西野智彦著『ドキュメント通貨失政』(岩波書店、2022年)を読み終わる
本書は、今を遡ること50年以上前になり1971年に起きた、国際政治・国際金融上の大事件である米国による金・ドル交換停止、いわゆるニクソン・ショックに当時の日本の内閣を担った政治家と大蔵省、日本銀行という当時の日本のベスト&ブライテストであったはずの官僚たちが、どう対応したかを当事者たちの発言や執筆等から丹念にたどったドキュメントだ。
当時、私はまだ小学生だったが、父がマスコミ関係の仕事をしていたこともあって、年齢にしてはテレビのニュースを見ていたと思う。ニュースの画面で、夏にさなか、米国のニクソン大統領が会見をする映像が、妙に印象に残っている。その2年後には、第4次中東戦争を契機に石油価格が急騰するオイル・ショックに襲われ、日本は狂乱物価と呼ばれる記録的なインフレに見舞われた。その後始末のために登場した福田赳夫首相の総需要抑制策により、テレビ局は深夜放送の停止を余儀なくされ、夜の街のネオンは消えた。景気は低迷し、長らく続いてきた日本の高度経済成長が終わりを迎え、安定成長へと切り替わる画期だった。
ニクソン・ショックからオイル・ショック、狂乱物価と短い期間に時代が激しく変動する中、切れ切れに印象的な記憶はあるが、その背景で経済・金融の世界で何が起きていたかは、自分自身十分整理できていなかった。最終的に為替相場は、現在では当たり前になっている変動相場制へ移行するが、その際も、日本の官僚組織は、環境の激動に対してなすすべがなくなり、投げ出すように変動相場へ移行せざるを得なかったのだろうと、勝手に思っていた。
その後、社会人として経験したプラザ合意後の急速な円高、バブル経済と比べると、本質的なところが、理解できていなかった。
ドル・ショックの背景にあったのは、1ドル=360円という固定相場の下での、日本の貿易黒字の拡大である。その大部分は対米黒字であり、一方の米国では、日本に対して多額の貿易赤字を抱えることについての問題意識が高まっていた。欧州各国の見方もほぼ同様で、日本が独自に円切り上げを行えば、問題は改善に向かったかも知れないが、そのちょっと前までは、貿易黒字と貿易赤字を繰り返し、貿易赤字になれば金利の引き上げて、1ドル=360円の水準を維持しようと汲々としていた日本では、自ら円を切り上げるという発想はなく、1ドル=360円が至上命題であり、官僚だけの力で動かすことはできない政治家マターの聖域でもあった。
ドル売りが続き、為替レートが円高に進むことを阻止するため、国は今でいう為替介入を行いドルを買い支えた。結果的に、ドル買い支えのため使われた円資金は市中に流出し、過剰流動性となった。高度経済成長期を通じ、企業の旺盛な資金需要に対応するため、都市銀行は自ら集めた預金より貸出金が大きく上回るオーバー・ローン状態が長く続いたが、1ドル=360円防衛のための過剰流動性の結果、都市銀行のオーバー・ローンが解消されたと著者は書いている。これまで、都銀のオーバー・ローンは、経済成長で内部留保を充実させ、それが銀行預金に回るとともに、同時に借入需要が減ったことで、解消されたのだろうと漠然と理解していたが、このように明確に説明した資料は、読んだことがなかったので、永年の謎がようやく解き明かされた。
これも巨視的に見れば、輸出で日本企業が競争力をつけ、外貨(ドル)を稼ぎ、その稼いだドルが、当時の実勢レートよりも割高な1ドル=360円で国が買ったことが、日本の企業への実質的な補助金となり、日本企業が内部留保を充実させ、それが預金として銀行に環流していき、オーバー・ローンが解消されたと考えれば辻褄はあう。
過剰流動性の発生は、当時としては、異例の金融緩和でもあり、オイル・ショック前から物価上昇の兆しはあり、日本銀行は小刻みな金利(公定歩合)引き上げ等で、インフレが行き過ぎないようにブレーキをかける必要があったが、政治家や大蔵省の抵抗にあって進まない。
また、官僚たちは当時の外国為替管理制度に妙な自信をもっており、為替相場の変動を管理できると考えていた。
過剰流動性を十分に吸収できないうちに、オイル・ショックを迎え、過剰流動性に石油価格の上昇が加わったことで物価上昇には手がつけられなくなり、金利引き上げだけでは、抑えられなくなってしまった。
『通貨失政』というタイトルは、ドル・ショックに始まったつまずきへの対応が、後手後手に回ったことが、狂乱物価という危機を招いたことを示している。
当時の日本の政治家や官僚が、日本経済の力を過小評価し1ドル=360円の死守を至上命題としたことによる現状認識の誤りから全ては始まっている。また、当時の規制金利の体系は、公定歩合と預金金利、郵貯金利が連動していないなど金融政策の効果を減殺するようなメカニズムとなっていた。また、国家による為替管理制度への過信もあだとなった。
これまでに起きたことがないような想定外の変化には、誰しも弱い。あれから50年余、リーマン・ショックの回復途上にコロナ禍に見舞われ、日本銀行は異次元緩和とも呼ばれる、大規模金融緩和を継続し、そのさなかにロシアがウクライナに戦争を仕掛け、エネルギ-価格や食料価格が上昇し、輸入物価の上昇に押され、円安も加わって、国内物価の上昇を始めた。
変動相場制が行き渡る現在は、50年前とは違うが、符合する点も多い。これから何が起きるのか、脳内シュミュレーションをするためにも、読むべき本だと思う。