2008年10月 8日 (水)

脳学者茂木健一郎の悩みに河合隼雄さんがヒントを与える河合隼雄・茂木健一郎対談集『こころと脳の対話』

一昨日、河合隼雄さんの1周忌を弔うように出版された対談集として『こども力がいっぱい』(光村図書出版)を取り上げ、その中から河合さんと宇宙飛行士の毛利衛さんの対談の内容の一部を紹介したが、同じように1周忌前後に出版された対談集がもう1冊あった。河合さんと脳科学者の茂木健一郎さんとの3回の対談をまとめた『こころと脳の対話』(潮出版社)である。

対談そのものは、初回が2005年11月に東京のホテルの一室で、2回目が2006年2月に京都にある河合さんの研究室で、第3回は2006年4月に茂木さんが講師を務めるカルチャースクールの連続講座に河合さんが特別ゲストとして招かれるという形で行われている。
普段は、聞き手に回る河合隼雄さんが、この茂木さんとの対談では全体を通して、喋る側に回っているのが印象的である。それは、第3回の対談の締めくくりの2人の会話に端的に表れている。

<河合>しかしね、考えたら 、いつも僕、茂木さんにうまいことやられて、しゃべりまくっているんだけれど、本当は脳の話をもうちょっとしてもいいんです。
<茂木>いえいえ、ちゃんと脳の話につながっていますんで。
(『こころと脳の対話』203ページ)

そこは、NHKの「プロフェッショナル-仕事の流儀」で、数多くのプロフェッショナルな人たちのインタビュアーを務める茂木さんの面目躍如というべきであろうか。
むしろ、対談時に43歳(1962年10月生まれ)だった茂木さん、自ら抱える悩みを、臨床心理士である河合さんにカウンセリングしてもらっているようにも読める。対談に中では、脳学者として「クオリア」(感覚の持つ質感)というものを研究テーマにし、脳と心の関係(心脳問題)を研究している茂木さんならではの悩みが披瀝される。ものすごく簡単に要約してしまえば、「心の問題は科学で扱えるのか?」という問題だと私は思う。読み終わってから改めて考えると、それは40代前半の茂木さんにとって、ある種の「中年クライシス」(中年期の危機)だったのかも知れないと思う。茂木さんが自ら見た夢を語り、京都の河合研究室で箱庭を作り、その夢や箱庭に現れたものを河合さんが河合流に説明していく。
それは、茂木さん個人の夢や箱庭に現れた茂木さん個人が直面している問題を2人で考えるという形にはなっているのだけれど、どこかで普遍的なものに繋がっていて、読む者を納得させる。

第1回では、茂木さんの見た夢「イギリスでバスで旅行をしていて、そのバスの中に赤い服を着た5~6歳の小さな女の子が乗っていて、それが誰だかわからない」との問いに、の河合さんがいくつかの見方を説明し、それをヒントに茂木さんが自らの考えを深めていく。
また、第2回の対談の際に、茂木さんが作った箱庭では、箱庭作りで使ったニワトリやゴリラの人形が心を読み解くヒントになる。
この時、茂木さんが作った箱庭は、河合さんの訃報に接した際の茂木さん自身のブログの記事に写真が載っている(茂木健一郎:クオリア日記、2007年7月21日河合隼雄先生のこと

「こころ」と脳について、関心のある方は、一読されるとよいと思う。

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2008年10月 6日 (月)

季刊誌「飛ぶ教室」での河合隼雄さんの対談をまとめた『子ども力がいっぱい』から毛利衛さんの「受け入れる力」

元文化庁長官で心理学者の河合隼雄さんが2007年7月16日に亡くなって1年余。一周忌を弔うように、河合さんゆかりの本が何冊か出版された。
2008年8月に出版されたのが、しばらく前にこのブログで紹介した『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』(村山正治・滝口俊子編、創元社)と作家の小川洋子さんとの対談をまとめた『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)。

ちょうど一周忌にあたる2008年7月に出版されたのが、今日紹介する『子ども力がいっぱい』(光村図書出版)である。

児童文学をテーマにした光村図書の季刊誌『飛ぶ教室』での「あなたがこどもだったころ」と題した著名人の子ども時代をテーマにした対談をまとめたものである。「飛ぶ教室」は、河合さん自らが編集委員に名を連ねていたこともあり、様々な形で積極的に関わっていたようだ(「飛ぶ教室」2008年冬号での今江祥智氏と山中康裕氏の対談から)。「飛ぶ教室」は1981年12月に創刊され1995年にいったん休刊、2005年に復刊している。河合さんは休刊前の旧「飛ぶ教室」でも「あなたがこどもだったころ」という対談を行っており、現在『あなたがこどもだったころ』として講談社+α文庫に収録されている。

今回の『子ども力がいっぱい』にまとめられた対談は、2005年の「飛ぶ教室」の復刊第1号から第6号まで連載され、最後の対談となった女優三林京子さんとの対談は2006年5月に行われていたが、河合さんがその直後に脳梗塞で倒れたこともあり、河合隼雄追悼号となった2008年冬号に掲載された。今回復刊1号から6号までの対談と併せて7人との対談が本にまとめられた。対談相手は、どういう基準で選ばれたのかはわからないが、よくこれだけのメンバーが集まったものだと思えるほどそうそうたる顔ぶれである。

第1号山本容子(銅版画家)
第2号鶴見俊輔(哲学者・評論家)
第3号筒井康隆(作家)
第4号佐渡裕(指揮者)
第5号毛利衛(宇宙飛行士・理学博士)
第6号安藤忠雄(建築家)
第12号三林京子(女優)

どの対談相手も個性的な人物ばかりで、味のある対談になっているが、これまであまりこのような場に登場することがなかった日本初の宇宙飛行士の毛利衛さんの素顔がのぞけたのは興味深かった。

宇宙飛行士になったことについて次のようなやりとりがある。

<毛利>たまたま運が良かったんじゃないですか、本当に。同時に子ども時代からの自分を見てくると、何かすごく期待されているわけでも、またそういう巡り合わせではないけれども、いろいろなものがちょっとしたぎりぎりのところでうまくかみ合ってきた。それで宇宙に行けたというのがわかりますね。ちょっとしたところをうまく生き延びてこられたのが影響していると思いますね。
<河合>自分から、これをやろう、あれをやろうというんじゃなくて、ちょっと待っているときに、うまく来て、来たのにすうっと乗ってという感じはありますね。(一部略)
<毛利>それは、確かにありますね。
(中略)
<河合>でも、大事なことは、それに応える力があったということですね。そういうのに応えられて、また次に応えられる。来たものをうまく受け止めてやれる力、環境をうまく受け入れる力と言ってもいいでしょうね。それがあったわけですよ。
<毛利>その性格がどこから来たかはわかりませんけれども、八人兄弟の末っ子ということもあったかもしれませんね。
(『子ども力がいっぱい』140~141ページ)

このあたりのやりとりが、この毛利さんの特長をもっともよく表していると思われたのだろう対談のタイトルは「環境をうまく受け入れる力」となっている。

インタビューを終えた後のコメントの中で、河合さんは
「このように与えられた条件を最大限に生かす毛利さん力がよくわかって感心した。これも本人に言わせれば「たまたま運がよかったんじゃないか」ということになるが、その「運」も受け止め方によって悪運になるかもしれない、ということをわれわれは知っておかなくてはならない」(『子ども力がいっぱい』144~145ページ)

「運」も力のない人にとっては、悪運になるかもしれないというひと言は、我が身を振り返っても思い当って耳が痛い。常に、自分の力を蓄え、磨いておかなければならないということだろう。

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2008年9月21日 (日)

プロとは「研究者」と「芸術家」と「勝負師」のバランスよく併せ持つ人-河合隼雄さんと谷川浩司九段の対談(PHP文庫『「あるがまま」を受け入れる技術』と『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』)から

河合隼雄さんが亡くなって1年が過ぎたが、亡くなった今でも、河合隼雄さんを偲ぶように、新たな本の出版や文庫化が続いている。

その中に、河合さんが毎年の学校臨床心理士全国研修会で行った講演をまとめた『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』(創元社)、将棋の谷川浩司九段との対談をまとめた『無為の力』(PHP)に加筆・改題して文庫化した『「あるがまま」を受け入れる技術』(PHP文庫)がある。

