2023年2月24日 (金)

西野智彦著『ドキュメント通貨失政』(岩波書店、2022年)を読み終わる

本書は、今を遡ること50年以上前になり1971年に起きた、国際政治・国際金融上の大事件である米国による金・ドル交換停止、いわゆるニクソン・ショックに当時の日本の内閣を担った政治家と大蔵省、日本銀行という当時の日本のベスト&ブライテストであったはずの官僚たちが、どう対応したかを当事者たちの発言や執筆等から丹念にたどったドキュメントだ。

 

 当時、私はまだ小学生だったが、父がマスコミ関係の仕事をしていたこともあって、年齢にしてはテレビのニュースを見ていたと思う。ニュースの画面で、夏にさなか、米国のニクソン大統領が会見をする映像が、妙に印象に残っている。その2年後には、第4次中東戦争を契機に石油価格が急騰するオイル・ショックに襲われ、日本は狂乱物価と呼ばれる記録的なインフレに見舞われた。その後始末のために登場した福田赳夫首相の総需要抑制策により、テレビ局は深夜放送の停止を余儀なくされ、夜の街のネオンは消えた。景気は低迷し、長らく続いてきた日本の高度経済成長が終わりを迎え、安定成長へと切り替わる画期だった。
 ニクソン・ショックからオイル・ショック、狂乱物価と短い期間に時代が激しく変動する中、切れ切れに印象的な記憶はあるが、その背景で経済・金融の世界で何が起きていたかは、自分自身十分整理できていなかった。最終的に為替相場は、現在では当たり前になっている変動相場制へ移行するが、その際も、日本の官僚組織は、環境の激動に対してなすすべがなくなり、投げ出すように変動相場へ移行せざるを得なかったのだろうと、勝手に思っていた。
 その後、社会人として経験したプラザ合意後の急速な円高、バブル経済と比べると、本質的なところが、理解できていなかった。
 
 ドル・ショックの背景にあったのは、1ドル=360円という固定相場の下での、日本の貿易黒字の拡大である。その大部分は対米黒字であり、一方の米国では、日本に対して多額の貿易赤字を抱えることについての問題意識が高まっていた。欧州各国の見方もほぼ同様で、日本が独自に円切り上げを行えば、問題は改善に向かったかも知れないが、そのちょっと前までは、貿易黒字と貿易赤字を繰り返し、貿易赤字になれば金利の引き上げて、1ドル=360円の水準を維持しようと汲々としていた日本では、自ら円を切り上げるという発想はなく、1ドル=360円が至上命題であり、官僚だけの力で動かすことはできない政治家マターの聖域でもあった。
 ドル売りが続き、為替レートが円高に進むことを阻止するため、国は今でいう為替介入を行いドルを買い支えた。結果的に、ドル買い支えのため使われた円資金は市中に流出し、過剰流動性となった。高度経済成長期を通じ、企業の旺盛な資金需要に対応するため、都市銀行は自ら集めた預金より貸出金が大きく上回るオーバー・ローン状態が長く続いたが、1ドル=360円防衛のための過剰流動性の結果、都市銀行のオーバー・ローンが解消されたと著者は書いている。これまで、都銀のオーバー・ローンは、経済成長で内部留保を充実させ、それが銀行預金に回るとともに、同時に借入需要が減ったことで、解消されたのだろうと漠然と理解していたが、このように明確に説明した資料は、読んだことがなかったので、永年の謎がようやく解き明かされた。
 これも巨視的に見れば、輸出で日本企業が競争力をつけ、外貨(ドル)を稼ぎ、その稼いだドルが、当時の実勢レートよりも割高な1ドル=360円で国が買ったことが、日本の企業への実質的な補助金となり、日本企業が内部留保を充実させ、それが預金として銀行に環流していき、オーバー・ローンが解消されたと考えれば辻褄はあう。

 過剰流動性の発生は、当時としては、異例の金融緩和でもあり、オイル・ショック前から物価上昇の兆しはあり、日本銀行は小刻みな金利(公定歩合)引き上げ等で、インフレが行き過ぎないようにブレーキをかける必要があったが、政治家や大蔵省の抵抗にあって進まない。
 また、官僚たちは当時の外国為替管理制度に妙な自信をもっており、為替相場の変動を管理できると考えていた。
 過剰流動性を十分に吸収できないうちに、オイル・ショックを迎え、過剰流動性に石油価格の上昇が加わったことで物価上昇には手がつけられなくなり、金利引き上げだけでは、抑えられなくなってしまった。
 
 『通貨失政』というタイトルは、ドル・ショックに始まったつまずきへの対応が、後手後手に回ったことが、狂乱物価という危機を招いたことを示している。
 当時の日本の政治家や官僚が、日本経済の力を過小評価し1ドル=360円の死守を至上命題としたことによる現状認識の誤りから全ては始まっている。また、当時の規制金利の体系は、公定歩合と預金金利、郵貯金利が連動していないなど金融政策の効果を減殺するようなメカニズムとなっていた。また、国家による為替管理制度への過信もあだとなった。
 
