2人の会話に端的に表れている。

<河合>しかしね、考えたら 、いつも僕、茂木さんにうまいことやられて、しゃべりまくっているんだけれど、本当は脳の話をもうちょっとしてもいいんです。
<茂木>いえいえ、ちゃんと脳の話につながっていますんで。
(『こころと脳の対話』203ページ)

そこは、NHKの「プロフェッショナル-仕事の流儀」で、数多くのプロフェッショナルな人たちのインタビュアーを務める茂木さんの面目躍如というべきであろうか。
むしろ、対談時に43歳(1962年10月生まれ)だった茂木さん、自ら抱える悩みを、臨床心理士である河合さんにカウンセリングしてもらっているようにも読める。対談に中では、脳学者として「クオリア」(感覚の持つ質感)というものを研究テーマにし、脳と心の関係(心脳問題)を研究している茂木さんならではの悩みが披瀝される。ものすごく簡単に要約してしまえば、「心の問題は科学で扱えるのか?」という問題だと私は思う。読み終わってから改めて考えると、それは40代前半の茂木さんにとって、ある種の「中年クライシス」(中年期の危機)だったのかも知れないと思う。茂木さんが自ら見た夢を語り、京都の河合研究室で箱庭を作り、その夢や箱庭に現れたものを河合さんが河合流に説明していく。
それは、茂木さん個人の夢や箱庭に現れた茂木さん個人が直面している問題を2人で考えるという形にはなっているのだけれど、どこかで普遍的なものに繋がっていて、読む者を納得させる。

第1回では、茂木さんの見た夢「イギリスでバスで旅行をしていて、そのバスの中に赤い服を着た5~6歳の小さな女の子が乗っていて、それが誰だかわからない」との問いに、の河合さんがいくつかの見方を説明し、それをヒントに茂木さんが自らの考えを深めていく。
また、第2回の対談の際に、茂木さんが作った箱庭では、箱庭作りで使ったニワトリやゴリラの人形が心を読み解くヒントになる。
この時、茂木さんが作った箱庭は、河合さんの訃報に接した際の茂木さん自身のブログの記事に写真が載っている(茂木健一郎:クオリア日記、2007年7月21日河合隼雄先生のこと

「こころ」と脳について、関心のある方は、一読されるとよいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 6日 (月)

季刊誌「飛ぶ教室」での河合隼雄さんの対談をまとめた『子ども力がいっぱい』から毛利衛さんの「受け入れる力」

元文化庁長官で心理学者の河合隼雄さんが2007年7月16日に亡くなって1年余。一周忌を弔うように、河合さんゆかりの本が何冊か出版された。
2008年8月に出版されたのが、しばらく前にこのブログで紹介した『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』(村山正治・滝口俊子編、創元社)と作家の小川洋子さんとの対談をまとめた『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)。

ちょうど一周忌にあたる2008年7月に出版されたのが、今日紹介する『子ども力がいっぱい』(光村図書出版)である。

児童文学をテーマにした光村図書の季刊誌『飛ぶ教室』での「あなたがこどもだったころ」と題した著名人の子ども時代をテーマにした対談をまとめたものである。「飛ぶ教室」は、河合さん自らが編集委員に名を連ねていたこともあり、様々な形で積極的に関わっていたようだ(「飛ぶ教室」2008年冬号での今江祥智氏と山中康裕氏の対談から)。「飛ぶ教室」は1981年12月に創刊され1995年にいったん休刊、2005年に復刊している。河合さんは休刊前の旧「飛ぶ教室」でも「あなたがこどもだったころ」という対談を行っており、現在『あなたがこどもだったころ』として講談社+α文庫に収録されている。

今回の『子ども力がいっぱい』にまとめられた対談は、2005年の「飛ぶ教室」の復刊第1号から第6号まで連載され、最後の対談となった女優三林京子さんとの対談は2006年5月に行われていたが、河合さんがその直後に脳梗塞で倒れたこともあり、河合隼雄追悼号となった2008年冬号に掲載された。今回復刊1号から6号までの対談と併せて7人との対談が本にまとめられた。対談相手は、どういう基準で選ばれたのかはわからないが、よくこれだけのメンバーが集まったものだと思えるほどそうそうたる顔ぶれである。

第1号山本容子(銅版画家)
第2号鶴見俊輔(哲学者・評論家)
第3号筒井康隆(作家)
第4号佐渡裕(指揮者)
第5号毛利衛(宇宙飛行士・理学博士)
第6号安藤忠雄(建築家)
第12号三林京子(女優)

どの対談相手も個性的な人物ばかりで、味のある対談になっているが、これまであまりこのような場に登場することがなかった日本初の宇宙飛行士の毛利衛さんの素顔がのぞけたのは興味深かった。

宇宙飛行士になったことについて次のようなやりとりがある。

<毛利>たまたま運が良かったんじゃないですか、本当に。同時に子ども時代からの自分を見てくると、何かすごく期待されているわけでも、またそういう巡り合わせではないけれども、いろいろなものがちょっとしたぎりぎりのところでうまくかみ合ってきた。それで宇宙に行けたというのがわかりますね。ちょっとしたところをうまく生き延びてこられたのが影響していると思いますね。
<河合>自分から、これをやろう、あれをやろうというんじゃなくて、ちょっと待っているときに、うまく来て、来たのにすうっと乗ってという感じはありますね。(一部略)
<毛利>それは、確かにありますね。
(中略)
<河合>でも、大事なことは、それに応える力があったということですね。そういうのに応えられて、また次に応えられる。来たものをうまく受け止めてやれる力、環境をうまく受け入れる力と言ってもいいでしょうね。それがあったわけですよ。
<毛利>その性格がどこから来たかはわかりませんけれども、八人兄弟の末っ子ということもあったかもしれませんね。
(『子ども力がいっぱい』140~141ページ)

このあたりのやりとりが、この毛利さんの特長をもっともよく表していると思われたのだろう対談のタイトルは「環境をうまく受け入れる力」となっている。

インタビューを終えた後のコメントの中で、河合さんは
「このように与えられた条件を最大限に生かす毛利さん力がよくわかって感心した。これも本人に言わせれば「たまたま運がよかったんじゃないか」ということになるが、その「運」も受け止め方によって悪運になるかもしれない、ということをわれわれは知っておかなくてはならない」(『子ども力がいっぱい』144~145ページ)

「運」も力のない人にとっては、悪運になるかもしれないというひと言は、我が身を振り返っても思い当って耳が痛い。常に、自分の力を蓄え、磨いておかなければならないということだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 4日 (土)

守り人&旅人シリーズ第8作『天と地の守り人 第一部』(上橋菜穂子著)を読み終わる

10月に入り、上橋菜穂子さんの「守り人&旅人」シリーズの最後を締めくくる『天と地の守り人』三部作の第一部ロタ王国編が軽装版で登場した。

『精霊の守り人』から始まった守り人&旅人シリーズの面白さにすっかりはまってしまい、第1作の『精霊の守り人』を新潮文庫で読んで以来、文庫が待ちきれず、それより速く出版される偕成社の軽装版が出版されたところですぐ買って読み継いできた。

女用心棒バルサと彼女に助けられた新ヨゴ皇国の皇太子チャグムの物語も歴史大河小説の趣を醸し出している。これまでの物語の中で、新ヨゴ皇国の周辺のカンバル王国、サンガル王国、ロタ王国、タルシュ帝国の歴史や内情が語られてきた。そして、各国を巡る国際政治情勢が2人の運命を翻弄していく。

前作『蒼路の旅人』で海を隔てた南の強国タルシュ帝国に捕虜として捕らわれ、その野望を知った新ヨゴ皇国の皇太子チャグムは、タルシュ帝国から新ヨゴ皇国に送り返される途上、ある思いを抱いて船から海に身を投げ、行方知れずとなる。
本作『天と地の守り人 第一部』では、チャグムはタルシュ帝国の捕虜になる前に戦死したことになっており、新ヨゴ皇国ではすでに葬儀も行われている。
女用心棒バルサは、彼女あてに託された手紙を受け取り、チャグムが死んでいないことを知り、チャグムを探すため、ロタ王国に向かう。
チャグム探しの旅の中で、バルサにもチャグムを取り巻く複雑な国と国との駆け引き、国の中での主導権争いなどが少しずつ明らかになっていく。
バルサはチャグムを探し出すことができるのか…?

いつもながら読み始めると、ぐいぐいと物語の世界に引き込まれ、ほとんど1日で読み終わってしまった。この物語もあと2冊、読みおわってしまうのが、もったいないような、でもはやくどういう結末になるのか知りたいような、読者としては複雑な心境である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月29日 (月)

お笑いコンビ・サンドウィッチマンの『敗者復活』読む

昨年12月の漫才の「M-1グランプリ」で優勝したお笑いコンビのサンドウィッチマン。土曜日の新聞に『敗者復活』(幻冬舎)というタイトルの本の広告が載っていた。

たまたま、2人が優勝した「M-1グランプリ」の放送を見ていたので、50組以上の準決勝敗退者の中から、敗者復活の1組に勝ち残り、9組で争う決勝でトップの成績で、優勝を決めるファイナルの3組に勝ち残り、優勝の栄冠を勝ち取った姿が印象に残っている。

本では、コンビを組む伊達みきお(本の表紙左)、富澤たけし(表紙右)の2人の生い立ちから始まり、仙台の高校ラグビーでの出会い、一度は就職した伊達の話芸に惚れ込んでいたネタ作り担当の富澤が、コンビ組もうと誘い続け伊達も祖父の死を契機に誘いに応じたこと、23歳で上京したが、30歳までアルバイトをしなければ生活できなかったこと、売れない時期伊達は富澤が自殺するのではないかと心配したこともあること、30歳でこのままではいけないとお笑いに仕事に真剣に取り組み少しずつ注目され、テレビにも出る機会が増えたことなどを、2人が交互に語っていく。

2005年、30歳を期に一念発起をしたところで、その年の第5回「M-1グランプリ」の準決勝進出50組に残った。翌2006年の第6回での目標は当然、決勝進出であったが、その年も準決勝どまり。
そこで、戦略家でもあるネタ担当の富澤は、2007年こそ決勝に残ると決め、過去の伸助・竜助の漫才や「M-1決勝」のDVDを見て徹底的に研究をする。
しかし、2007年も準決勝で決勝進出8組に残ることができず、決勝当日、大井競馬場で行われた敗者復活戦の全てを賭けることになった。

その後は、すでに知られている通りだし、全てを書いてしまうと、ネタバレになってしまうので、「M-1グランプリ」決勝でのエピソードは、本を読んでいただければと思う。

今時、珍しい苦節10年を経てのベタなサクセス・ストーリーである。しかし、なかなか夢を見ることができない時代・世相だからこそ、33歳の2人のサクセスストリーに、多くの人が共感するのだろう。
2人は、お笑い芸人の登竜門である「M-1グランプリ」に優勝したからといって、浮ついたようなところは、この本からは感じられない。
ネタの内容で勝負できる本格派のお笑い芸人として、長く活躍してほしいものである.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月23日 (火)

ドトールコーヒー創業者の座右の銘「因果倶時(いんがぐじ)」、鳥羽博道著『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』(日経ビジネス人文庫)より

長く日本が不況のせいもあり、実業界で成功した創業者の一代記のようなものもめっきり少なくなったと思うが、今月(2008年9月)の日経ビジネス人文庫の新刊のうちの1冊『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』(鳥羽博道著、日経ビジネス人文庫)は、その例外と言えるだろう。底本は1999年にプレジデント社から刊行された『想うことが思うようになる努力』で、文庫収録にあたり改題されたようだ。

著者の鳥羽博道氏は、昭和12年生まれ。埼玉県出身で、高校中退後、いくつかの職場を転々としたあと、ブラジルのコーヒー農園で3年働いた後、昭和36年に帰国、翌年にコーヒー豆の焙煎加工卸業のドトールコーヒーを創業、その後、喫茶店経営にも進出し、現在はグループ合計で約1500店舗を展開する一大チェーンに育てあげた。現在は、社長を退き名誉会長の職にある。

我が家の近くの駅前の大型スーパーの1階にも、ドトールコーヒーが出店している。休日の朝、そこまで片道約30分の道を歩き、コーヒーを一杯飲んで、帰ってくるというのが、健康のための日課になっていて、ドトールコーヒーの存在は私の生活の一部に組み込まれている。そんな縁もあって、読んでみた。

鳥羽名誉会長が経営の原点として強調するのは、言い古された言葉かもしれないが「顧客第一主義」である。創業間もない頃、ある経営セミナーに参加した際、「顧客第一主義」という言葉を聞いて深く感動したという。「それ以来わたしはさらに自信を深めて、顧客第一主義というものをどこまで深く、強く推進できるかという一心でやってきたと言っても過言ではない」(『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』136ページ)とまで書かれている。
顧客第一主義とは、お題目としてはどこの企業も掲げているが、この創業者の本腰を入れた取り組みが、コーヒーショップチェーンの激しい競争の中でも、ドトールコーヒーが生き残っている理由の一つだろう。

また、その鳥羽名誉会長の座右の銘として語られているのが、仏教の「因果倶時(いんがぐじ)」という言葉である。

「私が座右の銘にしている言葉に、「因果倶時」というものがある。「原因と結果というものは必ず一致するものだ」と釈迦が説いた言葉だ。現在の「果」を知らんと欲すれば、つまり、現在の自分がどういう位置にあるかを知りたいと思うなら、過去の原因を見てごらんなさいということだ。原因を積み重ねてきた結果として今日がある。原因と結果は一致している。そして、未来の「果」を知らんと欲すれば、つまり、将来自分はどうなるだろうかと知りたいのであれば、今日一日積んでいる原因を見れば分かる。自分自身が毎日、未来の結果の原因を積んでいるということだ。
人生の真理をこれほど厳しく、鋭く突いている言葉はないと思う。この言葉の意味を初めて知った時、一日、一時間どころか、一分、一秒すらおろそかにはできないと、息の詰まるような思いがしたものだ。」(『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』220~221ページ)

現在の自分が過去の自分の延長線の上にしかあり得ないように、今日の自分の積み重ねの先にしか、将来の自分の姿はない。将来を見据えて、日々無為に過ごすことがないようにしていくしかない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月22日 (月)

サブプライム危機を分析する竹森俊平著『資本主義は嫌いですか』を読み始める

先週からの日本経済新聞の朝刊の「経済教室」では、米国の金融危機についての専門家の分析を載せているが、3回目の今日(2008年9月22日)は慶応大学の竹森俊平教授が書いていた。その中で自らの近著として言及されていたのが、本書『資本主義は嫌いですか』(2008年9月刊、日本経済新聞出版社)である。

サブプライム・ローン問題に端を発した、米国の金融危機は、おそらく1920年代の米国の大恐慌以来の経済危機であろう。サブプライムローンというハイリスクな貸付が、証券化という形で世界各国に輸出され破綻した。その影響は、米国に留まらず、広くヨーロッパに伝播しているし、日本の金融・証券関係も無傷ではない。我々のこれからの生活にも何の影響も与えないということはないだろう。
しかし、テレビのチャンネルを回すと登場する「日本でも大不況が到来、倒産が続出し、ボーナスは半減、年金の支給開始が遅くなる」との解説をする怪しげは経済評論家の言説には、本当だろうか?と首をかしげたくなる。
一方で、そのサブプライム・ローン問題の実像や、その原因や結果が、経済学の理屈から考えてどうとらえるべきなのかなどは、日々の仕事の中で、なかなかゆっくり考えている余裕がない。下手をするとその怪しげな経済評論家の言説に振り回される事になりかねない。

ここは、自分でもう少し勉強するしかないと、何冊か解説書を買い込み、真剣に読んでみることにした。

本書『資本主義は嫌いですか』は著者が序文で「なかなか筆が進まなかったところに、ある時、たまたま物語風の書き出しを試したところ、すらすらと筆が進み、一冊の本が書き上げられた。そにためこの本はサブプライム危機をテーマにした「物語の三部作」という形をとる」(『資本主義は嫌いですか』3ページ)と語っているように、物語仕立てで読みやすい。
金融技術に名を借りた投資銀行のマネーゲームに、どこか釈然としないものを感じていた私には、読んでいると「そうだよね、やっぱりおかしかったんだよね」と頷く部分が多い。

併せて著者の前著『1997年-世界を変えた金融危機』(竹森俊平著、2007年10月刊、朝日新書)、現役金融マンが書いた『サブプライム問題とは何か』(春山昇華著、2007年11月刊、宝島社新書)と続編にあたる『サブプライム後に何が起きているか』(春山昇華著、2008年4月刊、宝島社新書)を買い込んできた。
しばらく、朝の通勤電車での読み物は、サブプライム一色になりそうである。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年9月21日 (日)

プロとは「研究者」と「芸術家」と「勝負師」のバランスよく併せ持つ人-河合隼雄さんと谷川浩司九段の対談(PHP文庫『「あるがまま」を受け入れる技術』と『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』)から

河合隼雄さんが亡くなって1年が過ぎたが、亡くなった今でも、河合隼雄さんを偲ぶように、新たな本の出版や文庫化が続いている。

その中に、河合さんが毎年の学校臨床心理士全国研修会で行った講演をまとめた『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』(創元社)、将棋の谷川浩司九段との対談をまとめた『無為の力』(PHP)に加筆・改題して文庫化した『「あるがまま」を受け入れる技術』(PHP文庫)がある。

河合隼雄のスクールカウンセリング講演録

『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』は、臨床心理士が学校現場にカウンセラーとして派遣されるようになって、すでに10年以上が過ぎるが、そのスクールカウンセラーが全国から集まって開催される「学校臨床心理士全国研修会」で河合さんは、1996年7月の第1回から倒れる直前の2006年8月の第11回まで、計11回、毎年講演を行っている。この講演録では、そのうち専門誌等に掲載されたもの、講演テープが入手できたもの、計7回分が掲載されている。講演現場で日々臨床に携わるカウンセラーへのエールを送り、励ます講演内容になっている。

「あるがまま」を受け入れる技術  (PHP文庫)

そして、そのスクールカウンセラーの講演でも話題になったのが、『「あるがまま」を受け入れる技術』で詳しく紹介されている将棋の谷川浩司九段との対談である。この対談の中で、谷川九段は棋士に必要な素養として「勝負師」と「芸術家」と「研究者」の三つの素質を三分の一ずつバランスよく持っていることが必要と述べている。

「あまりにも芸術家の部分が強すぎると、ちょと自分が悪い手を指した時に嫌気がさしてしまって、勝負に対して淡泊になってしまうことがあります。これでは、勝てる将棋も諦めて投げ出してしまうことになりがちです。
逆に勝負師の部分があまりにも強すぎると、その一局だけ勝てばいいということで、見ていて面白い、価値ある将棋が指せないということになってしまう。それはそれでプロ棋士としてはどうかと思います。
もうひとつ、研究者の素質というのは、最近になって必要とされるようになってきたんですね。(中略)今は本当に情報化社会で、お互いの対局の棋譜がすべてパソコンで検索できるような時代です。ですから事前に情報を調べておいて研究をするということに比率が非常に高い。
(中略)研究だけに偏ってしまうと、どうしても前例のない局面に入った時に自分の力で切り拓いていくような逞しさに欠けてきますし、自分の発想でまったく新しい手を打ち出していくような創造性に欠けるように思います。やはり自分の力で考えて、自分だけの手を指すというのが将棋の一番の醍醐味だと思いますので。」(『「あるがまま」を受け入れる技術』90~92ページ)

河合隼雄さんは2005年の「学校臨床心理士全国研修会」で谷川九段と対談したことに触れ、棋士の3つの素養について紹介した上で、次のように語る。

「みなさん、カウンセラーも同じだと思いませんか。やはり、われわれは研究者でないといけない。(中略)いろいろなものを読んで、こんな考え方もある。あんな考え方もあると知っている必要があります。しかし、実際にクライエントが「今から死にます」となったときに、「ちょっと待ってな!」とか言って調べているひまはありません。そこで「やめとけ!」というか、「そうか、死ぬか」と言うのか、選択肢はいろいろあります。そのとっさに判断、これは芸術的判断に近いのではないでしょうか。
でも、それだけでは足りません。「絶対に役に立つのだ。私の前に来たこの人の人生に、意味ある役に立つことをする。そのために自分はここにいるのだ」という強い信念を持つ。これが「勝負師」です。」(『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』204~205ページ)

将棋の頂点を極めた谷川九段が語り、臨床心理学の大家河合隼雄さんが紹介した<「研究者」と「芸術家」と「勝負師」>の三つの素質は、これから、あらゆる分野でプロフェッショナルを目指す者に求められることのような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 2日 (火)

パソコンでの日本語処理の技術史を語る『パソコンは日本語をどう変えたか』(講談社ブルーバックス)

講談社ブルーバックスの2008年8月の新刊の1冊がYOMIURI PC編集部の『パソコンは日本語をどう変えたか』である。サブタイトルに「日本語処理の技術史」とあり、パソコン、ワープロ、携帯電話といったデジタル機器での日本語、中でも漢字の処理技術の歴史を丹念に追いかけたものである。

読売新聞のパソコン誌「YOMIURI PC」の2007年1月号から10月号まで連載された「誰が日本語を作ったか」を大幅に加筆・修正したものらしい。

話は、日本経済新聞社が1967年に電算機による新聞作りを経営計画に掲げたあたりから説き起こされる。IBMと組んだプロジェクトがANNECS(Automated Nikkei Newspaper Editing & Composing System)として結実し、稼働を開始するのが1972年。
それ以降、住民票作成へのコンピューターでの漢字処理の導入、パソコンの登場、パソコンでの日本語処理、日本語処理に特化したワープロの隆盛、日本語入力手法としての富士通オアシスの「親指シフトキー」、ROMを利用した日本語(漢字)処理の特殊性で初期の日本のパソコン市場を独占したNECの98シリーズ、それをソフトウエア上で処理しようとしたIBMのOS-DOS/V、DOS/Vが果たせなかった98シリーズの牙城を崩した黒船「」コンパックの格安パソコン」とマイクロソフトのOS「Windows95」といった流れで、日本語(漢字)処理をキーとした日本のパソコン普及の歴史が語られている。

個人ユーザーとして、職場で富士通のワープロ「オアシス」の親指シフトキーに慣れしたしみ、「Windows95」とともに、本格的にパソコンユーザーとなった自分にとって、書かれていることのほとんどは、同時代人として自分が体験してきたことで、大変懐かし井思いで読んだ。

一方、パソコンに搭載する漢字の字数や字体によって、日本語の表現が制約され、パソコンが日本語を変化させることになるのではないかといった問題意識が著者の思いにはあるようで、それがタイトルが連載時の「誰が日本語を作ったか」から『パソコンは日本語をどう変えたか』変更された理由ではないかと思う。

いまや、漢字をうろ覚えでも、パソコンの方が、候補を示してくれ、ユーザーはその中から正しいものを選べばよい。パソコンから示される候補の範囲でしか、漢字を使いこなせないというのは、現実かも知れない。
一方で、字数の制約を乗り越えようという「今昔文字鏡」という壮大なプロジェクトが、実施されていたりと、今まで知らないことも知ることができた。

パソコンと日本語処理の歴史に興味のある方は、一読されるとよいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月28日 (木)

黒川伊保子著『恋するコンピュータ』に登場する昭和34年から37年生まれの世代論

しばらく前に、このブログで取り上げた黒川伊保子著『恋するコンピュータ』。この中に、一時、私がこだわっていた世代論が登場する場面がある。その切り口が、面白いので、紹介しておきたい。

技術者の意識について語ったものである。

「私たちの上の世代は、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』に度肝を抜かれて科学信者になった人たちです。この世代が、日本のコンピュータ黎明期を牽引してきたのでした。
これに対し、私たちの世代は、科学技術万能主義に対するアンチテーゼを抱えている世代です。個性を無視して技術に邁進することがほんとうに幸せなことなの?という小さな違和感。ブルトーザーで整地するような力ずくでの開発ではなくて、自分だけにできる独自の技術をこころを込めて提供したいという思いに駆られた世代です。量より質へ転換した、際(きわ)の世代なのかもしれません。不思議なことに、この特徴は、昭和34年から37年くらいまでに生まれた技術者に特に顕著に出るようです。この後の世代は、もう少しバランスよく中庸で、正攻法の大量生産にも機嫌よく応じています。」(黒川伊保子著『恋するコンピュータ』ちくま文庫、66ページ)

著者は1959(昭和34)年生まれ。その著者の年齢から1962(昭和37)年までのあたりの限られた世代が、個性を無視して技術に邁進することに疑問を抱き、自分だけにできる独自の技術を提供したいという思いに駆られた世代だという。
マスではなく、一人の個人としてのあり方、自分にしかできない何かを求めているというには、技術者だけではなく、われわれのような文化系のサラリーマンでも同じだあるような気がする。少なくとも、私(1960年生まれ)は、そこに共感する。

もしそれが、世代の特徴だとしたら、近年、同世代の人たち(梅田望夫-1960年生まれ、斉藤孝-1960年生まれ、茂木健一郎-1962年生まれ、等)に現代社会のオピニオンリーダーと言える人たちが続々と登場しているのも分かるような気がする。
このブログでも取り上げたサントリー学芸賞受賞作『生物の無生物のあいだ』の著者(福岡伸一)も1959年生まれ、同じくサントリー学芸賞を取った『源氏物語の時代』の著者(山本淳子)も1960年生まれである。
共通する思考パターンは、いずれも世間一般の通説を鵜呑みにせず、疑問を呈して、通説に対する自分なりのアンチテーゼを示していることであろう。そして、そこに共通する思いは、それによって社会や世の中を少しでもよくしたいという気持ちではないかと思う。

なぜ、そのようなこだわりがわれわれ世代に共通する特徴になっているのか、その理由はまだ見極め切れていないが、誇らしいことだと思う。いずれは、その列に自分も加わりたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月18日 (月)

黒川伊保子著『恋するコンピュータ』で語られるプロフェッショナルの特徴

先日、このブログで取り上げたちくま文庫の8月の新刊『恋するコンピュータ』。いくつか、なるほどと思わせるフレーズがあったのだが、今日は、その中でも、人工知能の研究者であった著者が、数多くのプロフェッショナルな人々を見つめ続けた結果、見いだした共通点について触れた箇所を紹介したい。


「さまざまなプロフェッショナルの認識と思考回路を見つめ続けていくと、その中核に、どのような部門にも共通する基本的な枠組みが存在することに気づきます。
それはよりよく生きようとする思いです。いのち、言ってもいいかもしれません。あるいは、もう少し味気なく生存本能と呼んだ方がわかりやすいかもしれません。
今、目の前にある事象を認識し、これを現在までの自分の経験に照らして咀嚼して、今以降の自分の糧とする力です。さらに、この新たな認識の枠組みを使って過去を再体験し、知識を整理し直して、より質の高い知識を獲得しようとする気持ち。そして、この積み重ねを、自分や自分の周りのものたちの幸せにつなげたい、という願いです。(中略)
特に、各部門でプロフェッショナルとして活躍する人たちには、
認識→咀嚼→過去の再体験→知識の組み直し→自分や社会への還元
というサイクルを、まるで取りつかれたように繰り返すタフな人間的がたくさんいます。」
(黒川伊保子著『恋するコンピュータ』(ちくま文庫)25~26ページ)

常に自分の周りで起きることに関心を持ち、自分の知識の中で位置づけ直し、知識をレベルアップし、それを自分のみならず社会に還元していこうとするということであろう。

著者がこの文章を最初に書いてから10年。いまや、社会のほとんど全員がそれぞれの立場で幸せを感じられた日本の高度成長時代は遠い昔となり、自己責任という美名のもと、誰かの成功は、他の誰かの犠牲のもとでしか成り立たないようなゼロサム社会、格差社会が到来している。
このような時代にこそ、著者の言う「プロフェッショナル」が求められているのではないだろうか。
これから年を経て何歳になろうと、立場がどのように変化しようと、その時々、その場その場での「プロフェッショナルでありたい」という気持ちを持ち続けていたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月16日 (土)

「言葉」の不思議について語る黒川伊保子著『恋するコンピュータ』が面白い

この本も、先日紹介した『ムーミン谷のひみつ』と同じ2008年8月のちくま文庫の新刊である。実は、『ムーミン谷のひみつ』を買った時に隣に並んでいて、興味を引かれ、買おうか買うまいか悩んだ末、1度に何冊も買っても読み切れないしと思って、いったん買うのをやめ、そのことさえ忘れていたのだが、先週、別の書店の文庫コーナーで再び見つけ、「そう言えば買おうと思ってやめたんだ」と思いだし、2度目の巡りあいで購入した。

買っておいて良かったというのが、正直な感想である。買って読んでみて、読んだだけ時間の無駄と思う本、最後まで読み通す気にならず途中でやめる本もあまたあり、そのような本は、数がまとまると、そこそこの内容だが手元におくほどではないという本とともに「BOOK OFF」に売りに行くことになるが、この『恋するコンピュータ』は手元の残しておく本の1冊になるだろう。

著者は1959年生まれ、奈良女子大物理学科卒で、コンピュータメーカーで人工知能(AI)の研究に従事したあと2003年に独立して会社を作っている。
本書『恋するコンピュータ』はまだ、メーカーのエンジニアだった1998年にちくまプリマーブックスの1冊として世に出た著作最初の著作で、10年を経てちくま文庫に収録されることになった。

内容は、著者が研究していた「どうやれば、コンピュータで人の脳と同じような働きをで実現できるか=人工知能(AI)」に端を発し、そもそも「人間の脳は、どのように状況を認識するのか?」、「我々が日常、意思の疎通のために使ってる「言葉」にどんな力が備わっているのか?」といったテーマを、著者の身の回りで起きた研究仲間との会話、著者の出産体験、生まれた男の子との生活の中での会話などを題材に、しなやかに、かろやかに読者に語りかける。

さらりと書いているのだが、理系の発想で語られる、「言葉」の持つ力、「言葉」が果している役割などは、文系の自分では気づかないことも多く、目からウロコが落ちる思いで読んだ箇所が多くあった。
改めて、このブログでも紹介したいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月13日 (水)

冨原眞弓著『ムーミン谷のひみつ』を読み終わる

先週8月9日は「ムーミンの日」だったそうだ。2005年がムーミン作品が世に出て60周年ということで、60周年キャンペーンが行われたのだが、その年に作者であるトーベ・ヤンソンの誕生日(8月9日)を「ムーミンの日」と決めたらしい。

そのムーミンの日を意識してか、ちくま文庫の2008年8月の新刊の1冊として店頭に並んだのが冨原眞弓著『ムーミン谷のひみつ』である。小学生の時代から、ムーミン作品に親しんでいる身としては、ムーミンに関するエッセイ・評論類を見るとつい買いたくなってしまう。

『ムーミン谷のひみつ』では、ムーミンの物語の登場人物を順に紹介する。まず、ムーミン家族から始まり、ムーミントロール、ムーミンパパ、ムーミンママ、ちびのミイ、スニフ、スノークの女の子とスノーク、フィリフヨンカ、ヘムル、ニョロニョロ、モラン、スナフキン、トゥティッキ、スクルットおじさんの順である。
それぞれに味のある登場人物ばかりで、9冊に及ぶムーミン物語の作品の中から、それぞれの登場人物の特徴ある行動や言葉が紹介され、それぞれに対する著作の思いが語られる。

ムーミンの物語の9冊も後半に行くにつれ、個人の内面の葛藤をテーマにするようになってきており、短編集となっている『ムーミン谷の仲間たち』は子どもの頃読んだ時には、あまり面白いと思えなかったことを思い出す。今、読み返してみれば、その奥深さを理解できるかもしれない。

『ムーミン谷のひみつ』の奥書によれば、本書は1995年に刊行された『ムーミン谷へようこそ』という本を底本に、構成を再編し、スニフ、スノークの女の子とスノーク、フィリフヨンカ、ヘムル、モラン、スクルットおじさんの各エピソードを書き下ろしたものという。

『ムーミン谷へようこそ』についても、ネットで検索してみたら、すでに我が家の蔵書となっている本だった。

著者には『ムーミンを読む』(講談社)との題で、ムーミンの物語9冊を発表順に解説した本もある。今回の『ムーミン谷のひみつ』と併せて読むとムーミン物語の世界の全体像が見えてくると思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月31日 (木)

400mリレー日本代表を描いたノンフィクション、佐藤多佳子著『夏から夏へ』を読み始める

昨年、高校の陸上部を舞台にした青春小説『一瞬の風になれ』で本屋大賞を受賞した著者が、北京オリンピックでメダルを目指す400mリレー(4継)の日本代表を描いたノンフィクションが『夏から夏へ』(集英社)だ。
新聞に広告が載ったをみて、書店でさっそく購入した。

夏から夏へ

1走塚原直貴、2走末續慎吾、3走高平慎士、4走朝原宣治、リザーブ小島茂之という5名にスポットが当てられている。
前半の第1部は、この4人が走った2007年の世界陸上大阪大会の400mリレーの予選、決勝の描写である。スタンドで観客席として眺めた著者の視点から、そしてレース前の4人の心境、レース中の4人の思いなどが、織り交ぜられ、同じレースを違う目の幾重にも描くことで、大阪大会での4人の走りをみなかった読者にもその姿と見えてくる。
大阪大会の個人200mでは、日本のエースである2走末續慎吾がレース後脱水症状に見舞われ、リレーを走ることさえ危ぶまれていたことなど、小説にも登場しないような現実の重みがよく描かれている。

後半第2部は、世界陸上大阪大会を終え北京オリンピックに向けて再始動するメンバー一人一人のスプリンターとしてのこれまでの生き方にも迫っていくようである。徹底した資料・情報収集とインタビューで物語りを紡ぎ出して著者の手法は、ノンフィクションでより威力を発揮するのかも知れない。

とにかく、書き手の佐藤多佳子さんが、陸上競技を、400mリレーを1人の観客として、こよなく愛してくれているのが、読み手にもひしひしと伝わってくる。
かつて陸上部に在籍して0.1秒でも早く走りたいと思っていた私にとっては、それもうれしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月29日 (火)

谷口雅一著『「大化改新」隠された真相』

すこし前に読んだ本だが、NHKスペシャルのディレクターが放送内容を基に書籍化した谷口雅一著『「大化改新」隠された真相』(ダイヤモンド社)について、紹介してみる。

歴史(特に日本の歴史)に関する本は、地域・時代を問わず、何でも読むが、特に日本の古代史、飛鳥時代から奈良時代にかけては、特に大化改新についてはよくわからないことも多く、興味を持っている。
(過去の記事:『偽りの大化改新』を読んで(1)(2)(3)

この本は番組の放送(2007年2月)後の反響を受け、2008年6月に出版されたものだ。蘇我氏逆臣説に疑問を投げかけるもので、日本書紀編纂の際潤色を想定している。

他書にない視点の一つは、むしろ「大化改新」の主役を中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足の2人に仕立てたのは、日本書紀の編纂を開始した天武天皇ではなく、それを引き継いだ天武天皇の妻の持統天皇、文武、元明、元正という天皇たちではないかという。持統天皇は天武帝の皇后であるとともに天智の娘、元明も娘、文武と元正は天智の孫にあたる。
アジアの情勢に通じていた蘇我氏は大国隋・唐を意識した外交を構想していたが、宮廷クーデターである「大化改新」後、権力を握った中大兄皇子と斉明女帝とで行った白村江の戦いは、唐・朝鮮三国の情勢を顧みない無謀な戦争であり、日本書紀の中で国家国民を疲弊させた責任を問われていないのは不自然との視点である。そこには、天智の血統の天皇たちによる潤色があるのではないかというものである。

もう一つ、面白いと思った視点は、大化改新の歴史的評価は江戸時代までは、そう大きな評価はされておらず、明治維新後、大政奉還から明治維新での諸改革に通じるものがあるとして、日本書紀に記された、逆臣蘇我氏を誅殺し天皇中心の政治の礎となる一連の諸改革の断行が「大化改新」として、学者たちにより古代史の転換点として取り上げられるようになったという点である。「「大化改新」は明治時代に「発見」された」のである。

そう思って日本の歴史の通説を見直すと、各所に明治維新政府にとって都合の良い歴史の記述に成っている部分も多いのではないかという気がする。
「任那日本府」説明にしても、当時進めていた朝鮮半島進出に類似する事例を歴史の中から潤色も施して取り上げ、当時の日本の行動を正当化しようとするものであったのであろう。(過去の関連記事:講談社選書メチエ『加耶と倭』を読む

黒船来航以降の幕府の対応のまずさ、無能さが明治維新につながり、明治維新は歴史の必然のように語られるが、必ずしも、薩長などの倒幕側が必ずしも幕府以上に優れていたとも限らないという見解もある。

自分たちが気づかないところで、明治政府中心史観にとらわれているのかもしれないと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月12日 (土)

コミック『あんどーなつ』全7冊読了

一昨日の記事で取り上げたTVドラマの原作コミック『あんどーなつ』。1、2巻がなかなか面白かったので、昨日の仕事の帰りに乗り換え駅の書店により、残る3巻から7巻までを一気に買ってきた。昨日の夜3巻から読み始め、今日の午前中で7巻まで読み終わった。

原作コミックは、小学館が隔週で発行している『ビッグコミックオリジナル』に連載中で、単行本がすでに7冊。(第7巻は2008年7月に発売されたばかり)すでに累計70万部の売り上げを記録しているという。
和菓子職人をめざす主人公の安藤奈津が、浅草の人々の人情に支えられながら、職人としての腕を磨き、人間的にも成長していく物語である。
奈津が勤める浅草の老舗和菓子店「満月堂」のライバル店が、満月堂が出入りしている茶道の家元への和菓子の商売を横取りするため、満月堂の評判を落とそうと数々の策を仕掛けてくるという大きなストーリーの流れがあるが、その中でも、奈津は常に前向きに生きている。
また、個々の話の中では、毎回、連載時の季節に応じた和菓子が取り上げられ、説明されている。また、各話のエピソードの中には、和菓子の材料となる粉が出来る現場を奈津が訪ねたり、和菓子の製法が詳しく記載されたりしていて、和菓子の材料となる粉の説明など、ちょっとした和菓子情報録にもなっている。

