2021年5月 2日 (日)

2年連続「緊急事態宣言」でGWを迎える東京、東京2020は中止するしかない

 新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない。2020年4月、ウイルスの正体もよくわからない中での緊急事態宣言。不安な中、自粛という名の実質的なロックダウン。なんとか、感染拡大にブレーキがかかると5月25日に緊急事態宣言は解除され、まるで全てが解決したように、打撃を受けた旅行業や飲食業を支援する「Go TOキャンペーン」が始まる。しかし、夏前から再び感染者が増え始め、第2派といわれる。「Go TOトラベル」も「Go TOイート」も国が補助金を出して、感染を全国に拡大しただけだった。将来の歴史家から「希に見る愚策」と評価されるに違いない。
 当然、「Go TOトラベル」も「Go TOイート」も中断。夏から秋へは比較的感染者は小康状態を保ったが、徐々に気温が下がり始める晩秋の頃から、再び増加。12月半ばからは、忘年会シーズンも重なってか、感染者は急上昇。大晦日には東京都の感染者が1000人の大台を突破した。2021年1月7日首都圏の一都三県に再び緊急事態宣言。
 結局、東京の1日の感染者が100人を切る日を迎えることがないまま、3月21日に二度目の緊急事態宣言は終了した。緊急事態終了の時点で、東京都の感染者数(7日間移動平均)は既に反転増加傾向を示し始めていた。4月12日、東京都の23区と6市が緊急事態宣言の前段階である「まん延防止等重点措置」の対象となったが感染者の増加は抑えることはできず、大型連休(ゴールデンウィーク)を目前にした4月25日に東京都は三度目の緊急事態宣言の対象となった。
 昨年との違いは、大阪府や兵庫県で、感染力が強いとされる新型コロナウイルスの変異株が急速に拡大し、大阪府では連日東京を上回る感染者数が続き、地域医療がパンク状態になっていることだ。東京でも変異株の比率は上昇しており、感染者数が減少に転じなければ、いずれは大阪と同じことになるだろう。三度目の緊急事態宣言の期限は5月11日だが、現在の状況では短くても昨年同様の5月下旬まで延長せざるを得ないだろう。
 結局、輸入されたワクチンの接種が行き渡り、日本国民が集団免疫を得るまで、状況に変化はないだろう。感染者は既に日本全国に広がっているということだろう。人と人の接触が増えれば感染者は増加し、緊急事態宣言等で接触が減れば感染者も減少することことを繰り返している。
 ワクチンの接種は4月29日現在で、医療従事者の50%にとどまっている。高齢者の接種はこれからが本番だし、一般の市民はいつ接種できるのかさっぱりわからない。オリンピックの開催時期までに、せめて国民の半数は接種を終えるぐらいになっていなくては、外国選手も参加する国際スポーツ大会の開催は難しいだろう。少なくとも、国や東京都は、感染者や医療の逼迫度、ワクチンの接種率がどの程度であれば、開催可能と考えているか、明確に示すべきだと思う。それが示せないなら、1年延期した東京オリンピック(東京2020)は中止するしかないと思う。白血病からの驚異的な回復で出場権を手にした池江璃花子選手など、大会の開催を信じて練習に励む選手たちには申し訳ないが、オリンピックの開催期間中に、感染者が日に日に増加して、東京の医療がパンクしては元も子もない。

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2011年12月31日 (土)

2011年を振り返って、「日本回帰」を感じるこの頃

12月はほとんどブログに記事を書かないまま、大晦日を迎えた。

今年2011年は、我々が住んでいる日本そのものが、東日本大震災とそれに連鎖する形で起きた福島原発事故で、大きく変ることになった。
偶然だが、私自身も大きな転機を迎えた。30年近く勤めた職場から、新しい職場に移ったのが3月1日。異動前に挨拶が出来なかった前の職場の関係者を午前中に挨拶して回り、昼食も前の職場の先輩と食べた。挨拶回りが、ようやく一段落し、翌週からはいよいよ新しい職場での最初の出張の準備を始めてしばらくたった午後2時過ぎ、東京も大きく揺れた。震度5強だった。

あれから9ヵ月余。2011年が終ろうとしている。日本での震災後、ヨーロッパではギリシャに端を発した金融危機が本格化し、リーマンショックでの金融危機からまだ脱出できない米国と世界は閉塞感の中にある。欧米では、バブル崩壊後に日本の金融・経済が歩んだ道を、現在、米国や欧州の経済・金融がなぞるように進んでいることを評して「日本化」と言われているいるという。
日本経済よりも、遙かに先進的だったはずの米国、欧州の経済が、結局は、日本の後追いをしているというのは、何とも奇妙な感覚である。我々が手本としてきた欧米型の資本主義のデフェクトスタンダードはいったい何だったのだろうか?多くの人がそう思っているに違いない。