 これまでに起きたことがないような想定外の変化には、誰しも弱い。あれから50年余、リーマン・ショックの回復途上にコロナ禍に見舞われ、日本銀行は異次元緩和とも呼ばれる、大規模金融緩和を継続し、そのさなかにロシアがウクライナに戦争を仕掛け、エネルギ-価格や食料価格が上昇し、輸入物価の上昇に押され、円安も加わって、国内物価の上昇を始めた。
 変動相場制が行き渡る現在は、50年前とは違うが、符合する点も多い。これから何が起きるのか、脳内シュミュレーションをするためにも、読むべき本だと思う。

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2021年5月22日 (土)

北条早雲(伊勢新九郎盛時)を描く『新九郎、奔る!』(ゆうきまさみ、小学館)

 主人公伊勢新九郎盛時は、後に小田原で戦国大名として名をなした北条早雲。足利八代将軍義政の時代に室町幕府政所の執事として権勢を誇った伊勢貞親の甥にあたり、父盛定は伊勢家の庶流だが、貞親の妹を妻とし、貞親の義弟となり、貞親の片腕として活躍する。その盛定の側室が生んだ次男が新九郎である。
 世継ぎの生まれない義政が僧職にあった弟義視を将軍の後継にと還俗をさせたが、その後、義政に長男が生まれ義視の立場が微妙になっている時期から物語は始まる。
 将軍義政の側近として権力を振るう伊勢貞親は権謀術数にたけるが、行き過ぎて自らの地位を危うくすることもある。義兄と行動を共にする新九郎の父盛定も、それに巻き込まれざるを得ない。そのような京都で山名宗全と細川勝元のそれぞれの旗頭にした応仁の乱が始まる。盛定が申次を務める駿河守護今川義忠の上洛では、姉の伊都が見初められ、その後、今川義忠に輿入れする。

 ストーリーの大枠は近年の研究に基づいているが、新九郎が山名宗全や細川勝元とも関わる場面が作られる。まだ若い新九郎が父盛定の名代として、領地である備中国荏原に赴き、領地の経営にもあたる。荏原郷を東西で二分して治める同族との確執もある中、地元の様々な課題と取り組む。また、現代の世相を反映するように、京都で天然痘や麻疹の流行、備中では水害に見舞われる苦労することも描かれる。
 現在、刊行済の全7巻では、領地経営に取り組む新九郎の姿までだが、今後、成長とともに姉の嫁ぎ先である駿河今川家とどのように関わり、伊豆そして、相模へのどう展開していくか楽しみだ。
 一般向けに書かれたとはいえ、前回紹介した『戦乱と政変の室町時代』、『応仁の乱』『享徳の乱』などで活字を追うだけでは、すんなり頭に入らなかった三管領四職の各家の家督争いの人間関係などが、漫画の中で特徴を持ったキャラクターとして描かれるとイメージしやすくなる。
 この漫画をみつつ、作者ゆうきまさみが「『新九郎、奔る!』の第一歩は、この本を手にとった瞬間に始まりました」と帯に推薦文を書いている『戦国北条五代』(黒田基機著、星海社新書)を読んでいる。
  

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2021年5月16日 (日)

『戦乱と政変の室町時代』(渡邊大門編、柏書房)を読み終わる

日本史好きだが、室町時代はどうしてもなじみが薄い。高校の日本史の教科書で、政治だけ追いかけていくと鎌倉時代末から南北朝の後醍醐天皇と足利尊氏の争い。南北朝の統一を成し遂げ盤石の室町幕府を作り上げたようなに見える足利義満の時代は、明との勘合貿易そして金閣寺の印象ばかり残る。その後、くじ引きで将軍になった義教は嘉吉の乱で赤松氏に殺害され、将軍の権威は一気に失墜したと思う。その後、義政は政治に関心をなくしたように見え、応仁の乱が始まるが、なぜ、天皇も、将軍もいる政治の中心京都で町中を戦火に巻き込む応仁の乱が起きて、あれほど長く続いたのかも納得できる説明はない。戦国時代に入ると、足利将軍は織田信長に顔色をうかがう存在になってしまう。
本当に、義満の権力は盤石だったのか、将軍の義教がなぜ部下の武将に殺されなければならないのか、前後のつながりや歴史がそのように動いた必然性がよくわからないまま進んでいく。むしろ室町時代は金閣寺や銀閣寺、連歌などの文化、土倉などの経済面の記述の印象が強い。

そのような学校での歴史教育のわからなさもあってだろう、しばらく前には呉座勇一の『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになり話題になった。私自身は、応仁の乱の少し前に関東で始まった享徳の乱を取り上げ峰岸純夫の『享徳の乱 中世東国の三戦争戦争』(講談社現代選書メチエ)が室町期の関東で何が起きていたのか、知識の空白を埋めてくれた気がした。しかし、それでも、まだ室町時代全体は繋がらなかった。思えば、足利尊氏、直義の兄弟が争う「観応の擾乱」から始まり、一族内の複雑な利害関係が絡む室町時代だからこそ、それぞれの乱、政変がなぜ起き、どう決着したのか?それで乱や政変の首謀者に正義はあり、敗者の敗北はやむを得なかったのか?そのあたりの説明がないとなかなか納得できない。

