2007年7月17日 (火)

『ゲドを読む。』から、中村うさぎさんが語る「見えない言葉」

フリーペーパー文庫本『ゲドを読む。』を読み終わる。それぞれの人たちのゲド戦記論を読んで、まだまだ自分の読み方は浅いと改めて思った。

その中で中村うさぎさんが書いた「見ない言葉-『ゲド戦記』に託されたもの」の一部を紹介したい。
この小論は、昨年夏の映画公開時に宝島社から出された『別冊宝島 僕たちの好きなゲド戦記』が初出である。

これまで我々は(略)、どれだけ多くの大切な言葉を喪ってきたことだろうか。たとえば、「愛」という言葉。(略)軽々しく垂れ流されてきたおかげで、「愛」とい言葉はすっかり擦り切れて本来の力も価値も失くし、薄っぺらな偽善の呪文に成り果ててしまった。言葉を失くすということは、その概念自体を失くすということである。結果、我々の魂は「愛」を見失い、しかも自分が何を失ったのかも自覚できず、だだただ大きな喪失感だけを胸に抱いてゾンビのように生きるようになってしまったのだ。本来、「愛」は、人の魂を輝かせる偉大な魔法の力であったはずなのに。愛の力を失った我々は、生きる意味をひとつ失ったに等しい。そうやって我々は、大切な言葉を失うたびに、生きる意味をひとつずつ失い、ついの己の人生を虚無と厭世の終わりなき日常の砂漠と化してしまったのだ。(略)。
「見えぬものこそ。」
スタジオジブリ製作「ゲド戦記」の予告篇では、このフレーズが画面に大きく浮かび上がる。「見えぬもの」とは、何か。「言葉」であり「概念」であり、それらを生み出す人間の「想像力」である。他者に対する想像力、世界に対する想像力、目に見えぬすべての概念に名をつけ、言語化し、実存させる想像力…それこそが、人間の持つ「魔法の力」なのだ。(略)。
「見えぬものこそ。」
そうだ。我々の魂はいつも、目に見えぬもので繋がり、支えられているのだ。目に見えるものだけを追いかけていると、物事の本質を見失ってしまう。わかりやすい物語や、口当たりのいい言葉だけを享受していると、メタファーという深遠なる智恵(すなわち、隠されたメッセージ)を汲み取る能力を失ってしまう。
(『ゲドを読む。』157~158ページ)

普段、何気なく「言葉」というものを使い、話したり、書いたりしているけれど、本当にのその言葉にふさわしい使い方をしているのか、上滑り、軽々しい垂れ流しになっていなか、もう少し吟味して言葉を使わないといけないのだろう。

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2007年7月15日 (日)

フリーペーパー文庫本『ゲドを読む。』を入手、河合隼雄文化庁長官の最後?の対談が掲載されていた

今日、吉祥寺に行った時に入った書店で、児童書コーナーをのぞいてみると、『ゲド戦記』ソフトカバー版が平積みで並べてある。そのとなりに『ゲドを読む。』と題した黒い表紙の文庫本が置かれていた。

手にとって見ると、「前書き」:糸井重里氏、「『ゲド戦記』の愉しみ方」と題したゲド戦記論を人類学者の中沢新一氏、ほかにも河合隼雄文化庁長官(当時)と映画『ゲド戦記』の宮崎吾朗監督の対談など盛りだくさんである。
面白そうだから、買ってみようと裏表紙の値段の印字を探すが見つからない。奥書には、「非売品」とあり、「前書き」をよく読むと「この本は無料です。」と書いてある。
念のため、店員さんに「これは売り物ではないのですか?」と聞いてみると「どうぞ、お持ち下さい」とのことなので、1冊もらってきた。

家に帰ってから、改めてグーグルで検索をしてみると、この本の成りたちがわかった。
発行元は、「ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント」。ディズニーのビデオなどを販売している会社だ。昨年公開されたスタジオジブリのアニメ映画『ゲド戦記』(宮崎吾朗監督)のDVDが、2007年7月4日から「ブエナ ビスタ」から発売されるのに先立って、110万部が印刷され6月6日から書店やDVDの販売店などで無料頒布されていたらしい。表紙の色も、私がもらった黒に加え青、赤、黄色、ピンクの計5色があるらしい。

