2009年8月25日 (火)

著者橋本治が『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフと語る『日本の女帝の物語』(集英社新書)を読み終わる

作家の橋本治は、『窯変源氏物語』(1991年~93年)、『双調平家物語』(1998年~2007年)と日本の古典を題材にした長編小説を書いている。『双調平家物語』は2008年に第62回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞している。

日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 506B)

『双調平家物語』は、平家物語と銘打つものの、飛鳥の時代から説き起こす。いわば、日本の飛鳥、奈良、平安の時代を俯瞰する物語になっている。本書『日本の女帝の物語』は、著者によるあとがき「おわりに」によれば、
「この本は、私の「長い長い小説」である『双調平家物語』の副産物です。ただの『平家物語』の上に「双調」の二文字がくっついたがために、「平家の物語の前段」がやたら長くなったのですが、長くなった「前段」の中核をなすのが、ここに書いた「女帝の時代」の物語です」(『日本の女帝の物語』214ページ)
「私にしてみれば、日本の古代というのは、「女帝の時代」があり、「摂関政治の后の時代」となり、「男の欲望全開の院政の時代」となって、そして「争乱の時代」が訪れるという、三段あるいは四段構えになっているのですが、「平家の壇の浦で滅亡するまでの平家の物語」ということになると、このすべてが一まとめになって、ひたすら「長い長い物語」にしかなりません。それで、こういう『日本の女帝の物語』を書いたのです。」(『日本の女帝の物語』214~215ページ)

私は、日本の歴史の中でも、飛鳥・奈良の時代には興味があって、黒岩重吾の小説(『北風に起つー継体戦争と蘇我稲目』、『磐舟の光芒』、『中大兄皇子伝』、『弓削道鏡』など)から始まって、学者(主に遠山美都男氏)の書いた新書(『大化改新』、『壬申の乱』、『白村江』など)、池田理代子や里中満智子(『天上の虹』、『長屋王残照記』、『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』など)やのコミックなどこの時代を題材にしたものを読んできた。

飛鳥、奈良時代は、推古、皇極・斉明、元明、元正、孝謙・称徳という五人七代の女帝の存在と、一方、皇位継承に関わる血で血を洗うような多くの陰謀やクーデタが特徴なのだが、女帝を生み出す時代の行動原理について納得いく解釈をしてくれているものは、少なかった。

飛鳥から平安の時代を、『日本書紀』や『続日本紀』など当時の書物を読み込み、10年の長きにわたって『双調平家物語』として書き続け、作者なりになぜこの時代に多くの女帝が生まれたのかについての謎解きをしてみせたのが、本書といえる。そこには、天皇になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、同じく、天皇の后になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、があり、それが少しずつ変化していく。
また、その天皇家の周辺で、朝廷の重鎮・官僚として天皇を支える存在である有力豪族や貴族たち、大伴氏から物部氏、蘇我氏から藤原氏へ続く彼らの立ち位置の変化なども、変わっていく。
それを「『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフ」(『日本の女帝の物語』「終わりに」より)として語ったのが本書である。

女帝の多くは、自らの血を引く子や孫を皇位に就かせるべく、他の有力な皇位継承者の即位を避けるため中継ぎの意味で即位したケースが中心であるが、しかし単なる飾りでも傀儡でもなく、多くのことを自ら行っている。また彼女たちが皇位に就いたことで、皇位継承が可能な血統・人材の位置づけが変わってしまう。
私の貧しい要約力では、とてもうまくまとめきれないので、興味ある方は、本書を読んでほしいとしか書けないが、何かいままで見えていなかった、飛鳥から平安の時代の天皇や摂関クラスの人びとの行動原理が、霧のむこうに少し垣間見えた気がする。

おそらく、もっとハッキリみようとすれば、『双調平家物語』15巻を読破する必要があるのだと思う。現在、5巻まで文庫化されているので、自分の日本古代の歴史観をまとめ、一本筋を通すためにも、一度読んでみようと思っている。

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2008年3月27日 (木)

薬師寺展を見る

2007年度もあと残すところわずか。制度上、消化しなければならない休暇が2日あり、今日と明日の2日、仕事を休むことになった。

せっかくの平日の休みを活用しないのは、もったいないので、先日、NHKの朝のニュースでも取り上げられた「薬師寺展」を見るため、上野の国立博物館に行くことにした。さらに、昨日の夜も堪能したが、東京は今週末には桜が本番。上野の帰りに、明るい時間の千鳥ヶ淵の桜を見ることにする。

薬師寺展は、今週の25日(火)から始まったばかり。しかし、国立博物館でのビッグな展覧会は、休みは相当混雑するので、できれば平日に行きたい。しかし、平日でも混んでいるのではないかと心配したが、入館券の販売窓口では、ほぼ待たされることなく、買うことができた。

今回の薬師寺展は、京都遷都1300年の記念してのイベントで6月8日まで開かれている。展示の目玉は、薬師寺金堂の「日光菩薩」、「月光菩薩」の二体と麻布に描かれた「吉祥天女」画像だろう。(昔、切手のデザインに採用されたこともある)

会場の平成館まで行ってみると、それなりに人はいて、各展示物のまわりに人だかりができている。平日でこれだと、週末の土日は渋滞状態のノロノロ歩きが恒常化するかも知れないと思う。
一番の目玉の「日光菩薩」、「月光菩薩」は仏像自体が3mを超える大きな像なので、全く見えないということはないだろう。

どちらも顔は端正で、三曲法と呼ばれる技法で、腰を少しくねらせた姿は、色っぽくもある。これまで、1300年の長きに渡って日本の社会の変遷を見続けてきた仏像であり、またこれから先も、千年の単位で歴史の変遷を眺めていくのだろう。

