2009年8月13日 (木)

「ふみの日」の切手の題材が「百人一首」だった

今日、たまたま家の近くの郵便局に立ち寄ったら、最近発行された記念切手や特殊切手が並んでいる中に、7月23日に発行された「ふみの日」の切手があった。この間、競技かるたをテーマにした漫画「ちはやふる」について書いたが、今年の「ふみの日」の切手は百人一首が題材だった。百首の中から五首を選び、江戸時代の金色の光琳かるたのデザインを基に切手化し、はがき用の50円切手と封書用の80円切手が作られていた。

Fuminohohi1 Fuminohi2

7月23日は、文月(ふみつき)の23(ふみ)の日ということで、昭和54年(1979年)に旧郵政省は手紙離れに歯止めをかけようと考えたのか、「ふみの日」の機会の手紙を書くように毎年キャンペーンを始めた。そして毎年、ふみの日時点のはがき料金と封書料金の「ふみの日」切手を発行してきた。

小学生時代に切手収集を趣味にし、手紙を書くことも嫌いではなかった私は、趣味としての切手収集をやめたあとも、手紙を出すときは、いつでもどこでも手に入る味気ない普通切手よりも、少し大きめでデザインも凝っている記念切手を貼るようにしていた。「ふみの日」の切手のデザインも毎年気をつけてみていたが、この10年ほどは、電子メール中心の世の中になって、年賀状と懸賞応募以外、手紙やはがきを書くことがほとんどなくなってしまったこと、旧郵政省・総務省、郵政公社、郵便事業会社との変革の中で、切手作りのスタンスも切手という媒体を通じて日本の文化や自然を紹介するといった方向から、売れれば何でもいいと方向へ変化したように思え、あまり切手に関心もなくなっていた。

そんな中で、郵便局で見た「百人一首」をテーマにした「ふみの日」の切手は、「ちはやふる」を読んだあとでもあり、妙に新鮮な感じがした。

よく調べると、「ふみの日」の切手で「百人一首」を取り上げたのは、2006年からで今年で4年目になるようだ。毎年、春・夏・秋・冬・恋の5首をを取り上げ切手にするということのようだが、「源氏物語1000年」の昨年は源氏物語にちなむ5人の歌を取り上げたとのこと。

郵政公社・郵便事業会社もなかなか気の利いたことをすると思ったが、とはいえ、この「ふみの日」の切手を見て、手紙を書こうという人が増えるかと言えば、それのは難しいだろう。単純計算すれば、毎年5首ずつ切手にしても、20年間「百人一首」で「ふみの日」の切手を出し続けることができることのなるが、「ふみの日」の企画そのものが2025年まで続くかどうかは別問題かもしれない。

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2009年8月 9日 (日)

競技かるたを題材にした青春マンガ『ちはやふる』(末次由紀著)1巻~5巻を読了

歌人の松村由利子さんのブログの8月7日の記事で紹介されていた競技かるたを題材にしたマンガ『ちはやふる』が面白そうだったので、現在刊行されている5巻までの5冊を記事を読んだ昨日(8月8日)、すぐにアマゾンで注文したら、なんと今日(8月9日)の昼過ぎには我が家に届いた。(さすが、アマゾンである)

さっそく、1巻から読み出し、5巻まであっという間に読み終わってしまった。東京の小学校6年生の綾瀬千早(ちはや)が、同じクラスの転校生綿谷新(あらた)から、百人一首で行う競技かるたの楽しさを教わるところから物語は始まる。
それまで、ミスコンテストで上位入賞する美人の姉千歳だけが自慢だった千早は、「お姉ちゃんがいつか日本一になるのがあたしの夢なんだ!」と新に語るが、新から「ほんなのは、夢とはいわんとよ。自分のことでないと夢にしたらあかん」と一蹴され、彼が、競技かるたで日本一を目指していることを聞く。そこに千早にほのかに思いを寄せている(と思われる)クラス一の秀才真島太一が絡み、物語は進む。3人で競技かるたを始め、かるたのおもしろさに目覚めた千早は3人でずっとかるたをやりたいと願うが、超難関の私立中学に合格した太一はかるたをやめると言い、新は祖父の介護のため故郷福井に戻ることになって、千早は「一人になるんならかるたなんか楽しくない」と、3人で出場するはずだったかるた大会に出ないと言い出す。新と太一の気遣いで、大会会場に千早が姿を見せたところで、1巻が終わる。
その後、2巻では、高校生となった千早が、かるた部を作ろうと、仲間集めに奔走し、太一と再会、さらに太一を含め5人の個性あるメンバーと都大会を目指すところなどは、スポーツマンガの趣である。

ちはやふる (1)

ちはやふる (2)

ちはやふる (3)

読んでいて、先月文庫化された、高校の陸上部での400mリレーに青春を賭ける物語、佐藤多佳子著の『一瞬の風になれ』を思い出した。
『一瞬の風になれ』では、主人公新二はサッカー少年だが、Jリーグからスカウトされる兄の前には、才能の差は明らか。両親も兄の活躍に一喜一憂する。そこ新二を高校で、陸上部に誘ったのが、幼なじみの連(れん)である。物語は、個性的な先生、先輩、後輩、他校のライバル選手などの中で、新二と連がスプリンターとして、成長していく。
『ちはやふる』でも千早の両親は、姉の千歳中心の生活で、千早はおまけのような存在。そこに「新」という触媒のような存在が登場し、「千早」の人生がすこしずつ変わっていく。

『ちはやふる』4・5巻では、これから千早の目標となりライバルとなるであろう高校生クィーン若宮詩暢が登場、千早との初対戦も見られる。故郷に戻った後、一度は、かるたから離れた新がどのような形でかるたの世界に復帰するのかも、気になるところ。
さらに、高校生になり姉をも上回る長身の美女となった千早と多感な年頃の太一や新がどう絡んでいくのかという恋愛マンガ的な展開もありそうである。
まだまだ、読者を引きつけるストーリー展開になりそうで楽しみである。

ちはやふる (4)

ちはやふる (5)

この『ちはやふる』は、2009年3月に第2回マンガ大賞に選ばれた作品である。授賞式の様子を伝える「コミックナタリー」というウェブサイトの記事によれば、作者(末次由紀氏)は出席を辞退し、代理として講談社の担当編集者坪田絵美氏がトロフィーを受け取ったという。さらに、記事は次のように伝えている。 

坪田氏自身がA級のかるた競技者で、大学2年生のときに全国2位の成績を残していること、講談社の面接試験では「かるたマンガを作りたい」と回答して入社したことを明かした。
また、かるたマンガのアイデアを持ちかけられた末次は、すぐさま単語帳を用意して1週間後には百人一首を暗記しており、1カ月後には畳敷きの部屋を借りてかるたを実践していたという。坪田氏いわく「いまは相当取れるんじゃないかな」。
末次の取材熱心さにも触れ、連載当初は毎週のようにかるた大会に出かけたこと、昨年の夏には近江神宮での全国高校かるた選手権を取材し、名人戦・クイーン戦もすでに取材済みであることを明かした。現場での末次は、多彩なアングルで写真を撮りたいと思うあまり、会場内のあちこちで立ったりしゃがんだり、やや浮き気味なほどの熱意と愛着だという。
記者から作者の授賞式欠席について質問されると、末次の言葉として「過去に犯した間違いというものがあり、自分はまだこういう場に出て行けるような人間ではない。一生懸命マンガを描いていくことでしか恩返しはできない」という考えを伝えた。タブー視されるかと思われた過去のトレース事件に自ら触れた真摯な姿勢に、会場からは感嘆の声が漏れた。
(コミックナタリー:2009年3月24日記事:マンガ大賞2009発表!大賞は末次「ちはやふる」)

ここで触れられている過去のトレース事件とは、2005年10月に末次氏の作品『エデンの花』などで、井上雄彦氏の『スラムダンク』『リアル』などから、描写を盗用したのではないかとネット等で読者からの指摘があり、本人もその事実を求め、当時の連載は中止、1992年のデビュー以来の既刊の全作品が回収、絶版とされた事件である。以来、漫画家活動を休止していたが、2007年に活動を再開。いくつかの短編を発表後、『ちはやふる』は本格的な連載作品への復帰第1号であった。

「ちはやふる」第1巻のカバーには

「ちはやふる」は連載作品です。連載でまんがを描けることがどれくらい楽しくて幸せなことか、文章ではうまく伝えられそうにありません。まんがで伝わることを願っています。さあ、スタートです。

この作品から伝わってくる何とも表現しがたい情熱のようなものは、競技かるたのすばらしさを伝えたいという編集者の熱い思いと、過去の過ちを償う連載復活のチャンスを何としても活かしたいという作者の思いが結実した作品なのであろう。
その思いが、「まんが大賞」の選者に伝わった結果の大賞受賞だったのだろう。

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2009年7月29日 (水)

歌人の松村由利子さん、第45回「短歌研究賞」(平成21年度)受賞決定

このブログでもたびたび取り上げてきた歌人の松村由利子さんが、第45回の短歌研究賞を受賞することが決まった。

賞を主催する短歌研究社のホームページによれば、賞の位置づけは、「実力ある作家を顕彰することを目的とするもの」とあり、選考の対象は「前年度(1月号~12月号)に総合誌に発表された20首以上の作品を中心とし、その作品の完成度が高いこととあわせて、その歌人のそれまでの作歌活動の実績が評価され、選ばれます」となっている。

松村さんの受賞対象となった作品は、短歌研究社が発行する月刊「短歌研究」平成20年6月号に掲載された「遠き鯨影」30首となっている。松村さんは、昨年の「短歌研究」3月号、6月号、9月号、今年の1月号と4回の30首連載を行い、その2回目の作品がこの「遠き鯨影」である。(2008年6月3日の記事「『短歌研究』2008年6月号、松村由利子さんの連載第2回「遠き鯨影」から」は→こちら

白ワイン合うか合わぬかさらしくじら冷酒と共に食う走り梅雨(第1首)

の1首から始まる30首は、

六月の鯨うつくし墨色の大きなる背を雨にけぶらせ(第5首)

など、鯨をテーマに紡がれ綴られる。

残り6首となったところで、

わが胸に雨降りやまぬ湿地あり地衣類暑く木々を覆えり(第24首)

と作者の内面をうかがわせる歌が登場し、、最後の3首になって、詠み手である作者自身(だと私は思う)の存在にフォーカスが絞り込まれる。

モーニングセット一人で食べている老後美し薄化粧して(第28首)
身ほとりにとどまる淡き柑橘の香のあるかぎりわれは装う(第29首)
人のかたち解かれるときにあおあおとわが魂は深呼吸せん(第30首)

1年前にこのブログで取り上げた時は、この3首の印象が強く、あえて最後の3首だけを紹介したが、改めて30首を読み返すと、遠く大海原で泳ぐ鯨の姿と、それを思い描き歌を詠んでいる老いを控える詠み手の姿のコントラストが、30首の構成として「完成度が高い」と評価されたのかもしれない。

あわせて「それまでの作歌活動の実績」が評価対象となると点は、平成6(1994)年に第37回短歌研究新人賞を「白木蓮(はくれん)の卵」で受賞、平成18(2006)年に第二歌集「鳥女(とりおんな)」で第7回現代短歌新人賞を受賞と申し分ないことに加え、直接の作歌活動ではないものの『物語のはじまり』(2007年1月)、『語りだすオブジェ』(2008年6月)という2冊の短歌エッセイを出版、自ら歌作りに加え、多くの歌人の短歌を幅広く紹介した点も、評価の対象になっに違いないと、勝手に考えている。

選評等を踏むめ、詳細は8月下旬に発行される月刊「短歌研究」9月号で発表されるようである。

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2009年2月17日 (火)

松村由利子著『与謝野晶子』を読み終わる

以前、このブログでも紹介した歌人の松村由利子さんが書いた『与謝野晶子』が2009年2月10日に中央公論新社から発刊された。

明治11年に生まれ、大正、戦前の昭和を生き、昭和17年にその生涯を終えた与謝野晶子を、松村さんはどう読み解いたのか。
与謝野晶子は、歌人として最も有名で、松村さん自身も2冊の歌集をまとめ、2冊の短歌エッセイを出版しているので、歌人としての与謝野晶子の紹介が中心なのかと思って読むと、そうではない。もちろん、与謝野晶子が折々に詠んだ膨大な短歌の読みと理解は背景にあるのだが、この著作の中では、短歌とその分析・解説は、それを詠んだ時々の与謝野晶子の心情に迫るものとして効果的に配されるにとどまっている。

たまたま『与謝野晶子』の次に読んでいるちくま新書の2009年2月の新刊『越境の古代史』(田中史生著)の中に

「ほとんどの学問に言えることであろうが、無限に拡がる事実の中から何を選び出し分析するかは、分析対象そのものの重要性というよりも、そのものを重要と認識して分析を行おうとする研究者の“目”の問題である」(『越境の古代史』18ページ)

という一文がああった。

松村さんの書いた「まえがき」の中に、松村さんがどのような“目”で与謝野晶子という存在を捉えたかのヒントがある。

「与謝野晶子は美しいものが大好きだった。詩歌や童話、男女の愛、自立した生き方―そのどれもが大切だった。だから歌を詠み、童話をつくり、社会評論を書いた。
晶子の残した仕事は驚くほど多い。出版された歌集が合著を含め二十四冊、評論やエッセイをまとめた本は十五冊に上る。童話は百篇、詩や童謡は六百篇を超え、小説や歌論集も著した。また「源氏物語」をはじめとする古典の現代語訳にも取り組んだ。これほどさまざまな分野で活躍した晶子の全体像に迫るのはなかなか難しい。(中略)
私は長い間、ワーキングマザーとしての晶子にひかれてきた。たくさんの子どもを育てながら、晶子は常に新しいテーマ、新しい分野にチャレンジし続けた。(中略)晶子はずっと、男女が同じように家事や育児にかかわる大切さ、女性が働いて自立する誇らしさについて書き続けた。その文章は、つい昨日書かれたもののように瑞々しく、自由な発想に満ちている。(中略)
優れた詩人は未来を見晴るかす力をもつ。与謝野晶子もその一人だ。(中略)先の見えない時代、私たちは閉塞した思いにとらわれがちだ。しかし、晶子の言葉を読むとき、胸の中を風が気持ちよく通ってゆく。明るく力強い晶子の言葉の数々を、多くの人と分かち合いたい。」(『与謝野晶子』1~3ページ)