最近の日本の雰囲気として感じるのは、ひとことで言えば「日本回帰」だ。
東日本大震災と福島原発事故という未曾有の大災害の中、日本人が自分たち自身で協力しなければならず、そこには、資本主義の原則では割り切れない「人のために無償で何かをする」という行為が不可欠である。そういう思いを多くの日本人が感じ、行動し、その姿が海外で高い評価を受けることで、少し日本人としての誇りと自信を取り戻してきているような気がする。
最近のテレビやマスコミを見ていると、気のせいかしれないが、日本の文化や伝統を見直すような内容のものが増えているような気がする。1945年8月15日に太平洋戦争に敗れてから、日本の文化や伝統は、軍国日本と同一視される形で否定されることはあれ、見直される機運が生じることはなく、むしろ風化していく一方だったように思う。
しかし、最近では、日本のアニメが海外でもてはやされ、CoolJapanと呼ばれ、レディーガガのような海外のトップスターが「日本が好き」という。実は、日本という国は、自分たちが卑下するほど、悪い国ではないのではないか?と、多くの人が感じたとしても不思議ではない。

2012年が本当に「日本回帰」の1年になるのか、よく見ていきたいと思う。

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2011年5月29日 (日)

本日(2011年5月29日)「栄枯盛衰・前途洋洋」70万アクセス到達で思うこと、「戦後」の終わり

今日(2011年5月29日)の午後9時過ぎ、このブログ「栄枯盛衰・前途洋洋」の総アクセス数が70万件に達した。書き始めた2006年2月26日から数えて5年3ヵ月。60万件を記録したのが、昨年(2010年)の8月28日なので、60万件からから70万件までの10万件をクリアするのにほぼ9ヵ月。50万件から60万件の10万件のほぼ1年かかったことを思えば、少しペースアップした。

この9ヵ月を振り返ると、個人の生活でも、日本という国でみても大きな変化があった。個人的な面では3月から職場が変ったことが一番大きな変化だ。そして、新しい職場に着任早々の3月11日にあの東日本大震災が起きて、1945年以来続いてきた「戦後」が終った。後世の歴史家には、3月11日以降は、「大震災後」を言われるようになるに違いない。

この2011年3月11日以前にも、「戦後」の枠組みは少しづつ崩れていたと思うが、この震災の激震が、とうとう最後の一撃を「戦後」という旧体制に加え、その土台から粉々に崩した。

戦後の日本を支えていた枠組みの終焉の始まりは、1993年8月の細川内閣誕生による「自民党一党支配の終わり」から始まっているように思う。選挙民の意識が多様化し、日本をひとつにまとめてきた自民党政権が終りを告げた。
その後のバブル崩壊に伴う金融危機で、戦後日本の高度成長を資金の面で支えるため「護送船団方式」で守られていた金融機関が次々と破綻し、生き残りのため多くの金融機関の統合・合併が行われた。
そして、今回の大震災の中で、東京電力の福島第一原子力発電所が破綻。その悪影響は計り知れず、この事故までは、この日本の中で最も安定した民間企業であった東京電力が企業として破綻同然の状態に陥った。電力は、日本産業の安定生産のため、欠くべからざるものであり、それを提供する電力会社はこの競争激化社会の中でも、例外的に地域独占、料金認可制度で守られ続けていた。
日本の企業社会を支えてきた土台ともいえる、政治・金融の部分が崩れ、最後の砦であった電気のというインフラも土台を揺るがす大事故に、機能不全となってしまった。

おそらく、これからの50年・100年を見据えた、土台となる仕組みを考え作っていく時期を迎えたのではないかと思う。
経済成長によって日本社会全体を潤そうとし、そのために最も効率的な仕組みが作り上げられていた「戦後」日本。それを支えていた政治も金融も電力もみな機能不全となってしまった。
何を国の政策の基本に据え、その達成のために必要な仕組み・枠組みを新しく考え、組み立てていく時代を迎えたのだと思う。

そんなことを考えずにはいられない、3月11日以降である。

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2011年3月22日 (火)

震災報道への疑問、なぜ海外からの支援に触れないのか?