河合隼雄のスクールカウンセリング講演録

『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』は、臨床心理士が学校現場にカウンセラーとして派遣されるようになって、すでに10年以上が過ぎるが、そのスクールカウンセラーが全国から集まって開催される「学校臨床心理士全国研修会」で河合さんは、1996年7月の第1回から倒れる直前の2006年8月の第11回まで、計11回、毎年講演を行っている。この講演録では、そのうち専門誌等に掲載されたもの、講演テープが入手できたもの、計7回分が掲載されている。講演現場で日々臨床に携わるカウンセラーへのエールを送り、励ます講演内容になっている。

「あるがまま」を受け入れる技術  (PHP文庫)

そして、そのスクールカウンセラーの講演でも話題になったのが、『「あるがまま」を受け入れる技術』で詳しく紹介されている将棋の谷川浩司九段との対談である。この対談の中で、谷川九段は棋士に必要な素養として「勝負師」と「芸術家」と「研究者」の三つの素質を三分の一ずつバランスよく持っていることが必要と述べている。

「あまりにも芸術家の部分が強すぎると、ちょと自分が悪い手を指した時に嫌気がさしてしまって、勝負に対して淡泊になってしまうことがあります。これでは、勝てる将棋も諦めて投げ出してしまうことになりがちです。
逆に勝負師の部分があまりにも強すぎると、その一局だけ勝てばいいということで、見ていて面白い、価値ある将棋が指せないということになってしまう。それはそれでプロ棋士としてはどうかと思います。
もうひとつ、研究者の素質というのは、最近になって必要とされるようになってきたんですね。(中略)今は本当に情報化社会で、お互いの対局の棋譜がすべてパソコンで検索できるような時代です。ですから事前に情報を調べておいて研究をするということに比率が非常に高い。
(中略)研究だけに偏ってしまうと、どうしても前例のない局面に入った時に自分の力で切り拓いていくような逞しさに欠けてきますし、自分の発想でまったく新しい手を打ち出していくような創造性に欠けるように思います。やはり自分の力で考えて、自分だけの手を指すというのが将棋の一番の醍醐味だと思いますので。」(『「あるがまま」を受け入れる技術』90~92ページ)

河合隼雄さんは2005年の「学校臨床心理士全国研修会」で谷川九段と対談したことに触れ、棋士の3つの素養について紹介した上で、次のように語る。

「みなさん、カウンセラーも同じだと思いませんか。やはり、われわれは研究者でないといけない。(中略)いろいろなものを読んで、こんな考え方もある。あんな考え方もあると知っている必要があります。しかし、実際にクライエントが「今から死にます」となったときに、「ちょっと待ってな!」とか言って調べているひまはありません。そこで「やめとけ!」というか、「そうか、死ぬか」と言うのか、選択肢はいろいろあります。そのとっさに判断、これは芸術的判断に近いのではないでしょうか。
でも、それだけでは足りません。「絶対に役に立つのだ。私の前に来たこの人の人生に、意味ある役に立つことをする。そのために自分はここにいるのだ」という強い信念を持つ。これが「勝負師」です。」(『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』204~205ページ)

将棋の頂点を極めた谷川九段が語り、臨床心理学の大家河合隼雄さんが紹介した<「研究者」と「芸術家」と「勝負師」>の三つの素質は、これから、あらゆる分野でプロフェッショナルを目指す者に求められることのような気がする。

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2008年4月28日 (月)

河合隼雄著『河合隼雄の”こころ”』で語られる「指導力」

4月の半ばに、このブログで紹介した河合隼雄さんの『河合隼雄の"こころ"』(小学館)を2、3日前から読み始め、今朝の通勤電車で読み終わった。

教師向けの月刊雑誌に「子どもの心、教師のこころ」というタイトルで連載された30編のコラムをまとめたものである。
この中で、「教師の指導力」について書かれた部分を紹介しておきたい。

教師の「指導力」の中核にあるのは「授業」である。自分の教える学科についてよく知っていることはもちろんだが、それを「教える」ことについてもよく知っていなくてはならない。つまり、知識があるというだけでなく、それをどのように教えると子どもたちが理解しやすいのか、子どもたちはどのような誤りとか、誤解とかをしがちであり、それをどう説明するとよいのか、などということをよく知っていなくてはならない。(中略)
教えるべき内容、その教え方に、教師が興味をもっていることがまず大切である。教師の興味が子どもに伝授されてゆく。興味あることにともに向かっている中で、教師の指導力が自然に発揮されてくる。(『河合隼雄の"こころ"』36~37ページ)

最近、現在の職場での在籍が長くなったこともあって、新任者への研修の講師役をやったり、これまで自分が比較的詳しく調べてきたことを同僚に説明をしたりと、「教える」ことが増えてきている。
そんな立場で読むと、教えることの内容を詳しく知っていることと、「教え方」を知っているということは、別の話だという点は、実にその通りだと思う。
どう説明すれば、その分野に詳しくない人にわかってもらえるのか。それを考えることが、「教育」の一番重要なことなのだろう。

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2008年4月16日 (水)

河合隼雄著『河合隼雄の"こころ"』

故河合隼雄文化庁長官を追悼する雑誌の特集号は、以前紹介したが、その後、月刊『教育総合技術』という専門雑誌に2004年4月号から2006年9月号まで連載されていた記事をまとめた『河合隼雄の"こころ"』(小学館)が出版された。

『教育総合技術』という雑誌は、学校の先生向けの専門誌のようで、連載記事「子どもの心、教師のこころ」というタイトルで、先生を対象に子どもと大人、学校、社会などとのの関わりをテーマにしたものになっている。

また、この本には、河合隼雄さんが選んだ「親子で読みたい本」のリストが、児童書と絵本に分かれて載せられている。編集部によるまえがきだと、いずれ、河合さんが文化庁長官退官後に全作品につき解説を執筆してもらう予定で、とりあえずリストアップだけがされていたが、亡くなられたためリストだけが残ったというもの。河合さんは、児童書も多く読まれ、何冊も児童書について語った著作があり、解説書が実現していれば、よき児童書、絵本の手引きになっていたに違いないと思われるので残念である。

おそらくは、この本が、河合隼雄さんが書かれたものの最後になるのであろう。今年に入ってから、20代の若者が、無差別に衝動的に他人を殺傷する事件が続いていて、単に表面的な動機の分析だけではなく、社会全体に蔓延する病理のような物を考えていかなければならない時に、それにもっともふさわしい河合さんがすでにこの世にいないことは、残念である。

この本の帯には「不世出の臨床心理学者が最期の綴った"おとなのこころと子どものこころ"」とあるのだが、「不世出」という言葉がまさにその通りだなという気がした。
本当は、河合さんの書物から薫陶を受けた、我々のような後の世代の者が、河合さんの深い洞察からヒントを得て、実践し、少しでも社会を変えていかなければならないのだろうけれど、現実には、自らの子育で精一杯であり、なおさら失った河合隼雄さんの存在の大きさを感じる。

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2008年3月21日 (金)

亡くなるまでの河合隼雄さんの1年間の眠りの意味を思う-『考える人』2008年冬号のよしもとばななさんの追悼文から

一昨日買った河合隼雄追悼特集の載った雑誌『飛ぶ教室』と『考える人』を昨日、今日と読む。

河合隼雄さんは、文化庁長官在任中の2006年8月17日の奈良の自宅で倒れ、入院。2007年7月19日に亡くなるまで、1年弱昏睡状態が続いた。

その間、私も含め日本全国で何百人、何千人もの人が河合さんが再び起き出し、昏睡中の見た夢の話を語ってくれることを願っていたに違いない。(私も「気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2」でそれを書いた)
しかし、その願いは叶えられず、河合さんはあの世に旅立たれ、帰らぬ人となった。「やはりだめだったか…」おそらく回復の可能性は限りなく小さいとは分かっていながら、しかしそれを願わずにはいられない1年だった。

『考える人』2008年冬号では、河合隼雄さんと『なるほどの対話』という対談集を出したこともある作家のよしもとばななさんも「河合先生ありがとう」という自らも河合さんに癒された個人的な思い出を交えた追悼文を寄せている。