この『戦乱と政変の室町時代』は、鎌倉末、南北朝、室町初期と続く「観応の擾乱」から始まり、「明徳の乱」「応永の乱」「上杉禅秀の乱」「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「禁闕の変」「享徳の乱」「長禄の変」「応仁・文明の乱」「明応の政変」と12の乱、政変を取り上げ12人の歴史学者がそれぞれの事件を綴る。高校の日本史の教科書では、脚注で終わってしまっているような、あるいは脚注にも取り上げられていないようなものあるが、多くの乱、政変は、それ以前の乱や政変に必ずしも正義はなく、首謀者の権力欲や私怨で起き、敗者の側も納得していないので残党が新たな戦いを起こったりしている。

室町幕府は、足利将軍が君臨するが管領をつとめる細川、斯波、畠山の三管領、侍所の長官をつとめる赤松、一色、山名、京極の四職などの各家が守護大名として各国を治めるが、将軍は常にどこかの一族が強大な勢力になるのを避けるため、常に各家の家督争いなどにつけこみ、陰に陽にどちらかの肩をもち、もう一方の力をそぐ。さらに、将軍家の分家で関東に駐在する将軍の名代である鎌倉公方とも時間の経過とともに、反目し、関東管領(上杉家)に鎌倉公方の監視の役目も負わせ、肩入れする。関東は、鎌倉公方と関東管領が利根川を挟み、東西に分かれて対峙する。鎌倉公方が、鎌倉から古河(こが)に移り古河公方と呼ばれるのも、鎌倉が管領側の支配地域となり帰還できなかったことも大きい。鎌倉公方が幕府と反目し、古河に移る中、京都側が伊豆に堀越(ほりごえ)公方を据えるのも、本来の鎌倉公方は堀越公方と言わんがためであろう。

呉座勇一の『応仁の乱』で、当時の政治情勢が複雑に入り組み、簡単に理解しようとすること自体が無理な話であることがなんとなくわかり、峰岸純夫の『享徳の乱』で、教科書にほとんど書かれない室町時代の関東でも、鎌倉公方を頂点とする主従関係の中で、有力な家でも主従の争いなど様々な興亡があり、その最後を締めくくるように登場するのが後北条氏である。室町将軍の側近だった伊勢家の出身といわれる伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)。鎌倉時代に将軍を支える執権だった北条氏にあやかるべく、二代目北条氏綱の時に北条を名乗ったということらしい。
その二冊を読んでもまだ細切れだった室町時代の政治の流れが本書を読んで、大きな流れはつかめた気がする。

室町時代をもう少し理解したいと思う、歴史ファンにはお勧めの1冊だと思う。

 

 

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2021年5月 3日 (月)

「藤原定家『明月記』の世界」(岩波新書、村井康彦著)を読み終わる

久しぶりに、読んだ本の感想を書こうと思う。藤原定家は、学校では、百人一首の選者として、古典の時間に習うが、では、歴史の時間軸では、どの時代に生きた人なのか、自分の中では、きちんと位置づけることができていなかった。
 そんな思いこともあって、岩波新書でこの「藤原定家『明月記』の世界」が発刊され、書店に並んだ時、すぐ買ったが、しばらく積ん読になっていた。
 
 NHKBSの歴史番組「英雄たちの選択」の正月スペシャル「百人一首~藤原定家 三十一文字の革命~」の再放送を見て、藤原定家が承久の乱を起こした後鳥羽上皇の命で「新古今和歌集」の編纂を任されたこと、和歌で鎌倉幕府三代将軍源実朝とも交流があったことを知った。
 
 昨年に続き、新型コロナの感染拡大で、GW前に3回目の緊急事態宣言の出た東京では、旅行もままならず、近場の公園に散歩に行くのがせいぜい。何か本でも読むかと思って、積ん読本の中で目についたのが、この「藤原定家『明月記』の世界」だった。

 読んでみて、『明月記』が1162年生まれの定家が1180年から1235年までの56年間を書き綴った膨大な個人の日記であり、定家の父藤原俊成、定家本人、子の藤原為家の三代にわたる記録になっていること、56年の日記の中では散逸した部分もあること、定家の末裔が冷泉家として現在も健在であることなど、恥ずかしながら初めて知った。

