2007年2月25日 (日)

高校同窓会、450の青春を思う

昨日は、東京地区の高校の同窓会があり、15名ほどが集まった。同級生の一人が、自宅を会場に提供してくれて、時間を気にせずにやれるのがありがたい。

私が卒業したのは、地方の県立高校で、学年の定員が450名。そのうち、現在、東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県に40~50名は住んでいるだろうか。数年前に、集まりだした頃は、6~7名ということも多かったが、人数が増えるに連れ、連絡先も分かるようになり、徐々に参加者も増えている。

今回は、幹事から、参加者に自分の高校3年間について、語るようにと言われてパワーポイントのシートが送られてきたので、書いて送り返す。結局、提出したのは6名だけだったが、ほろ酔い加減で、呂律がちゃんと回っているのか、怪しい口調で、自分の3年間を簡単に話す。

他の5人のシートを見ながら、話を聞いたが、同じ学校で、同じ3年間を過ぎしても、何を1枚のシートに書きこみ、何を語るかは人それぞれ。
勉強のこと、クラブのこと、恋愛のこと、クラスでの行事のこと。何に力を尽くし、何がが印象に残っていることなのかも、全然違う。

そして、卒業後は、それぞれの道を歩み、もう少しで30年が経つ。3年間450人の生き方の線が高校という1つ枠の中で束ねられ、またそれぞれに離れていく。そして、25年ぐらいたって、またその線の何本かは、こうやって東京でクロスしている。
高校時代、話したことのなかった人と、同窓会であって初めて話すこともある。いや、むしろそちらの方が多い。
高校という同じ枠の中にいてもクロスしなかった線が、今になって同窓会でクロスするのも、これはこれで新しい発見があり、面白い。

同窓会に出るか出ないかは、本人の自由だから、会が開かれるのを知っていて、予定も空いているのに出ないという選択をする人もいるかも知れない。その人は、一度離れた線をもう一度、クロスさせることを、自ら拒み避けたということだろう。裏返せば、出席した人は、自ら線をクロスさせることを求めたといえる。

私は、出るからには、単なる昔を懐かしんで、昔語りをするだけの会には終わらせたくない。自分にとっても、相手にとっても、明日につながる、出会い、再会にしたいと思っている。
昨日は、ちょっと飲み過ぎて、後半あまり語れなかったような気もするけれど…。

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2006年7月30日 (日)

人生の四季 、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる

先日から読んでいた『ライフサイクルの心理学』(ダニエル・レビンソン著、南博訳、講談社学術文庫)の原題は”THE SEASONS OF MEN`S LIFE”で、日本で最初に出版された時は、「人生の四季」というタイトルだったそうだ。文庫化する際、改題したそうだ。前のタイトルだと、老人の回顧録のようにも聞こえる。

ライフサイクルの心理学〈下〉 (講談社学術文庫)
ライフサイクルの心理学〈下〉 (講談社学術文庫)

その『ライフサイクルの心理学』の下巻を、昨日ようやく読み終わった。1970年前後の米国の4つの職業(生物学者、小説家、企業の管理職、労働者)の40代の男性10人ずつ計40人のそれまでの人生を丹念に面接調査で聞き出し、そこに共通にサイクルを見いだし、仮説を提示している。

本書の本来のテーマ自体は、まさに、このブログのテーマそのもので、じっくり、数回に分けて書きたいと思うが、この本の最後の方で書かれていた事が、印象的だったので、まずそれを書きたい。

「原始の時代からの長い人類の歴史の中で見れば、家庭というものは、狩猟が中心の時代に、次の世代が自ら狩猟に出て獲物を得て、自活できるようになるまで期間、最も効率的に次の世代を育てるためのシステムであった。20才前後に成人し、自ら生活できるようになるまでが、子育ての期間である。原始の時代には、病気、飢え等で、成人までに亡くなるものもいる。親の世代も、子供が巣立っていく40才の頃には既に衰え、死んでいく者も多かった。
40才以降の中年の時期を、人間が生きるようになったのは、歴史的に見れば、ごく最近の事なので、中年以降のうまい過ごし方は、まだ確立されていないし、それは、更に1000年~2000年という単位でしか、根付いていかないのではないか。」というような趣旨の事が書いてあった。
河合隼雄氏の『対話する人間』にも、似たような話があったが、あの時は、日本の戦国時代が人生50年という話であった。今回は、一気に遡って何十万年という単位の話である。