一方、TVドラマの方が、配役や話の内容が、NHKの朝の連続ドラマのようだと一昨日書いたが、放送される枠はTBSの月曜日の午後9時からの枠で、この時間帯は「水戸黄門」や「大岡越前」が放送されていた時間帯であり、先週までは「水戸黄門」が放送されており、「水戸黄門」の次回シリーズまでの繋ぎを果たす役割を負わされているという背景を考えると、『あんどーなつ』のような人情話が取り上げられ、ドラマ化されたのも納得がいく。
関東地区では、明日13日 (日)の午後3時から第1話の再放送もされるとのこと。「水戸黄門」と肩を並べるようなシリーズドラマになるかどうかは、今後の視聴率次第だろうが、古き良き昭和を描いたような話が、「水戸黄門」と交代でシリーズ化されるのも悪くないのではないかと思う。





| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月 3日 (木)

池田あきこ『ダヤンの路地裏ねこ歩き』を読む

猫のダヤンを主人公にした絵本が話題の絵本作家の池田あきこが書いた、イラスト入りの東京散歩ガイドブックである。先週、家の近くの書店で『蒼路の旅人』を見つけたときに、目についたのであわせて買ってきた。
通勤の行き帰りで気楽に読んだ。

ダヤンの路地裏ねこ歩き

取り上げられているのは、築地、深川門仲、人形町、浅草、谷中・千駄木、本郷、柴又、神楽坂、四谷、新宿、井の頭公園(吉祥寺)、江ノ電(鎌倉)。
江戸情緒を残すところが多く取り上げられている。読んでいると、東京に長年住んでいながら知らないことも多い。
たとえば、神楽坂はフランスの香りがするとあるが、それはもともと、神楽坂に「日仏学院があったから」という話が書かれている。普段着を着て、スケッチブック片手にスケッチをしながら、小耳に挟んだ町の話題がさりげなく織り込まれていて、そこが普通のガイドブックにはない魅力になっている。

これまで訪ねたことがあるところもあるが、土日を使って、取り上げられているところを改めて、巡ってみるのも悪くないと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 1日 (火)

上橋菜穂子著『蒼路の旅人』を読み終わる

上橋菜穂子著「守り人&旅人シリーズ」の第7巻『蒼路の旅人』を先週末に、家の近所の書店で見つける。旅人シリーズは、かつて女用心棒バルサに命を助けられた新ヨゴ皇国の皇太子チャグムが主人公の物語である。

蒼路の旅人 (偕成社ポッシュ 軽装版)

チャグムも15歳を迎え、皇太子として国の重要な会議にも関わるようになってくる。皇太子としてチャグムの人気が出てくる一方、弟トゥグムも生まれ、帝である父からは疎んじられ、国の上層部では、チャグム派とトゥグム派に分かれて、派閥争いの兆しも見え始める。
かつてチャグムが外交使節として訪ねた(『虚空の旅人』)隣国サンガル王国は、海を隔てた南方のタルシュ帝国に攻められ戦争が始まっている。
今回の『蒼路の旅人』は、そのサンガルの王から新ヨゴ王国に援軍を求める書簡が届くところから、物語が始まる。
対応策を協議する御前会議で思わず父である帝に意見するチャグム。チャグムの母方の祖父で、宮廷でのチャグムの支援者であるトーサ海軍大提督とともに、援軍として送られることになった船団に加わることを帝から命じられてしまう。

援軍の依頼そのものが、すでにタルシュ帝国に寝返ったサンガル王国の罠かも知れないと懸念される中、祖父トーサ提督とともにサンガルに向けて出航するチャグム。
船には、チャグムの護衛という名目で乗船しているものの、何か事が起きれば、帝からチャグムの暗殺を命じられているに違いない「王の盾」の2人もいる。
チャグムは死を覚悟して旅に出るが、そこには彼自身が思いもしなかった、困難が待ち受けていた…。

本作は、いずれは帝となり国を預からなければならない皇太子チャグムの自らの宿命をどう受け止めるかという物語であり、少年が大人へと成長していく物語でもある。軽装版の解説を書いた著者と同い年の作家佐藤多佳子は、「シリーズ十巻の中では、私は、この『蒼路の旅人』が一番好きだ。(中略)最大の魅力は、やはり、皇子チャグムが繊細な少年から、もがき苦しんで脱皮して、心身ともに強靱な若者にかわりつつある、その課程のみずみずしさだ。チャグムは、シリーズ全編にわたって、大きな困難に立ち向かい、ぎりぎりのところで打ち勝っては成長していくことを運命づけられている登場人物だが、その変化がいちばん鮮やかで印象に残るのが、この『蒼路の旅人』である。」(『蒼路の旅人』軽装版385ページ)と述べている。
私はまだシリーズ7冊しか読んでいないが、まさにこの解説の通りだと思う。繊細な少年から強靱な若者への成長譚と言えば、ゲド戦記の第1巻『影との戦い』にも通じるものがあるし、また陸上競技を舞台の一人の少年の成長を描いた佐藤作品『一瞬の風になれ』とも、ファンタジーとスポーツ小説という舞台の違いはあれ、深いところでは共鳴しているように思う。

読み始める前の期待を裏切らない、いや期待以上の作品であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月16日 (月)

越智啓太著『犯罪捜査の心理学』を読んでみる

日曜日、家の近くの書店に行き、店内をぶらぶらしていると『犯罪捜査の心理学』という本が目についた。最近、仕事で社内の不正について調べたことがあって、犯罪とか不正というものにも、興味を持っていたところなので、とりあえず、買って読んでみることにした。

著者は警視庁科学捜査研究所を経て、現在は法政大学の心理学科で教鞭をとっている。サブタイトルに「プロファイリングで犯人に迫る」とある。『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「プロファイリング(Offender profiling or criminal profiling)とは、犯罪捜査において、犯罪の性質や特徴から、行動科学的に分析し、犯人の特徴を推定すること」とある。
連続して事件を起こしている犯人について、犯行方法や現場の特徴などから、共通する事項を見つけ出し、犯人の特徴を推定し、絞り込んでいくという捜査手法のようだ。また、犯罪が起きた場所の分布から、犯人の居住地を推定したり、次に犯罪を起こしそうな場所を推定して予防に役立てる地理的プロファイリングという手法もあるようである。

殺人事件の多くは、今でも「金か愛」のトラブルということがほとんどで、多くの事件は被害者の交友関係で、金銭や愛憎のトラブルを抱えた人物を捜していけば、有力な容疑者が浮かび、その中の犯人がいることも多いらしいのだが、時に被害者と加害者の間に、特別の関係のないケースもあり、そのような事件を解決すべく1960年代後半に米国のFBIで、プロファイリングという手法が始まったらしい。その後、日本も含め、世界各国で、各国の犯罪事例を本に、研究が進められているとのことである。

詳しくは、本を読んでいただければと思うが、これを読むと、事件の報道の見方、読み方やが変わる思うし、刑事ドラマやサスペンス映画のの見方も少し変わると思う。

また、犯罪捜査に関わる本として、『FBIアカデミーで教える心理交渉術』という本も買ったが、こちらはまだ積ん読のままである。はやく、読まなくては…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月15日 (日)

大澤真幸著『不可能性の時代』をヒントに戦後の時代区分を考える・その2

不可能性の時代 (岩波新書)

前回分(その1)は→こちら

「虚構の時代」の後に到来した時代の特徴を、著者は二つあげる。
従来の理想・夢・虚構というキーワードが語るものは、常に「現実」とは別のところにあるものであった。

しかし、「虚構の時代」の後に見られる特徴の一つは、ニューヨークへの世界貿易センタービルへ旅客機で体当たりし、破壊してみせるというテロ行為に象徴される「現実」への回帰、それも暴力的な形での現実への回帰である。
一方、従来の「虚構の時代」をさらに進めたような形で、「現実に現実らしさを与える暴力性・危険性を徹底的に抜き取り、現実の総体的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している」(『不可能性の時代』157ページ)と著者は指摘する。湾岸戦争などで見られたように、戦争もまるでTVゲームのような形で、画面の中だけ進行しているように見える。

「虚構の時代」は、そのような二つの要素に分化したことによって終わりを告げたが、残ったものは、互いに相容れない二つの動きである。著者は「虚構の時代」の後に到来した時代を「不可能性の時代」と名付けた。
昨日の私の議論をこれにつなげるとすると、「現実」の綻びや矛盾から目をそらし、バブルという「虚構」の現実を信じようとした我々は、「失われた10年(15年)」に直面した。バブルの後遺症として残った山のような不良債権は現実であった。その処理には、莫大な費用がかかり、社会全体が沈滞を余儀なくされた。しかし、それでも「虚構」の現実を信じたい我々は、先送りという弥縫策をとることで、「いつかはよくなるのではないか、回復するのではないか」という形で「現実の総体的な虚構化」を進めたのだろう。
しかし、結果的に待っていたのもは、綻びや矛盾が行き着くところまで行きとうとう「破綻」したのであり、その解決のために、我々は「自民党をぶっ壊す」と宣言した、小泉政権の暴力的とも言える改革を、なぜか熱狂的に指示したのだ。
私は「不可能性の時代」=「破綻の時代」と考えるとわかりやすいのではないかと思う。そして「虚構の時代」を1975年~1990年と考えれば、「不可能性の時代」=「破綻の時代」は1991年~2005年と考えるべきではないか。それは、まさに「失われた10年(15年)」とぴったりと重なるように思われる。

15年サイクルでの時代の変化という仮説が正しいとするのなら、時代はすでに「不可能性の時代」(=「破綻の時代」)を終え、次の時代の入り口にくぐったあたりに来ているではないのか。「不可能性の時代」の次の時代は、どういう時代か。ここからは、『不可能性の時代』から離れて、私なりに考えたことをまとめておきたい。
おそらく、これまで目をそむけてきた現実の綻びや矛盾が明らかになり、破綻を来してしまった以上、現実を直視せざるを得なくなるのではないか。そして、その現実の最たるものは「自分自身」なのではないか。社会が、人間の集団、組織として成り立っている以上、一人一人が、まず、自分自身をキチンと見つめ直し、自分自身を知り、個人個人がよりよく強くなることからしか、社会の変化、再建はないのではないかと思う。

そして、そのことを、これから社会を背負わなくてはならない若者の一部は敏感に感じ、変わり始めているような気がする。
例えば、このブログでも紹介した16年ぶりのオリンピック出場を決めた男子のバレーボール全日本チーム。この躍進を支えたのは、越川優、石島雄介という1984年生まれでまだ20代前半の2人のアタッカーである。2人の共通点はバレーが好きで、自分でとことん考え、監督やコーチが相手であっても、言うべきは言い、納得すれば従うという姿勢である。
そこで、見られるのは「一芸に秀でる」プロフェッショナルであるということではないだろうか。自分の好きなことについて、とことん極め、努力もして専門性を身につけたプロになる。一人一人がそれぞれ、個性を持った一芸に秀でた専門家・プロとして自立し、その専門家たちが、お互いを信頼してチームを作って、問題解決に当たる。そうでなければ、解決できないほど、現実の綻びや矛盾は深刻なのではないだろうか。男子バレーボールチームがオリンピックを逃がし続けた16年というのも「不可能性の時代」と奇妙に符合している気がする。

NHKの人気番組だった「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」。主に、高度成長時代に、各企業や組織で、危急存亡の危機や、緊急事態をどうやって個人やチームが乗り切ったかとうことを取材したドキュメンタリーだった。しかし、あくまでそこで見ていたものは「過去の栄光」だったように思う。2000年3月から始まったこの番組は、奇しくも2005年12月に放送を終了している。
そして、そのあとを引き継ぐ形で2006年1月から新たに始まった番組が「プロフェッショナル 仕事の流儀」。「プロジェクトX」と違い、現在、各分野で活躍しているプロフェッショナルな人々を取材している。

「不可能性の時代」の後に来る時代は、「プロフェッショナルの時代」なのではないかと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

大澤真幸著『不可能性の時代』をヒントに戦後の時代区分を考える・その1

大澤真幸著『不可能性の時代』(岩波新書、2008年4月刊)については、5月26日のこのブログの「最近の積ん読(つんどく)本-新書編(2008年5月)」の中でも少し紹介したが、著者は1958年生まれで、京都大学大学院教授で比較社会学・社会システム論を専攻する社会学者だ。

この本に影響を与えた著作として、見田宗介著『社会学入門-人間と社会の未来』(岩波新書、2006年4月刊)があり、前のブログで紹介した時代区分
「理想の時代 1945年-60年」
「夢の時代 1960年-75年」
「虚構の時代 1975年-1990年」

は、『社会学入門』の中で提起されたものである。

見田・大澤両氏の説明を、ものすごく大雑把に要約すると、「理想の時代」は敗戦後の日本が、民主主義・自由主義のチャンピオンであるアメリカ(あるいは人によっては資本主義社会の次の社会としてのソ連)を理想として生きていた時代。しかし、それは、60年安保で終焉を迎える。

「夢の時代」は、アメリカ社会を理想として描けなくなった中、人びとは、自由な恋愛で結ばれた男女が「マイホーム」を作り、そこで日々進歩する家電製品、自家用車を買い揃えるという身近な「夢」に生きた。昨日より今日、今日より明日が豊かになるという高度経済成長が夢を叶えた。しかし、それも1973年のオイル・ショックとその後の総需要抑制政策がもたらした不況で終わりを告げる。

「虚構の時代」については、「現実すらも、言語や記号によって枠づけられ、構造化されている一種の虚構とみなし、数ある虚構の中で相対化してしまう態度」(『不可能性の時代』68ページ)が時代を代表する精神とされている。
虚構の時代を一言で言い表すことは難しいが、「理想」も「夢」も実現できない現実、様々な綻び(ほころび)や矛盾を抱える社会の現実を直視せず、それも一つの虚構としてごまかし、見ないことにしたいという時代だったのかもしれない。
虚構の時代の後半は、バブル経済の時代である。人びとは、綻びや矛盾を抱える現実ではなく、その上のあだ花のように咲いた「バブル」という「虚構」を、現実として信じたかったのだろう。
しかし、そのバブルという「虚構」の現実が、やはり「虚構」に過ぎずそのベースにある綻びや矛盾を抱える現実はなんら変わっていない。その綻びや矛盾を抱える現実の方を変えないことには、社会は変わらない。
「虚構」の現実に気づき、そこから逃避しようとした人びとを吸収した集団のひとつがオウム真理教なのかも知れない。1995年のオウムが起こした地下鉄サリン事件は、いわば、バブル後に残された変わらぬ現実を、暴力的に変えようとするものであったのかの知れない。『不可能性の時代』では「地下鉄サリン事件は、虚構の時代が終わったこと-あるいはすでに終わっていたこと-を知らせる事件だったのだ」(『不可能性の時代』156ページ)と語る。
その後、登場した小泉政権が一時熱狂的に支持された背景には、綻びや矛盾を抱える現実を、強引にでも変えようとする姿勢を選挙民に対し常に見せ続けたからであろう。

では「虚構の時代」の後を受けた、現在の社会はどのような時代なのか、その中で個人はどう行動し、生きていくべきなのか、それについては、次回あらためて考えたい。

その2は→こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月13日 (金)

『復活 all for victory 全日本男子バレーボールチームの挑戦』を読み終わる

先週、『復活 all for victory 全日本男子バレーボールチームの挑戦』(市川忍著、角川書店)を読み終わった。

先日の北京オリンピック男子バレーボール世界最終予選で1992年のバルセロナオリンピック以来4大会ぶりのオリンピック出場を決めた、バレーボールの全日本男子チーム。しかし、アルゼンチン戦に勝って、最終日を待たずにオリンピック出場を決めた翌日のスポーツ紙の一面は、どれも同じ日に行われたサッカーのワールドカップ3次予選のオマーン戦の記事ばかりで、男子バレーを1面にとりあげているところはなく、なんともがっかりしたというか、拍子抜けというか、現在のサッカーとバレーボールの影響力の大きさの違いを感じずにはいられなかった。

それは、まさに、男子バレーがオリンピック出場を逃し続けた結果であるのだが、1972年のミュンヘンオリンピックでの男子バレーボールチームの金メダルに歓喜した世代としては、なんとも寂しく、情けないものであった。

この『復活』というノンフィクションは、今回オリンピック出場を決めた全日本男子バレーボールチームのメンバー一人一人に焦点をあて、オリンピック出場権獲得に賭ける思いを綴ったものである。かつて、ミュンヘンオリンピック前には、「ミュンヘンへの道」というタイトルで、松平康隆監督率いる当時の全日本チームのメンバー一人一人を主人公にした連続ものアニメが放映されたが、それと同じ切り口でノンフィクションを書いたものだ。

ちょうど4年前の同じ頃、アテネオリンピック出場を賭けた2004年の世界最終予選を前に、『甦る全日本女子バレー―新たな闘い』(吉井妙子著、日本経済新聞社)が書かれたのと同じような状況である。女子バレーは、この本のタイトル通り甦り、オリンピック出場を決めた。しかし、当時、男子バレーで同じような本はなかったように思う。

今回は男子チームを題材に『復活』が書かれ、その予言通り、オリンピック出場を果たした。出場を決める前に、それを見越してこのような本を書くことは、ライターにとっては、出場できなかった場合、せっかく書いた本がほとんど顧みられずに終わってしまうというリスクを抱えるので、見極めが難しいところだろう。
それでも出版されたということは、ライター自身が取材を続けるうちに、この監督、このメンバーによるチームなら行けるかもしれないという確信を持ったからかもしれない。
この『復活』を読むと、やはり今回の植田ジャパンは、監督、各選手ともオリンピックに賭ける思いが半端なものではなく、オリンピック出場を勝ち取って然るべきチームだったという気がする。

4年前のアテネに出場した女子チームは、オリンピック本番では不完全燃焼に終わり、その原因を解き明かすべく、同じ著者により『100パーセントの闘争心 全日本女子バレーの栄光、挫折、そして再生』という本まで書かれたが、今回の男子はどうであろうか。
北京でのさらなる活躍を綴っノンフィクションが書かれることを願う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月27日 (火)

最近の積ん読(つんどく)本-文庫・単行本編(2008年5月)

昨日の続きで、最近買った本のうち、文庫と単行本について備忘録として記録しておきたい。

文庫は、買うだけで読まないまま、本当に「積ん読」になってしまっているものも多く、GW前に買った宮本輝著『にぎやかな天地(上)(下)』もまだ、手つかずになっている。いけないと思いつつ、またおもしろそうな本があると買ってしまう。

堀江俊幸著『河岸某日抄』(新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

しばらく前に、「おもしろいよ」と紹介してくれる人もあって、新潮文庫から出ていた『雪沼とその周辺』、『いつか王子駅で』を続けて読んだ。『雪沼とその周辺』は短編集、『いつか王子駅で』は長編という違いはあるが、どこか浮世離れしたようななんとも不思議な魅力のある作家で、新潮文庫の5月の新刊として本書が書店に並んだ時、つい買ってしまった。読売文学賞受賞作である。

レリー&ロイ・アドキンズ著『ロゼッタストーン解読』(新潮文庫)

ロゼッタストーン解読 (新潮文庫 ア 24-1)

こちらは、新潮文庫の6月の新刊だが、今日、書店で並べられていた。歴史が好きな私にとって、これもタイトルだけで買った本である。エジプトの古代文字ヒエログリフを解読したフランスの考古学者シャンポリオンの解読までの歩みを描いたもののようだ。

村山治著『特捜検察VS.金融権力』(朝日新聞社)

以前このブログで紹介した『市場検察』の著者の前著である。『市場検察』を読み終わったあと、本屋に行くたびに探したのだが、なかなか在庫がある店がなく、予約入手したもの。2007年1月の出版で、半年もたっていないのだが、もう店頭から姿を消している。特捜検察が、旧大蔵省とその庇護の下にあった金融界の問題点にどう切り込んでいったかの記録で、『市場検察』の一分野を詳述したものといえる。

ジョン・ネスビッツ著『マインドセット ものを考える力』(ダイヤモンド社)

「マインドセット」という言葉だけを聞くと、英語の細かい意味の使い分けに疎い私などは、つい「マインドコントロール」と類似のことかと思ってしまう。おそらく編集者も、そのような誤解をおそれたのだろう日本語で「ものを考える力」と英和のダブルタイトルとしている。
著者のジョン・ネスビッツは未来予測学者として著名らしい。その未来予測学者が将来の変化を予測する時に、考える11の原則(マインドセット=ものの考え方)を紹介している本である。
11のうち、いくつかを紹介すると
(1)変わらないものの方が多い、(2)未来は現在に組み込まれている
などである。
時代の転換期にある現在、個人のレベルで将来のあり方を予測し、そこに向けた変化に、あらかじめ備えておくおことは、これまで以上に重要になっていると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月26日 (月)

最近の積ん読(つんどく)本-新書編(2008年5月)

週に2、3回は本屋に行って、あてもなく並べてある本の表紙やタイトル、帯のキャッチコピーなどを眺めながら、気になった本を買って読むというのは私の楽しみの一つだが、読み終えるスピードは限られているので、読まない本が溜まってしまうのが難点である。下手をすると、買ったまま読まないで終わる本も出てくる。時々、本棚を整理して、読まないままの本を棚卸し、読んでいない本を確認しておかなくてはならない。

備忘録をかねて、最近買った本のうち新書の中から何冊かを紹介しておきたい。

野村進著『調べる技術・書く技術』(講談社現代新書)

講談社現代新書2008年4月の新刊の打ちの1冊。著者は、1956年生まれの現役のノンフィクションライター。この手の本は、ノウハウ本としてあまた出版されているが、著者は自分のノウハウに加え、自ら吸収してきた過去のライター達から直接・間接に教えられたものも含め、公開し次代に伝えていきたいという目的で書かれている。この本は既に読み終わったが、この本自体が野村進というライターの取材から執筆までの活動を語る優れたノンフィクションという気がした。

大沢真幸著『不可能性の時代』(岩波新書)

こちらは、岩波新書の4月の新刊。現在、京都大学大学院教授である著者は1958年生まれ。専攻は比較社会学・社会システム論とある。
戦後という時代を社会学者見田宗介氏の提起した時代区分「理想の時代 1945年-60年」「夢の時代 1960年-75年」「虚構の時代 1975年-1990年」を紹介して、この時代区分に即して、著者なりの時代の解説をしている。
私が生まれたのが1960年。「理想の時代」から「夢の時代」の転換点で生まれ、夢の時代を育ち、高校生以降は「虚構の時代」を生きてきたことになる。さらに虚構の時代の終焉を象徴するのが、オウム真理教による地下鉄サリン事件とされている。
再び、時代の転機を迎えているように見える昨今、もう一度戦後を見直してみるのも意味があるのではないかと思って手にした。

齋藤孝・梅田望夫著『私塾のすすめ』(ちくま新書)

ちくま新書5月の新刊。現在のオピニオンリーダーとも言える1960年生まれの2人の対談である。同じ1960年生まれの私は、このブログを書き出す前、斎藤氏の本は何冊か読んだし、梅田氏の本はこのブログでもたびたび紹介してきた。2人が対談して、何をテーマに、どのようなことを語ったのか興味深い。

綾野、富坂聰編『中国が予測する”北朝鮮の崩壊”』(文春新書)

これは文春新書の5月の新刊。タイトルだけ見て、立ち読みもせずに買った。朝鮮半島の北側に位置する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、国としていつまで存続しえるのか、関心のあるところである。
しかし、それは、北朝鮮という国の事情だけでなく、中国、ロシア、米国というパワーポリテクスの産物であるに違いないし、もし北朝鮮の崩壊が起きれば、隣国韓国や日本にも大きな影響があることは避けられないだろう。
本書は、中国の国防大学国際戦略研究部所属の研究者が発表したレポートを入手した日本人ジャーナリストが抄訳したもののようである。
どこまで信憑性のある話なのかも含め、自分で読んで考えるしかないテーマだろう。

こうやって、最近買った新書を並べてみると、新書という媒体は「時代を映す鏡」なのだろうという気がする。いくつもの出版社から毎月何冊もの新書が出され、全部あわせれば月100冊近くになるだろう。もちろん、とても全部は読み切れないが、興味を持ったものは、読んでおいた方がいいのだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月12日 (月)

村山治著『市場検察』を読み始める

2008年4月に出版されたばかりの村山治著『市場検察』(文藝春秋刊)。「市場」と「検察」あまり組み合わされることのない言葉の組み合わせに興味をひかれ、ゴールデンウィーク用の積ん読本として購入。ようやく、先週週末から読み始めた。

著者は現在朝日新聞の編集委員。著者紹介によれば、1973年毎日新聞入社後、司法・警察関係の記者などを経て、1991年には朝日新聞に移り、バブル崩壊後の大型経済事件を取材したとある。

高度成長時代の「政・官・業」のトライアングル体制の下、護送船団方式でコントロールされながら成長を続けた日本経済。その中で、検察は世の中の変化を後追いするものとされてきた。その検察が、90年代以降のグローバリゼーション、市場経済化の進展の中で、どうその姿を変えてきたかを、その時々、世間を騒がせた大型経済事件と検察の関わりを語る中で、浮き彫りにしようとしたものである。
中村喜四郎建設大臣のゼネコンからの収賄事件を皮切りに、90年代以降起きた数々の事件の裏で、検察がどのように考え、どのような動きをしていたかが、取材に基づいて語られる。

どの事件も「そういえば、あの頃こんな事件があったなあ」と思い出すものばかりで、その背景で、どのような動きがあったのか、そもそもそれらの事件の本質は何だったのか?事件当時の報道はどうしても目先の話題に集中しがちで、なかなか事件の構図、全体の枠組みを分析するには至らない。
構図・枠組みが見えてくる頃には、また別の事件や事故が起きているので、マスコミはそちらに関心を移していくので、新聞紙上で、終わった事件、過ぎた過去がじっくり語られることは少ない。
結局、今回のように、本として出版されるという形になって、ようやく構図・枠組みの謎解きが行われることになる。

その謎解きのおもしろさに夢中になっていたら、また帰りの電車を一駅乗り過ごしてしまった。

最近書店で平置きされてタイトルが何となく気になる『特捜検察vs.金融権力』も同じ著者の手によるものということなので、『市場検察』を読み終わったら、そちらも読んでみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 8日 (木)

酒井穣著『初めての課長の教科書』で語られる「読書のユニークな本質」

昨日のこのブログで酒井穣さんが書いた『初めての教科書』について紹介した。まさに、初めて課長(=管理職)になる人のために書かれた「課長学入門」とでも言うべき本で、これまで類書がないということ、まさに課長が日々現場で遭遇するであろう事に対する処方箋が、コンパクトにもれなくまとめられていて、今後、長く読まれていく本になると思われる。企業の中には、新任の課長の研修の教材にしたり、新任課長に配ったりするところも出てくると思う。

しかし、私が本書の中で、もっとも目から鱗が落ちる思いがしたのが、本書の最後に掲載されている「テレビがダメで読書がアリの本当の理由」の理由と題した読書の本質について語ったコラムである。
なぜ、テレビを見ることより、読書をする事が有用なのか?著者の酒井さんは、優れた文章が持つ「圧縮」の効果とそれを「解凍」して読み解く際の「想像力」の重要性をあげる。

「その場で五感を総動員して取得した情報を、数行の文章に圧縮する能力」これが重要なことをより多く記憶し、効率的なコミュニケーションをするために必要な能力です。(中略)動画よりも静止画、静止画よりも文章のほうが情報サイズが圧倒的に小さくなり、記憶にも運搬にもより優れたものになります。贅肉の削がれた重要情報を多く記憶する「引き出しが豊かな人物」は、変化の激しい時代にあってもたくましく生きていけるのです。そして他人が「文章に圧縮した情報を、動画として脳内で解凍し再生させる能力」を「想像力」というのではないでしょうか。(中略)
良い文章にたくさん触れることで「情報を解凍する能力」を磨き、良い文章に刺激されてブログなどで文章を書くトレーニングを積んでおけば、圧縮の技術も学ぶことができます。脳内に情報の圧縮、解凍のプログラムを組み込み、それを絶え間なくバージョンアップさせていくという作業が、読書のユニークな本質なのではないでしょうか。読書をすればするほど、脳という知識創造のプロセッサの能力は高まると筆者は信じています。(『はじめての課長の教科書』220~221ページ)

これ以上、私がくどくど説明を加える必要もないと思うが、感想めいたことを言えば、これまで本も読むつど、「この本は中味が濃い」とか「中味が薄い」という感じを持ったことが何度もあったが、それ以上に本の内容のよしあしを表現する言葉を持っていなかった。
この酒井さんが「情報の圧縮」と「解凍」という言葉を使って語った読書論は、「優れた文章」と「読書」の本質を見事に表現していると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 7日 (水)

自分が課長だった時代に読みたかった『はじめての課長の教科書』(酒井穣著)

出版された時から気になっていた酒井穣著『はじめての課長の教科書』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)をGW前に買い込み、今朝読み終えた。よく売れているようで、アマゾンのベストセラーランキングで全体で21位、「ビジネス・経済・キャリア」部門では4位となっている(この記事を書いている時点で)。先週の朝日新聞の書評にも取り上げられていた。

著者の酒井穣さんは、1972年生まれ。慶応義塾大学理工学部の卒業で、オランダでMBAを取得し、現在はウェブ・アプリケーション開発を行うベンチャー企業の最高財務責任者(CFO)をつとめているとのこと。「NED-WLT」http://nedwlt.exblog.jp/というブログも書かれている。(本書の著者紹介より)

かつて、自分が課長という立場に初めてなった時に、まったく仕事のやり方が変わり、戸惑った経験がある。
それまで、部下の時代に仕えた上司の顔を思い出し、自分が生き生きと働けた上司の行動を思い出しながら、自分なりに試行錯誤で、自分の課のマネジメントを行った。

やはり、部下として仕える立場で見ているのと、いざ自分がその立場に立ってみるのとは大違いで、

(1)課長とは、自分で仕事をするのではなく、他人(部下)に仕事をしてもらう立場であること(当たり前だが)

(2)課長とは、組織の中での最初の人事評価者として、部下の人生・運命に影響を与えざるを得ないこと(部下時代とは比較にならない責任の重さ)

を痛感した。

本書は、まさに、当時の私のような初めて課長になった人が遭遇であろう数々の課題について処方箋を示してくれている。
それぞれの企業・組織によって、課長になるための難易度、課長に期待される役割、与えられる権限は微妙に違うとは思うが、しかし、おしなべてみれば、共通する項目の方が多いと思われ、現在、課長のポジションにいる人にとって日々のマネジメントのヒントの書であり、これから課長になろうする課長代理や係長クラスの人たちには、課長の仕事を予習できる貴重な本である。

一部、目次を紹介すると

第2章 課長の8つの基本スキル
スキル1 部下を守り安心させる
スキル2 部下をほめ方向感を明確に伝える
スキル3 部下を叱り変化をうながす
スキル4 現場を観察し次を予測する
スキル5 ストレスを適度な状態に管理する
スキル6 部下をコーチングし答えを引き出す
スキル7 楽しく没頭できるように仕事をアレンジする
スキル8 オフサイト・ミーティングでチームの結束を高める

第3章 課長が巻き込まれる3つの非合理なゲーム
ゲーム1 企業の成長を阻害する予算管理
ゲーム2 部下のモチベーションを下げかねない人事評価
ゲーム3 限られたポストと予算をめぐる社内政治

第4章 避けることができない9つの問題
問題1 問題社員が現れる
問題2 部下が「会社を辞める」と言い出す
問題3 心の病にかかる部下が現れる
問題4 外国人の上司や部下を持つ日が来る
問題5 ヘッドハンターから声がかかる
問題6 海外駐在を求められる
問題7 違法スレスレの行為を求められる
問題8 昇進させる部下を選ぶ
問題9 ベテランの係長が言うことを聞かなくなる

上記の目次を見ただけでも、本書の語ろうとしていることは、うかがい知ることができると思う。
私が感じた最初の課題である「他人に働いてもらう立場」に求められるスキルは第2章に網羅されているし、結果的に同じようなことを行っていたと思う。 また、2番めにあげた「人事評価」者としての問題は、第3章のゲーム2に語られる通りである。

「自分が課長の時代に読めればよかったのに… 」と思う本である。
本書では、もう1点非常に参考になる視点があったが、それは、明日あらためて書くことにしたい。(2008年5月8日:酒井穣著『初めての課長の教科書』で語られる「読書のユニークな本質」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月 6日 (火)

『将棋世界』2008年6月号の「感想戦後の感想」に郷田真隆九段が登場、丸山忠久九段との関係を語る

ゴールデンウィーク前の5月2日に発売になった『将棋世界』2008年6月号。連載記事の「感想戦後の感想」に郷田真隆九段が取り上げられた。

「感想戦後の感想」は、毎月、1人の棋士を取り上げ、インタビューも交え、各棋士のエピソードを紹介するもので、今回が36回目。郷田九段は、他の棋士に比べ、将棋の本の執筆も少ないので、ファンとしては、本人の人となりを知る数少ない機会である。

○郷田九段の終盤
記事では、まず最初に、郷田九段と森内名人が対戦した前期の第65期名人戦第6局の大逆転が語られる。森内名人の勝利が確実となり、いつ郷田九段が投了し森内18世名人誕生するか誰もが考えていたその時、郷田九段の放った最後の一撃を森内名人が受け間違えて、ほぼ手中に収めた18世名人位を逃した場面である。
ライターの高橋呉郎さんは、郷田九段の終盤を次のように語る。

「さながら、深傷(ふかで)を負ったサムライが、従容として死を待っているいる趣がある。が、勝負をあきらめているわけではない。薄目を開けて、最後の一太刀を狙っている。」(『将棋世界』2008年6月号172ページ)

劣勢となった終盤戦に妙手を放ち、対戦相手のペースを崩し、逆転に持ち込むのは、郷田九段の得意技の一つである。

○丸山忠久九段との関係
もうひとつのエピソードは、丸山忠久九段との関係である。同学年で、同じ年に四段に昇段した丸山九段(棋士番号194)と郷田九段(同195)。タイトル獲得は、郷田九段が先んじたが、順位戦では常に丸山九段が一歩先を行き、郷田九段が常に追いかける関係だった。
郷田九段が初めてA級棋士となった1999年度の第58期A級順位戦。郷田八段(当時)は1年前にA級に昇級した丸山八段(当時)と最終戦で対戦した。郷田八段は勝てばA級残留、負ければ他の棋士の成績次第でB級1組へ1期で降級もあり得るという一戦。一方、丸山八段にとっては、勝てば名人挑戦権確定、負ければ他の棋士の成績次第でプレーオフにもつれ込むという両者とも譲れない大一番である。
結果は、丸山八段が勝ち、名人挑戦者となって佐藤康光名人から名人位を奪取する。一方、郷田八段は、他の棋士が勝ったことから、降級となり、A級定着までにさらに6年を要した。

そのような経緯もあり、郷田九段は、丸山九段をライバルとして意識しているに違いないとは思っていたが、先日紹介した郷田九段の著書『実戦の振り飛車破り』でも、取り上げられる相手は振り飛車を指す相手が中心で、振り飛車をあまり指さない丸山九段のことは取り上げられていなかった。

記事では、2人の対戦で丸山九段が先手となった場合は、丸山九段の得意戦法である「角換わり腰掛け銀」という戦型になることに触れている。対戦相手の得意戦法に持ち込まないように駆け引きをするのが当たり前な中、郷田九段はあえてそれを受けて立っており、しかしその結果として、丸山先手の「角換わり腰掛け銀」は11戦で、丸山九段の10勝1敗となっており、2人の通算の対戦成績も34戦で丸山九段の23勝11敗と差がついている。(その後、第21期竜王戦1組準決勝で丸山九段が勝ったので、現在は35戦で丸山24勝:郷田11勝)

1990年にプロ棋士である四段となった2人は、将棋界で「VS」と呼ばれる練習将棋をよく指したという。日に2、3局は普通で、多いときには5、6局。
郷田九段は、「彼とは長い歴史があるんです」と語った上で

「丸山さんは大学生でしたね。まだ、角換わりをいまほどはやっていなかったけれど、得意戦法を持とうという意識は強かったでうえね。彼にはそのころから苦しめられていたんだよ。若かったから、張り合う感じもあって、練習将棋なのに真剣勝負みたいに、一局たりとも負けられないと思っていた」(『将棋世界』2008年6月号174ページ)

と対丸山戦への思いを語っている。

後手となった場合に先手の角換わりを受け続けるかについては、

「ただ、やみくもにやっているわけじゃないんで、一回、一回、自分なりに工夫してテーマみたいなものを持っている。まだ、未解明の部分がありますから、これからもそれは同じですね。丸山さんには、いちじはちょっと負けすぎたけど、最近は角換わり以外は、そんなにやられていないので、苦手意識はないですね。いずれ、丸山さんにも(中略)、星を返していけると思っています」(『将棋世界』2008年6月号174ページ)

自分と同レベルの相手や分の悪い相手に対しても、相手の得意戦法を受けて立つという郷田九段の心意気は、「王道」や「正攻法」といった言葉を思い出させる。
決して流行を追わず、目先の勝利でなく、最終的な勝利を目指し、自ら信じる道を進む郷田九段こそ、棋士らしい棋士といえるのではないか。
先手「角換わり腰掛け銀」への研究の成果が現れて、丸山九段との対戦成績を五分いやそれ以上に待っていける時が、一日でも早く到来することをファンとしては願ってやまない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月30日 (水)

浜田康著『会計不正』を読み始める

3月に中央青山監査法人の消滅をテーマにした種村大基著『監査難民』(講談社)と細野康弘著『小説会計監査』(東洋経済新報社)を読んだが、今朝から浜田康著『会計不正』(日本経済新聞社)を読み始めた。

