2011年11月 7日 (月)

赤﨑正和監督の映画「ちづる」の劇場公開を見て、母久美さんの本『ちづる』を読んで考えたこと(2)~劇場公開までのもう一つのドラマ

『ちづる 娘と私の「幸せ」な人生』(赤﨑久美著、新評論)を読み終わった。前回のブログで映画の感想を書く際、まず第3章を読んだが、改めて第1章から通読した。映画「ちづる」を見て、この本を読むといろいろなことを考えさせられる。

ちづる- 娘と私の「幸せ」な人生
ちづる- 娘と私の「幸せ」な人生

著者の赤﨑久美さんとは高校3年の時同じクラスだった。大学卒業後は特に接する機会もなかったが、2002年の秋に再会。以後、同窓会などで年1~2回顔を合わせる機会があったが、2006年にご主人が亡くなってからは同窓会に出てもらうのも難しくなった。
娘のちづるさんにも一度だけ会ったことがある。映画の中の姿そのままの不思議な魅力をもっていた。初対面の私がいると緊張させるのではないかと、一瞬、身構えたが、そんな私の緊張などお構いなしのちづるさんの奔放な姿に、一気に肩の力が抜けたのを思い出す。

兄正和さんの撮影した映画「ちづる」と母久美さんの書いた本『ちづる』は、二つが対になり赤﨑家の物語として、自閉症という障害を世の中に広く知らしめる役割も負うことになるだろう。

「よくわからないのでなんとなく怖い、なるべく近づかないようにしよう。」そんなところから、社会での区別・差別が始まっていくのだろう。
久美さんは、本の中でこう書いている。

「今、私たちが障害児の娘と一緒でも、まずまず幸せに暮らしていられるのは、何十年も前、公然と知恵遅れの人たちが差別されていたころから、障害児をもった親たちが子どもたちのために社会を変えようと努力してきてきてくれたおかげなのだから。」 (『ちづる』37ページ)

しかし、結果的に社会を変える可能性を秘めた一石となったとはいえ、障害を持つ自分の子を画面に登場させ、その子と葛藤する自らの姿をも多くの人の目にさらすことは、母久美さんには、本や映画のパンフレットでは書ききれない深い苦悩があったに違いない。

本を読む限り、その背中を押したのは、1月24日の朝日新聞「ひと」欄に正和さんを紹介する記事を書いた川上裕央記者の存在だろう。そこには、映像にはならなかったもう一つのドラマがあった。

自らも自閉症の兄を持つ「兄弟児」であった川上記者は、映画「ちづる」が最初にマスコミに取り上げられた1月7日の東京新聞を記事を読み、1月に行われた立大新座キャンパスでの上映会に参加、正和さんを取材し「ひと」欄の記事を書いた。
横須賀支局勤務の川上記者が、担当地域とは思われない新座まで出かけ上映会を見て、取材をして記事を書いたというところに記者の並々ならぬ思いを感じる。

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本で紹介されている川上記者の手紙の一節には、次のように書かれている。

「障害者のいる家族は、父母の視点から語られることはあっても、正和さんや私のような兄弟姉妹から視点から描かれることはありませんでした。幼心に親もまた兄弟姉妹が抱く悩みや問題をすべて理解することはできないと感じていました。家族のことで誰にも話せずにいる子どもたちに、映画や正和さんの存在は大きな励みになると思っています。紙面で映画をご紹介することで、物理的に見られない人にも正和さんの思いをわずかでもお伝えしたい。それが今回記事にさせて頂いた一番の理由です。(中略)この映画に出会い、記事として皆さんにお知らせできたこと、私にとっても一生の宝物になりました。私の母も涙を流して読んでくれました。本当にありがとうございました。」(『ちづる』231ページ)

正和さんの思いが、川上記者の思いと交わった時点で、映画「ちずる」は赤﨑家の物語から、障害者を抱える兄弟の物語へもと変化した。

最後の締めくくりとしては、映画のパンフレットに久美さんが書いた「出演者からみた「ちづる」」という文章の最後の一節がふさわしいだろう。この文章は、本『ちづる』の第3章の「○息子が映画を作った」とも重なる部分が多いが、この部分は本にはない。

「息子が映画監督になるのが夢だったように、千鶴は女優になるのが夢だった。ふたりとも、その途方もない夢をこの映画で叶えたことになり、母として感無量なのである。」(映画「ちづる」パンフレット9ページ)

母久美さんは、映画「ちづる」の中では、撮影される出演者の側、映画公開までのプロセスにおいても受け身の立場であるが、この最後の一文を読むと、全ては彼女の深謀遠慮の結果なのではないかという気さえしてくる。母は強しである。

(2014年7月追記)DVD化されました。

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2011年10月31日 (月)