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新手の無料広告本ということのようだ。
(詳しくはこちらをご参照→『ゲドを読む。』の公式サイト

しかし、内容は値段をつけて販売されている文庫本と比べても遜色はない。中沢論文、河合×宮崎対談以外にも、宮崎駿、河合隼雄、清水真砂子、上橋菜穂子、中村うさぎ、佐藤忠夫といったそうそうたるメンバーの人々が雑誌などの書いたゲド戦記に書いた文章が再録されており、ページ数も200ページに及ぶ。

なかでも、本の最後に再録されている河合隼雄文化庁長官(当時)と宮崎吾朗監督の対談は2006年7月28日に東京・丸の内の文化庁長官室で行われたと書かれている。

河合隼雄氏は、以前から児童文学やファンタジーをよく読まれており、心理学者の視点から児童文学やファンタジーを読み解いた著書も多い。(『子どもの宇宙』岩波新書、『ファンタジーを読む』講談社+α文庫など)
原作は全て読み、映画も見終わった河合文化庁長官は、原作を踏まえ、どういう意図で映像化したのか、しなかったのかを宮崎監督に問いかけながら、映画『ゲド戦記』に対する自らの感想も語っている。

子どもの宇宙 (岩波新書)
子どもの宇宙 (岩波新書)

ファンタジーを読む (講談社プラスアルファ文庫)
ファンタジーを読む (講談社プラスアルファ文庫)

河合長官が脳梗塞で倒れたのは、この対談から1ヵ月もたたない2007年8月17日である。おそらくは、心理学者としての河合隼雄氏の言葉や文章が活字化された最後のものではないだろうか?
河合隼雄ファンで、まだ手に入れられていない方は、1冊手に入れておいてもいいのではないかと思う。

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2006年8月13日 (日)

映画『ゲド戦記』を見て

映画『ゲド戦記』を見た。

今日、午後、中3の次女と一緒に2駅となりのシネマコンプレックスに見に行く。館内は、お盆休みの日曜日ということもあって、かなりの人。しかし、映画館側も、大きな映写室で上映しており、席にも十分余裕があり、予定通りの時間に見ることができた。

いろいろなブログで、この映画についての様々な感想が書かれており、中には酷評といえるものもあるのだが、非常に「良くできた映画」というのが私の感想である。

確かに、この映画は原作者ル・グインの『ゲド戦記』と同じではない。
あるブログに作者ル・グインが次のように語ったと書かれている。

「It is not my book. It is your film. It is a good film.」
(ブログ「すべて世はこともなし」2006/8/9「ゲド 戦いのはじまり」より)

原作者ル・グイン女史が、好意的ニュアンスで語ったのか、否定的なニュアンスで語ったのかは、知りようがないが、「これは私の書いた話とは違う」という趣旨は間違いないだろう。

原作6冊を読み通した上で映画を見れば、それはよくわかる。話のベースは、第3巻の『さいはての島へ』になっているが、この映画の主人公ともいえるアレンが、自分の影におびえ逃げる姿は、第1巻の『影との戦い』で描かれる若い頃のハイタカ(ゲド)の姿と重なるし、映画の重要な登場人物であるテナーとテルーと農場は、第4巻の『帰還』で主な舞台となるものだ。また、ハイタカとテナーの微妙な関係も第2巻の『こわれた腕輪』の経緯が背景になければ、たしかにわかりにくい。また、作品の舞台となるアースシーの世界のハブナー島を中心にした東西南北の広がりも、映画では捨象されている。

それでも、私はこの映画は素晴らしいと思う。この映画は、ル・グインの『ゲド戦記』を、宮崎吾朗という監督が、自分なりに理解し、その自分なりの理解を、絵にし、言葉にし、音楽にしたものだと思う。

彼の主張は、ひとことで言えば「生きるとはどういうことか?」ということであり、それを回りくどい技巧は凝らさずに、ストレートにぶつけてきている。それは、宮崎吾朗監督が、封切り前のインタビューで語っていること、そのままである。それは登場人物のひと言、ひと言として現れている。「語りの映画」と言えるかもしれない。

中3の次女は、「よくわからないところもあったけれど、心うつものがあった」と最後には、うっすら涙を浮かべていた。登場人物のひと言が、そしてテルーの歌う歌のあるフレーズが心のどこかにひっかかっていて、何となく気になる。そして、もう一度見て、その気になるところを確かめたい、そんな気にさせる映画だと思う。