こちらは、単に中央青山監査法人の問題だけでなく、なぜ粉飾決算・会計不正が起きるのかについて、会社側・経営者側の事情と、監査する公認会計士側の事情、そして今後、会計不正をなくしていくために、それぞれの立場でどうするべきか等について考えようとするものである。

著者は中央青山監査法人所属の公認会計士で2002年には同じ日本経済社から『不正を許さない監査』という会計監査のあり方をテーマにした本を出している論客である。
しかし、皮肉にも、その後日本では数々の会計不正事件が世を騒がせ、在籍していた中央青山監査法人は解体・消滅した。
中央青山に、証券取引等監視委員会の調査が入った2005年7月には新設の監査5部長の発令を受けたばかりだったことが書かれているので、中央青山でも相応の地位にいたことになり、みずからの組織に所属する会計士がカネボウなどで「不正を許す監査」どころか「不正に荷担する監査」をしていたという事実には衝撃を受けたと思うし、『不正を許さない監査』の著者としては忸怩(じくじ)たる思いだったろう。 何とか、著者なり顔回答を出そうとして書かれたにが、この『会計不正』だったのではないかと思う。
本書の締めくくりに当たる第8章は「監査人は会計不正にどう対応すべきか」との題され、5つの節のタイトルは、次の通りである。

1.クライアントのビジネスを理解しているか
2.監査人は不正に対する感度を高め、その排除、阻止に全力を挙げるべし
3.監査人は論理的であるべし
4.監査人は自ら隘路に滑り落ちない仕掛けをしておくべし
5.監査人は自分のクライアントの行動を映し出す鏡であるとの自覚を持つべし

グローバルスタンダードという名の下、企業の1年間の成績発表である企業会計の分野でも、国際に会計基準の統一化が進んでいる。そして、市場は、経営者には常に増収・増益を求め、それを実現した経営者が優れた経営者とされ、報酬もそれに伴う仕組みに変わりつつある。
その成績表を監査する会計士も、社会や市場から自らに求められる役割が大きく変わっていることを認識しなければならなし、企業や経営者に対する見方を変えて、クライアントである企業や経営者との新たな関係を築いていかなければならないということなのだろう。本書のサブタイトル『会社の「常識」監査人の「論理」』にも、そういう思いが込められているのではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月28日 (月)

河合隼雄著『河合隼雄の”こころ”』で語られる「指導力」

4月の半ばに、このブログで紹介した河合隼雄さんの『河合隼雄の"こころ"』(小学館)を2、3日前から読み始め、今朝の通勤電車で読み終わった。

教師向けの月刊雑誌に「子どもの心、教師のこころ」というタイトルで連載された30編のコラムをまとめたものである。
この中で、「教師の指導力」について書かれた部分を紹介しておきたい。

教師の「指導力」の中核にあるのは「授業」である。自分の教える学科についてよく知っていることはもちろんだが、それを「教える」ことについてもよく知っていなくてはならない。つまり、知識があるというだけでなく、それをどのように教えると子どもたちが理解しやすいのか、子どもたちはどのような誤りとか、誤解とかをしがちであり、それをどう説明するとよいのか、などということをよく知っていなくてはならない。(中略)
教えるべき内容、その教え方に、教師が興味をもっていることがまず大切である。教師の興味が子どもに伝授されてゆく。興味あることにともに向かっている中で、教師の指導力が自然に発揮されてくる。(『河合隼雄の"こころ"』36~37ページ)

最近、現在の職場での在籍が長くなったこともあって、新任者への研修の講師役をやったり、これまで自分が比較的詳しく調べてきたことを同僚に説明をしたりと、「教える」ことが増えてきている。
そんな立場で読むと、教えることの内容を詳しく知っていることと、「教え方」を知っているということは、別の話だという点は、実にその通りだと思う。
どう説明すれば、その分野に詳しくない人にわかってもらえるのか。それを考えることが、「教育」の一番重要なことなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月25日 (金)

将棋アマチュア初段をめざし『将棋3手詰入門ドリル』を解き、問題集として『二段の力』を買う

将棋のアマチュア初段に挑戦を始めたことは、以前書いた。月1回毎月の『将棋世界』に掲載される「初段・二段・三段コース」の次の一手の問題4問を解き、初段であれば、いかに早く8問正解を確保するかということになる。

毎月掲載の4問を待っているだけでは、棋力の向上はおぼつかないだろうから、問題集的なもので頭の体操をすることにした。

しばらく前に買ったのが、観戦記者の椎名龍一さんの『将棋1手詰入門ドリル』(池田書店)。

これは、次の一手が詰みという問題が280問。ほとんどは、一目瞭然の初級問題だが、後半161問目以降の実戦編で示された実戦局面での最後の一手になると、難しい問題もあった。

その後、同じ著者が出した『将棋3手詰入門ドリル』(池田書店)も買う。

これは単に、「3手詰め」を集めたのではない。
前半の基本編では、各ページに1手詰めと3手詰めがセットになって掲載されている。まず、上半分には前著と同様1手詰めの問題があり、下半分には上の問題の局面をさらに2手前まで遡った図が配置されている。
通常の3手詰めの本であれば、下半分の問題だけだろうが、この本は、先ず1手詰め問題を示して最後のとどめの場面を考えさせ、さらに3手詰問題では、そこから2手前に遡った図面を見せ、上の「1手詰め」の局面に持って行くにはどう指せばよいかという形で、時間を逆転させ、詰めに向けた思考のプロセスを明らかにする構成になっている。この時間を遡るところが類書にはない特長だと思う。
最初に、最終の詰みの局面のイメージを持ち、その最終形に持ち込むまで、どのように障害を取り除き、相手の玉を追い込んでいくのかという発想は、初級者と中級者以上の分かれ目になるところではないかと思う。当たり前のことなのかもしれないが、改めて形にして示されると目から鱗が落ちる思いだった。

そして、今日の仕事の帰り、いろいろな局面で最善手である「次の一手」を問う問題集として週刊将棋編『二段の力』(毎日コミュニケーションズ)を買ってきた。

将棋の週刊新聞である「週刊将棋」に毎週連載されてた棋力二段クラスの「次の一手」問題106問を載せている。簡単なヒントがあり、ほぼ、『将棋世界』に掲載される「初段・二段・三段コース」と同じレベルのようであり、「初段・二段・三段コース」対策としては格好の教材だろう。
最初の2問が立て続けに不正解だったので、真剣に考えるようにしたら、その後4問は、私の考えた手が正解だった。
なんとか、遅くとも9月ぐらいまでに、アマ初段の目処をつけたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月24日 (木)

内田樹著『街場の現代思想』で語られる「結婚」について

内田樹さんの『街場の現代思想』(文春文庫)を読み終わる。独特の毒気を持った鋭い切り口の語りは、なかなか他の評論家や作家にはないものである。

街場の現代思想 (文春文庫)

この本の後半7割ほどは、人生相談風に、最初に読者などからの問いかけがあり、それに内田先生が答えるという形式になっており、テーマは仕事、結婚、離婚、学歴等多岐にわたる。

その中で、結婚をテーマにした論説は、逆説的であるけれど、真実をついている気もするので、紹介しておく。

結婚と恋愛ではプレイヤーに求められる人間的資質がまったく違う。恋愛に必要なのは「快楽を享受し、快楽を増進できる能力」であり、結婚に必要なのは「不快に耐え、不快を減じる能力」なのである。(150ページ)

人類が再生産を維持するために必要な資質は「快楽を享受する能力」ではない。そうではなくて、「不快に耐え、不快を快楽に読み替えてしまう自己詐術の能力」なのである。その能力のある個体だけがそのDNAを次代に遺すことができる。そしてその淘汰圧耐えて生き残った人間を「勝者」とみなすように人類学的にプログラムされているのである。
その「勝ち負け」の判断は、私たちの側の自己決定で、どうこうできるものではない。(152~153ページ)

自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そのでなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できることを教える制度なのである。
婚姻は葬礼がそうであるように、人類と同じだけ古い制度である。あるいは、婚姻制度を持たない集団もあったかもしれないが、人類学が教える限り、そのような集団はひとつとして生き残ることができなかった。「他者と共生する」という能力だけが、人間が生き延びることを可能にしているという真理を、この人類学的事実は告げているのではないか。
(162~163ページ)

しばらく前に紹介した『ひとりで生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)とも通じるものがある。

ひとりでは生きられないのも芸のうち

著者内田先生の考えに興味をもった方は、2冊併せて読んでいただければと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月22日 (火)

福岡伸一著『プリオン説はほんとうか?』を読み終わり、内田樹著『街場の現代思想』を読み始める

一昨日から読み始めた福岡伸一著『プリオン説はほんとうか?』を今朝の通勤電車の中で読み終わる。
同じ著者の『生物と無生物のあいだ』と同様、分子生物学の難しいテーマが、まるで推理小説の謎解きのように語られる。

なにごとも、自分の知らないことの仕組みや成り立ちを解き明かすということが好きな私にとって、謎解きの楽しさを満喫させてくれる2冊であった。

その後、鞄の中に何冊か入れてある読む予定の本の中から、文春文庫の新刊(2008年4月)の1冊、内田樹著『街場の現代思想』を読み始めた。次は、痛快な内田節を読んでみよう。

街場の現代思想 (文春文庫 (う19-3))

あと、今後ゴールデンウィークにかけて読む予定で、鞄の中に入れてあるのは、これまでに買って読みかけの李御寧著『縮み指向の日本人』(講談社学術文庫)、松岡正剛著『知の編集工学』(朝日文庫)。

それに最近買ったばかりの酒井穣著『はじめての課長の教科書』(ディスカバー)、宮本輝著『にぎやかな天地(上)・(下)』(中公文庫)など。

どれだけ、読み切れるか、気合いをいれて読まないと「積ん読」本がたまってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月20日 (日)

福岡伸一著『プリオン説はほんとうか?』を読み始める

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』がおもしろかったので、昨日(2008年4月19日)吉祥寺に出かけた際に、書店をいくつか回り、同じ著者の『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス、2005年11月)と『もう牛肉を食べても安心か』(文春新書、2004年12月)を探す。『プリオン説はほんとうか?』の1冊在庫を見つける。どちらも、出版から少し日がたっているので、在庫がないところも多い。

この2冊の共通のテーマは、一時、世界を震撼させた「狂牛病」である。『もう牛肉を食べても安心か』は、日米での「狂牛病」への対応を描いているとのこと。

そして『プリオン説はほんとうか?』は、「狂牛病」、何百年前から羊の間で起きていた「スクレイピー病」、そして「狂牛病」が人間が感染した「ヤコブ病」。これが、伝達性スポンジ脳症という共通の症状で、発症する「宿主」が違うだけであることが、近年どのように解明されてきたか。また、この病の病原体が細菌・ウィルスという従来の病原体の概念では、なかなか見つからず、プリオンというタンパク質ではないかという考え方を提唱したプルシナーという米国の学者がノーベル賞を受賞しているのだが、本当にタンパク質が病原体なのかという点について、疑問を呈し、真の病原体が他に存在するのではないかという問題を提起し、著者なりにそれに迫ろうとするものである。著者自身、「ノーベル賞評価への再審請求ととれるかもしれない」

『生物と無生物のあいだ』の前半で描かれたDNAの構造解明と同じように、科学的な発見には、純粋な科学的な探求という面と、それを行う人びとの功名争いというものが常ににつきまとっていて、それが社会的な影響が大きければ大きいほど、そこに関わる人間ドラマも生々しいようだ。
現在、ほぼ半分弱を読み終わり、これから福岡先生の仮説へのアプローチが始まるところである。
サントリー学芸賞を受賞した『生物と無生物のあいだ』に負けず、『プリオン説はほんとうか?』も講談社出版文化賞を受賞した作品で、読み応えは十分。
しかし、このような最新の科学知識を解説してくれる本を読むと、自分が知らないこととばかりであることを痛感する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月18日 (金)

郷田真隆九段の『実戦の振り飛車破り』と先崎学八段の『まわり将棋は技術だ』を買う

昨日(2007年4月17日)、仕事の帰り新宿経由で帰ることになり、新宿の紀伊國屋書店本店に寄ってみる。
将棋の先崎学八段が週刊文春に連載しているエッセイ「先崎学の浮いたり沈んだり」をまとめたものの2冊目にあたる『まわり将棋は技術だ』(文藝春秋)が以前行った時に平積みで何冊か置かれていたので、次の機会に買おうと思っていながら、なかなか行く機会がなく、ようやく、機会に恵まれた(前回は、『村山聖名曲譜』と『先崎学の浮いたり沈んだり』を買ったところで予算が尽きたので、次回回しにしていた)。

前回来た時に3~4冊あった在庫は1冊に減っており、なんとか最後の1冊をゲット。あまり、書店で在庫を見る本ではないので、滑り込みセーフというところだろう。

ついでにと書棚を見ていると郷田真隆九段の著書『実戦の振り飛車破り』(日本将棋連盟)があったので、こちらも一緒に買ってきた。

『まわり将棋は技術だ』は、昨日と今日で読了。いつも軽妙洒脱な書きぶりに、どんどん先を読みたくなる。

一方、郷田九段の『実戦の振り飛車破り』は、2000年8月まだ八段の時代に出版されたものである。郷田九段の実戦の中から、居飛車対振り飛車の戦いぶりを、振り飛車の戦型別に21局を選び、解説している。ほとんどは、相手の振り飛車を居飛車党の郷田九段がうまく指し回して勝ったものが中心だが、中には惜しくも敗れたもの、また郷田九段が飛車を振ったケースも取り上げられている。
本の趣旨は、実戦の棋譜の解説なので、じっくり読み込むには将棋盤に棋譜を並べて見なくてはいけないが、それぞれの対局譜の解説の最初には、対戦相手を巡るエピソードが書かれており、とりあえず、そこのところだけを斜め読みしてみた。

その中で、いくつか興味をもったものを紹介しておきたい。(各棋士の段位・タイトルは現在のもの)

谷川浩司九段
「平成4年は思い出深い年だ。谷川さんと棋聖戦、王位戦のダブルタイトル戦を繰り広げ、王位戦で初のタイトルを獲得できたからだ。谷川さんは私たちの世代が目標にしてきた棋士であり、その谷川さんとタイトル戦のひのき舞台で戦えることは非常にうれしかった。」(48ページ)

先崎学八段
(先崎八段の兄弟子にあたる伊藤能四段との対戦記の中で)「私が伊藤さんの弟弟子である先崎学八段と親友という関係もあって、(以下略)」(68ページ)

故・真部一男九段(本書執筆当時は存命)
「真部八段にはときどきお宅に呼んでいただくことがある。非常にに博識で飲みながら話をしているととても楽しい。おおらかで大胆な部分と理論的な部分を併せ持たれている感じがする。真部八段の将棋は、基本的に筋のよい棋風なのだが、ときおり非常にごつい手を指してるタイプである。型にはまらず独創的なところがあって、常に”自分の将棋”を指している棋士だ。」(88ページ)

故・村山聖九段 (本書執筆当時、すでに他界)
「村山さんは個性的な棋士だった。随所に野性味あふれる指し手が現れるその棋風は「切れ味の鋭いナタ」のようであり、魅力ある将棋だった。村山さんとは年齢も近く、私はライバルとして意識していた。村山さんが私のことをどう思っていたかは分からないけれど・・・・・・。明るく朗らかなうえに人なつっこくて、村山さんは誰からも愛される性格だった。同世代の友人として、忘れることはできない棋士である。」(184ページ)

最後に紹介した「故・村山聖九段をライバルとして意識していた」というくだりは、「やはりそうだったか」という思いである。以前の記事でも、似たようなことを書いていると思うが、激しさという点で2人の棋風は似ている。郷田九段にとって、自分より少し年上で、しかし1期あとに奨励会入たものの、あっという間に奨励会を駆け抜け、常に自分より先を走っていた村山九段は、その棋風からしても郷田九段の目標だったに違いない。
そして、郷田九段がB級1組でトップとなり、初めてA級入りを決めた第57期(1998年度)の順位戦で、村山九段はA級在籍にまま亡くなったのだ。ようやく追いついたと思った時、ライバルはいなくなっていた。

取り上げられている21局の棋譜は、改めて将棋盤と駒を出してきて並べてみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月17日 (木)

生命の不思議を感じさせてくれる福岡伸一著『生物の無生物のあいだ』を読み終わる

一昨日(2008年4月15日)の記事で取り上げた福岡伸一著『生物の無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読み終わった。

時に分子生物学の歴史を語り、その中での人間の功名争いを巧みに語り、最後にはその分子生物学の歴史に連なる自らの研究の不思議な結果、生命の不思議としか言いようのない結末を語り、締めくくる。最後の数章はまるでミステリーを読んでいるようで、どのような結論がでるのか、気になって一気に読ませる迫力がある。
(個々のエピソードは興味深いものが多いが、あまり書いてしまうと、まだ読んでない人に対してネタバレになってしまうので控えておく)

そして、一冊を読み終えてみれば、本書が、一般人向けの格好の分子生物学の入門書になっていることがわかる。また、世界のトップレベルの研究室で行われている研究の最前線の有り様を垣間見せてくれ、偉大な業績の背景には、地道な作業の積み重ねがあることを知り、「どの世界も同じなのだ」と改めて認識する。

高校時代、文系を選択した私は、当時のカリキュラムで「生物Ⅰ」を勉強したところで、生物学の勉強は終わっている。その程度の知識でも、十分、楽しめた。著者の難しいことを、門外漢にも判るように語る語り口は秀逸であり、大学の理系の先生としては希有な存在ではないだろうか。
この著者福岡先生が1959年生まれというのは、1960年生まれの私にとって、同世代の活躍としてうれしい限りである。 著者が書いた『もう牛を食べても安心か』(文春新書)、『プリオン説は本当か?』(講談社ブルーバックス)も買い求めて読んでみようと思う。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月16日 (水)

河合隼雄著『河合隼雄の"こころ"』

故河合隼雄文化庁長官を追悼する雑誌の特集号は、以前紹介したが、その後、月刊『教育総合技術』という専門雑誌に2004年4月号から2006年9月号まで連載されていた記事をまとめた『河合隼雄の"こころ"』(小学館)が出版された。

『教育総合技術』という雑誌は、学校の先生向けの専門誌のようで、連載記事「子どもの心、教師のこころ」というタイトルで、先生を対象に子どもと大人、学校、社会などとのの関わりをテーマにしたものになっている。

また、この本には、河合隼雄さんが選んだ「親子で読みたい本」のリストが、児童書と絵本に分かれて載せられている。編集部によるまえがきだと、いずれ、河合さんが文化庁長官退官後に全作品につき解説を執筆してもらう予定で、とりあえずリストアップだけがされていたが、亡くなられたためリストだけが残ったというもの。河合さんは、児童書も多く読まれ、何冊も児童書について語った著作があり、解説書が実現していれば、よき児童書、絵本の手引きになっていたに違いないと思われるので残念である。

おそらくは、この本が、河合隼雄さんが書かれたものの最後になるのであろう。今年に入ってから、20代の若者が、無差別に衝動的に他人を殺傷する事件が続いていて、単に表面的な動機の分析だけではなく、社会全体に蔓延する病理のような物を考えていかなければならない時に、それにもっともふさわしい河合さんがすでにこの世にいないことは、残念である。

この本の帯には「不世出の臨床心理学者が最期の綴った"おとなのこころと子どものこころ"」とあるのだが、「不世出」という言葉がまさにその通りだなという気がした。
本当は、河合さんの書物から薫陶を受けた、我々のような後の世代の者が、河合さんの深い洞察からヒントを得て、実践し、少しでも社会を変えていかなければならないのだろうけれど、現実には、自らの子育で精一杯であり、なおさら失った河合隼雄さんの存在の大きさを感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月15日 (火)

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読み始める

このところ、読んでいた松岡正剛著『日本という方法』(NHKブックス)と松岡正剛・茂木健一郎対談『脳と日本人』(文藝春秋)の2冊を日曜日までに読み終わる。
日本文化について「うつ(空)」と「うつつ(現実)」とそれをつなぐ「うつろい」とキーワードに語られているが、正直なところ松岡さんの全思想を完璧に理解したとは言い難い。松岡さんの思想は、古今東西のさまざまな人物の著作を読み込み、それを自分なりに咀嚼・消化したうえで、松岡流に編集されており、浅学非才の私にはまだまだとても及ぶところではないというのが正直な感想である。

少し、目先を変える意味もあって、昨日から福岡伸一著 『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読み始めた。
しばらく前に読んだ山本淳子著『源氏物語の時代』などと並び2007年のサントリー学芸賞を受賞した作品だ。2007年5月の発行だが、またベストセラーかつロングセラーとして、もうすぐ発売後1年になるが、いまでも平積みで並べられいる書店が多い。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

分子生物学者の著者が、タイトル通り「生物」と「無生物」の違いについて語るのだが、教科書的な説明ではなく、自らの研究体験、分子生物学研究の歴史も交えて、エッセイとして書かれており、読みやすく、わかりやすい。売れているのもなるほどと納得する内容である。
昨日の帰りなど、つい夢中になって読んでいたら、例のごとく、1駅乗り過ごしてしまった。

サントリー文芸賞の受賞の言葉が、著者自身による自著の説明と、そのわかりやすく読みやすい文章の秘密が述べられており、この短い受賞の言葉じたいも一つの読み物として十分おもしろいので、全文紹介しておきたい。
斜字体にした部分は、なるほどそうだと思うところで、学び教えるということの本質をついているような気がするので、あえて強調させてもらった。

<サントリー学芸賞受賞者の言葉より>

このたびは、栄えある賞をいただくことになり心より感謝申し上げます。
唐突ながら、私はスポーツが得意ではありません。学校の体育の時間にろくな記憶がないのです。それでも大学に入ってから知人に誘われるままスキーを始めました。技術の習得は自分でも情けなくなるほど遅々としたものでしたが、冬の朝の群青色の空や光る風に魅せられてスキーを続けました。スキー場に行くと必ずスキースクールに入ってインストラクターから指導を受けることにしました。彼ら(あるいは彼女ら)の滑りは私の目に神様のごとく映ります。美しく、速く、力強くそれでいて軽やか。雪煙を上げながらピタリと止まる姿にため息が出ます。そして、インストラクターから受ける注意はいつも同じでした。重心が後ろにあるのでスキーから身体が遅れる。カーブの時、身体の軸が内側に倒れすぎている。エッジの踏みが軽すぎる・・・
スキーが抜群にうまいインストラクターたちは、しかし、しばしばそのうまさを伝えることができません。彼らはスキー技術のポイントを整理し、そこに定義や意味を付与することはできます。しかし私はそれを理解し、それを身体で実現することができないのです。しばしばインストラクターはいらだちました。こんなに簡単なことがどうしてできないのかと。こうですよ、こう。そういって彼らは華麗に雪面を滑り降りてみせるのでした。
『生物と無生物のあいだ』を書くにあたって、私は語り口を、もう少し格好よく言えば、自分の「文体」を探しあぐねていました。そして思い出したのがスキーのことだったのです。そうなのです。彼らがうまくスキー技術を言葉にできないのは、実は彼らがそれを忘れているから、あるいはより正確にいえば憶えた経験すらないからなのです。それほどスキーの滑走感、ターン感は彼らにとって生得的なものなのです。
結局、私たちが、伝えることができるのは、自分が理解したプロセス自体を憶えていることだけである。そう思えたとき、私は、自然とこの本を、初めて研究者の卵として就職したニューヨークのロックフェラー大学のことから書き始めていました。かつて野口英世がいた場所です。あるいはDNAが遺伝子の本体であることを丹念な実験で突き止めようとしたエイブリーがいた場所でもあります。私は古びた図書館の小さな窓から見える、深緑色の水を湛えたイーストリバーの流れを思い出しました。そうなのだ、自分が理解したプロセスを、自分の体験として語ればよいのだ。それはあるときは混乱であり、別のときは落胆だった。そしてまたそれはささやかな喜びでもあった。そのいちいちを、事後的ではなく、自分の内部の時間の流れとして記述すればよいのだ。
その試みは、もちろん本書では全く不十分な、実験的なものにとどまっています。しかし、私にできることはそれを継続していくことだけなのだということもわかったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 7日 (月)

内田樹著『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読み終わる

先週3日(木)から読み始めた内田樹著『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読み終わった。


この本の全体についての著者の考え方は読み始めた日の記事(2008年4月3日:内田樹さんが語る狙った男の口説き方-『ひとりでは生きられないのも芸のうち』から)で紹介したので、そちらも見ていただければと思う。

内田先生が語るのは、2008年の日本で語られる自由主義経済の中で自らの利益を最大にしようと行動する経済合理性で思考し行動する社会や個人ではない。
もっと、自然の摂理やなんとか生き残ろうとする人間の本能に立ち戻って考えるということである。

例えば、現在の日本の地域社会や家族での人間関係が希薄になっているのは、日本が平和であるからという。戦争や飢餓など、生命の危機の瀕した時、人間は生き延びる可能性がより高い選択をする。
家族と助け合い、限られた食料を分け合い、地域の人びとと助けあう。その方が、一人でいるよりも、生き延びる可能性が高いからである。
それは、草食動物が肉食動物から逃れ生き延びるため、群れをなすのと同じである。1匹でいれば狙われたら最後、逃げおおせることは難しいだろう。しかし、10匹で群れを作れば襲われるリスクは1/10になるし、100匹で群れをなせばリスクは1/100になる。

日本が豊かで明日を生きることに何の不安もないから、家族に依存したり頼る必要もない。そして、自立と言う名の「孤立」を選択する人が増える。ニートとなり、働かなくても親が養ってくれるから困らない。

ほかにも、いろいろと、そもそも論から考えた内田流思考がいたるところにちりばめられている。

私が、目から鱗が落ちる思いだったのは、昔の大人は子どもの前でお金の話はしなかったというくだりである。(Ⅴ共同体の作法-「子どもに触れさせてはいけないもの」)
お金は穢れたものとの意識があり、物を買って代金を支払う時は別だが、人にお金を渡す時、封筒に入れたり、紙に包んだりするのは、穢れたものを裸のまま人に渡すの失礼という意識があるからという。そして、お金を話をするのは、大人であり、子どもを穢れから守るため、子どもの前ではお金の話はしない。確かに、以前の日本人にはそんな意識があったように思う。
私の両親も決して豊かではなかったが、子どもの前で、家計が苦しいなどと漏らしたことはなかった。

それが、自分が親になった現在、子どもの前で、当たり前のようにお金の話をしている。知らず知らずに、「自由主義経済の中で自らの利益を最大にしようと行動する経済合理性」と言い換えた拝金主義に毒されているのだろう。

身の回りで語られることが、なんか変だと感じている人は、一度読んでみるといいと思う。変ではない、まともな、常識的な考えというものは何かについて、思い起こさせ、考えさせてくれる「きっかけ」がたくさん詰まっている本だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 6日 (日)

松岡正剛著『誰も知らない世界と日本のまちがい』を読み終わり、『日本という方法』を手に入れる

先週、読み続けていた松岡正剛さんの『誰も知らない世界と日本のまちがい』(春秋社)を読み終わる。

この本は3月25日のこのブログで取り上げた『17歳のための世界と日本の見方』の続編として書かれたものである。

『17歳のための世界と日本の見方』は好評だったようで、同書では扱っていなかった日本と世界の近現代史について語られている。
前作は帝塚山学院大学での講義が基になっていたが、今回は、前作の読者を集め、4日にわたって著者が話したものがベースになっている。

著者は、現在の世界のモデルが産業革命以降のイギリスにあるとし、そのイギリスとイギリスの覇権を引き継いだアメリカがそのモデルを世界に撒き散らし、「同一のルールとロールとツールを使うようになった」ことが、「まちがい」としている。

著者の唱える「編集工学」は以前にも書いたように、単に書籍や放送の編集にとどまらず、社会や個人の文化、意識や行動などを幅広く含む概念である。

著者は、本書では、それぞれ文化風土が違う地域が混在する世界で単一のルールを地域の違いを考慮することなく一律に適応しようとする危うさに警鐘を鳴らしている。

例えば、日本が中国で生まれた漢字という文字で、日本語の音を表現しようとして万葉仮名が生まれ、そこからひらがな、カタカナが生まれたように、受け取ったものを一度咀嚼し、自らに受け入れやすいように修正したり再構成したりして、自分流に変えていくことを「編集」と著者は位置づけている。

アメリカで主導で進む、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードを無批判に受け入れていたきた日本のあり方に再考を促しているのが本書だろう。

折しも、サブプライム問題で、アメリカンスタンダードが単なるアメリカのまやかしを押しつけるためのルールでっあったことが明らかになり、馬脚があらわれつつある現在、著者の主張は共感を呼んでいるのか、
松岡正剛フェアを行っている書店があったり、新刊の本書『世界と日本のまちがい』に加え前編にあたる『17歳のための世界と日本の見方』を揃えて、平置きで並べてある書店もあった。

その著者が、日本の歴史を振り返り、日本人が歴史の中で、外からの文化をどのように編集し受け入れてきたかをまとめのが、『日本という方法』(NHKブックス)である。この本は、2006年9月に初版が発行されているが、ほとんどの書店に在庫がなく、あっても汚い本しかなく、いろいろな書店に行くたびに探していたのだが、昨日ようやく見つけた。

日本全体で、アメリカンスタンダードを直輸入してきた小泉・竹中政治の見直しをする時期に来ているのだと思う。
その時、歴史を振り返り、過去の日本人がどのような形で他国の文化を受け入れ、自分流に「編集」してきたかは、学ぶ意味があると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 4日 (金)

次々と街の本屋が姿を消す背景にあるものを考える

4月に入って、私が通勤で乗り降りする駅前にある小さな書店が店を閉めた。老夫婦と思われる2人でやっていた駅前の寂れた商店街の中の小さな街の本屋だった。

特に本を買う当てがなくても、駅の出口から徒歩1分の場所にあるその書店に、週2、3回は必ず寄っていた私にとっては、子どもの頃、小学校の帰り道に必ずあった駄菓子屋が急に閉店になったような気分である。
小さい店の良さは、どこに何が置かれているかがすぐ分かることで、パソコン関係の雑誌や日本将棋連盟の月刊誌『将棋世界』などは、よくその店で買っていた。

私が今住んでいる家に引っ越してきたのは、2001年6月。引っ越してきた時、我が家の回りの生活圏とも言える範囲の中に、大小の書店が11店舗あった。しかし、現在までの約7年の間に、約半分の6店舗に減ってしまった。特に、この1年は顕著で、駅前の老夫婦の書店もあわせ3店舗が店を閉めた。確かに、閉店になった店は、利用する側から見れば、小さな店であったり、品揃えに工夫が感じらなかったり、幹線道路沿いにありながら駐車スペースがなかったりという店が大半だが、中にはそこそこの店のスペースと品揃えがあり、駐車スペースもあり、近くには大規模マンションもあるチェーン店の店の閉店もあった。

アルメディアという出版社に調べでは、日本の書店数は、2001年の約21000店から2007年5月には17000店ほどに減っているとのことである。

理由はいくつもあげられると思うが、

①まず、本そのものが読まれなくなった(=需要の減少)ということがあるだろう。少子化で、子どもの数が減っていること、本以外の娯楽(TVゲームやインターネット等)の普及なが理由と言えるだろう。
我が家にも3人子どもがいるが、ほとんど本を読まない。妻は、子どもたちが小さい時、懸命に絵本の読み聞かせをしたが、結局誰も本好きな子どもに育たなかった。
父親である私が一番本にお金を使っている。私が児童書の名作である上橋菜穂子さんの『守り人&旅人』シリーズなどを一生懸命読んでいるのに、子どもの方は、もうすぐ成人を迎える長女が一時ハリー・ポッターを読んでいたくらい。子どもたちが買う書籍類はせいぜいコミックである。親としては、この時期にこの本を読むといいのだけれどと思う本はたくさんあるのだが、人に押しつけられた本を読む苦痛も分かっているだけに、あとは、本人たちが必要になれば読むだろうと待つしかないと半ば諦めている。

②もうひとつは流通経路の変化である。今回、閉店した老夫婦の本屋の隣には、コンビニエンスストアがあり、雑誌もかなり置かれている。かつて、街の小さな本屋にとって雑誌が主力の販売商品だったに違いなく、コンビニの出店増は、マイナス材料に違いない。
さらにコンビニの後から登場してきたアマゾンなどのネット書店にも顧客を取られたことは容易に想像できる。私自身はネット通販をたびたび利用するが、家電やパソコン関連が中心で、本はできれば、書店で現物を見て買いたいと思っている。ネットを利用するのは、書店に現物がない場合が中心である。

③最後は、書店という業態内でのパイの取り合いである。全国に名をとどろかす大手書店は、大型店舗を出店を競っており、東京のターミナル駅近辺や全国主要都市には大型書店がずいぶん増えた。大型書店は、品揃えが充実していて、ほしい本を探すのには便利だが、そんな書店ばかりが増えたしわ寄せを食って、街の小さな本屋が消えてしまうのは、「本読み」には決してうれしいことではないと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月 3日 (木)

内田樹さんが語る狙った男の口説き方-『ひとりでは生きられないのも芸のうち』から

内田樹さんの2008年1月の新刊『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)を読み始めた。

神戸女学院大学教授でちょっと辛口だけど正論を語る内田さんは、自身でブログを書かれている。
この本もこれまでに著者がブログに書いてきたものを、文藝春秋の編集者が選び、それに著者が手を入れて本になったものである。(あとがきより)

書かれた文章の切り口は、

本書が扱うのは「あまりに(非)常識的であるがゆえに、これまであまり言われていないできたことだけれど、そろそろ誰かが『それ、(非)常識なんですけど』ときっぱり言わねば言わねばまずいのではないか」という論件であります。(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』9ページ)

と書かれている通りで、内田さんの面目躍如といった内容である。

そして、まえがきのあと最初の文章が「いかにして男は籠絡されるか/弱雀小僧 is come back」と題されて、思わず読んでしまう。

配偶者をお求めの女性諸君には、標的とされた男性については、まず「隠れたる才能を評価し」、ついで「ルックス」を称えるという二段階で攻撃した場合、きわめて高い確率で所期の成果を挙げうるということをご教示しておきたい。
言っておくが、「人間的暖かさ」とか「器量の大きさ」とか「優しさ」などというものについては、いくらほめられても男は微動だにしないので言うだけ無駄である。
なぜななら、そのような資質が備わっていることをすべての男性はゆるぎなき自信をもって信じているからである。(中略)
男が待望しているのは、、「それが備わっているかどうか、ちょっとだけ自信がない」美質についての「保証」のひとことだけなのである。(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』25ページ)

男の立場で読んでも、「なるほどそうかもしれない」と思ってしまう。

このような調子で語られる著者の考えが「Ⅰ非婚・少子化時代に、Ⅱ働くということ、Ⅲメディアの語り口、Ⅳグローバル化時代のひずみ、Ⅴ共同体に作法、Ⅵ死と愛をめぐる考察」という6つカテゴリーにわけてまとめられている。

まだ、「Ⅱ働くということ」を読んでいる最中だが、帰りの電車でページをめくっていたら、内田ワールドに入り込んでしまい、酒に酔っているわけでもないのに、一駅乗り過ごしてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月31日 (月)

辞書の季節、金田一晴彦さんの理想の辞書の新版

新入学を控えた3月下旬あたりから、毎年、書店に辞書の特設コーナーがお目見えする。もちろん、新入生に買ってもらおうということであろう。

以前、『広辞苑』の新版の第6版を衝動買いしてしまったことを書いたが、辞書のコーナーも見ているとあきない。

辞書など、どれも大差ないようにも思うのだが、やはりはやりすたりはあるようで、たとえば英語の辞書も我々の高校時代には受験用には、研究社の英和中辞典が定番のように言われていたが、今や大修館書店のジーニアスがその定番の座を奪っている。
受験という目的に即して、何を盛り込むべきかは、後発の辞書の方が、既存の辞書の長所・短所など内容を吟味した上で、短所を補い、長所を伸ばすような編集をすれば、結構、定番の座を奪うことも可能なのかも知れない。

受験も遠い昔の話になり、自分のために新しい英語の辞書を買うということはなくなったが、国語の辞書は『広辞苑』以外にも、買うことがある。
今年の辞書の特設コーナーに、我が家で愛用している国語辞典の改訂版が登場した。学研の『現代新国語辞典』の第4版である。

編者は、多くの辞書に編者として関わった故金田一晴彦氏。その金田一さんが、初版の序文で

私も(中略)何種類かの国語辞典の編纂をし、また数多くの辞典の作成に関係した。しかし、今度の辞典ほど私の理想にぴったりしたものは作れなかった。

と述べるほどである。
もちろん、買った時は、日常の読み書きの際に使いやすいものということで、書店に置いてあるものを見比べ、読み比べて使いやすそうだと感じたので、買ったもので、金田一さんの序文にはあとから気がついたのだが。

しかし、2001年11月に第3版が出版されたあと、2004年5月に金田一晴彦氏は亡くなったので、第4版は出るのだろうかと心配していたのだが、息子の金田一秀穂が編者に名を連ねて2007年12月に第4版が出版された。今後は、金田一秀穂氏が編集を引き継ぐということのようだ。
一安心である。いつか、仕事帰りの荷物の少ないときに買ってこようと思っている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月25日 (火)

松岡正剛著『17歳のための世界と日本の見方』を読み終わる

『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)をようやく読み終わる。

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義

この本のもとになったのは、著者が帝塚山学院大学に新設された人間文化学部の教授に1998年4月に招かれ、2004年3月に退職するまで、1年生向けに「人間と文化」というタイトルで行った講義の記録をもとにまとめられたもので、「セイゴウ先生の人間文化講義」とのサブタイトルがつけられている。