子どもの頃から、日本の報道機関、マスコミについて疑問に思っていることがある。マスコミの人々は、「この世の中、世界には日本人しか存在しない」と思っているのではないかということである。

航空機の墜落事故が海外で起きることがある。その時に、必死になって伝えられるのは、日本人の死者が怪我人がいるかどうかであり、日本人以外にどんな国の被害者がいるかなど全く報道されない。
先日のニュージーランドの地震で、クライストチャーチの語学学校のビルが倒壊し大きな被害が出た時も、日本人の誰が助かり、何人と連絡が取れないかという事ばかりが報道され続けた。
もちろん、海外での事故や災害で、日本人の被害者・被災者がいるかいないかということは、家族や関係者にとって重要な情報であり、それは伝えてもらわなくてはならない。
しかし、それだけで終ってしまっていいのだろうか?クライストチャーチの倒壊した語学学校には日本人だけが通っていたのだろうか?他の英語を母国語としない国からの留学生もいたのではないだろうか?今回の日本の大震災で、ニュージーランドの地震報道が途絶えるまで、ついに他国の被害者の状況について聞くことはなかった。
なぜ、国際的な事件や災害で、日本のマスコミは日本人のことしか伝えないのだろうか?他国の被害者や被災者がいれば、その国の家族たちも、日本人の家族と同じように悲しみ、苦しんでいるはずなのに……。これも日本人の島国根性の表われなのだろうか?

今回の日本の東日本大震災(関東東北大震災)では、多くの国から救援隊が派遣され、各地の被災地で活動してくれているはずだが、米国隊が日本に到着した時にニュースになっただけで、その後、詳しい報道はほとんどない。いったい何カ国から何人の救援隊が来て、どこでどんな支援をしてくれているのか、助けられた日本人として知っておくべきではないだろうか。
義援金も海外から多く寄せられていると思われるが、伝えられるのは、主に海外の映画スターや歌手などの話だけである。名もない市民の募金によるものもあるに違いない。せめて、日本赤十字に取材して、国別にどれくらいの義援金が寄せられているかぐらい、報道されてもよいのではないかと思う。
何かの機会に、その国を訪問したり、その国の人と会う機会が合った時に、「東日本大震災の時は、貴国の救援隊に助けてもらい、また多額の義援金を送ってもらってありがとう」と言えないとしたら、日本人として恥ずかしいことだと思う。

インターネット時代になって、各国の新聞社や通信社の日本語のホームページも作られるようになっている。せめて、時々、各国の代表的な報道機関のページに書かれたニュースを読み、日本のマスコミの視点だけでない、複眼的な視点を持つよう心がけている。

日本のマスコミには、国際的な視点をもっと意識してほしい。

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2011年3月21日 (月)

計画停電の1週間を終えて思うこと、「精神のバランスをとってしたたかに生きる」

2011年3月11日(金)の「東北地方太平洋沖地震」から2度目の週末を迎えた。地震当日、そして最初の土日、東京電力により計画停電初日の14日(月)と最初の数日間は、目まぐるしく変化する状況に自分自身が対応するのがやっとだった。

その後、日を追って明らかになる岩手県、宮城県、福島県などの被災地での事態の深刻さ、日に日に悪化しているようにも見えた東京電力の福島第一原子力発電所の事故の状況、直接の被災地だけでなく東京においてもガソリンが払底し、食料品や日用品の一部が店頭から姿を消すを見るにつけ、今回の地震の被害が、尋常なものではなく想像を絶するものだったことが、実感として身に迫ってきた。

首都圏の計画停電は、徐々に安定稼働に向かっているように見える。最初は、とにかく、需給をバランスさせることが最優先されていた感じだったが、何日か続けるうちに、明らかになった問題を少しづつ修正しているというところだ。やはり、日本の首都として政府の機能、各企業の本社機能を維持していくためには、そこで働く人を確保しなくてはならない。官僚や社員の通勤の足を確保するため、鉄道への電力供給については、鉄道を所管する国土交通省から東京電力を所管する経済産業省の資源エネルギー庁への申し入れもあって、ある程度の優先安定供給が確保されたようだ。
私が利用する西武鉄道の新宿線や池袋線も停電当初は、毎日のように運行区間が変更された。停電2日めの15日(火)の運行や新宿線が西武新宿-鷺ノ宮、池袋線が池袋-練馬高野台と発表されたため、どうルートを考えても、まともな出勤はできそうになく、休暇を取った。
16日(水)以降は、平日は全列車各駅停車ではあるものの、新宿線が西武新宿-新所沢間、池袋線が池袋-小手指間の運行は確保し、可能な時間帯は、新宿線であれば終点の本川越、池袋線であれば飯能まで運行区間を伸ばすという運用に収斂しつつある。

なんとか、不十分ながらも、東京で働き生活する環境は整いつつある。(そんな中、東京を本拠地とするメガバンクのシステムトラブルが発生したのは想定外の事態だったが…。)