この追悼文の結びが、河合隼雄さんを慕う全ての人の気持ちを代弁するような言葉になっている。

とうとうこんな日が来てしまったか、と思って必死で回復をお祈りした。河合先生が「よしもとさん、やあ、大変でした」と笑いながら戻って来る日を夢見たけれど、かなわなかった。(中略)
そして、私たちがみんな河合先生を当てにして、手放したくなくて、地団駄をふみたいような気持ちだったから、きっと河合先生はあのときに直接旅立つことをしなかったんだなと私は思う。みんなに時間をかけてゆっくりあきらめてほしかったじゃないかな。男として攻撃的に仕事に向かっていく以外の時間はいつもいつも自分よりも人のことを考えていらした、ひっそりと野に咲く花のような人だった。  
(新潮社『考える人』2008年冬号102ページ)

「みんなに時間をかけてあきらめてほしかったじゃないか」という一文は泣かせる文章だ。
あの世に旅立つ時まで、河合隼雄さんは、自分を慕う人たちに、別れを惜しむ気持ちを、あきらめきれない気持ちを昇華させる時間を残していたとは。
もちろん、ご本人がそう考えていたか知る由もないが、昏睡されていた1年をそのようにとらえることで、自分の気持ちに整理をつけるのが、河合さんを私淑する者にふさわしい心の有り様のように思う。

河合さんの最後の作品である自伝物語の『泣き虫ハァちゃん』(新潮社)は、まるで河合さんの遺書のように思え、読んでしまうと河合さんの死を認めなければならないような気がして、ずっと遠ざけていたのだが、今日覚悟を決めて買ってきた。

自分も、人生の師であった河合さんの死を受け入れて、次のステップへ進まなくてはならないのだと思う。

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2008年3月20日 (木)

河合隼雄さんの追悼特集を組む『飛ぶ教室』2008年冬号と『考える人』2008年冬号を買う

臨床心理学者で数々の著作を残された河合隼雄さんが脳梗塞で倒れ、1年近い入院闘病ののち、亡くなられたのが昨年(2007年)の7月19日。もう半年以上になる。

このブログでたまたま書いた闘病中の河合隼雄さんの容態を心配する記事(2006年8月24日「気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態」)が、グーグルなどの検索サイトで長らくトップ10に表示されたこともあって、倒れられてから亡くなってまでのほぼ1年の間、毎日必ず10~20件程度アクセスがあり、多くの方に読んだいただいていたが、さすがに、最近ではほとんどアクセスされることはなくなっていた。
最近になって、朝日新聞社から出ていた『大人の友情』が文庫化されたのを見て、「やはり河合隼雄さんも時間の経過とともに過去の人になっていくのだろうか?」と妙に感傷的な気分になったりもしていた。

昨日、仕事の帰りにいきつけの書店に寄るると、河合隼雄追悼特集を組んでいる雑誌が2冊並べられていた。
光村図書発行の『飛ぶ教室』の2008年冬号と新潮社の『考える人』の2008年冬号。もちろん2冊とも買う。

飛ぶ教室 12(2008冬)―児童文学の冒険 (12)

『飛ぶ教室』の方は、河合隼雄さんとともに『飛ぶ教室』を創刊した児童文学作家の今江祥智さんと臨床心理学者で京都大学で河合さんの後輩にあたる山中康裕さんが「河合さんと子どもの本の話をしよう」というタイトルで対談しているほか、河合さんにゆかりのある人たちがそれぞれに河合さんの思い出の一文を寄せているほか、兄で動物学者の河合雅雄さんが隼雄さんが書いた自伝物語『泣き虫ハァちゃん』にまつわるエピソードを「泣き虫ハァちゃん異文」として寄せている。

『考える人』の方は、当初単行本化する予定で連続対談が組まれる予定だった作家の小川洋子さんと河合隼雄さんの対談、小林秀雄賞の選考委員として河合さんとともに選考にあたった加藤典洋・関川夏央・堀江俊幸・養老孟司4氏の対談、立花隆さんと河合さんの対談の再録、そして河合さんと関わりのあった人たちへのインタビューや、思い出を綴った文章という内容である。また、河合さんの著作をジャンル別に分けた「たましいの森をあるく」と題した河合隼雄ブックガイドもある。

どちらもそれぞれ趣向をこらした編集となっている。春分の日の今日、東京はあいにくの雨模様なので2冊を手に「雨読」に専念しようと思う。

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2007年9月10日 (月)

河合隼雄著『閉ざされた心との対話』を読み終わる

今年(2007年)の7月に亡くなった河合隼雄さんの著書で最近買い込んだ3冊の内の1冊、『閉ざされた心との対話』(講談社)を読み終わった。

サブタイトルに「心理療法の現場から(上)」とあるように、『心にある癒す力治る力』と題した下巻がある。

内容は河合隼雄さんと各地でカウンセリングの仕事をしている臨床心理士の人との対談で、河合さんが聞き手になって、それぞれのカウンセラーの経験を語ってもらうというものだ。初版が発行されたのが1999年5月。対談自体は1998年4月から翌1999年1月にかけて行われ、講談社の月刊誌「本」にそのダイジェストが連載されていたという。

上巻にあたる『閉ざされた心との対話』には9人のカウンセラーとの対談が収められていて、そのうちスクールカウンセラーとして小中高生やや大学での学生相談などを行っている。(9人の中には、以前このブログで紹介した『思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』(新潮文庫)の著者である岩宮恵子さんも含まれている)

9人それぞれに、感動的な話、なるほどそうかと思わせる話があるが、そのうちの一つを紹介しておきたい。

9人のカウンセラーの最後の登場する大学の学生相談室のカウンセラーをしている高石恭子さんという方のコメントである。高石さんは、たまたま私と同じ1960年生まれである。

学生相談室なので、相談の内容は必ずしもメンタルなことと限定しているわけではないようだ。高石さんのカウンセリングの際のモットーは「間口は広く奥行きは深く」ということ語っているが、中には”「顔を洗って出直しておいで」と言いたくなるような学生もときどき来ます”とのことなのだが、最後に

ただ、気をつけているのは、どんな切りだし方であっても、それが相談室にもちこまれる限り、背後には彼らの成長したい欲求が動いていると思うんです。人の悩みには軽重はない、という姿勢を忘れないように、いつも肝に銘じています。
(『閉ざされた心との対話』224~225ページ)

という言葉で、締めくくられていた。

親として、自分の子供の話に耳を傾ける時に、このような真摯な姿勢で聞こうとしているだろうかと、少し反省した締めくくりの言葉だった。

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2007年9月 3日 (月)

報道から再現する河合隼雄さん追悼式の様子

昨年(2006年)8月に脳梗塞で倒れ、今年7月に亡くなった河合隼雄・元文化庁長官の追悼式が、昨日(2007年9月2日)午後1時から京都市の国立京都国際会館で行われた。
各報道機関によれば、小泉純一郎前首相をはじめ約2000人が参列したという。

追悼式の式次第は以下の通り(京都大学ホームページより)

開式
挨拶 
 京都大学副学長 東山紘久
黙祷
追悼の詞
 京都大学総長 尾池和也
 文部科学省事務次官 銭谷眞美
 国際日本文化研究センター所長 片倉ともこ
 日本臨床心理士会会長代行 乾吉佑
故人追憶
 哲学者 梅原猛
 哲学者 鶴見俊輔
 人類学者 中沢新一
献奏
 ブラームス『弦楽六重奏曲 第1番変ロ長調』
 第一楽章、第二楽章
遺族挨拶
 河合俊雄
献花
閉式

各社のニュース報道から、可能な範囲で各参列者の挨拶を再現してみる。

まず、最初の「挨拶」に立ったのが追悼式の代表発起人であり、河合さんの弟子の1人であり臨床心理学者として著作も多い東山紘久京都大学副学長。

「一人の心理学者として最後までカウンセリングを続けた。冗談が好きな人で、失った悲しみは大きい」(共同)
「『あの世もなかなかおつなものや』と言いながら、起きあがると期待していたが、かなわなかった。迷える人々のために、あの世でもカウンセリングをしておられるだろう」(読売)

「追悼の詞」
最初に「追悼の詞」を述べたのは同じ京都大学の尾池総長。

「私はホラを吹くだけと違(ちご)て、フルートも吹く」と言われたというエピソードを紹介。(毎日)

さらに、梅原猛さんが初代、河合隼雄が2代め所長を務めた京都の国際日本文化研究センターの片倉ともこ所長。

「『夢の話は向こうでするわ。あんたもはよ来なはれ』と言わんばかりに早く逝ってしまわれた」(読売)