目次から本書の章立てを紹介すると、
Ⅰ 科学へのまなざし
Ⅱ 里子に出された娘たち
Ⅲ 「母性保護論争」の勝者は誰か
Ⅳ 童話作家として
Ⅴ 聖書への親しみ
となっている。

この中で、松村さんが最も読者に知らしめたかったのは「Ⅲ「母性保護論争」の勝者は誰か」の章だと思う。
「母性保護論争」とは大正7年から8年にかけて女性解放を訴えた平塚らいてう、山川菊栄らと与謝野晶子の間で繰り広げられた、女性の働き方を巡る論争である.。この必ずしも論点がかみ合わなかった論争のでの、晶子の主張の中に、松村さんが「まえがき」で書いた「男女が同じように家事や育児にかかわる大切さ女性が働いて自立する誇らしさ」が説かれている。松村さんの文書を読む限り、平塚らいてう、山川菊栄の議論は戦前の日本という時代の枠組みという制約にとらわれた議論であり、晶子の語るものは、時代にかかわらず女性が働いて自立することの誇らしさ・素晴らしさの普遍的な意義を語っているように思える。
また、それは、男女が等しく同じようにということを信条にしていた与謝野晶子にとっては、男女がお互い依存するのではなく、人として働いて自立し、信頼しあって生きることの誇らしさ・素晴らしさを語っていることと同義でもあったろう。

300ページ近い、本書が企画され、本として世に出るまでには1年以上の時間がかけられたはずである。昨年9月以降、本格化した世界金融危機、その後の世界同時不況の中で、これまでにくらべ働くこと自体が難しくなった時代に、本書が世に出ることになったのも何かの巡りあわせではないかと思う。

先に紹介した『越境の古代史』では先ほどの一文に続いて、

「また、社会がある研究を重要なものとして受けとめるとき、その評価は単にその研究の分析力が高いことだけが理由ではない。そこにある視座が、研究者の一身体を超えて広く学会、さらには学を超えたある一定範囲の社会に共有されうるものだからである。」(『越境の古代史』18ページ)

と書かれている。

本書で松村さんが紹介している与謝野晶子が語る、女性が働いて自立することの意義や、それを実現することによって到来するであろう社会のイメージは、まさに一定範囲の社会で共有されうる可能性を持つものであろう。
本書を通じて、少しでも多くの人が、晶子の考え方に触れ、自らの働き方や社会や家庭でのあり方を考える機会になればと思う。

<参考>

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2009年1月30日 (金)

中公叢書から松村由利子さんの新刊『与謝野晶子』が2009年2月10日発売

確かな筋から、近々、中央公論新社から歌人の松村由利子さんの新刊が出るとの情報があったので、中央公論新社のホームページの「これから出る本」という欄にアクセスしてみた。

中公叢書2009年2月10日刊『与謝野晶子』松村由利子著とある。

「情熱の歌人などと一面的に描かれることの多い与謝野晶子。短歌から評論、童話にわたる幅広い活動を紹介するとともに、科学や教育に関心を持ち、多くの子を育てた等身大の姿を描く。」

との説明が付されている。

これまで、私個人の与謝野晶子のイメージといえば、歌集「乱れ髪」が有名な歌人で、日露戦争の時に『君死にたまふことなかれ』という反戦の歌を詠んだこと、源氏物語の現代語訳をしたこと、与謝野鉄幹の妻であったこと、等断片的なものでしかなく、与謝野晶子自身が女性としてどのような生き方をしたかは、あまりよく知らないというのが正直なところだ。

作者の松村さんは、短歌を詠むだけでなく、亡くなった石井桃子さんの追悼記事を書くなど児童文学にも親しんでおり、新聞記者時代には科学関係の取材をする部署に所属した経歴を持つ。おそらくは、与謝野晶子の生き方に大いに共感するところがあったに違いない。

この明治生まれの才媛を、昭和生まれの才媛がどのように描くのだろうか。与謝野晶子の生き様にも興味があるし、それを松村さんがどう解釈しどう描いているのか、その両面で読んだみたい。

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2009年1月 1日 (木)

2009年元旦の計と、積まれゆく本と年賀状、収拾つかぬ中年の時間

2009年を迎えた。昨年(2008年)9月15日の米国大手投資銀行リーマン・ブラザーズの経営破綻以来、全く世界が変わってしまったと以前にも書いたが、身近なことで、それを実感したのが、ガソリンの値段。車の燃料計の表示がかなり減っていたので、年末にガソリンを入れた。値段は1リットル93円。同じスタンドで、2~3ヵ月前に給油したときには、1リットル160円ぐらい払った記憶があるので、驚くべき値下がりだ。石油の値上がりが取り沙汰される前の水準に戻ったことになる。日本にガソリンの小売価格には、相当程度がガソリン税が含まれているので、ガソリン税を除いたガソリン本来の価格は暴落ともいっていい水準だろう。投機マネーの流入で石油価格が高騰を続けたため、我が世の春を謳歌していた産油国も急に懐がさびしくなったに違いない。オイル・バブルも崩壊したのだ。

世界が激動している中で、我が家も一人暮らしをしていた母を、しばらく面倒をみることになって、家の大掃除と模様替えを迫られ、年末・年始関係ない混乱はまだ続いている。私と妻が使うことになった部屋に、家中の私の蔵書が持ち込まれ、うずたかく積まれていく。自分でも、何冊本があるのかわからない。これを、これから家に残す本、年末に借りたトランクルームに移す本、ブックオフに売りに行く本、捨てる本の4種類に選別しなければならないが、正直途方に暮れている。

歌人の松村由利子さんが『短歌研究』2009年1月号に4回目の30首連載を発表しているが、その中に
「畳の上にどんどん本積まれゆく収拾つかぬ中年の時間」
という一首があり、まるで自分のことを詠まれているようで、思わず苦笑してしまった。

途方に暮れていても何も始まらないので、時間をかけて収拾していくしかないのだが、こちらは1枚も出していないのに、数百枚の年賀状をいただいた。積まれゆく本より先に、この年賀状の返事を書かなければならない。混沌とした本の収拾は、もうしばらく先になりそうである。

そんな中で、家族の宣言した「1年の計」は、社会保険労務士試験の勉強を始めることと、将棋のアマチュア二段を取ること。とりあえずこの公私の2つの目標を軸に、2009年の中年の時間をスタートさせることにしたい。

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2008年10月26日 (日)

27回忌に短歌で知る亡き祖父の思い

今日は、母方の祖父の27回忌と祖母の7回忌の法事だった。祖父が亡くなったのは、私が大学4年の年の秋。就職が内定し、ほっとしていた時だった。祖父は、明治生まれで、80歳を超えても元気で、特にこれといった持病もなく、最期は老衰だった。孫から見る祖父はいつもにこにこした優しい「おじいちゃん」であった。

母の家族は亡くなった祖父母に三姉妹。母は次女。三姉妹はそれぞれ結婚し、それぞれに3人、3人、2人と子どもが生まれたため、祖父母の孫は8人になった。

今日の法事には、三姉妹と2人の夫(私の父は亡くなっている)、8人の孫のうち5人、その子(曽孫)が7人、孫の夫と妻が1人ずつ、祖母の妹、三姉妹の従姉妹2人の計22人が集まった。

高尾にある都の霊園で読経のあと、八王子の和風レストランで会食。その場で、祖父母と一緒に暮らしていた叔母が二冊の糸綴じの冊子を披露してくれた。タイトルが「雑詠草」。悠々自適の暮らしとなった祖父が日々の思いを、短歌や俳句に詠んだものだった。

その中に、母が3人目の子(私の弟)を妊娠し、私が小学校に入学することを詠んだ短歌があった。

三たび目の出産近し母子(ぼし)ともに 安かれと祈る筑紫路の空

うましまごすくすくのびて此の春は 学びの庭に入(い)るぞ嬉しき

このとき、学びの庭に入ることを祖父によろこんでもらった私も今年4回目の年男を迎えた。このような短歌が残っているとは思いもしなかったので、驚いたし、嬉しくもあった。
私の就職が決まった直後に祖父が亡くなったと知った時、自分の中で、もう子どもではいられないのだと思ったものだ。
今の私の姿を、祖父はどう見ているのだろうか。恥ずかしくない生き方をしなければと、改めて思った一日だった。

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2008年7月 6日 (日)

朝日新聞の書評「マンスリー・ブックマーク」で松村由利子さんの『語りだすオブジェ』が紹介される

朝日新聞は日曜日に各種の書評を載せるが、今日(2008年7月6日)の書評の中の「マンスリー・ブックマーク」というコーナーで発売されて間もない松村由利子さんの『語りだすオブジェ』が紹介されていた。書いているのは、絵本や児童文学を手がける作家の高楼方子(たかどのほうこ)さん。

ある友人に短歌の情景を説明してもらったことがきっかけで、目からウロコが落ちる思いで、短歌を面白いと思うようになったとの前置きのあとで、

「著者(松村さん)は、言葉をしなやかに繰りながら、歌の背後にあるものを、ぐんぐん見えるようにしてくれる。その力ははっきりいってスゴイです」

と絶賛している。このコーナーの見出しの部分も、高楼さんのこの文章から「歌の背後を見せるすごい力」とのキャッチコピーがつけられている。

前作『物語のはじまり』、今回の『語りだすオブジェ』とも、洗練された無駄のない言葉で、歌の背後にある作者の思いを推し量る語りは、松村さんのもっとも得意とするところではなかろうか。

今後も歌人としての歌作りに加え、エッセイも書き続けてほしいものだ。

語りだすオブジェ―いつも、そこに短歌

松村由利子さんのブログはこちら→そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

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2008年6月 8日 (日)

言葉の力について、『語りだすオブジェ』(松村由利子著)から

松村由利子さんの2冊目のエッセイ『語りだすオブジェ』を昨日、ようやく読み終わった。最初、通勤電車の中で読んでいたが、やはり落ち着いたところで、じっくり読みたいと、残り半分ほどは、土曜の午後、時間を確保してまとめて読んだ。

今回のエッセイの中で、私が特に印象に残ったのが、「鍵」をテーマにした一節である。興味深い部分なので、少し長くなるが引用させていただく。

(以下引用)
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おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする      東直子 

この歌は、「予感」というものの哀しさ、人生に対する自分の無力さが詠われているようで切なくなる。失くしてしまうであろう鍵を、「私」はそっと握りしめ、大事にしまっておくのだけれど、いつの日か確実にその鍵はどこかへ行ってしまうのだ。
詩人、北村太郎の激しくも悲しい恋を描いた『荒地の恋』(ねじめ正一著、文藝春秋)を読んでいたら、次のような文章に出合った。

自分の書いた詩が何年か後、予言のように実現してしまう経験は、今回が初めてではない。そんなことは何度もあった。詩が自分の未来を言い当てる。そのことに思い至って、詩を書くのが恐ろしくなった時期もあった。言葉が現実を呼び寄せるのか、現実の予感が言葉に結実するのか、だが今はそのどちらも是と考えられるようになっている。

私にも、自分のつくった歌が、後になって実現してしまった経験が何度かある。それは本当に空恐ろしいようなことだった。言葉の力は侮れない。言葉が何かを引き寄せてしまうのだ。だから、いろいろな空想をして歌を作っても、決して作らない内容の歌がある。
 北村太郎になり代わって、この評伝を書いたねじめ正一も、恐らく同じような経験をしたことがあるに違いない。そうでなければ、こんなことは書けない。「失くしてしまう気」がしてそれを言葉にした途端、その「鍵」は確実に失われる運命が定まる。だから、信じるということは案外、大切なのだと思う。
(『語りだすオブジェ』187~189ページ)
**************************
(引用終了)

評伝の中の「言葉が現実を呼び寄せるのか、現実の予感が言葉に結実するのか」という部分を引用し、「自分のつくった歌が、後になって実現してしまった経験が何度かある。」「言葉の力は侮れない。言葉が何かを引き寄せてしまうのだ。」という部分は、研ぎ澄まされた「言葉」の使い方をしている歌人の言うことだけに、説得力がある。日本に「言霊」という言葉があるのも故ないことではないのだろう。

こういう話を読むと、自分の未来のあるべき姿を思い描き「こうなりたい」と言葉にして、口に出してみるということも、意味のあることなのだと思う。「言葉の力」を侮ってはいけない。

語りだすオブジェ―いつも、そこに短歌

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2008年6月 3日 (火)

『短歌研究』2008年6月号、松村由利子さんの連載第2回「遠き鯨影」から

『短歌研究』2008年6月号に松村由利子さんの短歌30首が掲載された。3月号の「月と女」30首に次いで連載2回目である。今回のテーマは「遠き鯨影」。

主に「鯨」をモチーフにした短歌なのだが、中に「鯨」が直接登場しない歌もある。30首の締めくくりの3首は、むしろ「老い」や「死」をテーマにしている。

モーニングセット一人で食べている老後美し薄化粧して

身ほとりにとどまる淡き柑橘の香のあるかぎりわれは装う

人のかたち解かれるときにあおあおとわが魂は深呼吸せん

「モーニングセット~」「身ほとり~」の2首は、老いを感じる中、女としての美しさへの執着を感じさせる歌である。松村さんは、私と同じ1960年生まれ。50歳を目前にして、老いを感じざるを得ない中、しかしそれでも、化粧し、装う気持ちを失わない限り、決して老いることはないと言っているような気がする。
その2首を読んだあとの最後の「人のかたち~」の歌は、生きることへの執着を、「ふっと」かわし、いなすような歌である。「老い」の後に、必ずや訪れる「死」というものを「人のかたち解かれるときに」と表現し、「あおあおとわが魂は深呼吸せん」とすがすがしささえ、感じているようなしめくくりになっている。前の2首とのコントラストに、読者は翻弄され、でも、なぜか明るい気持ちになって、30首を読み終える。