まだ、漠然とした不安もある。依然として、余震はおさまらず、東京も震度6、7クラスの揺れに襲われるのではないかという不安は払拭できない。
さらに、福島原発では、現在も自衛隊員や消防隊員、東京電力と協力企業の社員たちの命がけの作業が続いている。事態が少しづつ改善に方向に向かっていると信じたいが、予期せぬトラブルや惨事が起きてしまうのではないかというつい考えてしまう。

2年半ほど前に、経済の世界では、米国でのサブプライム・ローン問題の事態悪化に端を発した信用不安から米国の大手投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻するという事件が起きた。世に言う「リーマン・ショック」だ。
欧米の金融機関の多くが経営危機に見舞われ、日本でも株価が急落した。そのリーマン・ショック直後の2008年10月に、将棋界では渡辺竜王に羽生名人が挑戦する第21期竜王戦七番勝負の第1局がパリで行われた。その第1局を観戦した『ウェブ進化論』の著者梅田望夫氏は次のように書いた。

個人の手に負えないほど大きなことが周囲で起きたときに、私たち一人ひとりにできることはそれほど多くないということである。もちろんサバイバルのためにベストを尽くすのは大切だ。でも、そんなことばかりを365日24時間考え続けながら生きることは、私たちには到底できないのである。
テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。
第21期竜王戦第1局竜王戦【梅田望夫観戦記】(1)「正しいことが正しく行われている街で」より)

ここでは、テロ、戦争、世界経済の崩壊が例にあげられているが、天変地異・大災害などもそれに含まれると考えていいだろう。
「個人の手に負えないほど大きなことが起きた時は、サバイバルのためにベストは尽くしながらも、個人として精神のバランスをとって、したたかに生きていく」ことを改めて肝に銘じて、また明日から始まる毎日に向き合っていこう。

関連記事
2008年10月25日(土):底が見えない世界同時金融危機を生き抜いて行く方法、第21期竜王戦の【梅田望夫観戦記】から

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2011年3月14日 (月)

東日本大震災の爪痕、東京電力による計画停電初日

3月11日の大地震で、福島や女川の原子力発電所だけでなく、関東、東北の多くの発電所が被害を受けたようで、昨日13日(日)の午後、海江田経済産業大臣が東京電力による計画的な停電実施の話を会見で説明し、夜になって菅首相が東京電力の計画停電を了承した旨の夜の記者会見で説明した。

東京の中心部を除く首都圏を5グループに分け、朝6時過ぎから3時間程度輪番で計画的に電気の供給を止め、東電の供給エリア全体での突発的な大規模停電を回避しようというものだ。

電力会社は供給エリアの電力需要を想定し、それに見合った供給を行うべく、発電所を建設する。発電所は完成までに年数を要するので、将来の電力需要の伸びをにらみながら発電所投資の要否を判断する。
通常は、想定される最大の電力需要を上回る供給力を有する発電所を持ち、需要の増減を常時監視し、その動きに応じて発電コストなどをにらみながら、どの発電所でどの程度発電すれば、無駄なく発電できるかを考えている。
一方、電気は貯めることができないので、ピークの電力需要に対し、少しでも発電量が不足すると突発的に停電が生じる。
停電にならない範囲で、コストをギリギリまで抑えながら、各発電所を運転するのが、各電力会社の腕の見せ所でもある。水力発電や原子力発電はベースの部分であり、石炭や石油、天然ガス等による火力発電の運転の多寡で、供給サイドの調整を行っているという説明を聞いたことがある。
また、今回東電の説明に出てきた揚水発電所というのは、重要の少ない夜間の電力でポンプを動かして、水をダムに揚げ、昼間にその水を利用した水力発電を行うというものであり、夜の発電電力の一部を昼にシフトする手法である。
自前の発電所でどうしても供給が不足する場合は、他地域の電力会社から融通してもらうこともある。しかし、今回は同じ周波数である東北電力も多大な被害を受けている。

日本の中心である東京のさらに中心部の官邸や中央官庁、大企業の本社等の機能を麻痺させないため、それ以外の地域は我慢してもらいたいということである。昨日の夜の時点では、供給力3100万Kwhに対し需要は4100万Kwhで、受給ギャップが1000万Kwhあるとのことだった。
まあ、やむを得ない話だが、突然の決定で、多くの市民が振り回されることになった。