そう考えれば、我々個々人が悩むのも当然だし、ここで考えた何がしかが、次世代へ引き継がれ、1000年~2000年先の人間の生き方に多少でも役に立てば、それも悪くないかなと思ったりした。

*追記(2006年11月23日)
タイトルを当初の「人生の四季」から「人生の四季、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる」に変更しました。

*『ライフサイクルの心理学』関連記事
7月19日:本格派に挑戦『ライフサイクルの心理学』
7月30日:人生の四季、『ライフサイクルの心理学』を読み終わる

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2006年6月26日 (月)

ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』

ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』を読み終わる。

ゲド戦記 2 こわれた腕環 (ソフトカバー版)
ゲド戦記 2 こわれた腕環 (ソフトカバー版)

今回は、まず、ゲドの物語世界であるアースシーの中にあるカルガド帝国の大巫女「アルハ」が登場する。彼女は、先代の大巫女が亡くなった日に生まれたことから、大巫女の生まれ変わりとして、両親から引き離され、その本来の記憶は闇の世界の生き物に生け贄として捧げられ、”喰らわれし者”となり、闇の世界に仕える大巫女として育てられる。大巫女は墓守であり、彼女の住む館の地下には、墓所の地下迷宮があり、その奥まで立ち入るのが許されているのは、大巫女だけである。
物語の前半は、アルハの日常の生活が淡々と語られ、ゲドはなかなか出てこない。物語の半ばにさしかかる頃に、ようやくケドらしき人物が登場する。彼女の地下迷宮への闖入者として。話は、常に、アルハの目から語られ、最初はゲドらしき人物は第三者でしかない。
彼女は、その怪しい男を迷宮の中に閉じこめ、葬り去ろうとするが、一方で、この闖入者に無関心ではいられないし、結局、悪者として葬り去ることもできない。
ついに、迷宮を支配する大巫女として、闖入者に声をかけ、ここから物語はアルハだけの話から、アルハとゲドの物語への変わっていく。ゲドは、「テナー」というアルハの本当の名前を知っていて、彼女に本当の名前で呼びかける。そこから、彼女が少しずつ自らに目覚めていくが、その間、数々の危機や試練が待っている。

この第2巻『こわれた腕輪』も、第1巻『闇との戦い』に劣らず、深淵だ。第1巻が、ゲドという青年の自己発見の物語とすれば、第2巻はアルハという少女の自己発見の物語である。見方によっては、現代版「眠れる森の美女(いばら姫)」とも思える。少女から女性へという成長の中で、少女(王女)を眠りから解放する王子の役目をゲドが担っているようにも思う。

また、少女の成長という側面だけでなく、本来の自分を亡くし、闇に”喰らわれし者”となって、生きている人間への警鐘の物語にも読める。(ものには、そのものがもつ本当の名前があるというのが、1・2巻を通じたテーマのひとつである。)

さらに、第2巻では、アルハ(テナー)のゲドへの信頼ということが、特にゲドの口から語られる。ゲドも全知全能の魔法使いではなく、アルハの支え、アルハが信頼してくれたからこそ、魔法使いとしての力を発揮できたと語る。

おそらく、全6巻を全て読み終わって初めて見えることが、たくさんあるのだと思う。今日から、第3巻『さいはての島へ』を読み始めることにしよう。

*関係する記事
6月20日:ゲド戦記6冊セットと第1巻『影との戦い』
6月22日:『影との戦い』

6月26日:ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』(本編)
6月30日:ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』

7月5日:ゲド戦記第4巻『帰還』
7月9日:ゲド戦記第5巻『アースシーの風』
7月16日:ゲド戦記『ゲド戦記外伝』
8月5日:『ゲド戦記』宮崎吾朗監督のメッセージ
8月13日:映画『ゲド戦記』を見て

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