原作を読まないで見た方には、原作6冊を読むことを勧めたい。今、原作を読んでいて、まだ映画を見ていない人は、原作を全て読み通してから、映画を見た方がいいだろう。原作を途中まで読みかけで、映画を見るのだけはやめた方がいい。どちらも、中途半端になってしまうだろう。

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2006年8月 5日 (土)

『ゲド戦記』宮崎吾朗監督のメッセージ

先月29日から、いよいよスタジオ・ジブリのアニメ『ゲド戦記』の上映がはじまった。ブログで試写会を見た人のコメントを見ると、必ずしも絶賛というほどではない、むしろ酷評といえるようなものも多い。一方、今日のTBS「王様のブランチ」の先週の映画ランキングでは、初登場で1位だった。

自分自身が、まだ見ていないので、何とも映画自体の出来は評価できないが、宮崎吾朗監督は、文学作品としての『ゲド戦記』を読み込んで、彼なりの問題意識をもって映画化に取り組んだことがうかがえる。

手元にある公開前の映画『ゲド戦記』のパンフレットに宮崎吾朗監督の「演出ノート 人間の頭が、変になっている」という一文がある。

それによれば、現在39歳の彼は、ゲド戦記は20年以上前の高校生の時に最初に読んだという。その当時は、ハイタカ(ゲド)が自分の影との合一を果たす1巻とテナーが暗い墓所から解放される2巻に心引かれたそうだが、今回、改めて読み直すと、映画化された3巻、そして4巻、外伝に心ひかれた書いている。その理由として、彼自身の加齢と、我々を取り巻く環境の変化を上げている。そして、次のように語る。

 今、私たちの暮らしている世界は、まるで第3巻に登場するポート・タウンやローバネリーのようです。みな、必死にせわしなく動き回っていますが、それは目的があってのことではないように見えます。目に見えるもの、見えないもの、それら全てを失うことを、ただ恐れているようです。人々の頭がおかしくなってしまった感じです。
 一つひとつを例にあげることはしませんが、その原因は国内外の様々な社会状況の激変にあるのはあきらかです。けれど、どうすれば社会が良くなるのか、目指すべき方向は誰も提示できずにいます。そして、大人たちは誇りや寛容さ、いたわりの心を失い、若者たちは未来に希望を見いだせず、無力感におそわれています。
 結果、生きることの現実感は失われ、自分や他人が死ぬことの現実感も失われています。自分の存在を曖昧にしか感じられないならば、他者の存在も希薄にしか感じられないのは当然で、減らない自殺や理由なき殺人の増加は、その象徴に思えます。

(中略)世界の均衡が崩れつつある原因が人間の内にあること、その根源を辿れば生と死の問題に行き着くこと、そこに、私たちにいま最も必要なテーマがあると思うのです。

(中略)私は、「いま、まっとうに生きるとはどういうことか?」という自分自身の問いを「ゲド戦記」に投げかけ、ハイタカをはじめとする多くの登場人物たちの声に耳を傾け、再び問い返すということを続けてきました。それが、この映画の主題になっていることは間違いありません。(以下略)
(宮崎吾朗「演出ノート 人間の頭が変になっている」より)

私もゲド戦記第3巻『さいはての島へ』を読んだとき、これは、まさしく現代日本社会を描いた作品ではないのか?と思った。
すでに、映画を見た人の感想はどうだろうか。私も、1週間の夏期休暇の間には、映画館に足を運び、ぜひ見たいと思っている。

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2006年7月16日 (日)

ゲド戦記別巻『ゲド戦記外伝』

ゲド戦記の別巻『ゲド戦記外伝』を、今日、ようやく読み終わった。

ゲド戦記別巻 ゲド戦記外伝 (ソフトカバー版)
ゲド戦記別巻 ゲド戦記外伝 (ソフトカバー版)

この別巻は、外伝というタイトルが示す通り、第1巻『影との戦い』から第5巻『アースシーの風』までのメイン・ストーリーに対して、アースシーの世界の過去から第5巻の直前の現在までを舞台にした5つのサブ・ストーリーと著者自身によるアースシー解説からなっている。