赤﨑正和監督の映画「ちづる」の劇場公開を見て、母久美さんの本『ちづる』を読んで考えたこと

一昨日(2011年10月29日)から、ドキュメンタリー映画「ちづる」の劇場公開、東京の東中野と横浜で始まった。

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リンク:映画「ちづる」公式サイト

赤﨑監督のブログ:あにきにっき

我が家は東中野まで30分ほどなので、監督の舞台挨拶もあるという初日の初回上映(11時開始)を目指して出かけた。前売券は、前日、仕事の帰りに購入。上映開始の30分前には劇場に着いたが、すでに列が出来ている。前売券の有無にかかわらず、並んで受け付けしなければならないらしい。地下2階の受付にたどりつき、私と妻の券に押された番号は77番と78番。そのまま、劇場に入ると、100名程度の席はほとんど埋まっていて、横並びの席はほとんどなく3列目、4列目の中央付近に縦並びに空席があったので、そこに分かれて座った。

映画「ちづる」は、立教大学の学生だった赤﨑正和さんが卒業制作として、自分の妹で自閉症のちづるさんの日常を撮影したドキュメンタリー映画だ。79分の映画には、ちづるさんとお母さんの久美さん、そして正和さんの3名しか登場しない。赤﨑家の日常を映した家族の映画だ。

今年(2011年)1月に立教大学の新座キャンパスで上映会を実施したところ、取材に来ていたマスコミに取り上げられ、さらに3月には同じ立教大学の池袋キャンパスでも上映会が行われた。私は、この3月の上映会に行ったが、その時点で既に東中野と横浜での劇場公開も決まっていた。
この映画の制作を指導した立教大学の池谷先生の勧めもあり、劇場公開にあわせ、母久美さんも、ちづるさんが生まれてからの子育てを語った本『ちづる-娘と私の「幸せ」な人生』を上梓した。

ちづる- 娘と私の「幸せ」な人生
ちづる- 娘と私の「幸せ」な人生

私はお母さんの久美さんと高校3年の時、同じクラスだった。
その縁もあって、3月の上映会で一足先に映画を見てはいたが、その時は、同級生の長男が撮った映画を通じて、自閉症の子を育てることの大変さ、それに立ち向かう久美さんの強さを垣間見させてもらったという認識だった。

今回の劇場公開版を改めて見て、長男である赤﨑監督と池谷先生の挨拶を聞き、母久美さんの本を読んで、初めてこの映画の持つ深い意味を理解できたように思う。

この映画は、自閉症の妹ちづるさんを持つ兄正和さんが、卒業制作を手掛ける大学3年になるまで、自分の中で言葉に出来ず、悶々としていた思いをなんとか表現しようとした結果生まれたものだと思う。

彼は、障害者を「シンショー」と差別する風潮に憤りながらも、自分の妹が自閉症であることを人に語ることができない。また、そうできない自分を責めている。しかし、その思いを誰に相談することもできない。
他人に対し、自分の妹のことを隠すということは、人に対して常にどこかで嘘をついているということであり、人と接すること自体がおっくうになっていたに違いない。
3月の上映会で自作について語る正和監督は、口下手で、頼りなげだったが、彼にとって、人と接したり人と語ることそのものが辛いことであり、それを続けていくうちに、無口になっていったのだと思う。

どこの家庭でも、第一子は、弟や妹生まれると、それまで自分一人に注がれていた親の愛が半分、あるいはそれ以下になる。それに寂しい思いを感じながらも、兄だから姉だからと我慢をすることを求められる。まして、正和監督の妹ちづるさんは自閉症。両親の関心は妹に向かわざるを得ない。
妹の姿をみれば、それもやむを得ないと考える一方で、もう少し自分にも関心を持ってほしいという思いもあっただろう。

そこに交通事故での父の不慮の死が加わる。高校を卒業し、浪人中だった正和さんは、父親と口げんかをしたまま関係を改善できずにいた。父親と本当の意味で向き合うことがないまま、父親という最も身近な彼の理解者を失なったのだ。なくなった父の正幸さんも、息子の正和さんに語りかけたいことが山ほどあっただろう。
母久美さんの本によれば、父が亡くなったあとも、正和さんは「昼まで寝て、だらだらした生活は相変わらず、・・・」と書かれているし、大学の進学したあとの正和さんは「実家に帰ってきても、部屋で寝ているか、携帯やipodをいじるだけ」だったと書かれている。無気力な大学生の典型のようなその姿は、決して彼の本当の姿ではなかったと思う。

3月の上映会から今回の劇場公開まで7ヵ月余。その間、正和さんは社会福祉法人に就職した。舞台挨拶で、自らの気持ちを言葉を選びながらもはっきりと語る彼の姿は、3月の上映会とは別人のようだった。

この変化には、3つの要素があるように思う。
一つは、映画の制作指導をした大学の池谷先生の存在。舞台挨拶で、制作過程での正和さんとの葛藤を語る池谷監督は、亡き父正幸さんに代り、正和さんの思いを正面から受けとめ、彼の撮影した映像の中に普遍的な家族の姿を見いだし、劇場公開に導いた。