「故人追憶」
哲学者梅原猛さんの言葉は、様々な表現で各社で取り上げられている。

「友情の厚さに、涙を流さんばかりでした。学者としても優れていたが、実践家としても素晴らしかった」(朝日)
「学生紛争の時、学生と話をするのを楽しんでいた」(毎日)
「天皇が権力、武力を持たない特異な構造が日本の特徴とする『中空の理論』はぐれた着想」(日経)
「私が別れの言葉を言うのに驚いている。35年前にエレベーターの中で夢について研究したらと話し、そのことを忘れずに著書を出された。知的好奇心の素晴らしさにびっくりした」(京都新聞)
「私が死んだ時の葬儀委員長は河合さんに、と思っていたのに、私がお別れの言葉を言わなければならないとは。人の百生分、千生分も働いた。ゆっくりとお休みください」(読売)
「ユングの学説と東洋の文化を結び付け、河合心理学を発展させた業績は大きい。普通の人の百生分、千生分(の人生を)働いたので、ゆっくりお休みください」(共同)

続いて、哲学者の鶴見俊輔さん

「米大陸先住民と笛でうち解け合う魂の自由さが、学問をたぐいまれなものにしている」(日経)
「魂の自由な動きが、この人の学問をたぐいまれなものにした」(毎日)
「この人に会うことができて京都に来てよかったと思った」(読売)
「あなたに会うことができてよかった」(朝日)

3人めは人類学者の中沢新一さん

「神様の前で度の過ぎた冗談を言って、この世に差し戻されたのか、今でも先生の笑い声が自分のなかで響いている」(日経)
河合さんが倒れた昨年8月17日に対談する約束だったことを明かし、「夢の中で対話を繰り返している。今でも先生の笑い声を感じる」(読売)

フルートを自ら奏でるなど音楽好きの故人の要望もあって、ブラームスの弦楽六重奏の献奏が行われたのち、最後に遺族代表として、ご長男で京都大学教授の河合俊雄さんが挨拶。

「父にとっても、(倒れる)予兆を感じていた様子はなかった。意識が戻らず、誠に無念。河合はみなさんにとって父であり、河合隼雄という物語の中で生き続けている」(読売)
「庶民的な父だったが、華やかな式を喜んでいると思う」(日経、共同)

冒頭の東山京大副学長の言葉のように、もう一度、夢から覚めたように、垣間見たあの世のことを語ってくれるのではないかと、願っていたが、叶わぬこととなってしまった。

私個人としては、買い込んだ未読の河合隼雄さんの著作を、じっくり読んで、冥福を祈ることにしたい。

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2007年9月 1日 (土)

河合隼雄さんの追悼式を前に河合作品を買い込む

今日は、妻が本を探しに新宿の紀伊國屋書店の本店に行くと言うので、たまには違うところにしようと、彼女がこれまで行ったことがない神保町の三省堂書店本店に連れて行った。

相方が目当ての本を探している間、私も各フロアをぶらぶらと見て回る。

心理学のコーナーに行ってみる。河合隼雄さんの著作は心理学の専門書からエッセイまで相当数出版されているが、亡くなった直後ということもあってか、品揃えが充実しているような気がする。
並んでいるものの中の未読のものも数多くあったが、その中から文化庁長官就任後の書かれたエッセイも収録されている『ココロの止まり木』(朝日新聞社)と各分野で活躍する臨床心理士との対談集『閉ざされた心との対話-心理療法の現場から(上)』『心にある癒す力治る力-心理療法の現場から(下)』(講談社)を買った。

ココロの止まり木

閉ざされた心との対話―心理療法の現場から〈上〉 (心理療法の現場から (上))

心にある癒す力治る力―心理療法の現場から〈下〉 (心理療法の現場から (下))

帰りは、運動不足解消のため三省堂のある神保町から飯田橋、神楽坂、早稲田、高田馬場と東京メトロ東西線に沿うように歩き、高田馬場でも書店に寄る。
ここでは、平積みで河合隼雄コーナーが設けられていた。その中にあった河出書房新社の『文藝別冊 総特集河合隼雄 こころの処方箋を求めて』も購入。今日1日で、河合隼雄関連の本を4冊を買ったことになる。

河合隼雄―こころの処方箋を求めて (KAWADE夢ムック)

おりしも、明日9月2日には、河合さんの母校京都大学で追悼式が開かれる。京都までは行けない私としては、せめて著作を読むことで追悼の気持ちを表すことにしたい。

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2007年8月31日 (金)

河合隼雄著『未来への記憶-自伝の試み(上)』を読み終わる

7月に亡くなった河合隼雄さんを偲ぶ意味で読み始めた岩波新書の『未来への記憶』の上巻を読み終わった。

この『未来への記憶』上・下2冊は、2001年1月に出版された河合隼雄さんの自伝である。本人が話したものを新書2冊にまとめたものである。
当時は河合さんは、国際日本文化研究センターの所長。当時は、何でこんな時期に自伝なんてと思ったのだが、直後の文化庁長官就任と度重なる留任、在任中に脳梗塞で倒れ、帰らぬ人となったことを考えると、あのタイミングしかなかったのかも知れないと今になって思う。

上巻は、丹波篠山での少年時代、神戸工専、京都大学数学科での学生生活、大学卒業後の育英学園高校での教員時代を経て、天理大学で心理学を教えるところまでである。

読んでみて、これまで知らなかったことが多いことに思い知った。猿の生態の研究で著名な河合雅雄さんが兄であることはよく知られているが、隼雄氏は6人兄弟の5番目。それも兄弟の仲が良く、兄たちからかわいがられていた様子がよくわかる。

また、京大の数学科は理系の中で実験がないからという理由で選んでいること、大学での数学は理解できず、コンプレックスを感じている。大学時代には、将来の進路に悩み、1年休学さえしている。

人間に関心があり、教えることも好きということで、心理学を学びながら、高校教師として数学を教えることを自らの仕事にすると定めて、社会人となる。
高校教師となってからも、心理学の勉強のため京大の大学院に籍を置いて、京大にも勉強に行っている。
徐々に臨床心理学への関心が強まり、高校教師から天理大学の講師へと転じる。

当時は、時代も変化しており、社会も流動的だったのだろう、今から見れば、ずいぶんと紆余曲折を経た歩みである。

下巻は、いよいよ、臨床心理学への本格的な取り組みが語られるはずである。

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2007年7月24日 (火)

河合隼雄さんの追悼式の日程と週刊朝日の記事

今朝の朝刊に河合隼雄さんの追悼式の予定が掲載されていた。

日時:9月2日(日)午後1時~
場所:京都大学百周年時計台記念館
    百周年記念ホール
発起人代表:東山紘久京都大学副学長

長らく教鞭をとった京都大学での追悼式は、ご本人にも異論はないだろう。それまでの1ヵ月余、我々も喪に服し、河合さんの教えを改めて、振り返る時なのかも知れない。

週刊朝日の最新号(2007年8月3日号)には、『盟友が明かす河合隼雄さん 生前語られなかった「本心」』との半ページほどの記事が出ている。弟子にあたる山中康裕京大名誉教授、ジャーナリストの柳田邦男さん、宗教学者(人類学者)の中沢新一さんなどの追悼コメントが収録されている。

柳田邦男さんは、息子さんを「心の病」で亡くされているが、まだ息子が存命中、その悩みを河合さんにもらすと次のように言われたと書かれている。

「子供の命や心の危機に直面したとき、親は80点、90点ではだめ。100点満点をとらなきゃいけない。自分が崖っぷちに立ったつもりでなければ、何をやってもだめ」
(週刊朝日2007年8月3日号、146ページ)

なかなか、耳の痛い話である。子供の危機に際して、はたして自分は100点満点の親になれるだろうか。教科書があるわけでなし、その場その場で崖っぷちに立ったつもりで、親も必死になって考えろということなのだろう。

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2007年7月21日 (土)

未完の河合心理学は、日本が必要とする賢者の智恵ではなかったか?