 50年を超える期間の膨大な日記を、250ページほどの新書の中で語るのは大変だったと思う。著者は、歌聖としての定家より、宮仕えの中で一喜一憂する定家、子を持つ親としての定家など、現代の我々でも共感するような人間くさい部分にスポットを当てている。
 定家が、極めて自己中心的であったっこと、母親が違う二人の息子のうち、年長で長男にあたる光家には極めて冷淡な対応をし、三男にあたる為家には期待をかけ親バカぶりを隠さないところには驚いた。「英雄たちの選択」で描かれた定家像とは違う人間定家が描かれていた。
 歴史上、名を残した人物が必ずしも人間的に優れていたとは限らないということだろう。むしろ、自己中心的で自分の和歌に対する自信があったからこそ、歌聖と呼ばれるほどの業績を残せたのかも知れない。定家は、時代の変わり目である激動の時代に、80歳まで生きている。

 

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2011年4月24日 (日)

吉村昭著『三陸海岸大津波』を読んで思う記録することの大切さ、天災は忘れた頃にやって来る

知人がTwitterで読んだと書いていた吉村昭の『三陸海岸大津波』という本が、ずっと気になってきたが、先週、職場の近くの書店で見つけたので、さっそく購入した。

三陸海岸大津波 (文春文庫)
三陸海岸大津波 (文春文庫

吉村昭の作品はペリー来航時の主席通詞を勤め、その後、日本で初の本格的な英和辞典の編纂にあたった掘達之助という人物を主人公に描いた『黒船』という小説と、エッセイを読んだ程度なので、わずかな作品を読んだだけの感想だが、『黒船』を読む限り、事実を丹念に調べ、淡々と書き綴っていくその姿勢には共感するものがあった。尊敬する作家のひとりだ。

『三陸海岸大津波』は、その吉村昭が三陸海岸沿岸を丹念に取材して歩き、今から40年以上前の1970年に『海の壁-三陸沿岸大津波-』とのタイトルで中公新書としてから刊行され、その後1984年に中公文庫となり、さらに20年後の2004年に文春文庫にも入った。そして、今回の東日本大震災で再び書店の店頭に平積みされるようになった。
私は最初、この本を探す時、中公文庫の棚ばかり見ていて、文春文庫で再刊されていることにまったく気がつかなかった。

この本では、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)に三陸地方を襲った地震と津波の被害、さらに昭和35年(1960年)に発生した南米チリの地震に伴う津波の被害について語るととも、それ以前も含め、この地域がたびたび津波に襲われた歴史にも簡単に触れており、今回の大震災でも話題になった平安時代の貞観津波にも言及している。

読んでみると、明治29年、昭和8年の津波の被害の描写が、今回の大震災の被害とそっくりなことに驚く。
また、明治・昭和の津波も地震によるものであり、地震の前兆として、どちらもしばらく前から漁業が豊漁となったことと、井戸水が濁ったとの共通点があったことが指摘されている。
今回の震災前はどうだったのだろうかと気になってしまう。

また、津波のことを、当時は、地元の人たちが「ヨダ」と呼んでおそれていたことも、津波が意志をもった怪物のように思えて、興味深かった。

「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉があるが、今回の震災は我々にその言葉を思い起こさせることになった。災害についてこのような記録が残されることは、将来に向け備えるためには、大切なことだと思った。

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2010年8月 9日 (月)

安彦良和著『虹色のトロツキー』愛蔵版全4冊を一気に読み上げる

先週、ようやくこの半年くらい絶え間なく続いていた仕事が一段落したのと、先週が土曜日まで飲み会が続き、とても昨日1日で回復できそうになく、今日は一日休暇をとった。

せっかくの休みなので、先月買ったままで、ほとんど手つかずのままおいていた安彦良和著『虹色のトロツキー』愛蔵版全4冊(双葉社)を、1日かけて読み上げた。

虹色のトロツキー愛蔵版1
虹色のトロツキー愛蔵版1

虹色のトロツキー愛蔵版2
虹色のトロツキー愛蔵版2

虹色のトロツキー愛蔵版3
虹色のトロツキー愛蔵版3

虹色のトロツキー愛蔵版4
虹色のトロツキー愛蔵版4

『虹色のトロツキー』は建国まもない満州国を舞台に、日本人の父とモンゴル人に母を持つ青年ウムボルトが時代に翻弄されながら生き、戦う姿を描いた作品だ。

作者の安彦良和はアニメーターとして「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインを担当したことでも知られるが、今回の『虹色のトロツキー』愛蔵版4の巻末に収録されているインタビューでは、

「昭和天皇が死んだ年にアニメを辞めました。(中略)今度は、多少売れなくても、自分の好きなことをやっていこうと踏ん切りもついていました」(『虹色のトロツキー』愛蔵版第4巻526ページ)

と語る通り、1990年代に入ってからは、漫画家として多くの作品を発表しており、この『虹色のトロツキー』も1990年11月から1996年11月まで6年に渡り『月刊コミックトム』に連載されたものである。

安彦作品には、歴史を題材に取り上げたものが多くあり、一時期、特に古代史に凝っていた頃、日本の古代史・古事記に取材しで古事記巻之一『ナムジ』(大国主命が主役)、古事記巻之二『神武』(神武天皇が主役)、古事記巻之三『蚤の王』(野見宿禰が主役)のシリーズを中公文庫コミック版で読んだ。