二つめは、母久美さんとの関係の変化。この映画の撮る過程で、母子は妹のちづるさんについて改めて語りあう。また、母の久美さんは、この映画の制作・公開の過程で、正和さんが子どもの頃に負った心の傷を知ったと書いている。妹の存在を素直に語れなかった自分の姿を母に伝えることができたことは彼の負担を少し軽くしたのではないかと思う。

三つめは、映画「ちづる」が世に出て、知られるようになって、彼の撮った映像に対して、多くの人が語った感想や批評。その中には、彼と同じように、兄弟姉妹に障害者を抱える「兄弟児」も多くいた。1月に朝日新聞の「ひと」欄で彼を紹介する記事を書いた記者もお兄さんが自閉症だったという(母久美さんは、この記事は「息子の心にぴったりと寄り添っている」と書いている)。

この映画について多くの人が語る言葉の中に、正和さんは自分が今まで言葉に出来ずにいた思いに、ふさわしい言葉をひとつひとつ見つけていったのではないかと思う。語る言葉を見つけたことで、自分の思いが整理でき、自信を持って語れるようになったのではないだろうか。

自分の子どもが抱える思いを親がどこまで理解できているか?これは、どこの家庭・家族も抱えている普遍的な問題だ。親は「親の心子知らず」と嘆き、子どもは「親は自分のことなんかちっとも分かってくれていない」と不満を漏らす。
正和さんはそれを映像という形で、見える形に表し、母に伝え、父の代役ともいえる指導教官に伝えた。

映画の映像の中での主役は妹のちづるさんとそれに向き合う母久美さんであり、二人の存在感なくしてこの映画は成り立たないが、それでも私はこの映像は、監督である正和さんの心の叫びだと思う。
私自身が第一子の長男という立場もあってか、正和さん寄りの見方になっているかも知れない。

おそらく、この映画は、それぞれの立場で、いろいろな見方、受けとめ方がある映画だと思う。なるべく多くの人に見てもらい、自分の家族について、考える切っかけになればと思う。

(2014年7月追記)DVD化されまた。

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2010年9月 2日 (木)

記事の総数もようやく1200本へ、過去1年半を振り返りこれから迎える50代を考える

前回の記事、「IFRS(国際会計基準)検定、財務報告実務検定、ビジネス会計検定」(2010年8月30日)で、このブログを書き始めてからの記事の総数が1200タイトルに達した。ブログを書き始めたのが、2006年2月26日なので、ほほ4年半で1200本ということになる。

1000本を記録したのが、2009年1月18日。
1100本目を書いたのが、2009年7月30日。
そして1200本目は、2010年8月30日。

1100本目までの100本に半年余。それから次の100本に1年1ヵ月。
逆に考えれば、3年足らずで1000本書いたのに、その後の200本に1年半以上かかったということになる。

2008年12月から2009年5月まで田舎で一人暮らしをしていた私の母が体調不良となったため我が家に一時呼び同居したこと、その後、2009年の秋からは次女の大学受験と長男の高校受験が本格化しそちらの対応に追われたことなど、家族への対応で多忙になったこと理由のひとつである。

しかし、改めて振り返れば、3年足らずで1000本書いたことでネタ切れになった部分と、1000本書いたことで一区切りが付き、どうしても書き続けようという意欲も低下したところもあったように思う。

また、1000本までの3年間は、今の仕事に関係する勉強をして多くの資格を取ったりということもあり、自分自身がそれなりに新しいものを吸収して、成長しているという感じをもてていたが、3年で必要な資格はほぼそれってしまし、この1年半ほどは、そういった面でも沈滞していたように思う。
このブログのテーマの一つは、中年クライシスを克服にあると思って書いているのだが、40代半ばで、そのことを意識し3年間はブログを書くことも含めて「中年クライシス」というハードルを必死で越えようとし、ある程度、目処がたった頃になって、親の介護と子どもの受験という自分以外の問題に対応する事に迫られたという事なのかもしれない。

気がつけば、50歳という次のステージは目前に迫っている。戦国の世であれば、そろそろ人生の終幕というところだが、平成の世では、まだまだ、やるべきこと山積している。この1年半で追われた問題は、何も解決していいない。
田舎に戻り、再び一人暮らしを始めた私の母のフォロー。私の母だけなく、同年代の妻の母の問題もある。自分の親たちを離れた東京にいながらどう介護していくのか。
一方、子育てはいよいよ最終コーナーか。ようやく、義務教育は終えたが、3人の子どもたちがそれぞれに独立していくまでには、もう少し時間がかかる。それを、終えて初めて親としての役目を果たすことになる。
親と子どもという前の世代と次の世代をにらみながら、さて自分自身はどう生きていくのか、難問だらけの50代を迎えることになりそうだ。