河合隼雄さんが亡くなったことについての記事は、新聞では昨日の朝刊に載った。朝日新聞では、人類学者の中沢新一氏が、お悔やみのコメントを寄せていた。
中沢氏は、 

「日本にほとんどいなくなった賢者でした。日本人に魂というものが危機に陥っていると認識し、救おうとした」(中沢新一、2007年7月20日、朝日新聞朝刊)

と語っている。

賢者という言葉が、実にぴったりくる存在だったと思う。このブログでも一度紹介した『縦糸横糸』(河合隼雄著、新潮文庫)は1996年5月から2003年5月まで月1回のペースで新聞に連載したコラムをまとめたものである。この本は、この間の数々の出来事を題材に、臨床心理士の立場から、日本の病状を診断したものと言ってよいと思う。全部で72編のコラムからなっているが、その中に「不況も克服するために -文化庁長官就任に際して-」とのタイトルで文化庁長官を引き受けた理由を語った一文がある。まず、最初に文化庁長官就任の打診があった際には断ろうかと思ったと語った後で次のように続く

◆抑鬱状態の日本
私はこれまで、臨床心理の仕事をしつつ、日本文化をいろいろ論じてきたし、国際日本文化研究センターの所長の仕事もしてきた。どうしてこうまで「文化にこだわってきたのか、我がことながら不思議に思った。それは考えてみると、私の仕事はあくまで個人を大切にすることだが、現在においては「文化」を抜きに個人を考えられないからである。
このグローバリゼーションの波の強いなかで、文化を抜きに生きていたのでは、知らぬ間に、根なし草のようになってしまう。さりとて、かたくなに文化にしがみついていては、世界の流れのなかで孤立してしまう。個人と文化は密接に関連しているのだ。
こんなことを考えているうちに、現在の日本の不況による沈滞が個人の抑鬱状態と重なって見えてきた。不況は英語でデプレッションだが、それは「抑鬱」をも意味している。つまり、日本の国を一個人として見れば、それは抑鬱状態に沈んでいるのである。
(『縦糸横糸』284ページ)

河合氏は、このように日本の国そのものを抑鬱状態と診断し、「「文化」活動に力を入れることで、それ(不況=抑鬱状態)を克服できるのではなかろうか。」と文化庁長官を引き受けたのだ。

長い不況から脱出できそうな様子になってきた時期になって、河合氏がそれと引き換えのように、亡くなったのはなんと皮肉な巡り合わせだろうか。
多少、景気が良くなってきたとはいえ、日本人全体はまだまだ抑鬱状態にいるような気がする。
今日(2007年7月21日)の朝日新聞朝刊には生前の河合氏と親交の深かった哲学者の梅原猛氏が”「河合心理学」未完が残念”との題で追悼文を寄せ、最後が次のように結ばれている。

おそらく河合氏は要職を退いたら、仏教や東洋の英知の伝統をひく、ユング心理学に匹敵する河合心理学を立てようと思っておられたにちがいない。
そのような仕事を完成されずに亡くなられたことは、日本の学問のためのも甚だ残念なことだと私は思う。
(梅原猛、2007年7月21日朝日新聞朝刊)

河合心理学こそ、これからの日本に必要な「賢者の智恵」ではなかったか。それをまとめる時間が河合隼雄さんに与えられなかったことを、なんとも恨めしく思う。そして、それは、残された現代の日本人にとって、なんと大きな損失であることか。悔やまれてならない。

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2007年7月19日 (木)

訃報:河合隼雄氏(元文化庁長官)死去

携帯電話でウェブサイトの閲覧が出来るようになってから、仕事の帰りなどに、自分のブログへのアクセス数を見ている。

今日の帰り、のぞいてみると、将棋名人戦が終わって以降1日300~400件だったアクセス件数は、夜7時過ぎで500を超えている。また、通常は、日中のアクセスのピークは12時台で、多くても40~50というレベルなのだが、今日はピークが夕方にあり、1時間100アクセス以上が2時間続いている。いつもと違う。

記事別のアクセス状況を見ると全アクセスの半分近くを昨年(2006年)8月24日の「気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態」へのアクセスで占めている。河合隼雄さんに何かあったに違いない。「とうとう、亡くなったのかもしれない…」。携帯の電池が切れてしまい、それ以上情報を集められない。

家に帰って夕刊を見るが、夕刊にはそのような記事はない。パソコンを立ち上げて、グーグルで検索すると、やはり河合隼雄さんが亡くなられていた。

各ニュースサイトの報道を要約すれば、「河合隼雄さんは、今日(2007年7月19日)午後2時27分、入院先の奈良県天理市の病院で脳梗塞で亡くなった。享年79歳。」

文化人としての文化庁長官就任は、今日出海氏、三浦朱門氏に次いで3人目。4年半を超える在任期間で、最後は奈良県明日香村の高松塚古墳壁画損傷問題の対応のさなか、脳梗塞に倒れた。古墳損傷問題がストレスとなっていたに違いない。もう少し早く退任していれば、まだお元気だったかもしれないと思うと残念でならない。

先日、取り上げたフリーペーパー文庫本『ゲドを語る。』の中で、映画『ゲド戦記』の宮崎吾朗監督と河合隼雄文化庁長官(当時)が対談している。対談は映画『ゲド戦記』の冒頭で、ゲドと旅をすることになる王子アレンが王様である父を殺す場面についての、河合氏の問いかけから始まる。しばらく、語るうちに、次のようなやりとりが出てくる。

河合 第4巻(引用者注:ゲド戦記第4巻『帰還』)でのゲドはまったく仕事を失って、テナーと結婚するような形になりますね。
宮崎 そうなんです。僕の中では会社の役員を引退したお父さんのイメージが、あそこのゲドにはあったんです。
河合 なるほどね。僕ももうじき引退しますけど。殺される前に(笑い)。
(2006年7月28日対談、『ゲドを語る。』180ページ)

河合隼雄氏自身も2007年1月の任期満了時には、退任するつもりだったのだろう。
私にとっては、二十歳の頃からの人生の先生であった。直接、お会いしたことや、講演を聴く機会もなかったけれど、著書から得た影響は計り知れない。

謹んで、ご冥福をお祈りしたい。

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2007年7月15日 (日)

フリーペーパー文庫本『ゲドを読む。』を入手、河合隼雄文化庁長官の最後?の対談が掲載されていた

今日、吉祥寺に行った時に入った書店で、児童書コーナーをのぞいてみると、『ゲド戦記』ソフトカバー版が平積みで並べてある。そのとなりに『ゲドを読む。』と題した黒い表紙の文庫本が置かれていた。

手にとって見ると、「前書き」:糸井重里氏、「『ゲド戦記』の愉しみ方」と題したゲド戦記論を人類学者の中沢新一氏、ほかにも河合隼雄文化庁長官(当時)と映画『ゲド戦記』の宮崎吾朗監督の対談など盛りだくさんである。
面白そうだから、買ってみようと裏表紙の値段の印字を探すが見つからない。奥書には、「非売品」とあり、「前書き」をよく読むと「この本は無料です。」と書いてある。
念のため、店員さんに「これは売り物ではないのですか?」と聞いてみると「どうぞ、お持ち下さい」とのことなので、1冊もらってきた。

家に帰ってから、改めてグーグルで検索をしてみると、この本の成りたちがわかった。
発行元は、「ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント」。ディズニーのビデオなどを販売している会社だ。昨年公開されたスタジオジブリのアニメ映画『ゲド戦記』(宮崎吾朗監督)のDVDが、2007年7月4日から「ブエナ ビスタ」から発売されるのに先立って、110万部が印刷され6月6日から書店やDVDの販売店などで無料頒布されていたらしい。表紙の色も、私がもらった黒に加え青、赤、黄色、ピンクの計5色があるらしい。

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新手の無料広告本ということのようだ。
(詳しくはこちらをご参照→『ゲドを読む。』の公式サイト

しかし、内容は値段をつけて販売されている文庫本と比べても遜色はない。中沢論文、河合×宮崎対談以外にも、宮崎駿、河合隼雄、清水真砂子、上橋菜穂子、中村うさぎ、佐藤忠夫といったそうそうたるメンバーの人々が雑誌などの書いたゲド戦記に書いた文章が再録されており、ページ数も200ページに及ぶ。

なかでも、本の最後に再録されている河合隼雄文化庁長官(当時)と宮崎吾朗監督の対談は2006年7月28日に東京・丸の内の文化庁長官室で行われたと書かれている。

河合隼雄氏は、以前から児童文学やファンタジーをよく読まれており、心理学者の視点から児童文学やファンタジーを読み解いた著書も多い。(『子どもの宇宙』岩波新書、『ファンタジーを読む』講談社+α文庫など)
原作は全て読み、映画も見終わった河合文化庁長官は、原作を踏まえ、どういう意図で映像化したのか、しなかったのかを宮崎監督に問いかけながら、映画『ゲド戦記』に対する自らの感想も語っている。