昼の千鳥が淵の桜の様子については、明日改めて書くことにしたい。

<追記2008.3.28>会場の国立博物館・平成館2階からガラス越しに眺める桜は、まるで一幅の日本画の屏風を見るようだった。

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2008年1月 3日 (木)

BS年末年始スペシャルで「朱蒙(チュモン)」を見る

年末年始の帰省で帰った実家のテレビが液晶テレビに変わり、BSが見られるようになっていた。何気なくチャンネルを回していると韓国歴史ドラマ「朱蒙(チュモン)」が放送されていた。
年末年始スペシャルということで、これまでにDVDがレンタルされている35話までを一気に放送しているとのことだった。
私が見始めたのは20話からなので、その前を埋めることになる。実家で見ることができたのが15話から。

15話から20話までの大きなテーマは朱蒙(チュモン)の国「扶余(プヨ)」の塩の確保である。

内陸国の扶余は、自国では塩を作れない。塩の確保を仮想敵国である漢との交易に依存せざるを得ない。
扶余の糧道を握る漢は、塩を材料に扶余に外交面の揺さぶりをかける。
それを潔しとしない扶余の王は、塩の確保のため、沿岸国への外征さえ検討する。
その扶余国の塩の悩みを朱蒙が解決しよとするところが15話から19話までのメインストーリーである。
その後の話でテーマとなる鉄製武器の製法と合わせ、塩と鉄が古代において、国の運命を左右する重要事項ということだろう。
現代に置き換えれば、軍事と食料の確保だろう。
「朱蒙(チュモン)」は、歴史ドラマだが、現代に通じる様々なテーマを考えさせてくれる現代ドラマでもあると思う。

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2007年2月15日 (木)

『血涙 新楊家将(下)』(北方謙三著)を読み終わる

先週読み終わった『血涙 新楊家将(上)』に続き、『血涙 新楊家将(下)』を読み終わった。

宋の楊家軍と遼の耶律休哥軍、お互いに騎兵を中心にした軍編成で、自軍の中では異色の存在となっており、ともに戦うための集団である。
一方で、時代は刻々と変化する。宋は2代太宗の下で、着実に国力を充実させる。一方、遊牧民の国である遼は、中国北部の燕雲十六州を有するとはいえ、宋との国力の差は如何ともしがたく、度重なる戦争で、民は疲弊している。

時代は、戦いよりも和平壇淵の盟)へと向かっている。そういった時代の中で、楊家の兄弟達、宋から遼に帰順した石幻果はどう生きるのか。少々、哀しい結末である。

次は、北方謙三の大作で文庫化も始まった『水滸伝』に挑戦するつもりだ。

*関連記事 
2006年11月25日:
宋と遼との戦いを語る『楊家将』(北方謙三著)を読み終わる
2007年2月9日:『血涙 新楊家将(上)』(北方謙三著)を読み終わる
2007年2月15日:『血涙 新楊家将(下)』(北方謙三著)を読み終わる

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2007年2月 9日 (金)

『血涙 新楊家将(上)』(北方謙三著)を読み終わる

以前、このブログでも取り上げた『楊家将』(北方謙三著)の続編にあたる『血涙 新楊家将』が昨年の年末に単行本として発売された。
『楊家将』は、吉川英治文学賞まで受賞した読み応えのある作品で、すっかり、北方『楊家将』の虜となった私は、『血涙』も、年末年始の休み中に読むつもりで購入。『強い風が吹いている』と一緒に、しばらく「積ん読」になっていた。

前作の主人公は、宋に帰順した軍閥の頭領「楊業(ようぎょう)」。彼には7人の息子がいて、それぞれ鍛えられ成長し、父を支える。楊業は、変幻自在の用兵で、遼軍を悩ませ、怖れさせる。一方、遼にも、本隊から離れ独立行動を認められた「白い狼」と呼ばれる耶律休哥(やりつきゅうか)がいた。楊業と耶律休哥というお互い認めあったライバルの死力を尽くした戦いが、前作『楊家将』の見所である。

前作後半で、宋の太宗は、先代からの悲願である「燕雲十六州の奪回」を目指して、大軍を率いて、遼に親征する。しかし、遼内に攻め込んだ宋は、大軍ではあるもののまとまりを欠き、太宗の一隊が遼軍に包囲される。楊一族は、太宗を救うため、一族が、あるものは太宗の身代わりとなり、またあるものは戦いの中で次々と最期を遂げる。さらに、楊業自身も、味方の裏切りにあい、命を落とす。楊一族が、命がけで、宋主・太宗を守ったところで、前作は終わる。

『血涙』は、楊一族の男子7人の中で生き残った楊六郎、楊七郎と、宋の軍人で宋主の親政の際、耶律休哥との戦いに敗れ、死にかけて記憶を亡くし、その力量を惜しまれて耶律休哥のもとで、遼の将軍として成長する石幻果を軸に語られる。
父亡き後、散り散りになった楊家軍を再興しようと奔走する楊兄弟。父とも慕う耶律休哥のもとで、一戦毎に力をつけ、ついには耶律休哥に劣らぬ用兵術を身につける石幻果。
そして、楊六郎と石幻果が戦場で相見える。斬り合った楊六郎の剣が石幻果の兜をとばした時、石幻果は、宋の軍人であった時の自分の姿を鮮明に思い出す。そして、そこから石幻果の苦悩が始まる。