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2010年3月27日 (土)

公私ともに一段落、そろそろブログも復活しなくては…。

このブログを更新しないのが当たり前になって、ずいぶんと日がたってしまった。

更新が途切れがちになった理由はいくつかあるが、毎日続けていた更新が途切れ出した最初のきっかけは、一昨年(2008年)の暮れに田舎で私の母親が一時体調を崩し、東京の我が家に一時引き取ったことである。私が就職して以来、25年ぶりぐらいで母親と一緒に生活したが、自分の母親がいかに何事につけても自分中心で考え、他人からどう見られているかという発想、視点を持たない「人」だったのだと気がつき、理解するまで、長い時間がかかった。それは、その時点では日々ブログに書ける内容ではなく、母親とのバトルに追われ、ブログを書く時間も、気力もなかった。

半年ぐらい前からは、2人の受験生の親という立場に追われた。我が家では、高校3年生の次女の大学受験と、中学3年生の長男の高校受験が、この春一度に重なった。昨年の秋からは、本格的に受験モードに入った。
親が風邪、まして新型インフルエンザなどを家に持ち込むわけにはいかないという自らの健康管理にも神経質にならなくてはいけなくなった。
さらに、志望がなかなか定まらない次女。3年に夏まで部活動(バレーボール)に打ち込んでいたのはいいとして、なかなか、高校受験そのものに向き合う態勢にならない長男と親の気がかりの種は尽きなかった。

次女は、1月下旬のセンター試験を皮切りに、6つの大学の学部をいろいろな形で10回ぐらい受験したが、願書を出せば必ず受かると本人が行っていた滑り止めを除いて、悉く不合格。唯一、第2志望だった大学で「補欠」となったが、それも他の合格者が何人か辞退して初めて繰り上げ合格になるかというもの。次女は行く気はないと、滑り止めには入学金は払わず、「補欠」繰り上げに賭けた。
補欠の通知があってから、2月下旬の繰り上げのあるなしの確定まで約2週間の長かったこと。なんとか合格通知をもらい、家族一同ほっと胸をなでおろした。

次女の合格確定の翌日が、長男の公立高校の受験日。こちらも滑り止めの私立は受かっていたが、本命は公立。しかし、中学時代、部活しかしていないも同然の長男は、3年になって少し勉強するようになったものの、成績はさして良くない。そのくせ、内申書のレベルからすると格上の高校を目指すという。我が家の経済事情を考えれば、絶対「公立」だが、それを理由に、自分の限界を目指す長男の挑戦をやめろとは言えない。むしろ、その時点の自らの実力より少し難しいレベルに挑戦して初めて成長もあると私自身も考えていたので、「挑戦してみろ」と送り出した。
しかし、試験が終って、長男はうなだれて帰ってきた。出来が悪かったということらしい。確実にできているところを計算しただけでは、合格点には届かない。論述式や数学の証明、答えを写し忘れたものなど30~40点分ほどあって、そのうち最低でも半分とれないと合格ラインには達しないだろうとの自己分析だった。
そこまで話を聞いて、これだけ客観的、冷静に自己分析、自己評価ができていれば、ひょっとすると合格しているのではないかというのが私の第一印象だったが、本人にはそうは言えない。本人には、ダメだと思うなら、公立高校の2次募集の勉強をしておくように行ったが、やはり発表までは、手に付かないようだった。
こちらは受験から発表まで1週間。合格発表を見に行った長男から私の携帯電話のメールに、彼の受験番号が掲示された合格発表の掲示板の写真と「サクラサク」とのコメントが送られてきて、ようやく我が家の受験の季節が終った。

一方、2人の受験が佳境を迎えている2月になって、私の仕事も急に忙しくなった。現在の私の仕事は季節労働者的で、通常は年間のうち8月と2月、3月が比較的時間の余裕がある時期である。しかし、今年は2月上旬に緊急案件が発生し、まず2月上旬はその応急措置に追われた。そのため2月後半に、本来2月上旬に仕上げる予定だった仕事を仕上げ、これで一段落と思っていたら、2人の子どもの受験がかたづいた翌日、2月の突発案件に本格対応が必要ということになり、結局、先週末までその対応に追われていた。

ここにきて、公私ともに、本当に一段落という感じがしている。
受験モードが本格化した昨年の10月以降のこのブログを更新回数を見ると、10月4回、11月3回、12月6回、1月5回、2月2回、3月ここまで0回、半年で計20回という低調な状況である。それ以前の8月が21回、9月が13回更新していることを思えば、その後の更新の減り具合はあきらかだ。
そろそろ、ブログ復活モードに入ろうと考えている。

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2009年7月20日 (月)