目次を並べると

第一講 人間と文化の大事な関係

第二講 物語のしくみ・宗教のしくみ

第三講 キリスト教の神の謎

第四講 日本について考えてみよう

第五講 ヨーロッパと日本をつなげる

世界の歴史の始まりから、日本とヨーロッパの近世あたりまでを縦横無尽に語り、現在の日本とヨーロッパの基盤となっているものの考え方や行動様式の原点に迫ろうとするものである。本の帯には「大人は読んではいけません」とキャッチコピーが書かれ、次作の『誰も知らない世界と日本のまちがい』の帯の「大人は読まなきゃいけません」と対になっているが、松岡さん自身は「おわりに」で「17歳」の意味について、次のように語っている。

17歳というのは大学生に話す以前に、高校生の諸君に語りかけたかったという思いを込めてのこと、とくに年齢にこだわったわけではありません。17歳ちょっきりも、17歳以前でも、いや、いまだに17歳をやりなおしていない”大人”だっていいのです。でも、17歳というのは象徴的な年齢だと思います。私も、何かを考えたり行動するときは、しばしば”精神の17歳”に戻ります。(『17歳のための世界と日本の見方』361ぺージ)

この本は、2006年12月に発行されていて、書店で表紙を見た記憶もあるのだが、これまで手に取る機会がなかった。私が買ったものの奥書を見ると2008年2月に第16刷となっていて、よく売れていることがわかる。

読書通の人たちにとって、「松岡正剛」作品は、外せないものなのだろう。これまで、松岡さんの存在を知らなかった自分の不明に恥じ入るばかりだ。

先ほども触れたが、本書の続編に当たるのが、同じ春秋社から昨年(2007年)12月に出版された『誰も知らない世界と日本のまちがい』であり、世界の近代・現代史がテーマである。ゆっくり味わって読むことにしたい。

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月24日 (月)

上田紀行氏の新刊『かけがえのない人間』と松岡正剛・茂木健一郎両氏の対談集『脳と日本人』を買う

先週末から土日にかけて、また何冊か本を買う。まだ、読み終わっていない本もたまっていて「積ん読」になるのは目に見えているが、やはり本は見つけて読みたいと思った時に買っておかないと、文庫や新書の新刊は、翌月の新刊が出ると、書店から姿を消してしまうことも多い。ベストセラーであれば、いずれブックオフに出回る頃に買うという選択肢もあるが、一般受けはしそうにないが、自分としては興味があるテーマの場合は、特に注意しておかないといけない。

まず、21日の金曜日に買ったのが、東京工業大学准教授の上田紀行さんが書いた講談社現代新書の今月の新刊『かけがえのない人間』。昨年は、2006年12月のダライ・ラマと長時間の対談をまとめた『目覚めよ!仏教』(NHKブックス)を出版したり、さらに岩波新書から出した『生きる意味』には、私も大いに勇気づけられた。端的に言えば、現代の日本に生きる人びとに対し、著書の中で「一人ひとりが、人間としての尊厳を回復しよう」と訴えている。今回の『かけがえのない人間』は、『生きる意味』の続編に位置づけられるもののようで、ダライ・ラマとの対談で触発された上田さんが自らのこれまでの生き方も語りながら、読者に「一人ひとりが、人間としてかけがえのない存在であることを認識することから始めよう」と呼びかけているように見える。

22日土曜日には、たまたま寄った書店で、松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談をまとめた『脳と日本人』(文藝春秋)を見つけた。2007年12月の発行であり、まだ新しい。

松岡さんのような、総合的な教養人の書く本は、ご本人の興味の範囲が広範囲にわたっていることから、テーマも多岐にわたるので、書店では作者別特集でもしてくれない限り、どこの棚を探せばあるのか見当がつかないので、見つけた時にすぐ買っておくのが、安全・確実である。

先週まとめて買った松岡作品のうち、『知の編集術』は駆け足で読み終え、『17歳のための世界と日本の見方』がもう少しで終わりそうなところである。やはり、大した教養人だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月20日 (木)

河合隼雄さんの追悼特集を組む『飛ぶ教室』2008年冬号と『考える人』2008年冬号を買う

臨床心理学者で数々の著作を残された河合隼雄さんが脳梗塞で倒れ、1年近い入院闘病ののち、亡くなられたのが昨年(2007年)の7月19日。もう半年以上になる。

このブログでたまたま書いた闘病中の河合隼雄さんの容態を心配する記事(2006年8月24日「気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態」)が、グーグルなどの検索サイトで長らくトップ10に表示されたこともあって、倒れられてから亡くなってまでのほぼ1年の間、毎日必ず10~20件程度アクセスがあり、多くの方に読んだいただいていたが、さすがに、最近ではほとんどアクセスされることはなくなっていた。
最近になって、朝日新聞社から出ていた『大人の友情』が文庫化されたのを見て、「やはり河合隼雄さんも時間の経過とともに過去の人になっていくのだろうか?」と妙に感傷的な気分になったりもしていた。

昨日、仕事の帰りにいきつけの書店に寄るると、河合隼雄追悼特集を組んでいる雑誌が2冊並べられていた。
光村図書発行の『飛ぶ教室』の2008年冬号と新潮社の『考える人』の2008年冬号。もちろん2冊とも買う。

飛ぶ教室 12(2008冬)―児童文学の冒険 (12)

『飛ぶ教室』の方は、河合隼雄さんとともに『飛ぶ教室』を創刊した児童文学作家の今江祥智さんと臨床心理学者で京都大学で河合さんの後輩にあたる山中康裕さんが「河合さんと子どもの本の話をしよう」というタイトルで対談しているほか、河合さんにゆかりのある人たちがそれぞれに河合さんの思い出の一文を寄せているほか、兄で動物学者の河合雅雄さんが隼雄さんが書いた自伝物語『泣き虫ハァちゃん』にまつわるエピソードを「泣き虫ハァちゃん異文」として寄せている。

『考える人』の方は、当初単行本化する予定で連続対談が組まれる予定だった作家の小川洋子さんと河合隼雄さんの対談、小林秀雄賞の選考委員として河合さんとともに選考にあたった加藤典洋・関川夏央・堀江俊幸・養老孟司4氏の対談、立花隆さんと河合さんの対談の再録、そして河合さんと関わりのあった人たちへのインタビューや、思い出を綴った文章という内容である。また、河合さんの著作をジャンル別に分けた「たましいの森をあるく」と題した河合隼雄ブックガイドもある。

どちらもそれぞれ趣向をこらした編集となっている。春分の日の今日、東京はあいにくの雨模様なので2冊を手に「雨読」に専念しようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月17日 (月)

松岡正剛氏の著作と巡りあう

久しぶりの読み応えのある作者に巡りあった。先週金曜日(2008年3月14日)、仕事の帰りによく寄る書店に立ち寄ると、新刊のコーナーに『物語編集力』(ダイヤモンド社)と一風変わったいうタイトルの本があった。
一年ほど前に一生懸命読んだ松村由利子さんの短歌エッセイ『物語のはじまり』を思い出す。

『物語編集力』の監修者は松岡正剛と書かれている。どこかで見た名前だ。そういえば、先々週、熱を出した会社を休んだ時に読んだ成毛眞著『本は10冊同時に読め』(三笠書房知的生き方文庫)の中で、著者の成毛さんが、「私が参考にする書評家」として取り上げていたのが、松岡正剛さんであった。

『物語編集力』という本は、松岡さんが主催するイシス編集学校で学んだ人たちが綴った3000字の物語のうちの秀作を紹介しながら、イシス編集学校の考え方を紹介する本なのだが、巷にゴマンとある薄っぺらな「小説の書き方」のようなノウハウ本ではない。
これまでの長い人類・社会の歴史の中で育まれてきた神話や伝説に共通するものを取り出し、それを書き手が、時代や自分の感性に合わせて、作りかえ、語り直すことで、新たな物語を作ることができるという考え方である。
私は『物語編集力』という発する磁力のようなものに惹かれ、数行目を通しただけで買った。

家に帰って調べてみると、松岡正剛という人はとてつもない人のようである。成毛眞さんは『本は10冊同時に読め』の中で、「知の巨人」と評している。ネットに「松岡正剛の千夜千冊」という書評サイトを開いていて、2008年3月17日現在1227夜となっており、1144夜までが、加筆され7冊の書評全集として発売されている。

松岡さんは、編集というものを単に本や雑誌の編集という狭い範囲で捕らえるのではなく、我々の日常の知的な営みは、全て編集であるという考え方をとっている。
種々の情報を集め、整理して一つの意味を持つつながりある「もの」としてまとめていく。こうした作業は全て「編集」ととらえている。スピーチをしたり、手紙を書いたり、スケッチしたり、研究開発したり、あらゆる事が編集だと言っている。
彼自身の言葉で言えば、編集とは「新しい関係性を発見していくこと」ということである。

私は、これまでなんとはなしに、自分がぼんやりと考え、行ってきたことに、「編集」という言葉がぴったりはまった気がして、すっかり「松岡イズム」のとりことなり、昨日、今日といくつかの書店を回り、入手可能な松岡さんの著作を4冊購入した。




とりあえず、最初は『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)を読んでいる。
買いそろえた5冊を早く読み上げ、松岡式「編集」術を会得したいと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月11日 (火)

細野康弘著『小説会計監査』を読み始める

昨日紹介した『監査難民』を読み終えたので、『監査難民』と合わせて積ん読になっていた『小説会計監査』(細野康弘著、東洋経済新報社)を読み始めた。

著者は略歴によれば、1943年生まれで、長年、中央青山監査法人で監査を手がけた会計士で、2006年に独立したとある。

『監査難民』が共同通信の記者が、外から見た目で中央青山監査法人の消滅までを描いているのに対し、こちらは、小説の体裁はとっているものの、内部の目からみた中央青山監査法人を描いたものといってよいだろう。
各章の章立ても
第1章 ムトーボウ事件(カネボウ?)
第2章 ABC銀行消滅(UFJ銀行?)
第3章 大日本郵便公社民営化(郵政公社?)
第4章 月光証券会計不正スキャンダル(日興証券?)
とほぼ企業名が想定できるネーミングになっている。<( )内は管理人拓庵の想定> 

2冊合わせると、中央青山監査法人の消滅の真相が少しは浮かび上がってくるのではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月10日 (月)

種村大基著『監査難民』を読み始める

日本の大手監査法人の一角を占めた中央青山監査法人が、会計士が企業の粉飾決算に荷担した容疑で逮捕され、金融庁から業務停止命令を受け、最終的に消滅したのは記憶に新しい。

しかし、当時、新聞では毎日のように書き立てられていたような気がするが、では、いったい本当のところ何が起きたのだろうかと考えてみると、断片的で細切れな知識しか持ち合わせていないことに気がつく。

個人的に公認会計士の知り合いは何人かいるものの、監査法人という組織がどのような形態なのかも知らないし、どのような組織運営がされているのかもまったくわかっていない。いつか、キチンと勉強したいと思っていたところ、昨年の後半から監査をテーマにした本が何冊か相次いで出版された。

今日、紹介する種村大基著『監査難民』(講談社)もその1冊である。共同通信経済部の記者である著者が中央青山監査法人の危機の予兆から、解体・消滅までを、主に中央青山からの視点で丹念に追いかけまとめたノンフィクションである

金融庁との関係、提携先である国際会計事務所のPWCとの関係、そして監査法人内部に累積する過去のしがらみ。そして監査先の企業で次々と明らかになる粉飾決算。
さまざまな難問が、改革を進める奥山理事長に降りかかる。そして、改革を成就させることなく、理事長退任を余儀なくされる。

中央青山監査法人で何が起きていたか知りたい方は、一度読んでみるとよいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月24日 (日)

赤坂真理著『モテたい理由』から

昨日紹介した『不機嫌な職場』の前に、読み終えていたのが、同じ講談社現代新書の『モテたい理由』。昨年(2007月)の12月に出版されたばかり。10日ほど前に、書店で目について、手にとって、ザーッと目を通してみたところ、キワモノ風のタイトルの割には、中身はまじめで、おもしろそうなのでさっそく購入した。

モテたい理由 (講談社現代新書 1921)

著者の赤坂真理さんは、1964年生まれ。ふつうの人とは違う感覚の持ち主である。サブタイトルに「男の受難・女の業」とある本書は、一人の女性の視点から、現代の男の生きずらさの背景にあるものを語る。また、一方では、女性ファッション雑誌と呼ばれる媒体が、現代の女性たちに対して語る理想の生き方をシニカルに見つめている。男性論・女性論であるとともに、現代社会論にもなっている。

40代も後半に入ったサラリーマン稼業の私にとっては、いくつも新鮮な発見があり、目から鱗が落ちるような思いで読んだところが、何カ所もあった。全部紹介しているとキリがないので、その中で印象に残っているものを一つ紹介しておきたい。「女が最も達成感を感じるとき」という小見出しがついている。

女の歓び……。

グループの中で自分が一番多く異性の注目を集めながら、最高の(自分の意中の)一人から(ステディあるいは結婚の)プロポーズをもらえること。

自分は餌をまき(体のラインを強調してみせたり胸の谷間をほのめかしたりする、など)、獲物を待つ。そして目当ての獲物がかかったとき。そして言わせたいひと言を、「相手の意思で」言わせたときの歓び……。

これが最も女性が達成感を感じるゲームのストーリー、女の全能感のシナリオである。

ああ受け身の攻撃性。(『モテたい理由』26ページ)

これを読むと、男など単純な生き物なのだと思わざるを得ない。(「すべての女性が、そう思っている訳ではないよね」などと言おうものなら、「だから男は甘いのよ」誰かに言われそうである。)

新たしいモノの見方の尺度を手に入れるという点で、非常に役に立つ本だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月23日 (土)

『不機嫌な職場』(講談社現代新書)を読み終わる

2008年1月に講談社現代新書のラインナップに加わった『不機嫌な職場』を読み終わった。

不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書 1926)

サブタイトルは「なぜ社員同士で協力できないのか」、現代の日本企業、ひいては日本社会に蔓延する「自分さえちゃんとやっていればいい、他人のことなどかまっていられない。あるいは、かまっている余裕はない」という雰囲気、風土がなぜ生まれたかを分析し、どうすればそれを克服、解消できるかを考えようとする本である。

組織に身を置いて他人と一緒に働いている人であれば、必ず思い当たる点があるだろう。
かつての日本企業、日本社会にあり、今は希薄になってしまった人と人の関係性をどうやって回復するのか、簡単には解決できないテーマだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

コミック版『一瞬の風になれ』(原作:佐藤多佳子、漫画:安田剛士)登場

ちょうど1年ほど前、夢中になって読んでいた佐藤多佳子さんの小説『一瞬の風になれ』のコミックが発売されたと佐藤多佳子さん自身のブログ『日記のようなもの』の中で紹介されていたので、さっそく買ってきた。

一瞬の風になれ (1) (少年マガジンコミックス)

第1巻は、サッカーでは夢破れた主人公神谷新二が、幼なじみの天才スプリンター一ノ瀬連とともに、春野台高校に入学し、陸上部に入部する。400mリレーで、先輩たちはインターハイへの最初の関門である地区大会を突破したのを受け、陸上部の中で、100m走で1位と2位だった連と新二が県大会のリレーメンバーに選ばれるまでの計7話が納められている。

原作者の佐藤さんは、ブログに中で

あちこちでしゃべってますが、私はもともとスポーツ漫画が大好きで、なんとか、この面白さを文章だけでやれないものかなと思い、無理、無謀を承知で書き始めたのが「一瞬……」なので、それが本当にスポーツ漫画になってしまうというのは、不思議な感慨があります。(佐藤多佳子ブログ「日記のようなもの」2008年2月15日「コミックス発売」より)

と語り、漫画化されたことを、よろこんでいる。

連載されているのが、少年マガジンの系列の月刊の「マガジンスペシャル」ということなので、第2巻が出るまでには、半年くらい待たなければならないが、コミックの世界で、新二と連の風のような走りを再び体験できるのは、うれしい限りだ。第2巻が待ち遠しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月20日 (水)

小島毅著『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)を読み始める

このところ、大崎善生さんの小説を立て続けに読んできたが、ちょっと一休みして、今月(2008年2月)の光文社新書の新刊、小島毅著『足利義満 消された日本国王』を読み始めた。

私は歴史好きで、いろいろな時代の小説やら、新書を読むが、自分に中で、すんなり理解できないのが室町時代である。
特に、鎌倉時代から室町時代へと移り変わっていく時期は、天皇が2人いるという異例な南北朝時代を経るが、誰が正義とは言えない時代である。
将軍となった足利側でも「観応の擾乱」という仲間割れが始まり、誰が敵で誰が味方かさえも定かではない。
この時期の歴史はどう理解すればいいのか、なかなか納得できる切り口を提供してくれる本はない。

そんな中で、足利尊氏の時代から紐解き、南北朝の合一を成し遂げ、天皇位さえ狙ったという足利義満の目指したものを解き明かそうとしたのが本書である。

まだ三分の二ほど読んだところだが、著者は、この時代を単に日本という島国の枠の中だけで見るのではなく、広く中国を中心にした東アジア世界の中で見るべきだと提言している。
足利義満が征夷大将軍になった同じ年に、中国では、「明」が建国されている。しかし、その「明」では、初代洪武帝の孫で第2代の建文帝が「靖難の変」でおじの永楽帝にいわば簒奪される。

その中国での権力構造の大きな変化を踏まえて、この時代をみるべきだというのが、著者の主張と言える。
最後をどのように締めくくるのか、楽しみである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月19日 (火)

大崎善生著『別れの後の静かな午後』を読み終わる

今日は大崎善生著『別れの後の静かな午後』(中公文庫)を読み終わった。これも、短編集で、6つの短編が収められている。昨日読んだ『パイロットフィシュ』を読み始める前に前半の3編を読んでいて、今日、残りの3編を読み終わった。

「サッポロの光」、「球運、北へ」、「別れの後の静かな午後」、「空っぽのバケツ」、「悲しまない時計」の6作品からなる短編集だが、私が好きなのは、短編集のタイトルにもなった「別れの後の静かな午後」とその次の「空っぽのバケツ」である。

「別れの後の静かな午後」は、ちょっとした行き違いで別れてしまったかつての恋人亜希子と僕が、数年後、思わぬ形で再会するのだが、実に辛く悲しい再会だ。それでも、そこで語られるものは、穏やかで心暖かくなる。
一方、「空っぽのバケツ」は、結婚して8年になる美久と僕。結婚して5年目ぐらいから、2人の間に隙間風が吹き始め、8年目を迎え、お互いもう離婚しかないと口には出さないまでも、考えるようになっている。そんな時、美久の父親幸三郎が亡くなる。葬儀のあと、僕は美久と結婚する時に、幸三郎から聞いた話を美久に話す。かつての父親の言葉で変化する2人の思いが、本作品のクライマックスだ。

これまで読んだ数作を通じて、大崎さんの描く恋愛は常に、自分(主人公)からの目で語られる。しかし、恋愛は双方の関係であり、相手にも自分とつきあうそれなりの理由があるのだ。
しかし、若い頃には、自分の思いはイヤというほど見えているが、自分とつきあう相手の思いはなかなか見えない。その相手の思いが見えないことによるすれ違い、行き違いのようなものが、いつもテーマになっているように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

大崎善生著『パイロットフィッシュ』を読んだ

最近続けて読んでいる大崎善生さんの小説家としてのデビュー作『パイロットフィシュ』(角川文庫)を、朝から読み始め、夜までに読み終わった。

アダルト雑誌の編集者山崎の過去と現在を織り交ぜた物語である。デビュー作ということもあって、後の短編集の洗練された感じよりも、執筆当時、人生の岐路、転機を迎えていた作者の思いが、荒削りにストレートに出ているような気がする。

その作者の思いを表していると思われるのが、主人公が、精神を病んで苦しむかつての同級生森本からかかった電話で次のように話す。

「感性の集合体だったはずの自分がいつからか記憶の集合体になってしまっている。そのことに何とも言えない居心地の悪さを感じ始める。今、自分にある感性も実は過去の感性の記憶の集合ではないかと思って、恐ろしくなることがある。」
「人間が感性の集合体から記憶の集合体に移り変わって行くとき、それがもしかしたら、俺たち四十歳くらいのときなのかなとと思うんだ。」
(『パイロットフィッシュ』75、76ページ)

感性の集合体から記憶の集合体へと変わっていくのが四十歳の頃…。この作品は、作者自らが、自分の中年期の危機(中年クライシス)と対峙する中で、生まれてきた作品なのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月14日 (木)

上橋菜穂子著『神の守り人(上)来訪編』、『神の守り人(下)期帰還編』を読み終わる

上橋菜穂子著『神の守り人(上)来訪編』、『神の守り人(下)期帰還編』の2冊をようやく読み終わった。いつもながら、この作者の物語を作る力量には驚かされる。

神の守り人 上 来訪編  (偕成社ポッシュ 軽装版)

神の守り人 下 帰還編 (偕成社ポッシュ 軽装版)

著者の「守り人&旅人」シリーズの5冊め、6冊目となる今回の主人公はシリーズの主役女用心棒のバルサ、そしてバルサに寄り添う幼なじみの呪術師タンダ。

恐ろしい出来事で母を亡くしたロタ王国の少女アスラとその兄チキサの2人はだまされて、新ヨゴ皇国の人身売買の組織に売られそうになるが、アスラの持つ不思議な力で難を逃れる。しかし、人買い商人とは別に、ロタ国から2人を追ってきた者たちがいる。たまたま、宿で2人と一緒になったバルサとタンダ。さらわれようとした2人を助けようとして、バルサとアスラは逃げだし、タンダとチキサは追っ手に捕らえられる…。

こうして、手に汗握る冒険譚が始まるが、今回はロタ王国の建国にまつわる言い伝え、ロタ王国の一触即発の政治状況、それらを背景にしたスケールの大きな謀(はかりごと)が巡らされている。読み進むうちに、少しずつ、そのからくりが明らかになっていく時のワクワク感は、「守り人&旅人」シリーズならではである。

さらに、今後のシリーズのストーリー展開の伏線として、前作の『虚空に旅人』でも登場した海の南のタルシュ帝国の存在感も語られている。
また、作中、ロタ王国のヨーサムは、隣国サンガル王国の新王即位の儀式に呼ばれて国を弟のイーハンに託して旅立ち、国を留守にするが、これは前作『虚空の旅人』で新ヨゴの皇太子チャグムが呼ばれた式典と同じ式典のはずだ。

次の『蒼路の旅人』が待ち遠しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月12日 (火)

大崎善生著『編集者T君の謎』に描かれた人生を変えた一言

どうせ読むならとことん読もうということで、引き続き大崎善生さんの本を読んでいる。今回は『編集者T君の謎』(講談社文庫)。「将棋業界のゆかいな人びと」というサブタイトルがつけられている。

大崎さんが「将棋世界」の編集長を辞め、作家として独立したのち、「週刊現代」に連載した主に将棋界をテーマにした50回分のエッセイをテーマ毎に再編集して本にしたものである。

この中に「我が友、森信雄」(『編集者T君の謎』198~203ページ)というエッセイがある。一昨日のこのブログで取り上げた『聖の青春』で描かれた故・村山聖九段の師匠森信雄七段(執筆当時:六段)との縁(えにし)について書いたものだ。そのエッセイは、「人生を変える一言という言葉がある」という書き出しで始まる。

森七段と大崎氏は、お互いの家に泊まりあい、語り合う気心の知れた仲である。そして、2人は中年になっても独身を謳歌していた。

その森さんがある時、大阪から上京し、大崎さんの家に1週間ほど泊まっていた時、大阪は将棋の普及が今ひとつということで、森七段はお得意の「冴えん、冴えん」を連発していたらしい。あまりに「冴えん」が繰り返し続くので、大崎さんは「酔っ払った勢いで森信雄六段に声を張り上げた」という。

約1週間にわたり毎日のように冴えん、冴えんを繰り返されているうちに私は突然ブチ切れた。
「そんな冴えん、冴えんと口ばっかりぼやいてないで、自分で教室を作るとか、なんでもいいから体を動かしてやってみろよ」
相当きつい口調だったのだと思う。その言葉は純情な森さんの胸にダイレクトに直撃して、新幹線の中で泣きながら大阪に帰ったという。
(『編集者T君の謎』199ページ)

その後、森六段は大阪で将棋教室を始める。赤字で苦労したようだが、それもひとつのきっかけとなり、将棋の普及のため、将棋連盟の理事に立候補し当選する。
(森六段の理事立候補の顛末は『聖の青春』に詳しい。自分たち中堅世代の意見を反映する人を理事に推そうと森六段が人選に走り回っていたところ、弟子の村山聖九段から「ならば師匠が立候補すればいい」と言われて決意している。その後、村山九段は全棋士に「私の師匠が理事選に立候補するのでよろしく」とお願いの電話をかけたという。)
さらに、将棋教室の生徒の祖母が森さんの人柄を見込み、自分の娘を紹介したことで、森さんは独身生活に終止符を打っている。

二つめは、森六段が発した大崎さんの人生を変えた言葉。
大崎さんは20歳くらいの頃、小説家を志し、毎日のように原稿用紙に向かったが、短編ひとつまとめられなかったという。
(以前紹介した『九月と四分の一』(新潮文庫)の中の「九月と四分の一」の中で、小説が書けずにヨーロッパであてもなく旅していた青年は大崎さんの分身であろう。)
森六段の弟子の村山聖九段が亡くなったあと、何社かから村山九段の評伝を出したいという話が、大崎さん(「将棋世界」編集長)、森六段、村山九段の実家に舞い込んだという。森六段は大崎さんに出版話の窓口をつとめるよう頼む。

私も仲のよかった村山さんの人生をできるだけいい形で出版できる方法を模索していた。自分はプロデューサーだと思っていた。しかるべきライターを探して、しかるべき出版社と話を進める。そんな頃、森さんが電話口でこ言った。
「本当は、大崎さんが書いてくれるといいんやけどな。そうもいかんやろな」
えっと思った。そしてその直後に胸がドキドキと高鳴っていた。
”えっ!僕が書く?”
「本当ですか」
「そりゃ、そうや」
(『編集者T君の謎』201~202ページ)

森六段としては、生半可なライターに愛弟子村山九段の一生を描かせるくらいなら、村山九段の人となりを最もよく理解している大崎さんに書いてほしいという思いだったろう。
この森六段の言葉に背中を押され、大崎さんは村山九段の評伝を書くことを決意する。
そして、さらに一度、起承転結のある100枚以上の小説を書こうと決意し、書き始めると若い頃はあれほど書けなかった小説がわずか3日でできたという。

村山九段の評伝は『聖の青春』としてまとめられ、新潮学芸賞を受賞、その後奨励会を退会した若者を描いた『将棋の子』では講談社ノンフィクション賞を受賞、さらに3日で書き上げた初めての小説は、その後310枚の『パイロットフィッシュ』に成長する。『パイロットフィッシュ』は、吉川英治文学新人賞を受賞し、名実ともに小説家大崎善生が誕生したのだ。

大崎さんの40代になってからの転身を見ると、本人も書かれているように「運命の不思議」を感じずにはいられない。
どこに、自分の人生を変えるきっかけがあるか分からないということなのだろう。どこから何が来るか分からないが、来るべき日に備え、普段から準備を怠らず、「人生を変える一言」の反応できる態勢を作っておくことしかないのだろうと思う。

(余談だが、大崎さんも作家として独立後、将棋界の女流プロとして活躍していた高橋和二段と結婚し、独身生活を終えている)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月10日 (日)

村山聖九段の壮絶な生き様を描いた大崎善生著『聖(さとし)の青春』を読み終わる

ここのところ、大崎善生さんの短編集を2冊読んだが、昨日の昼、家の近くの書店で、大崎さんのデビュー作品である『聖(さとし)の青春』(講談社文庫)を見つけたので買ってきた。

聖(さとし)の青春 (講談社文庫)

故・村山聖(さとし)九段は昭和44年6月生まれ、幼くして腎不全(ネフローゼ)を患い、常に病に苦しみながらも、将棋で名人になることに自らの生きる道を見出し、昭和61年(1986年)17歳でプロ棋士である四段に昇段。平成4年(1992年)1月にはB級2組在籍の六段ながら、王将戦で谷川王将に挑戦(敗退)。平成7年(1995年)にはプロ棋士のトップ10で名人挑戦権を争うA級棋士となった。A級2期目に降級となるが、翌年のB級1組で2位となり平成10年(1998年)にA級返り咲きを果たす。しかし、前年に手術した膀胱ガンが再発した彼が、再びA級順位戦の対局場に姿を現すことはなく、同年8月、八段でA級在籍のまま29歳の若さで亡くなった。亡くなった翌日に将棋連盟が九段を追贈している。

この『聖(さとし)の青春』は、その、村山九段が命がけで将棋に向かい合った29年間の壮絶な記録だ。
村山九段の将棋に対する凄まじい執念がこのノンフィクションのメインストリーだが、一方で、彼を弟子に迎え、師匠としてして支え続けた森信雄七段の物語でもある。

大崎さんは、将棋連盟の編集部にいて、師匠の森七段と親しくなり、師匠を通じて村山九段とも親しくなっていく。その2人をよく知る大崎さんは、親子以上の師弟の関係を、過剰な感情に溺れることなく淡々と描く。村山九段という将棋に対して純粋そのものの弟子の生き方を見て、どこが自堕落な面もあった師匠の森七段が、自堕落な生活と一線を画し、多くの弟子を育てるようになり、連盟の理事となり、40歳を過ぎて良き伴侶に恵まれ結婚する。

もちろん、村山九段の棋士として部分も余すことなく語られている。昭和44年生まれの村山九段は、現在の将棋界を席捲している羽生二冠、森内名人は1歳年下、佐藤二冠と同年である。現在、まだ健在なら必ずやタイトル争いに加わっていただろう。
ちなみに羽生二冠との対戦成績は6勝8敗であるが、最後の1敗は、最後の年の休場による不戦敗であり、実質は7勝8敗。ほぼ、互角といえるだろう。
この本を読む限り、村山九段の存在と死は、同世代の羽生二冠、佐藤二冠、森内名人、丸山九段、郷田九段など、ともにしのぎを削った棋士たちに影響を与えたに違いない。生かされているいる我々が、彼に見られて恥ずかしい将棋を指すわけにはいかないと思っているにはずだ。

私は、ちょうど村山九段が活躍した時期、将棋に対して余り関心がなかったので、同時代の棋士としてイメージできないのだが、本書のおかげでその存在の大きさを知ることができた。本書は私のように村山九段の存在を知らない人々に、彼の存在を知らしめる貴重な本だと思う。

*赤字は後日、追記の部分です

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 9日 (土)

若い女性4人が青春を振り返る『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』(大崎善生著)を読み終わる

先日、大崎善生さんの『九月の四分の一』(新潮文庫)の感想を書いたが、それに次ぐ作品集として文庫化されたばかり『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』(新潮文庫)を読んだ。

前作が、いずれも40代の中年男性の若き日の恋がテーマだったが、今回は20代の女性の恋高校時代や大学時代の恋がテーマである。

収録されているのは「キャトルセプタンブル」、「容認できない海に、やがて君は沈む」、「ドイツイエロー」、「いつかマヨール広場」での4作品。

この中で、最初の「キャトルセプタンブル」は、前作『九月の四分の一』に4つめの作品として収録されていた本のタイトルと同じ「九月の四分の一」と繋がっている。
キャトルセプタンブルというのは、パリの地下鉄の駅名であり、それは「9月4日」をも意味するのだが、それを「九月の四分の一」と思った男は、女からのメッセージを読み取れず、若い日の恋は実らない。40代になって再び2人が出会った街ブリュッセルを訪ねた時、初めて男は、女のかけた謎に気づく。そして女の思いいも。
そして、『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』の一作目「キャトルセプタンブル」に登場する主人公の若い女性「私」の母が、男にに謎をかけた女である。「キャトルセプタンブル」では現在の「私」の恋が語られる背景で過去の母の恋の謎解きがさりげなく行われている。

そう読んでみると『九月の四分の一』と『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』は上下巻をなしているといえなくもない。

『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』の中で、私が好きなのは、最後のは「いつかマヨール広場」である。

高校時代、大学受験を理由に幼なじみの恋人から別れ話を切り出された「私」は、それを受け入れるしかない。それを忘れるように一心不乱に受験勉強に専念し、東京の国立大学に合格、入学するが、大学は「私」の空虚な心を埋めてくれる場所ではなかった。
なんともいえない空虚さを抱えたまま、大学近くの喫茶店に入り浸る「私」に声をかけてきたのがTである。Tは、同じ大学の学生で、ずっと、毎日、彼女がそこにいたのを見ていたという。お互い、大学では満たせないものを抱える2人は意気投合し、Tの部屋で契りさえ結ぶ。
「私」にとっては、明日からTとの新しい生活が当然始まるはずであった。しかし、毎日、Tが来ていたはずの喫茶店に行っても、二度とTは来なかった。
「私」は大学を卒業し、就職するが、Tのことを忘れることはできない。そしてある日…。

この話の結末は、何とも言えない余韻が残る。

作者の大崎さんは札幌出身ということもあって、この「いつかマヨール広場」の主人公の「私」も札幌で高校時代を送っている。夏休みの終わりに呼び出され、幼なじみの彼から別れを切り出されたのは札幌の円山公園。突然の別れ話に「私」が涙を流す場面がある。このくだりは、大崎さんが紛れもなく札幌育ちであることを物語っている。

それまでの人生で涙によって解決されなかったことなど何もなかった。
たった今、経験した彼とのあまりに唐突で不確かな別れよりも、そこいら中に漂い始めている秋の香りが涙を誘っているのかも知れない。札幌で育った私にとって、夏が過ぎゆくというのは、それだけで悲しいことだった。短い夏が終わり、それよりももっと短い秋が通り過ぎると、やがて大嫌いな暗くて長い冬が訪れる。
(『ドイツイエロー、もしくは広場の記憶』162ページ)

「短い夏、もっと短い秋、暗くて長い冬」という表現は、1年とはいえ札幌で過ごした私にとって、実感である。春から初夏が2ヵ月半、夏が2ヵ月、秋が1ヵ月半、残りの半年が融けない雪と過ごす暗くて長い冬と言ってもいいと思う。
だから、北海道そして札幌の一番いい季節は6月である。半年間悩まされた雪もほぼ完全に融け、春と初夏が同時進行で進み6月にはピークを迎える。本州で人々を悩ます梅雨はなく、空気はさわやかで、風は少し暖かい。そして、何よりも北海道が最も魅力的になる夏はこれからである。
別れ話が切り出されるのは、夏休みの終わりなのだ。最初は、ここの記述は、本文のスートリーは直接関係ないが気に入ったので、紹介しようと思ったのだが、これも、主人公「私」にとって忘れがたい心象風景だろう。秋が漂い始めた時期に切り出された別れだからこそ、余計にこたえるのだ。

大崎さんの小説は「繊細」である。なぜ、これほど繊細なものが書けるのだろうかと考えていたが、その理由の一つに札幌で育ったということは間違いなくあるはずである。半年、白い雪に閉ざされる地域の育ったからそ、春や初夏のちょっとした変化も見逃せないのだろう。それは、雪のほとんど降らない地域では分からない感覚だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 6日 (水)

中年男性が振り返る若き日を描いた『九月の四分の一』(大崎善生著)を読み終わる

大崎善生さんの短編集『九月の四分の一』(新潮文庫)を読み終わった。

大崎さんは、将棋ファンにとってはなじみの作家である。日本将棋連盟の月刊誌『将棋世界』の編集長を10年間つとめ、その後作家に転身した。編集長在職中の2000年に、A級棋士までのぼりつめながら、病に倒れた村山聖九段を描いたノンフィクション『聖の青春』でデビュー(第13回新潮学芸賞)。さらに退職後の2001年には、このブログでも以前取り上げた、奨励会二段で夢破れ故郷に帰った青年のその後を追った『将棋の子』を書き、講談社ノンフィクション賞を受賞している。
その後は小説を手がけ、2002年には『パイロットフィッシュ』で吉川英治文学新人賞を受賞している。

この『九月の四分の一』は「報われざるエリシオンのために」、「ケンジントンに捧げる花束」、「悲しくて翼もなくて」、「九月の四分の一」の4作品からなる短編集だ。主人公はいずれも40代の男性「僕」である。
「ケンジントンに捧げる花束」は若干趣を異にするが、残りの3編は、40代の「僕」が青春時代、青年時代の実らなかった、叶わなかった恋を、振り返る物語である。
作者のこの短編集全体に流れる思いを語っていると思われるフレーズを「悲しくて翼もなくて」の中から、引用しておきたい。

四十三歳という年齢がどういうものなのかは、僕にはわからない。ただ言えるとすれば、二十代、三十代を過ぎて、そこから遠ざかれば遠ざかるほどに鮮明に見えてくる過去が存在するということである。三十代の頃はもやがかかったように霞んでいた、あるいは意識的に霞ませてきた過去のできごとが、曇ったガラスを拭ったように鮮明に見えることがある。
(大崎善生著『九月の四分の一』164ページ)

20代、30代では霞んでいた、あるいは霞ませていた過去が40代になって鮮明に見えることがあるという部分には、ハッとさせられるものがある。

20代、30代は目の前の生活を生き抜くことに必死で、いつの間にか過ぎていく。しかし、40代になると一度どうしても立ち止まらずにはいられないのだろう。そこで、もう一度、自分の生きてきた道を振り返る。
おそらくそこにはひとつやふたつ実らなかった恋がある。それは、ひょっとしたら選択していた自分の別の生き方かもしれない。20代では生々しすぎて振り返れない、30代は忙しすぎる。40代になると、自分の内も外も、さまざまなものが転機を迎える。そこで、もう一度実らなかった過去を振り返らないではいれれなくなるのだろう。

私がいつも頭の隅に置いている「中年期の危機(中年クライシス)」にも繋がるテーマだと思う。
そう考えると、この『九月の四分の一』は、間接的に「中年期の危機(中年クライシス)」を扱った小説と言えるかもしれない。