おそらく、東京電力は工場等を多く有する大口需要家とギリギリまで調整したに違いない。大口需要家の中には、鉄道各社も入っていただろう。
昨日の夜の時点では、多くの鉄道会社が路線を限定しての運行との計画で、私が日常利用する西武新宿線は西武新宿-鷺ノ宮間の運行との話で、これでは通勤には使えない。JR中央線が動くなら、中央線の駅まで歩くか、あるいは荻窪まで歩き東京メトロ丸の内線に乗るかなどと思案しながら布団に入った。
今朝になると、西武新宿線が西武新宿-本川越の全線を運行するという。いつもとほぼ同じ時刻7時半頃に家を出て駅に向かった。今朝は、特別ダイヤとのことで、特急、急行、準急などの運行はないようで、掲示板に示される電車は全て各駅停車だった。最初に来た電車が、一番早く着くとのことで、乗り込んだが、本川越からの車両だろう。すでに多くの人が乗っていた。私が乗って3つほど駅を進むと、車両はすし詰め状態になり、その先の駅では、ホームで待っていた人のほとんどが乗れずじまいだった。
また、余りの混雑と周りの人からの圧迫に気分が悪くなった人も出たようで、先発で我々の前を行く列車で急病人が出て遅れているとのアナウンスがあったが、そのうち、私の乗った列車でも急病人が出た。
結局、すし詰めの各駅停車に揺られること1時間余でようやく西武新宿に着いた。いつもの倍以上の時間がかかっている。

西武新宿から地下街を歩き、丸の内線の新宿三丁目駅に向かう。駅で、中央部の車両の入り口に並ぶ。既に7、8人並んでいる。ここで、最初に到着した電車はやはりすし詰めで、私の前の5、6人が乗り込むともう入り込む余地はなく、1本見送った。幸い、1分ぐらいですぐ次の列車が来た上に、見送った列車ほど混んでいなかった。
しかし、丸の内線もJRとの乗り換え駅である四谷で一気に混雑し、赤坂見附まですし詰め状態だった。

会社に着いたのは9時半過ぎ。かなりの社員が席についていたが、私のチームは2人休んでいた。会社としては、今回の大震災対応でいろいろ対応策を考えなければならないのだが、それは同じ部の別の2つのチームの仕事で、私のチームには直接関係ない。また、明日に予定していた首都圏内での出張も、この交通事情ではリスクが高すぎる。同僚が延期をお願いする電話をすると先方の担当者は自宅待機中とのことだった。

新しい会社では、まだ新参者の私としては、余計な口出しをして、忙しいそうにしている同僚たちに迷惑をかけるわけにもいかず、また、私の本来の仕事のパートナー2人が休みとあっては、これからの仕事の相談もできず、結局のところ、今日に関しては、出勤しても何の役にも立たなかった。

計画停電が供給サイドの積み上げと需要サイドの節電で、何とか第1グループから第4グループまで回避される(東電の午前中の説明では、揚水発電の活用で発電力は3300万Kwh、朝方の需要の実績は2900万Kwhとのことだった)中、気になるのは、帰りの足。頼みの西武線は午後4時頃まで西武新宿-田無間、午後4時半頃から9時までは西武新宿-鷺ノ宮間、その後、夜9時以降西武新宿-本川越間を運行するという。
こんなやることのない日に夜9時過ぎまで足止めされるのもたまらないので、同僚に断って、会社を3時半過ぎにでて、何とか午後4時の西武新宿に駆け込んだが、そこにいたのは、上石神井行きで、その後の列車は鷺ノ宮止まり。
選択肢は上石神井行きに乗るしかなく、発車間際になんとか滑り込み、上石神井から家まで1時間以上歩く羽目になった。

さて、明日の西武鉄道はどのような運行計画になるのだろうか。

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2011年3月13日 (日)

東日本大震災のその日

「東北地方太平洋沖地震」と名付けられた大地震発生から2日が過ぎた。

3月1日に新しい職場に移ったばかりで、なおかつ、前の会社での転出の人事発令が出て、新しい職場に移るまでほとんど間がなく、前の会社でお世話になった人で挨拶できていない人も多かった。
地震が起きた日(2011年3月11日)の午前中は、挨拶できなかった人のところを改めて回り、昼も、以前お世話になった先輩とランチをとって、これで、挨拶回りも一段落。

新しい職場では、さっそく、来週、出張ということになり、午後からは出張のための資料を読み出したところだった。

2時半を回り、資料の読み込みにも退屈し始めた頃、床が揺れたような気がした。9日、10日と2日続けて地震があったので、また余震かと思っていたが、この2日間の地震を上回る大きな揺れで、小さなキャビネの上の本がバラバラと床に落ちた。新しい職場での私のオフィスは3階、とりあえず、机の下にもぐり込み、揺れがおさまるのを待った。
少し揺れがおさまったところで、職場のTVをつけてもらう。NHKでは、地震速報のテロップが流れ、すぐ、臨時ニュースを伝えるアナウンサーの映像に切り替わった。震源は東北地方の沖、2日前の宮城県沖の地震より規模が大きいようで、マグニチュードは7.9、震度7のところもあり、震度6強、震度6弱の地域は多地域にわたり、東京も震度5弱と表示されたように思う。さらに、沖合地震に不可避の津波については、多くの地域で「大津波警報」の対象になっており、その高さは6m、あるいは10mと言われていた。
今までの地震で、津波警報は聞いたような気がするが、「大津波警報」という用語は初めて聞いた気がする。