『血涙』とのネーミングは、内容を物語る。かつての自分を思い出した石幻果は、その苦悩をどう決着させていくのか。下巻では、『血涙』の名にふさわしい結末が待っていそうである。

*関連記事 
2006年11月25日:
宋と遼との戦いを語る『楊家将』(北方謙三著)を読み終わる
2007年2月9日:『血涙 新楊家将(上)』(北方謙三著)を読み終わる
2007年2月15日:『血涙 新楊家将(下)』(北方謙三著)を読み終わる

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2006年12月17日 (日)

畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

畠中恵の『しゃばけ』シリーズの第4作『おまけのこ』に続き、第5作の『うそうそ』(新潮社)を読み終わった。

タイトルとなっている「うそうそ」は「嘘々」のことだろうと思っていたら、さにあらず、本書の物語の前に「江戸語辞典」(東京堂出版)による語釈として

【うそうそ】
たずねまわるさま。きょろきょろ。うろうろ。(畠中恵『うそうそ』2ページ)

という解説が付されている。なるほど、と思ったところで、読者はすでに江戸日本橋の廻船問屋長崎屋を舞台にした『しゃばけ』ワールドに足を踏み入れている。

今回はタイトルの「うそうそ」に象徴されるように、主人公である若だんな一太郎が、江戸から離れ、箱根に湯治に行くという話である。第1作の『しゃばけ』の後の3作は、『しゃばけ』の世界に奥行きと広がりを持たせる数々の短編を綴った短編集だったが、今回は、日本橋を離れてからの道中と目的地の箱根で巻き起こる数々の出来事・事件を綴った長編である。

長旅で、若だんなのそばを離れることなど考えられない佐助・仁吉の二人の手代が旅の最初からいなくなり、読者は、道中で起こる不可思議な出来事に、一太郎とともに、わけもわからず旅をすることになる。やがて少しずつ、事件の意外な真相が明らかになっていくが、それは読んでのお楽しみということで、本の帯にあるキャッチコピーのみ記しておく。

若だんな、旅に出る!初めての旅に張り切る若だんなだったが、誘拐事件、天狗の襲撃、謎の少女出現と旅の雲行きはどんどん怪しくなっていき……。

締めくくりに、シリーズ5作を読み通してみての感想を少々。

『しゃばけ』シリーズは、江戸時代を舞台にしているが、きわめて現代的なテーマを扱っているように思う。主人公の若だんな一太郎は病弱で、生まれてからこの方、病で床にふせっている時間の方が長いのではないかと思われるほどである。両親は、近所でも評判になるほど、息子に対して大甘だし、お守り役の佐助・仁吉の二人の手代も、何をさしおいても、若だんなが一番大事ということで、一太郎は世間の荒波から二重・三重に守られた箱入り息子である。

しかし、彼自身は、その境遇に安住しているわけではなく、なんとか人の役に立つ自分でありたいと願っている。しかし、店の手伝いをしようとしても、風邪をひく、怪我をするといって2人の手代が何もさせてくれない。その中で、どうやって独り立ちし、一人前になっていくのか。一太郎に悩みは深い。今回、第5作で、日本橋の長崎屋の世界から飛び出して、お守り役の二人の手代もいない中(兄の松之助は一緒だったが)、旅に出たことは、彼の独り立ちへ向けた転機になるのではないだろうか。

そういった一太郎のけなげな姿が、結果として過保護に育てられ、親離れ仕切れない現代の若者(中年も含めて)の共感を呼び、シリーズ100万部を超えるヒットになっているのではないかと思う。 

*『しゃばけ』関連の記事
2006年12月8日:畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む
2006年12月13日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第4作『おまけのこ』
2006年12月17日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

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2006年12月 8日 (金)

畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む

この1週間、新潮文庫の『しゃばけ』、『ぬしさまへ』、『ねこのばば』(いずれも畠中恵著、柴田ゆう挿画)を読んでいた。

   

『楊家将』を読んで、心理学や精神医学の新書も悪くはないが、たまには面白い小説を読むのもいいなと思い、書店の売り場をうろうろしていたら、妖怪変化を描いた怪しげなイラストに惹かれ、文庫になっていた3冊をまとめて買った。

話の舞台は、江戸時代。日本橋の廻船問屋「長崎屋」の若だんな「一太郎」の周りで起こる怪事件を、若だんなが解決していく推理ものなのだが、単なる推理小説というよりは、シリーズの1冊め『しゃばけ』の裏表紙のキャチコピーにある「大江戸人情推理帖」という説明がいちばんぴったりくるように思う。挿絵に出ている妖怪変化が、主人公の若だんなとどのような関係で、どんな活躍をするのかは、書きすぎると面白みがなくなってしまうので、読んでのお楽しみということにさせていただきたい。

シリーズ第1作めの『しゃばけ』は、2001年第13回ファンタジーノベル大賞(主催:読売新聞社、清水建設)の優秀賞受賞作で、若だんな一太郎が初登場の長編。その後の2冊は、若だんなと彼を巡る人々?を題材にした短編集で、廻船問屋「長崎屋」を舞台にした『しゃばけ』ワールドは、その奥行き、広がりをましており、読み手も、いつの間にかその世界に引き込まれてしまう。

さらに文庫化はされていないが、単行本で第4作『おまけのこ』(短編集)、第5作『うそうそ』(長編)と書き継がれており、さらに一太郎の少年時代を描いた『みぃいつけた』というイラストブック(絵本)も登場し、すでにシリーズで100万部を突破するヒット作になっているらしい。新潮社にホームページには、「しゃばけ倶楽部~バーチャル長崎屋~」というコーナーも設けられている。