40代男性は、一度読まれることをお勧めしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 5日 (火)

『思春期ポストモダン』(斎藤環著)で語られる「ひきこもり系」と「じぶん探し系」

昨日は、『神の守り人』(上橋菜穂子著)を買った話を書いたが、以前紹介した『黒山もこもこ、抜けたら荒野』(水無田気流著)を読み終えたあと、幻冬舎新書から2007年11月に発刊された『思春期ポストモダン』という本を読んでいる。

著者の斎藤環さん(男性)は1961年生まれの精神科のお医者さんで、専門は思春期・青年期の精神病理学と紹介されている。病院での診療を行いながら、精神分析のほか幅広い評論活動を行っているとのこと。

サブタイトルが「成熟はいかに可能か」で、帯のキャッチコピーは「成熟が価値を失くした社会で、大人になるとはどういうことか?」と書かれている。現代社会で若者が大人になることの難しさについて書かれた本という理解でいいと思う。

従来型の、年配者が若者の行動を見て眉をひそめ「今時の若い奴はけしからん。俺の若い頃は…」といったお決まりの個人的な若者評論ではなく、臨床の経験を基に、今の時代に若者にニートやひきこもりが多いのかということについて、時代、環境の変化を交えて理解しようするものだ。著者が本書で使う「病因論的ドライブ」という言葉も、ある若者がひここもりなどになるには、単なる家庭、学校、職場でのいびつな人間関係といった個別要因だけでなく、その背景にある時代の雰囲気、マスコミの論調、などさまざまな要因が絡み合っていると考えるものである。

この中で、興味をひたのが、現代の若者を分類する際に著者が用いた「ひきこもり系」と「じぶん探し系」というグルーピングである。これで全てが説明できるわけではないと思うが、目のつけどころがおもしろいと思うので、紹介しておきたい。

引きこもり系 じぶん探し系
低い コミュニケーション
能力
高い
少ない 友人の数 多い
安定 自己イメージ 不安定
自分自身との関係 自信のよりどころ 仲間との関係
インターネット 親和性の高い
メディア
携帯電話
高い 一人でいられる
能力
低い
ジゾイド人格障害 精神障害との
関連性
境界性人格障害
社会的ひきこもり 解離性障害
対人恐怖症 摂食障害

(出所:『思春期ポストモダン』75ページ)

「ひきこもり系」の典型であるひきこもりは、目でみて明らかなので、問題視されがちだが、外に出て仲間とつきあい問題などないように見える「じぶん探し系」の若者の中には、携帯電話を通じて人に依存しているだけの若者も多いということだろう。こちらは、自己の内面というものが確立されていないだけに、依存している人間関係がうまくいかなくなると突然キレたり(境界性人格障害)、摂食障害を起こしたりするケースもあるというとのようだ。
必ずしもひきこもっていないから大丈夫ともいえないということだろう。

豊かな社会は、成熟しなくても許される社会、大人になるのに時間がかかる社会ということのようだ。
我が家でも長女はすでに思春期にさしかかり、さまざまな問題を親に対して提起してくれているし、あとの二人も思春期間近だ。我々の世代のように、時期が来れば大人になっていく時代とは明らか違っているのだという前提で、子どもと対していかないとうまくいかないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 4日 (月)

上橋菜穂子著「守り人&旅人」シリーズ、軽装版第5弾・『神の守り人(上)来訪編』、第6弾『神の守り人(下)期帰還編』ようやく登場

最近、書店に行くたびに、必ず児童書のコーナーに立ち寄っていた。上橋菜穂子さんの「守り人&旅人」シリーズの軽装版の新刊がそろそろ出てもいい頃だと昨年の年末から注意して見ていたのだが、なかなか昨年9月に出た第4弾『虚空の旅人』に続く『神の守り人』は出ない。
軽装版の後を追う形で出されている新潮文庫の方は、年末の第3弾『夢の守り人』が出版されている。

今日も、どうせまだ出ていないだろうと思いながらも、児童書コーナーに寄ってみると、『神の守り人(上)来訪編』、『神の守り人(下)期帰還編』が平積みで並べてあった。「ようやくだな…」と思い、2冊を手にしてレジへ。

神の守り人 上 来訪編  (偕成社ポッシュ 軽装版)

神の守り人 下 帰還編  (偕成社ポッシュ 軽装版)

本の帯を見ると「待望の軽装版第五弾」「待望の軽装版第六弾」とある。「いやあ~、本当に待たされましたよ」と言いたくなる。

まだ、買っただけで読み始めてはいないが、カバーの見返しのところを読むと、今回の舞台は、主人公である女用心棒バルサが本拠にする新ヨゴ皇国に隣接するロタ王国が舞台になるようだ。巻を追う毎に、新ヨゴ皇国の周りの国々が順に登場し、上橋ワールドの詳細が少しづつ明らかになっていく。楽しみである。

昨年、NHKBSで放送された『精霊の守り人』のアニメーションが、この4月から地上派でも放送されるらしい。こちらも、楽しみである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月29日 (火)

1970年生まれのうめき声が聞こえる水無田気流著『黒山もこもこ、抜けたら荒野』(光文社新書)を読み始める

昨日のブログで紹介した『企業こころの危機管理』は今朝の行きがけの通勤電車で読み終わったので、今度は光文社新書の2008年1月の新刊『黒山もこもこ、抜けたら荒野』を読み始めた。

書店で目にした時、一風変わったタイトルとなんと読むかよくわからない著者名にひかれて先ず手に取る。
著者名は「みなしたきりう」と読むとのこと。
もちろんペンネームで巻頭の「はじめに」が「変な筆名でどうもすいません」と始まって、次のように自己紹介されている。

補足説明しておくと、私は(一応)詩人、性別・女性、既婚、ついでに子持ちである。もっともいろいろなものを書きすぎて、自分が何者なのかよくわからなくなっている。
(『黒山もこもこ、抜けたら荒野』11ページ)

著者は1970年生まれ、ご本人の定義によれば、団塊ジュニアの直前の世代ということらしい。
父親は父親は1938年(昭和13年)生まれで、小学校1年生で終戦を迎ええ地方の国立大学を卒業後サラリーマンに、母親は女子大の被服科を卒業した後、和裁洋裁料理など花嫁修業をしたのちにお見合いで結婚。その2人子として、東京郊外ベットタウンで著者は生まれた。高度成長時代末期に子ども時代を過ごし、就職を迎えた時には、バブル経済の崩壊で就職氷河期を迎えていた。
なんとか就職した著者は、しかし一般職として働きの割に安すぎる給料にとても割が合わないと思ったことと、ちょうど母親が亡くなったことが重なって、1年で会社を辞め、大学院に通う。そして研究者となるが、定職はなく、自らを「知識集約型高齢フリーター」と呼んでいる。

この本は、サブタイトルに「デフレ世代の憂鬱と希望」とあるように、いわば1970年に日本の典型的な中流家庭に生まれた著者が、自らの足跡を時代の変遷とともに語り、現在の日本がかつての時代と比べて何をなくし、今過去の何の憧憬を感じているのか、これからどこへ行こうとしているのか考えようとしているようである。

読んでいると、一行一行、これまでの思いの丈を呻(うめ)くように絞り出しているようにみえる。精神科医の香山リカさんが、著書の中で1970年代生まれの団塊ジュニア世代を「貧乏クジ世代」と呼んでいるが、70年生まれの著者もその足跡を見ると、貧乏クジ世代の先駆けのようにも見える。
1960年生まれの私の世代は、団塊世代と団塊ジュニアの狭間の世代で、社会的には傍若無人に振る舞った団塊世代の後始末ばかりさせられているような気がして、損をした世代と感じたこともあったがそれでも社会人になって若手サラリーマンとして働き盛りの頃に、ちょうどバブル経済の上り坂と重なり、いい思いをした時期もあった。(その後のバブル崩壊後の失われた10年では、ずいぶん割を食ったとも思うが…)
しかし、著者の世代は、社会に出てからは、いいことは一つもない。

このように、世代間でも極端な不公平感を感じる社会というのは、決して望ましい姿だとはいえないだろう。それを少しでで正すのが政治の役目だと思うが、選挙で勝つためには多数派の票を獲得しなければならないので、やなりこれからも「団塊の世代」の選択が社会の流れを決めていくのだろう。

話が少し脱線してしまったが、著者の鋭い切り口で、今の社会全体の思いをどうすくい上げるのか楽しみである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月28日 (月)

『企業こころの危機管理』(田中辰巳・海原純子談)を読む

2週間ほど前に、家の近くのブックオフに子どもたちの本を売りに行った時に、見つけた『企業こころの危機管理』(文藝春秋)という本を読んでいる。

ブックオフで売られていたからといって古い本ではなく、昨年(2007年)6月に出たばかりの本である。著者は、企業の危機管理のコンサルタントの田中辰巳さんと精神科医の海原純子さんである。2人はテレビで共演したことがあるそうで、私もこのブログで以前とりあげた海原さんの『こころの格差社会』という著書を読んだ田中さんが感想を述べたこがきっかけで、本作りの話まで発展したらしい。本の末尾には、この本は「語りおろし」と書かれており、2人の対談が本になったものようだ。

対談のテーマは、企業におけるメンタルヘルス管理。現在の日本の企業の中でうつ病ような心の病にかかる人が増えており、それを反映して労働安全衛生法も改正され、企業は社員の心の安全管理をも求められるようになった。
企業としてのメンタルヘルスは,今後ますます重要になるであろうというのが、田中さんの主張である。勝ち組、負け組といった考え方が横行する中で、それによって、心が病んでいる人も増えている。

しかし、企業のトップや主要ポストは、個別の企業の中では、いわゆる「勝ち組」の人たちが占めている。かつての成果主義の弊害が言われるようになって久しいが、彼らは、その弊害のあった成果主義を勝ち抜いていた人たちである。今の制度で勝ち抜いてきた人に
今の制度の手直しができるのだろうか。
その点は私にとってもの大きなテーマだ。明日には、読み終えたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月27日 (日)

服部真澄著『海国記』を読み終わる

新潮文庫の2008年1月の新刊『海国記』(服部真澄著)の上下巻を読み終わった。
この1月の新刊は、昨年の暮れには書店に並んでいて『草原の椅子』(宮本輝著)の上下巻とあわせて、買い込み、先に『草原の椅子』を読み終え、今日ようやく『海国記』を読み終わった。

小説の舞台は平安時代、院政の始まった白河院の時代から始まり、鎌倉時代の承久の変が終わる頃までの時代を描いた歴史大河小説である。

ちょうど、今年の初めに読んだ『源氏物語とその時代』が一条天皇とその2人の后定子と彰子を描くが、その最後は上東門院となった彰子が夫の一条天皇の後を継いだ三条天皇の崩御のあと、後一条(子)、後朱雀(子)、後冷泉(孫)、後三条(孫)ら自らの血統に連なる天皇を見守り、見送り、白河天皇(ひ孫)の時代に亡くなったことを記して締めくくられている。『海国記』は、ちょうどその後を受ける形になった。

『海国記』の扱う院政期から承久の変までの約150年ほどの期間をつなぐ縦糸として登場するのが、平正盛、平忠盛、平清盛の平家三代。しかし、決して彼らが主役というわけでもない。話の中盤では、藤原通憲(みちのり、信西=しんぜい)も、国の仕組みを作りかえようとした重要人物として登場する。
主役は、個々の登場人物でなく、当時に日本国の富がどのように蓄えられ、国(朝廷)を支えているかという仕組みと部分である。著者の服部さんは、宋との貿易や、各地の荘園から京都に海の道を通じて財が流れていく物流の経路を誰が押さえているのか、またどこの荘園が、誰の所有であり、あるいは誰が預かり管理しているのか、その土地の故事来歴を踏まえつつ、いかに不満がでないようにその再配分を行うか、その仕組みをいかに運営できるかが、政(まつりごと)だと言っているようである。
そのため、『海国記』が『平家物語』の時代を扱うにもかかわらず、保元の乱、平治の乱や源平の戦いの記述は、ほんのわずかである。

日本史で、平安時代という時代は、この年齢になっても、時代を動かしていた大きな枠組みが何なのかさっぱりわからないというのが、実感である。荘園といものが、生産や経済の単位であろうことは、わかるのだが、その荘園の上に、どのような経済の仕組み形成され、誰が最も利益を得ていたのか。
時代の変化、移り変わりの背景には、必ず何らかの経済的な利害の対立や、経済構造の変化があると思うのだが、歴史の教科書ではそれが理解できるように、説明はされていない。

『海国記』は、時代の背景にある経済の枠組みというものをおぼろげながら映し出し、平安時代というもの理解するためのヒントをくれたように思う。
定説が、必ずしも、必ずしも説得力があるとはかぎらないのは、どこでも同じなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月22日 (火)

『風姿花伝』(世阿弥)の話

今日は、仕事でちょとしたトラブルがあって、その記録を書いていたら、帰りがいつもより少し遅くなり、ブログの材料も思いつかない。

そうなると、ネタ探しの材料から探してみようと、まずは先日買ったばかりの広辞苑第六版のおまけ『広辞苑一日一語』の1月22日のページを開いてみると、取り上げれていたのは「血の日曜日」。1905年に当時の帝政ロシアで起こった事件だ。起きたのが1月22日ということらしい。しかし、これでブログを書くには、私自身が知らなすぎる。
日本史、世界史とも歴史は好きでいろいろな本も読むが、ロシアは高校世界史レベルでは、ヨーロッパの辺境という扱いしかされておらず、特に19世紀から20世紀初頭あたりはよくわからない。
ちょうど日露戦争の時期と重なるので、戦争が庶民の困窮を招き、事件につながったのだろうかなどと思う。

それではと、以前よく題材探しに使っていた『美人の日本語』(山下景子著)を開くと、1月22日には「雪持松」。植物もあまり詳しくはないので、これも材料にはならないなどと、考えながら前のページ1月21日を見ると「願力」とある。能楽師の世阿弥が書いた『風姿花伝』の一節に出てくる言葉とのことらしい。   

『風姿花伝』は、能の上達について書いた書物で、何歳頃にはどんなことに気をつけねばならないといったことが年代ごとに書かれいて、たまたま高校の古典の授業の題材として教科書に載っていて、その視点は、現代の我々の生き方にも示唆深いものがあり、なるほどと感心した覚えがある。以前読んで、このブログにも書いたレビンソン著『ライフサイクルの心理学』の日本の能楽版といえないこともない。
一度、読んでみなくてはと我が家の書棚には、この20年ずっと講談社文庫の『花伝書(風姿花伝)』が並んだままである。

今、読めばいろいろと、今の自分に対してプラスとなる言葉がうもれているのではないかと思う。一度、チャレンジしてみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月17日 (木)

おまけの『広辞苑一日一語』にひかれて『広辞苑』第六版を衝動買い

先週から、一時的に本社のビルで仕事をしている。本社には食堂の下の階に売店があり、書籍のコーナーもある。
昼食が終わると、そこで本を見てから仕事場に戻るのが日課だ。今日、書籍のコーナーに行くと、発売されたばかりの『広辞苑』第六版(岩波書店)が展示されていた。

広辞苑 第六版 (普通版)

日本の国語辞典の代名詞でもある『広辞苑』。今回はの第六版は10年ぶりの大改訂ということで、話題になっている。いつ最近、新聞に「イケメン」という言葉が「いけ面」として採録されているが、本来カタカナで「イケメン」が正しいのではないかという記事が載っていた。しかし、広辞苑に載った「いけ面」を使うべきとの意見も出ているとか。

私は、『広辞苑』が家にあることがその家庭がインテリであることの証明と勝手に思いこんでいて、第五版も我が家にはあるのだが、かといってリビングのテレビの横の書棚に鎮座しているだけで、第五版を買ってから『広辞苑』で言葉の意味を調べたのは、多くても10回に満たないだろう。
むしろ、家の一隅に『広辞苑』を置いておこうとする行為、そもそも『広辞苑』を買うという行為そのものが文化的と思っているのだ。(何の根拠もないが…)
しかし、発売当初の特別価格でも本体価格7500円という値段には、さすがに躊躇してしまうのだが、一緒に置かれていた予約特典のおまけももらえることに惹かれて、衝動買いをしてしまった。

おまけとは『広辞苑一日一語』と題した新書サイズの冊子。
ちょうど岩波新書と同じサイズで、広辞苑と同じ黒いカバー、カバーをはずした下の本体の色も、広辞苑と同じあの青色。内容は、1月1日から12月31日まで、その日にちなんだ言葉を広辞苑から抜き出してまとめたもの。広辞苑版「今日の一言」とったところだ。
その外見のレアぶりと、ブログのネタに困った時の参考になるではないか実利的な思惑に勝てず、衝動買いしてしまった。

仕事場まで、重たい『広辞苑』を運ぶ。試しにとおまけの『広辞苑一日一語』では、今日、1月17日には何が書いてあるかと開いてみると、思わぬ言葉が飛び込んできた。

兵庫県南部地震
1995年1月17日午前5時46分に淡路島北端を震源にして発生した地震。マグニチュード7.2。阪神淡路大震災を引き起こす。
(『広辞苑一日一語』13ページ)

そういえば、今朝のテレビニュースで阪神淡路大震災から13年たって、地元でも、震災を知らない子どもが増えてきているとのニュースが伝えられていた。

思えば、1995年は1月に阪神淡路大震災があり、3月には東京で地下鉄サリン事件があった。
のちの歴史家は、天災と人災で日本のバブル期の繁栄が完全に終わりを告げた転換点の年として1995年を評価するだろう。経済指標などは、すでの景気の低迷を示していたが、人々の気持ちもあれで大きく変わらざるを得なかったように思う。
あえて岩波書店の編集部が『広辞苑一日一語』で「兵庫県南部地震」を取り上げたのは、いろいろな意味で、あの悲惨な災害を忘れないようにというささやかな主張なのだろう。

このおまけの『広辞苑一日一語』は読み物としても、おもしろいので、いずれ評判になって岩波新書の1冊に加えられるのではないかと思う。

(『広辞苑一日一語』は、あくまで予約特典なので通常の書店販売ではセットにはなっていないので、もし購入される際には、気をつけていただきたい)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

勝間和代著『効率が10倍アップする新・知的生産術』を読み終わる

時々読んでいる将棋に上野裕和五段のブログ「ちゅう太ブログ」で以前紹介されていた勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術』が職場近くの行きつけの書店で並べてあったので、さっそく買って読んでみた。

この手の知的生産術についての本はあたりはずれがあるものが、この本は間違いなく当たりである。
著者が語るのは、いかに効率的に重要な情報をインプットし、それをもとにアウトプットしていくかである。

著者の勝間和代さんは、かつて19歳で公認会計士2次試験に合格、外資系会計事務所、コンサルティングファーム、外資系銀行、外資系証券会社に勤め、現在は経済評論家として独立している才媛である。

著者は情報のインプット・アウトプットについて、自らのノウハウを公開してくれているが、読者として自らの経験も踏まえて、納得した部分をいくつか紹介しておきたい。

まず、インプットの際に情報洪水の中から、本当に重要な本質的なものを見極めるために必要な技術の第一番めに「フレームワーク力」をあげている。
枠組み作り、構造化とでもいおうか。情報を分析してする自分なりの切り口・座標軸を持ち、それに従ってインプットされた情報を分類・整理し、意味づけをして、自分なりにわかりやすく再構成することといえるかもしれない。
このような作業は、日常の仕事の際にやっていると思うが、それを「フレームワーク力」という視点で考えたことはなかった。
彼女は勤めたコンサルティング会社では、フレームワームのない話は、雑談でしかないと相手にされなかったそうだ。

また、人脈作り技術について語ったところでは、良い情報を集めようと思ったら、見返りを期待せず、まず自分が良質な情報を発信し続けることと言っている。著者の言葉で言えば「情報GIVE5乗の法則」である。「GIVE&TAKE」ではなく「GIVE&GIVE&GIVE&GIVE&GIVE」。
かつて20代の終わりから30代の始めにかけ、私も業界調査のレポートを書く仕事をした時期がある。その当時、高度成長時代に始まったとある新興業界について、従来の見方と違う自分なりの見方をまとめたレポートを書いたところ、業界でもそれなりに認められて、その業界の会社の人が話を聞きに来てくれるようになった。
そのような機会に、こちらはもちろん自説を説明するが、その合間には先方の会社の話も聞く。相手も、自分の業界のことを理解している人と認めてくれて
それなりに答えてくれる。そうすると、こちらから出向かなくても、その業界の各社の情報が自然と集まってきて、私はその業界についてますます詳しくなった。
このとき、情報はあるまとまりができ、それが一定規模を超えると自己増殖するのだなと、実感した。
その根底にあるものは、まさにまず自らが良質の情報を発信するということである。

また、この著者の見解のユニークなところは、インプット・アウトプットに技術に加え、それを支えるものとして正しい生活習慣をあげ、喫煙をやめ酒を控えること、よく寝ること、体力をつけること、良い食生活を勧めていることだ。この分野について、類書で触れられているのをあまりみたことはない。
しかし、知的生産を主体である脳も体の一部であり、健康で気力・体力の充実していなければ、脳も十分に働かないと言うことだろう。

ここにあげた3点以外にも、さまざまはヒントにあふれている。自分にあった、ヒントを探し出すのもいいのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月10日 (木)

第29回サントリー学芸賞受賞作『源氏物語の時代』(山本淳子著)を読む

2008年新年の通勤電車の行き帰りに第29回サントリー学芸賞受賞作の『源氏物語の時代』(山本淳子著、朝日選書)を読んでいる。

源氏物語の時代―一条天皇と后たちのものがたり (朝日選書 820)

昨年(2007年)11月の受賞直後、新聞で著者の山本淳子さんが紹介されていて、本の内容がおもしろそうだったことに加え、私と同じ1960年生まれと知り、ぜひ読もうと思っていた。ただ、なかなか書店で見つけられず、手に入れたのは12月に入ってからだった。だだ、12月はその前に買っていた新潮文庫の新刊『草原の椅子』(宮本輝著)を読んでいたので、読み終わったあと、こちらを読み始めた。

この『源氏物語の時代』には「一条天皇と后たちのものがたり」というサブタイトルがつけられている。平安時代の藤原氏の絶頂期を築いた藤原道長の時代、時の一条天皇と2人の后、定子と彰子を中心に、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部なども織り交ぜながら、当時の貴族社会をいきいきと描いた作品だ。

ベースにあるのは、『日本紀略』などの当時の史書、『大鏡』『栄花物語』などの物語、『御堂関白日記』『小右記』『権記』など貴族の日記、そしてもちろん清少納言の『枕草子』と紫式部の『紫式部日記』『源氏物語』。そして、それらの作品についての過去の研究者の研究成果などである。

本書は冒頭、私も高校時代、古文の授業で習った記憶のある『大鏡』の花山院の出家の場面から始まる。たしかに、妙にリアルな場面だった記憶があるが、所詮、教科書用に一部分だけを切り取ったものに過ぎなっかったし、その花山天皇の出家が、どのような時代の文脈の中で起きた事件なのか、古文の先生は教えてはくれなかった。
歴史好きの私にとっても、古語辞典で現代語にはない古語の意味を調べ、係り結びや活用など文法を学ぶというまるで英語を勉強しているのと変わらない古文の授業は退屈でつまらないものでしかなく、十分理解しているともいえなかった。
いくら日本文学史上の名作や名文であっても、細切れの詰め込みでは、意味を持ったものとして頭の中に入って来なかった。

本書は、かつて高校の国語教師であった著者が、従来の無味乾燥な「古文」を打破すべく、上記のような資料を総動員し、まさに一条天皇の時代を誌面に再現したもので、これまで断片的にしか教えらていなかったものに「一条天皇」という一つの糸を通し、この時代の人間模様を立体的に描き、時代の全体像を示してくれている。
物語も含め、各古典の書物が歴史を表し、歴史の産物であることが、よくわかる。

こんな古文の解説書があり、こんな教え方をしてくれる先生がいたら、高校時代の古文に授業もさぞ楽しかっただろうにと思う。
この本を片手に学べる現代の高校生や大学生は幸せだと思う。

しめくくりに、著者の受賞の言葉を引用させていただく。

栄えある賞を頂き、財団の皆様、選考委員の先生がたに心より御礼申し上げます。
晩学でまだ駆け出しの私が、こうした評価を頂いてしまってよいのか、実は不安です。しかしそのいっぽうで、心に満ちてくる思いがあります。それは、私が受賞したというよりもこの作品こそが受賞したのだという思いです。本書は私にとって初めての一般書であり、これだけは人々の手に届けたいと思い続けてきた書物でもあります。その人々とは、古典文学教育の現場にいる教師たち、古典の授業を受けている生徒や学生たち、また日本の古典文学を愛読するあらゆる方々です。こうした教育や読書の場こそが今の日本の古典文学を支えている現場なのだと、かつて高校で国語教員として働き、大学でも主に一般教養の授業を担当し、また様々の地域読書サークルを知る機会の多い私は、痛感しています。
本書が扱う一条天皇の時代は、平安期の中では現代人にもおなじみの時代と言ってよいでしょう。この時代の生んだ『源氏物語』や『枕草子』、またこの時期の最高権力者藤原道長の名は、中学や高校の教科書に定番として登場し、基本的な教養として社会に共有されています。もちろん、根強い『源氏物語』人気もあり、古典作品そのものを愛読する人々も少なくありません。が、研究者がこうした享受の場に知を提供する場合、各作品は多く個別に扱われてきました。また日本史と日本文学の間には厚い壁がありました。
本書はそれを一つにし、全的な知として読者に投げかけることを試みたものです。一条天皇自身やその后、紫式部や清少納言、藤原道長らといった人物が、時代のうねりの中でそれぞれにどう関係を切り結び、どう生きたか。作品はどのように生みだされたのか。歴史資料と文学作品、また各分野の学問研究の成果を織り交ぜ、この時代を立体的に再現することを目指しました。
従来こうした内容は、多く歴史小説などフィクションの手法で発信されてきました。しかしそこでは、当然のことながら作家の創造力が先行し、歴史的事実や古典作品が必ずしも丁寧には扱われないという事態が発生します。研究者として何かできないか、資料と学説という研究の世界の共有知、それだけでも読者をわくわくさせ、涙ぐませ、感動させることができるはずだ、そう思って執筆したのが本書です。その感動の中にこそ、古典作品も歴史資料も読者の血肉となり生き続けると思ったのです。
こうした青く熱い一書が、華やかな賞を頂くとは、掛け値なく望外の幸いと言うほかありません。古典文学を読む幸福を、一人でも多くの方と共有したい、その思いがお認めいただけたものと受け止め、今後とも努力したいと思っています。
サントリーホームページ、「第29回サントリー学芸賞受賞の言葉」のうち山本淳子さんのコメントより)

著者の熱い思いは、読む者をもとらえる。それが、まさに受賞の理由だと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月 9日 (水)

先崎学八段の『山手線内回りのゲリラ』を読む

今日、仕事の帰り行きつけの書店の将棋のコーナーに行くと、昨年(2007年)末に発売されたばかりの将棋の先崎学八段のエッセイ『山手線内回りのゲリラ』が並んでいたので、さっそく買い求め、読んだ。

先崎八段は週刊文春にエッセイ『先崎学の浮いたり沈んだり』を連載しており、すでに7年になるという。
以前、職場の同僚が私が将棋好きなのを知ると、週刊文春にプロ棋士の連載があるのを知っているか、と言っていたことがあった。私は週刊誌というものをほとんど読まないので、その連載記事は一度も読んだことはなかったが『将棋世界』に連載されている軽妙洒脱な文章は読んでいたので、さぞおもしろいに違いないとは思っていた。
週刊文春の連載からすでに2冊本になっており、これが3冊目ということ。

主に将棋界の話題が中心だが、中には、囲碁の棋士である先崎夫人を交えた囲碁の棋士との交流、ファンである歌手の中島みゆきを巡る話題など多岐にわたる。
昨年11月になくなった真部一男九段邸で師匠である米長永世棋聖と真部九段の囲碁の話も「真部邸の惨劇」という物々しい題で語られている。(この話題は『将棋世界』2008年2月号の真部九段追悼記事の中で、米長永世棋聖自身も書いており、両方読み比べるのもおもしろい)

私が読んでうれしかったのは、私が応援している郷田真隆九段の話が何ヵ所か出てきて、人柄がうかがえるような郷田九段の発言が取り上げられていたことである。

将棋が好きな方、将棋ファンの方は一度読んでみるとよいと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年12月 8日 (土)

明橋大二著『忙しいパパのための子育てハッピーアドバイス』を読んだ

子育てに悩む親向けのアドバイスを満載した『子育てハッピーアドバイス』のシリーズ。著者明橋大二さんのわかりやすい語り口と4コマ漫画のような太田知子さんの優しいイラストでベストセラーとなった。このブログでも昨年(2006年)9月に取り上げたが(*注)、先月(2007年11月)、父親編ともいえる『忙しいパパのための子育てハッピーアドバイス』が発売された。

著者の考え方はだいたい理解しているつもりなので、いまさら買わなくてもいいかなと思っていたら、次女が読みたいという。それではと、今日、家の近くの書店で買ってきた。

子育てにおける父親の役割として強調されるのは、親として子供に関わることはもちろんだが、子育てに追われる母親である自分の妻の話をよく聴き、また、休日などは、母親の子育ての仕事を一部肩代わりして、子育てに疲れた妻の休養の時間を確保するなど、母親としての妻をサポートし、その負担を減らすことである。
自分の子供が小さかった時のことを考えると、自分自身が仕事に追われていたこともあって、とてもこの本に書かれているような理想的な父親ではなかったように思う。

著者も自分が父親ということもあってか、最後に次のように締めくくっている。

お父さんに、妻や子どもが願っていること、種々述べてきましたが、現状で、できることとできないことがあると思います。(中略)とりあえず、できるところからぼちぼちやっていく、そのためのひとつのヒントとして読んでいただければよいと思います。
(『忙しいパパのための子育てハッピーアドバイス』161ページ)

子育てのさなかのお父さんには、一度読んでおくと何かと役にたつと思う。できれば、子育てに追われる奥さんと一緒に読んで、感想を話しあえば、夫婦二人の思いが共有できていいかもしれない。

*昨年9月の記事
2006年9月4日:
教育・育児の悩みを解決してくれる『子育てハッピーアドバイス』

2006年9月10日:
『子育てハッピーアドバイス3』発売


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月21日 (水)

根本橘夫著『なぜ自信が持てないのか-自己価値感の心理学-』(PHP新書)を読み終わる

PHP新書の2007年10月の新刊のうちの1冊根本橘夫著『なぜ自信が持てないのか』を読み終わった。サブタイトルが「自己価値感の心理学」。

社会的な成功の如何に関わらず、自分の人生を納得し楽しんで生きている人がいる一方で、周りからみてどんなに成功していようが、自分の生き方、存在そのものに自信が持てない人がいる。前者が「自己価値感」を感じている人であり、後者が「自己無価値感」に悩む人である。
なぜ、「自己価値感」を持てる人と「自己無価値感」に苛まれる人に分かれてしまうのか、どこに原因があるのかを解き明かし、自己無価値感に苦しむ人に、どうやればそこから抜け出せるのかのヒントについても、語りかけようとしている。


結論から言えば、成長する過程で親の無条件の愛情の元で育てられれば、自分が親から認められ受け入れられていると感じ、自分は価値のある人間だと「自己価値感」が育まれ、親の十分な愛情を感じられない環境、あるいは条件付きの愛情しか与えられない環境で育つと十分な「自己価値感」を感じられず、「自己無価値感」に悩まされるというものである。
突き詰めれば、子育てをする親の側の子供への接し方次第で、「自己価値感」を持てる子になるか、「自己無価値感」に悩まされる子になるかが決まるということであり、親に対する警鐘を鳴らす本でもある。


このような考え方自体は、現代の心理学の基本にある考え方なので目新しいわけではないが、本書では、現代社会、特にバブル経済崩壊後の日本が、自己価値感を獲得しにくい時代と位置づけて、その中で、自分自身が自らを分析した上で、どう生きるべきか、親としてどう子供に接したらよいかを整理している。

本書の章立てをみるとその流れがよくわかるので、紹介しておく。

『なぜ自信が持てないのか』(PHP新書)
序章 「自分の価値どう感じるか
第1章 自信が持てる人、持てない人
第2章 自己価値感はどのように育つのか
第3章 あなたが自己無価値感に苦しむ理由
第4章 無価値感に翻弄される人々の病理
第5章 自己価値感をおびやかす現代社会
第6章 自己価値感を修復する実践法

おそらく、現代の日本に生きている以上、100%「自己価値感」のみを感じ「自己無価値感」を感じたことがない人などいないと思う。常に「自己価値感」と「自己無価値感」の間で揺れ動くのが人の日常だろう。
大切なのは、なぜ自分が「自己無価値感」に悩まされるのかの原因を認識し、自分が親として大人として子供や周りの人々が「自己価値感」を感じられるような働きかけをすることだろう。
一方、そうは言っても、この社会に生きる多くの人の中には、自分の「自己無価値感」を補うために、周りの人々を巻き込み振り回している人もたくさんいる。現実には、そのような人たちすべてが「自己価値感」を感じるように働きかけるのは無理だ。神様や聖人君子でない我々一般人は、どのような人と親しく接していくかを考える時、なるべく多く「自己価値感」を感じている人ということにならざるを得ないと思う。

多くの人に読んでもらい、自らの生き方を振り返るきっかけにしてほしい本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月14日 (水)

ウェブ進化時代の生き方を語る梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』を読む

『ウェブ進化論』を世に問い、一気に現代のオピニオンリーダーの一人となった梅田望夫氏が2007年11月のちくま新書の新刊として今度は『ウェブ時代をゆく』と題した新しい著作を発表した。
サブタイトルには「いかに生き、いかに学ぶか」とあり、『ウェブ進化論』で新しい時代の到来を描いた著者が、ではネットの世界が存在するのが当たり前になったウェブ時代をどう生きるべきかを自らの体験も踏まえて語ったのが本書である。


小さな付箋紙を片手に、通勤の行き帰りの電車で読んだのだが、「そうだよな、そうだよな」と頷く箇所が多く、読み終わるまでに本が付箋紙でいっぱいになった。

ウェブ進化に対して常に肯定的な見方で臨み、その楽観主義が批判されることもある著者だが、それだけ『ウェブ進化論』で著者が描きだしたすぐ目の前にある未来が、現在の社会の有り様を大きく変える可能性を秘めたものっだったということだろう。それに不安を感じた保守的な人々は、その迫り来る未来におそれをなして、つい粗探しをしたくなるのだろう。
私は、好むと好まざるとに関わらず、情報通信技術やコンピュータ技術の進歩によって、インターネットを通じて形作られるバーチャルな世界が現実世界に、いろいろな形で影響を与えることは、今後ますます避けられないことだと思っているし、むしろその中で、個人が一人一人の問題として、自分への影響を予想した上で、どうそれを利用し、どう生き抜いていくかを考えることが一番大切だと考えている。
今までの常識が通じない時代がやってくるかも知れないと、頭の片隅で考えながら、現実の選択をしていくことが、必要なのだと思う。
そういう点で、本書は、自ら描き出したウェブ社会、ウェブ時代を、それぞれの個人がどう生きるかを考える上でのヒントにあふれている。

この本について、書くとなると何回かに分けて書かなくては、到底伝え切れないので、今回は、その中で、常日頃、私が考え実践していることでもあり、著者のネット社会へのスタンスをよく表している部分を紹介しておきたい。

「褒める」ことの大切さを書いた「ブログと褒める思考法」と題した一節である。
著者は、第4章「ロールモデル思考法」の中で、このことを語っているのだが、ロールモデルとはお手本のこと。ウェブ時代を生き抜いていく方法として、リアル、ネット世界にある膨大な情報の中から、自分に波長があい、いざ何か行動しようと思った時に利用できるロールモデル(お手本)の収集を勧めている。

ロールモデル思考法は「ブログを書く」こととじつに親和性が高い。もともとブログは、ウェブログ(ウェブの記録)を語源としており、「ネット上で面白かったサイトにリンクを張りつつ感想を書く」ことをルーツに発展してきた。サイトに限らず、人や本やニュースなどの情報との出合いの中で感じる「面白かった」という直感こそが、ロールモデルの思考の発端である「自分と波長のあう信号を探すことに他ならない。それをブログで記録し続けることは、ロールモデルの引き出しを増やしていくことになる。同時にそれが、志向性を同じくする人々と出会う可能性を高め、そのネット上での交流がまたロールモデルの引き出しを増やす循環を作り出し得る。
(『ウェブ時代をゆく』137ページ)

続けて、「日本の若い人がブログで人を褒めることが下手」、「人の揚げ足を取ったり粗探しばかりしている人をみるとよくそんな暇があると思う」と手厳しいコメントが続く。その上で、なぜ揚げ足取りや粗探しが意味が無いかについて語る。

問題は、そういう思考法を続けていると、自然に批判対象を自分に向け「自分の悪いところ」ばかり探す能力が長けていき、ひいては自己評価が低くなり、何事につけ新しいことに踏み出す第一歩の勇気が出てこなくなることである。
(『ウェブ時代をゆく』138ページ)

「人を褒める」ために、歯の浮くような紋切り型のお世辞を言う必要はない。「なぜかわからないけれど、あなたの(この本の、この情報の)ここの部分は自分ととても波長があったと思う」ということを表明すればいいのである。前向きに真摯に相手と向き合っていることさえ伝われば、それが褒めたことになる。(中略)けなす対象は自分にとって雑音にすぎない。それに関わり粗探ししている時間はもったいない。
(『ウェブ時代をゆく』138~139ページ)

この一連に部分を読んで、「わが意を得たり」とうれしくなった。「ブログとは何を書くものなのか?」原点に返れば、実にシンプルである。自ら、学んでいくためにも、自分のお手本となるものを探し褒めること、私にとってはこの『ウェブ時代をゆく』が格好のロールモデルとなった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月31日 (水)