通常の地震であれば、ある程度の情報を確認したところで、テレビを消し、仕事に戻るところだが、どうも尋常ならざる地震の規模に、誰も仕事が手につかない。
しばらくすると、TVで、ヘリコプターや高台にあるカメラからの各地の海岸や港での津波の様子が写され始めた。沖合に津波の波頭が見えたと思うや、みるみるうちに波が迫り、船や車を巻き込み、濁流となって家を押し流す様子が放送される。
仙台市の名取川近くでは、砂浜を乗り越えた津波が川を遡る一方、平野をもどんどんと飲み込み、家や車を押し流し濁流となって、道路を走る車に迫る。気がついたのか、慌てて方向を変え、濁流から逃げる車もあった。
名取川にほど近い仙台空港も濁流に覆われ、ビルと滑走路の一部しか見えない。航空機の姿は見えなかったので、たまたま、駐機している便がない時間帯だったのだろうか。空港のビルの屋上には、多くの人が避難していた。
ハリウッドのパニック映画よりも、生々しく厳しい現実がそこには写されていた。

TVのニュースを見ている間にも、数回、大きな余震があった。最初の地震のマグニチュードは、その後、8.4、8.8と修正され、明治以降の日本の観測史上、最大の地震ということになった。
さらに、今日になって9.0への3度目の修正が行われ、世界の観測史上4番目の大地震ということになった。

午後5時半を過ぎ、通常なら、順次、職場から皆が帰り始める時間だが、首都圏の鉄道各社は地震後の点検のため、全社が運転が止まっている。本震のあとも、大きめの余震が2回、震度2~3程度の揺れもたびたび起こり、なかなか点検が終らないというのが、鉄道各社の実情だったと思う。

職場の同僚の中には、同じ社宅のメンバーと連れだって、歩いても4時間歩けば帰れると5時半頃職場を出た猛者もいた。(結局、彼は11時過ぎに帰宅したと連絡があった)
私は、幸い家族全員の無事が確認できたのでとりあえず安心し、歩いて帰る覚悟を固めつつ、情報源として頼る携帯電話のバッテリーがなくなる寸前だったので、フル充電してから帰ることにして充電を始めた。
充電が70%ぐらいになったころ、枝野官房長官が、「職場のような安全な場所にとどまれる人は、帰宅途中での2次災害を避けるため無理に帰ろうとしないでほしい」とのコメントを出したとニュースで伝えられたため、とりあえず、職場にとどまることにした。

首都圏の鉄道のうち、JR東日本は、11日中の運転再開はないと発表。職場でも、JRを使えないと帰れない人たちは、職場での夜明かしを覚悟したようだった。
誰かが、どこかかから、緊急時用の食料である缶入りのクラッカーとお湯を加えると食べられる五目ごはん、それに毛布を持ってきてくれて、いよいよ泊まり込む用意は万全となった。

用意された食料を食べ、毛布をまとって自分のデスクで仮眠しようとするが、夜になっても、時々、小さな余震はあり、なかなか寝られるものでもなかった。

そうこうしているうちに、夜の10時ぐらいだったか、都営地下鉄や東京メトロの一部路線の運転を再開した。私が家まで帰るためには、西武鉄道の新宿線か池袋線、職場がある日比谷・霞ヶ関界隈から西武線の乗り換え駅である新宿・高田馬場・池袋などに繋がる地下鉄が運転再開をしてくれなければならない。
しかし、すでに夜11時を回っている。通常なら23時、0時台が終電。こんな日だから運転再開となれば終夜運転だろうとは思うが、その確認ができなければ、むやみやたらと外にでても帰宅難民になるだけである。

夜12時過ぎた頃に、「小田急線運転再開、終夜運転」とTVニュースでテロップが流れる。ほどなくして「西武新宿線・池袋線再開、終夜運転」との情報。新宿に繋がる東京メトロの丸の内線、高田馬場に繋がる東西線も運転再開した旨は、東京メトロのホームページで確認できたので、丸の内線の霞ヶ関駅まで行ってみることにして、職場を出た。