新潮社の売れ筋の一つのようで、今回も『みぃつけた』の発売と『ねこのばば』の文庫化の機会に合わせ、キャンペーンを行っているようで、多くの書店で平積みで、このイラストが見えるように並べられているし、小説新潮の9月号では、著者のロングインタビューを掲載するなど、大変な力のいれようだ。

かくいう私も、文庫3冊を読んだところで、すっかり『しゃばけ』ワールドのとりことなってしまい、今日の帰り、残る2冊の単行本に、イラストブック、小説新潮まで買い込んできた。しばし、長崎屋の世界にひたるとしよう。

*『しゃばけ』関連の記事
2006年12月8日:畠中恵の『しゃばけ』『ぬしさまへ』『ねこのばば』を読む
2006年12月13日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第4作『おまけのこ』
2006年12月17日:畠中恵の『しゃばけ』ワールド第5作『うそうそ』を読み、シリーズ全体のテーマを考える

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2006年11月25日 (土)

宋と遼との戦いを語る『楊家将』(北方謙三著)を読み終わる

北方謙三著『楊家将』(上・下巻、PHP文庫)を読み終わった。

物語は、中国の宋の2代皇帝太宗(趙光義)の時代。唐が滅んだ後、中国は「五代十国」と呼ばれる分裂期に入る。そして、その混乱を統一した新国家「宋(北宋)」を建国したのが、趙匡胤(太祖)である。太祖の後を継いだ弟の太宗の時代、五代十国の中で最後まで残ったのが、中国北部に位置し、異民族国家「遼」と国境を接していた「北漢」。主人公「楊業(ようぎょう)」は北漢の武将として登場する。

兄の遺志を継ぎ、北漢を滅ぼし中国を統一しようとする宋の太宗は、自ら軍を率いて、親征に出る。その宋の親征軍に立ち向かう楊業。楊業は、塩の商圏を握り独自の収入源を持つ「軍閥」。北漢の都では、常に、楊業の謀反・離反を怖れているが、一方、楊業なくして禁軍(皇帝軍)だけでは、国の守りも覚束ない。宋の太宗の親征を前にしても、北漢の宮中では、楊業に対する疑心暗鬼が囁かれる。忠義の臣である楊業は、北漢の皇帝劉鈞と直接会って、自らの潔白を晴らそうとするが、皇帝までもが、自らを疑っていることを知り、一族のため宋への帰順を決意する。

『楊家将』(上巻)は、このように楊業の宋への帰順から幕を切って落とすが、以後、宋軍の外様武将となった楊業とその一族は、遼と国境を接する宋の北の最前線で、遼軍と対峙することになる。
五代十国の「後晋」の時代に遼に譲渡された「燕雲十六州」の奪還を先代太祖からの悲願とする太宗・皇帝。文治国家「宋」において対立する武官(軍人)と文官。軍人の中でも帰順した外様武将に対する生え抜き武将たちの蔑視。その中で、あくまで武人・軍人として生きようとする楊業とその息子たち。
一方、対立する遼の側も、幼帝を支える実権者の太后と様々な軍人達の人間模様が描かれる。

中国を舞台にした歴史小説は、日本でも多く書かれているが、宋(北宋)の時代を舞台にしたものは、少ない。宋の皇帝の御前での殿試の夢から目覚める場面から始まる『敦煌』(井上靖著)くらいしか私は読んだことがない。『楊家将』は、中国では、『三国志』『水滸伝』と並ぶ人気の物語らしいが、これまで日本に紹介されることはなかった。そんな中、楊業の存在を知った作者は、楊業に「書いてくれ」と呼ばれている様な気がしたと語っている。

本書は、2004(平成16)年に、その年の大衆文学の優秀な作品を発表した作家に贈られる吉川英治文学賞の受賞作となった。過去の受賞作で私が読んだ作品は、1987(昭和62)年の『優駿』(宮本輝)、2000(平成12)年の『火怨』(高橋克彦)などであるが、いずれも物語として読み手を惹きつけてやまない作品だった。この『楊家将』もその2作品に勝るとも劣らない出来である。

*関連記事 
2006年11月25日:
宋と遼との戦いを語る『楊家将』(北方謙三著)を読み終わる
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2007年2月15日:『血涙 新楊家将(下)』(北方謙三著)を読み終わる

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2006年10月 1日 (日)

『偽りの大化改新』を読んで(3)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら、同(2)はこちら

「日本書紀」では、なぜ、中大兄皇子が、「乙巳の変」とその後の「大化改新」の主役として描かれているのか。そして、そこに描かれる中大兄皇子像には、一貫して冷徹・冷酷はイメージがつきまとう。

中村説の結論を言えば、それは、壬申の乱で、兄天智天皇(中大兄皇子)の子である甥・大友皇子(弘文天皇)を滅ぼした天武天皇の意向が働いたというものである。

孝徳崩御後の歴史の通説を眺めてみると、655年の斉明女帝重祚後、中大兄皇子は孝徳朝から引き続き皇太子として母である女帝を助け政治を行ったことになっている。
まず、658年には、謀反の疑いで孝徳の子である有間皇子絞首される。
朝鮮半島では、中国の大国・唐の影響で風雲急を告げており、660年には百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。日本と関係の深い百済を救済すべく、斉明女帝と中大兄皇子は、前線基地として九州・朝倉に都を移し派兵の準備をするが、斉明女帝は661年朝倉宮で崩御する。
663年には、百済復興に派遣した大軍が、白村江の戦いで大敗する。唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州に水城や大野城を築き、国防政策が進められたと言われる。そして、中大兄皇子が天智天皇として即位するにのは、斉明女帝崩御から6年後の667年である。都を琵琶湖に近い近江大津京に定めた。
661年~667年は称制と言われ、天皇不在のまま、中大兄皇子が政治を行ったことになっている。669年には、中臣鎌足が没し藤原姓と大職冠を受け、671年には天智天皇自身も崩御する。天智は、死の間際に弟大海人皇子を呼び、後事を託し後継として皇位につくことを求めるが、それが自分を葬るための罠と察知した大海人皇子は固辞し、出家し吉野に隠遁したことになっている。
翌672年には、大海人皇子が吉野を出奔して挙兵し(壬申の乱)、おそらく天皇に即位済みだあったと思われる大友皇子を滅ぼし、自ら天武天皇として即位する。