ナムジ―大国主 (1) (中公文庫―コミック版)
ナムジ―大国主 (1) (中公文庫―コミック版)

神武―古事記巻之二 (1) (中公文庫―コミック版)
神武 (1) (中公文庫―コミック版)

蚤の王―野見宿禰 (中公文庫―コミック版)
蚤の王―野見宿禰 (中公文庫―コミック版)

記紀神話と満州国については、本人の中で一つの共通軸で意識されていたことが、『虹色のトロツキー』愛蔵版4の巻末インタビューでは語られている。

「戦後民主主義にとっての二つのタブーとして、古代神話と満州があってどちらもナショナリズムと結びついているんです。そのタブーを全面否定でない形で扱おうとすると、民主的でないから触れるべきではないとされてしまう。(中略)『ナムジ』と『虹色のトロツキー』は、はじめて書きたいものを書いた作品だったんです。」(『虹色のトロツキー』愛蔵版第4巻526ページ)

古代記紀神話は、忌むべき皇国史観の裏付けであり、満州国はその実践であるということで、戦後民主主義にとっては思い出したくない過去の遺物といことになるのだろう。しかし、何も知らせない、教えないということが本当によいのかとつい考えてしまう。
古事記が語る古代史の中にもひとかけらの真実は隠されていると思うし、満州国のありようについても、本来、きちんと総括する必要があるはずである。

『虹色のトロツキー』は、主人公ウムボルトこそ作者の創作の産物であるが、主人公を巡る人びとの中には、石原完爾、辻正信、甘粕正彦、川島芳子、尾崎秀実など多くに実在の人物が登場する。
作者はインタビューの最後に次のように語る。

「明らかに問題ある人物を除いては、皆なにがしかずつ正しくなにがしかずつ間違っていたというわけです。その人が好むと好まざるとにかかわらず立たざるをえなかった立場や、自己形成の過程で引きずってきてしまっている観点というものがあって、そういう人たちの寄り集まりが、この世の中なんです。ある立場の人たちの陣営と、違う人生の人たちの集まりがあって、どちらが正しいか間違っているかといことを判断することは、所詮できないのです。」(『虹色のトロツキー』愛蔵版第4巻528ページ)

真珠湾攻撃で日本が日米開戦の泥沼に入りこむ前の歴史とて、すべてが必然ということではないだろう。

知の巨人・超人と言われる松岡正剛が現在、丸の内丸善本店4階に松丸本舗という松岡書店ともいうべきコーナーを設けていて、それをテーマに『松岡正剛の書棚』という解説本が出され、その中で松丸本舗に収められている古今東西のお勧め本が紹介されている。
本書『虹色のトロツキー』はその中(115ページ)でも「安彦良和の傑作中の傑作」として紹介され、さらに「半藤一利の『昭和史』を読んで面白いと思った読者はぜひ読んでもらたい」と書かれている。
『虹色のトロツキー』から『昭和史』へ遡ってみるのも面白いのではないかと考えている。

松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦
松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

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2010年8月 4日 (水)

橋本治著・文庫版『双調平家物語』全16巻をとうとう読み終わる

昨日の朝の通勤電車の中で、中公文庫版『双調平家物語』の最終第16巻をとうとう読み終わった。

双調平家物語〈16〉落日の巻(承前)潅頂の巻 (中公文庫)
双調平家物語〈16〉落日の巻(承前)潅頂の巻 (中公文庫)

中央公論新社による単行本の最終巻第15巻が刊行されシリーズが完結したのが2007年10月。文庫版の刊行開始が2009年4月。毎月1巻が刊行されるペースで、先月(2010年7月)、文庫版の最終第16巻が出て、文庫版も完結した。

私自身は、2009年8月に、著者橋本治自身が『双調平家物語』のスピンオフと語る『日本の女帝の物語』(2009年8月刊)をまず読み、これが格好の入門書となった。同書の後書きで著者が語った以下のコメントは、そのまま『双調平家物語』のあらすじになっている。

「私にしてみれば、日本の古代というのは、「女帝の時代」があり、「摂関政治の后の時代」となり、「男の欲望全開の院政の時代」となって、そして「争乱の時代」が訪れるという、三段あるいは四段構えになっているのですが、「平家の壇の浦で滅亡するまでの平家の物語」ということになると、このすべてが一まとめになって、ひたすら「長い長い物語」にしかなりません。それで、こういう『日本の女帝の物語』を書いたのです。」(『日本の女帝の物語』214~215ページ)

その後、2009年10月に本編といえる文庫版『双調平家物語』を読み始めた。その時点では、6冊ほど既刊があったが、ほどなく既刊は読み終え、毎月下旬に刊行される中公文庫版の新刊が出ると買い求め、1週間ほどで読み終え、次の新刊を待つということを繰り返した。とうとうその長い道のりも終った。