河合長官が脳梗塞で倒れたのは、この対談から1ヵ月もたたない2007年8月17日である。おそらくは、心理学者としての河合隼雄氏の言葉や文章が活字化された最後のものではないだろうか?
河合隼雄ファンで、まだ手に入れられていない方は、1冊手に入れておいてもいいのではないかと思う。

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2007年7月 3日 (火)

新潮文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』についての思いこみ

しばらく前に、岩宮景子著『思春期をめぐる冒険-心理療法と村上春樹の世界』(新潮文庫)を読んだ。(その時の感想はこちら→2007年6月20日:岩宮恵子著『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫)を読む
この本の「はじめに」の冒頭に、今日話題にする『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』での河合隼雄氏との対談での村上春樹氏の発言が引用されている。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は、最初、岩波書店から出版された。その時、単行本を買って確かに読んだのだが、何せ村上作品を1冊も読んだことがないので、対談の内容も全く覚えていなかった。今回、『思春期をめぐる冒険』を読んで、改めて読み直そうと自分の本棚の一角を占める20冊近い河合隼雄作品を中を探すが見つからない。どうも、定期的な蔵書のリストラの際、もう読まないだろうとブックオフで売ってしまったらしい。

ならば、しかたない。新潮文庫に入っているので、文庫で買って読み直せばいいと軽く考えていた。しかし、機会があるたびに書店の文庫の棚を探したが、どこの書店に行っても、新潮文庫の河合隼雄作品のところにないのである。たしかに、新潮文庫「河合隼雄の本」の1冊に上げられているだが…。よほど人気がなく、出版元でも在庫切れなのだろうか。村上春樹氏の人気を考えれば、どうも腑に落ちない。しかし、ないものは買いようがない。

昨日、会社の帰り、家の最寄り駅の老夫婦がやっている小さな書店に、そろそろ『将棋世界』8月号が出ているかもしれないと思い立ち寄った。お目当ての『将棋世界』まだ入荷していない。帰ろうと思ったが、奥の文庫のコーナーをあてもなく一巡りしてみる。村上春樹氏の作品がまとまっている一角が目に入った。村上作品の代表作は、どちらかと言えば講談社文庫に多いのだが、そこには青い背表紙の新潮文庫も何冊か置いてある。
なんと、その中に『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』があったのである。新潮社は、「河合隼雄の本」と書いていながら、村上春樹氏の作品の中の1冊として文庫化していたのだ。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

たしかに、考えてみれば、2人の対談なのだから、共著と同じである。河合作品であり、村上作品でもある。しかし、自分は河合ファンであるということもあってか、当然、河合作品の1冊であると思いこみ、これまでいっさい新潮文庫の村上作品のコーナーを探したことはなかった。
「思いこみ」とはこわいものだ。もし、この本がこのまま見つからなくても、生活に困るわけではないが、むしろ、こういう自分の勝手な思いこみで、見つからないもの、見えなくなっているものが、まだまだたくさんあるのではないかという気がした。ただでさえ、思考が硬直化しがちな年代になっているのだから、よほど自分で気をなければと肝に銘じた次第である。

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2007年5月 1日 (火)

源氏物語の読み方、河合隼雄著『紫マンダラ』と俵万智著『愛する源氏物語』

最近、文庫化された俵万智著『愛する源氏物語』(文春文庫)を読んでいる。作中に登場する795首の和歌を手がかりに、歌人で、かつては高校で国語を教えていた俵万智さんが『源氏物語』を読み解こうとするものである。

愛する源氏物語

紫式部が平安時代に書いた『源氏物語』54帖は、日本の文学史上に燦然と輝く名作なのだろうけれど、歴史には多少興味があっても、古文となると、外国語を読んでいるように思えてきてどうも苦手で、ほとんどまともに読んだことがない。
せめて、現代語訳でもと思い、橋本治さんが『窯変源氏物語』を書いた時には、最初の何冊か買うだけ買ったものの、最初の数ページを読んだだけで、結局、読まずに終わっている。

脳梗塞で倒れたままの河合隼雄元文化庁長官の著書に『縦糸横糸』(新潮文庫)という産経新聞に連載した記事をまとめた本がある。

縦糸横糸

その中で、2000年を迎えるにあたり「2000円札」が新札として発行され、裏面の源氏物語絵巻の図柄が採用された際に書かれた「「源氏物語」のミレニアム」と題するコラムがある。河合さんも最初は、私と大差ない『源氏物語』との距離感だが、その後が違う。

私は長い間、『源氏物語』を読まなかった。実は一度挑戦したが、源氏がつぎつぎと女性と関係を持ち、しかも彼の苦悩がほとんど感じられぬ物語の展開に嫌気がさして、こんな古いものは読めないとなげだしたためである。
しかし、50歳をこえてから日本の物語をつぎつぎと読み、その素晴らしさに目を開かれたので、最後には源氏に挑戦しようと思い、1994年、プリンストン大学の研究員として2ヵ月間滞在中に、集中して『源氏物語』を読んだ。今度は、まったく異なる感じで読め、読み終わったときはその偉大さに圧倒されて眠れないほどであった。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、195ページ)

河合さんは、源氏物語を紫式部の自己実現の物語と語っている。

『源氏物語』は紫式部という一人の女性の自己実現の物語として書かれているということであった。全巻を読み通した後に個々心に浮かんで来るのは、このような時代に自分の個を生き抜いた紫式部という女性のイメージであり、光源氏ではなかった。
いずれの時代にもその時代に応じて一般的な「物語」というものがある。平安時代の(中略)女性の貴族であれば入内して天皇の寵を受けて皇子を生むということがあった。(中略)
紫式部はそのような一般的物語をそのまま生きようとはしない。かと言ってそれと無縁でいることもできない。自分という一個人の世界を見てみると実に多彩な分身たちがうごめいていることに彼女は気がついた。その分身一人ひとりを描くためには、まず相手となる男性を必要とする事に気づき、光源氏という男性を立てることにした。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、195~196ページ)

河合説によれば、源氏物語の主役は、光源氏ではなく、光源氏と関わる多くの女性達であり、彼女たちは紫式部の分身であり、彼女達を写す鏡の役として光源氏は存在することになる。

紫マンダラ―源氏物語の構図

源氏物語と日本人―紫マンダラ

河合作品の中で、上記のような分析を行った本が『紫マンダラ 源氏物語の構図』(小学館、2000年刊)である。(講談社+α文庫で文庫化された際『源氏物語と日本人 紫マンダラ』に改題)

源氏物語の解釈・分析の中で、門外漢である河合隼雄さんの上記のような説は、定説とは言えないだろう。あれほど多くの女性が登場することと、光源氏が登場するほとんどの女性と何らかの関係をもつという無節操ともいえる行動の理由が、河合説で考えると納得できる部分もあるように思える。

今回、俵万智さんの『愛する源氏物語』を読んでいると、紫式部は、いろいろな登場人物が作中で歌い詠む795首の和歌を、登場人物の応じて歌い分けているという。

795首の和歌を、それぞれの人物の状況と才能に応じて歌い分けるという技量。その「成り代わり」の技においては、紫式部は恐ろしいほどの力をもっていた。795首は、795種でもあるのだ。
(俵万智著『愛する源氏物語』文春文庫、10ページ)

作中の人物の境遇に応じて、歌わせる和歌も、分相応に歌い分けていると言うくだりを読んで、河合隼雄さんの登場する女性は、紫式部の分身という説を思い出した。それぞれ、自分の一部として表現されていれば、自然と歌も生まれたということであろうか。

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2007年1月23日 (火)

河合隼雄文化庁長官、退任

今朝の朝日新聞に河合隼雄文化庁長官が任期満了で退任するとの記事が出ていた(その後記事を再確認したところ、1月17日に任期が満了に退任したとの記事の内容だった)。昨年8月に脳梗塞で倒れてからもう少しで半年になる。

記事は、河合隼雄長官が、初代の今日出海、三浦朱門に次ぐ3人目の文化人出身の長官であること、奇しくも3人の就任か17年毎であることなどには触れられているものの、脳梗塞で倒れたことには一切触れておらず、河合ファンが最も知りたいその後の容態についても何のコメントもなかった。(インターネットのニュースを検索したところ、病気療養中の状態には変化はない模様だ)

