赤﨑正和監督の映画「ちづる」の劇場公開を見て、母久美さんの本『ちづる』を読んで考えたこと(2)~劇場公開までのもう一つのドラマ
『ちづる 娘と私の「幸せ」な人生』(赤﨑久美著、新評論)を読み終わった。前回のブログで映画の感想を書く際、まず第3章を読んだが、改めて第1章から通読した。映画「ちづる」を見て、この本を読むといろいろなことを考えさせられる。
著者の赤﨑久美さんとは高校3年の時同じクラスだった。大学卒業後は特に接する機会もなかったが、2002年の秋に再会。以後、同窓会などで年1~2回顔を合わせる機会があったが、2006年にご主人が亡くなってからは同窓会に出てもらうのも難しくなった。
娘のちづるさんにも一度だけ会ったことがある。映画の中の姿そのままの不思議な魅力をもっていた。初対面の私がいると緊張させるのではないかと、一瞬、身構えたが、そんな私の緊張などお構いなしのちづるさんの奔放な姿に、一気に肩の力が抜けたのを思い出す。
兄正和さんの撮影した映画「ちづる」と母久美さんの書いた本『ちづる』は、二つが対になり赤﨑家の物語として、自閉症という障害を世の中に広く知らしめる役割も負うことになるだろう。
「よくわからないのでなんとなく怖い、なるべく近づかないようにしよう。」そんなところから、社会での区別・差別が始まっていくのだろう。
久美さんは、本の中でこう書いている。
「今、私たちが障害児の娘と一緒でも、まずまず幸せに暮らしていられるのは、何十年も前、公然と知恵遅れの人たちが差別されていたころから、障害児をもった親たちが子どもたちのために社会を変えようと努力してきてきてくれたおかげなのだから。」 (『ちづる』37ページ)
しかし、結果的に社会を変える可能性を秘めた一石となったとはいえ、障害を持つ自分の子を画面に登場させ、その子と葛藤する自らの姿をも多くの人の目にさらすことは、母久美さんには、本や映画のパンフレットでは書ききれない深い苦悩があったに違いない。
本を読む限り、その背中を押したのは、1月24日の朝日新聞「ひと」欄に正和さんを紹介する記事を書いた川上裕央記者の存在だろう。そこには、映像にはならなかったもう一つのドラマがあった。
自らも自閉症の兄を持つ「兄弟児」であった川上記者は、映画「ちづる」が最初にマスコミに取り上げられた1月7日の東京新聞を記事を読み、1月に行われた立大新座キャンパスでの上映会に参加、正和さんを取材し「ひと」欄の記事を書いた。
横須賀支局勤務の川上記者が、担当地域とは思われない新座まで出かけ上映会を見て、取材をして記事を書いたというところに記者の並々ならぬ思いを感じる。
本で紹介されている川上記者の手紙の一節には、次のように書かれている。
「障害者のいる家族は、父母の視点から語られることはあっても、正和さんや私のような兄弟姉妹から視点から描かれることはありませんでした。幼心に親もまた兄弟姉妹が抱く悩みや問題をすべて理解することはできないと感じていました。家族のことで誰にも話せずにいる子どもたちに、映画や正和さんの存在は大きな励みになると思っています。紙面で映画をご紹介することで、物理的に見られない人にも正和さんの思いをわずかでもお伝えしたい。それが今回記事にさせて頂いた一番の理由です。(中略)この映画に出会い、記事として皆さんにお知らせできたこと、私にとっても一生の宝物になりました。私の母も涙を流して読んでくれました。本当にありがとうございました。」(『ちづる』231ページ)
正和さんの思いが、川上記者の思いと交わった時点で、映画「ちずる」は赤﨑家の物語から、障害者を抱える兄弟の物語へもと変化した。
最後の締めくくりとしては、映画のパンフレットに久美さんが書いた「出演者からみた「ちづる」」という文章の最後の一節がふさわしいだろう。この文章は、本『ちづる』の第3章の「○息子が映画を作った」とも重なる部分が多いが、この部分は本にはない。
「息子が映画監督になるのが夢だったように、千鶴は女優になるのが夢だった。ふたりとも、その途方もない夢をこの映画で叶えたことになり、母として感無量なのである。」(映画「ちづる」パンフレット9ページ)
母久美さんは、映画「ちづる」の中では、撮影される出演者の側、映画公開までのプロセスにおいても受け身の立場であるが、この最後の一文を読むと、全ては彼女の深謀遠慮の結果なのではないかという気さえしてくる。母は強しである。
(2014年7月追記)DVD化されました。
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