天武天皇は、兄天智天皇・甥大友皇子(弘文天皇)父子から、武力で皇位を簒奪したことになる。「日本書紀」は、簒奪王朝である天武朝が自らの簒奪を正当化するために書いたというのが『偽りの大化改新』で語られる中村説である。

正当化するためには、天智(中大兄皇子)は、滅ぼされても仕方ない冷酷・冷徹な人物に仕立てる描く必要があり、「乙巳の変」で蘇我入鹿殺害に直接手を下したり、自分の義父である蘇我倉山田石川麻呂や、孝徳の子有間皇子を容赦なく次々と葬る人物だったと描いたとしている。

具体的に確たる証拠があるわけではないが、歴史が常に勝者によって描かれることを思えば、「乙巳の変」以降の中大兄皇子についての「日本書紀」の不自然な記述は、「乙巳の変」の首謀者が軽皇子(孝徳天皇)だとと考えると、かなりの部分で、より合理的な説明ができるように思う。

孝徳崩御後の疑問点について、いくつか整理して、締めくくりとしたい。

①孝徳朝において皇太子であったはずの中大兄皇子が次期皇位に即位せず、なぜ皇極前女帝が斉明女帝として重祚したのか?

これについては、中村説は、孝徳朝において中大兄皇子は皇太子ではなかった解釈している。皇太子としたのは、「日本書紀」編纂時の潤色で、孝徳の行った古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂の殺害を、傀儡孝徳の下で実権を握った皇太子の行ったことにして、中大兄皇子のせいにしたのであろう。
実際には中大兄皇子は皇太子ではなかったので、皇極が重祚して再び大王(天皇)となることで、初めて、次期皇位継承者として意味での皇太子になったと言えよう。

②では、斉明女帝崩御後、中大兄皇子は、何故すぐに即位せず、6年間も称制を続け、6年後にようやく即位したのか?

実は、これについての明確な回答は、『偽りの大化改新』にも示されていない。「大化改新」にまつわる数々の疑問をそれなりに辻褄を合わせて、解き明かしてきた著者も、ここだけは、うまい解釈が浮かばなかったのだろうか。

一部には、万葉集等の記載から、6年間の称制の間うち665年までは、中大兄皇子の妹で孝徳の皇后だった間人大后が女帝として即位していたという説もあるようだ。658年に有間皇子を葬った後も、旧孝徳大王(天皇)派がそれなりの勢力を持っていて、中大兄皇子がすぐ即位できるような状況にはなく、妥協案として孝徳の皇后の間人を女帝としたのだろうか?しかし、それであれば、間人の崩御後の665年には、即位しても良さそうだが、そうもなっていないし、すでに女帝の前例もあるので、間人だけが女帝であったのに「日本書紀」に書かれないということも考えにくいので、間人即位はなかったのではないかと思う。

私の意見は、唐・新羅連合による百済滅亡という、外交上の大事件を目の当たりにし、即位の儀式・手続を行っている余裕もなかったということではないかと思う。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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『偽りの大化改新』を読んで(2)

『偽りの大化改新』を読んで(1)はこちら

大化改新の時代、あるいはそれ以前の時代の皇位継承というのは、候補者の殺し合いという面がある。
長子相続という明確なルールがあるわけではなかったので、大王家の血筋に連なる成人男子は、皇位継承の候補者となり、そこに大臣・大連などの豪族が外戚として絡み、自分の血縁に連なる候補者を皇位につかせようと画策する。
誰もが納得するような候補者、あるいは、それを支援し擁立する他の豪族ににらみの効く強力な勢力の後ろ盾があればよいが、大王家一族や豪族勢力の中で利害対立があり、候補者が複数名おり調整がつかない時には、最終的に暗殺や謀反の疑いで誅殺する等により、候補者が絞られ、生き残ったものが大王となるということが行われてきた。時には、大王そのものが暗殺されたことさえある(592年崇峻天皇暗殺事件)。

中村修也著『偽りの大化改新』(講談社現代新書)では、乙巳の変に先立って起こった、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件がすでに乙巳の変の伏線と考える。(遠山美都男『大化改新』中公新書もほぼ同様の立場)

舒明大王(天皇)の死後の642年、自らも敏達帝の孫である皇后の宝王女が皇位を継承し皇極女帝となる。
中村説では、この即位は皇極が自分の子である中大兄皇子が成人して皇位につけるようになるまでの中継ぎとして即位したと解釈している。この時点での、皇位継承候補者は、用明帝の孫(聖徳太子の子)で舒明即位の際に、皇位を争ったとされる山背大兄王、そして舒明と蘇我馬子の娘である法提郎媛の子である古人大兄王子、舒明と皇極の子である中大兄皇子、そして皇極の弟である軽皇子である。