以前、このブログで『課長の教科書』で書かれた「読書のユニークな本質」について取り上げたことがある。「読書とは、作者が本の中に圧縮した思いを想像力で解凍する作業」との趣旨の事が書かれていた。
短歌という表現形式は、究極まで言葉を圧縮し、解凍をして読むことが求められるものであろう。おそらくは、多くの書を読み、すぐれた想像力をも持つ人しか「歌人」になり得ないだろう。

なかでも、松村さんは、歌人として、言葉に多くの思いをこめる圧縮の達人であり、2冊の短歌エッセイ『物語のはじまり』、『語りだすオブジェ』でも披露されているように、短歌に圧縮して込められた詠み手の思いを解凍してみせる「読み」の達人でもあるように思う。
幼い頃、学生時代、新聞記者時代を通じ、相当な読書家であったに違いない。

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2008年5月28日 (水)

松村由利子さんの2冊目のエッセイ『語りだすオブジェ』

このブログで何回も取り上げている歌人の松村由利子さんの2冊目のエッセイ『語りだすオブジェ』(本阿弥書店)が出版された。サブタイトルに「いつも、そこに短歌」とつけられているように、昨年1月の最初のエッセイ『物語のはじまり』と同様、短歌を題材にしたエッセイ集である。

語りだすオブジェ―いつも、そこに短歌

『物語のはじまり』が「1、働く」「2、食べる」「3、恋する」「4、ともに暮らす」「5、住まう」「6、産む」「7、育てる」「8、見る」「9、老いる」「10、病む、別れる」という各章のタイトルに見られるように、人生のさまざまな場面で歌われた短歌を題材に語られていたのに対し、本書『語りだすオブジェ』では、我々の身の回りにあり、日常生活で使われているモノ(オブジェ)が題材に取り上げられる。例えば、「1、恋するクローゼット」と題する最初の章で、取り上げられるのは「ブラウス」「ネクタイ」「シャツ」「麦わら帽子」「背広」「スカート」「手袋」である。以下各章のタイトルを並べると「2、もの思うキッチン」、「3、くつろぎの居間」、「4、夢見る子ども部屋」「5、すてきな水回り」「6、魅惑の食料戸棚」「7、静かな寝室」「8、明るい玄関」というぐあいである。

『語りだすオブジェ』のでエッセイの半分ほどは、作者自身が「あとがき」に書いているように、ウェブマガジン「風」に2004年から2年間毎月、計24回にわたり連載されたもの。それをベースに新たに書いた文章を加え、1冊のエッセイ集にまとめられた。
しかし、ウェブマガジンのエッセイと本書のエッセイをあらためて読み比べて見ると、本にまとめるにあたり、作者が工夫を凝らしたことがうかがえる。
まずは、各オブジェの並べ方である。ウェブマガジンでは、毎月思いつくままという形で書かれているが、本書ではそれがテーマに応じ再編集されている。
導入部分は「ブラウス」と「ネクタイ」という組合せだが、「ブラウス」の最初の書き出しは次のように始まる。

ブラウスと女は一体である。木綿、オーガンディー、シルク・・・素材が何であろうと、薄く柔らかな布地は第二の皮膚としてまとわりつく。

このあとに、短歌とエッセイが次のように続く。

花柄のブラウスの花寄せ集め明るき抱擁残して去りぬ               前田康子

水玉やストライプもよいが、若い女性には花柄のブラウスがよく似合う。そして、デートに着てゆく服装としてもふさわしい。この歌は、恋人に抱きしめられたのが自分ではなく、自分のブラウスであったかのように表現したところが初々しい。花柄の花を寄せ集めるように、自分をぎゅっと抱擁した恋人を、作者は静かに思い返している。

次の「ネクタイ」で最初に次の短歌とエッセイが登場する

ネクタイを一瞬に抜く摩擦音男の首は放熱しはじむ                 林あまり

この作者と「男」が熱い恋の最中にあるのは確かだ。布と布が激しく擦れ合う「しゅっ」という音が聞こえてきそうな表現にはどきどきさせられる。男はのんびりビールなど飲むためにネクタイをとったのではない。次の瞬間には、女と抱き合っている。女の両手は男の首筋を愛撫し、その放熱するような熱さを感じている。

女を象徴する「ブラウス」と男の象徴である「ネクタイ」の組合せ。そこには、なんとも言えないエロスの香りが漂っていて、男性読者はここで一気に松村ワールドに引き込まれるに違いない。風の連載では「ブラウス」が第2回、「ネクタイ」が第4回に登場している。2つを並べ、巻頭に持ってきたところに作者の意気込みを感じる編集である。

「風」の連載と本では、同じ「オブジェ」でも取り上げられる短歌が差し替えられてるものもある。読み比べて、作者のねらいを考えてみるのもおもしろい読み方だと思う。

Amazonでは一時的に品切れになっているようだ(現在では注文可:2008年5月30日追記)が、bk1では注文可能とのこと。興味を持たれた方は、ぜひ注文していただければと思う。

bk1:『語りだすオブジェ』:http://www.bk1.jp/product/03009093

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2008年5月14日 (水)

松村由利子さんが書いた石井桃子さんの追悼記事が毎日新聞に掲載された

今日(2008年5月14日)の毎日新聞の朝刊に、本来は4月30日に掲載される予定だった歌人の松村由利子さんが書いた石井桃子さんの追悼記事が載った。

石井桃子さんは、児童文学者・翻訳家で、著作としては『ノンちゃん雲にのる』(福音館)、翻訳としては『クマのプーさん』『プー横町にたった家』(岩波書店)などが有名である。今年(2008年)4月2日に亡くなられた。享年101歳。大往生といっていいだろう。

追悼記事は、限られた字数の中で、コンパクトに故人の業績を紹介しつつ、その人となりとうかがわせることが必要で、その上で、書いた人自身の追悼の意がこもっていなければ、読者の心を動かすことは難しいだろう。

記事は

「いしいももこ」というやわらかな名前に、どれだけ多くの人が親しんだことだろう。

という一文から始まり、88年当時、筆者が直接ご本人を取材した際の

「子どもには、ストーリーの骨格や人物描写のしっかりした明るい作品が必要です」

という石井さんの言葉が紹介される。さらに、

どの本も増刷の都度読み返して直しを入れるのが常だった。

との過去の著作についても常により良いものにしていこうしていたことが、編集者や親しい人による話として紹介され、

「子どもというものは侮れない。自分では表現きなくても、いろいろなことを鋭く感じ取っている」

という再び石井さんの言葉につながる。

そして、石井さんの盟友で後継者でもある松岡享子さん(『がんばれヘンリーくん』、『くまのパディントン』などの翻訳者)の話、筆者が石井さんの自宅を開放した「かつら文庫」の50周年のお祝いに出席できなかったことが語られ、最後は

亡くなったのは偶然にも「国際子どもの本の日」だった。

と締めくくられている。

記事とともに、載せられている石井桃子さんの優しいまなざしと穏やかな笑顔の写真とあいまって、故人の子どもの本にへの思いがよく表された追悼記事だと思う。

まだ、読まれていない松村ファンの方、図書館などで読んでいただければと思う。

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2008年5月 1日 (木)

歌人の松村由利子さんが書く石井桃子さんの追悼記事が5月14日の毎日新聞に掲載されるという話

歌人の松村由利子さんの歌集やエッセイについては、昨年、何回かこのブログでも紹介し、また今年に入って短歌雑誌に掲載された新作の短歌についても、何首か紹介させてもらった。

その松村さんが、先日亡くなった児童文学者の石井桃子さんについて書いた追悼記事が4月30日の毎日新聞に掲載されるという情報を複数のルートから入手した。

昨日(4月30日)の朝、駅の売店で毎日新聞を購入。ホームで電車を待つ間、どこに載っているかと探すが、スポーツ関係の記事がやたら目に付くものの、石井桃子さんも松村さんも痕跡さえ見つからない。最近、進行が進んだ気がする老眼のせいかと思い、もう一度最初から探すがやはり見つからない。
柔道の全日本選手権準決勝で敗れ北京オリンピック出場の道を逃した井上康生選手が引退を表明したことを取材した記事が社会面の真ん中にかなりのスペースで出ているので、あるいはこれと差し替えになったのだろうかなどと考える。

事の顛末を確認したところ、やはり掲載が延期になったということのようであった。紆余曲折があって、最終的には当初の予定から2週間後の5月14日(水)の朝刊に載ることになったらしい。(詳細は『「松村由利子さん」ファン掲示板』をご参照)
松村ファンの方は、14日の毎日新聞朝刊をごらんいただければと思う。

石井桃子さんの追悼記事を書かれるのであれば、短歌エッセイの次の企画として児童文学エッセイにもチャレンジしてもらえればと思うのは、贅沢だろうか。

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2008年3月 9日 (日)

「短歌往来」2008年3月号、松村由利子さんの「魚となるまで」から

先日から探していた「短歌往来」の3月号が、先週ようやく手に入った。「そらいろ短歌通信」で紹介されていた松村由利子さんの「魚となるまで」33首を読んでみた。

「魚となるまで」というタイトルは、すごく深淵なテーマを含んでいるような気がする。魚は水の中に棲むものであり、水は心理学では、無意識や潜在意識の象徴であったはずだ。
私が読んで、気になったものを二首紹介したい。

最初に取り上げたいのは6首めの歌。
魚も跳ねぬ暗き湖面に漕ぎ出すうたわぬ悲歌を深く沈めに

この歌を読んだ時、第二歌集『鳥女』の中の一首
井戸ひとつ吾の真中に暗くあり激しきものを沈めて久し

を思い出した。『鳥女』で「井戸」にたとえられたものは、今回は「魚も跳ねぬ暗き湖面」であり、「激しきもの」は、「うたわぬ悲歌」に当たる。五七五七七の限られた字数には、とても収まりきれない悲しい思いなのだろう。

二首めは、「魚となるまで」を締めくくる33首めの歌である。

こころ静かに糸垂らすべし吾という小暗き沼の魚を釣るため

ここでは、詠み手自身が小暗き沼に棲む魚となっている。6首めの「歌わぬ悲歌」は、作者自身の分身ということなのだろう。「暗き湖面」に沈めてはみたものの、歌に収まりきれぬ悲しい思いは、やはりどこかで発散し昇華させる必要があるのだろう。
誰か釣り糸を垂らし「吾」を「小暗き沼」から救い出してほしいという心の叫びと読み解くのは、うがちすぎの読み方だろうか。

どちらの歌も『鳥女』が現代短歌新人賞を受賞した際の選者馬場あき子さん(松村さんの歌の師匠でもある)がの選評の中で言及している「内省的な屈折感」が出ている歌だと思う。

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2008年2月21日 (木)

「短歌研究」2008年3月号、松村由利子さんの「月と女」から

昨日、歌人の松村由利子さんのブログ「そらいろ短歌通信」の最新の記事「ぶどうパン」(2008年2月20日)の最後に、

作品掲載のお知らせ
・「短歌研究」3月号に「月と女」30首
・「短歌往来」3月号に「魚となるまで」33首

と書かれていたので、行く先々の書店で探してみた。「短歌研究」は見つかったが、「短歌往来」は見つけられなかった。また、次の機会に探してみることにする。

「短歌研究」の「月と女」30首は、空に浮かぶ月と、月に一度女性に訪れる月経、そして女性自身がテーマだ。3つを組み合わせて、30首の歌を紡いでいる。テーマがテーマだけに、男の身としては、コメントしづらい。その中から私が気になった2首紹介しておきたい。

月見橋 月見ることのかなしみは我が二十代を君知らぬこと

まるで、最近まで私が読んでいた大崎善生さんの短編の恋愛小説になりそうな情景だ。
月見橋という橋で「我」と「君」は月を見ているのだろうか。「我」が、自分の二十代を知ってほしかった「君」は、どんな人であろう?
かなしみを感じている「我」の胸の内にどのような思いが去来してかなしむのであろうかと考えると、本当に一編の小説ができそうな気がする。

月見橋とは、どこにある橋であろうかと、グーグルで検索をしてみたら、日本の至る所にあるようである。
トップに出てきたのは横浜だったが、二番目に登場した「月見橋」は札幌の中心から車で1時間ほどの定山渓温泉を流れる豊平川にかかる橋だった。
札幌に単身赴任していた頃、職場の一泊旅行で定山渓に行ったが、その時渡った橋だった。

ああ運河われ分かたれて流れゆく出会いかなわぬもの多くして

こちらの歌は、どう読み解くのが正しいのか、悩んでしまう。
「ああ運河」と呼びかける「われ」が別にいるのか、「運河」=「われ」であり、自分自身を運河に見立て、その運河の流れのようにに分かたれたままで、出会いがかなわずに終わる、人の世の出会いの不思議のようなものを、運河に託しているのであろうか。

この歌を読みながら、「百人一首」に収められている崇徳院の

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあわんとぞ思う

という歌を思い出した。こちらは、いずれまた会うとい歌だが、運阿の歌は分かたれたまま出会いがかなわない。あるいは、この崇徳院の歌を本歌として意識した歌なのだろうか。
「出会いかなわぬもの多くして」というフレーズは、かなしく響くのだけれど、しかしどこか心に残る言葉だ。

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2007年11月 8日 (木)

花山周子さんの歌集『屋上の人屋上の鳥』が届いた

しばらく前に歌人の松村由利子さんのブログ「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳」で紹介されていた花山周子さんという歌人の第一歌集『屋上の人屋上の鳥』。
松村さんのブログで紹介されていた短歌の中に、興味を引く歌があったので、歌集を送ってもらうようお願いしていたら、今日届いた。
松村さんが紹介していた中で、特に私が惹かれたのは、