「神田古本まつり」でアーサー・ランサムの『海へ出るつもりじゃなかった』を衝動買い

一昨日(2007年10月29日)のこと、朝の計量で体重が前日比+1kgの大幅増量で66.7kgにまで逆戻りした私は、少しでも運動量を増やそうと、先週一度、職場の帰りに歩いた日本橋-飯田橋間のウォーキングに再度挑戦することにした。

全行程の三分の二ほどのところが、神田錦町から神保町界隈。古書店が軒を連ねる。折しも「神田古本まつり」が開催されていて、靖国通り沿い歩道にも露店形式で古本が所狭しと並べられている。「今日は、本が目的で来ているわけではないので、寄り道はしない」と思い通つつ、ちょうど私の歩くルートと「古本まつり」のエリアが重なることもあって、歩道の左はいつもの古書店街、右側が露店と本に挟まれて歩くと、やはり気になる。

半分ほど歩いたところあたりか、児童書ばかりの露店があり、つい足がとまる。そして、目に入ってきた1冊の本。「『海へ出るつもりじゃなかった』アーサー・ランサム全集7岩波書店」。箱も、本そのものも新刊と大差ないほど汚れていない。値付けは1000円。実家に帰れば、私が子供の頃に買った本があるのだが、誰かに買われるのも寂しい気がして、その場で財布から千円札を出して、本と交換した。

アーサー・ランサム全集は岩波書店から出されている12巻の児童書のシリーズで、舞台は20世紀初頭のイギリス。まだ、大英帝国の威光が残っている時代。(第一次大戦の前なのか後なのかよくわからない)
主に湖水地方の湖で、ヨットで遊ぶウォーカー一家の4人兄弟姉妹の話である。
頼れる長男のジョン、しかっりものの長女スーザン、おてんばな次女ティティ、末っ子のロジャー。

湖、ヨット、島でのキャンプ、様々な探検・冒険、いまの考えれば、生活に心配のないイギリスのブルジョア階級の子供たちが、アウトドアライフをエンジョイしているだけの物語という面があるのだが、小学校5~6年生だった私は、そのような時代背景などわかるわけもなく、手に汗握る冒険にただやだ夢中だった。

中でも、私には第7巻の『海へ出るつもりじゃなかった』と第8巻の『秘密の海』が印象に残っている。

『海へ出るつもりじゃなかった』では、4兄妹が、4人しか乗っていない小型の帆船で、誤って外洋に出てしまい、なんとか4人だけの知恵と努力と工夫で、隣国オランダまで行って帰って来てしまうというもの。

http://www.bk1.jp/isbn/4001150379
(BK1での本の紹介)

最近、私が愛読している『一瞬の風になれ』の作者佐藤多佳子さんや、『守り人』シリーズの作者上橋菜穂子さんも、アーサー・ランサムを愛読書の一つにあげている。

岩波書店の児童書のシリーズもののうち、ドリトル先生やナルニア国のシリーズは、軽装版のはしりともいえる「岩波少年文庫」になっているし、ゲド戦記のシリーズもソフトカバー版が出た。
1ファンとしては、アーサー・ランサム全集12巻も、少年文庫化するか、軽装版を出してほしいと思っている。しかし、なかなか実現しないのは、テレビゲーム全盛の時代で、ファンタジーは受け入れられても、現実世界を舞台にしたアウトドア冒険ものは、もうはやらないということなのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月17日 (水)

上橋菜穂子著『虚空の旅人』軽装版を読み終わる

一昨日、たまたま寄ったある書店で、何気なく児童書のコーナーをのぞいて見ると、上橋菜穂子さんの守り人・旅人シリーズの第4作にあたる『虚空の旅人』の軽装版が書棚に並んでいた。まだ、軽装版が出るのは先だろうと思っていたので、すぐ手に取り購入。奥書を見ると、2007年9月初版第1刷と書かれている。
私が減量に一生懸命になっている間に発行されていた。

虚空の旅人 (偕成社ポッシュ 軽装版)

これまでの『精霊の守り人』『闇の守り人』『夢の守り人』では、女用心棒のバルサが主人公だったが、本編『虚空の旅人』では、第1作『精霊の守り人』でバルサに命を助けられ、後に新ヨゴ皇国の皇太子となった少年チャグムが主人公である。バルサが主人公として活躍するメインストリーである『守り人』シリーズの外伝として書かれたものである。

本作では、新ヨゴ国の南に位置し南の海に突き出す半島にある隣国サンガル王国の新王即位の儀式に新ヨゴ皇国を代表して、皇太子チャグムが送られる。お供は、チャグムの学問の師でもある若き星読博士のシュガと数名の衛士だけだ。

新王即位のおめでたい儀式を控え、サンガル王国に属するカルシュ島では、「ナユーグル・ライタの目」という異界からの使いが現れる。

一方、サンガル王国から海を隔ててさらに南方にあるタルシュ帝国では、ある計画がめぐらされていた。

さまざまな人の運命が、クライマックスに向けて凝縮していく様を、描きだす筆者の筆はこれまで通り健在である。メインストリーの主人公であるバルサはチャグムの思い出の中でしか登場しない。代わりに、バルサの弟子ともいえるチャグムが、時には心優しい少年として、時には皇太子として国を代表して外交上の交渉を行ったりと活躍する。
バルサの登場するメインストーリーと切り離して、この作品だけを、一人の少年皇太子の冒険物語として読んでも十分楽しめる作品である。

守り人・旅人シリーズ全10冊を、2か月に1冊のペースで軽装版化してくれるのであれば、次は11月。第5作『神の守り人 来訪編』も早く読みたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 9日 (火)

こどものターミナルケアを語る細谷亮太著『小児病棟の四季』(岩波現代文庫)

細谷亮太という小児科のお医者さんが書いた『小児病棟の四季』(岩波現代文庫)を読んでいる。

細谷先生は、1948年生まれ。東北大学医学部を卒業し、聖路加国際病院に小児科医として勤めている。妻がTVで細谷先生の話を聞き、素晴らしい話をしていたので、是非、書いたものを読みたいというので、昨日、「平山郁夫展」を見た帰り、竹橋から神保町まで歩き、三省堂書店の本店で、細谷先生の本を3冊買ってきた。そのうちの1冊がこの『小児病棟の四季』である。

小児病棟の四季 (岩波現代文庫)

もともと、1998年に岩波書店からシリーズ「生きる」の1冊として出された『いのちを見つめて』が、2002年に文庫化された際、再編集・改題されたものである。

細谷先生は、小児ガンが専門ということもあって、治療をしても助かる見込みのない終末期の患者の残り少ない人生(いのち)を、最期の日を迎えるまで、少しでも痛みを少なくし、その人らしく充実して過ごせるように環境を整える終末期医療(ターミナルケア)も手がけている。

専門の小児ガン以外にも、現在の医学では治療できない数々の難病に冒されたこどもたちが、細谷先生のもとに託される。本人や家族と病状について真摯に話し合い、残り少ない日々を病院で過ごすか、家族とともに在宅で過ごすかも、本人と家族の選択である。重たく辛い現実を受け入れ、けなげに生きるこどもとそれを支える親や兄弟・姉妹。それを暖かいまなざしで描いたのが、本書である。ちょっとした描写に、思わずぐっときて目頭が熱くなるところもある。

親はこどもに「勉強していい成績を取ってくれ」「いい高校、大学に入ってくれ」とどうしても期待してしまう。しかし、現実は期待通りにはいかないことの方がほとんどで、親としては文句の一つも言いたくなってしまう。しかし、それも健康であればこそ。人生をスタートして間もない時期に、人生を終えなければならなかったこどもたちがいることを思うと、こどもが健康でいてくれるだけで、ありがたいと思わなければならないのだろうと、本書を読みながら自戒している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 5日 (金)

くだけているけど、くずれていないエッセイ『ワタシは最高にツイている』(小林聡美著、幻冬舎)

映画『めがね』を見に行ったこともあって、主演女優の小林聡美さんが書いたエッセイの新刊『私は最高にツイいる』を読んでみた。すでに、何冊もエッセイを書いているらしいのだが、私にとっては、彼女の文章を読むのは初めてだ。

本の帯には、「どうにも笑えて、味わい深い。3年間に書きためた、待望のエッセイ集」とあるが、そのキャッチコピーを裏切ることのない内容だった。

女優として、主婦としての何気ない日常を書いていて、対象となった出来事じたいはさしたる大事件は一つもないのだが、1編のエッセイの中に、必ずクスリと笑わせてくれるところがあり、それでいながら同じ40代として「そうだよな~」と思わず頷いてしまうところもあり、まさしく「どうにも笑えて、味わい深い」のだ。

例えば、「私の電脳生活」と題した一編。メールやいインターネット、たまの原稿書きに使っていたノートパソコンが古くなり、「正直ちょっと飽きたのと今までのノートパソコンよりひと回り小さくて持ち歩けるやつがあってもいいかも」と思い、近くの大型家電店に足を運ぶ。
ウィンドウズXPのパソコンが並ぶ中、店員に使っているパソコンのOSを聞かれ、「ウインドウズ98です」と答え、その答えに(あまりに古さに)驚いている店員の様子をおもしろおかしく描く。そして、

なんでもその間に98SEとかMeとか2000という姿にどんどん進化していっているそうなのだ。全然知らなかった。
(『私は最高にツイている』28ページ)

また、データはフロッピーディスクに保存するのでは?との著者の問いかけに、店員が絶句する様子もおもしろい。データの保存媒体としてCD、DVD、USBメモリ等を紹介され、

なんだか浦島太郎にでもなった気分だ。しかし愕然とするというよりも、あまりにわけがわからなく、むしろおかしくて笑っちゃうかんじであった。
(『私は最高にツイている』28ページ)

そして、新しく買ったウィンドウズXPパソコンを家に持ち帰り、新型機には音楽や画像をCDやDVDにコピーできる機能に驚いたりしている。

わたしは、説明書を読みながら、いちいちそのいろいろな機能に感心したものだ。
それにしても説明書は何冊もある。その内容のほとんどは意味不明。(中略)きっと、ワタシが使っている機能の何百倍もの機能が、パソコンの中で眠っているに違いない。もたいない気もするが、必要ないから仕方がない。
(『私は最高にツイている』31ページ)

最後は、パソコンの本質を突いたコメントでキチンとオチを用意してある。
結局、いくら盛りだくさんな機能があっても、本当に必要なもの、日常使うものは限られているのだ。そして、パソコンは特別なものではなく、ある目的のために使う道具にすぎない。

この本は、ちょっと気分が冴えない時、むしゃくしゃした時など、必ず笑わせてくれるので、元気になれるる。
受け狙いもあってか、文章はくだけているが、物事の本質は見すえていて、決して基本のスタンスを崩しているわけではない。
男性・女性問わず、クスリと笑いたい人のお勧めである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月21日 (金)

書き終わって保存直前の『目覚めよ仏教!』(上田紀行著)に関する記事を誤って消してしまった

今日は、今読んでいる上田紀行著『目覚めよ仏教!』(NHKブックス)につての記事を書き終えて、あとは保存してニフティのサーバーへ転送するだけという時になって、うっかり机の下に置いてあるパソコンのリセットボタンに足の指が触れてしまい、パソコンが強制終了し、万事休す。

1時間ほどかけて、気合いをいれて書いていただけにショックも大きい。まだ、読みかけだったということもあるので、全部、読み終わってから、よく考えて書けということだったのかもしれない。

今日は、これから書き直す元気はないので、明日以降、改めてチャレンジしたいと思う。

ちなみに本は、以下の通りです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月27日 (月)

梅原猛著『日本の霊性 越後・佐渡を歩く』(新潮文庫)を読み始めた

今日は、夏休み明けで久しぶりの出勤。昼休みに職場の近くの書店をのぞくと、新潮文庫の9月の新刊が既に並べられていた。

その中で、気になったのが梅原猛さんの『日本の霊性』である。梅原さんは哲学者であるが、その関心は歴史・宗教など広範囲に及び、著作を含む業績を総称して「梅原日本学」とも言われる。1925(大正14)年生まれで、すでに80歳を超えている。

この作品は、サブタイトルにもある通り、著者が佐渡ヶ島を含む新潟県一帯を旅をした際の紀行文である。

日本の霊性―越後・佐渡を歩く (新潮文庫 う 5-12)

私は以前、梅原さんが宮崎・鹿児島を旅した際の紀行文『天皇の”ふるさと”日向をゆく』(新潮社)を読み、古事記・日本書紀の故地としての宮崎・鹿児島を改めて教えられた気がした。
当時、富山に住んでいたが、中学の修学旅行で行った宮崎、その修学旅行に加え、社会人になってから仕事で2年近く毎月のように通った鹿児島を、改めて訪ねて見たくなり、夏休みに家族と福岡に里帰りする際に、富山から車で大阪に出て、大阪-宮崎をフェリー、宮崎から古墳で有名な西都原(さいとばる)、霧島神宮-鹿児島と回ったあとで、福岡に帰るという遠回り旅行をしたことがある。

今回の作品の旅の舞台は新潟。私が30代の後半5年間を過ごした富山の隣県である。富山にいる時に、佐渡にも旅行したことがあるし、古事記・日本書紀の描く日本神話の世界に興味をもつことになったのも、新潟県の糸魚川にあるフォッサマグナミュージアムで、古事記に出てくる「当地の奴奈川姫と出雲の大國主命の結婚」話のスライドを見て、島根・出雲と糸魚川の間をつなぐ海の道に思いをはせたものの、古事記・日本書紀の描く日本神話の世界をほとんど知らない自分に愕然とし、日本神話のにわか勉強を始めたことがきっかけである。ちょうど、おりよく『天皇の”ふるさと”日向をゆく』が刊行され、富山から宮崎・鹿児島への旅行を決行することになった。

今回の『日本の霊性』の最初の第一章は、私を古事記・日本書紀に引き寄せた奴奈川姫を扱った「奴奈川姫とヒスイ文化」とタイトルが付けられている。
すぐに、レジに並んで購入。昨日、取り上げた河合隼雄さんの『未来への記憶』と並行して読むことになるだろう。

面白い話題があれば、日を改めて紹介したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月14日 (火)

堀江敏幸著『雪沼とその周辺』、『いつか王子駅で』を読む

薦めてくれる人がいて、初めて堀江敏幸さんの作品を2冊読んだ。

堀江敏幸さんは、1964年生まれ。1999年に三島由紀夫賞、2001年に芥川賞、2003年に川端康成文学賞、2004年には谷崎潤一郎賞と名だたる文学賞を総ナメにしている。受賞歴を見る限り、純文学の実力派と言えるだろう。
タイトルにあげた2冊は、いずれも最近新潮文庫に収録された。しばらく前に『いつか王子駅で』が文庫化された時は、私自身が長く王子駅にほど近い豊島区駒込に住んでいたこともあって、よほど買って読んでみようかと思ったのだが、その時は縁がなかった。

読んでみると、なんともいえず、独特の味わいがある。私に薦めてくれた人が、「王朝文学のようだ」と言った、修飾語の多い長い文章。文体そのものが、ゆったりとしたリズムを持っている。

雪沼とその周辺 (新潮文庫 ほ 16-2)

『雪沼とその周辺』は、山あいにある「雪沼」という町とその周辺に住む人々の日常が淡々と語られる短編集である。
何か大事件が起きるわけではない。しかし、その淡々と日常を生きる人の中に、ささやかながら「生きる意味」とでも呼ぶべきものが語られる。

いつか王子駅で (新潮文庫)

『いつか王子駅で』は、おそらくは、著者の分身であろう「私」を主人公にした作品である。都電荒川線の沿線に住まいを借りた「私」が、日常生活の中で、様々な人と出会い、関わっていく様子を、これも淡々と描いている。

どちらも、読み終わると、なんとも暖かい気持ちになる。
「いつも通りの日常の生き方をしながら、それが後から振り返れば、前向きの生き方だったと言えるような生き方をしたい」という主旨のことを『いつか王子駅で』の登場人物は語る。
著者のそういう思いが、読者を暖かい気持ちにさせてくれるのではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 3日 (金)

大崎善生著『将棋の子』(講談社文庫)を読み終わる

前から気になっていた大崎善生氏の書いた『将棋の子』を読んだ。大崎氏は長らく日本将棋連盟の月刊誌『将棋世界』の編集長を勤めた人で、この作品を書き上げたのを機に将棋連盟を退職し、作家として独立している。

本書は、プロ棋士の養成機関である奨励会を夢破れて退会したひとりの青年のその後を追ったノンフィクションである。第23回講談社ノンフィクション賞の受賞作品でもある。

奨励会は将棋連盟の組織で、プロ棋士を目指す少年達が試験の末、入会を許され、お互いに戦う。一定以上の勝ち星を残した者が昇級し、プロへの最後の関門である三段リーグを戦う。
三段リーグは半年間戦い、毎回上位2名だけが将棋連盟から給料をもらうプロ棋士である四段に昇段する。半期に2人、年に4人しかプロ棋士になることは出来ない。
(ちなみに、2007年度上期の三段リーグの参加者は33名)

本書に登場するN君は、大崎氏と同郷の北海道札幌の出身。連盟職員として働く大崎氏とって、2つ年下のN君は弟のような存在であった。
昭和52年に4級で奨励会に入会したN君は、序盤は定跡も覚えずめちゃくちゃなのだが、終盤になると滅法強く二段まで進む。しかし、家庭の不幸もあり、将棋に勝てなくなり、ついに退会を決意する。
将棋連盟に届いたN君の連絡先が変更されたことをきっかけに、大崎氏はN君探しを始める。
本書は、N君を捜しあて、札幌で再会し、退会後のN君の生き様を丹念に辿る。
そのあいまで、厳しい奨励会の競争を何とかくぐり抜けプロになった棋士、N君の外にも夢破れた何人かの元奨励会員の話も織り交ぜ、奨励会物語ともなっている。
N君の退会後の人生は、世間から見れば決して幸福とは言えないが、しかしその中でも、将棋を支えに生きる姿を、大崎氏はあたたかい眼差しで描く。単に、夢破れた哀れな少年の物語に終わらせなかったところが、この作品が賞を受賞した理由だろう。

私が応援する郷田真隆九段をはじめ、羽生善治三冠、森内俊之名人、佐藤康光二冠はいずれも昭和57年に奨励会に入会したのだが、後に「57年組」と呼ばれ、前後の年代と比べて集団として強く、N君も「57年組」のすさまじい嵐に中に巻き込まれ、夢破れたと言えるだろう。

将棋に詳しい人には、奨励会の実情を垣間見ることの出来る本だし、将棋に詳しくない人には、そもそもプロ棋士ってどうやればなれるのかを教えてくれる本である。

本書の単行本は2001年に出版されている。本書の主人公であるN君は私と同じ昭和35年生まれ。本書の終わりでは新しい生活に向け一歩を踏み出すところで、締めくくられているが、6年たった現在、どうしているのだろうか。新生活で、充実した毎日を送られていることを祈るばかりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

集英社文庫『漫画版 日本の歴史』を読みながら、教員免許更新制度を思う

先週金曜日、昼休みの職場近くの書店を除くと集英社文庫の7月の新刊から『漫画版 日本の歴史』というシリーズの刊行が開始されていた。
種本は、1998年に刊行された集英社版『学習漫画・日本の歴史』とのこと。ハードカバー刊行時の2冊を1冊にまとめ、旧石器時代から現代まで全10巻のシリーズに再編集されている。

もともと、歴史は好きなので、歴史を題材にした本の新刊は洋の東西問わず、売場でなるべく目を通すようにしている。
大学時代には中学の社会科と高校の社会科・商業科の教員資格を取り、母校(高校)で世界史の教育実習をしたこともある。
教員免許が研修による更新制になってしまうと、私のような教員免許だけ持っている社会人という存在は、どう扱われるのだろうか。あっさり切り捨てられてしまうのか、研修を受けようと思えば受けられるのか。一般企業での働いた経験のある教員有資格者というのは、それなりに役に立つ面もあると思うのだが、どうなるのだろう。

そう思って、グーグルの検索で調べて見ると文部科学省のホームページの中に「教員免許更新制における更新講習について」というコーナーが見つかった。制度に関する資料のほか、国会審議の際の主な質問がまとめられていた。
私のような、免許だけ持っているものを称して「ペーパーティーチャー」と呼ぶらしい。

「いわゆるペーパーティーチャーの取扱いはどうなるのか」との社民党議員からの質問に対し、

時の伊吹文部科学大臣は
「今回、十年講習を受けるのは教職に立っている人たちです。ですから、ペーパーティーチャーの人たちでも、教職に立ちたいときはこの講習をお受けにならなければならないということです。」

安倍総理大臣も
「ペーパーティーチャーの件ですが、教員免許状取得後、長期にわたって教育現場には触れていない方々であって、この方々こそ、むしろ、ある意味では不安を持っておられるんだろう、こう思います。ですから、そういう皆さんには、教員になる時点で更新の講習を受講していただいて、最新の知識と技能を身につけていただいて、そういう機会ができるわけですから、そして、それを身につけていただいた上において、自信と誇りを持って教壇に立っていただくことになるんだろう、このように思います」
と答弁している。

これを読む限り、新しい「教育職員免許法」の施行によっていきなり教員免許が失効するということはないようだ。

教えることは嫌いではないので、定年後に何らかのチャンスでもあればと思っているので、漫画版であっても、こういう機会に改めて日本史を通読し、歴史の流れを再確認しておきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月18日 (水)

佐藤多佳子著『ハンサム・ガール』を読んだ

本屋大賞受賞作の『一瞬の風になれ』を読んでから、佐藤多佳子さんの作品の大半は読んだのだが、一冊だけどこの書店でも見つからない本があった。それが、『ハンサム・ガール』である。
フォア文庫という児童書の出版社4社の共同企画に児童文庫の1冊。

(表紙のデザインはこの写真から少し変わっています)

先週、日曜日に『ゲドを読む。』をもらった書店の1階入り口近くに平積みで並べてあった。奥書を見ると、単行本としての初版は1993年。文庫の初刷が1998年7月。2007年3月第2刷となっており、本屋大賞受賞後、増刷されたのだろう。

主人公は柳二葉(ふたば)という名の小学校5年生の女の子。元プロ野球の2軍選手で今は専業主夫の父、父の社会人時代の同僚で今でもキャリアウーマンとして働く母。父とキャチボールなどをしながら育った二葉が、サウスポーの下手投げピッチャーとして少年野球チームアリゲーターズに入り、苦労しながらもチームにとけ込んでいく様子が描かれている。

佐藤さんは『黄色い目の魚』でも、回りとは違う個性を持った主人公を描いているが、児童文学とはいえ、その源流はこの物語にも見ることができる。
専業主夫の父と家計を支えるキャリアウーマンの母、野球に挑戦する娘。全て、世の中で当たり前と思われていることに対する疑問符になっている。
最後の野球の試合の結末がずいぶんあっさりしているようにも思えるが、少女野球小説を書くことが目的ではないと思うので、これもありかもれない。

解説を、佐藤さんの大学時代の恩師、神宮輝夫氏が書いている。私も、アーサー・ランサム全集など海外の児童文学の神宮輝雄訳の作品にはずいぶんお世話になった。おそらく、文学少女だった佐藤さんは、神宮作品で育ち、神宮ゼミの門を叩いたのだろう。
神宮先生の解説を読んでいたら、昨日、このブログで書いたことの続きのような話で締めくくられていた。

子どもの読む本をつくる人はたちは、すこし前まで、人間のこれからを信じていました。今日よりも明日の方が物事がよくなると思っていました。ですから、言葉の力にも自信を持っていました。しかし、ひょっとすると、人間にはこれからがないのではと心配になるような出来事ばかり起こるうちに、人間のこれからと、言葉に自信がなくなってきています。佐藤さんの、勢いよく今の子どもと大人の暮らしを語り、そしていつもきちんとよい結末がくる話には、この作家の「さあ、いっしょに暮らしていこう。いろいろあるけど、楽しいよ」というよびかけがはっきり聞こえてきます。それが、本音だから、そうだよなぁ、と夢中で読まされてしまいます。
(『ハンサム・ガール』196ページ)

佐藤作品のファンには、肩が凝らずに、気軽に読める作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月14日 (土)

樋口裕一著『差がつく読書』から、傲慢な書評について

今日は、九州に上陸した台風の影響もあってか、東京も1日雨模様。しばらく前に買っていて読んでいなかった角川oneテーマ21の6月の新刊『差がつく読書』(樋口裕一著)に目を通してみた。

差がつく読書 (角川oneテーマ21)

著者の樋口裕一さんは1951年生まれ、京都産業大学の客員教授で、また自ら作文・小論文の通信添削塾を開いているという。かつては、年間365冊以上の本を読んでいたという読書通である。

著者は、読書を
①「実読」
→何か行動に結びつけるために知識や情報を得ようとして行う読書=何かに役立てようとする読書
②「楽読」
→ただ、楽しみのためだけに読む読書
の2種類に分け、「この二つの読書の両方があってこそ、人生は豊かになる」と語る(参照:『差がつく読書』12ページ)
それは、私も同感でまったく異論はない。

私がこの本で、特に紹介しておきたいのは、書評について述べた部分だ。「すべての本は良書である」と題した一節の中で次のように述べている。

本というのは、人間と同じようなものだ。(中略)どれもが、それぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。
それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは、悪いことではない。(中略)だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちもわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。
(中略)本をけなすと、自分が著者より偉くなったような気がするのだろう。(中略)
ただ、きわめて心外なのは、ないものねだりをしている書評があまりにも多いことだ。(中略)
知識のある人間が入門書を幼稚過ぎるとけなし、知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の身の丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。(中略)
本について、語るからには、あらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。」
(『差がつく読書』20~21ページ)

自らを神に見立てたような傲慢な書評は、読んでも得るところがない。
書評の書き手が、どのような視点でその本を読み、何が自分にとってためになったのか、どのような点に感動したのか…。そのような書評を多くの人が書いてくれれば、書評の読み手がその本に対する時の参考になる。
ネット上でも、そのような書評が、少しでも増えてほしいものである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

上橋菜穂子著『夢の守り人』を読み終わる

昨日から読み始めた上橋菜穂子さんの守り人シリーズ第3作『夢の守り人』を読み終わった。

夢の守り人 (偕成社ポッシュ 軽装版)

守り人シリーズの舞台である新ヨゴ皇国では、深い眠りにおちたまま寝覚めない人が増えていく。
シリーズの主人公である女用心棒バルサの幼なじみの呪術師タンダの姪カヤ。第1作『精霊の守り人』で皇太子だった息子を亡くした国王の第一皇妃である「一ノ妃」。そして、第1作で、バルサやタンダと逃避行をし、兄の死で皇太子となったチャグム。

3人は、それぞれ放浪の歌い手ユグノの歌声に魅せられたことがあった。夢を集める異世界の<花>が、歌声に魅せられた人々の魂をとらえて離さない。
目覚めない姪のカヤを救おう、夢の<花>が咲く世界に一人乗り込んだタンダに、予想もしなかった事態が待ち受けていた…。

昨日、読んだ前半1/3は、言わば物語りの枠組みを説明した部分で、今日読んだ残り2/3で物語は一気に展開した。

今回の物語では、主に中心人物となるのは、呪術師タンダと、上のあらすじには登場しないが、タンダの師匠で老齢の女呪術師トロガイである。夢の<花>には、トロガイの過去が分かちがたく結びついている。
シリーズの主人公であるバルサもちゃんと登場するが、今回は脇を固める役回りだ。

人は誰しも、辛い現実に直面すると、こうあってほしいという夢の世界に逃避しがちである。しかし、逃避ばかりしていて、現実を見つめて、解決しようとしないとどうなるのか。そんなテーマも根底にはあるように思う。

ぐいぐいと読むものを引きつける話の展開は、いつもながら大したものだ。新ヨゴ皇国の皇太子チャグムが主人公となる第4作『虚空の旅人』の早く読みたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

守り人シリーズ第3作『夢の守り人』(上橋菜穂子著)の軽装版登場

先日、守り人シリーズの第2作『闇の守人』が新潮文庫から発売され、思わず買ってしまったことを書いたが、昨日、書店で、第3作の『夢の守り人』の軽装版が新たに発売になっているのに遭遇。

夢の守り人 (偕成社ポッシュ 軽装版)

ハードカバーの児童書版を図書館で借りようと思いながら、まだ図書館に探しにも行けていなかったこともあり、さっそく購入した。

版元の偕成社と文庫を出す新潮社との間で、偕成社が先に軽装版を出し、半年ほどしてから新潮社が文庫化するという申し合わせでもあるのかも知れない。この調子で、全10作が文庫化されるまで待っていたら、まだ5年くらいはかかりそうである。せめて偕成社で全10作の軽装版化を早く進めてもらい、大人にも読みやすくしてほしいものである。

今朝から読み始め、1/3ほど読んだが、感想は読み終わったところで、改めて書くことにしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 4日 (水)

新潮文庫7月の新刊、『闇の守り人』(上橋菜穂子著)と『暗号解読』(サイモン・シン著)を買う

7月に入り、新潮文庫の新刊が書店に並んだが、その中の3冊をみたその場で買った。1冊は、上橋菜穂子著『闇の守り人』、あとの2冊がサイモン・シン著『暗号解読』の上・下巻である。

闇の守り人 (新潮文庫 う 18-3)

『闇の守り人』は既に偕成社の軽装版で読んでいるが、やはり『精霊の守り人』とあわせ、文庫で揃えたいと思い購入した。軽装版をいずれブックオフで売るつもりだ。新潮社ではシリーズ全10巻を文庫化するようだが、第3巻『夢の守り人』の文庫化は来春とのこと。もう少し、早く文庫化してほしいところだ。

暗号解読 上巻 (1) (新潮文庫 シ 37-2)

一方に『暗号解読(原題:The Code Book)』は、以前このブログで紹介した『フェルマーの最終定理』の作者であるサイモン・シン氏の2作目の作品だ。今回は、主に古代ギリシャ・ローマの時代に至るまで、主に欧米で繰り広げられた、国家の機密を暗号化するものと暗号解読者との駆け引きの歴史がいきいきと描かれている。現在、上巻をほぼ読み終えたところだが、歴史上のいくつかの戦いで暗号の解読が戦局に大きな影響を与え、歴史を動かしてきたことが語られている。
上巻の巻末では、第一次大戦後のドイツがエニグマという暗号機を大量に購入。第一次大戦の勝利に酔うフランスでは、エニグマを使った暗号が解読できなかったが、途中で解読の努力を放棄し、フランスが持つエニグマについての情報はフランスと同盟を結んでいたポーランドに提供され、ドイツとは歴史上国境争いが絶えないポーランドが解読に必死に取りくんだことが書かれている。
下巻では、おそらく、暗号化に数学なかでも素数が使われた話が出てくるのであろう。
しかし、これだけのノンフィクションを書くに足るだけの資料・データを、作者サイモン・シン氏はどこでどのように集めたのだろうか。
それも私の関心事である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

新潮文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』についての思いこみ

しばらく前に、岩宮景子著『思春期をめぐる冒険-心理療法と村上春樹の世界』(新潮文庫)を読んだ。(その時の感想はこちら→2007年6月20日:岩宮恵子著『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫)を読む
この本の「はじめに」の冒頭に、今日話題にする『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』での河合隼雄氏との対談での村上春樹氏の発言が引用されている。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は、最初、岩波書店から出版された。その時、単行本を買って確かに読んだのだが、何せ村上作品を1冊も読んだことがないので、対談の内容も全く覚えていなかった。今回、『思春期をめぐる冒険』を読んで、改めて読み直そうと自分の本棚の一角を占める20冊近い河合隼雄作品を中を探すが見つからない。どうも、定期的な蔵書のリストラの際、もう読まないだろうとブックオフで売ってしまったらしい。

ならば、しかたない。新潮文庫に入っているので、文庫で買って読み直せばいいと軽く考えていた。しかし、機会があるたびに書店の文庫の棚を探したが、どこの書店に行っても、新潮文庫の河合隼雄作品のところにないのである。たしかに、新潮文庫「河合隼雄の本」の1冊に上げられているだが…。よほど人気がなく、出版元でも在庫切れなのだろうか。村上春樹氏の人気を考えれば、どうも腑に落ちない。しかし、ないものは買いようがない。

昨日、会社の帰り、家の最寄り駅の老夫婦がやっている小さな書店に、そろそろ『将棋世界』8月号が出ているかもしれないと思い立ち寄った。お目当ての『将棋世界』まだ入荷していない。帰ろうと思ったが、奥の文庫のコーナーをあてもなく一巡りしてみる。村上春樹氏の作品がまとまっている一角が目に入った。村上作品の代表作は、どちらかと言えば講談社文庫に多いのだが、そこには青い背表紙の新潮文庫も何冊か置いてある。
なんと、その中に『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』があったのである。新潮社は、「河合隼雄の本」と書いていながら、村上春樹氏の作品の中の1冊として文庫化していたのだ。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

たしかに、考えてみれば、2人の対談なのだから、共著と同じである。河合作品であり、村上作品でもある。しかし、自分は河合ファンであるということもあってか、当然、河合作品の1冊であると思いこみ、これまでいっさい新潮文庫の村上作品のコーナーを探したことはなかった。
「思いこみ」とはこわいものだ。もし、この本がこのまま見つからなくても、生活に困るわけではないが、むしろ、こういう自分の勝手な思いこみで、見つからないもの、見えなくなっているものが、まだまだたくさんあるのではないかという気がした。ただでさえ、思考が硬直化しがちな年代になっているのだから、よほど自分で気をなければと肝に銘じた次第である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 2日 (月)

書店の風景

先週、仕事の帰り、いつものように東京メトロの竹橋駅まで歩く。通常だと、気象庁の前の入り口から地下の駅にもぐるのだが、ちょっと足を伸ばしてみることにして、そのまま横断歩道を渡り外堀通り沿いに歩き、毎日新聞社の本社があるパレスサイドビルから竹橋駅に降りてみることにした。
しばらく前に、近くに仕事で来ていた時、上司が「パレスサイドビルの地下街で食事をした」と言っていたのを思い出し、どんな店が軒を連ねているのか前から興味もあった。

1階に書店があったので、さっそく立ち寄る。さすがに新聞社の本社のビルにある書店というだけあって、新聞社やマスコミ関係の本は他の書店より充実している。毎日新聞のOB書いた新潮新書の『新聞社』(河内孝著)や日経新聞の社員が書いた『新聞の時代錯誤』(大塚将司著、東洋経済新報社)が並べられていた。

さほど広くない店内をぐるりと回り、先週このブログでも取り上げた『ウェブ社会の思想』の著者鈴木謙介氏の前著『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書、2005年刊)が見つかる。2年前の著書なので、必ずしもどこの書店にもあるというわけではない。
さらに、米ギャラップ社の関係者が書いた「短所を矯正するのではなく長所を伸ばそう」という一連のシリーズの最初の一冊とも言える『強みを活かせ』(D・O・クリフトン&P・ネルソン著、日本経済新聞社、2002年刊)が見つかった。この『強みを活かせ』は、一度読みたいと思っていたが、これまでどこの書店で探しても見つからなかった。
2冊とも、次にどこかの書店で巡り会えるとも限らないので、その場で購入した。

書店には、それぞれ風景がある。そこに並べられた本が作り出すそれぞれの店に独自の世界。どこに立地しているかで、売れ筋も異なるだろう。行きつけの書店や紀伊国屋や丸善などの大書店でもなかなか見つからない本が、こうして偶然立ち寄った書店で、見つかったりするとうれしくなる。
だから、見知らぬ書店巡りはやめられない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月27日 (水)

新たな切り口を見せられた思いがする鈴木謙介著『ウェブ社会の思想』

『ウェブ社会の思想』はNHKブックスの2007年5月の新刊だ。「<偏在する私>をどう生きるか」というサブタイトルがつけられている。
著者の鈴木謙介さんは、1976年生まれ。現在、国際大学の研究員。これまで『暴走するインターネット』(イースト・プレス)、『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)などの著書がある。インターネットと社会、個人の関わりをテーマに議論を展開されているようである。
まだ、読み始めたところだが、これまで私が読んだ類書にはない切り口が示されており、読み終わった範囲で興味を持ったところを紹介しておきたい。

最初に、本書全体の見取り図を示すため、「ウェブ社会の「思想」と「宿命」」と題した序章が置かれている。
その序章の中に、「情報としての「わたし」」と題する小節があり、そこから主な部分を引用し紹介したい。

社会生活の様々な場面で、自分が何を選んだか、何を望んだか、何を考えたかということが、あるものは意図的に、あるものは自動的に蓄積されるようになる。そしてその個人情報の集積を元手に、次にするべきこと、選ぶべき未来が、あらゆる場面で私たちの提示されるようになる。(中略)
この状況は、「わたし」という存在が、蓄積された個人情報の方に代表されるようになり、そしてその「情報としてのわたし」があらゆる場所に、わたしを先回りして立ち現れるようになるということを意味している。こうした、人が自分の人生に関する未来を選択するということと、それが宿命のように、前もって決められていた事柄として受け取られることという、二つの矛盾する出来事が同時に起こるようになることは、それ自体として興味深い。
(『ウェブ社会の思想』16~17ページ)

著者は、情報社会、ウェブ社会の中で、
①人が自分の人生について選択したことが記録し蓄積される
②選択の結果が情報として蓄積され、次の人生の選択肢をあたかも「宿命」かのようにそれを示され受け取られる
という二つの矛盾することが起きているという。
身近なところでは、アマゾンでブックレビューという書評を書いたり、本を注文していると、その情報が蓄積され、アマゾンからの「おすすめ本」が表示されるようになるといった例がある。