皇極にとっては自分の夫と皇位を争った山背大兄王は目障りな存在、また蘇我氏の血が流れているとはいえ、蘇我蝦夷が舒明即位を支持した際に、それと争った山背大兄王は蘇我氏としては御しにくい存在であり、皇極女帝・蘇我氏の思惑が一致して、643年、両者の合意の下、あるいは皇極の指示により山背大兄王は滅ぼされたのではないかと中村説では考えられている。この時の軽皇子の意向はよくわからないが、自分のライバルが減ることに特段異をとなえることもなかったであろうとも言っている。

山背大兄王の排除は、舒明後の後継選びの第1ラウンドである。残った3人のなかで、政治的な力では蘇我氏を背景にした古人大兄皇子、血統という点では父・母ともに大王である中大兄皇子が有利であろう。軽皇子は、蘇我氏の後ろ盾もなく、現女帝の弟とはいえ、最も不利な立場である。
当時の大王即位の条件は、成人することであると言われており、626年生まれとされる中大兄はまだ未成年。古人大兄皇子の年齢は不詳とのことであるが、あるいは未成年であったのかも知れない。
しかし、古人が中大兄より年上で、先に成人し、当時の一大勢力である蘇我氏が推し古人が皇位につけば、すでに中年の軽皇子には即位の目はなくなる。

そこで、軽皇子がそのような不利な局面を打開するために、阿倍氏をはじめ蘇我氏本家以外の豪族と組んで仕掛けた一発逆転のおおわざが「乙巳の変」であるというのが、中村説のアウトラインである。古人大兄皇子を支える蘇我氏の領袖である蘇我入鹿を排除することなく、彼の即位はありえなかったのだろう。(遠山美都男『大化改新』中公新書では、古人大兄皇子自身も「乙巳の変」での殺害対象だったのではないかとしている)

ただ、『偽りの大化改新』では、「乙巳の変」では、皇極退位も軽皇子側のシナリオに含まれていたと考えているが、軽皇子グループと皇極女帝=中大兄皇子母子との間で何のやりとりもなかったのか、皇極=中大兄母子には一切知らされずに行われたことなのかは、わからない。皇極は、軽皇子が当時の軍事豪族である阿倍氏などと組んでいることを知らされ、共通の敵とも言える古人大兄皇子排除のため、乙巳の変の決行とその後の退位に、例えば孝徳の次の中大兄皇子を皇位につけることを条件に、渋々かも知れないが同意していた可能性はあるように思う。

しかし、即位後の孝徳は、大王の権力を発動し、古人大兄皇子を殺害(645年)や中大兄皇子の義父にあたる蘇我倉山田石川麻呂を自刃に追いやった(649年)のは、前回述べた通りである。

孝徳朝の晩年の653年、中大兄皇子と皇極前女帝が、孝徳の皇后で中大兄皇子の妹である間人王后、弟の大海人皇子や公卿大夫・百官人を連れ、孝徳が定めた難波京から飛鳥の地に戻ってしまうという「日本書紀」の記述があり、通説では、大化改新の主役である中大兄皇子が傀儡である孝徳大王を見限って、自立し、都の役人達もそれに従った事になっている。
中村説では、孝徳と皇極・中大兄母子が不和になり、皇極一行が飛鳥に帰ったことは事実だろうとしているものの、公卿大夫や役人まで連れて、難波京に傀儡孝徳を置き去りにしたかのような記述は、当時の大王の権力からすればありえないとし、「日本書紀」による潤色と解釈している。

これ書きながら、私なりに考えた仮説は、孝徳と皇極・中大兄母子は、「乙巳の変」にあたり、相応の協力関係にあったものの、皇極側はあくまでも次の皇位継承者として中大兄皇子の立場を確実にすることが条件だったのではないかということだ。

しかし、軽皇子は大王となると自らの立場第一となり、中大兄皇子の後援者であったであろう義父の蘇我倉山田石川麻呂を排除するという挙にでる。これは、いわば、皇極・中大兄母子との袂を分かち、自分と孝徳朝最初の左大臣阿倍内麻呂の娘小足媛との間の子である有間皇子を皇位後継者にすえようとする政治環境作りだったのではないか?
そうなれば、孝徳と皇極・中大兄母子との関係強化のための政略結婚として孝徳に嫁したと思われる皇極の娘間人大后の役目も必要なくなり、母皇極と一緒に飛鳥に帰ったのであろう。
あるいは、皇極・中大兄母子は、このまま、難波京に留まっていれば、いつ孝徳派にいつ命を狙われるかもしれないという、身の危険を感じての。飛鳥逃避行だったのかもしれない。

この不和の時点での双方の力関係は、よくわからないが、孝徳大王は翌654年に崩御する。『偽り大化改新』では、「日本書紀」の記述をもとに、自然死か病死であろうとしているが、前年の経緯からすれば、皇極・中大兄母子側による暗殺の可能性も否定できないのではないだろうか?