見上げれば空をかきむしる木立なり一歩の距離がわからなくなる

という短歌だった。

届いた歌集をさっそく開いて何首か読んでみた。気になったものを二首ほどあげておくと

葉に落ちる雨の雫のごときかな人の返事をゆっくりと待つ

公園の擂(す)り鉢状のたそがれが昨夜の夢に重なってゆく

自分の心の内面の揺れのようなものを、外の世界の出来事と結びつけて表現したもの、この歌人ならではの感性が出ているように思う。

第一歌集に採録されているのは、860首。まだ、さわりの部分を読んだ程度なので、読み終わって気になる歌があれば、また紹介したい。

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2007年10月23日 (火)

大岡信著『新折々のうた9』に松村由利子さんの短歌二首が採録された

現代の万葉集とも呼ばれる詩人大岡信さんの『折々のうた』シリーズ。このほど、その最終巻である『新折々のうた9』が岩波新書の2007年10月の新刊の1冊として発売された。

新折々のうた 9 (9) (岩波新書 新赤版 1101)

「折々のうた」は、朝日新聞に短歌・俳句・詩などが1日1首、選者の大岡信さんのコラムとともに連載されたもので、1979(昭和54)年1月25日から始まり、2007(平成19)年3月31日まで通算6762回に及んだという。その間29年。
連載が始まった頃は、まだ日本に高度成長の余韻が残る頃で、バブル景気、その後の失われた10年といわれる長い不況の時代をも経てきたことになる。連載が始まった頃、大学受験を目前にしていた私も、いまや不惑の年を過ぎ、50歳に手が届くところまで来ている。

連載をまとめた岩波新書も『折々のうた』で10冊、『
折々のうた』で9冊になる。その間、取り上げられたのは、すでに文学史上名を残す著名な歌人・俳人から、現代の新人まで幅広い。中には、初期に新人として取り上げられ、その後大家となった歌人・俳人もいるに違いない。
最終巻の
折々のうた9』では、このブログでも何回か紹介させてもらった歌人の松村由利子さんの短歌が二首採録されている。
採録された短歌や俳句は、春のうた、夏のうた、秋のうた、冬のうたと季節毎に編集され、並べられている。
松村さんの短歌は、まず「秋のうた」のしめくくる歌として、第一歌集の『薄荷色の朝に』から

一光年ほど遠のきし横顔は父親となりし男友達

が採録されている。この歌に対し、大岡さんは次のように書いている。

『薄荷色の朝に』(平10)所収。上記の歌集を読むと、作者がぴりぴりと神経を張りつめて日々の仕事をしている有能な女性であることがわかる。こういう女性に「一光年ほど遠のきし横顔」と思われる男友達もせつなかろうな、と同情する。巻末に解説を書いている馬場あき子によれば、作者は都心の新聞社につとめる人という。「尖りゆく心を宥めて襟のないやさしい服を選ぶ木曜」。服装も心の羅針盤か。
(『新折々のうた9』138ページ)

次に「冬のうた」として、第二歌集の『鳥女』から

女性誌は恋愛特集ばかりなり束ねんとする力を憎む

『鳥女』(平17)所収。上記歌集を読めば、作者が都内の大手新聞社の、きわめて有能な科学部所属の一線記者だったことが想像される。世界中に衝撃を与えた、あの9.11のテロ攻撃の日も「『中東に詳しい奴をつかまえろ』怒号飛び交う深夜の職場」となる。「つけつけともの言うことの心地よさ男性部員はしかりやすくて」と頼りになる上司。今はこの現場を離れたようだが、活動的な女性の貴重な記録の歌集。
(『新折々のうた9』175ページ)

大岡さんは、二つの歌集から働く女性としての松村さんの一面を強く感じられたようである。

いま、我々が万葉集や古今和歌集、百人一首から奈良時代、平安時代の人々の生活や心のあり方をうかがうように、何百年か後の人々はこの「折々のうた」6762首から、昭和・平成の時代の人々の心象風景を読み取ることになるのだろうか。おそらく、一人の選者の目を通じて、約30年わたる時代の歌が記録として残されたということに大きな意味があるように思う。
松村さんの二首も、この時代の男女のあり方や女性の社会での活躍を語る歌として紹介され、学ばれるようになるのだろう。
その何百年か後を想像しながら、この『折々のうた』シリーズを読むのも、おもしろいかもしれないと思う。

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2007年8月 7日 (火)

昨日(2007年8月6日)の読売新聞朝刊の短歌・俳句面に松村由利子さんの連載を見つける

昨日(2007年8月6日)の読売新聞の朝刊に歌人の松村由利子さんの連載を見つけた。25面の歌壇・俳壇のページの下に「科学をうたう」と題した2段の記事である。

記事は次のような書き出しで始まる。

短歌は花鳥風月を詠うもの、と思っている人がまだ多いようだ。しかし、現代に生きる人間のさまざまな思いを表現するのだから、日々のニュースや身近な出来事も題材となる。中でも科学は魅力的なテーマではないかと思う。
新聞社で約二十年働いたが、一番わくわくしたのは科学関係の取材だったかもしれない。文系出身の私には出合うものすべてが新しく、酵素の名一つであっても、その響きに魅了された。

と短歌と科学について語り、自分の次の歌を紹介している。

奇妙な瓶を集めるように語彙増えて本日の瓶チロシンキナーゼ

新しい知識・言葉との出合いに、素直に感動している作者は、好奇心旺盛な人なのであろう。
松村さんの手にかかり、短歌の中に読み込まれてしまうと、まったく未知の「チロシンキナーゼ」という言葉も、なんとも親しい友達のように思えてきて不思議である。

ちなみに「チロシンキナーゼ」を検索で調べると、「tyrosine kinases」と綴るようだ。説明ではチロシンというアミノ酸の一種がリン酸化(キナーゼ)したものらしい。(と書いていも、何のことやらよくわかっていないが)。「チロシン」はチーズから発見され、チーズのギリシャ語がチロシンの起源らしい。

記事には<1>とナンバーが振ってあるので、少なくとも第2回めの連載はあるようだ。しばらく、月曜日の読売新聞は気を付けて見るようにしよう。

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2007年7月22日 (日)

松村由利子さんの講演会「あなたの物語がはじまる」を聴きに行った

今日は午後から、以前このブログでも紹介した歌人の松村由利子さんの講演会をさいたま新都心駅にほど近い「With You さいたま」に聴きに行った。
埼玉県が主催する平成19年度男女共同参画講演会の1つとして開かれたもので、演題は「あなたの物語がはじまる」。
会場には100名くらい集まっていたのではないだろうか。ざっと見た感じ、6:4で女性が多いように思えた。年齢構成は比較的年配の方が多いように思えた。
講演は午後2時に始まり3時半までの1時間半。

講演は2部構成で、前半は男女共同参画という講演会全体のテーマを意識して、松村さんが新聞記者として過ごした20年の間に経験した、男女間の問題で不便に感じたこと、不公平に思ったことなどを語り、後半がいくつかのテーマに分けて、様々な歌人の読んだ短歌を松村さんなりの読み方を紹介するという形で後半は今年の1月の出版した短歌エッセイ『物語のはじまり』の講演会版という内容だった。
優しい語り口で、徐々に聴衆を引き込み、後半では、何回か聴衆から楽しく共感する笑いが起きた。

後半で紹介された何首かの短歌の中で、「夫婦」という題で紹介された次の二首が、私個人としては、非常に共感した。

ささくれのごときいさかいに眠られれず妻をおこしてさらに怒れり             小高 賢

子を産みし日まで怒りはさかのぼりあなたはなにもしなかったと言う           吉川 宏志

どこの夫婦も夫婦喧嘩の風景は大して変わらないのだなと思うと、思わず笑ってしまった。
短歌に詠うことで、詠み手は自分の感情を客観視し、短歌を作り終えた頃には、怒りも収まっていたのではないかというのが、松村さんの解説であった。

講演会終了後は、短歌エッセイ『物語のはじまり』(中央公論新社)の即売会も行われ、松村さんがその場でサインを行っていた。
これで、また『物語のはじまり』のファン、松村由利子さんのファンが一人でも増えてくれれば、よろこばしいことである。
松村さん、お疲れ様でした。

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2007年6月 6日 (水)

松村由利子さんの講演会情報(7月22日、さいたま市)

このブログをよく読んで下さっているトロアさんから、7月にさいたま市で松村由利子さんの講演会があるとの情報をいただいた。

グーグル等検索を使って調べてみると、予定は以下の通りだ。

男女共同参画週間講演会
開催日時9:2007年7月22日(日)14:00~15:30 

演題:「あなたの物語がはじまる」
講師:松村由利子(歌人・ジャーナリスト)

場所:With You さいたま 4階
   (埼玉県男女共同参画推進センター)
   埼玉県さいたま市中央区新都心2-2
   (JRさいたま新都心駅徒歩5分)

定員:130名
With You さいたま「男女共同参画講演会」係まで申込みが必要)

詳細はこちらをご覧下さい。→With You さいたま新着情報

開始時間等、詳細が分かり次第、あらためてお伝えしたい。
トロアさん、連絡ありがとうございました。

(追記:6月16日)時間と定員等赤字部分を追記。

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2007年5月 4日 (金)

「国語総覧」で短歌の世界についてのにわか勉強

我が家の大掃除で、高校を卒業したばかりの長女は、もう受験勉強とは縁を切りたいと言わんばかりに、高校の教科書や参考書をいっせいに処分していた。その中に、「新訂国語総覧 第三版」(京都書房)という国語の副読本があった。
古典文学・現代文学・漢文学の3ジャンルに別れ、古典では、内裏の見取図が出ていたり、古典の文学作品のあらすじが載っている。現代文学については、主要作家の解説などが出ている。確かに、自分も高校時代にはこんなものを使っていた記憶がある。

これは、ブログを書く際の背景知識の確認用に使えそうだと思い、捨てるものから抜き出して、私が使うことにした。

近代文学編には、「近代短歌」の項もある。代表的な歌人7人については、顔写真と年譜付きで、略歴と作品の解説がある。さらに「主要歌人解説」に1ページを割き、14人の歌人を紹介している。
写真入りで紹介されているのは、斎藤茂吉、与謝野晶子、石川啄木、若山牧水、釈迢空、近藤芳美、寺山修司の7人。なお、正岡子規は、「近代俳句・短歌の創始者」として俳句のトップに載せられている。

この中でいったいどんな人であろうかと思っていたのが、「釈迢空(しゃくちょうくう)」という名前。その他を冠した短歌の賞もあるぐらいなので、興味があった。便覧の解説を見ると、次のように書かれていた。

釈迢空(しゃくちょうくう)(本名・折口信夫、おりぐちしのぶ)は、歌人・詩人であるとともに、すぐれた国文学者・民俗学者であった。
(「新訂国語総覧」280ページ)

何と、あの民俗学者として著名な折口信夫氏が、釈迢空であった。

世の中には、まだまだ知らないことの方が多いことを改めて実感したにわか勉強だった。

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2007年5月 3日 (木)

向井敏著『背たけにあわせて本を読む』で取り上げられていた歌人・松村由利子

松村由利子さんの応援掲示板を運営している「ろこ」さんが、自らのブログ「言葉の泉」の中で、書評家の向井敏著『背たけにあわせて本を読む』(文藝春秋)の中で、歌人の松村由利子さんが取り上げられていたことを書いている。(当該ブログはこちら。)

背たけにあわせて本を読む


アマゾンに注文していた同書が、今日、届いた。私はまったく不勉強で、今回のろこさんの記事で初めて向井敏さんの存在を知った。

向井敏さんは1930(昭和5)年生まれ。大阪大学の仏文科の卒業で、在学中には、開高健、谷沢永一らの同人誌にも参加していたという。すでに、2002(平成14)年1月になくなられていて、『背たけにあわせて本を読む』は帯にに「書評名人、最後の仕事」とあるように、なくなられた後の2002年11月に出版されている。
おそらくは、弔辞として読まれたと思われる「書評の名手」と出された丸谷才一さんの一文が、あとがきとして添えられている。その中で、新たな才能を発掘する筆者の慧眼について次のように述べている。

彼の最も得意とするところは、学術書でも娯楽読み物も、古典も新作も、鬱然たる大家の作も新人の第一作も、いささかの区別もなく景気よく褒めることで、しかもツボをはづれることは滅多になかった。すばらしい眼力であります。
(『背たけにあわせて本を読む』337ページ)

書評の代表者は誰か。この新しいジャンルを作り、充実させ、最も花やかに腕をふるったのは向井敏でした。その丁寧は仕事ぶり、評価の的確さ、取り上げる領域の広さ、対象である本が同種類、同系列の本のなかで占める位置の見極め方、新人紹介という一種の予言的な行為の的中率の高さ、品格が高くて魅力があってしかもわかりやすい文体、などから推して、この判定は覆しがたいと思われます。
(『背たけにあわせて本を読む』338ページ)

この本には70編以上の書評が収められているが、その一つが松村由利子さんの第一歌集『薄荷色の朝に』を取り上げた「歌人の誕生」と題した1999年3月に書かれた書評である。『薄荷色の朝に』の出版が1998年12月であるから、3ヵ月後には書かれていた事になる。
松村さんは、『薄荷色の朝に』に収められた「白木蓮の卵」26首で1994年に短歌研究新人賞を受賞しているとはいえ、1998年12月の歌集出版当時、一般にはほとんど無名の存在だったはずである。
そもそも歌集というものは、自費出版が中心で、短歌仲間に配られるだけで、広くあまねく販売されるということはほとんどないようだ(俵万智さんは商業ベースに乗った稀有な歌人ということらしい)。

ほとんど無名の歌人の、簡単には入手できない歌集について3ヵ月後には書評を書いていることそのものが、まず驚きである。

(以下削除)