折しも、今日は世界遺産への推薦候補が、文化庁から発表され文化庁が注目を集めた一日だった。
富士山、富岡製糸場、長崎の教会群、飛鳥・藤原の歴史遺産の4つが候補に残ったとのこと。

昨年秋には、文部官僚から後任の文化庁長官が選任され、行政上は既に過去の人だが、河合隼雄長官なら、この4案件の候補選定について、どうコメントしたか、聞いてみたいと思うのは私だけではないだろう。

お元気になられることを祈るばかりである。

追記:本日の記事は出張先の大阪のホテルから携帯電話で投稿しています。事実誤認等があれば、後日修正します。

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2006年11月 1日 (水)

河合隼雄文化庁長官、休職

昨日(10月31日)の朝日新聞の夕刊で

政府は、31日、病気療養中の河合隼雄文化庁長官の後任に近藤信司文部科学審議官をあてる人事を閣議決定した、11月1日付けで発令し、河合長官は同日付けで休職(中略)。
河合長官は(中略)、今年8月、奈良県の自宅で脳梗塞で倒れ、入院を続けている。

とニュースが伝えられていた。改めて、インターネットで他社のニュースも検索してみると、

日経(NIKKEI NET)では
「病気休職中の河合隼雄文化庁長官は定員外となるが、長官職にはとどまる。」とあり、

読売(YOMIURI ONLINE)では
「当面は休職扱いとすることにした。河合氏の任期は来年1月17日まで。」と伝えている。

さらに読売では

伊吹文部科学相は31日の記者会見で、交代の理由を、「長官の健康がなかなか回復せず、11月に文化庁で多くの行事もあるためだ」と説明した。

との文部科学大臣のコメントも伝えている。

本人に意識があって、当面、職務復帰不可能ということであれば、その時点で自発的に辞職ということになるのだろうが、倒れた途端意識不明なので、文部科学省としても、一方的に職を解くというわけにもいかず、任期満了までは、定員外という形で長官職に留まるということになったのだろう。

いずれにしても、容態に変化はなく、病状は回復していないということだろう。ただただ、健康を回復されることを祈るばかりである。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職  

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2006年9月 8日 (金)

90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

河合隼雄著『縦糸横糸』(新潮文庫)を読み終わる。1996年5月から2003年5月まで、月1回産経新聞大阪版に連載されたコラム72回分をまとめて本のしたもので、単行本は2003年7月に発行され、この9月に新潮文庫に加わった。

縦糸横糸 (新潮文庫)

その時々の世間での出来事をテーマに河合隼雄が持論を語っている。振り返って見れば、90年代後半からこの本がまとめられた2003年までは、日本経済の長引く不振で、日本社会全体が暗くすさんでいた時期でもあり、バブル崩壊後の失われた10年(15年)の社会史にもなっている。72話の多くが、小学生や中学生といった少年・少女が起こした事件をテーマにしている。

しかし、河合氏は常に、事件の背景にある真の原因を探ろうとする。それは、子供を暴発に追い詰める、家庭であり、社会であり、それらの構成員である大人一人ひとりである。大人自身が、自分十分見つめておらず、自分に自信がもてていない。信頼できる人間関係が築けない。家庭が、憩いの場とならない。それが、子供を追い詰めている。

そんな大人の姿を描いた一節がある。『「今、ここ」の自分への不満』とサブタイトルがついたコラムで、関西の私鉄で混雑時の社内での携帯電話の電源を切るように呼びかけ始めたことを取りあげたものだ。

いつどこから電波という風が吹いてくるかわからないのを、いつも待ち受けている姿勢で、何かにほんとうに集中できるはずがない。というよりは、何かに集中するのが怖いので、それを避けるために常に外からのはたらきかけを気にしている、というのが現代人の姿ではないだろうか。
 外からのはたらきかけを待つというと何かに心を配っているようだがさにあらず、ひとたび携帯のベルが鳴ると周囲を全く無視して話しはじめる。他人の迷惑などお構いなしである。そこには極端な自己中心性が認められる。
◆空しい枝の絡み合い
 常に外とのつながりを求め自己中心的である姿は、自己に深く沈潜することによって他とのつながりを見出してゆく姿とはまったくの対極をなしている。現代人の特徴としての人間関係の希薄さ、まずさは、その根本に自分の内面とのつながりの無さということにある。(中略)自分の内界と切れてしまっているので、何とかして外とのつながりによってそれを補償しようとするのである。
 このような姿は、たとえてみると、根から切れた沢山の木が、お互いに枝を絡み合わせることによって、やっと立っているのに似ている。辛うじて倒れずに居るが、やがてはかれてしまうことだろう。この空しい枝の絡み合いをネットワークなどと呼んでいるのである。
 (中略)携帯電話禁止週間などというものがあったりすると、もう少し人間が自分の内面もこめて、互いに向き合うことをするようになるだろう。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、243~244ページ)

時々、こうしてブログを書いていると、妻から「ブログばかり書いて、私や子供たちのことはほったらかし」と怒られる。根のない木にはなっていないつもりだけれど、そう言われれば、ブログに向かう時間が増えた分、家族と向き合う時間は減っているかも知れない。うまくバランスを取ることを考えなくてはいけないと少々反省している。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 7日 (木)

『明恵 夢を生きる』を読み終わる

昨日、『明恵 夢を生きる』(河合隼雄著、講談社+α文庫)を読み終わった。明恵という僧侶の精神性の高さに驚嘆するばかりである。

明恵 夢を生きる (講談社プラスアルファ文庫)

私は、昔から歴史好きだったこともあって、大学受験の際の共通1次試験も、日本史・世界史という組み合わせで臨んだ。大学時代、社会人のなってからも、歴史関係の新書はずいぶん読んできた方だが、正直なところ、20年間積ん読になっていた京都松柏社版の『明恵 夢を生きる』でしか、「明恵」の名前を見ることはなかった。

試しに、高校時代に使った日本史教科書の定番である山川出版社の赤い表紙の「詳説日本史新版」開いてみる。「鎌倉新仏教の誕生」のサブタイトルで法然、親鸞、日蓮、一遍らが語れたあと最後に、次のように書かれている。

これにたいし、旧仏教諸宗は、いぜんとして大きな力をもっていたので、新仏教を弾圧して、自己の宗勢をまもろうとし、その反面では反省と改革をすすめた。法相宗の貞慶(解脱)、華厳宗の高弁(明恵)、律宗の叡尊らは戒律の尊重を説き、奈良仏教の復興に努力した。叡尊の弟子忍性(良観)は貧民救済・施療などの社会事業につくした。
(井上光貞・笠原一男・児玉幸多『詳説日本史新版』昭和53年、106~107ページ)

その後も、書店等で新しい山川の『詳説日本史』の教科書を見つけるたびに買いたして、他にも、1991年版、1999年版、2003年版が手元にあるが、旧仏教側が新仏教を弾圧したという記述がなくなっている程度で、明恵が奈良仏教(南都仏教)の復興に尽くしたということ以外は書かれていない。

しかし、現実の明恵は、自分の夢を丹念に記録して自分なりの解釈も加えている。年齢を加え経験が増すとともに、夢の内容が変化していく。最後は、自分の中に菩薩が入ってくるという夢を見る。一人の人間の生き方として見ると実に潔いし、年々成長し、その思想の深まりが、如実に夢に反映される様子は「すごい」というしかない。

おそらく、約20年の間、この本を開いても読み進めなかったのは、本の中から、明恵がおまえにはまだ早いと囁いていたのだろう。今の自分でも、十分読みこなせたとは思えないが、なんとか読み通すことができた。

機会があれば、戦前、広く日本人に読まれたと言われる『明恵上人伝記』にも挑戦してみたい。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 5日 (火)

気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2

今朝の日本経済新聞に脳梗塞で倒れ入院中の河合隼雄文化庁長官の主治医が4日(昨日)、河合長官の容態につき発表したとの記事が出ていた。
「小康状態を保ち、生命の危機的状況はほぼ脱した」とのコメントの一方、依然として「意識は回復しておらず重篤な状態」とある。