霞ヶ関駅に着くと、丸の内線も終夜運転との表示。とりあえず、これで家までは帰れる。
すでに時刻は午前1時前後。5分ほど待つと、電車が到着。赤坂見附で一気に混んだが、まあ、朝のラッシュ並み。新宿で下りて、西武新宿まで歩く。
西武新宿駅に着くと、駅に併設しているショッピングビル「PePe」の入り口の前で長蛇の列。入場制限されているらしい。「ここで、30分、1時間待たされるなら、職場で夜明かしした方がよかったかな」と思ったが、10分も待たないうちに列が動き出し、その後は、順調に列が流れた。駅の改札前には警察官が何人もいて、入場制限の指示を出していた。

ちょうど、到着した電車は私にとってもっとも都合のいい「準急」だった。次の高田馬場で混むことを予想したが、乗る人はまばらで、あとはすんなり、自宅の最寄り駅に着いた。すでに、午前2時を回っていた。駅から少し離れた自転車置き場から自転車に乗り、家に帰り着いた時には、2時半近かった。

いつもは子ども3人が2階に寝て、私と妻が1階の和室に寝ているのだが、帰ってみると、1階のリビングの床に、布団を敷いて家族4人が寝ていた。長い1日が終った。

私も着替えて、家族の雑魚寝の中に身を横たえたが、なかなか寝付かれず、1時間程度しか寝られなかった。

<2011年3月14日追記>「東日本大震災」については、「関東東北大震災」という呼称も使われている。

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2010年6月 6日 (日)

「駅に保育所を作る」-西武鉄道の子育て応援プロジェクト

私は東京郊外の西武鉄道の沿線に住んでいるのだが、昨日電車に乗っていて、ふと網棚の上の広告を見ると「SEIBUの子育て応援プロジェクト」というキャッチフレーズが目に入った。
駅の近くに保育所を作ることで、小さな子どもを抱える共働きの夫婦などが、出勤前に子どもを預け、仕事の帰りに引き取ることできるようにするということらしい。
帰ってきて、ネットで詳しく調べると、この6月(2010年)から本格的にスタートしたばかりのプロジェクト。
東久留米(西武池袋線)、武蔵関(西武新宿線)、中村橋(西武池袋線)が紹介されているが、特に東久留米が「Nicot東久留米」と名付けられ、0歳児から未就学児までを預かるようだ(他の2駅は0歳児から2歳児まで)。実際の保育所の運営は専門の事業者が行う。

女性の社会進出が進み、子どもを生んでからも働く女性が増える中で、考えてみれば、なぜ、このようなコンセプトで保育所が作られることがなかったのか、不思議な気がした。
改めて他の東京の私鉄を調べて見ると、京王電鉄はすでに同じような事業を3年前から手がけているようだ。また、東急電鉄では沿線を中心に学童(小学校1~6年制生)保育事業を行っていた会社を2008年に買収したりと、私が知らなかっただけだった。
これから人口減少時代が到来する中、鉄道会社もこのような形で、沿線住民のニーズに応えていかないといけないということだろう。

また、「子ども手当」だけでなく、このような子どもを生んで育てやすい社会的な環境を整備することも政府には求められているのだと思う。
厚生大臣経験者の菅直人新総理が、この分野に対してどんな見識をもち、どんな施策を実施するのかも、興味のあるところである。

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2009年10月14日 (水)

時代の変化、社会の変化をどうとらえるのか

最近、ブログを書く回数がめっきり減っているし、書いている内容も10回連続で将棋の話題。将棋のブログと誤解されるかもしれない。
常々書いているように、自分ひとりの頭脳だけで勝負し、その結果責任を一人で背負うプロ棋士の生き方は、究極の自己責任の世界であり、その生き様から我々が学ぶものは多いと思っている。

しかし、将棋だけに関心を持っているわけではなく、他にもいろいろな事に関心はある。特に、この半年ほど考えていることは、昨年(2008年)夏のリーマン・ショック以降、時代が変化したことは、誰もが認めるところだろう。

しかし、これまでの時代を支えてきたもののうち、何が変わったのか、一方、変わらないものは何なのか。変わりつつあるものがおぼろげであってもつかめれば、これからの自らの生き方を考える上で、何かのヒントになるかもしれない。そんなことを考えながら、あさるように本を見繕いながら読みあさっているのが、正直なところだ、

時代が変わっているというのは、多くの人が感じていることのようで、硬軟取り混ぜて、現在をどうとらえ、未来へどう活かしていくかをテーマにしている本が増えたように思う。

すでに、このブログで紹介した本以外にも

橋本治著『大不況には本を読む』(中公新書クラレ)