サブ・ストーリーとはいうものの、第1話の『カワウソ』は、ゲドが学んだロークの魔法学院がいかにして作られたのかが語られているし、第3話の『地の骨』はケドの故郷ゴント島での師であったオジオンがいかにして大地震を防いだのか、その真実を伝えている。第5話の『トンボ』は、ゲドが去った後のロークの魔法学院(女人禁制)に、自分が何者かを確かめるために、男装して入ろうとした女性の話であるが、このトンボと呼ばれる女性は、第5巻の『アースシーの風』で重要な役割を果たす。
米国で発表された際には、第5巻の前に、この別巻が発表されたようで、むしろ第4巻『帰還』までに細かく語られなかった部分を語り、第5巻につなぐ位置づけにあり、これから読む人は、この別巻を読んでから、第5巻『アースシーの風』を読んだ方が、より楽しめるだろう。

第1巻『影との戦い』を読み始めて、ほぼ1ヵ月。ようやく読み終わった。第5巻が終わったところでも書いたが、一度通読しただけでは、まだとても全体像がつかめた気がしない。あと2回くらい、読み通して始めてわかるような気がする。

スタジオジブリの映画の公開が間近に迫ったこともあり、ゲド戦記シリーズの解説本も出ているようだ。そういうものも、参考にしながら、作者の書こうとしたものについて考えることにしたい。

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2006年7月 9日 (日)

ゲド戦記第5巻『アースシーの風』

ゲド戦記第5巻『アースシーの風』を昨日読み終わった。

ゲド戦記 5 アースシーの風
ゲド戦記 5 アースシーの風

第4巻『帰還』で、魔術師としての力を失ったケドは故郷のゴント島に戻り、第2巻『こわれた腕環』でカルガド帝国の墓所から救い出したテナーと結婚し、テナーが引き取って育てている娘テルーとともに、ゲドの恩師であるオジオンの家で暮らし始める。第4巻では、最後に、ゲドとテナーの危機をテルーが救うことになる。

『アースシーの風』では、『帰還』からさらに年月がたち、老年となったゲドのところに、ハンノキという男のまじない師が訪ねて来るところから始まる。テナーとテルーは、第3巻『さいはての島へ』で、ゲドと生死をともにした後、王となったレバンネン(アレン)から呼ばれ王の住むハブナー島へ出かけている。
ハンノキは、死に別れた妻ユリに呼ばれて夢の中で、黄泉の国の石垣を乗り越えてあちらの世界に行きそうになる。どうしたら、夢を見なくなるか、ゲドに尋ねに来たのだ。ゲドは、動物を飼い自分の近くに置けば、夢を見なくなるかもしれないと考え、ハンノキに一匹の子猫をもらってやる。しかし、自分のところでは、これ以上なにもしてやれないと、レバンネン王の手紙を託け、ハブナーに行くように勧める。

一方、ハブナーでは、レバンネン王が西の海で竜が暴れ出したことに心を痛め、その対策を考えるための相談相手として、テナーとテルー(テヌハー)を呼んでいたのだ。そこに、和平交渉していたカルガド帝国から、使節団がやって来て、カルガドの王女を王妃とすることが和平の条件と言い残し、王女を置いて国に戻ってしまう。王女は、ハブナーの言葉が全くわからず、レバンネン王はカルガドに対し怒りと憎しみさえ抱く。さらに、西方で暴れていた竜がハブナー島の西岸にまで飛来し、畑を荒らしたりと暴れ出す。

今回もゲドは導入部で登場するだけで、話はレバンネン王とテナーを中心に語られる。最初は、無関係に見えたハンノキが亡くなった妻に夢の中で呼ばれることと、西方で竜が暴れていることが、実は関係があることが、だんだんと明らかになっていく。

今回は、生と死というものが大きなテーマとしてあって、西洋的な幽霊・霊魂的なものと、仏教的な輪廻転生というものが対比されている。また、言葉、民族・国といったものも、テーマとしてあり、重層的な話に仕上がっている。

とりあえず、外伝を除いたメインストリーの5冊を読み終わった訳だが、ひと言では言い表せない深みがある。あと、2~3回読み直して、細かい表現、登場人物の整理等を行う必要があるだろう。まちがいなく、一読の価値ありである。

別巻『ゲド戦記外伝』まで、読み終わったところで、改めて考えてみたい。

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2006年7月 5日 (水)