昨日は、小坂憲次文部科学大臣が高松塚古墳の視察し、河合長官の家族に面会したこともあり、容態の発表があっったのかも知れない。

まだ、意識不明ということだ。この世とあの世との境で、さまよっているということだろうか。

河合長官の最近の本に『大人の友情』(朝日新聞社、2005年)がある。

大人の友情

その中に、白洲正子さんから聞いた話がのっている。

 白洲さんが晩年病気で瀕死の状態になられた。親族一同が危篤と思って見守る中で、白洲さんは「大丈夫、大丈夫」と言われたらしい。一同、変な気がしたが、幸いにも奇跡的に治って元気になった。
 その後、お会いしたら、「私、死にかけたのよ」と話をして下さった。ふと気がつくと自分は一人で山道を歩いていた。ところが、桜の花が満開で、それが散りはじめ、その花吹雪のなかを、これなら一人でゆける、というので「大丈夫、大丈夫」と言ったらしい。そのとき、このようにして一人でちゃんとあちらにゆけるのだから大丈夫という気があったようだ。このような話であった。
 この話に私は深く心を打たれたし、さすがに白洲さんらしいなと感じた。
(河合隼雄著『大人の友情』朝日新聞社、85~86ページ)

ぜひ、ここで語られている白洲正子さんのように意識を回復し、あの世の入り口の話でも、我々に笑い飛ばすように語ってほしいものだ。

*河合隼雄関連の記事
3月7日:『中年クライシス』
8月24日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態
9月1日:『明恵 夢を生きる』を読み始める
9月5日:気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態・その2
9月7日:『明恵 夢を生きる』を読み終わる
9月8日:90年代後半の世相を語る『縦糸横糸』を読む

11月1日:河合隼雄文化庁長官、休職

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2006年9月 1日 (金)

『明恵 夢を生きる』を読み始める

河合隼雄文化庁長官のその後の容態はどうなっているのだろうか?特に、新しいニュースもないようである。

私は、河合長官の著書は、かなり読んでいるが、このほぼ20年積ん読になったままの著書がある。『明恵 夢を生きる』(京都松柏社発行)である。奥書を見ると、1987年4月発行で、私の手元にあるのは、1987年7月第3刷である。ほぼそのタイミングで購入しているはずだ。それから、19年が過ぎ20年目に入る。それ以後、新刊で出た著書もずいぶん読んでいるが、なぜかこの本は何度か手に取るが、挫折してしまう。

鎌倉時代の高僧明恵(みょうえ)は、自らの夢を綴った『夢記』を生涯を通して記しており、それを河合隼雄氏が心理学者、夢分析者の立場から語るもので、非常に興味深いテーマなのだが、なぜか進まない。

どちらかと言えば心理学の専門書的な位置づけで出されたこの著書は、その後、広く読まれ、1995年には「講談社+α文庫」の河合作品の1冊に加えられている。思い切って、そちらを買って読むことにした。文庫版のまえがきには、「文庫版出版にあたりふりがなをふやすことになり、…」とある。単行本の方を、なかなか読み進めなかったのは、ふりがなが少なくページ全体から堅い印象を感じていたからかも知れない。今度こそは、読み終わろう。

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2006年8月24日 (木)

気がかりな河合隼雄文化庁長官の容態

先週、8月17日(木)に河合隼雄文化庁長官が、奈良の自宅で脳梗塞で倒れたとのニュースが流れた。肺炎を併発し、重体。翌日には、小康状態との報道が続いたが、その後は、何も伝えられず、気がかりだ。

私は高校生の頃から心理学に興味があり、ずいぶん本も読んだが、一番多かったのは、河合長官の著作である。軽妙な語り口で、読むものを惹きつけてやまない。
河合氏は最初から心理学者を志していたわけではなく、京大の数学科を出て一時は高校の数学の教師をしている。その後、京大大学院で心理学を学び、米国留学の後、スイスのユング研究所で学んでいる。日本に戻り、京大で教鞭をとるかたわら、心理療法家として臨床治療も行い、その経験が著作の中にも反映されている。

私が、好きな本は何冊かあるが、特に、印象に残っているものに、『大人になることのむずかしさ』(河合隼雄著、岩波書店、1983年、1996年に新装版として再版)という著書がある。

大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)

これは、岩波の”子どもと教育を考える”というシリーズの1冊として出版された。教育書として出されたせいもあり、その後も、文庫化されたこともない地味な本であるが、私にはいつも読み返す一節がある。「職業の選択」という見出しの付いた一節である。

職業の選択や配偶者の選択においては、思いがけない偶然性が伴う時がある。職業や配偶者は、その人にとっての人生の一大事であるのに、偶然によって決めるなど、まったく馬鹿げているように思われるが、実際はその結果が上々であることも少なくないのである。(中略)
このことは、人生の不思議さといってしまえばそれまでだが、職業や配偶者の選択のような、あまりに重大なことになると、人間の意志や思考のみに頼っていては、あまりよい結果をもたらさないことを示しているのかも知れない。(中略)
深い必然性をもったものほど、人間の目には一見偶然に見えるといってもよく、そのような偶然を生かしてゆく心の余裕をもつことが、職業選択の場合にも必要であろう。もっとも、偶然を生かすことと、偶然に振り回されることは似て非なるものであることは、いうまでもないことである。一所懸命に行為してゆくにしろ、どこかに偶然がはいりこんでくるゆとりを残しておくことは、大人であるための条件のひとつといっていいだろう。
(河合隼雄著『大人になることのむずかしさ』岩波書店、168~169ページ)

「深い必然性をもったものほど、一見偶然に見える」との考えは、いつも、私の頭のどこかにある。いつも、「ただいま現在、こうしてあることの偶然を、どうやって次に生かしていけるだろうか?」と考えてきたように思う。
サラリーマンの仕事は、異動という自分の意志では、どうにもならないものによって左右される。新たな職場で、どんな仕事をし、社内外で誰と巡りあうかも、偶然の産物であろう。しかし、これまで、偶然に振り回されずに、なんとかやってこられたのは、この一節のおかげである。

河合長官には、なんとか回復してもらい、再び、現代の日本人に語りかけてほしい。 

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2006年3月 7日 (火)

『中年クライシス』

ブログのサブタイトルに使ったこの言葉は、私の好きな作家の一人河合隼雄が1993年に書いた本の題名である。

河合隼雄氏は、臨床心理学者で心理療法家。作家というよりは、心理学の先生だが、数々の文学作品を、心理学的に分析した読み物を多く出している。長らく、京大の教授だったが、現在は文化庁長官を務めている。

「中年というのは、最も意気盛んで安定期に見えて、実は、職場、家族などの多様な問題に直面して、心の危機をはらんだ時期である」というのが、心理学から見た中年の位置付けである。その中年の心の危機を、日本の文学作品から解き明かしたのが、『中年クライシス』という本である。

生まれて、学校に行き、就職し、結婚する。30代は、仕事や子育てに追われるうちに過ぎていく。職場でのゴールも見え始め、子どもも育ち、育児の負担が減ってきたと思い、ふと立ち止まると40代になっている。「自分はこれから、どうすればいいのか?」そこに、中年の心の危機が生じる。人生50年といわれた時代は、考える間もなく、死がやってきたが、人生80年の現在では、その問いに答えを見つけないまま、生き続けることは困難である。そんな中で、中年期の病気や事故は、次の新しい展開への踏み台としての意味も持っているという。

自分の昨年の骨折・入院というのも、一度、立ち止まって、今後を考えろということだったのかもしれないと、最近になって思う。
一方、私の妻も、末っ子が小5になり、昔ほど手がかからなくなって、しきりと、「自分の人生を、子育てと家の片付けだけで終わらせたくない。これから死ぬまで、もっといろいろなことがやりたい。若い頃、もっと勉強しておけば良かった。」と悔やんでいる。(喫茶店計画も、そんな彼女の将来の模索の中から出てきたものだ)

中年の心の危機の時に、支えになるのが、家族であり、仲間だろう。特に、夫婦は、その際の最も当てにしたいパートナーである。92年に書かかれた『対話する人間』という本の中で、その様子が時代劇のチャンバラに例えられている。中年までは、周りを取り囲む多くの敵(仕事や子育て)に立ち向かうため、夫婦は背中合わせで協力してきたが、いざ敵がいなくなった時、向かい合ってみると、自分のパートナーはこんな奴だったのかということになる。そこから、夫婦の対話という、困難な大事業が始まる。
40代になって、高校の同級生のホームページができ、同窓会も年に数回催されるようになった。これも、中年クライシスを、昔の親しい仲間で、助け合って乗り越えようという、多くの人の潜在的な意識の現れではないかと考えている。

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