バレーボールに賭けた長男の中3の夏が終わる

我が家の長男は、中学に入ってバレーボールを始めた。たまたま、中学1年生で身長が170cmあり、同じクラスの中の良い友達がバレー好きで、誘ってくれたのがきっかけだった。当時、長男の中学の男子バレー部は人数も少なく、1年先輩は4名しかおらず、自分の身長なら、新チームになればすぐにレギュラーになれそうだったのも、目立ちたがり屋の長男にとっては、バレーを選ぶ理由の一つだったようだ。

しかし、新チーム2年生4名、1年生2名のギリギリのメンバーで、レギュラーにはなったものの、背が高いだけで、レシーブはできない、スパイクは当たらない、運よく当たっても行く先はボールに聞いてくれという状態だった。
なんとか、練習は続けたものの、チームの足を引っ張るお荷物的存在であった。それでも、先生や先輩たちは、懲りずに長男を使ってくれた。

長男が2年生の春、1年後輩が3名入部。バレー経験者ばかりで、余計に長男の下手さが目立つ。長男が後衛に回った時には、守備強化に1年生と交代させられることもあった。
結局、1年先輩のチームでは、ほとんど勝つことがないまま、2年目の夏のシーズンも終わり、1年先輩が引退、長男たち2人が最上級生となった。なんと、長男はいつも試合中声だけは出して、元気だけはよかったからか、新チームのキャプテンを務めることになった。
しかし、1年後輩が3人しかおらず、6人のチームが組めない。バレー部存続に危機である。このときは、体育の教師だったバレー部の顧問の先生が、長男と同級生の2年生で地域の野球と掛け持ちなら出てもよいという生徒と、1年生を一人勧誘してなんとか、人数をそろえ、危機を回避した。

その後も、危機は続く。バレー経験者の1年後輩から、威勢はいいものの実力が伴わない長男は、キャプテン・上級生としての信頼を得られなかったようだ。家では、後輩たちに対する不満をよく口にしていた。
その頃のチームは、個々人はそれなりに技術はあるのだが、チームプレーに必要なお互いの信頼関係に乏しく、やはり負け続けた。はた目から見れば、すでに身長が175cmを超えていた長男がエースとして相手を打ち負かすしか勝ちパターンはなく、とにかく長男にトスを上げ続けるしかないのだが、セッターを務める1年後輩は、長男をそこまで信頼はしておらず、チームが自分たちの勝ちパターンを作れず、ミスで自滅することが多かった。

チームが変わり出したのは、長男が3年生となり、1年後輩が2年生となり、新1年生を迎えた今年の4月からである。ギリギリの人数しかいなかったチームになんと新1年生が7人入部したのだ。長男に言わせると、後輩が入ったことで、自分たちも先輩となった2年生が、ようやく自分の言うことを聞くようになったという。自分たちも後輩を持つ身になって、初めて先輩の苦労がわかったということだろうか。

もう一つの転機がGWのさなかに出場した少し広めの地域の大会である。普段は自分の学校の近郊の地域の中学どうしの試合だが、このときは、いつもは対戦しなチームが集まった。もちろん、長男の所属チームはいいところなく負けたのだが、そこで、大会終了後、必死に声を出し、キャプテンとしてチームを引っ張る長男の姿を見て、ある学校の顧問の先生が、スパイクの打ち方を教えてやると声をかけてくれたらしい。そこで、ちょっとしたコツをつかんだようで、以来、長男のスパイクの決定率が一気に高くなった。

長男の中学最後の夏の大会は、6月の中旬から始まった。まず、地区のブロック予選。ここを1勝1敗で地区予選に進出。地区予選は6月末、8チーム中6チームまで都大会に出場できる。8チームを4チームずつに分けてリーグ戦を行い、それぞれ3位までが都大会に進める。
長男のチームは3位狙い。当初の予想通り、2敗を喫し、同じく2敗のチームと都大会をかけて戦うことになった。第1セット、シーソーゲームだったが後半長男のチームが突き放し、24対16でセットポイントを握った。しかし、ここから信じられないことが起きる。
あと1点が取れずに相手チームに迫られ、とうとう24対24のヂュースに。そこからは、取ったり取られたりを繰り返し、最後は32対34でほぼ手中にしていた1セットを落とした。
うーん、ここで心ならずも引退か。応援しているこちら側も、いやな思いがよぎる。第2セットもシーソーゲームだったが、中盤から突き放し、5点ほど差をつけて2セット目は取った。相手チームは1セット目を逆転したことで力尽きたのか、3セット目は2セット目以上に差をつけて、何とか都大会への最後のキップを手にした。