ゲド戦記第4巻『帰還』

ゲド戦記4巻『帰還』を昨晩、読み終わる。

ゲド戦記 4 帰還 (ソフトカバー版)
ゲド戦記 4 帰還 (ソフトカバー版)

話は、第3巻の『さいはての島へ』の直後から始まるが、主に語られるのは、第2巻の『こわれた腕輪』でゲドの墓所の大巫女から救出されたテナーのその後である。テナーは、ケドとともにゲドの故郷のゴント島に戻り、ケドの師である魔法使いのオジオンのもとに預けられるが、結局、テナーはオジオンから離れ、一人の女としての生きる道を選ぶ。農園主と結婚し、二人の子の母となる。夫はすでになくなり、子ども達も成人して巣立って、1人でくらしていた彼女は、虐待されやけどを負ったテナーという少女を預かって育て始めている。
そこに、かつて自分の世話をしてくれたオジオンが危篤だという知らせが入り、自分の農園を離れ、テナーをつれてオジオンを訪ねるために旅立つところから、話は始まる。

主人公はテナーであろう。途中から、『さいはての島へ』で、乱れた世の中を正すために、全ての力を使い果たし、ぼろぼろになって故郷に帰ってきたゲドが登場するが、常にテナーの目から語られる。亡くなったオジオンの家で、テナーはゲドを看病するが、ゲドは再びテナーのもとを離れていく。

中年となったテナーが、自分とは何かを模索する話で、女性の中年の危機を扱っている話のように思える。途中までは、まさしく中年テナーの物語であるが、最後に物語はファンタジーとして急展開する。(そこは読んでのお楽しみ)

おそらく、第5巻の『アースシーの風』で、これまでの物語を集大成する展開になりそうである。

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2006年6月30日 (金)

ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』

ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』を読み終わる。

ゲド戦記 3 さいはての島へ (ソフトカバー版)
ゲド戦記 3 さいはての島へ (ソフトカバー版)

第3巻では、ゲドはローク島の魔法学院の大賢人となっている。しかし、アースシーの周辺部では、魔法が使われなくなり、ものの名前が忘れられ、人々は無気力になっている。世界の均衡にほころびが生じている。ゲドは、それを伝えに来たエンラッド国の王子アレンとともに、世界のほころびを生じさせている原因を突き止める旅に出る。アースシー世界の海を何日も航海し、南へ、西へと彷徨う。どこの島でも、魔法は忘れられ、人々は自分の幸せのみを求め、魂をなくし、死んだようになっている。最後に、さいはての島セリダーで、その原因を作り出していた敵をみつけ、対決する。

今回、語られるテーマは「生と死」であるが、同時に青年アレンの成長の物語でもあり、それを支えるゲドとアレンの関係は、親子を象徴しているようにも読める。ゲドは、旅の途上では、アレンに対し、決して多くを語らない。アレンは、時として、疑心暗鬼になりながら、自分で懸命に考え、答えを見いだしていく。
このあたりは、子育てにおいて、親が簡単に答えを教えてしまうのではなく、子どもが自ら学んで行くことを、我慢して見守ることの大切さを教えているようにも思える。
読む人の、年齢、経験や立場によって、幾通りもの読み方ができそうで、ひと言では到底語りきれない。

スタジオジブリのアニメ映画『ゲド戦記』は、この3巻がベースになるようだ。
均衡を失ったアースシー世界の人々の姿は、今の過去の日本人の美徳を忘れ、自分で考え、判断することを忘れ、自分さえ良ければいいという、現在の日本人の姿にそのまま重なるようにも読めて、アメリカで1972年に書かれたものでありながら、そのまま、今の日本人への問いかけにもなっていると思う。制作者側にも、それを問いかけたいという思いもあるようだ。
読み手の経験と感性で、いかようにも読める、深みのある作品を、映像化し、ひとつのイメージを作り上げてしまうことについての、賛否は当然あるとは思うが、映画にならなければ、ゲド戦記の世界にふれることのなかった多くの人々が、これを機会に、原作の世界に足を踏み入れることになれば、そのプラス効果の方が、より大きいと思う。1ヵ月後に、公開される映画の方も楽しみである。

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2006年6月26日 (月)

ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』

ゲド戦記第2巻『こわれた腕環』を読み終わる。

ゲド戦記 2 こわれた腕環 (ソフトカバー版)
ゲド戦記 2 こわれた腕環 (ソフトカバー版)

今回は、まず、ゲドの物語世界であるアースシーの中にあるカルガド帝国の大巫女「アルハ」が登場する。彼女は、先代の大巫女が亡くなった日に生まれたことから、大巫女の生まれ変わりとして、両親から引き離され、その本来の記憶は闇の世界の生き物に生け贄として捧げられ、”喰らわれし者”となり、闇の世界に仕える大巫女として育てられる。大巫女は墓守であり、彼女の住む館の地下には、墓所の地下迷宮があり、その奥まで立ち入るのが許されているのは、大巫女だけである。
物語の前半は、アルハの日常の生活が淡々と語られ、ゲドはなかなか出てこない。物語の半ばにさしかかる頃に、ようやくケドらしき人物が登場する。彼女の地下迷宮への闖入者として。話は、常に、アルハの目から語られ、最初はゲドらしき人物は第三者でしかない。
彼女は、その怪しい男を迷宮の中に閉じこめ、葬り去ろうとするが、一方で、この闖入者に無関心ではいられないし、結局、悪者として葬り去ることもできない。
ついに、迷宮を支配する大巫女として、闖入者に声をかけ、ここから物語はアルハだけの話から、アルハとゲドの物語への変わっていく。ゲドは、「テナー」というアルハの本当の名前を知っていて、彼女に本当の名前で呼びかける。そこから、彼女が少しずつ自らに目覚めていくが、その間、数々の危機や試練が待っている。

この第2巻『こわれた腕輪』も、第1巻『闇との戦い』に劣らず、深淵だ。第1巻が、ゲドという青年の自己発見の物語とすれば、第2巻はアルハという少女の自己発見の物語である。見方によっては、現代版「眠れる森の美女(いばら姫)」とも思える。少女から女性へという成長の中で、少女(王女)を眠りから解放する王子の役目をゲドが担っているようにも思う。

また、少女の成長という側面だけでなく、本来の自分を亡くし、闇に”喰らわれし者”となって、生きている人間への警鐘の物語にも読める。(ものには、そのものがもつ本当の名前があるというのが、1・2巻を通じたテーマのひとつである。)

さらに、第2巻では、アルハ(テナー)のゲドへの信頼ということが、特にゲドの口から語られる。ゲドも全知全能の魔法使いではなく、アルハの支え、アルハが信頼してくれたからこそ、魔法使いとしての力を発揮できたと語る。

おそらく、全6巻を全て読み終わって初めて見えることが、たくさんあるのだと思う。今日から、第3巻『さいはての島へ』を読み始めることにしよう。

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2006年6月22日 (木)

ゲド戦記第1巻『影との戦い』を読み終わる

ゲド戦記第1巻『影との戦い』を読み終わった。この本の主題は、かなり哲学的で、児童文学というには、少々レベルが高いと思う。

ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)
ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)

魔術師の素養を持つ、少年ケドは魔法学院で、自らの尊大さやねたみから、自分に力を過信し、死者の霊を呼び出し、それとともに死者の国から、彼を狙う影を、現世に呼び込んでしまう。その影は、彼を追いかけ、彼を虜にしようとする。ケドは、逃げ続けるが、影は執拗に追いかけてくる。彼は、少年時代に自分を育ててくれた故郷の恩師のもとに帰り、そこで、その影に向かい合い、今度は自ら影を追いかけることを決心する。

おとといの記事で取り上げた、「訳者あとがき」に書いてある通り、自我の影の部分を自らに取り込み、統合する過程を描いた作品といえるだろう。まさに、青年期の課題である本当の自分を知るということを、象徴的に描いた作品だと思う。

以前、同時代ライブラリー版の『影との戦い』を読んだ時も、おぼろげに感じ、今回も読んでいて感じたことだが、この作品は、読んでいて、どこか無機質で、透明で、乾いた印象を受ける。どうしてだろうと考えて見ると、他の児童文学とは違い、主人公であるゲドを筆頭に、登場人物の発言や会話が少ないような気がした。主人公の行動を、著者が淡々と記録しているのだ。

明日に悩む大学生や、中年世代にお勧めだと思う。

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