橋本治の凄いところは、歴史上の出来事を書くにあたって、常にその時代に身をおいてその時代の視点で時代を眺め、考えて、書いている点である。後世の我々は日本の歴史を学び、平安時代の末期の朝廷で平家一門が隆盛し、壇ノ浦で滅びたことも、源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開いたことも知っていて、あたかもそれらを歴史上の必然、避けがたい出来事のように思いがちだが、それは結果がわかっているからそう思うだけで、その時代を生きた人びとは、自分たちの行動の結果が、どのような結末に繋がるか知るよしもない。

常に、その時代を生きた人びとの視点で描いていくと、結果的にその時代の空気、雰囲気のようなものが、醸し出されることになる。読んでいて、目から鱗が落ちるような思いを何回もした。
例えば、最終16巻では、平家との戦いに勝利した源頼朝が鎌倉に在って、朝廷に対し征夷大将軍の地位を望むものの、時の最高権力者「後白河法皇」は、決してそれを認めない。頼朝が征夷大将軍に任ぜられるのは、後白河法皇の死後のことである。日本史の教科書で、「1185年に壇ノ浦戦いで平家が滅び、1192年の源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開いた」ということを学んだだけでは、わからない部分である。
そこには、時としてその地位を脅かされながらも、結局は最高権力者として君臨し、配下の貴族や武家の誰かが突出した権力を握ることを良しとせず、常に「夷を以て夷を制す」を実戦してきた後白河法皇の姿が垣間見える。
摂関家藤原氏に専横には、平清盛を筆頭に平家を重用し牽制する。平家一門がその分を忘れ法皇を疎かに扱えば、源氏を牽制に使う。木曽義仲が都入りし、横暴と思えば、源頼朝を用いる。頼朝が強大になりすぎたと思えば、弟の義経に頼朝を討たせようとするという具合である。

平清盛の哀れは、藤原氏への当て馬として後白河法皇に登用されたに過ぎないのに、法皇の寵愛を疑うことなく、それに踊らされたことと作者橋本治は解釈している。平安時代末期の争乱の時代の影には、つねに後白河法皇の姿があり、貴族、武士の多くがその手の踊らされていたに過ぎないのだ。

しかし、その後白河法皇も永遠ではない。後白河法皇が66歳で薨去ののち、孫に当たる後鳥羽天皇が即位する。
平家滅亡の壇ノ浦では、幼少の安徳天皇を抱え清盛の妻二位の尼が海の身を投げる。三種の神器の一つ「草薙の剣」とともに。それは、二度と見つかることはない。
三種の神器のうち鏡は「知」、勾玉は「仁」、剣は「勇」とも言われるそうだ。剣が象徴する「勇」の裏付けは「力」。

『双調平家物語』は次のように締めくくられる。

「平家西走後、御位に即かれた後鳥羽院は、三種の神器のうち、宝剣を欠かれた帝だった。であればこそ、太刀作りにご執心でもあられた。「武は鎌倉に持ち去られた」と思し召された院は、そのお力を取り戻されたく思し召されて、「兵を挙げよ」と仰せ出だされたのである。
仰されるばかりで、院のおわしまされる都に、「力」と申し上げるべきものは、すでになかった。
二位の尼は、なにを思って、宝剣を腰に差したのか。お譲りのこともないまま、御位を失い給われた幼い帝を、なぜに抱き奉って、壇ノ浦の水へ飛んだのか。
清盛の妻はなにも語らない。清盛の妻が海に飛んだ時、王朝の一切は終っていたのである。」(中公文庫版『双調平家物語』339ページ)

16巻に渡る長い物語は、歴史に関心のなく、似たような多くの人名を読み分けるのが面倒と思う人には退屈な物語かもしれない。しかし、そこには、歴史のその時々と自らの夢という名の欲望を果たそうとして、生きた多くの人の生き様が詰まっている。読む価値のある物語だと思う。

ちなみに、『双調平家物語』は2008年11月に第62回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞している。

<関連記事>
2010年2月12日:『双調平家物語』は橋本治が語る日本古代史論だと思う
2010年7月28日:中公文庫版『双調平家物語』(橋本治著)ついに完結

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2010年2月12日 (金)

『双調平家物語』は橋本治が語る日本古代史論だと思う

半年くらい前に橋本治の『日本の女帝の物語』を読んだことを書いた(2009年8月25日:「著者橋本治が『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフと語る『日本の女帝の物語』(集英社新書)を読み終わる」)。
そこで、私は『日本の女帝の物語』のあとがきに相当する「おわりに」から著者橋本治の書いた
「私にしてみれば、日本の古代というのは、「女帝の時代」があり、「摂関政治の后の時代」となり、「男の欲望全開の院政の時代」となって、そして「争乱の時代」が訪れるという、三段あるいは四段構えになっているのですが、「平家の壇の浦で滅亡するまでの平家の物語」ということになると、このすべてが一まとめになって、ひたすら「長い長い物語」にしかなりません。それで、こういう『日本の女帝の物語』を書いたのです。」(『日本の女帝の物語』214~215ページ)