そして、今日が都大会の予選。都全域で64チームが都大会に出場。まず、8ブロックに分けて予選トーナメントが行われ、各ブロックの優勝チームが、都大会の決勝リーグに進出する。
長男たちの目標は都大会予選で1勝すること。今日の最初の試合が、ポイントである。出だし、相手に連続ポイントを許す。いつもの出足が悪いのは、長男のチームの悪いところである。目標の都大会出場で、緊張しているのだろうか。勝ち負けはどうでもいいが、自分たちの実力は100%発揮してほしい。
ようやくエンジンがかかったのか、徐々に差を詰めて逆転、第1セットをものにした。調子に乗ると、突っ走るのも、長男のチームの特徴で、第2セットはこちらの勢いに相手チームも萎縮したのか、ミスを連発。第2セットも取って、目標の都大会1勝を実現した。
その後の2回戦(都大会予選準決勝)では、格の違いもあり、敗退。長男のバレーボールに賭けた夏が終わった。

一時はチームの存続が危ぶまれ、信頼関係もなくバラバラだったチームが、都大会まで進み1勝をあげたことは、信じられない。長男を含む、中学生チームのメンバーそれぞれの成長を見せてもらった1年間だった。

長男の役目は、これからは受験生。こちらもバレーに劣らない成果を残してほしいものである。

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2009年5月24日 (日)

母の介護に振り回された5ヵ月間

昨年(2008年)暮れまで、約2年間毎日更新を続けていたこのブログ「栄枯盛衰・前途洋洋」も、今年に入ってからは更新も途切れがちだった。以前は、読んだ本の感想、受験してきた様々な資格試験、心理学をメインにしたメンタル面について様々な雑感、気候や気象の話、そして将棋の話題、などなんとか1日1テーマを見つけて書き続けていたのだが、最近は将棋の話題だけに偏っていた。

これは、ブログを書いている私自身に、毎日ブログを書くだけの、時間的余裕と精神的余裕がなくなったことによる。

昨年の12月半ば、実家で一人暮らしをしていた私の母親が、腰が痛くて動けないと、私の妻に電話をしてきた。たまたま、介護福祉士試験を目前に控え、試験勉強の追い込みのため仕事を休む予定にしていた妻は、九州の私の実家に向かった。母の様子を見た妻は、このまま一人暮らしを続けるのは無理と判断して、私を呼び、2人で母を東京まで連れてきた。それが、昨年(2008年)の12月23日。母の寝起きのための部屋を確保するため、年末年始は大掃除と家の全体の模様替え。年賀状を書けたのは、年始に入り1月3日だった。

腰痛の原因は脊柱管狭窄症にともなう椎間板ヘルニア。整形外科の医者の診断は、安静にして痛みが引くのをまつしかないとのこと。2週間ほど安静していたところ、痛みはほぼ引いた。
しかし、たまたま我が家のあった血圧計で血圧を測ってみたところ、上が200を超えることも。今度は、同じ病院の循環器科のかかることになった。血液検査では、コレステロールも高い。どうも、実家では3食きちんと食事を摂っていたとは思われず、おなかがすくと袋菓子などを食べていたようだ。コレステロールも血圧も高いとは、危険は兆候。下手をすると血管が詰まって脳梗塞や心筋梗塞を起こすかもしれない。
母には、ネット検索で見つけた、塩分1食2g、熱量も300カロリー台という冷凍のカロリーコントロール食を食べさせ、食後のデザートやおやつのお菓子は極力控えさせ、少しでも体を動かすよう我が家の周りを5分でも10分でもいいので参加するように勧めた。降圧剤と合わせ、食事のコントロールと運動を1ヵ月ほど続けると、上も150~160くらいまで下がるようになり、4月頃には上が140を切り、正常値の範囲に収まるようになった。

そのカロリーコントロールの最中には、たまたま外食したときに食べたムール貝に当たったのか、激しい下痢と脱水症状を起こし、点滴のため、仕事から帰ったあと救急外来に連れて行ったこともあった。

我々から見ると、まだ体調が万全とは言い難かったが、本人は早く自分の家に帰りたいと言う。確かに我が家に居る時は、体調がある程度戻った後も、昼間でもベッドに横になり寝ていることが多く、たまに新聞を読んだり、テレビを見たり、雑誌を読んだりしているが、それほど集中している訳でもない。我が家の周りに、知り合いがいるわけでもない。これでは、「ボケ」てしまうと思い、私は5月の半ばに会社を3日ほど休み、妻と2人で九州の実家に母を連れて帰った。

しかし、現在の状況のままで、一人暮らしにもどれば、いずれ昨年暮れと同じように、体調を崩すのは明らかである。介護保険制度を利用して、週2回ホームヘルパーに来てもらうことにして、とりあえず実家での母の一人暮らしが再開されることになった。

以上が、この5ヵ月間の母の介護を巡る顛末の要約である。

就職して家を出るまで、22年間一緒に暮らしたはずなのだが、今回久しぶりに一緒に暮らしてみて、自分自身、自分の母親のことを理解していなかったことを痛感した。
そして、自分の家族を抱えながら、年老いた親と同居することが、想像以上に困難を極めるものであることも、思わずにはいられなかった。
また、介護保険制度は、介護されるお年寄りのための制度であるとともに、介護する側の家族のための制度であることも、実感した数ヵ月だった。