(5月7日追記)5月5日に「匿名希望」と名乗る方から、私のこの記事のコメント欄に「私の書いたこのブログの記事が、冒頭で紹介したろこさんの記事の内容とあまりにも似ている」との趣旨の書き込みがありました。改めて、2つの記事を読み比べると、ろこさんの記事と私の記事の後半部分は文章の流れ、論旨がほとんど同じになっていました。また6日には「匿名」と名乗る方(おそらく5日の匿名希望さんと同一人物)からは、「人を傷つけてまで書く記事に何の意味があるですか」とのコメントもいただきました。私の書いた記事で、ろこさんが傷つかれたとすれば、それは私の本意ではありません。この数日間考えた上で、該当部分を削除しました。(なお、お二人からいただいたコメントについては、私の判断で非公開とさせていただいています)

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2007年5月 1日 (火)

源氏物語の読み方、河合隼雄著『紫マンダラ』と俵万智著『愛する源氏物語』

最近、文庫化された俵万智著『愛する源氏物語』(文春文庫)を読んでいる。作中に登場する795首の和歌を手がかりに、歌人で、かつては高校で国語を教えていた俵万智さんが『源氏物語』を読み解こうとするものである。

愛する源氏物語

紫式部が平安時代に書いた『源氏物語』54帖は、日本の文学史上に燦然と輝く名作なのだろうけれど、歴史には多少興味があっても、古文となると、外国語を読んでいるように思えてきてどうも苦手で、ほとんどまともに読んだことがない。
せめて、現代語訳でもと思い、橋本治さんが『窯変源氏物語』を書いた時には、最初の何冊か買うだけ買ったものの、最初の数ページを読んだだけで、結局、読まずに終わっている。

脳梗塞で倒れたままの河合隼雄元文化庁長官の著書に『縦糸横糸』(新潮文庫)という産経新聞に連載した記事をまとめた本がある。

縦糸横糸

その中で、2000年を迎えるにあたり「2000円札」が新札として発行され、裏面の源氏物語絵巻の図柄が採用された際に書かれた「「源氏物語」のミレニアム」と題するコラムがある。河合さんも最初は、私と大差ない『源氏物語』との距離感だが、その後が違う。

私は長い間、『源氏物語』を読まなかった。実は一度挑戦したが、源氏がつぎつぎと女性と関係を持ち、しかも彼の苦悩がほとんど感じられぬ物語の展開に嫌気がさして、こんな古いものは読めないとなげだしたためである。
しかし、50歳をこえてから日本の物語をつぎつぎと読み、その素晴らしさに目を開かれたので、最後には源氏に挑戦しようと思い、1994年、プリンストン大学の研究員として2ヵ月間滞在中に、集中して『源氏物語』を読んだ。今度は、まったく異なる感じで読め、読み終わったときはその偉大さに圧倒されて眠れないほどであった。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、195ページ)

河合さんは、源氏物語を紫式部の自己実現の物語と語っている。

『源氏物語』は紫式部という一人の女性の自己実現の物語として書かれているということであった。全巻を読み通した後に個々心に浮かんで来るのは、このような時代に自分の個を生き抜いた紫式部という女性のイメージであり、光源氏ではなかった。
いずれの時代にもその時代に応じて一般的な「物語」というものがある。平安時代の(中略)女性の貴族であれば入内して天皇の寵を受けて皇子を生むということがあった。(中略)
紫式部はそのような一般的物語をそのまま生きようとはしない。かと言ってそれと無縁でいることもできない。自分という一個人の世界を見てみると実に多彩な分身たちがうごめいていることに彼女は気がついた。その分身一人ひとりを描くためには、まず相手となる男性を必要とする事に気づき、光源氏という男性を立てることにした。
(河合隼雄著『縦糸横糸』新潮文庫、195~196ページ)

河合説によれば、源氏物語の主役は、光源氏ではなく、光源氏と関わる多くの女性達であり、彼女たちは紫式部の分身であり、彼女達を写す鏡の役として光源氏は存在することになる。

紫マンダラ―源氏物語の構図

源氏物語と日本人―紫マンダラ

河合作品の中で、上記のような分析を行った本が『紫マンダラ 源氏物語の構図』(小学館、2000年刊)である。(講談社+α文庫で文庫化された際『源氏物語と日本人 紫マンダラ』に改題)

源氏物語の解釈・分析の中で、門外漢である河合隼雄さんの上記のような説は、定説とは言えないだろう。あれほど多くの女性が登場することと、光源氏が登場するほとんどの女性と何らかの関係をもつという無節操ともいえる行動の理由が、河合説で考えると納得できる部分もあるように思える。

今回、俵万智さんの『愛する源氏物語』を読んでいると、紫式部は、いろいろな登場人物が作中で歌い詠む795首の和歌を、登場人物の応じて歌い分けているという。

795首の和歌を、それぞれの人物の状況と才能に応じて歌い分けるという技量。その「成り代わり」の技においては、紫式部は恐ろしいほどの力をもっていた。795首は、795種でもあるのだ。
(俵万智著『愛する源氏物語』文春文庫、10ページ)

作中の人物の境遇に応じて、歌わせる和歌も、分相応に歌い分けていると言うくだりを読んで、河合隼雄さんの登場する女性は、紫式部の分身という説を思い出した。それぞれ、自分の一部として表現されていれば、自然と歌も生まれたということであろうか。

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2007年4月22日 (日)

短歌を「読む」ことと「作る」ことの間にあるものと『物語のはじまり』(松村由利子著)の位置づけ

NHK教育テレビで日曜日の朝の7時30分から放送されている「NHK短歌」を初めて見た。
4人の講師・選者が毎週交代で出演し、番組に応募された短歌の中から、優秀な作品を12首選んで紹介する。また、選外となった作品のうち、2首につき、添削指導も行われる。
今日の講師・選者は、『男たちの大和』の原作者でもある辺見じゅんさん(他の3人は、栗木京子さん、高野公彦さん、川野里子さん)。ゲストに作家の重松清さんが呼ばれていた。
最後の5分ほど、短歌の鑑賞ともいえるコーナーがあり、辺見さんは与謝野晶子とその短歌を取り上げていた。

短歌入門書といえる『短歌をよむ』『考える短歌』(以上俵万智著)、『短歌を楽しむ』(栗木京子著)の3冊を読み、今日の「NHK短歌」を見て感じたことは、短歌入門といものが「短歌を作る」ことが前提になっているということである。
『短歌をよむ』、『短歌を楽しむ』でも、まず短歌を読み、鑑賞するところから始まるのだけれど、後半は、短歌を作ることが語られる(『考える短歌』は最初から作歌指導)。
現在名のある歌人たちは、自ら短歌の読者からスタートし、作り手である歌人へ進んで行ったので、短歌の読者・ファンは必ず短歌を作るようになるという確信があるのかも知れない。

今日の「NHK短歌」にゲスト出演していた重松清さんが「短歌はむずかしいという印象があって、敬して遠ざけてきた」と語っていたが、短歌と無縁の生活をおくってきた一般人にとってはそれが偽らざる心境だろう。
今の短歌入門の形式は、小説家が小説は面白いから、どんどん書いてくださいと勧めているようなものである。小説なら、たくさんの読者がいて、書き手である小説家になるのは一握りなのに、なぜ短歌はいきなり作りましょうになるのだろうか。
短歌愛好者の裾野を広げるには、作らないけれど読むのは好きという、短歌ファンを増やすことも大切なのではないか。素晴らしい短歌にふれ、自分の心の歌として口ずさむようになれば、そのうちの何人かは、自分でも作ろう、詠んでみようとするだろう。

このブログで何回も紹介している松村由利子さんの『物語のはじまり』は、短歌を読むことに専念した入門書と言える。作者は決して読者に短歌を作ろうとは、呼びかけない。作者が願うのは、埋もれていく素晴らしい短歌を多くの人に知ってもらい、自らの人生の糧として味わい役立てて欲しいということだけである。

冒頭で紹介した「NHK短歌」の4月号のテキストには、山田富郎さんという歌人の「短歌時評」という書評のコーナーがある。書き出しは、こんな感じだ。

短歌評論の不振が言われるようになって久しい。その穴を埋めるように次々に出版されているのが、入門書や評伝や広義の短歌エッセイである。本格的な評論が少ないのは寂しいが、とりあえず、良否をしっかり見きわめたいとおもう。
(「NHK短歌」2007年4月号72ページ、山田富士郎「短歌時評」)

そして『物語のはじまり』について、次のように語る。

最近刊行された『物語のはじまり 短歌でつづる日常』(中央公論社)は、松村はじめての散文の著作である。副題の示す通り、(中略)十のキーワードに従って歌が選び出され、歌をめぐって文章が紡がれる。評釈付きの秀歌選集として読むことも可能だし、エッセイとして読むこと、一種の人生論として読むことも可能である。さらに言えば、結果として、質の高い短歌入門書ともなっている。読者を受容する幅の広い魅力的な本だと思う。
(「NHK短歌」2007年4月号72ページ、山田富士郎「短歌時評」)

この書評のコメントは、『物語のはじまり』の多様性を実によく表現していると思う。
歌人は、短歌の作り手、短歌の世界の住人として、歌人の気持ち、個々の歌人の人生・事情にも詳しい立場だ。『物語のはじまり』、歌人である作者が、水先案内人となって、現代の日本の優れた短歌を一般向けに紹介した著作と位置づけることもできるだろう。
私は、短歌を通じて、作者自身の人生を語ったエッセイという点で印象深く読んだが、改めて現代の秀歌選集として読み直す必要があると思っている。

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2007年4月15日 (日)

名歌とは?俵万智さんと松村由利子さんが取り上げた栗木京子さんの観覧車の歌について考える

松村由利子さんの『物語のはじまり』を読んだのをきっかけに、短歌に関する本を読んでいるが、昨日書いた『短歌のよみかた』(俵万智著)、さらに『短歌を楽しむ』(栗木京子著、岩波ジュニア新書)を読んでいて、3人が共通して取り上げている歌があった。

栗木京子さんの次の歌である。

観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
(栗木京子『水惑星』)

栗木京子さんは1954年名古屋市生まれ。京都大学理学部卒。1984年に最初の歌集『水惑星』を出版。他に『中庭』『綺羅』 『万葉の月』などの歌集があり、2003年に出された歌集『夏のうしろ』は、第8回若山牧水賞(2003年)、第55回読売文学賞(2004年)を相次いで受賞している。
私は、松村由利子さんの第二歌集『鳥女』が第7回現代短歌新人賞を受賞した時の選者として、初めて名前を知った。
『短歌を楽しむ』は、おそらくは中高生向けの短歌の入門書として書かれたものであろう。岩波ジュニア新書の1冊として1999年に出版されている。

前置きが長くなったが、俵万智さん、松村由利子さんとも、著書の中でこの観覧車の歌を紹介している。

観覧車に乗って楽しんでいるデートの最中。なのにもう「想い出は」と考えてしまう。そこには、恋への終わりへのかすかな予感があるのかもしれない。たぶん君は、私ほどには今日のことを噛みしめてははいないだろう。それでもいい。私たちのこの日をくっきりと記憶に残すため、観覧車よ思いっきり回っておくれ・・・・・・。
「君には一日我には一生」という下の句のリズムのよさが、愛唱を誘う。また、この部分は、一つ一つのボックスがガタンガタンと回る観覧車の様子ともあわせて、感じられないだろうか。若い日の恋のひたむきさが、きゅうと詰まった一首である。
(俵万智著『短歌をよむ』1993年、207ページ)

閉ざされた狭い空間に二人きりでいられる状況というのは案外少なく、車やエレベーター、そして観覧車の中くらいである。恋する作者は、「ああ、いつまでもこのままでいられたらいいのに」と思う。しかし、ゆっくりとではあるが観覧車は回り、下りなければならない地上が近づいて来る。「回れよ回れ」の切ない気分は、そのまま恋が続いてほしいという気分とつながっている。切ないのはそれだけではない。今日のデートは、自分にとって一生忘れられない思い出となるだろうに、相手にとってはたった一日のことでしかない―。聡明な作者はそう感じとっているのだ。
片思いでなく恋が成立した関係においても、自分と相手のどちらが優位に立っているかは、何となくわかる。好きな気持ちをより多く抱いた方が「負け」なのである。この作者は自分の負けをよく知り、それはそれで仕方ないと思っているようだ。
(松村由利子著『物語のはじまり』2007年、64~65ページ)

作者である栗木さんは、この歌について、こう書いている。

私の歌を一首紹介させてもらいます。(中略)この観覧車の歌に対しても、男女の恋愛観の違いや、女性の心の広さと切なさを感じ取ってくれる人が多いのです。
遊園地で過ごす一日、今日のこの日はあなたにとって何でもない一日でしょうが、私にとっては一生の思い出になるに違いありません・・・・・・。
こう書くといかにも深刻に聞こえますが、実際には学生時代にゼミの仲間たちと遊園地で楽しく過ごしたときに、すんなりと出来てしまった一首です。
(栗木京子著『短歌を楽しむ』1999年、108~109ページ))

この歌を掲載した歌集『水惑星』が出版されたのが1984年、しかし、歌そのものは、全然古さを感じさせない。
栗木さんの作歌の際の状況が、歌われている「恋人どうしが2人だけで乗る観覧車」とは違っていたというのは、短歌が作られるプロセスの謎解きという意味で面白い。
しかし、ひとたび三十一文字(みそひともじ)の短歌となって、世に出たあとは、それに意味を与えていくのは、読み手なのだということであろう。

遊園地に観覧車があり続け、そこが恋人たちのデートの舞台であり続ける限り、そこでデートをしたことがある人にとってはもちろんのこと、観覧車でデートをしたことがなくても、それはあったかも知れない現実として、人々の心を捉える。
現在を歌う短歌として読み手の中で再生され、取り上げられる。

名歌とは、世代を超えて多くの人の感性に訴え、読まれ、語られる歌なのだろう。観覧車の歌も、そんな一首なのだと思う。

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2007年4月14日 (土)