孝徳後は、皇極が斉明女帝として重祚する。孝徳に簒奪された皇位を再び取り返したことになる。

また、長くなってしまったので、なぜ「日本書紀」が中大兄皇子を「乙巳の変」の主役として描いたのかは、さらに次回に検討したい。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

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2006年9月30日 (土)

『偽りの大化改新』を読んで(1)

講談社現代新書の『偽り大化改新』(中村修也著)を読んだ。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が起こしたとされ、日本の古代史の一大転機となった「大化の改新」の真の首謀者は誰かということがテーマである。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

私が高校の頃の日本史の教科書には、「日本書紀」の記述をベースに、次のように書かれている。

朝廷では、馬子のあと、蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇のときには、蝦夷の子入鹿がみずからの手に権力を集中しようとして、有力な皇位継承者のひとりであった山背大兄王をおそって自殺させる事件をおこした。(中略)。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)はともに計略をめぐらし、645年、蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして政権をにぎり、国政の改革にのりだした。
この年、孝徳天皇が新たに位につき、中大兄皇子は皇太子となり、旧豪族のおもだったものを左右の大臣とした。いっぽう、中臣鎌足は内臣、僧旻・高向玄理の2人は政治顧問である国博士となり、ともに皇太子である中大兄皇子をたすけて政治の改革にあたった。この年、政府は都を難波におき、また中国の例にならってはじめて年号をたて大化といった。そのため、以後の一連の政治改革を大化の改新という。
翌646(大化2)年には、政府は4ヵ条からなる改新の詔を発した。
(昭和53(1978)年3月発行、山川出版社『詳説日本史(新版)』35~36ページ)

大化の改新の評価は、テーマそのものが大きいだけに、私がもっている4冊の山川の詳説日本史を見ても、その都度、記述の内容が微妙に変化し、通説もなかなか定まらない様子がうかがえる。4冊のうち最も新しい版では、次のように変化している。

倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変(いっしのへん))。そして王族の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、政治改革を進めた。
646(大化2)年正月には、「改新の詔」で豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制へ移行をめざす政策が示された。(中略)こうした孝徳天皇時代の諸改革は、大化改新(たいかかいしん)といわれる。
(2003年3月発行、山川出版社『詳説日本史』32~33ページ)

四半世紀を経ての記述の変化としては、孝徳天皇(軽皇子)や蘇我倉山田石川麻呂の存在が強調されるようになり、中大兄皇子や中臣鎌足が改革をすすめたというトーンはかなり抑えられているようにも読める。

長々と通説を紹介したが、これに対し著者は

①中大兄皇子は当時の権力者である蘇我入鹿殺害するクーデターを起こし、入鹿殺害にも自ら手も下すという大きなリスクを負ったにもかかわらず、クーデター成功後、大王(天皇)に即位していないのは何故か。
②王族中心の政治のため、蘇我氏を滅ぼしたのに、なぜ皇極女帝は退位しなければならなかったのか。
③軽皇子は、どのような理由で、大王に選ばれたのか。

といった趣旨の疑問を提示し、それを解き明かそうとしていく。
著者は1959年生まれで、私より1歳年上。中学・高校と、教えられた歴史の通説はほぼ変わらないと思われるので、著者の通説に対する疑問も違和感はない。

結論は、乙巳の変の首謀者は、蘇我入鹿殺害後、大王に即位した軽皇子(孝徳天皇)であろうというものである。以下、『偽りの大化改新』の記述から中村説を私なりに整理すると、

②と③については、既に中年の域に達していた軽皇子が自ら大王に即位するため、皇極女帝を支えていた蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏の勢力を背景にして次期大王の有力候補であった古人大兄皇子の勢力をそぐとともに、姉である皇極女帝に退位を迫り、皇極女帝から大王の位を簒奪したと考えれば、皇極が退位し孝徳が即位したこと、さらに孝徳の死後、皇極が重祚し斉明女帝として再登場したことの辻褄は合う。

また、孝徳天皇の治世において、結局、古人大兄皇子が謀反の疑いで滅ぼされのは、孝徳政権下で、古人大兄皇子が生きているということが、孝徳にとって自分の地位を脅かす懸念材料であるからと考えれば説明がつく。
クーデターの立役者の一人だった蘇我倉山田石川麻呂も後に謀反の疑いで自害に追いやられるが、彼が娘を中大兄皇子に嫁がせ、孝徳の次の大王の地位をうかがう立場の中大兄皇子と親密になっていったことが、孝徳に疑心暗鬼を生じさせた結果だとすれば、納得がいく。

乙巳の変のクーデターでの、軽皇子(孝徳天皇)主役説は、すでに『大化改新』(遠山美都男著、中公新書、1993年)で述べられている。遠山美都男はクーデターの関係者の人間関係の分析により、中大兄皇子を除く関係者全てが何らかの形で軽皇子につながっており、「通説では、中大兄・鎌足主従の陰に追いやられていた軽皇子その人こそ、「乙巳の変」の真の主役であったと断定できる」(中公新書『大化改新』196ページ)としている。

では、「日本書紀」では、なぜ中大兄皇子を「乙巳の変」の主役にしているのか。そこに、この著書の遠山版『大化改新』にはない新しさがあるのだが、記事が長くなったので、それについては次回に書くことにする。

*一部、記述の補記、表記の間違いの訂正をしました(2006年10月1日)

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2006年9月 7日 (木)

『明恵 夢を生きる』を読み終わる

昨日、『明恵 夢を生きる』(河合隼雄著、講談社+α文庫)を読み終わった。明恵という僧侶の精神性の高さに驚嘆するばかりである。

明恵 夢を生きる (講談社プラスアルファ文庫)

私は、昔から歴史好きだったこともあって、大学受験の際の共通1次試験も、日本史・世界史という組み合わせで臨んだ。大学時代、社会人のなってからも、歴史関係の新書はずいぶん読んできた方だが、正直なところ、20年間積ん読になっていた京都松柏社版の『明恵 夢を生きる』でしか、「明恵」の名前を見ることはなかった。

試しに、高校時代に使った日本史教科書の定番である山川出版社の赤い表紙の「詳説日本史新版」開いてみる。「鎌倉新仏教の誕生」のサブタイトルで法然、親鸞、日蓮、一遍らが語れたあと最後に、次のように書かれている。