次回以降の記事で、気が向けば、もう少し立ち入ったことについて書くことになるかもしれない。もし続きが書かれない時には、この話題について書くだけのゆとりがまだ持てていないと思っていただければと思う。

関連記事
2009年2月15日:自分の時間の優先順位、母子同居の現実

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2009年2月15日 (日)

自分の時間の優先順位、母子同居の現実

最近、このブログ「栄枯盛衰・前途洋洋」も、昨年の年末に3年近く続けていた、毎日更新が途切れて以降、すっかり更新の頻度が落ちてしまった。更新しても、将棋の記事ばかりで、私が書く将棋以外の記事に関心があって読んでいただいている方には申し訳ないと思っている。

年末以降この1ヵ月半の最大の変化は、私の母との同居である。私の母は、昭和一桁生まれで、70歳代後半となりいわゆる「後期高齢者」に属する。それでも、昨年の年末までは、私が育った実家で、1人暮らしをしていた。私の父は昭和の終わりに、50歳代後半で亡くなっており、私の妹と弟が結婚や就職で家を出てからは、母は義母(父の母、私の祖母)と2人暮らしだった。その祖母も数年の入院生活の後、5年ほど前に亡くなり、その後、母は一人暮らしをしていた。

昨年年末、腰が痛くて動けないとの妻あてに連絡があった。たまたま、1月にある介護福祉士の資格試験をまとめてやろうと1週間ほど仕事を休むことにしていた妻は、急遽、私の実家に飛んだ。私も週末には、追っかけ実家に向かい、とりあえず腰痛が治るまでの間、東京の我が家で面倒を見ることにして、東京に連れて来た。
とはいえ、5人家族が暮らす4LDKの我が家は、子ども3人が成長した今となっては、あと1人家族を迎えるには決して広くはない。今まで、子ども1人に1部屋与えていたが、娘2人は1部屋で我慢してもらい、大掃除をして、いらない物を相当捨て、さらに2畳ほどのトランクルームを借りて、捨てきれないものを移し、4LDKの一部屋を母の部屋として確保した。年末の1週間ほどは、大掃除と我が家の大幅レイアウト変更に費やし、なんとか年内にようやく最低限の間取りができた。
年末の書く予定だった年賀状を書く時間はなく、年始にいただいた年賀状に返事を出すだけで精一杯だった。

年明けから本格的に始まった、一時的な私の母と私の家族5人の同居生活。私自身、結婚してから20年、何度か里帰りはしたが、大学卒業とともに会社の独身寮に入って以降、母と一つ屋根の下で、日常生活をともにするのは26年ぶりのことである。気がつけば、私自身が、私が家を出た頃の母と大差ない年齢になっている。

腰痛の方は、何とか1ヵ月ほどで痛みが引いたが、何気なく我が家で計った血圧が上が200前後、下が100前後といつ何が起こっても不思議ではない値を示し、病院通いはやめられず、同じ病院の中で、整形外科から循環器科に移ることになった。

これまでの経緯をざっと書けば、こんなところで、夫婦2人・子ども3人の5人の日常生活は、突然の闖入者である私の母に大きな影響をうけることとなった。腰痛や高血圧という母が抱える問題へ対応、母を迎えたことで、私自身を含む私の家族と母の間に生じる様々な軋轢への対処に時間を割かざるを得なくなった。必然的にブログを書くための時間の確保は難しくなり、ブログの更新が途絶えがちとなり、書けても裏付けの事実の確認が容易な将棋の記事だけというのが、この1ヵ月ほどの私の状況だ。

老いた親の世話をどうするのか、親の介護という避けては通れない問題が、とうとうやって来たということだろう。多分、これは、我々の世代にとって、自分自身の内面の問題である「中年期の危機(中年クライシス)」の次に、否応なく直面しなければならい問題なのだろう。親が老いたということは、自らもとうとう「老い」の入り口に立ったということだろう。
これからも、私自身の現実の問題として、このテーマをブログに書くことになると思う。

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2008年10月26日 (日)

27回忌に短歌で知る亡き祖父の思い

今日は、母方の祖父の27回忌と祖母の7回忌の法事だった。祖父が亡くなったのは、私が大学4年の年の秋。就職が内定し、ほっとしていた時だった。祖父は、明治生まれで、80歳を超えても元気で、特にこれといった持病もなく、最期は老衰だった。孫から見る祖父はいつもにこにこした優しい「おじいちゃん」であった。

母の家族は亡くなった祖父母に三姉妹。母は次女。三姉妹はそれぞれ結婚し、それぞれに3人、3人、2人と子どもが生まれたため、祖父母の孫は8人になった。

今日の法事には、三姉妹と2人の夫(私の父は亡くなっている)、8人の孫のうち5人、その子(曽孫)が7人、孫の夫と妻が1人ずつ、祖母の妹、三姉妹の従姉妹2人の計22人が集まった。