『短歌をよむ』(俵万智著)を読み終わって

『短歌をよむ』(俵万智著、岩波新書)を読み終わった。

1987年に発行された、歌集『サラダ記念日』で一躍、時代の寵児になった俵万智さん。バブル経済へとさしかかる上り坂の時代の空気の中で、さわやかに恋や青春を歌い上げた『サラダ記念日』は、260万部を売るベストセラーとなり、それまで短歌とは無縁だった人々にも、短歌の存在を改めて知らしめた。
当時、社会人になって間もない私も260万部のうちの1冊を買った一人である。年齢も近かったこともあり、現代語をふんだんに取り入れた『サラダ記念日』の中の短歌の数々は新鮮だった。

しかし、惜しむらくは、私も含め『サラダ記念日』を読んだ大多数の人にとっては、同書を読むことは、流行・ファッションとひとつで終わってしまった。これを機に短歌が見直されるということにはならなかったように思う。

本書『短歌をよむ』は、20代で華々しくデビューした作者が、1991年に第二歌集『風のてのひら』を出したあと、1993年に岩波新書に1冊として出版されたものである。
内容は「Ⅰ短歌を読む」「Ⅱ短歌を詠む」「Ⅲ短歌を考える」の3部構成になっている。
「Ⅰ短歌を読む」は、短歌の読み方について述べているが、万葉の時代からの短歌の技巧、リズム、響き、枕詞、序詞、本歌取りなどの面白さを、実例を交えて紹介している。
「Ⅱ短歌を詠む」では、主に自らの短歌が、どのように作られたのか、どういう形で推敲し発表作品となったかなど、短歌作りの舞台裏紹介という趣だ。

ⅠとⅡはどちらかと言えば、教科書的で、本書の特徴はⅢにあると言えるだろう。「Ⅲ短歌を考える」では、自分以外の歌人の足跡を辿っている。特に、関心を持っているのは、若い頃、話題になる歌を発表しながら、短歌から離れてしまった多くの歌人達である。次いで、自分の先達として、年を経ながら短歌を読み継ぐ歌人についてもふれ、歌人の生き方について考えている。

第Ⅲ章を書いた思いを「あとがき」で次のように述べている。

自分の好きな歌人で、歌をやめてしまった人が少なからずいる、ということである。彼らの残した素晴らしい青春の歌のかずかず。その先をもっと読みたいのに、なぜかみな、作歌から遠ざかってしまっている。
以前はただ、「なぜだろう?」という思いだけだった。が、自分自身、ひたすら青春を歌う時期が終わりかけてきた今、彼らの気持ちが少し見えてきたように思う。それは、「なぜ」に対する答えというより、「ほんと、大変やわ」という本音の部分での共感である」
(俵万智著『短歌をよむ』242ページ)

この本は、著者が20代を終え、30代に入ろうとする時に書き始められ、30代最初の作品として世に出た。青春をテーマに、短歌を書いてきた著者が、これから何を歌うのか戸惑う姿がある。「あとがき」では、さらにこう書いている。

第Ⅲ章を書き上げることは、「よーし、これからもがんばるぞ」という決意に結びついた。それまでモヤモヤと気にかかっていたことを正面から取り上げたのがよかったようだ。筋道をたてて何か立派な結論を出したというものではない。けれどもじたばた考える過程そのものが、自分にとってとってもプラスになったと思う。
(俵万智著『短歌をよむ』243ページ)

そして最後に、

この本ができあがったことは、ゴールではなくスタートだ。私は、まだ見ぬ第三歌集に向かって、気持ちも新たに走りはじめます。
(俵万智著『短歌をよむ』244ページ)

と「あとがき」を締めくくっている。

第三歌集『チョコレート革命』は、本書の4年後、1997年に出版された。

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2007年4月 2日 (月)

読売新聞・編集手帳に松村由利子さんの短歌登場

一昨日、このブログで、『毎日らいふ』での松村由利子さんの連載の話を書いたが、昨日(2007年4月1日)の読売新聞朝刊の1面のコラム「編集手帳」に、松村さんの短歌が取り上げられた。

このほど現代短歌新人賞に選ばれた松村由利子さんは昨年まで新聞記者をしておられた方で、会社勤めの日常を詠んだ歌も少なくない。「大きなる鍋の一つか会社とは煮崩れぬよう背筋を伸ばす」◆受賞の歌集「鳥女」(本阿弥書店)に収められている。知らず知らずのうちに自分というものを見失っていく。それが煮崩れだろう。「大きなる鍋」は新聞社に限るまい(以下略)
(4月1日読売新聞・編集手帳より)

このように始まったコラムはこの後、電力会社、洋菓子メーカー、テレビ局の最近の醜態を煮崩れになぞらえている。

第二歌集『鳥女』では、プライベート、職場、アフター5でのフラメンコ、と様々な場面を背景にした短歌が登場する。著者によれば、創作の部分もあるとのことだが、いずれしても、そこには、男女の別、仕事のあるなしを問わず、それぞれの立場で共感できる歌がある。

自らのエッセイでは、他の歌人の歌を題材に文を書く松村さんであるが、『鳥女』には、周りの人の発想を刺激し、題材となる歌が数多く含まれていると思う。
2007年度は、歌人・松村由利子がさらに飛躍する年ではないか。そんな予感のする年度初めの4月1日だった。

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2007年3月31日 (土)

松村由利子さんの連載、『毎日らいふ』で始まる

毎日新聞社が発行する健康をテーマした月刊誌『毎日らいふ』の4月号から、松村由利子さんの「からだの歌 こころの歌」と題した連載が始まった。(私設「松村由利子さんファン掲示板」を運営する「ろこ」さんの情報)

さっそく、家の近くの書店をのぞいて見ると、(毎月1日前後の発行ということらしいのだが)、すでに5月号が並んでいた。「からだの歌 こころの歌」の連載も2回目で、5月のテーマは「うつ」。本誌の特集記事『危険な「五月病」』の中で、五月病に潜む「軽症うつ病」の可能性を取り上げていることとも、連動しているようだ。

連載の内容は、著書である『物語のはじまり』と同じ短歌エッセイ。様々な歌人のからだやこころに関する歌を取り上げて、自分の経験や思いを織り交ぜて語る。今月のエッセイの冒頭には、さらりと自分のことが語られている。

朝の通勤電車の中で、突然ほろほろと涙があふれて止まらなくなったことがあります。ちょうど、5月ごろでした。「これって、以前に取材した”うつの初期症状”と同じだなあ」と気になり、心療内科を受診しました。医師にあれこれ話しているうちに何となく元気になり、結局、受診したのは1回きりでした。初めて、役職に就いた時のことです。
(『毎日らいふ』2007年5月号、94ページ)

第二歌集『鳥女』でも、役職に就いた時の戸惑いを思わせる歌が何首か詠まれている。組織の中では、少数派の女性の役職者。自分が手本とすべき先輩の女性役職者は少なく、後に続く、男女雇用均等法後に入社の後輩からは、自分たちの先人として道を切り開いて欲しいという期待があっただろう。いやでもプレッシャーを感じざるを得なかったに違いない。記者として、「初期のうつ」というものを知っていたことが、早期に心療内科を受診するという解決策につながったのだろう。

本誌の「五月病」の特集を読んだ上で、上に引用した松村さんの文章を読むと、より迫ってくるものがあり、最後までエッセイを読みたくなる。
編集者も上手いし、それの期待に応えるエッセイを書いた松村さんの力量も大したものだ。

これを機に『毎日らいふ』を、しばらく読んでみようと思っている。本誌の方の特集記事も、中年期の自分には何かと役に立ちそうだ。

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2007年3月19日 (月)

松村由利子さんの作品を語る『私設「松村由利子さん」ファン掲示板』登場

私も何度かコメントを書かせていただいた「言葉の泉」というブログを書かれている「ろこ」さんが、このたび、『私設「松村由利子さん」ファン掲示板』を開設された。

松村さんの作品について自由に語り合う場所として、作ったとのこと。

皆様がたのご感想やご意見、情報交換などの場としてご利用いただければ幸甚です。(「言葉の泉」より)

私も、さっそく、開設のお祝いを書かせていただいた。
松村由利子ファンの方は、ぜひ訪問し、コメントを書き込まれたらいかがだろうか。

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2007年3月12日 (月)

第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

昨日(2007年3月11日)は、松村由利子さんが第二歌集『鳥女』で受賞した第7回現代短歌新人賞の表彰式が、さいたま市の大宮ソニックシティビルで行われた。

私は見に行けなかったのだが、ありがたいことに、先月から私のブログを読んでくれているというトロアさんが、表彰式を見に行かれたとのことで、昨日の「松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場」の記事に、表彰式の様子について、コメントを投稿してくださった。ご本人の了解の上で、転載させていただく。

本日、さいたま市で行われた第7回現代短歌新人賞表彰式に行ってきました。
松村さんは、少し緊張しておられた様でしたが、さくら色のお着物に受賞作「鳥女」にちなんでか、鳥の柄の入った帯がとても良く似合っておられて、まぶしいくらい美しかったです。
受賞のあいさつの最後の「人の心に届くうたをつくっていきたい。」という言葉が印象的でした。想像していた通りの、知的で優しそうな方でした。
ちなみに、表彰式のお土産はミセス3月号でした。
(トロアさんのコメントより)

また、トロアさんからの追加情報で、第1回現代短歌新人賞の受賞者でもあり、松村さんと同じ「かりん」のメンバーである梅内美華子さんのブログにも、その様子が書かれているとのこと。
そちらには、リンクを張らせていただくことにする。

梅内美華子さんのブログ
「つれづれぱんだ 歌人・梅内美華子の気まぐれ日記」

会社を辞め創作活動に専念を始めた松村さんにとっては、この賞は、新たな門出を祝う何よりはなむけだろう。
松村さん、受賞おめでとうございます。

第二歌集『鳥女』、短歌エッセイ『物語のはじまり』に続く、次の作品が待ち遠しい。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

*関連記事
1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:
松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:
第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
1月29日:
歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:
『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)
3月11日:
松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場
3月12日:
第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

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2007年3月11日 (日)

松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場

今日(2007年3月11日)の日本経済新聞の朝刊の読書欄の「あとがきのあと」で、『物語のはじまり』(中央公論新社)の作者として、松村由利子さんが顔写真入りで取り上げられた。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

作者のインタビューを織り交ぜた記事は次のように始まる。

食べる、恋する、住まう、老いる。日常生活の様々な出来事をうたった佳品を、エッセーに織り込んで紹介した。「短歌には、口ずさめば心が明るくなるような作品がたくさんある。一首が短いから小説ほど読むのにも時間は要らないし、忙しい人にこそ親しんでほしいと思った」。執筆のきっかけを語る。

この記事を書いている記者は、この本の本当の良さを理解していると思ったのは次の一節だ。

日常生活や取材での出会いなどから紡いだ経験談が短歌をやわらかく包みこむ。例えば「もろともに冬幾たびを籠もりつつきみこそもつと知りたきひとり」(今野寿美)を引きつつ、好きな相手の読んだ本を知りたくて図書館の貸し出しカードを片っ端からチェックした思い出を語るくだり。「こんなに自分をさらけ出すなんて、みっともない」と笑うが、そこが本書の魅力の源泉でもある。

この本が、ただ単に他の歌人の短歌を解説するだけの本であったら、おそらく短歌の世界の中だけの話題で終わっただろう。
読者は、短歌と主に語られる作者自身の姿に共感する。そこに語られるのは、あくまで作者個人の経験なのだけれど、同じ空気の中で生きてきた30代から50代前半ぐらいの人たちにとって、自分も「同じような経験、思いをした」ということが、そこここに散りばめられている。

図らずも、時代の代弁者になっていることが、TBSの「hito」という番組で「今を生きる人」として取り上げられ、今回、日経新聞でも取材を受けた理由ではないかと、私は思っている。

記事は、最後に作者の次の言葉と記者のコメントで締めくくられる。

「歌を詠むのは自分の心の地下室に下りていくこと。いい点悪い点含めていろんな面が見えるので、つらいこともある」。短歌とは苦楽あわせ持つ存在、つまり人生そのものなのだろう。

「心の地下室の下りていく」というコメントは、TBSの「hito」の中でも語られていた。一人で、自分の心の内側と向き合う作業、それが、歌を詠むということなのだろう。

昨日(3月10日)発売された、文藝春秋4月号では短歌欄に、「花の色」という題の松村さんの新作短歌8首が掲載されている。こちらも、ぜひご覧いただきたい。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

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2007年3月 8日 (木)

『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)

松村由利子さんの『物語のはじまり』については、私も何回かこのブログで取り上げてきたが、グーグルの検索結果などを見ていると、ブログで取り上げてくれる人がふえて来ている。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

検索結果には、ネット書店の販売ページや、図書館の新刊情報なども混じっているので、ここで、ブログに取り上げられた、感想をまとめた、リンク集を作ってみることにした。
(最終更新日:2007年4月14日)

まずは、著者本人が自分のブログに書いた記事から
1月7日 
 そらいろ短歌通信松村由利子の自由帳:『物語のはじまり』

以下掲載日順に紹介することにする

1月13日(歌人おおまつさんのブログ)
 something like that:『物語のはじまり』

1月16日(歌人東直子さんのブログ)
 とうすみ日記:短歌のたのしみ本

1月18日(管理人拓庵のブログ)
 栄枯盛衰前途洋洋:『物語のはじまり』に思う

1月26日(piricaさんのブログ)
 ・・・>ぴり・ぴり:松村由利子さんのエッセイ集

2月1日(書店の店主、会留府さんのブログ)
 えるふ通信:物語のはじまり

2月19日(morino77さんのブログ)
 森の中庭:物語のはじまり

2月22日(社民党福島みずほさんのブログ)
 福島みずほのどきどき日記:本をたくさん読んでいます

2月27日(歌人春畑茜さんのブログ)
 アールグレイ日和:『物語のはじまり』(松村由利子・著)を読む

3月2日(図書館司書ふわふわふわくさんのブログ)
 路傍の花:松村由利子「物語のはじまり」

3月6日(歌人近藤かすみさんのブログ)
 きまぐれ徒然かすみ草:物語のはじまり 松村由利子

3月16日(毎日新聞科学環境部の2人の記者のブログ)
 理系白書ブログ:深呼吸の必要

4月12日(読書ノート歴27年の大空の亀さんのブログ)
 「心に響く本・詩歌・言葉・音楽・風景」:心に響く言葉&心に響く本の紹介

それぞれの書き手のみなさんが、この本の中から何を取り上げているかも、それぞれである。それだけ、多様な人の心に訴えるものを持つ本だと思う。

*お詫び:当初、公開時、春畑茜さんの記事へのリンクが正しく張られていませんでした。現在は修正済みです。大変、申し訳ありませんでした。

*関連記事
1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:
松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:
第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
129日:
歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:
『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)
3月11日:
松村由利子さん、『物語のはじまり』の作者として日本経済新聞の読書欄に登場
3月12日:
第7回現代短歌新人賞表彰式での松村由利子さんの様子