日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 506B)
日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 506B)

この『日本の女帝の物語』を読み終わった時から、いずれは本家である『双調平家物語』を読まなくてはいけないと思っていたが、なにせ単行本でも15冊に及ぶ大作。版元の中央公論新社が2009年春から文庫化を始めたところで、読み始めるタイミングを図っていたが、結局、昨年の10月下旬ぐらいから読み始めた(結局、文庫は全16冊になるようである)。

双調 平家物語〈1〉序の巻 飛鳥の巻 (中公文庫)
双調 平家物語〈1〉序の巻 飛鳥の巻 (中公文庫)

読み出すと、面白い。文庫は「序の巻」から始まり、「飛鳥の巻」「近江の巻」「奈良の巻」「女帝の巻」「院の巻」「保元の巻」「平治の巻」「平家の巻」まで10冊が現在文庫化されている。
「序の巻」は、日本が範とした中国の漢や唐の時代が語られる。漢を簒奪した新の王莽、唐の則天武后、安史の乱の安禄山、史思明なども登場する。
「飛鳥の巻」から、日本に舞台を移し、蘇我氏、大化の改新、斉明女帝、天智帝、壬申の乱、天武帝、持統女帝と続く。「奈良の巻」では、聖武帝に光明子が嫁ぎ、藤原氏の台頭が本格化する。そして、天武帝の血統を皇位に就けるため、つなぎの役目で元明、元正という女帝が登場し、最後には称徳帝と光明子の娘阿倍内親王が皇太子となり、孝謙女帝さらに重祚して称徳天皇となった。
「女帝の巻」は、この孝謙・称徳女帝の時代を詳しく語り、その後の平安京遷都後平安時代前期を足早に語る。「女帝の巻」の最後は、いきなり藤原道長の栄華へ飛び、道長が娘4人を天皇に嫁がせたことを語る。しかし、藤原氏の娘たちからは、何故か男子が生まれず、藤原氏が外戚として権力を振るう時代が終り、藤原氏を外戚としない後三条帝、白河帝と続き、白河帝が堀河帝の譲位して院政が始まる。院政が始まるまでの5冊が、いわば『双調平家物語』の第一部である。

院政以後の「院の巻」からが第二部。白河院、鳥羽院、後白河院と続く院政の時代に、摂関家が衰退し、武士が台頭する。
この三人の院政の時代が、「院の巻」「保元の巻」「平治の巻」と続く。歴史の教科書では、院政も、保元の乱、平治の乱も1ページほどで語られてしまうが、多くの人びとの思惑が絡み合い、時代が変わっていったことが語られる。

現在、文庫の第10巻まで刊行されていて、昨日、読み終わったところだ。第10巻で「平治の巻」が終わり、「平家の巻」が始まった。
「平家の巻」からが、平家の栄華と衰退の物語が始まる。「平家の巻」「治承の巻」「源氏の巻」「落日の巻」「灌頂の巻」が、これから刊行される第11巻から第16巻で語られる。

私は歴史が好きで古代史を中心に多くの新書や小説を読んできたが、これまでの『双調平家物語』文庫10冊を読んで、目から鱗が落ちる思いを何回もした。
著者橋本治の日本古代史の見方は、それだけ斬新だが、でも説得力がある。これから、毎月刊行される残る6冊を読み進めるとともに、『双調平家物語』執筆時に、文芸誌『群像』に連載されたものをまとめた『権力の日本人』『院政の日本人』も併せて読み進めていこうと思う。

権力の日本人(双調平家物語 ノートI)
権力の日本人 (双調平家物語 ノートI)

院政の日本人(双調平家物語ノートⅡ)
院政の日本人(双調平家物語ノートⅡ)

<関連記事>

2010年7月28日:中公文庫版『双調平家物語』(橋本治著)ついに完結

2010年8月 4日:橋本治著・文庫版『双調平家物語』全16巻をとうとう読み終わる

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2009年8月25日 (火)

著者橋本治が『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフと語る『日本の女帝の物語』(集英社新書)を読み終わる

作家の橋本治は、『窯変源氏物語』(1991年~93年)、『双調平家物語』(1998年~2007年)と日本の古典を題材にした長編小説を書いている。『双調平家物語』は2008年に第62回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞している。

日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 506B)

『双調平家物語』は、平家物語と銘打つものの、飛鳥の時代から説き起こす。いわば、日本の飛鳥、奈良、平安の時代を俯瞰する物語になっている。本書『日本の女帝の物語』は、著者によるあとがき「おわりに」によれば、
「この本は、私の「長い長い小説」である『双調平家物語』の副産物です。ただの『平家物語』の上に「双調」の二文字がくっついたがために、「平家の物語の前段」がやたら長くなったのですが、長くなった「前段」の中核をなすのが、ここに書いた「女帝の時代」の物語です」(『日本の女帝の物語』214ページ)
「私にしてみれば、日本の古代というのは、「女帝の時代」があり、「摂関政治の后の時代」となり、「男の欲望全開の院政の時代」となって、そして「争乱の時代」が訪れるという、三段あるいは四段構えになっているのですが、「平家の壇の浦で滅亡するまでの平家の物語」ということになると、このすべてが一まとめになって、ひたすら「長い長い物語」にしかなりません。それで、こういう『日本の女帝の物語』を書いたのです。」(『日本の女帝の物語』214~215ページ)