本書がその点に注目する理由は、そうした状況の中で、「自分が選んできた人生は、こういう結末しかありようのなかったものなんだ。けれども、それでいいんだ」と、自分を納得させることが、特に若者たちの間で、漠然と求められるようになっているのではないかということにある。
このような社会の中で、「成長」するとは何を意味するのだろうか。人がひとりの人間として成長していくためには、ときに失敗し、そこから学び、過去の自分と決別しながら、それでもわたしがわたしであると確信し続けることが必要になる。だが、この世界が、あらかじめ定められた宿命に従って動いているのであれば、どのような努力も無意味であるはずだ。(中略)何をしたって人生の結末が変わらないのなら、何もしない方がマシだ、と思うことは、それなりに理にかなったことであるように思われる。
(『ウェブ社会の思想』17ページ)

何とも空恐ろしい話である。私など、パソコンや機械から何を「おすすめ」として示されようが、そんなものは所詮選択肢の1つに過ぎないと思うだけだ。しかし、自分の選択の結果をコンピュータで処理した結果が間違っているはずはないと、無批判に受け入れることが当たり前になってしまったら、人は何も考えなくなってしまうだろう。

しかし、笑い事ではすまされない気がする。パソコンやインターネットなど全く存在しなかった少年少女時代を過ごした我々の世代にとっては、どんなにパソコンが精巧につくられ、正確であっても、所詮は機械、故障もあり間違いもあると、どこか覚めた目でみていると思うが、幼い頃からテレビゲームで育ち、パソコンや携帯電話が当然のように身の回りにある世代の人たちにとっては、きっと受け取り方は違うのだろう。
長い社会経済の低迷で、努力をすれば報われるということが実感できない時代が長く続いたので、コンピュータが示す「宿命」に従っていた方が楽だし、無駄なエネルギーを使わなくていいなどと、若い世代が考えてもおかしくはない。

我が家では、子どもたちには、「パソコンは道具。人が使うもの、人間の方が、パソコンに使われたり、振り回されてはいけない」と教え、比較的早くからパソコンを扱わせ、使わせてきたが、それはそれでリスクのあることだったのかもしれない。

本書は深淵なテーマを提示しているように思う。じっくり吟味して読んでみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月24日 (日)

藤原正彦著『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)に見るアメリカ教育事情

3日前に一度書きかけて消えてしまった藤原正彦著『若き数学者のアメリカ』について、忘れないうちに書いておきたい。

藤原正彦さんは小川洋子さんが『博士の愛した数式』を書く際に取材した数学者。現在は、お茶の水女子大学教授だ。作家の新田次郎・藤原てい夫妻の次男ということもあって、エッセイストとしても活躍しており、この『若き数学者のアメリカ』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。最近では新潮新書の『国家の品格』が話題を呼んだ。

このエッセイは1972年夏から2年間のアメリカ留学を、いろいろな角度から描いたものだ。今から35年も前のアメリカの話なので、現在どうなのかはわからないが、アメリカの学生について書いた以下の部分に興味を持った。アメリカの学生がよく勉強することについて述べているだが、次のように書かれている。

彼らが、ある意味では高校時代までに勉強らしい勉強をほとんどしていないということである。(中略)それでは、小学校から高等学校までの間に、学校で何を教えられていたのだろうか。人に聞いた話を総合すると、アメリカの学校では「いかに他人と協調して仕事を進めるか」とか「いかに自分の意思を論理的に表明するか」とか「問題に当面した時、どう考え、どう対処して行くか」とか「議論において問題点をどう掘り出し展開するか」などといったことに教育の重点を置いているらしい。
(『若き数学者のアメリカ』252~254ページ)

受験勉強で疲れ果ててもいなし、勉強に対してあこがれのような気持ちも持っているので、大学に入ってよく勉強するというのが、藤原先生の分析である。

35年前のアメリカで高校までで重点的に教育したという

・「いかに他人と協調して仕事を進めるか」
・「いかに自分の意思を論理的に表明するか」
・「問題に当面した時、どう考え、どう対処して行くか」
・「議論において問題点をどう掘り出し展開するか」

といった点は、いざ学校教育を終えて社会に出れば最も必要とされるスキルでありながら、日本では学校での教育が決して十分とはいえないことばかりである。

4つのうち「問題に当面した時、どう考え、どう対処して行くか」については、自分が子育てをするにあたって、子どもたちに常日頃から言い続けてきたことなので、我が意を得たりという気もするのだが、既にアメリカでは35年前にそういうことが、学校教育に組み込まれ実践されているという点は、さすがプラグマティズムの国だと思うし、未だに出来ていない日本の現状を考えると、アメリカに敵わないのもやむを得ないかという気がしてしまう。

多分、日本の知識偏重主義とアメリカの実践主義を足して2で割るような教育ができれば、バランスの取れた人が育つのだろう。せめて、自分の家庭の中だけでもそうしたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月22日 (金)

今日は「夏至」(二十四節気)

今年2007年は今日(6月22日)が「夏至」。このブログで二十四節気について取り上げ始めたのが、昨年の「夏至」なので、ちょうど1年たったことになる。ちなみに、昨年の夏至は6月21日だった。
去年も引用している『美しい暦のことば』(山下景子著)には次のように書かれている。

「夏至」は一年で一番昼の時間が長い日です。
また、太陽が最も高くまでのぼる日でもあります。
正午の時間帯では、ほとんど真上から照らされているような形になるので、影も一番短くなります。
日が沈んでからもしばらくはまだ明るさが残っているほどの、太陽のパワーを実感できる日ですね。
ところが、だいたいの地方が、梅雨の真っ最中。太陽の姿さえ見ることができないかもしれません。
(『美しい暦のことば』89ページ)

今日は、午後から雨。梅雨入りしてから、雨らしい雨になかった今年、久しぶりの雨だった。

今日、2週間続いた仕事にひと区切りついたこともあり、仕事の帰りに行きつけの書店に寄り、少し時間をかけて最近の新刊書などを改めてゆっくりながめた。
結局、今日は岸田秀著『歴史を精神分析する』(中公文庫)と樋口裕一著『差がつく読書』(角川oneテーマ21)を買う。
昨日、別の書店で買った畠中恵さんのしゃばけシリーズ第6弾の『ちんぷんかん』(新潮社)、今日から読み始めた村上春樹著『羊をめぐる冒険』と週末に読む本には、こと欠かなくなった。積ん読で終わらないようにしなくては。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月20日 (水)

岩宮恵子著『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫)を読む

昨日の記事で書いた『夜のピクニック』の前に、岩宮恵子さんが書いた新潮文庫の今月(2007年6月)の新刊の『思春期をめぐる冒険』を読んだ。サブタイトルが「心理療法と村上春樹の世界」。

思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界 (新潮文庫 い 88-1)

書店で手にとって、「村上春樹作品は一冊も読んでないから…」と一度は買うのをやめたのだが、もともと心理学には興味があるほうなので、次に書店で見たときに、結局買って読み始めた。

作者の岩宮恵子さんは1960年1月生まれ。臨床心理士で、現在島根大学教育学部教授。島根大学教育学部のホームページの教育研究スタッフ一覧の岩宮教授のページを見ると次のように書かれている。

自己紹介・アピール
漫画や小説がとても好きです。おもしろい漫画やアニメについて学生さんから情報をもらうと、必ず読んでいます。大勢の人が夢中になるものには、その時代を生きる人の何かを刺激していると思ってます。その「何か」が何なのかを考えながら本を読んだりするのが趣味です。

現在の研究分野・テーマ
現代の思春期のさまざまな問題を、この世とは異なった世界(異界)という視点から考えています。なぜ、思春期の子どもたちは「異界」がテーマになっている漫画やゲームに夢中になるのかということを、思春期という時期の特性とあわせて考えています。また、「異界」との関連で、夢の分析の研究もしています。

本書は、多くの村上春樹作品を題材に、著者が臨床心理士として治療にあたったクライアントの事例も交えながら、主に思春期に起こるこころに起因する種々の問題を、著者がテーマとしている「この世とは異なった世界(異界)」との関わりという視点から考えている。
著者が語る「異界」は、単なる各個人の潜在意識という枠を超えおり、「あの世」に近いイメージがある。

我が家の中学生の長男が夢中になって見ているアニメなどをたまに見ても、自分たちが暮らす世界があり、それとは別の世界(異界)があり、主人公がその両方を往来するという世界観を持つ話が多いのに驚く。
そのような物語の構図は、先般ディズニーで映画化され話題になったC.S.ルイスの『ナルニア国』の物語などにも登場しており、目新しいものではないが、アニメで語られる世界観はどうも病的なものが多いような気がして気になっている。そのような懸念は、昨年読んだ岩波新書の『ファンタジーの世界』(脇明子著)でも書かれていた。

この本の内容を数行で紹介するのは難しいが、次の一文を紹介しておきたい。

思春期と異界
「変化する」ということは、それまでのあり方が象徴的な意味で「死」を迎えるということである。生きてる限り、毎日変化があるのは当然であるが、特に思春期は心身とも大きな変化の時である。そのため表面に見えている適応がどうであろうと、変化の裏側にある「死」の気配が色濃くなる。成長や進歩といったプラスに見える変化の裏にも必ずどこか「死」のイメージは存在している。
(『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫)60ページ)

思春期を迎える少年少女が何かトラブルを起こした時、その表面にのみにとらわれていると、彼らがとらわれている「裏側」の死と向き合っている部分を見落としてしまい、大人から見ると何がなんだかさっぱりわからないということになってしまう。その「裏側」の部分のあり方を描き出しているのが、村上作品だというのが著者の評価であろう。

村上春樹氏の著作を一作も読んだことのない私には、おそらくこの本の半分しか理解できていないと思う。村上作品にチャレンジしてみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年6月19日 (火)

第2回本屋大賞作品、恩田陸著『夜のピクニック』を読む

将棋の名人戦第6局の郷田九段の大逆転勝利で、将棋に関していろいろ書きたいことが思い浮かび、暫く将棋に関する記事が続いたが、先週、第2回本屋大賞の受賞作、恩田陸さんの『夜のピクニック』(新潮文庫)を読んだ。
この『夜のピクニック』は2005年に吉川英治文学新人賞と本屋大賞をダブル受賞している。

北高校の名物行事である年1回の鍛錬歩行祭。80kmの道のりを2時間の仮眠を挟んで夜通しひたすら歩くという行事だ。
著者恩田陸さんが卒業した茨城県立水戸第一高校の「歩く会」がモデルになっているとのこと。

高校時代最後の歩行際を迎える3年7組の甲田貴子(たかこ)と西脇融(とおる)。お互いに反目しながらも、意識してしまわざるを得ない2人。2人には、クラスメイト達の知らない秘密があった。
貴子は、この高校最後の歩行際の中で、小さな賭けをする。貴子と融の秘密を知らない周りの同級生たちは、2人が密かにお互い好意を持っているのではないかと誤解して、何とか2人を結びつけようとする。
さて、どのような結末が待っているのか…。

この話は、青春まっただ中の高校生が胸のうちに抱え言うに言えない思い友達との関係といったものがテーマになっていると思う。自分も高校生の頃、こんなこと考えていたよなと思うところが何ヵ所か出てくる。

今の高校生はうらやましい。佐藤多佳子さんの『黄色い目の魚』といい、この恩田陸さんの『夜のピクニック』といい、等身大の青春を扱ったすばらしい小説がいくつもある。私が高校生だった30年前、これだけ高校生の日常生活に入りこんだ描かれた青春小説というものはなかったのではないだろうか。
読んだ覚えがあるのは、曾野綾子さんの『太郎物語』(文庫化の際『太郎物語・高校編』と改題)ぐらいだ。しかし、どこかコミカルに描いてあって面白くはあったが、高校生が抱える悩みのようなものに正面から応えるものではなかった。
あとは、五木寛之の『青春の門・筑豊編』などが思い当たるが、青春小説と呼ぶにはちょっと違う気がするし、時代背景も違い、
自分の物語としては読めなかった。

しかし、今年、高校生になった次女に、きっと面白いからだまされたと思って読んでみたらと『黄色い目の魚』や『夜のピクニック』を勧めても、なかなか読んでくれないのは皮肉なものである。1962年の佐藤多佳子さんや、1964年生まれの恩田陸さんの書くものは、1960年生まれの私にとっては自分の物語であっても、次女にとっては、過去の時代の物語なのだろうか。もう少し、時間をかけて勧めてみようとは思っているが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月12日 (火)

サイモン・シン著『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)を読み始める

先週の土曜日、家の近くの書店をとくにあてもなくのぞいてみたら『博士の愛した数学』副読本、小川洋子さん推薦と帯に書いた本が目についた。

内容は、17世紀以降、3世紀以上世界の数学者を悩ませた「フェルマーの最終定理」をイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズが1994年に証明するまでの、ノンフィクションだ。

Xn+Yn=Zn、この方程式はnが2より大きい場合には整数解を持たない」という問題が、17世紀のフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーが書き残し、20世紀に至っても世界中の誰も証明出来なかった「フェルマーの最終定理」である。
ちなみに、nが2の場合は、「X+Y=Z」となり、「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」という誰でも中学校で習う「ピタゴラスの定理」になる。nが2から3以上に入れ替わった途端、それを満たす整数でのX,Y,Zの組み合わせは存在しないということをフェルマーは言っており、自分ではそれを証明したと書き残しているが、証明自体は残っていないので、以後3世紀以上、多くの数学者がそれを証明しようと取り組んできた。そして最後にその偉業を成し遂げたのがワイルズ博士である。

今のところ、半分ほど読み終わり、19世紀までの数学者の苦闘の歴史を読み終わった。これから20世紀の取り組みと、いよいよワイルズ博士本人の登場となる。

『博士の愛した数式』には、フェルマーの最終定理そのものは、出てこなかったと思うが、副読本と名づけられているのは、本書の始めの方で、『博士の愛した数式』に出てくる友愛数や完全数についての丁寧でわかりやすい説明があるし、虚数を発見した数学者オイラーの話、素数が暗号にどう使われたかなど、原作や映画で話題としては出てくるけれど、十分説明が加えられなかった人物や話題が掘り下げられているからだろう。

もちろん、本書のテーマである「フェルマーの最終定理」証明に向けての各時代の数学者の生き様も人間臭く面白い。
本書だけで単独で読んでも、ノンフィクションとして楽しめるし、『博士を愛した数式』の原作を読んだり、映画を見た人にとっては、博士と家政婦母子の世界を深みを持たせてくれる貴重な副読本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 8日 (金)

小川洋子著『博士の愛した数式』を読んだ

遅ればせながら、第1回本屋大賞受賞作である小川洋子さんの『博士の愛した数式』(新潮文庫)を読んだ。映画にもなった話題作で、一度読んでみよう、映画も借りてみようと思いながら、そのままになっていた。先週末、書店の文庫コーナーに平積みで置いてあるのが、目について手に取った。

交通事故の後遺症で記憶が80分しか持続しない、もと大学教授の数学者である「博士」、その博士のもとに家政婦として出向く「私」、頭が平らなことから博士に「ルート」と名づけられた私の息子、この3人を中心に物語りは展開する。

80分しか記憶が持続しない博士との関係は、80分離れてしまうとゼロクリアで、振り出しに戻る。朝、博士を訪ねた私は、家政婦として博士とともに過ごす夕方までの間、関係を深めるが、翌日になれば、また振り出しに戻る。毎日、毎日がその繰り返しだ。
ある時、私に小学生の息子がいると知った博士は、母と子は離れているのはよくないと、息子も連れてくるように言い、学校が終わったあと、私の息子ルートは博士に家に来るようになる。ルートは、博士に算数の宿題を教えてもらったり、3人で食事をしたり。
私とルートの親子も、ルートが生まれてきてからずっと母子家庭だったこともあって、祖父のような父のような博士を慕って、博士を落胆させることの無いように気を使う。博士も、その日、その日私達母子に、さりげない心配りをする。
博士と私とルートがお互いを大切にし、思いやる心遣いが、この小説で作者が一番語ろうとしていることなのではないかと思う。

3人の関係をつなぐのは、お互いのさりげない思いやりに加え、博士の世界の言葉といえる数式・数論と博士とルートがともに応援する阪神タイガースであり、かつての阪神のエース背番号28の江夏豊である。

小川さんが、本作を執筆するにあたって取材をした数学者の藤原正彦さんが文庫版の解説を書いているが、これが軽妙洒脱にして、あたたかいまなざしで書かれており、必読である。

映画では、博士を寺尾聰、私を深津絵里が演じている。この週末にDVDを借りて見てみようと思う。

小川洋子さんも、佐藤多佳子さん、上橋菜穂子さんと同じ1962年生まれである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 5日 (火)

上橋菜穂子著『闇の守り人』を読み終わる

昨日のブログに書いた『精霊の守り人』に続く、『闇の守り人』(上橋菜穂子著)を読み終わった。昨日も書いた通り、まだ文庫化されていないので、今回読んだのは、偕成社の軽装版である。

闇の守り人 (軽装版偕成社ポッシュ)

前作『精霊の守り人』に勝るとも劣らない出来映えで、読み始めると一気に引き込まれる。

前作『精霊の守り人』での、新ヨゴ皇国の皇子チャグムを守る旅を終えた女用心棒のバルサは、新ヨゴ皇国の北にあるカンバル王国の出身だ。
カンバル王国のナグル王の主治医だった父カルナは、王の弟ログサムが企てた兄ナグルの暗殺に心ならずも加担することになる。しかし、いずれ自分もログサムに殺されることを察知していたカルナは、自分の幼い娘バルサの命だけは助けたいと、親友でカンバル国一の武人で短槍の使い手であるジグロに娘を託す。
ジグロは、バルサを連れて逃亡の旅に出る。カンバル国から次々と送り込まれる刺客。ジグロは、自分たちの刺客として送り込まれたかつての盟友8人を倒し、バルサを育てながら旅を続けるが最後は病に倒れる。
ジグロから短槍を仕込まれたバルサは、養父ジグロが8人の仲間を殺した罪を償うため、8人の命を守るという誓いをたてて旅を続けるが、30才の時、『精霊の守り人』の事件に遭遇する。
生まれ故郷であるカンバル王国では、父カナルに兄である前王を殺させ、王位を奪い、バルサの父をを殺したログサムが亡くなり、バルサが命を狙われる理由もなくなった。前作は、バルサがカンバルに旅立つところで終わる。

カンバルに向かう際に、バルサは両国を隔てる青霧山脈の青霧峠越えをせず、25年前養父ジグロがバルサを連れて逃亡する時に通った、迷路のような洞窟を通ってカンバルに戻ろうとする。
そこで、子どもの悲鳴を聞き駆けつけるバルサ。幼い兄と妹がヒョウル「闇の守り人」に襲われていた。短槍を取り出し、子どもを助けるバルサ、ヒョウルはまるで自分に短槍を教えたジグロのような短槍使いだった。

洞窟でヒョウル「闇の守り人」したバルサは、助けた2人の子どもを連れカンバル王国に入る。そこで耳にした裏切り者ジグロの話は、真実とはかけ離れた内容だった。そして、自分が逃亡せざるをえなくなったログサムによる王位簒奪事件の背景には、さらに深い陰謀が隠されていた…。

この『闇の守り人』は、心ならずも女用心棒として生きることになり、胸中に深い恨みを抱くバルサが、自分の運命とどう向き合い、それをどう受け入れ、折り合いをつけていくのかという物語だ。作者によるあとがきでは、シリーズの中で大人の読者から最も支持されているのが、この『闇の守り人』だそうだ。(一方、子どもの人気が高いのは『精霊の守り人』とのこと)

バルサほど過酷な運命ではなくとも、我々は大なり小なり、自分ではどうしようもない定めのようなものに巻き込まれてしまうことがある。しかし、それを嘆いてばかりいてもはじまらない。

作者上橋菜穂子さんはあとがきで次のように書いている。

大人の読者が『闇の守り人』を愛する理由として、バルサの心の葛藤とその結末をあげてくださっているように、それぞれの人生の<時>のなかで、心に響くものはちがうのでしょう。
(偕成社軽装版ポッシュ『闇の守り人』369ページ)

「ファンタジーなんて…」と言わずに、大人に読んでほしい作品だ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年6月 4日 (月)

上橋菜穂子著『精霊の守り人』を読み終わる

『狐笛のかなた』に続き、新潮文庫から4月に発売されたばかりの上橋菜穂子さんの『精霊の守り人』を読んだ。

精霊の守り人 (新潮文庫 う 18-2)

この作品はNHK-BS2でテレビアニメ化され、2007年4月から放送が開始されているということで、新潮文庫の他、書店の児童書のコーナーでも偕成社の守り人・旅人シリーズ全10作のハードカバーの単行本、2冊の軽装版などを揃えてキャンペーンが行われている。

内容はいわゆる異世界ファンタジーで、物語の舞台である新ヨゴ国を通りかかった女用心棒のバルサが、川に落ちた第二皇子チャグムを助けたところから物語は始まる。
ある理由から命を狙われているらしいチャグムを助けるため、チャグムの母である二ノ妃からチャグムを連れて逃げるように頼まれるバルサ。
バルサとチャグムの逃避行が始まるが、追っ手もすぐ後ろに迫っている。しかし、チャグムが本当に逃れなければならない相手は、追っ手でなく、もっととてつもなく恐ろしい相手だった…。

手に汗握る物語で、話の展開とともに少しずつ歴史の真実と恐るべき敵の姿が明らかになっていく。

作者の上橋菜穂子さんは「文庫版あとがき」で次のように語る。

大人の読者の中には、「なぜ児童文学として書いたのですか?」という質問をされる方が、よくいらっしゃいます。(中略)その答えは、「子どもが読んでも、大人が読んでも面白い物語が書きたい」からなのです。(中略)
ある意味、とても素朴で、古くから人々が語ってきた「語り物」の骨格を持つがゆえに、子どもでも楽しめる物語。それでいて、大人が読んだときには、大人であるがゆえの発見があって楽しめる物語-そういうものを書きたいと願い、私はいまも、その夢を追いかけています。
(新潮文庫版『精霊の守り人』344~346ページ)

作者は、単なる子ども向けの児童文学としてこの作品を書いたわけではなく、大人にも通用するレベルを意識して書いたということであり、読み応えがある。

一方、皇子チャグムにスポットを当ててみると、高貴な血筋な者が不運な境遇に見舞われながらも、さすらいの旅の中で数々の危機を乗り越えて成長していくという、昔話やファンタジーの一つの類型である「貴種流離譚にもなっている。

バルサとチャグムを軸にした、このシリーズは10冊に及ぶ。文庫化されたのは、この『精霊の守り人』1冊だけ。
第2巻にあたる『闇の守り人』は偕成社の軽装版を買ったが、この軽装版もまだ『精霊の守り人』と『闇の守り人』しか出ていない。さすがに、児童書として出されたハードカバーを買うのは、我が家の収納スペースの関係からちと辛い。
はて、どうやって残り8冊を読もうか、物語の展開とはまったく関係のないところで、頭を悩ませている。

| | コメント (4) | トラックバック (4)

2007年6月 3日 (日)

佐藤多佳子さんの作品に共通するもの

昨日、あるサイトから私が書いていた佐藤多佳子さんの作品に関する記事のトラックバックがあったので、訪ねてみると、佐藤多佳子さんに関するブログに記事ばかりを集めたリンク集で、その中に私の記事も取り上げているとのことで、トラックバックがあったようだ。
そのリンクをつぶさにみていくと、なんと佐藤多佳子さんご本人が書いているブログが見つかった。高名な作家がブログなど書くわけないと思いこみ、検索したこともなかった。あたらめて、「佐藤多佳子」で検索をしてみると、ホームページも作られていて最新情報などが書かれている。

ホームページ:佐藤多佳子の連絡板
ブログ:日記のようなもの

ブログを読むと、今日(2007年6月3日)と6月9日のテレビに出るとのこと。今日は、朝7時からフジテレビの「ぼくらの時代」というトーク番組にあさのあつこさん、森絵都さんの3人で出演するとのことで、ビデオの録画予約をした上で、朝起きて見た。

番組の中で、なぜ陸上をリレーを描いたのかという問いについて、佐藤さんは「スポーツが好きで、スポーツを描いたコミックも好きで、自分が感動したコミックのような話を書きたいと思った。サッカーも見るのは好きだが、(両チームあわせて)22人を文章だけで表現するのは難しい。リレーなら4人なので掘り下げて表現できると思ったし、バトンをつないでいくので、コミュニケーションもあるので」という趣旨の話をしていた。

昨日見た佐藤さんが原作者である映画『しゃべれどもしゃべれども』もコミュニケーションがテーマだ。
映画の公式サイトには主要な出演者のコメントも出ているのだが、コミュニケーションという切口から興味あるものが2つある。

松前豊(元プロ野球選手湯河原太一役)
最初、出演者はみんな人見知りでしたが、撮影中にだんだん仲良くなり、最後には4人で机を囲んでいるだけで楽しい豊かな関係が作れました。まるで映画と同じように。

国分太一(今昔亭三つ葉役)
この作品は一人一人の感情がゆっくりと変わっていって、みんないい方向に進む優しい映画です。

改めて、映画を見終わり、今朝のテレビでの佐藤さんのコメントを聴きながら、読み終えた佐藤作品を振り返ってみると、どの作品にも共通することがあることに気がついた。

普通、小説の主人公は一人で、主人公を中心に物語世界も、ストーリーも作られることが多いのだが、佐藤作品は必ず、2人以上の主役級の人物が登場する。
『一瞬の風になれ』では新二と連、『しゃべれどもしゃべれども』では三つ葉と五月、『サマータイム』では進と姉の佳奈、2人にとってともに大切な広一、『黄色い目の魚』では木島悟と村田みのり、『神様がくれた指』ではすりのマッキーこと辻牧夫とタロット占い師の昼間薫、『スローモーション』でも柿本千佐と兄一平と及川周子。
そして、その2人ないし3人の間でのコミュニケーションというものが、いつも作品の中でのテーマになっている。
コミュニケーションといった時、それは、必ずしも喋ることだけではない、『サマータイム』ではピアノが奏でる音楽が、『黄色い目の魚』では、悟が描く絵やデッサンが言葉以上に気持ちを伝えることがある。
それぞれの主要な人物達が、種々のコミュニケーションを通じて、お互いに影響を与えあい、少しずつ変化をしていく。
佐藤作品の繊細さは、その人と人がコミュニケーションを通じて変わっていく様を丹念に描くことによって、表現されているように思う。

このブログの佐藤多佳子さん関連の記事はこちら→アーカイブ:本屋大賞作家佐藤多佳子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 1日 (金)

上橋菜穂子著『狐笛のかなた』を読み終わる

佐藤多佳子さんの作品が一段落したので、ファンタジー作家として、最近にわかに注目を浴びている上橋菜穂子さんの作品を読み始めた。最初に手にしたのは新潮文庫の『狐笛のかなた』。

狐笛のかなた (新潮文庫)

日本の室町時代あたりを下敷きにしたと想われる時代ものファンタジーである。
主人公の少女小夜は、森の中で傷ついた一匹の小狐を助ける。そして、森の中の小屋に閉じ込められている小春丸という少年と会う。

全ての謎を暗示する小夜の少女時代から説き起こされた話は、成長し乙女となった小夜に続いていく。不思議な力を持つ小夜は、それ故に事件に巻き込まれていく。

作者の上橋菜穂子さんは、佐藤多佳子さんと同じ1962生まれ。この年は児童文学の当たり年のようだ。
もう少し上橋作品を読んでみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月30日 (水)

増田直紀著『私たちはどうつながっているのか』を読み終わる

中公新書の4月の新刊のうちの1冊増田直紀著『私たちはどうつながっているのか』を読み終わった。サブタイトルが「ネットワークの科学を応用する」とあり、人と人との結びつきについて、ネットワーク科学の考え方を下敷きにして解き明かそうとするものである。

著者の増田直紀さんは1976年生まれ。東京大学工学部、同大学院と進み、現在は東大の大学院の講師をしている。専門は複雑ネットワークと脳の理論とのこと。

ネットワーク科学なる学問領域は1990年代後半以降、急速に発展・進化したようで、その背景にはインターネットの急速な普及があり、その研究の中で、ネットワーク論というものが、単にコンピュータのネットワークだけでなく、人間関係を考える上でも役にたつということで、著者はまえがきで「人間がなすネットワークを知り、活用することについて考えていく。期待と不安をかき立てるこの単語を生活に糧に変えるのが、本書の目的である。」と語っている。

例えば、「6次の隔たり」ということが紹介されている。私たちはまったく赤の他人とも、自分の友人・知人、その友人・知人と紹介してもらうことによって、平均6人程度で目的の人までたどりつくということが、実験の結果、出ているとのこと。100人、1000人と経なくても、せいぜい5から10人程度を介せば、世界中の人とつながっているということを称して「スモール・ワールド」という。

また、人間のつながりの一つの単位として三人がそれぞれ知り合いであるという人間関係の三角形を「クラスター」といい、いわば自分の属する集団、コミュニティの最小単位と考えている。

私自身の理解力が十分ではないので、本書のエッセンスを上手くここで要約できないのがもどかしいが、最新の理論をイラストや図・グラフ、そして平易な言葉使いで、誰にでもわかるように語ろうしている。

これまで、特に意識せずに集団や組織の中で行動してきたことをこうやって整理すれば、よくわかるという新しい物差し、物を見る視点を与えてくれる。一読の価値があると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月29日 (火)

佐藤多佳子著『スローモーション』を読んだ

本屋大賞作家の佐藤多佳子さんの初期の作品『スローモーション』(ジャイブ株式会社、ピュアフル文庫)について書こうと思う。

読み終わったのは、一昨日の27日(日)だったのだが、一昨日は映画「クィーン」の話、昨日は坂井泉水さんの突然の訃報があったので、今日改めて書く。

作品の系譜としては、デビュー作の『サマータイム』と悟とみのりの2人の高校生の交流を描いた『黄色い目の魚』の間に位置する作品である。

主人公は女子高生の柿本千佐。父親は小学校の教師、母は後妻。先妻が生んだニイちゃん(兄、一平)の4人家族。暴走族だった兄は、バイクの事故で足を骨折。今は、ニートのような何もしない生活をしている。兄一平は、両親にとっても、千佐にとっても厄介者である。
千佐は学校では、集団で行動する同級生になじめない。同級生の中で、何をやるにも遅くてのろまで、クラスの中で孤立し無視されている及川周子。父親が犯罪者という噂もある。しかし、どこか自立しているようにも見える周子は、千佐にとって気になる存在だが、周子と口を聞いたりすれば、自分もクラスの最下層に落ちるだけと、深く付き合うこともない。

この物語は、千佐と兄の一平、周子の3人を軸に展開していく。私なりにテーマを考えれば、「自分らしい生き方とは何か」ということだと思う。
そして、この思いは、『黄色い目の魚』の主人公のひとり村田みのりに引き継がれていく。

解説は、『空色勾玉』などを書いている同世代のファンタジー作家荻原規子さんが書いているが、次のように佐藤多佳子さんの姿勢を評している。

千佐は何事も決めつけることがない。
そして、相反する事態や自分の感情をきちんと感じとり、そのことにとても正直だ。兄を慕う気持ちも、うとむ気持ちも、周子を気づかう気持ちも、嫉妬する気持ちもぜんぶひっくるめて持っている。それらのすべてに、じれてとんがっているし、繊細でやさしくもある。
佐藤多佳子の作品が一番に提示するものは、この、対象をきめつけずにしなやかなに見つめるまなざしなのだと思った。
それは、「大人」が持つことのないまなざしだ。ものの輪郭に、よく知っているからといって安直に線を引かない。もう一度見つめなおして、自分に納得できるものだけを、コンマ数ミリ違う場所に引こうとする。
その努力をおこたらないから、彼女がつむぎだした言葉はこれほどみずみずしいのだろう。
(『スローモーション』177~178ページ)

柿本千佐、村田みのりと続く、なかなか家族や同級生となじめず、少しとんがっている女子高生の姿というのは、青春時代の佐藤さんの内面を取り出して見せたものなのかも知れないと思った。

新潮文庫から出ている4冊の佐藤作品は、現在、ある程度大きな書店なら置いてあると思うが、この『スローモーション』は、たまたまある書店で見つけたが、ほとんどのところでは置いていない。読んでみようと思う方は、見つけた時に買っておくのをお勧めする。
これで、買いためた佐藤多佳子作品5冊は読み終わったので、次は、これもTBSの「王様のブランチ」で話題になった佐藤多佳子さんと同い年でもある上橋菜穂子さんのファンタジーを何冊か読んでみようと思う。

このブログの佐藤多佳子さん関連の記事はこちら→アーカイブ:本屋大賞作家佐藤多佳子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月26日 (土)

佐藤多佳子著『サマータイム』を読み終わる

佐藤多佳子さんの『サマータイム』(新潮文庫)を読み終わった。この作品は、1989年のMOE童話大賞を受賞した佐藤さんのデビュー作である。

サマータイム (新潮文庫)

この1冊の中に表題作の「サマータイム」「五月の道しるべ」「九月の雨」「ホワイト・ピアノ」の4つの短編が収められている。当初は、前の2作が『サマータイム』、後ろ2作が『九月の雨』のタイトルで出版され、それぞれ「四季のピアニストたち 上・下」というサブタイトルがつけられていた。

サブタイトルが示すようにこの作品では、ピアノが常に登場し、主要な登場人物はみなピアノを弾き、奏でる。
主人公といえる進、姉の佳奈、そして2人にとってそれぞれ重要な存在である広一。広一の母友子。

ある年の8月、小学5年生の進は台風が近づく中、市民プールに出かける。雨が降り出しそうな空の下、人がまばらになったプールで泳ぎ出す進。とうとう雨粒が、プールに水面を叩き始めた時、進は自分と同じように雨の中泳いでいる少年を見つける。進の方に泳いできた彼、広一は左腕がなく、右手だけで泳いでいた。これが、進と広一の最初の出会いである。
雨がひどくなりプールを追い出された2人。広一が進を自分の家に誘い、そこで進は広一が右手だけで弾くジャズの名曲「サマータイム」を聴き、その音色に魅せられる。
3日後、濡れた服の代わりに借りた広一の服を返しに行った広一の家で、進は広一の母でジャズピアニストの友子にあう。熱を出して肺炎で入院した広一の見舞いに2人で行くことになり、その途中、姉の佳奈に会い、3人で広一の病院に行くことになった。病室で佳奈と広一も出会う。

こうして、片手でピアノを弾く広一、ピアノを習っているが決して好きではない佳奈、広一の「サマータイム」を聴いてピアノを習い始める進、仕事としてピアノを弾く広一の母友子の四人のピアニスト達の物語が始まる。

メインストリーは、「サマータイム」だが、サイドストリーといえる他の3編もそれぞれに味がある。
「五月のみちしるべ」では佳奈の目から見た幼い頃の佳奈と進が語られ、「九月の雨」では引っ越して進・佳奈の2人と別れた後の広一と友子の母子が広一の目から語られる。「ホワイト・ピアノ」では、広一が引っ越して去ったあとの佳奈の思いが語られる。
その3編が春秋冬と描き分けられ、読み終わった夏の話の第1話の「サマータイム」に連なり、「サマータイム」をより深みのある物語にしていく。

思春期・青春時代のつかめそうでつかみきれない自分の気持ち、心象風景を掬い取るように描いて、読み終わったあとも余韻が残る作品である。20年近く前のデビュー時点で、これだけ繊細な物語を描いていた佐藤多佳子さんという作家の力に驚くばかりだ。
そして、これまで、佐藤作品を知る機会がなかったことを残念に思うとともに、出会うきっかけを作ってくれた『一瞬の風になれ』に感謝したい。

このブログの佐藤多佳子さん関連の記事はこちら→アーカイブ:本屋大賞作家佐藤多佳子

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年5月24日 (木)

佐藤多佳子著『神様がくれた指』を読み終わる

昨日、佐藤多佳子さんの長編『神様がくれた指』(新潮文庫)を読み終わった。佐藤作品を『一瞬の風になれ』『しゃべれどもしゃべれども』『黄色い目の魚』を読み継いできて、4作目である。

神様がくれた指 (新潮文庫)

この作品は、これまでの読んだ3作とは趣を異にする。これまで読んだものの共通項が「青春」、「すがすがしい」であったのに対し、この作品の主人公マッキーこと辻牧夫はプロのスリである。

スリの現行犯で逮捕され、1年2ヵ月の刑務所暮らしを終えて出所するところから、話は始まる。
彼の育ての親とも言える早田のお母ちゃんが出迎えに来ている。2人で、西武新宿線の南大塚から早田家がある川崎大師まで帰る西武線の車内、辻の目の前で、男女4人の若者のスリ集団に早田のお母ちゃんが財布をすられる。辻は、最後の財布を受け取った若い男を追い詰めるが、西武新宿の駅の改札を出たところで、不意に投げ飛ばされる。男には逃げられ、自分は肩を激しく打ち脱臼してしまう。
その場に通りかかり、辻を助けたのが、タロット占い師「赤坂の姫」マルチュラこと昼間薫。一見、女性に見えるが実は男性という昼間は、美人で優秀な弁護士の姉がいて、かつては自分も司法試験に挑んでいたが、どこで道を間違えたのか、性別不詳の占い師となった。
昼間に助けられたことが縁で、このアウトローな2人が、昼間が赤坂で借りている仕事場兼住居の壊れそうな洋館で奇妙な共同生活を始める。
自分の目の前でスリをやってのけた若者達を見つけ出そうと探し回る辻。占い師昼間の元には、彼に悩みを聞いて欲しい様々な客が訪れる。やがて、全く関係のなかったはずの2人の生活がクロスすることになる…。

私もそうだったが、他の佐藤作品のキーワードである「青春」や「すがすがしさ」を期待して読んでいると、最後までそのキーワードは出て来ない。この作品はこの作品として、先入観なしに楽しむのがいいだろう。