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松村由利子さん、本日テレビ出演

このブログでも何回か取り上げた歌人の松村由利子さんが、今日3月8日、TBS系列夜9時54分からのhitoという1分ほどの番組に出演されるとのこと。
ぜひ、ご覧あれ。

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2007年3月 3日 (土)

『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる

週刊新潮の3月8日号に『物語のはじまり』が紹介されているとのことで、さっそく、確認してみた。TEMPOBOOKSというコーナーで、取り上げられていた。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

松村由利子「物語のはじまり 短歌でつづる日常」

短歌・俳句という短詩のリズムは日本語の個性に深く根ざし、日本人の感受性の基底に刷り込まれている。暗唱できる短歌がひとつもないという人はまれだろう。
日本人にとってそれほど親しみのある詩型だが、しかし改まって短歌鑑賞ということになると、絵画や映画を見に行くほどには経験がないかも知れない。知っている短歌は、みなかなり前につくられたもので、作者は故人ばかりというのでは寂しい。いま、この時代を生き、同じ空気を呼吸している歌人たちが、三十一音で切り取った「現代」を覗いてみてはいかが。
本書は、現代短歌を初めて味わう人におすすめできる入門書だ。「食べる」「働く」「育てる」などのテーマ別に章がたてられ、かたくるしい批評ではなく、しなやかな随筆のかたちをとって数多い佳品が紹介されていく。現代短歌の実りを鑑賞するのに好適なだけでなく、これから短歌の実作に挑戦しようという人にも役にたつ。現代のうたびとたちは、こんなふうに生き、思い、表現しているのだと、心強い気分になれる。(中央公論新社・1890円)
(週刊新潮2007年3月8日号126ページ)

短歌をエッセイの中で語るという著者の語りのかたちが、大げさに言えば新しい文学・書物のジャンルを切り開いたということなのではないかと思う。

短歌を歌人の世界の中だけで語るのではなく、世の中に広めること。そして多くの人が、自分の好きな歌を口ずさみ、そこに癒しや明日への力を得ることが、著者が望んでいることであろう。松村さんは、『物語のはじまり』のあとがきにあたる「おわりに」で次のように述べている。

この本は、日々の生活を短歌で点描するといういっぷう変わった試みである。テーマごとに、愛唱してきた歌の数々を引用したが、古今の名歌を網羅したものではないから、物足りなく思われる方もいるかもしれない。作品を自身に引きつけ過ぎた解釈が多いというご批判もあろう。歌を読む喜びを多くの人に伝えたいという熱意のあまりゆえとお許しいただきたい。読んでくださった方の心に響く歌が一首でもあれば、うれしい限りである。
(『物語のはじまり』244ページ)

歌を「詠む」喜びではなく、歌を「読む」喜びとなっている。あまたある現代短歌の中に、きっと、それぞれの人にふさわしい歌がある。歌人すなわち「詠み手」であり、「読み手」でもある作者が、、自ら愛唱する歌を披露したのが、本書と言えるだろう。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

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2007年2月16日 (金)

『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場

このブログでも、何回か取り上げた松村由利子さんの短歌エッセイ『物語のはじまり』(中央公論新社)が、読売新聞の2月13日の書評欄で取り上げられたらしい。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

我が家では、読売新聞はとっていないので、インターネットで探してみると、読売新聞のホームページ「YOMIURI ONNLINE」の中の「本よみうり堂」というコーナーに再録されていたので、長くなるが引用しておく。

秀歌を通して日常を点描

 ふだん私は歌(短歌)とは無縁の暮らしをおくっている。けれども、たまたま手にした本書は行きつ読み、戻りつ読みを繰り返した。難しかったからではない。歌にこれほど自分の思いをすくいあげて貰(もら)ったことがなかったからだ。取り上げた歌をてらいなくふつうに、しかしハッとさせる解釈で語ってくれる著者の言葉が道案内になり、歌は一段と輝く。

 ひとに紹介したいと思う歌が次々に出てくる。ひとに読ませたいと思うしみじみした著者の語りがいっぱい出てくる。恋する、ともに暮らす、住まう、働く、食べる、産む、育てる、老いる…それぞれの日常の場面で詠まれた歌から著者が選び出したものは、みな深い思いをたたえながらしかし湿っぽくない。「恋はフィフティ・フィフティ」とみる著者に取り上げられた恋の歌にうじうじしたものはない。重く辛い歌も著者のようにおおらかによみとれば、歌と共に生きる幸せに転化する。

 著者は20年ほど新聞社に勤め、とくに生活家庭部の所属が長かった。文字どおり「生活」と「家庭」に関するニュースを追った記者生活の経験が著者の短歌への感性をつくっている。だから暮らしからかけ離れた思想によらず、日常を手足と言葉でしっかり生きている。

 短歌界では日々膨大な数の作品が生まれるそうだが、歌壇ジャーナリズムが取り上げるのは「新奇性や話題性のある作品」。味わい深い作品でも、話題にならずに忘れられてゆくことが多いらしい。本書は、現代短歌から秀歌を選び、その歌で日々の生活を点描してみようとの試みである。

 私は歌がなくても生きてゆける人間である。でも世の中には歌で人生を乗り越えてきたひとがいるであろう。はじめてそう思った。日常を詠んだ何気ない短歌に、深い思いの淵(ふち)が見える。短歌にはまってしまうかもしれない。

 ◇まつむら・ゆりこ=1960年福岡県生まれ。元毎日新聞記者。今年3月、歌集『鳥女』で現代短歌新人賞を受賞する。

中央公論新社 1800円

評・白幡洋三郎(日文研教授)

最初に語られる、「歌にこれほど自分の思いをすくいあげて貰(もら)ったことがなかったからだ。取り上げた歌をてらいなくふつうに、しかしハッとさせる解釈で語ってくれる著者の言葉が道案内になり、歌は一段と輝く。」というところは、この本で作者が目指したものであろう。

これは、作者がインタビューで語った

これからは、自分自身の歌を高めていくことはもちろんのこと、他の歌人作った歌を一つでも多く紹介して、短歌のすばらしさを伝え、言葉の力で人を幸せにしたり、励ましたりできればと思っています。
(松村由利子、『ミセス』3月号、189ページ)

というコメントに呼応する。

この書評を機会に、さらに一人でも多くの人に読んでほしいというのが、読み終わった一読者の感想である。

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2007年2月 7日 (水)

『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー

普段は、絶対に買うことのない月刊誌『ミセス』の3月号を買う。『ミセス』を発行している文化出版局は、現代短歌新人賞の協賛をしており、第7回新人賞を受賞した松村由利子さんの『鳥女』についての5人の選者のコメントと、松村さん自身のインタビューが載っていたからだ。

私が『鳥女』を読んだ感想は、すでにこのブログで書いたが、選者の人たちはこの歌集をどう読み、歌人・松村由利子をどう見たのか。自分が、この歌集に感じた感覚は、選者の人々を近いのか、かけ離れているのか、そんなことに興味があって、ページをめくった。

選者は5名。中村稔選考委員長を含め男性3名、女性2名。女性にうちの1人は、松村さんの師匠でもある馬場あき子さんだ。候補には、5作品があがっていたらしい。

選評を読むと、男性選者3人のうち、2人は職業人としての歌に注目している。2人の女性選者は、職業人としてよりも作者独自の感性を評価しているように見える。

知性を包むやわらかな抒情(馬場あき子)
『鳥女』は松村由利子さんの第二歌集である。松村さんは大手新聞社の第一線で活動していたキャリアウーマンの一人だが、新聞記者的な知的な社会観が表に立つ歌よりも、むしろ少し控え目な、内省的な屈折感や、豊かな感性の潤いを通して物を見ている歌に、本質にあったよいものがある。(以下略)
(『ミセス』3月号、190~191ページ)

静かな覇気(栗木京子)
『鳥女』の印象をひとことで表すならどんな言葉がふさわしいだろうか。静かな覇気、そう言ってみたいような気がしている。(中略)
人一倍真面目で、しかも、情熱的。前向きでありながら、ふと立ち止まったときに、いじらしいほどの逡巡をみせる。そういった揺れ動く内面を五句三十一音の定型に歌い収めている。やや硬さを残す端正な文体にも好感を持った。さらなる飛躍を期待したい。
(『ミセス』3月号、190~191ページ)

私の印象は栗木さんに近い。選者も歌人なので、言葉の使い方が素晴らしい。「静かな覇気」とは、言い得て妙。

私が力んで「自分の内面をえぐり、五七五七七の31文字の中に、その思いを閉じこめた」とか「一人の女性の情念というようなものが感じられるのだが、その想いはどこか乾いた感じがする」と書いたことが、「静かな覇気」という言葉で全て表現されてしまっているような気がする。

この「静かな覇気」と呼応するようなコメントが作者のインタビューの中にあった。

実は詩も好きで以前は書いていましたが、あふれ出てくるものを表現しようとすると、どうにも収拾がつかなくなってしまうんです。とても自分のスタイルを作ることなどできませんでした。それに比べて短歌は三十一音という詩型の中に感情や思いを凝縮させる面白さがあり、自分の表現にぴったりだと思ったのです。まるで小さな香水の瓶にその時の気持ちを永久保存できるようなイメージを短歌に抱いていました。
(松村由利子、『ミセス』3月号、189ページ)

インタビューは、今後の活動について聞かれ、次のようなコメントで締めくくられている。

これからは、自分自身の歌を高めていくことはもちろんのこと、他の歌人作った歌を一つでも多く紹介して、短歌のすばらしさを伝え、言葉の力で人を幸せにしたり、励ましたりできればと思っています。
(松村由利子、『ミセス』3月号、189ページ)

この記事では、選者の評とあわせ、『鳥女』406首の中から、秀歌抜粋三十首が選ばれているのだが、その中に、私が1首だけなら、この歌と選んだ

 井戸ひとつ吾の真中に暗くあり激しきものを沈めて久し

も選ばれていた。そんなに間違った読み方はしていなかったようだ。ご興味がある方は、自分の1首を探してみては、いかがだろうか。

松村由利子さんのブログ:
「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳」の『鳥女』のページはこちら
(歌集『鳥女』の注文も受付中)
→『鳥女』の販売は終了

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2007年1月29日 (月)

歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる

松村由利子さんの最初の歌集『薄荷色の朝に』読み終わった。

最初に「薄荷」という字は、なんと読まれただろうか?正しくは「ハッカ」である。私は、漢字検定準1級と、プロフィールにも書いているのだが、お恥ずかしながら、読めなかった。
グーグルで「薄荷色」で調べると、英文でMINT GREENとあり、薄い緑色である。まず、タイトルからして分からないのだから、読み手失格である、情けない。

この歌集には、1994年に「短歌研究新人賞」を受賞した際の「白木蓮の卵」と題した26首を先頭に、1991年から98年までの8年間の341首が取り上げられている。歌集のタイトルになった薄荷色は、「白木蓮の卵」の中の次の歌に登場する。

 風の変わる予感満つれば薄荷色のTシャツ一枚ベランダに干す

作者30代の作品集といえるこの『薄荷色の朝に』全体を通して、押さえきれずほとばしる想いが、五七五七七の31文字にあふれ出ているという印象を受けた。作者の師である歌人の馬場あき子さんの巻末での解説にある「青春挽歌」との評がふさわしいと思う。
先に読んだ第二歌集『鳥女』が、自らの内面をえぐり、31文字の中に閉じこめたと感じたのとは対照的だ。『鳥女』では、一人の女性の情念というようなものが感じられるのだが、その想いはどこか乾いた感じがする。

30代は無我夢中で走り抜け、40代になってふと立ち止まった時、大きな惑いがあったのではないだろうか。作者にも、中年期の危機(中年クライシス)、曲がり角があったのではないか。第二歌集『鳥女』は、その中年クライシスを乗り越えようとした中で、できあがってきたものなのではないだろうか。

『薄荷色の朝に』の中で、気になった歌を一首だけ紹介し、好き勝手に書いてしまった感想を終えたい。
 
 近づけど決して交わらざる思い人の心は放物線に似る

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2007年1月27日 (土)

第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる

歌集『鳥女』(松村由利子著、本阿弥書店)を、最終ページまで、読み終わった。

Photo_2

この本の帯には次のような紹介文が記されている。

臆病でありながら攻撃的、そして優しさと残酷さを併せ持つ-「鳥女」はきっと、あなたの中にもいる。

第1歌集から7年。働く、踊る、憤る・・・・・・骨太さを増した日常詠が、現代を活写する。新作60首を収め、躍動感あふれる第2歌集。

帯には、「日常詠」と書かれているが、これは作者自身を赤裸々に語った「自分詠」とでも呼んだ方が、よりふさわしいのではないかと思う。(「自分詠」などという言葉は、短歌の世界では使わないのかも知れないが)
そもそも、文学というものは、全て最後は自分を語ったものなのだろうけど、ここまで自分の内面をえぐり、五七五七七の31文字の中に、その思いを閉じこめた力は、すごいと思う。