これにたいし、旧仏教諸宗は、いぜんとして大きな力をもっていたので、新仏教を弾圧して、自己の宗勢をまもろうとし、その反面では反省と改革をすすめた。法相宗の貞慶(解脱)、華厳宗の高弁(明恵)、律宗の叡尊らは戒律の尊重を説き、奈良仏教の復興に努力した。叡尊の弟子忍性(良観)は貧民救済・施療などの社会事業につくした。
(井上光貞・笠原一男・児玉幸多『詳説日本史新版』昭和53年、106~107ページ)

その後も、書店等で新しい山川の『詳説日本史』の教科書を見つけるたびに買いたして、他にも、1991年版、1999年版、2003年版が手元にあるが、旧仏教側が新仏教を弾圧したという記述がなくなっている程度で、明恵が奈良仏教(南都仏教)の復興に尽くしたということ以外は書かれていない。

しかし、現実の明恵は、自分の夢を丹念に記録して自分なりの解釈も加えている。年齢を加え経験が増すとともに、夢の内容が変化していく。最後は、自分の中に菩薩が入ってくるという夢を見る。一人の人間の生き方として見ると実に潔いし、年々成長し、その思想の深まりが、如実に夢に反映される様子は「すごい」というしかない。

おそらく、約20年の間、この本を開いても読み進めなかったのは、本の中から、明恵がおまえにはまだ早いと囁いていたのだろう。今の自分でも、十分読みこなせたとは思えないが、なんとか読み通すことができた。

機会があれば、戦前、広く日本人に読まれたと言われる『明恵上人伝記』にも挑戦してみたい。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 1日 (金)

『明恵 夢を生きる』を読み始める

河合隼雄文化庁長官のその後の容態はどうなっているのだろうか?特に、新しいニュースもないようである。

私は、河合長官の著書は、かなり読んでいるが、このほぼ20年積ん読になったままの著書がある。『明恵 夢を生きる』(京都松柏社発行)である。奥書を見ると、1987年4月発行で、私の手元にあるのは、1987年7月第3刷である。ほぼそのタイミングで購入しているはずだ。それから、19年が過ぎ20年目に入る。それ以後、新刊で出た著書もずいぶん読んでいるが、なぜかこの本は何度か手に取るが、挫折してしまう。

鎌倉時代の高僧明恵(みょうえ)は、自らの夢を綴った『夢記』を生涯を通して記しており、それを河合隼雄氏が心理学者、夢分析者の立場から語るもので、非常に興味深いテーマなのだが、なぜか進まない。

どちらかと言えば心理学の専門書的な位置づけで出されたこの著書は、その後、広く読まれ、1995年には「講談社+α文庫」の河合作品の1冊に加えられている。思い切って、そちらを買って読むことにした。文庫版のまえがきには、「文庫版出版にあたりふりがなをふやすことになり、…」とある。単行本の方を、なかなか読み進めなかったのは、ふりがなが少なくページ全体から堅い印象を感じていたからかも知れない。今度こそは、読み終わろう。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年8月 1日 (火)

後漢の祖『光武帝』

『光武帝』(講談社文庫、塚本青史著)を読み始めた。後漢の祖・劉秀を描いた歴史小説で、上・中・下の3冊組だ。

光武帝(上) (講談社文庫)

数ある中国を舞台にした歴史小説でも、劉秀・光武帝を主人公にしたものは、珍しいのではないだろうか。秦が滅んだ後、高祖・劉邦によって建国された漢(前漢)も、約200年続いた後、王莽に簒奪され「新」が建国される。
著者は王莽を主人公にした『王莽』(講談社文庫)も書いており、既に3年前に文庫化されている。そちらは、その時に読んだ。当時、『光武帝』も単行本では既に発刊されていたが、文庫化されてから読もうと待っていたところ、今年の6月にようやく文庫が発売された。

話は、王莽がすでに皇帝となった新の治世下、滅亡した漢の皇統の傍流である劉秀の姉の嫁入りから始まる。まだ、新の治世が乱れ始めたあたりであり、これから世界史の教科書でもおなじみの「赤眉の乱」が始まりそうである。通勤の帰りの電車で読んでいたら、急行から各駅停車に乗り換える駅を通り過ぎてしまった。

中国史は、王朝による統一と分裂を繰り返す歴史である。王朝というのは、見方を変えれば、国を統治するための行政組織・制度そのものである。国民は経済生活をしており、経済は日々変化している。
例えば、農業に鉄製農具が使われるようになれば、木製の農具の時よりは、生産力が拡大し、余剰生産物が生じ、それに伴って貧富の差が生じるなどして、経済の実態と統治の制度の乖離が激しくなると、不満が生じ、反乱が起き国が滅びる。小国に分立した各地の為政者のうち、その時期の経済の実態に合った行政組織や制度を作り上げた者が、民の支持も得て国が栄え、最終的に統一を果たすことになる。
中国の分裂と統一の繰り返しは、経済の実態に合わなくなった制度を壊し、実態にあった制度作りを競う壮大なドラマであろう。
高校時代に漠然とそんなことを考えていたが、大学に入りマルクス経済学を教える経済学部で学ぶと、そのような考え方を「唯物史観」というのだと知った。

王莽のような簒奪のケースでは、簒奪の時点では、前王朝を見放した民衆の支持で、一時的に皇位に上り詰めても、時代にあった新たな制度や組織を作れないと、たちまち民衆の支持を失ってしまうのだろう。
とはいうものの、受験勉強では、後漢の祖となった劉秀(光武帝)が、特に革新的な施策を行ったという記憶もない。なぜ彼が民衆の支持を得て皇帝になれたのか、著者がどのような解釈しているのか、楽しみだ。

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