大不況には本を読む (中公新書ラクレ)
大不況には本を読む (中公新書ラクレ)

堤清二、三浦展著『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』(中公新書)

無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 (中公新書)
無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 (中公新書)

上野千鶴子、辻元清美著『世代間連帯』(岩波新書)<紹介済み>

世代間連帯 (岩波新書)
世代間連帯 (岩波新書)

高原基彰著『現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ 』(NHKブックス)

現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)
現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

藤原和博著『35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画』(幻冬舎メディアコンサルティング)

35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画
35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画

五十嵐 敬喜、小川 明雄著『道路をどうするか』(岩波新書)

道路をどうするか (岩波新書)
道路をどうするか (岩波新書)

村上龍著『無趣味のすすめ』(幻冬舎)

無趣味のすすめ
無趣味のすすめ

まだ、今のところ、ブログの記事として取り上げるには至っていないが、いずれ、書く機会が来ればと思っている。変化の大きさを考えれば、まだまだ多くの本を読んで、自分の考えをまとめていくことが必要なのだろう。当面は、インプットの時期である。

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2009年9月 7日 (月)

団塊世代の社会学者上野千鶴子と1960年生まれの政治家辻元清美が現在の日本が抱える問題を語る岩波新書『世代間連帯』

民主党が308議席を獲得して圧勝した2009年8月31日の第45回衆議院選挙。選挙の前に読んだのが、岩波新書の2009年7月の新刊『世代間連帯』。
1948年生まれの社会学者上野千鶴子と1960年生まれの社会民主党の衆議院議員辻元清美の2人の現在の日本社会が抱える問題について語っている。

世代間連帯 (岩波新書)

最初にこの本を見たときは、「ああこの2人で書いたのか」と思った程度だったが、先週末、改めて書店で手にした時、上野氏が団塊世代の1948年生まれ、辻元氏が私と同じ1960年生まれという経歴を読んで、これは読んでみようという気になった。
私は、以前、自分たちの世代は、いつも団塊の世代の後始末ばかりやらされて、割を食っているという思いが強くあったからだ。団塊の世代の女性社会学者と私と同い年の論各の女性政治家。どういうやりとりが行われるのか、興味をひかれた。

語られるのは順に「仕事、住まい」、「家族、子ども、教育」、「医療、介護、年金」、「税金、経済、社会連帯」と続き、最後が「世代間連帯」。詳細は、本書に譲るが、私が最も印象に残った部分を1ヵ所だけ紹介しておきたい。

第2章の「家族、子ども、教育」の中で、上野千鶴子が次のように述べる。

戦後、日本は「教育の社会化」「医療の社会化」、そして「介護の社会化」を実現してきた。次は「子育ての社会化」の実現が社会の優先課題。(『世代間連帯』98ページ)

今回の選挙で有権者は民主党に圧倒的多数を与えたことで、何を選んだのか。何を実現することを託したのか。

ここで言われる社会全体で子育てを支援していく「子育ての社会化」は文字通り最優先課題だろう。

また、この本の中で二人が語ることを読んで思うのは、自民党の長期政権の中で社会の枠組みとなっていた企業を通じた間接的な社会政策の行き詰まったということである。
健康保険も、年金も、税制も、企業に勤めるサラリーマン世帯を中心に設計されているし、企業が富むことで、その余録がそこで働く従業員とその家族にも給与・賞与として行き渡った。企業の従業員と家族は同時に消費者でもあり、給与・賞与の増加は、可処分所得の増加、消費の増加、企業にとっての需要増加として好循環していた。
1990年代以降の経済の国際化、競争の激化により、企業には従業員に回す余録はなくなり、従業員もコストとしてしか扱われなくなった。給料は上がらず、いわゆる労働分配率は低下した。

一方、女性の社会進出に伴い、男性サラリーマン世帯中心の制度設計は、実態に合わなくなってきている。

企業を通じた間接的な世帯中心の社会政策よりも、企業を介さず、男女にかかわらず個人に対して直接政策な働きかけをしていく方が、個人ひいては社会の活性化に繋がるということなのだろう。小泉政権が推し進めようとした新資本主義的施策はあくまで企業を富ませるというアプローチでは、かつての枠組みになんら変化はなく、むしろ自己責任という名の下に、社会福祉施策の切り捨てを行ったということだったのだろう。

有権者が、高度成長時代でこそ成り立っていた制度の枠組みに組み替えを求めたのが、今回の選挙結果なのだろう。「子育ての社会化」という問題も、かつては、企業に下にある世帯・家庭に任されていたが、いまや、世帯や家庭だけでそれを引き受けるには荷が重すぎるということなのだと思う。

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