この歌集には406首の歌が収められているが、その中で、私が最も惹かれた歌を1首あげておく。

 井戸ひとつ吾の真中に暗くあり激しきものを沈めて久し

帯で語られる「臆病でありながら攻撃的、そして優しさと残酷さを併せ持つ」という評の要素の全てを含んだ歌だと思う。

この歌集は、昨年12月にさいたま市主催(文化庁、埼玉県後援)の第7回現代短歌新人賞を贈られた。
この賞は「歌人など約170名にアンケートを取り、推薦の多かった歌集と選考委員の推薦する歌集を併せ、選考会で決定する」という。一部の選考委員だけでなく、広く同好の仲間達の支持がなければ候補にも選ばれないということであろう。

選考委員の講評は

第一線の職業に生きる社会感覚と子を思う母親としての心情にもとづいて、現代に生きる女性の鋭い知性と豊かな感性により、新しい境地を開いた作風を評価して、贈賞にふさわしいものと決定した。

やはり「新境地を開いた」のだろう。本人の受賞のコメントは

短歌という小さな詩型にひかれ、心に浮かぶことを歌にしてきました。歌のもつ力の大きさの前で自分の技量のなさを痛感するばかりですが、この度の受賞を機に一層の努力を重ねなければ、と気持ちを引き締めています。(松村由利子)

作者は1994年に、すでに第37回「短歌研究新人賞」を受賞している。それでもなお、今回、2度目の新人賞に輝いたのは、この歌集で歌われている短歌の形が、それだけ新しいと選考委員達が評価したからなのだと思う。

表彰式は、3月11日(日)に大宮ソニックホール(開場正午、開演午後1時)で開かれるそうだ。

(参考)さいたま市ホームページ

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2007年1月24日 (水)

松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く

大阪出張から戻ると、松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』と『鳥女』が届いていた。松村さんブログ「そらいろ短歌通信」を通じて、直接作者本人にお願いしていたものが、昨日届いていた。

さっそく、開いて何首か読んでみる。昨年6月までの新聞社でのサラリー(ウー)マン生活も歌に歌われている。ある時期から管理職となったようで、第2歌集『鳥女』の中に、「春の話」との題で詠まれた12首の中に、その戸惑いも綴られている。

  大いなる沼に腰まで引き込まれ目を閉じるごと内示を受ける

  来月は管理職となる憂鬱に研修室の空気淀みぬ

「春の話」という題からして、新年度となる4月から管理職となる内示を3月に受けたのだろうか。あるいは、それは、時期がくればいつかはという予感も作者にはあったのかもしれない。けれども、いざ内示を受けてみると部下を持ついうことが自分に勤まるのかという不安、記者時代のように自分の一存で行動できないという不自由さ、それを思う時に憂鬱といったものがうかがえ、共感する歌である。

私も30代後半のある時、10人ほどの課の長になる内示を受けた時、自分に勤まるのかという不安がよぎった。そして、実際にその職に就くと、管理職というのは、好むと好まざるとにかかわらず、部下の人生に影響を与えざるを得ない立場であることを実感した。
日々の業務の指導・指示というのももちろんだが、それが、最も端的に現れるのが「人事考課」である。自分が書いたことだけで、全てが決まるわけではないものの、組織における最初の評価者として、自分の配下にいる人たちの評価をしなければいけないということ、その結果は、いやおうなく配下人たちの給料の多寡や出世に直接・間接に影響を与えることを意識せざるを得なかった。
チームリーダーとして、チームの面々と語り、それぞれの良さを見出し、チームが一体感をもって一つの成果を上げた時の達成感や喜びは、一人で仕事をするのとは違う醍醐味があるが、それでも、相対比較で優劣をつけなくてはいけない空しさは、なんとも言えないものがあった。私のそんな気持ちを代弁してくれているようにも思えるのが、次の歌である。

  役職についた途端に見えてくる組織の中の条理不条理

作者は、何に条理不条理を感じたのだろうか?とも思いつつ、私は勝手に、人を評価することの不条理と解釈させてもらった。

紹介したのは、まだ一部に過ぎない。順次、読み進め、機会をみて紹介していきたい。

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2007年1月21日 (日)

『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる

先週来、読んでいた松村由利子さんの短歌エッセー『物語のはじまり』を、昨日、読み終った。結局のところ、私自身はこの本を、取り上げれている解説されている様々な歌人の短歌を味わうためというより、そこに書かれている、新聞社でキャリアウーマンとして20年働き、歌人として言葉による表現をしてきた一人の同世代の女性の考え方やそこから透けて見える作者自身の半生に関心があって読んでいたように思う。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

なぜ、読書をするのか。前にも書いたかもしれないが、自分の中で、まだもやもやとして言葉にならない様々な想いに、ふさわしい言葉・表現を探すために、読んでいるような気がする。そういう読み方をする時に、同世代の作者の書いたものは、生きてきた時代の空気が似通っているだけに、共感しやすい。まして、松村さんは、同じ高校で学んだ同級生であり、また自分の亡くなった父と同じ新聞記者をしていたという点でも、親近感を感じる存在である。

本書の「5、住まう」の中の一節に、物が多いことをいやがる自分をについて考察した文章がある。

 数年前まで妙な癖があった。個数や容量の少ない商品を好んで買っていたのである。卵ならば、十個入りでなくて六個入り、牛乳やマヨネーズ、シャンプー、歯磨き粉なども小さな容器のものがいい。買い置きはしない。なくなったら買う。長年、それがなぜなのか、自分でもよく分からなかった。(中略)
 ある時、考えた。自分はなぜこんなにも物が多いことがイヤなのだろう。ふだんは、料理する時間がなく、突然の出張も少なくなかったが、ストックがあれば頻繁に買いものに行く必要がない。腐る心配がないものを買い置きしたくないのは、ヘンかもしれないと思い始めた。突きつめて考えると、自分が「今の生活」を「仮の生活」と思いたいことが分かってきた。物を買うのは、それを消費するまでの時間を買うことである。一戸建てを数十年のローンで書く買うことは分かりやすい喩えかもしれないが、キャラメル一箱であっても、その最後の一粒を食べるまでの時間を買っていると考えられないだろうか。そして、避難所で生活する人たちは、ストックなんて持たない。「仮の生活」をしている時は、買い置きする必要がないのだ。(松村由利子『物語のはじまり』中央公論新社、102~103ページ)

自分の単身赴任の経験からすれば、必ずしも個数の多いものが割安とも限らない。卵、牛乳、食パン、ハムやベーコンなど、朝食で食べるような食材は、スーパーでは4人家族が2~3日で使い切るような量が1パックになっていて、1人では使い残してしまう。寝坊をすれば、朝食を抜くこともあるとなると、気がついた時には、1パックのうちの半分くらいは賞味期限を過ぎ、捨てることになってしまった。
私が単身赴任していた札幌では、単身赴任者が多いせいか、中には、食パンが3枚で1パックになっているものなど、単身赴任者用や1人暮らしの学生用と思われる商品もあったが、それでも一部だった。醤油やソース、マヨネーズなどの調味料などは、レジャー用の小さい容器のものを使っていた。
そして、妙に印象に残っているのは、家族と生活している時は、買い置きしていてもすぐになくなるトイレットペーパーが、男の1人暮らしででは、ちっとも減らなかったことである。そこには、なんともしっくり来ない居心地の悪さがあった。18個入りのトイレットペーパーが、遅遅として減らないことに感じた違和感は、図らずも、それを使い切るまでは、自分は単身赴任を続けるのだろうということを、知らず知らずに受け入れていたことへの違和感だったのだろう。「単身赴任」という「仮の生活」にもかかわらず、自分が思う「仮の生活」の想定期間以上の買い置きをしてしまったわけだ。

「物を買うのは、それを消費するまでの時間を買うこと」という表現は、あの居心地の悪さ・違和感を見事に表してくれている。さすが歌人・詩人の表現力には脱帽である。

作者にお願いして、歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』(第7回現代短歌新人賞受賞作)を送ってもらうことになった。
自費出版ということで、市販のサイトでは在庫切れのところが多いようだが、松村さん本人にお願いすれば、廉価で送ってくれるとのこと。『物語のはじまり』を読んで、関心を持たれた方は、松村さんのブログ「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳」にアクセスし、連絡を取られるとよいと思う。
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2007年1月19日 (金)

『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2

昨日、取り上げた『物語のはじまり』の著者、松村由利子さんは、やはり同級生だった。ご本人と連絡がとれ、同じ高校の同じ学年だということがわかった。

同じ時に、同じ学校で学んだ人が世に出て認められ、賞賛を受けるのは誇らしいものである。自分も負けないように、頑張れねばならない。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

松村さんの『物語のはじまり』のおもしろかった一節を紹介したい。「2.食べる」と題した章の中で、俵万智の歌を紹介したあとに、こう述べている。

一緒にごはんを食べていて今ひとつ楽しくなかったら、その恋はやめた方がいい。
ものすごく性格のいい人で、話題が豊富、自分のことも大事にしてくれる--でも、ごはんを食べると違和感がある、という人は確かにいる。会話のリズムが合うのは、恋がが長続きする上で大事なポイントだが、ごはんを食べるつつ会話のリズムが合うことは、その一ランク上のポイントといってよい。
(松村由利子『物語のはじまり』中央公論新社、48ページ)

確かに、話すだけなら違和感はないのに、食事に行ったり、飲みに行ったりすると、なぜか話がうまく噛み合わない人というのは、たしかにいる。結局、なんとなく居心地が悪く、いくら好ましく思っても、それ以上先には進まない。

ドラマなどでは、お見合いの時、必ず向かいあって食事をするシーンがよく出てくるが、案外、そういうところをチェックしているのかも知れない。

松村さんは、新聞記者だっただけあり、さらには歌人として、言葉と向き合っていることもあって、文章に無駄な修飾語もないし、読み直さないとつながりがよくわからないといったところもほとんどなく、読みやすい。
昨日など、帰りの電車で読んでいて、つい引き込まれ、急行から各駅停車に乗り換える駅を乗り過ごしてしまった。
残るは「8、見る」「9、老いる」「10、病む、別れる」の3章。いよいよ、老い、病み、別れという我々のこれからの現実が突きつけられる。心して、ページを開くことにしよう。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

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1月18日:
『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う
1月19日:『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う・その2
1月21日:『物語のはじまり』(松村由利子著)を読み終わる
1月24日:松村由利子さんの歌集『薄荷色の朝に』、『鳥女』届く
1月27日:第7回現代短歌新人賞受賞作『鳥女』(松村由利子著)を読み終わる
1月29日:歌集『薄荷色の朝に』(松村由利子著)を読み終わる
2月7日:『ミセス』3月号の第7回現代短歌新人賞『鳥女』の選評と作者松村由利子さんのインタビュー
2月17日:『物語のはじまり』(松村由利子著)、読売新聞書評に登場
3月3日:『物語のはじまり』(松村由利子著)、週刊新潮に取り上げられる
3月8日:『物語のはじまり』(松村由利子著)は誰に、どう読まれているか(リンク集)

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2007年1月18日 (木)

『物語のはじまり』(松村由利子著)に思う

歌人の松村由利子さんが書いた短歌エッセー『物語のはじまり』を読み始めた。
著者は、1960年生まれ。私と同い年である。朝日新聞が15日(月)の紙面で、表外漢字の字体を変更するとの記事を出した際にも、歌人としてコメントを寄せている。

物語のはじまり―短歌でつづる日常

私は、同世代の人が、何を考え、何を書いているかについては、男女問わず関心があるので、朝日新聞の略歴欄に最新作として紹介されていたこともあり、手にとってみた。
更に、ひょっとすると作者は、高校の同級生かもしれないということも、読んでみようと思った理由にひとつである。これは、ご本人に確かめたわけではないので、同姓同名の別人かもしれない。

短歌エッセーと紹介されているが、自らの作品をエッセー風に解説しているわけではない。「短歌でつづる日常」というサブタイトルが示すように「1、働く」「2、食べる」「3、恋する」「4、ともに暮らす」「5、住まう」「6、産む」「7、育てる」「8、見る」「9、老いる」「10、病む、別れる」の10のテーマ毎に、他の歌人の短歌を引いて、新聞記者でもあった作者が、詠み手の境遇なども引き合いに出しながら、作者なりのそれぞれの歌の読み方を語っている。

各歌ごとの解説にも、作者である松村さん自身ののこれまでの生き様や人柄が透けてみえるが、ここでは、短歌と俳句の違いについて語った、下記の一文を紹介しておきたい。

短歌と俳句の違いは何であるか、時々考える。様々な論があるが、「物語」を含むかどうかも、その一つではないかと思う。五七五七七で構成される短歌は、下の句の「七・七」があるために、時間の流れを一首の中に取り込みやすい。俳句には一瞬を切り取り、短歌はある程度の長さの時間を追う。結果的に、短歌は物語を内包しやすいと考えられる。また、俳句は、その切れ味こそを大切にするから、嫋嫋とした物語をあえて持ち込むことを好まない面があるかもしれない。
(松村由利子『物語のはじまり』中央公論新社、14ページ)

言わば、この本は、他の歌人の歌の中に「物語」を見出し、作者自身の「物語」をも語るものである。作者は、20年勤めた新聞社を昨年辞め、著作に専念することにしたようだ。決意のほどを次のように記している。

ともあれ、四十歳を過ぎ、「ああ、折り返し点を過ぎたな」と感じ、それまでとは違うテンポで働きたくなった。短歌にかかわる時間を大事にしたいという思いもあった。会社勤めの忙しさを歌が作れない言いわけにするのは、あまり格好のいいものではないし、持ち時間は限られている。いい歌を作るには、逃げ場のないところに自分を追いつめなければならないだろうと、考えた。
(松村由利子『物語のはじまり』中央公論新社、33ページ)

1960年生まれも、今年の誕生日を迎えれば47歳。「折り返し点を過ぎたな」との感覚は、同世代なら多かれ少なかれ感じていることであろう。そうやって、自分を追いつめていこうとする作者にエールを送るように第7回現代短歌新人賞(さいたま市主催)の受賞が昨年12月に決まった。作者自身の歌人としての「物語」もこれから始まるということであろう。同世代の代表選手の一人として頑張ってほしい。

松村由利子さんのブログ:「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳

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