高尾にある都の霊園で読経のあと、八王子の和風レストランで会食。その場で、祖父母と一緒に暮らしていた叔母が二冊の糸綴じの冊子を披露してくれた。タイトルが「雑詠草」。悠々自適の暮らしとなった祖父が日々の思いを、短歌や俳句に詠んだものだった。

その中に、母が3人目の子(私の弟)を妊娠し、私が小学校に入学することを詠んだ短歌があった。

三たび目の出産近し母子(ぼし)ともに 安かれと祈る筑紫路の空

うましまごすくすくのびて此の春は 学びの庭に入(い)るぞ嬉しき

このとき、学びの庭に入ることを祖父によろこんでもらった私も今年4回目の年男を迎えた。このような短歌が残っているとは思いもしなかったので、驚いたし、嬉しくもあった。
私の就職が決まった直後に祖父が亡くなったと知った時、自分の中で、もう子どもではいられないのだと思ったものだ。
今の私の姿を、祖父はどう見ているのだろうか。恥ずかしくない生き方をしなければと、改めて思った一日だった。

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2008年1月 4日 (金)

里帰りを終え、東京に戻る

2007年12月30日に帰ってから、年末年始をはさみ今日(2008年1月4日)までの里帰りを終え、新幹線で東京に戻ってきた。1ヵ月前に予約をしたが、家族5人横1列で座席が確保できたのは、朝8時台の前半。休みの後半を過ごした妻の実家を朝の6時半頃には出た。

私と、妻の双方の親は、成長した孫の姿を見てよろこんでくれたが、我々から見れば、心配していたほどではなかったものの、親の老いを感じずにはいられなかった。
「中年クライシス」のあとには、親の介護という問題が避けて通れない問題として迫っている。
とりあえず、今は元気なので、すぐに何かをしなければならないということはないのだが、一方で何か起きてしまったら、現在の家族5人の生活が影響を受けざるを得ないのも事実だ。

さりとて、懸案を全て解決してくれる妙案があるわけでもなく、双方の親が元気でいてくれることを祈るしかない。あとは、自分たち自身が健康でいること。介護しなければならない側が健康でなければ、何もできないからだ。

気の重い話題ではあるが、今年は親の問題も中期的な課題としてこれまでよりは、少し比重を高めて考えなればならないのだろうなと痛感した里帰りだった。

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2007年5月25日 (金)

次女と長男の中間試験を巡る騒動

今週は、高校1年生の次女と中学1年生の長男の初めての中間試験が重なった。ようやく、今日2人とも試験が終わった。

高校生の次女は、赤点を取ったらどうしようと心配しながら、遅くまで勉強していた。これぐらい危機感を持って、最初から臨んでくれれば、まあこれからもあまり心配しなくてもよいかなと、親としては思っている。

一方、中学生の長男は、試験1週間前になっても週末に友達と遊びに行くし、くだらないテレビ番組を見てヘラヘラ笑っているし、パソコンにかじりついてオンライン・ゲームにううつを抜かしている有様。
あまりにも安易に考えているように見える。まあ、一度痛い目にあって自分で気がつくまで、放っておくしか仕方ないと思ってはいるのだが、言うに事欠いて、誕生日が近いこともあり、試験で成績がよかったらi-podを誕生祝いに買ってくれ、デジタルの腕時計を買ってくれと虫のいい要求をし始める。
あまりの呑気さに、姉2人も業をにやし、それならばと「成績が悪かった時はおまえの使っているパソコンを使わないということなら考えてもいい」という対案を出した。大学に入ってアルバイトを始め、多少お金を持っている長女がスポンサーとなって、平均98点以上ならi-pod、95点以上ならデジタル腕時計を買う。ただし、平均85点に達しなければ、長男が使っているパソコンを当面使用禁止にするという交渉がまとまった。

今日、長男が初日に受けた理科の試験の答案が返却された。結果は86点。i-podはすでに実現不可能。時計も危うい。むしろ残り4科目次第ではパソコン召し上げの可能性も出てきた。危機と直感した長男は、「パソコン使用禁止は、85点でなく平均点以下の時にしてくれ」とはやくも条件引き下げ交渉に出てきた。当然のことながら、家族全員からダメ出しをくらう。ならば、全科目の結果が出て使用禁止が決まるまでは、やりたいだけオンラインゲームをやるぞと長男は宣言している。

パソコンは道具。子ども達が大人になる頃には、使いこなせて当たり前の時代が来ると思い、主に私が自作したものを順次1人1台使わせるようにしてきたのだが、長男を見ていると、ひょっとして教育方針を誤ったかなと思う時がある。
いつかは気がついて、パソコンに振り回されるのではなく、使いこなしてくれると信じているのだが、信じ続ける忍耐力もなかなか辛いものである。

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