個人的には、マッキーこと辻牧夫が生業とするスリの仕事(?)ぶりに関心を持った。マッキーは、電車・列車でのスリを専門にする「箱師」なのだが、その箱師の手口が次々と紹介される。
いかに巧に、背広の内ポケットやバックの中から財布を抜き取るか。そして、財布から現金だけを抜き、残った財布は足が着かないように、指紋を拭き取ってゴミ箱などに捨ててしまうらしい。

私は30代後半の約5年間北陸の富山勤務で、毎週のように金沢に出張していた。富山-金沢間は当時JRの特急雷鳥で約40分ほど。朝8時台に富山を出発し、9時から金沢で取引先を回る。1日、金沢を回って夕方富山に帰るというスケジュールだった。
ある時、金沢へ行く電車だったと思うが、財布をなくしたことがあった。どこで落としたのか、まったく心当たりはない。それでも念のため、金沢駅で遺失物届だけは出しておいたら、しばらくして、財布が見つかったとの連絡があった。電車の中のゴミ箱に捨ててあったとのことだった。現金はなくなっていたが、キャシュカードやクレジットカードは無事で、不幸中の幸いと安堵したことを思い出す。
この小説を読んで、あの時の一件はなくしたのではなく、マッキーのようなプロの箱師にやられたのだと合点がいった。
特急雷鳥は富山-大阪間を走る特急である。富山-金沢-福井-京都-大阪と走る。おそらく、大阪から富山まで通しで乗る乗客は少ないはずだ。客がどんどん入れ替わってくれ、被害に気がついても戻るわけにもいかない長距離の特急列車は箱師にとっては格好に仕事場だろう。
当時そんなことに全く無防備で無頓着だった自分が、よく一度の被害ですんだものだと今になって思う。

話が少々本題からはずれてしまったかもしれないが、スリと占い師というアウトローな2人の小説として読めば、十分楽しめる作品である。

このブログの佐藤多佳子さん関連の記事はこちら→アーカイブ:本屋大賞作家佐藤多佳子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月22日 (火)

梅田望夫・茂木健一郎著『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を読み終わる

『フューチャリスト宣言』をようやく読み終わった。先々週の週末にはあらかた読み終わっていたのだが、その後、本がどこかに紛れてしまって暫く行方不明になっていたのを、探し出して読み終えた。

前回の読み始めの時の記事では、「はじめに」に茂木健一郎さんが書いている文章から一部引用して紹介したが、今回は「おわりに」の冒頭に梅田望夫さんが書いている文章が、この本の底流をなす思いを簡潔に述べていると思うので、紹介しておきたい。未来を語るフューチャリストへの強い志向性をお互いの共通点として発見したと紹介した上で、次のように語る。

では私たちは、何のために未来を見たいと思うのか。
「自分たちはいま何をすべきなのか」ということを毎日必死で考えているから、そのために未来を見たいと希求するのである。
私たちはいま、時代の大きな変わり目を生きている。それは、同時代の権威に認められるからという理由だけで何かをしても、未来から見て全くナンセンスなことに時間を費やして一生を終えるリスクを負っているということだ。
同時代の常識を鵜呑みにせず、冷徹で客観的な「未来を見る目」を持って未来像を描き、その未来像を信じて果敢に行動することが、未来から無視されないためには必要不可欠なのである。
(『フューチャリスト宣言』207ページ)

未来の変化の方向を予測し、その上で現在の自分が何をすべきか考える。2人の対談での未来は遠く22~23世紀あたりまでを見据えているが、それは、これからの5年、10年を考える上でも変わらない物差しのように思う。
以前も書いたかも知れないが、5年前、10年前と比較して現在までの変化の度合いを考えれば、これから5年後、10年後もこれまでの変化と同じ程度に変化しても驚くには当たらない。

いまや携帯電話は、生活のなくてはならない必需品だが、10年前は、まだPHSも存在し、携帯電話のサービス会社は地域ごとにサービスを行っていた。パソコンによるインターネット接続も、電話回線を通じたダイヤル・アップ接続が主体であった。
TV放送までもが携帯電話で見ることが出来るようになると、10年前、一般人の何人が予測しただろうか。

それでありながら、同時代の常識に縛られて、あるいはそれにすがって生きている人が多いように思う。技術が進歩すれば、確実に生活環境が変わり、常識も変化する。廃れる産業がある一方、急成長する産業もある。なぜ、現在の常識を疑い、自分なりに未来を予測しないにだろうかと、あまのじゃくでへそ曲がりの私はいつも考えてしまう。

私たちの世代は、同時代の常識で生きても大した痛痒も感じないだろうが、私たちの子どもの世代には、間違いなく時代は変わり、常識も変わる。現在の常識など役に立たないだろう。
ならば、自ら時代の変化を読み取れる眼力と、それに適応できる柔軟性を身につけさせるしかない。
大人の安心のためでなく、子どもの未来のために、我々の世代が「フューチャリスト」にならなければならないのだろう。

本書では、巻末に梅田さんと茂木さんがそれぞれ中学生と大学生を相手にして語った講演録が付属しているが、暗にそのようなメッセージがこめられているのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月19日 (土)

佐藤多佳子著『黄色い目の魚』を読み終わる

先日の『しゃべれどもしゃべれども』に続いて、新潮文庫の佐藤多佳子さんの『黄色い目の魚』を読んだ。

黄色い目の魚 (新潮文庫)

幼い時に両親が離婚し母と妹と暮らす木島悟、両親と姉と暮らしながら家族となじめない村田みのり。
悟は一度だけ父テッセイと会い、絵に埋もれて暮らす父を通じて絵を描くことを知る。みのりも、自分の家にいるよりイラストレーターの叔父の通(とおる)と一緒にいる方が好きな少女である。絵を見る眼力を持っている。

全く、別の場所で育った悟とみのりの2人は、湘南の同じ高校のクラスメートとになる。友達の嫌なところをノート落書きする木島に憤慨するみのり。それが2人の最初の会話である。そして、偶然、美術の時間に、悟がみのりのデッサンをすることになる。

自分の生き方に戸惑う2人は、うまく自分の気持ちを表現できないが、悟が絵を描きみのりが見るという形で、交流していく。
文庫本の裏表紙では、そのあたりの2人の関係を「友情でもなく恋愛でもない、名づけようのない真直ぐな思いが、二人の間に生まれて―。」と表現している。
2人の「ピュア」な心が、いろいろな出来事を経て、少しずつ近づいていく様子が、なんとももどかしいが、好ましい。
どうして、佐藤多佳子さんという作家は、こんなに壊れそうなガラス細工のような青春というものを、丹念に描くことができるのだろうか。

解説を書いている角田光代さんが次のように書いている。

叶えられないのを承知の願いだけれど、もしできるならば、私はこの本を、高校生の私に手渡してあげたい。(中略)高校生の時の私が、まさにだれかに教えてほしかったことを、だれかと話したかったことを、この小説は正しく伝え正しく聞いてくれるに違いない。
(新潮文庫『黄色い目の魚』454ページ)

自分の高校時代にこんな素晴らしい小説に出会えていたら、きっと、今よりも、もっともっと感動しただろうに、という思いは角田さんと同じである。
自分の3人の子どもたちにぜひ読んでほしいと思うし、高校生を持つ親にも読んでほしい。

このブログの佐藤多佳子さん関連の記事はこちら→アーカイブ:本屋大賞作家佐藤多佳子

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月11日 (金)

梅田望夫・茂木健一郎著『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を読み始める

ちくま新書の5月の新刊のうちの1冊が、『ウェブ進化論』の著者梅田望夫さん(1960年生まれ)と脳科学者で現在NHKの番組「プロフェッショナル」の司会をしている茂木健一郎さん(1962年生まれ)の対談をまとめた『フューチャリスト宣言』である。

フューチャリスト宣言

フューチャリスト(=futurist)とは、未来を考える未来学者という意味。インターネット、ウェブ2.0などで変わる未来について、2人が存分に語る。

茂木氏の「はじめに」でのコメントが、この本でのフューチャリストの意味を端的に語っていると思うので、紹介しておきたい。

梅田さんの持つ素晴らしい資質は、「楽天的であるということは一つの意志であるとでも表現できるような決意と世界観である。インターネットという新しいメディアに関して現時点で人々が抱いているイメージは必ずしも明るいものであるとは限らない。流通している情報の質が悪いというだけでなく、誰も管理しないネットという場は誹謗中傷や犯罪の温床になるといった、きわめてネガティブな印象を持つ人もいる。
しかし、梅田さんが常々言われているように、「未来に明るさを託す」ということは、単なる現状の認識に発することではなく、むしろそのような世界を創り出すという意志に基づく行為である。インターネットは、物理的な距離や言葉、文化、社会的な階層といった障壁を乗り越えて世界の人々を結びつける大変なポテンシャルを持っている。
(中略)
私たちがいまインターネットに託している明るい未来像も、必ずそのまま実現されるとは限らない。実際に起こることは、私たちがいま予想できることとは似ても似つかないものになるかもしれない。いや、きっと異なるものになるだろう。しかし、だからと言って、予想すること、志向すること、そして夢の実現のために疾走することを忘れてはいけない。
未来は予想するものではなく、創り出すものである。未来に明るさを託すということは、すなわち、私たち人間自身を信頼するということである。
(『フューチャリスト宣言』13~15ページ)

 インターネットの中に、明るい未来の萌芽を見出し、それを大きな花に育てるべく、自ら行動するということであろう。

2人がインターネット、ウェブ2.0、ブログなどについて語るが、共感する部分も多い。梅田さんと同じ1960年生まれであり、同世代であること、また、2人とも自分のブログを書いていることも、程度の差は当然あるものの、そこでの悩みは、私も感じたことがあるものである。
半分ほど読み終わったところ。週末に読み終えたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 9日 (水)

佐藤多佳子著『しゃべれどもしゃべれども』を読み終わる

『一瞬の風になれ』が2007年の本屋大賞を受賞したことで、書店に行くと同書以外にも佐藤多佳子さんの作品が並べられるようになった。面白そうなものを、何冊か買い込む。

しゃべれどもしゃべれども

そのうちの1冊が『しゃべれどもしゃべれども』(新潮文庫)である。
若いの落語家の今昔亭三つ葉が、主人公。ひょんなことから、人前で喋ることが苦手ないとこの綾丸良、黒猫とあだ名される美女十河五月、学校でいじめられているという小学生村林優、元プロ野球選手の湯河原太一の4人に落語を教える事になる。
5人が織りなす様々な悲喜こもごもの人間模様。しかし、それは哀しいこともあるが、いつもどこかさわやかで、すがすがしい。このすがすがしさこそが、佐藤多佳子という作家の持ち味なのだろう。

この作品のテーマは「自信」である。話のちょうど、真ん中あたりで、主人公の三つ葉が自信について考えるところがある。

自信って、一体何なんだろうな。
自分の能力が評価される、自分の人柄が愛される、自分の立場が誇れる--そういうことだが、それより、自分を”良し”と納得することかも知れない。”良し”の度が過ぎると、ナルシシズムに陥り、”良し”が足りないとコンプレックスにさいなまれる。だが、そんな適量に配合された人間がいるわけがなく、たいていはうぬぼれたり、いじけたり、ぎくしゃくとみっともなく日々を生きている。
(佐藤多佳子著『じゃべれどもしゃべれども』新潮文庫、220ページ)

自分を振り返っても、ナルシシズムとコンプレックスの間を行ったり来たりの繰り返しである。
そもそも、ブログに好き勝手ことを書いて、アクセスが増えたといってよろこんでいること自体、ナルシシズムそのものではないかと思うことがある。

佐藤多佳子さんの良さは、欠点や多くの弱さを持つ登場人物に対しても、いつも眼差しが優しいところだ。悪意を抱いた登場人物はいない。

この小説は、出版当時、「本の雑誌が選ぶ年間ベストテン」第1位に選ばれた作品とのこと。
TOKIOの国分太一の主演で映画化され、2007年5月26日から全国で公開される。見てみようかと思っている。

映画についてのブログはこちら
2007年6月9日:佐藤多佳子原作、映画『しゃべれどもしゃべれども』を見た

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2007年4月28日 (土)

佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その3

2007年の本屋大賞を受賞して佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』は、これまで以上に注目を浴びているが、作者である佐藤さんが、作品について語る機会も増えている。このブログでも、2回にわたる朝日新聞でのインタビューの一部を紹介したが、昨日、仕事の帰りの寄った書店で『本の雑誌』の増刊「本屋大賞2007」の中でも、大賞作品の作者として3ページにわたるインタビュー記事が掲載されていた。

大筋では、これまで2回の記事と変わるところはないのだが、インタビュー量が多い分、このあたりをもう少し詳しく知りたかったというところを詳しく語ってくれている。

なぜ、題材として数あるスポーツの中から陸上それもリレーを選んだのかについては、

数あるスポーツの中から陸上競技の短距離をモチーフにしたのは、リレーに惹かれたからです。スポーツの部活や趣味とは縁がなかった私ですが、小中学校の運動会では走って人に負けたことがなく、いつもリレーの選手でした。リレー独特のあの高揚感と、人より速く走れることの気持ち良さは、運動会レベルでは体験していました。4人という数字も、物語には向いていて、スピーディーな400mリレーなら、面白いスポーツ・ドラマが作れそうな気がしました。
(「本の雑誌」増刊『本屋大賞2007』5ページ)

どのような形で作品ができあがっていったかについては、

リアリティーのないものを書くのは絶対にイヤでした。取材でどこまで補えるかが勝負だったのですが、幸運にも作品のイメージにぴったりの気持ちのいい陸上部と、とことんまで付き合って下さった素晴らしい指導者の方と出会えました。
4年間、練習や試合に何度も足を運び、何人もの部員さんに時間をかけてインタビューしました。(中略)私はもともと取材好きで時間をかけて資料を集めたり読んだりするのですが、これだけ、「生」の濃い取材をしたのは初めてです。
そのまま書いてもすごいドラマになるようなエピソードがいくつもありました。(中絡)この取材でえたものがあまりに大きかったので、自分が受けた感動をできるだけ、そのまま物語に移せるように、徹底的にシンプルな構造のドラマ作りをしました。
(「本の雑誌」増刊『本屋大賞2007』5~6ページ)

と語っている。
作者自身のリアリティーへのこだわりによって、膨大なインタビューと取材が行われ、その中から、佐藤多佳子という繊細な感性によって濾過されて残ったエッセンスが、『一瞬の風になれ』という作品に結晶したということだろう。

このブログのその2の記事でも書いたように、その結果1冊の予定が3分冊の大作となる。

結果的に、1300枚の長きにわたり、少年少女がひたすら走りまくっている物語が出来上がり、そういうものが書きたかったにもかかわらず、いったいどんな人がおもしろがって読んでくれるのだろうという不安に襲われました。(中略)それでも、自分にできることはすべてやったという、諦めにも似た満足感はありました。これまで、スポーツ小説を読んできて、スポーツ・シーン以外のところでドラマが進行するものが多く不満を感じていたので、自分が書く時は、スポーツの中にすべてのドラマを集結しようと決めていたのです。
(「本の雑誌」増刊『本屋大賞2007』6ページ)

作者の「どんな人が読んでくれるのか?」という不安は杞憂に終わったのは、その後の展開が示す通りである。
少年少女がひたすら走る中にすべてのドラマが集結したからこそ、この作品のいのちといえる「リアリティー」に加え、読者も物語の登場人物とともに、あるいはその中の一人となって、トラックを走っているような「躍動感」が生まれたのだろう。

取材に応じた高校生や指導者たちと作者佐藤さんの思いが心の深いところで共振し、結びついて、そこに、単なるスポーツ小説の枠を超えた、若者がどうやって壁を乗り越え成長していくかという青春小説、青春のバイブルが生まれたのだと思う。
多くの読者を引きつけるのは、陸上・短距離・リレーという舞台を借りて、誰もが一度は通る青春というものを、見事に描ききったからではないだろうか。青春のさなかにいる若者にとっては、それは現在進行形での自分の物語である。かつて若者だった我々のような世代の人間にとっても、青春とは、年齢とともに、常にその意味を問い直すものだから…。

*関連記事
1月25日:陸上部の青春を描く『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(1)イチニツク
1月28日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(2)ヨウイ
1月31日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(3)ドン
4月7日:2007年本屋大賞、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)に決定
4月8日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏
4月26日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その2
4月28日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月26日 (木)

佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その2

昨日(2007年4月25日)の朝日新聞の朝刊の別刷で「be Extra Books」という読書特集があって、今年の本屋大賞について特集されていた。
本屋大賞の1位から10位までの作品について紹介され、1位から5位までは推薦した書店員の3人の推薦文が載せられている。
更に、1位となり大賞に輝いた『一瞬の風になれ』については、作者の佐藤多佳子さんのインタビューが顔写真入りで掲載されていた。このブログでも取り上げた同じ朝日新聞夕刊の受賞時のインタビューと同じ時のものか、改めてインタビューしたのかは、わからないが、前回の記事には書かれていなかったことがいくつか紹介されているので、このブログでも続編として紹介することにする。(以下、引用は2007年4月25日朝日新聞朝刊「be Extra Books」6ページより)

まず、なぜ陸上を、リレーを取り上げたかについて語っている部分がある。

「私自身は文化系ですが、試合観戦やスポーツ漫画が好きで、作家になった時からいつかはスポーツものを書こうと思っていました。いろいろ考えた中、4人の選手がバトンをつないでいくというリレーが面白そうだったんです」(佐藤多佳子)

記事ではさらにその後について次のように続く。

知識がなかったため、構想は白紙のまま高校の陸上部を見学。4年もの歳月をかけて丁寧に取材した。(記事)

4年間陸上部を見つつづけた佐藤さんは、語る

「2学年分の生徒を、入学から卒業まで見送ったことになります(笑い)。仕事を忘れるほど面白かったですね。地味な練習を重ね、ストイックな部分があるせいか、まじめで素直な生徒が多い。こんないい世界があるなら、それをそのまま書こう、と。話を作ろうと思えばいくらでも架空の展開を盛り込めますが、それはせず、あくまでも陸上を通して起きるドラマを軸にしました」(佐藤多佳子)

作中で語られる試合や合宿、練習の様子、主人公新二が女子部員にほのかに抱く恋心を封印する姿、どれも自分たちが高校生だった頃、こんなことあったよなと思わせるリアリティがあるのは、下敷きとなる事実があったからだろう。作者である佐藤さんは、それを再構成したに過ぎないのだろう。

また、実際の部員たちの話を聞くうちに、リレー競技を描くという設定にも変化が生じた。(記事)

「ショートスプリンターにとっては、リレーも大事だけれど個人競技の100メートルをいかに早く走るかが課題。そこを書かなければ足りないと分かり、とにかく全部書くことにしました」(佐藤多佳子)

高校で短距離をやる選手にとってリレーメンバーになることは、ひとつの目標だが、そのためには、まず個人のタイムが速くなくては選ばれない。個人種目でどの程度の成績を残したメンバーでリレーが組まれているのかということで、他校はまず品定めをしてくる。リレーで優位に立つためにも、個人種目の100や200で、いい成績を収め、他校のメンバーにプレシャーを与えることにもなる。
『一瞬の風になれ』では、短距離選手にとってのリレーと個人種目の100メートル、200メートルの意味が実によく描きわけられていて、そこもリアリティを感じた大きな要因である。書き足したことによって、作品として完成したものになったと思う。

記事では、出版の事情について、次のように説明する。

一冊にまとめるはずが、かなりの分量に。読み返し、どこを削ればいいかを悩んだ。担当の編集者に相談するとひと言「どこも削らなくていい」。そして、”風になる瞬間”をたっぷり堪能させてくれる、全3巻が出版されることになった。(記事)

全3巻の隅から隅まで堪能した読者としては、「どこも削らなくていい」と言い放ってくれた講談社の編集者に感謝の気持ちで一杯である。

まだ、読まれていない方は、改めて一読を勧めたい。

*関連記事
1月25日:陸上部の青春を描く『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(1)イチニツク
1月28日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(2)ヨウイ
1月31日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(3)ドン
4月7日:2007年本屋大賞、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)に決定
4月8日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏
4月26日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その2
4月28日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その3

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月 9日 (月)

大掃除と本の棚卸をして、ブックオフで俵万智さんの本を買う

我が家では、定期的に蔵書の棚卸をして、持っていてももう読まないだろうという本は、ブックオフに売りに行くことにしている。

3人の子どもが、それぞれ、4月から大学・高校・中学に進学することから、春休みには、新しい学校の入学準備のため机や部屋の整理をさせた。
そうすると、父親である私のパソコンの周りの乱雑さが目立つようになり、昨日(2007年4月8日)の日曜日、一念発起して、自分の部屋の大掃除をした。

不要なものは捨てて、床に掃除機をかけたあとは、本の整理である。最低でも1週間に1回は数冊の本を買っているので、半年もすると50冊ぐらいは本が増えてしまう。
仕事の関係で読む組織論やリーダーシップの本、自分が好きな歴史や心理関係は面白そうな新書。梅田望夫さんが書いた『ウェブ進化論』のようなネット社会の現在と将来について書いたものにも興味があるし、内田樹さんの『下流志向』のような、現在の日本社会あり方を分析したようなものにも、つい手が出る。
さらに、『一瞬の風になれ』のような面白い小説があれば、それはそれで楽しみたいしということで、結果として、買ってはみたものの、後から買った本の方が面白そうなので、そちらが優先され、読まないまま数ヶ月が過ぎて「積読(つんどく)」状態になっているものも多い。

それらの中には、買った時は関心があったけれど、その後興味を失ってしまったもの、その本以外で関心が満たされて優先度がかなり低くなってしまったものもある。
読み終わったものでも、情報としては有益だったが、ものの見方がわかれば、もう手元になくてもいいというものも多い。

家の中の至る所にある居場所の定まらない本をかき集めて、1冊1冊、品定めをしていく。売り物の大部分は既に読み終わってもう1回読むことはないだろうというもの。このブログで取り上げた本の中にも、売ることにしたものもある。読まないままで売ることにしたものも数冊あった。近々、ブログのネタにしたいので、それまでは売らないことにしたものもある。

結局、新書を中心に50冊くらいにはなった。それに、次女が売ることにしたコミックを30冊ほど加え、昨日の夜、ブックオフに持ち込んだ。いつもは、「これは引き取れない」と値が付かない物があるのだが、昨日は、全部値段が付いた。それでも、3000円ほど。次女のコミックが800円ほど、私の本が2000円余というところだ。

ブックオフの店員さんが、値付けをしている間、店内の売場を見ていたら、新書のコーナーに歌人の俵万智さんが書いた『短歌をよむ』(岩波新書、1993年発行)と『考える短歌』(新潮新書、2004年発行)を見つけた。

どちらも、新刊書の書店でも、古書店でも見たことがなかったので、即購入。初版から10年以上たつ岩波新書の方は、なんと105円。なんだか、申し訳ないような気がした。
このブログでは、松村由利子さんの短歌エッセイ『物語のはじまり』を他にはあまり例がない形式ではないかと書いてきたが、本当にそうなのか、他の歌人の書いた物も読んでみた方がいいだろうと思った次第だ。

先日買った、栗木京子さんの『短歌を楽しむ』(岩波ジュニア新書、1999年発行)とあわせ、積読にならないよう、早めに読み終えて、このブログでも報告ができればと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 8日 (日)

佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏

昨日(4月7日)に、佐藤多佳子さんの青春小説『一瞬の風になれ』が、2007年の本屋大賞を受賞したことを書いたが、昨日の朝日新聞の夕刊に、作者の佐藤さんを取材した記事が出ていた。

この記事では、『一瞬の風になれ』のあらすじが次のようのコンパクトに書かれている。

主人公の「新二」は、幼なじみの天才スプリンター「連」の美しい走りを見て陸上部に入る。2人を中心に、陸上部の部員たちは少しずつタイムを縮め、きずなを深め、成長していく。
(4月7日朝日新聞、夕刊)

作品は「1(イチニツイテ)」「2(ヨーイ)」「3(ドン)」の3冊からなっており、それぞれ、新二の高校1年、2年、3年に見合っている。「吉川英治文学新人賞」と「本屋大賞」の2つの賞をとっているが、その前からTBSの「王様のブランチ」の読書コーナーで話題になったり、「本の雑誌」の2006年度年間ベスト10の1位に選ばれたりとマスコミでもたびたび取り上げられており、すでに、3部で70万部を超えるベストセラーになっているとのことで、本屋大賞の受賞でさらに話題になり販売が伸びるだろう。

佐藤さんは、この作品について次のように語っている。

「どんな仕事も終わるのはうれしいのに、これは書いているのが楽しくて、書き終わるのが嫌だと初めて思いました」
(4月7日朝日新聞、夕刊)

物語は、新二と新二の通う春野台高校陸上部の400mメンバーがインターハイの地区予選を終え、全国大会に向け心新たにするところで幕を閉じる。
でも「まだまだ、終わってほしくない」。新二や連をはじめ、春野台高校の陸上部のメンバーの青春をもう少し見ていたい。彼らが、全国大会のグランドで、各県の強豪チームと競い合うところまで、一緒に見守っていたかったというのが、多くの読者の読み終わった時の気持ちだったと思う。
作者自が、まだ終わりたくないと思いつつ筆を置いたことが、作品の余韻となって読者にも響いてきているのだろう。

私は高校時代陸上部で、主に短距離を専門にしていたので、自分の高校時代と重ね合わせるように読んだ。陸上競技の大会や練習の描写が、実にリアルで、作者の佐藤さんが本人が高校時代、短距離を走っていたのだろうと思っていたが、記事にはこう書かれている。

取材から執筆まで4年をかけた。高校や競技会場に取材に行き、部員に話を聞いた。
(4月7日朝日新聞、夕刊)

読んでいくと、「新二」という主人公の1年毎の成長が実に丹念に描かれている。また、陸上部という組織が、毎年最上級生が卒業し、新入生が入部して来て、伝統を伝えながらも、それぞれ個性の違いもあり、毎年決して同じではありえないことを、「新二」と「連」の2人以外の部員を個性も描き分けることで表現している。
物語の中の3年という時間以上の取材が行われていたからこそ、書けたのだろう。

佐藤さんは、こうも述べている。

「持っている力は人それぞれ。他者との比較では勝負にならないこともある。でも、自分の力の最低と最高の間には、考えるよりも幅がある。自分の持てる最高の力を出すのは、すばらしい瞬間だと思う」
(4月7日朝日新聞、夕刊)

そして、この作品『一瞬の風になれ』については、

「これ以上できないというところまで、書いたつもりです」(4月7日朝日新聞、夕刊)

「自分の力の最低と最高の間には、考えるよりも幅がある」との一節は、耳が痛い。自分も、「持てる最高の力を出すべく努力しなくては」と、改めて、背中を押された気がする。

昨日も書いたが、『一瞬の風になれ』をまだ、読まれてない方は、ぜひ読んで欲しい。

*関連記事
1月25日:陸上部の青春を描く『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(1)イチニツク
1月28日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(2)ヨウイ
1月31日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(3)ドン
4月7日:2007年本屋大賞、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)に決定
4月8日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏
4月26日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その2
4月28日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏・その3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 7日 (土)

2007年本屋大賞、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)に決定

今朝(4月7日)の新聞に講談社が、「2007年本屋大賞決定!!佐藤多佳子『一瞬の風になれ』」との大広告を出していた。調べてみると、一昨日(4月5日)に明治記念館で受賞作の発表があったとのこと。

私も、1月に電車の社内広告で見て、数日で読み終わった。陳腐な紹介しかできない自分の表現力が情けないが、陸上部での400mリレー(4継)に賭ける高校生の青春を描いた作品で、とにかく、すがすがしく、楽しく、面白かった。
候補にあがっていた直木賞の選にもれたことは残念だが、今朝の広告によれば、エンターテイメント系(大衆小説分野)の文学賞である吉川英治文学新人賞(第28回)も受賞しているとのこと。書店員がいちばん売りたい本として選ぶ、本屋大賞としても相応しい本だと思う。

しばらく前から、書店で、本屋大賞ノミネート作品ということで『一瞬の風になれ』含め10冊ほどの名前が出ていた。今回、改めて、大賞決定までのプロセスを本屋大賞のホームページで調べてみた。

2007年の大賞の場合
①対象作品
2005年11月1日~2006年10月31日までに刊行された日本の小説
②選考期間
2006年11月~2007年3月
③選考方法
新刊を扱う書店の書店員(パート・アルバイト含む)の投票
④選考プロセス
(1次投票)2006年11月1日~2007年1月12日
1人3作品を選んで投票
(2次投票)2007年1月22日~2月28日
・1月22日に1次投票の上位10作品をノミネート本として発表
・2次投票では、ノミネート作品を全て読んで、上位3作品を推薦理由とともに投票
(発表)2007年4月5日
・1位3点、2位2点、3位1.5点の点数換算し集計、最高得点の作品が大賞

10作品の作品名、作者と得点結果は以下の通り

順位 作品名 作者 得点
一瞬の風になれ 佐藤 多佳子 475.5
夜は短し歩けよ乙女 森見 登美彦 455
3 風が強く吹いている 三浦 しをん 247
4 終末のフール 伊坂 幸太郎 228
5 図書館戦争 有川  浩 176
6 鴨川ホルモー 万城目 学 175
7 ミーナの行進 小川 洋子 152.5
8 日向に咲く 劇団ひとり 139
9 失われた町 三崎 亜記 127.5
10 名もなき毒 宮部 みゆき 89

『一瞬の風になれ』を、まだ読んでいない方は、ぜひ読んで欲しい。

*関連記事
1月25日:陸上部の青春を描く『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(1)イチニツク
1月28日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(2)ヨウイ
1月31日:『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)(3)ドン
4月7日:2007年本屋大賞、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著)に決定
4月8日:佐藤多佳子さんが語る『一瞬の風になれ』執筆の舞台裏

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2007年3月12日 (月)

第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

昨日(2007年3月11日)は、松村由利子さんが第二歌集『鳥女』で受賞した第7回現代短歌新人賞の表彰式が、さいたま市の大宮ソニックシティビルで行われた。

私は見に行けなかったのだが、ありがたいことに、先月から私のブログを読んでくれているというトロアさんが、表彰式を見に行かれたとのことで、昨日の「松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場」の記事に、表彰式の様子について、コメントを投稿してくださった。ご本人の了解の上で、転載させていただく。

本日、さいたま市で行われた第7回現代短歌新人賞表彰式に行ってきました。
松村さんは、少し緊張しておられた様でしたが、さくら色のお着物に受賞作「鳥女」にちなんでか、鳥の柄の入った帯がとても良く似合っておられて、まぶしいくらい美しかったです。
受賞のあいさつの最後の「人の心に届くうたをつくっていきたい。」という言葉が印象的でした。想像していた通りの、知的で優しそうな方でした。
ちなみに、表彰式のお土産はミセス3月号でした。
(トロアさんのコメントより)

また、トロアさんからの追加情報で、第1回現代短歌新人賞の受賞者でもあり、松村さんと同じ「かりん」のメンバーである梅内美華子さんのブログにも、その様子が書かれているとのこと。
そちらには、リンクを張らせていただくことにする。

梅内美華子さんのブログ
「つれづれぱんだ 歌人・梅内美華子の気まぐれ日記」

会社を辞め創作活動に専念を始めた松村さんにとっては、この賞は、新たな門出を祝う何よりはなむけだろう。
松村さん、受賞おめでとうございます。

第二歌集『鳥女』、短歌エッセイ『物語のはじまり』に続く、次の作品が待ち遠しい。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

*関連記事
1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:
松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:
第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
1月29日:
歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:
『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)
3月11日:
松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場
3月12日:
第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年3月11日 (日)

松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場

今日(2007年3月11日)の日本経済新聞の朝刊の読書欄の「あとがきのあと」で、『物語のはじまり』(中央公論新社)の作者として、松村由利子さんが顔写真入りで取り上げられた。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

作者のインタビューを織り交ぜた記事は次のように始まる。

食べる、恋する、住まう、老いる。日常生活の様々な出来事をうたった佳品を、エッセーに織り込んで紹介した。「短歌には、口ずさめば心が明るくなるような作品がたくさんある。一首が短いから小説ほど読むのにも時間は要らないし、忙しい人にこそ親しんでほしいと思った」。執筆のきっかけを語る。

この記事を書いている記者は、この本の本当の良さを理解していると思ったのは次の一節だ。

日常生活や取材での出会いなどから紡いだ経験談が短歌をやわらかく包みこむ。例えば「もろともに冬幾たびを籠もりつつきみこそもつと知りたきひとり」(今野寿美)を引きつつ、好きな相手の読んだ本を知りたくて図書館の貸し出しカードを片っ端からチェックした思い出を語るくだり。「こんなに自分をさらけ出すなんて、みっともない」と笑うが、そこが本書の魅力の源泉でもある。

この本が、ただ単に他の歌人の短歌を解説するだけの本であったら、おそらく短歌の世界の中だけの話題で終わっただろう。
読者は、短歌と主に語られる作者自身の姿に共感する。そこに語られるのは、あくまで作者個人の経験なのだけれど、同じ空気の中で生きてきた30代から50代前半ぐらいの人たちにとって、自分も「同じような経験、思いをした」ということが、そこここに散りばめられている。

図らずも、時代の代弁者になっていることが、TBSの「hito」という番組で「今を生きる人」として取り上げられ、今回、日経新聞でも取材を受けた理由ではないかと、私は思っている。

記事は、最後に作者の次の言葉と記者のコメントで締めくくられる。

「歌を詠むのは自分の心の地下室に下りていくこと。いい点悪い点含めていろんな面が見えるので、つらいこともある」。短歌とは苦楽あわせ持つ存在、つまり人生そのものなのだろう。

「心の地下室の下りていく」というコメントは、TBSの「hito」の中でも語られていた。一人で、自分の心の内側と向き合う作業、それが、歌を詠むということなのだろう。

昨日(3月10日)発売された、文藝春秋4月号では短歌欄に、「花の色」という題の松村さんの新作短歌8首が掲載されている。こちらも、ぜひご覧いただきたい。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

*関連記事
1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:
松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:
第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
1月29日:
歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:
『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)
3月11日:
松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場
3月12日:
第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2007年3月 9日 (金)

山下景子さんの『しあわせの言の葉』(宝島社)

『美人の日本語』や『美しい暦のことば』などの著書がある山下景子さんが、新しく『しあわせの言の葉』(宝島社)を出版された。

今回のテーマは、日本の女性たちが残した言葉に、著者が感じたことを書き添えるというもの。69名の女性の72の言葉が、

花:心を愛で満たし、勇気を与えてくれる言葉
鳥:心を自由にし、気持ちを新たにしてくれる言葉
風:まわりの人に感謝し、やさしくなれる言葉
月:素直に自分と向き合い強くなれる言葉

の4つのテーマに分けて語られている。登場するのは、歴史上の人物では、額田王、清少納言、紫式部、北条政子など、最近まで存命だった人では、沢村貞子、越路吹雪などである。

ぱらぱらとページをめくりながら読んでいると、それぞれ惹かれる言葉があるのだが、ここでは「花」のテーマの2つめに載せられているいわさきちひろさんの言葉を紹介することにする。

大人というものはどんなに苦労が多くても、自分の方から人を愛していける人間になることなんだと思います。
(いわさきちひろ『ちひろのことば』より)

著者の山下さんは、この言葉に対して、次のようなコメントを寄せている。

誰かを支えている、役に立っている、必要とされている・・・。そんな自覚を積み重ねることで、人は真の大人になっていくのではないでしょうか。
(『しあわせの言の葉』23ページ)

人のために何ができるかに考えが至るようになって、初めて本当の大人と呼べるのだろうと考えてきた、私の思いを代弁してくれている言葉でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 8日 (木)

『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)

松村由利子さんの『物語のはじまり』については、私も何回かこのブログで取り上げてきたが、グーグルの検索結果などを見ていると、ブログで取り上げてくれる人がふえて来ている。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

検索結果には、ネット書店の販売ページや、図書館の新刊情報なども混じっているので、ここで、ブログに取り上げられた、感想をまとめた、リンク集を作ってみることにした。
(最終更新日:2007年4月14日)

まずは、著者本人が自分のブログに書いた記事から
1月7日 
 そらいろ短歌通信松村由利子の自由帳:『物語のはじまり』

以下掲載日順に紹介することにする

1月13日(歌人おおまつさんのブログ)
 something like that:『物語のはじまり』

1月16日(歌人東直子さんのブログ)
 とうすみ日記:短歌のたのしみ本

1月18日(管理人拓庵のブログ)
 栄枯盛衰前途洋洋:『物語のはじまり』に思う

1月26日(piricaさんのブログ)
 ・・・>ぴり・ぴり:松村由利子さんのエッセイ集

2月1日(書店の店主、会留府さんのブログ)
 えるふ通信:物語のはじまり

2月19日(morino77さんのブログ)
 森の中庭:物語のはじまり

2月22日(社民党福島みずほさんのブログ)
 福島みずほのどきどき日記:本をたくさん読んでいます

2月27日(歌人春畑茜さんのブログ)
 アールグレイ日和:『物語のはじまり』(松村由利子・著)を読む

3月2日(図書館司書ふわふわふわくさんのブログ)
 路傍の花:松村由利子「物語のはじまり」

3月6日(歌人近藤かすみさんのブログ)
 きまぐれ徒然かすみ草:物語のはじまり 松村由利子

3月16日(毎日新聞科学環境部の2人の記者のブログ)
 理系白書ブログ:深呼吸の必要

4月12日(読書ノート歴27年の大空の亀さんのブログ)
 「心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景」:心に響く言葉&心に響く本の紹介

それぞれの書き手のみなさんが、この本の中から何を取り上げているかも、それぞれである。それだけ、多様な人の心に訴えるものを持つ本だと思う。

*お詫び:当初、公開時、春畑茜さんの記事へのリンクが正しく張られていませんでした。現在は修正済みです。大変、申し訳ありませんでした。

*関連記事
1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:
松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:
第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
129日:
歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:
『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)
3月11日:
松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場
3月12日:
第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 6日 (火)

芥川賞作家の宮本輝さ