私は、日本の歴史の中でも、飛鳥・奈良の時代には興味があって、黒岩重吾の小説(『北風に起つー継体戦争と蘇我稲目』、『磐舟の光芒』、『中大兄皇子伝』、『弓削道鏡』など)から始まって、学者(主に遠山美都男氏)の書いた新書(『大化改新』、『壬申の乱』、『白村江』など)、池田理代子や里中満智子(『天上の虹』、『長屋王残照記』、『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』など)やのコミックなどこの時代を題材にしたものを読んできた。

飛鳥、奈良時代は、推古、皇極・斉明、元明、元正、孝謙・称徳という五人七代の女帝の存在と、一方、皇位継承に関わる血で血を洗うような多くの陰謀やクーデタが特徴なのだが、女帝を生み出す時代の行動原理について納得いく解釈をしてくれているものは、少なかった。

飛鳥から平安の時代を、『日本書紀』や『続日本紀』など当時の書物を読み込み、10年の長きにわたって『双調平家物語』として書き続け、作者なりになぜこの時代に多くの女帝が生まれたのかについての謎解きをしてみせたのが、本書といえる。そこには、天皇になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、同じく、天皇の后になるにふさわしい血統や人材に対する時代の考え方、があり、それが少しずつ変化していく。
また、その天皇家の周辺で、朝廷の重鎮・官僚として天皇を支える存在である有力豪族や貴族たち、大伴氏から物部氏、蘇我氏から藤原氏へ続く彼らの立ち位置の変化なども、変わっていく。
それを「『双調平家物語』のダイジェストでスピンオフ」(『日本の女帝の物語』「終わりに」より)として語ったのが本書である。

女帝の多くは、自らの血を引く子や孫を皇位に就かせるべく、他の有力な皇位継承者の即位を避けるため中継ぎの意味で即位したケースが中心であるが、しかし単なる飾りでも傀儡でもなく、多くのことを自ら行っている。また彼女たちが皇位に就いたことで、皇位継承が可能な血統・人材の位置づけが変わってしまう。
私の貧しい要約力では、とてもうまくまとめきれないので、興味ある方は、本書を読んでほしいとしか書けないが、何かいままで見えていなかった、飛鳥から平安の時代の天皇や摂関クラスの人びとの行動原理が、霧のむこうに少し垣間見えた気がする。

おそらく、もっとハッキリみようとすれば、『双調平家物語』15巻を読破する必要があるのだと思う。現在、5巻まで文庫化されているので、自分の日本古代の歴史観をまとめ、一本筋を通すためにも、一度読んでみようと思っている。

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2008年3月27日 (木)

薬師寺展を見る

2007年度もあと残すところわずか。制度上、消化しなければならない休暇が2日あり、今日と明日の2日、仕事を休むことになった。

せっかくの平日の休みを活用しないのは、もったいないので、先日、NHKの朝のニュースでも取り上げられた「薬師寺展」を見るため、上野の国立博物館に行くことにした。さらに、昨日の夜も堪能したが、東京は今週末には桜が本番。上野の帰りに、明るい時間の千鳥ヶ淵の桜を見ることにする。

薬師寺展は、今週の25日(火)から始まったばかり。しかし、国立博物館でのビッグな展覧会は、休みは相当混雑するので、できれば平日に行きたい。しかし、平日でも混んでいるのではないかと心配したが、入館券の販売窓口では、ほぼ待たされることなく、買うことができた。

今回の薬師寺展は、京都遷都1300年の記念してのイベントで6月8日まで開かれている。展示の目玉は、薬師寺金堂の「日光菩薩」、「月光菩薩」の二体と麻布に描かれた「吉祥天女」画像だろう。(昔、切手のデザインに採用されたこともある)

会場の平成館まで行ってみると、それなりに人はいて、各展示物のまわりに人だかりができている。平日でこれだと、週末の土日は渋滞状態のノロノロ歩きが恒常化するかも知れないと思う。
一番の目玉の「日光菩薩」、「月光菩薩」は仏像自体が3mを超える大きな像なので、全く見えないということはないだろう。

どちらも顔は端正で、三曲法と呼ばれる技法で、腰を少しくねらせた姿は、色っぽくもある。これまで、1300年の長きに渡って日本の社会の変遷を見続けてきた仏像であり、またこれから先も、千年の単位で歴史の変遷を眺めていくのだろう。

昼の千鳥が淵の桜の様子については、明日改めて書くことにしたい。

<追記2008.3.28>会場の国立博物館・平成館2階からガラス越しに眺める桜は、まるで一幅の日本画の屏風を見るようだった。

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